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自由学園の関東大震災。 [気になるエトセトラ]

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 1923年(大正12)9月1日、竣工から1年と2ヶ月がすぎた自由学園Click!の新築校舎は、未曽有の揺れに襲われた。この年の4月、自由学園で2年間をすごした高等科の第1回卒業式が行われ、卒業生のために研究科(大学の専門課程に相当)が設置されている。また、食堂Click!には帝国ホテルClick!で上演した舞台Click!の収益金をもとに、遠藤新Click!が設計したテーブルやイスが一式そろった。海外からの来園者も多く、植物学者のハンス・モーリッシュやポーランドのルビエンスキー伯爵らが来園し講演している。
 これまで、落合地域をはじめ高田町Click!(山手線内側の雑司ヶ谷エリア)や戸塚町Click!など周辺域も含め、関東大震災Click!のときの状況を少しずつ書いてきたが、今回は山手線外側の高田町雑司ヶ谷界隈(旧・雑司ヶ谷6~7丁目=現・西池袋)にある自由学園の記録をベースに、震災時に活動した女学生たちの様子をご紹介したい。
 夏休みが終わろうとする直前に起きた大震災のとき、羽仁夫妻は軽井沢で静養中だった。まず、9月2日に羽仁吉一Click!が東京にもどり、つづけて5日には羽仁もと子Click!が帰京している。武蔵野台地の一部である豊島台の上は、平地部に比べ揺れが少なかったとみられ、自由学園でも被害はほとんどなく、校舎の窓ガラスが1枚割れただけだった。近くに住む本科の生徒や高等科の女学生たちは、校舎の無事を確認するために集まってきたが、大震災から1週間をすぎるころになると、市内の電車が全面ストップしているため、東京各地から弁当持参でキャンパスめざして歩いてくる女学生たちが増えはじめた。9月11日に予定されていた始業式(実際は中止されていた)には、40人前後の女学生たちが集まったが、全員が寝不足と食糧不足で栄養失調のような容姿だったという。
 東京じゅうの学校が休校になる中、4月16日(日)に山手線が開通する見通しになったのをきっかけに、自由学園は日曜であるにもかかわらず始業式を敢行している。当日、山手線が運行をはじめているのを知らず、友人同士が誘い合って早朝から昼ごろまでかかり、学園まで延々と歩いてくる女学生たちも多くいたようだ。この日、登校できたのは60人余で、地方に帰省している女学生は始業式に参加できなかったが、本科の生徒と高等科の女学生たち在校生全員の無事が確認された。
 日曜日の始業式は、2学期に予定された学習のスタートではなかった。翌日から震災の報告書づくりにかかり、9月18日からの1週間、女学生たち全員が震災体験レポートを発表している。中には、北海道からひとりで汽車や船を乗り継ぎ、不通の路線は歩いて自由学園にたどり着いた本科1年生(おそらく13歳前後)のレポートもあった。報告会のあと、2学期をどのようにすごすべきかが話し合われ、午前中の時間は授業に使い、その他の時間はすべて大震災の被災者に対する支援活動にあてることが決議されている。
 まず、彼女たちは「常務」「整理」「奉仕」の3つの委員会を設置し、全学生の担当を決めている。常務委員会は、学園内のさまざまな事務処理や連絡業務、情報収集を担当するグループで、学校機能を回復し維持継続させるCPUやネットワークのような存在だった。整理委員会は、大震災で破損した器物の整理や補充、学園内に設置された避難室の秩序維持、購買・仕入れなど渉外業務、学園外の組織との外交などを担当している。そして、奉仕委員会は被災者の支援を行うため多くの女学生たちが所属し、「着物づくり」「布団づくり」「ミルク配り」「給食づくり」などを行っている。特に「ミルク配り」は被害が大きかった本郷地域で、「給食づくり」はほぼ全滅した被服廠跡Click!も近い本所地域の現場で、100日間つづけて実施されている。
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 これらの活動の経費は、すべて自由学園が行った募金活動や、羽仁夫妻が主宰する婦人之友社が集めた義援金でまかなわれた。また、被災者支援が本格化してくると、午前中の授業もつぶして早朝から支援活動に入る女学生たちも少なくなかった。その中には、本郷地域で行われていた「ミルク配り」がある。自由学園では東京市社会局と連絡をとって、コンデンスミルクの大缶を被災地の警察署に配送してもらい、地域で赤ん坊がいる家庭に配りはじめた。1985年(昭和60)に自由学園女子部卒業生会から出版された、『自由学園の歴史 雑司ヶ谷時代』所収の「ミルク配給の記」から引用してみよう。
  
