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「高田馬場350番地」の金洙暎(キム・スヨン)。 [気になるエトセトラ]

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 1942~43年(昭和17~18)の時点での住所、「東京市中野区高田馬場350番地」とは現在のどこの住所に相当するのだろうか?……これが、わたしに与えられたテーマだった。韓国の文学研究家・徐榮裀(ソ・ヨンイン)様から拙ブログへコメントをいただき、すぐにメールも併せていただいたのは、2018年(平成30)の暮れのことだった。
 上記の住所は、韓国の三大詩人のひとり金洙暎(キム・スヨン)が大学進学をめざして留学中に下宿していた2番めの住所だ。ちなみに、韓国の三大詩人とは、金洙暎(キム・スヨン)と金春洙(キム・チュンス)、そして高銀(コ・ウン)のことだ。その後、ソ・ヨンイン様は東京各地を取材して歩かれ、2019年に韓国で『東京、20歳のキム・スヨン―演劇の夢を追う―』という本を出版されている。本がわたしの手もとにとどいてから、この記事を書くまでにかなりの時間が経過してしまったのは、わたしの不勉強からハングルがほとんどわからず、同書の1章ぶんが翻訳できる人材を探していたからだ。ようやく、韓国語を勉強中の学生に翻訳してもらい、同書の一部を拝読している。文中ではごていねいにも、わたしとのやり取りまで記録していただいた。
 日本では、金洙暎(キム・スヨン)よりも、おそらく「燕よお前はなぜ来ないのだ」(『銅の李舜臣』より)の金芝河(キム・ジハ)のほうがよく知られていると思うが、韓国の軍事独裁政権下で民主化や自由を求める詩を書いたという点では、両者の思いは力強く通底している。だが、金洙暎(キム・スヨン)は金芝河(キム・ジハ)より20歳も年上の世代であり、前者が1950~60年代に活躍したのに対し、後者はおもに1970~80年代に創作活動をしている韓国を代表する詩人だ。
 さて、上記の住所を見て、拙サイトをお読みの方ならすぐにもおわかりだと思うが、戦前・戦中を通じてこのような住所は存在しない。「高田馬場」なら中野区でなく淀橋区だが、当時は高田馬場などという住所は存在していない。山手線・高田馬場駅Click!の駅名に引きずられ、戸塚町一帯が「高田馬場(たかのばば)」の地名になったのは、1975年(昭和50)になってからのことだ。もちろん、幕府の練兵場だった高田馬場(たかのばば)とは、まったく関係がない駅名由来の新しい地名ということになっている。
 ソ・ヨンイン様も新宿区へ問い合わせをされているが、1942~43年(昭和17~18)現在にそのような住所も地名も存在していない……と、そっけない回答だったようだ。だが、当時「高田馬場」Click!という表記があれば、山手線の駅名に加え、その土地ならではの通称としての地名、幕府練兵場跡のことではないかと想定する人々は少なからずいただろう。その史蹟のごく近くに、戸塚町(1932年までの呼称で1942~43年現在は淀橋区戸塚1~4丁目)の350番地は存在するだろうか?
 わたしがそう考えたのは、拙ブログへ記事を書くために調べていた、大正期から昭和初期にかけての資料類に見られる手紙やハガキなどの宛名を、しばしば目にしていたからだ。たとえば、1例をあげると「落合町下落合 秋艸堂 会津八一様」(大正期)という宛名書きだけで、下落合1296番地の会津八一邸Click!へ、また「淀橋区下落合 目白文化村 会津八一様」(昭和初期)で、転居した下落合3丁目1321番地の同邸へ手紙がとどけられていた時代だった。今日のように、市街地の稠密化によって住所や番地を厳密に規定しなければ配達されにくい時代ではなく、いまだ武蔵野の風情Click!が残るどこかのんびりとした東京郊外のエリアだった。
 また、これはわたし自身が経験したことだが、現代でさえ住所が記載されていないハガキを受取った憶えがある。京都の西陣近くにお住まいの方から、「東京都新宿区下落合/下落合公園近く/落合道人〇〇様」というハガキClick!をいただいた。京都からだと、通常は2日前後でとどく郵便物だが、わたしの手もとに配達されるまで1週間かかっていた。その間、郵便局では下落合の過去の配達データを調べ、下落合公園の近くであるかどうかを確認し(実際はおとめ山公園寄りだったのだが)、最終的な判断を下して決裁しポストへ配達したものだろう。たいへん親切で緻密な、郵便局のワークフローだと思う。