 朝八時には体操服に『東京聯合婦人会』と書いた腕章をつけた二十人ばかりが集まってくる。そしてその日のミルクを受取ると、四班に分かれてめいめいの持場所に出かけてゆく。一軒ずつ訪ねてゆくうちに赤ちゃんをみかけると嬉しくて、調査票に書きながら、何といってふろしきからミルクを出してあげようかと、お母さんの顔をちょっと見上げる。赤ちゃんを笑わせてみたくなる。『この辺は火が早うございましたのでね』と忘れていたあの日の話までがおかみさんの口から出るほど親しくなってしまう。(中略) 一週間たつ頃には、私たちを見つけて『お母さん、おっぱいがきた』と駆けてゆく子、『昨日から娘が悪くて寝ておりますが、ミルクを頂けませんかしら』といってくるおかみさんもあった。『赤ん坊があったのですが、乳がなくて二日ばかり前に亡くなりました』と話したお父さんを心から慰めてあげられた時に、この仕事の尊さをはっきり思った。
  
 女学生たちが、本郷地域で配り歩いたミルク缶はのべ1,955個、700人を超える母親や病人のもとを複数回訪問しては直接手わたしている。本郷区(現・文京区の一部)の東京聯合婦人会には、5,000個を超えるコンデンスミルクの大缶がとどけられていたが、そのうちの約40%を自由学園の女学生たちが配布したことになる。
 また、10月に入ると、女学生たちは本所区(現・墨田区の一部)で給食の炊き出し支援に出かけている。一帯は焼け野原で、小学校の校舎も全焼してしまったため授業はテントの下で行われており、給食づくりもテントの下で進められた。食器が割れて不足しているので、児童生徒を半分ずつに分け女生徒から先に昼食をとらせている。
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 本所の小学校では、震災で犠牲になった教師も多く、生徒全員が登校してしまうと教師が不足し、教室がわりにしているテントも足りないため、全校生徒を半分に分けて1日交替で登校させるようにしていた。したがって、給食のメニューも2日間は同じものをつくって子どもたちに食べさせている。その様子、同書から再び引用してみよう。
  
 十月に入ってからは、最も災害の大きかった被服廠跡に近い本所太平小学校の二百名の子供たち-焼跡のテント内で勉強する貧しい家庭の小学生-のための豚汁、五目飯などの温かい昼食づくりに、百日間懸命な奉仕をつづけた。給食の必要経費三五〇〇円、その半分は、ミセス羽仁(羽仁もと子)ご自身が歩いて集められた寄付により、半分は婦人之友の読者の醵金によって実現されたのだった。(カッコ内引用者註)
  
 羽仁夫妻は、「先生」と呼ばれることを拒否したため、女学生たちは話し合って羽仁吉一を「ミスタ羽仁」、羽仁もと子は「ミセス羽仁」と呼んでいた。
 このような支援活動がつづく中、今回の関東大震災はなぜ起きたのかを知るため、10月5日に米国の地震・火山学者トーマス・ジャガーを自由学園に招き、さっそく講演してもらっている。ジャガー博士は講義の中で、「今度の地震は相模湾近くに震源をおく火山性のものらしい」と説明しているが、今日の科学から見れば関東大震災は相模トラフに起因するプレート性地震だった。だが、耐震都市の構築に関する課題やテーマは今日にも通用するもので、「今後の日本の建築は公共物のみならず、一般住宅も耐震耐火の設備が必要だ。そうして道路の幅を広げ、所々に公園をおくようなことには、婦人の聡明な努力が加わらなければならない」と講義を結んでいる。
 自由学園の地元・高田町(現在の目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)では、延焼被害が少ないのに小学校の授業が再開できずにいた。そこで、女学生たちの多くが支援活動で留守だった自由学園の校舎を使い、同学園ならではのユニークなボランティア授業を行っている。後方支援の在留組だった高等科の女学生6人が、小学1年生から6年生までの「担任」となり、低学年には童話を読んだり音楽を教えたりした。小学校の高学年には、国語や算数の復習をしたり、同学園の教師が協力して特別に英語を教えたりしている。
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 このボランティア授業が高田町で評判を呼び、ついには近隣の130名以上の小学生が通ってくるようになった。ひょっとすると高田町ばかりでなく、自由学園が近いすぐ隣りの西巣鴨町(池袋地域)や下落合からも、通ってきていた子がいたのかもしれない。

◆写真上:自由学園の掃除の様子で、班割りと仕事が決まって取りかかる女学生たち。
◆写真中上は、1923年(大正12)9月1日の午後に巣鴨町から見た(城)下町方面の大火災の様子。は、同様に高田町あたりから見た大火災の煙。
◆写真中下は、山手の丘陵地帯から眺めた関東大震災の大火災。
◆写真下は、ポーランドの当時は美術家として知られたルビエンスキー伯爵の講演記念写真で、夫妻の右横にいるのは遠藤新Click!は、本郷を中心に行われたミルク配りの様子。は、地震学者のT.ジャガー博士による講演会の記念写真。


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「そいや・せいや」じゃなく「わっしょい」だろ。 [気になるエトセトラ]

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 地名の小塚原のことを「こずかっぱら」Click!、前原のことを「まえっぱら」、尾久のことを「おぐ」と読めない東京在住者が増えても、日暮里(旧・新堀)のことを「にっぽり」と読めない人はいないだろう。その日暮里の道灌山から諏訪台にある、諏方社(諏訪社Click!の表記ではないが、主柱は同じ出雲のタケミナカタ)の祭礼に繰りだす神輿のかけ声が、ちゃんと本来の「わっしょい」であるのを最近知ってうれしかった。
 江戸東京の社(やしろ)のほとんどは、祭礼時における神輿の渡御のかけ声が、大昔から江戸東京方言の「わっしょい」と決まっていたはずだ。これは、江戸東京総鎮守の神田明神社Click!をはじめ、日枝権現社、深川八幡社、浅草三社、そして下落合氷川明神社Click!にいたるまで共通するかけ声のはずだった。ところが、そのうちのいくつかの社では「そいや」とか「せいや」とか、気づけば意味不明で妙ちくりんなかけ声になっている。ちなみに、ジグザグデモも戦後間もない東京では「わっしょい」だったようだ。
 親父はよく、「そいや」とか「せいや」のかけ声を聞くと、「どこの方言だい? 渡御された神輿上の神に対して失礼でおかしいだろ」といっていたけれど、わたしも同感なのでちょっと書いてみたい。「そいや」とか「せいや」は、その語感から関西地方の方言だろうか? 同じような不可解さを感じている人物に、親父の少し年下にあたる作家の吉村昭がいる。彼は子ども時代、道灌山や谷中墓地を駆けまわってすごした生粋の日暮里っ子だ。1989年(昭和64)に文芸春秋から出版された、吉村昭『東京の下町』から引用してみよう。
  
 (前略) ソイヤとか、ホイヤ、セーヤなどとやっている。私が、この奇妙な掛声を初めて耳にしたのは、二十年近く前、NHKテレビの依頼で或る下町の著名な神社の祭礼をリポートした時である。/私が呆気にとられていると、年老いた世話人の一人が、/「なんとなくああなってしまいましたね」/と、釈然としない表情をして言った。/その神社のある町は、これこそまぎれもない江戸町――下町で、古くからうけつがれてきたワッショイという掛声を「なんとなく」変えてしまっては困る、と思った。(中略) 「私の町では、ワッショイですよ。伝統は守らなくちゃ、どうにもなりません」/田宮さんは、張りのある声で言い、今でも高張り提灯をかかげて宮ミコシをお迎えしている、と言った。/祭りは、人間の知恵によって生れたものである。たかが掛声、と言うかも知れぬが、古くからうけつがれてきたものをくずしてしまえば祭りそのものの意義はうすれる。第一、御先祖様に申訳なく、勝手にいじってはいけないのである。
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 「わっしょい」ではなく、「そいや」とか「せいや」などのおかしなかけ声に気づいたのは、わたしがまだ子どものころのことで、親父が「どこの方言だい?」といったのも同じころではないかと思う。吉村昭も、ちょうど同じころに不可解なかけ声に気がついていたようだ。このかけ声について、吉村昭は地元・日暮里の諏方社を訪ねても取材しているので、よほど気になっていたのだろう。
 「わっしょい」のかけ声は、昔から古文書などで「和背負」と書かれることが多いようだが、言葉の発音へ思いついた漢字を当てはめただけの、江戸期あたりの付会なのかもしれない。「ハイシー」(走れ)や「ドードー」(止まれ)のかけ声と同様に、古い原日本語(アイヌ語に継承)に由来する可能性もありそうだ。「わっしょい」が、「ワ・シケ(wa-sike)」の転訛だとすると、「背負い渡る」という意味になる。
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 吉村昭は、大江戸(おえど)Click!(城)下町Click!のことを総じて「江戸町」と呼び、イコール下町だと認識して文章を書いている。これは江戸から明治期の三田村鳶魚Click!や、うちの親父あるいは義父たちの世代とまったく同じとらえ方で、「江戸町」=下町の一部に旧・山手エリアは包括される概念だったことがわかる。
 また、地元の日暮里については、わたしの落合地域をとらえる感覚と非常によく似ていることに気づく。落合地域(目白崖線のある落合エリア)は、明治以降に拓けた東京市街地(旧・城下町)に近接する郊外別荘地となったが、日暮里は根岸とともに、江戸期から武家や町人を問わず名の知られた、道灌山や諏訪台の周辺に展開する由緒正しい別荘街(寮町)だった。
 つづけて、吉村昭の『東京の下町』から引用してみよう。
  