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 このように、近くの目標物や旧蹟の名称、あるいは地域の通称でも郵便がとどく状況を考えれば、「高田馬場350番地」もおのずと慣例的に通用していた“住所”ではないかと想定することができる。もし、「東京市中野区高田馬場350番地」という宛名を当時の郵便局員が目にしたら、まずは「中野区」は淀橋区の誤りだと感じただろう。そして、「高田馬場」という地名は今日のように山手線の同駅の近くではなく、戦前には2代目・市川猿之助が演じた中山(堀部)安兵衛Click!の血闘仇討ち芝居や同様の講談で人気が高かった、徳川幕府が設置した本来の高田馬場エリアに目を向けたはずだ。
 そして、旧蹟の北西側へ接するように位置していた旧・戸塚町350番地、すなわち金洙暎(キム・スヨン)が下宿していたとみられる当時は、戸塚1丁目350番地が該当すると判断できたのではないだろうか。同地番は、現在の住所でいうと三島山Click!(現・甘泉園公園Click!)の東寄り、新宿区西早稲田1丁目21番地あたりに相当し、先年、環状4号線の敷設工事により消滅してしまった丘のピーク、または北西向きの斜面あたり該当する。本書の文中に登場する「遠くに見える幹線鉄道」とは、旧・神田上水(1966年より神田川)の谷間に敷設された、線路土手Click!の上を走る高田馬場駅-目白駅間のチョコレート色をした山手線の電車のことだろう。
 金洙暎(キム・スヨン)は、なぜ早稲田大学のそばに下宿したのだろうか。大学受験のため、城北予備校に通うという動機があったのかもしれないが、早大は明治期から中国を中心にアジアの留学生を積極的に受け入れてきた土壌があり、同大学なら勉強しやすい環境だと考えたのだろうか。あるいは、早大文学部は早くから早稲田文学を中心に小説家や詩人などを輩出していた学部であり、さらに同大学には昔もいまもアジアで唯一の演劇博物館Click!(旧・シェークスピア劇場)が設置されていたため、文学や哲学、演劇に興味があった彼は、ことさら早大に惹かれたものだろうか。
 本書にも、東京時代の金洙暎(キム・スヨン)に関する未知の領域として登場する「水品演劇研究所」(戦後に設立された劇団民藝の同研究所とは別組織)の課題も、どこかで坪内逍遥が興した新劇の殿堂である早大演劇博物館と、その人脈につながりがあるのだろうか。当時も、また現在でもそうだが、同大学は誰でもキャンパスに入って学内を散策することができる。そのせいか、近所の子どもたちのクルマが往来しない安全な遊び場になったり、周囲の住民たちが買い物をする近道に利用したりするのは、当時もいまも変わらないだろう。早大の西隣りに住んでいた金洙暎(キム・スヨン)は、友人たちと早大キャンパスをしじゅう散策してやしなかっただろうか。
 また、ソ・ヨンイン様によれば、そこにはもうひとつロマンティックな物語が隠されていたようだ。同書の「二軒目の下宿地、高田馬場350番地」より、少し引用してみよう。
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 『キム・スヨン評伝』にも、彼が東京に行った理由の中の1つに、その少女コ・インスクを挙げているが、日本女子大学に通っていたコ・インスクを探して寮まで行ったりもしたが逢わなかったこと、夜に歩いて新宿まで行ったという記録は、おそらく誰かからの伝聞だろう。キム・スヨンが東京に行ってまもなく、彼女がソウルにもどったという記録が確かだとすれば、高田馬場(公式住所は戸塚だが私たちもキム・スヨンに倣って高田馬場と呼ぶことにする)でキム・スヨンが下宿した時代に、もう彼女は東京にいなかったことになる。キム・スヨンは高田馬場で、たまに寂しい表情をしながら彼女がいた場所を眺めたのだろうか。彼女はすでにいなかったが、彼女が通っていた日本女子大学は、彼が住んでいた場所から非常に近い位置にある。高田馬場の下宿屋から日本女子大学までは歩いて20分ほどしかかからない。北に100mほど歩けば路面電車の都電が通る新目白通りに出て、この道を横切ってずっと北に行けばすぐに日本女子大学だ。住吉町の下宿先からはもう少し遠くて、多分1時間近く歩かなければならなかったはずだ。いずれにせよ、情熱に満ちた青年キム・スヨンが愛を探し、迷うには十分可能な距離だった。(訳文文責わたし)
  