 日暮里を下町と言うべきかどうか。江戸時代の下町とは、城下町である江戸町の別称で、むろん日暮里はその地域外にある。いわば、江戸町の郊外の在方であり、今流の言葉で言えば場末と言うことになる。/幕末の安政三年に刊行された尾張屋版の江戸切絵図集には、「根岸谷中日暮里豊島辺図」がおさめられ、明治に入ってから「東京御郭外日暮里豊島辺」と改められている。御郭外、つまり城下町の外という意味である。が、明治以降、東京の市街地は郊外にのび、下町が江戸町という意味もうすれ、日暮里も大ざっぱに下町の一部、と称されるようになった、と言っていいのだろう。
  
 吉村昭は、取材や地方公演などで旅行をすると、よく「どちらのご出身ですか?」と訊ねられたらしい。「東京の日暮里です」と答えると、「いったい、どんな字を書くのですか? ……えっ、これで、にっぽりと読むのですか?」と不思議そうに首をかしげる人々に多く出会ったようだ。
 こんなエピソードを聞くと、東京出身でないアナウンサーが小塚原を「こづかはら」、日暮里を「ひぐれさと」などというトンチンカンな発音で読んだとしても、いたしかたないか……とも思うのだが、日本橋を「にっぽんばし」と読んだごく基礎的な教養のない、オバカなテレビ東京の女子アナだけはカンベンできない。わたしが上司なら、「この街のテレビ東京へなんのために就職したんだ? 自分が勤めるTV局のある地元や立ち位置のことを、もいっぺん面(つら)洗って勉強しなおしてこい!」と、停職6ヶ月の厳重処分だ。
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 さて、吉村昭の本で「ドロ」ヤンマあるいは「ドロボウ」ヤンマという言葉を、ほんとうに久しぶりに聞いた(読んだ)。わたしの世代では、すでにつかわなくなってしまった言葉だが、わたしが小学生のころ渓流沿いにオニヤンマClick!を探していると、「いた、ドロボウヤンマだ!」と親父が教えてくれた。ほかではあまり耳にしない用語なので、おそらく「江戸町」=東京の下町方言なのだろう。
 「チャン」がギンヤンマの♀、「ギン」がギンヤンマの♂というのも、日本橋の方言と同じだが、日暮里には緑が多く残されていたせいか、「オクルマヤンマ」も出没していたらしい。「珍種として尾の先端に車状のものがついたオクルマ」と吉村昭が書くトンボは、もちろんウチワヤンマのことだ。さすが日暮里は閑静な別荘地だったせいか、昭和10年代までウチワヤンマが見られたようだ。もっとも、空気も水もきれいになっている昨今、下落合に「ドロボウ」や「ギン」「チャン」の姿が見られるように、道灌山ないしは諏訪台の周辺にも「オクルマ」がもどってきているかもしれない。
 1936年(昭和11)7月25日早朝に起きた、上野動物園から脱走した黒ヒョウ事件も、吉村昭はハッキリ憶えているようだ。うちの親父は11歳の小学5年生だったが、黒ヒョウ脱走事件のことは何度も聞かされているのでよく知っている。ヒョウはネコと同じで、おもに夜間に行動する動物で移動距離も長く、夜になると上野(下谷)から浅草、日本橋、京橋、銀座など大川(隅田川)西岸の繁華街は、火が消えたように人通りもまばらになった。真夏だというのに、家々には雨戸が立てられ、寝苦しい夜をすごしたので、子どもたちの印象に強く残った事件なのだろう。
 当時の東京日日新聞では、「黒豹脱走 帝都真夏のスリル!」と半ば楽しげな活字が躍っているので、夜な夜な黒ヒョウが徘徊する東京の街に、ワクワクしている人たちもたくさんいたのだろう。東京美術学校Click!(現・東京藝術大学)の近くで足跡が発見され、谷中や日暮里の方角へ逃走した可能性があるため、その方面の住宅街ではパニックになっていたのかもしれない。翌26日の午後5時30分すぎ、黒ヒョウは東京府美術館Click!(現・東京都美術館)近くのマンホールでゴロニャンしていたところを見つかり、捕らえられて檻へもどされた。
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 いまでも存在するのだろう、このマンホールが都美術館のどのあたりにあるのか、今度時間があるときにでも調べて訪ねてみたい。マンホールの蓋に、東京都のマークとともに黒ヒョウがデザインされていたら、すぐにわかりシャレてて面白いのだけれど……。

◆写真上:今年はCOVID-19禍で開かれなかった、繰りだす神輿が百数十基で氏子数が150万人超の日本最大といわれる神田明神社の天下祭り=神田祭。
◆写真中上は、道灌山(諏訪台)にある諏方社の広い境内と拝殿(奥)。は、諏方社の属社のひとつで荒神社Click!。大鍛冶(タタラ)が適するバッケ(崖地)に、荒神社が残るのは目白崖線も諏訪台も同じだ。は、道灌山から日暮里界隈(旧・新堀村)の眺め。
◆写真中下は、江戸東京方言で「ドロボウヤンマ」ことオニヤンマ。は、「チャンヤンマ」ことギンヤンマの♀。は、「オクルマヤンマ」ことウチワヤンマ。
◆写真下は、1936年(昭和11)7月25日に発行された東京朝日新聞の夕刊。は、同年7月27日に発行された東京朝日新聞の朝刊。は、捕獲された黒ヒョウ。

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怪奇映画のポスターが気になった夏。 [気になる映像]

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 夏になると、小・中学生のころに見かけた映画のポスターがよみがえる。学校の登下校時、和泉屋さん(現在はセブンイレブンになっている)という酒屋から海へと通じる道路ぎわには、大きな映画のポスターが2段組でずらりと並んで貼られている展示板が設置されていた。ほぼ毎日、その前を通っては登下校していたのを憶えている。1960年代から70年代にかけ、そこには色とりどりのポスターが貼られていたので、子どもの眼にはよけいに印象深かったのだろう。
 この展示板には、東宝や松竹、大映、東映、日活の各系列、さらに2本立てや3本立てがふつうの名画座(迷画座?)のような映画館が、常時ポスターを貼りだしていたので、おそらく街の映画館が販促費を少しずつ出しあって、住宅地に設置した宣伝ボードだったのだろう。貼られたポスターには、リアルタイムで上映中の“いま”の作品から、10年以上も前の、わたしが生まれる前の作品まで、その種類はバラエティに富んでいた。確か、1964年(昭和39)の東京オリンピックの年だったか、あるいはその翌年だったのだろうか、ここのポスターで見かけた映画版『鉄腕アトム』(日活)のロードショーへ、母親に頼んで連れていってもらった憶えがある。
 でも、この映画ポスターの掲示板の前で、長く立ち止まってジッと眺めているわけにはいかなかった。なぜなら、東映の高倉健が登場するヤクザ映画の隣りには、太股をあらわにしたお姉さんが胸をはだけて微笑む日活の「成人映画」(ピンク映画とも呼ばれた)ポスターが貼られていたり、大映のガメラシリーズの隣りには、背中からお尻の上までを丸出しにした安田道代が、意味ありげな視線を送りながら振り向いてたりするので、もう恥ずかしくていたたまれなくなるのだ。ましてや、近所で顔見知りの大人に見られたりしたらと思うと、気が気ではなかった。
 潮の匂いが日ごとに濃くなり、身体がいつもべとついて生臭くなる夏を迎えると、掲示板には毎年、お約束のように怪奇映画のポスターが並んで貼られるようになる。その中で、いまでもいちばん印象に残っているのが、『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年/松竹)だ。ポスターには、吸血鬼に血を吸われる半裸のお姉さんと、それを恐怖の眼差しで見つめるふたりのお姉さん(ひとりは金髪の欧米人)がコラージュされていて、キャッチフレーズに「生き血を吸われた人間が、次々とミイラと化す! 残忍で凶暴な吸血鬼……次はお前だ!」と書かれていたようだ。
 もう、こんなポスターを目にしたら観るっきゃないでしょ。小学生のわたしは、さっそく母親に『吸血鬼ゴケミドロ』が観たいといったら、ゴジラシリーズClick!や鉄腕アトムならしぶしぶ連れていってくれたのに、「ゴケミドロ」はダメだという。母親いわく、「子どもが観るものではありません。大人の映画です!」と断られてしまった。「そ~かな~、吸血鬼なんだけどなー、ゴケミドロなんだよー」といっても、頑としてダメだといいつづけた。いまから考えると、自分が怖くて絶対に観たくなかったのではないかとも思えるが、結局、この作品は観ることができずに季節はすぎていった。
 映画の内容や質はともかく、この映画のタイトルは秀逸で、いまでも第1級のネーミングだと思っている。吸血鬼ブームにのって制作された映画なのだろうが、「ゴケミドロ」の「ゴケ」は、陽の当たらないじとじとした蔭地に生える「苔」なのか、あるいは喪服を着たちょっと色っぽくて妖しい「後家」なのか、「ミドロ」は水が緑色に濁ってなにが隠れひそんでいるかわからない不気味な「みどろヶ沼」なのか、それともドロドロでグチャグチャした何かにまみれたちょっとエロティックな「お姉さん」なのか、子どもから大人までついポスターをジッと見つめながら、あらぬ妄想をふくらませてしまう、幅広いターゲットを意識した優れたネーミングであり作品のタイトルだ。ポスターに登場している、佐藤友美と金髪のお姉さんが血を吸われ、ミイラになってしまうのだろうか?……と、子どもなら誰でもふつうに妄想して心配するだろう。
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ガス人間第一号1960.jpg 電送人間1960.jpg