 金洙暎(キム・スヨン)は、戸塚1丁目350番地に引っ越してくる以前、最初の下宿先は中野区住吉町54番地だった。のちの「中野区高田馬場」という表記は、当初の中野区の記憶に引きずられた可能性も指摘できそうだ。中野区住吉町54番地は、落合地域のすぐ南側、上落合との町境または地下鉄東西線・落合駅から約400mほど、現在の住所でいえば東中野4丁目7番地あたりになる。ちょうど、小滝台住宅地Click!(旧・華洲園Click!)が拡がる丘の西側にあたり、小滝台の「ゆうれい坂」や周恩来Click!の下宿跡から、わずか400m前後しか離れておらず、当時は学生たちが下宿しやすい街並みだった。
 金洙暎(キム・スヨン)が東中野や早稲田にいた1942~43年(昭和17~18)、日本は軍国主義の真っただ中であり、無謀な太平洋戦争に突入した翌年のことだった。彼は、日本の敗色が濃くなりつつある中、文科系学生たちの学徒出陣Click!を目のあたりにし、それを回避するためか1943年(昭和18)の暮れ、または翌1944年(昭和19)の初頭に、当時は日本の植民地下にあったソウルへともどっている。
 『東京、20歳のキム・スヨン―演劇の夢を追う―』から、再び引用してみよう。
  
 住吉町での下宿生活に関しても、また早稲田での下宿生活についても、キム・スヨンが直接言及した事実は存在しない。おそらく「駱駝過飮」で注釈をつけて回想した、少女に関する話が唯一のものだろう。(中略) 芸術と言語に敏感だったキム・スヨンが過ごした東京時代は、いろいろと複雑なトラウマを生んだのではないだろうか。夢にまで見た芸術や哲学を勉強し、ソウルとは異なる雰囲気の東京で自由と情熱を感じたりもしたのだろうが、当時は戦時中であり、生活の随所で植民地出身であるがゆえに感じなければならない不自由さや鬱憤、自責の念が生じていた。彼が暮らした早稲田の学生街を眺めていると、解決の糸口が見えない憂鬱や悲しみを感じることができる。(訳文文責わたし)
  
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 金洙暎(キム・スヨン)が下宿していたとみられる戸塚1丁目350番地の敷地には、1944年(昭和19)に陸軍航空隊が撮影した空中写真を参照すると、2階建てとみられる大きな建物が写っている。丘上に建つ、このような規模の2階家であれば、冬枯れのときなど西側の甘泉園越しに山手線の線路土手が見えただろう。甘泉園の東側一帯は戦災からも焼け残り、学生下宿とみられるこの大きな住宅は1960年代まで確認することができる。

◆写真上:韓国の三大詩人といわれるひとり、金洙暎(김수영)のプロフィール。
◆写真中上は、1938年作成の「火保図」にみる戸塚町1丁目350番地(左が北)。は、1941年作成の「淀橋区詳細図」にみる高田馬場の北東部に接した同地番。は、金洙暎(キム・スヨン)の下宿があったとみられる「高田馬場350番地」=戸塚1丁目350番地(現・西早稲田1丁目21番地)の現状。30年ほど前まで手前の広い道路は存在せず、350番地は切り通しのような道路工事の掘削で消えてしまった丘上にあたる。
◆写真中下は、下宿の近くに残る大正期からの大谷石塀。金洙暎(キム・スヨン)も、この塀の前を歩いたかもしれない。は、上から下へ敗戦直前の1944年、戦後の1948年、そして1963年の空中写真にみる戸塚1丁目350番地の建物。同エリアは空襲で焼けていないため、戦後も当時と変わらない風情が残っていた。
◆写真下上左は、2019年に韓国で出版された徐榮裀(ソ・ヨンイン)様の『東京、20歳のキム・スヨン―演劇の夢を追う―』。上右は、2007年に日本の彩流社から出版された鴻農映二/韓龍茂・訳『韓国三人詩選-金洙暎・金春洙・高銀-』。中上は、金洙暎(キム・スヨン)のプロフィール。中下は、中野区住吉町54番地(現・4丁目7番地)について考察した「最初の下宿先、住吉町54番地」の章。は、1944年の空中写真にみる住吉町54番地の下宿。二度にわたる山手空襲Click!で、東中野駅周辺は全体が焼け野原になった。

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