 1950年代末から60年代にかけて上映された、怪奇映画(スリラー映画・恐怖映画などとも呼ばれた)のタイトルやポスターを改めて眺めてみると、裸で胸元を手で覆いながら微笑む叶順子のわけのわからないタイトル『透明人間と蝿男』(1957年/大映)とか、下着姿で半裸の白川由美が不気味な怪物から逃れようとしている『美女と液体人間』(1958年/東宝)とか、やっぱり半裸のままの前を隠した白川由美が戦慄におののいている『電送人間』(1960年/東宝)とか、美しい着物姿の八千草薫があしらわれタイトルとのギャップがすさまじい『ガス人間第一号』(1963年/東宝)とか、肌もあらわな水野久美がキノコを食べる『マタンゴ』(1963年/東宝)とか、ミイラのような気味の悪い男とロングヘアが似合う松岡きっことの対比がすごい『吸血髑髏船』(1968年/松竹)とか、もう子どもから大人まで脳内が妄想だらけになりそうな、夢にまで出てきそうなタイトルがズラリと並んでいた。これらのポスターの何枚かは、学校からの帰り道、2本立ての再上映館(名画座ならぬ迷画座?)の掲示コーナーで見ているのだろう。
 1970年前後になると、怪奇映画(スリラー映画)は少年少女漫画からの影響だろうか、ある程度ストーリーが想定できる、かなりストレートなポスター表現やタイトルに変貌していったような記憶がある。たとえば、『幽霊屋敷の恐怖・血を吸う人形』(1970年/東宝)とか、『呪いの館・血を吸う眼』(1971年/東宝)とか、『血を吸う薔薇』(1974年/東宝)とか、岸田今日子Click!の従弟だった岸田森の吸血鬼シリーズがヒットしたせいなのだろう。大きな西洋館に迷いこんだヒロインたちが、またいつものパターンで恐怖の体験をするんだぜ……といった、“怖がり”を楽しみ、ある意味ではお決まりの「予定調和」を期待させる仕上がりになっていそうな作品群だ。
 子どものころ、親に止められて観賞できなかった上掲の作品を、大人になってから観ると退屈だったりガッカリすることが多い。いや、むしろ笑ってしまうシーンも少なくないのだ。マタンゴを食べつづけているのに、なんで水野久美の顔はボコボコにならないんだ?……とか、人を襲うとき岸田森の吸血鬼は、なんで居場所がバレてしまうのにいちいち「ウエ~~~ッ!」と声をあげてしまうのだ?……とか、ヒロインが襲われるときはタイミングよく、なぜみんな下着か水着?(うれしいけれど)……とか、相手に怪人だと悟られてはいけないのに、目つきから挙動から話し方から笑い方まで怪しすぎるでしょ!……とか、ボーイフレンドがヒロインに「とにかく気にするのはよして休もう」って、お化けに襲われてヒドイ目に遭ったばかりなのに気にしないで休んでる場合じゃないじゃんか、おい!?……とか、大人のリアリズムに邪魔されて、すでに子ども時代のように、素直に怖がり、ストレートに画面へのめりこんで楽しむことができなくなっている。
マタンゴ1963.jpg 怪談1965.jpg
怪談蛇女1968(東映).jpg 吸血髑髏船1968(松竹).jpg
蛇娘と白髪魔1968(大映).jpg 吸血鬼ゴケミドロ1968(松竹).jpg
 映画は、いや文学や音楽もそうなのかもしれないが、それを観賞(鑑賞)する時期や年齢というものが、厳然とどこかにあるのだろう。やはり、細かな理屈が先に立ってしまう年齢になってから観ると、多くの「怪奇映画」は喜劇映画へと転化してしまいそうだ。土屋嘉男はガス人間なのだから、プロパンのような密閉容器に入れてしまえば二度と出てこれないぜ……、どこへでも瞬間移動できる岸田森の吸血鬼が、なんでわざわざ壁をぶち破って逃げる主人公の前に立ちはだかるのさ……、南風洋子より松尾嘉代のほうがよっぽど妖しいじゃん……などなど、つい不純でよけいなことを考えてしまう年齢になると、おどろおどろしさは雲散霧消し、せっかくの怖さが限りなく後退してしまう。やはり、映画の“観どき”、映画館への“入りどき”というのがあるのだろう。
 これらの作品の“観どき”、“入りどき”を逃したわたしは、親に邪魔されない学生以降になってから観賞した作品も少なくないが、おそらく子どものころに観ていたらトラウマになったと思われるような作品も、気の抜けたコーラのような味わいにしか感じなかった。いや、中には突っこみどころ満載で爆笑してしまうシーンも多い。
 つい先年、1960年代のおどろおどろしい怪奇映画(スリラー映画・恐怖映画)の遺伝子を正統に受け継いだ、独立プロ作品『血を吸う粘土』(2017年/soychiume)という映画を観た。東京藝大や武蔵野美大、女子美大などをめざす美校生たちのストーリーに惹かれて、つい観てしまった作品だが、やはり物語がいちばん盛り上がる肝心のクライマックス部分で、梅沢壮一監督には悪いけれどつい笑ってしまった。わたしにとっては残念ながら、この手の作品はとうに「賞味期限」が切れていたのだ。
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 学生時代に、文芸地下かどこかで藤田敏八の『八月の濡れた砂』(1971年/日活)を観ていたら、わたしが怖ごわと、ときにはひそかに胸躍らせながら眺めていた、通学路の掲示板が映りそうになった。高校生がタンデムシートからダチをふり落として、湘南海岸沿いをバイクで疾走しながら渚に向かうシーンだ。でも、「そういや、あすこに映画ポスターの掲示板があったな」という感慨のみで、もはや胸がときめくことはなかった。石川セリClick!の歌ではないけれど、「♪あの夏の光と影は~どこへ行ってしまったの~」と、すでに心は実世界のリアリズムにすっかり侵され支配されており、8月の怪(あやかし)ポスターはとうに色褪せてしまったのだ。子どものころにたくさん遊んでおけば、そしてたくさんの映画でも見ておけば、心の引き出しもたくさん増えて、夢も豊かになるのだろう。

◆写真上:「ウエ~~ッ!」と格闘して苦しいと、死んでいるのに喘いでしまう肺呼吸の吸血鬼・岸田森。『呪いの館・血を吸う眼』(1971年/東宝)より。
◆写真中上は、1957年(昭和32)の『透明人間と蝿男』(大映/)と1958年(昭和33)の『美女と液体人間』(東宝/)。は、1960年(昭和35)の『ガス人間第一号』(東宝/)と同年の『電送人間』(東宝/)の各ポスター。
◆写真中下は、1963年(昭和38)の『マタンゴ』(東宝/)と1965年(昭和40)の『怪談』(東宝/)。『怪談』は小泉八雲Click!が原作で、これなら母親も映画館に連れていってくれたかもしれない唯一の文芸作品。だけど、子どもは文部省推薦とか芸術祭参加の作品など観たくはないのだ。は、1968年(昭和43)の『怪談蛇女』(東映/)と同年の『吸血髑髏船』(松竹/)。は、1968年(昭和43)の『蛇娘と白髪魔』(大映/)と同年の『吸血鬼ゴケミドロ』(松竹/)の各ポスター。
◆写真下は、1970年(昭和45)の『幽霊屋敷の恐怖・血を吸う人形』(東宝/)と1971年(昭和46)の『呪いの館・血を吸う眼』(東宝/)。は、1974年(昭和49)の『血を吸う薔薇』(東宝/)と2017年(平成29)の『血を吸う粘土』(soychiume/)の各ポスター。東宝の「血を吸う」シリーズのポスターは、漫画からの影響が顕著だ。は、わたしの通学路が映っていた1971年(昭和46)の『八月の濡れた砂』(日活)の1シーン。

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近衛邸敷地に接した萬鳥園種禽場。(下) [気になる下落合]

萬鳥園種禽場跡3.JPG
 旧・萬鳥園種禽場跡に建っていた貸家、あるいは事業規模を縮小して営業をつづけていた萬鳥園種禽場Click!の、すぐ南側に建設された副業としての貸家に佐伯祐三Click!が仮住まいをしていたとすれば、下落合に住みはじめてからすぐに、ニワトリClick!と接して親しむ機会ができたはずだ。そして、萬鳥園が導入している近代的な設備や機器、養鶏法Click!にも興味をそそられた可能性さえある。
 アトリエが竣工して早々の1921年(大正12)、鈴木誠Click!にスコップを借りにきた佐伯が、画家になる自信が揺らいだものか「富士山のすそのに坪一銭という土地があるそうだ、到底絵描きになれそうもないので、鶏でも飼って暮そうかと考えている、どうだろう」(「絵」No.57/1968年11月)と相談しているのは、斜向かいに養鶏場がある下落合661番地へ自邸が竣工する以前に、明治期に比べ規模が縮小された萬鳥園種禽場で、華蔵界能智(けぞうかいよしとも)あたりから事業の話を聞かされていた(その営業トークにうまく丸めこまれていた)からではないだろうか。
 萬鳥園種禽場は、多種多様なニワトリの種卵や、輸入された洋鶏の雄雌つがいだけを売っていたわけではない。養鶏業に必要な機器や資材をはじめ、東京郊外で売れそうな商品、たとえば田畑やガーデニングには欠かせない農薬と、それを撒布する自働噴霧器Click!や肥料、庭園の池へ放つ観賞用のアヒル、ペット用の洋犬、はては消防署が遠い郊外では深刻だった、火災時の家庭用消化器まで扱っていた。
 たとえば、洋犬についての販売コピーを、同園パンフレットから引用してみよう。
  
 猟犬と番犬
 当園に於ては猟犬及番犬十数頭飼養致し居り候故御望に依り親犬及仔犬共御分譲可申候 種類はポインター種、セツター種、レトリーバア種、スパニイル種及一回雑種 代価は御照会次第御回答可申上候
  
 なんだか「消火器」といい「ブリーダー事業」いい、ひとヤマ当てようとしている山師Click!のような人物を想像してしまうのだが、ひょっとすると生真面目で、日本の「世界の第一等国」入りをめざしている誠実な人柄だったかもしれず、事業の目的意識をしっかりもったビジネスマンだったのかもしれない。東京の品評会で、上位を独占している高品質なニワトリを出品していたのだから、養鶏法にはそれなりに自信があったのだろう。
 あるいは、華蔵界能智は仏教界となんらかのつながりがあり、浄土真宗本願寺派の光徳寺Click!に生まれた佐伯祐三は、そこに因縁のようなものを感じはしなかっただろうか。画家で生活していく自信がなくなり、前年(1920年)に死去した父親の遺産Click!(1920年12月の山田新一へのハガキで、遺産のつかい道を相談している)を、自邸とアトリエの建設であらかたつかい果たしてしまった佐伯は、華蔵界能智のうまい口車にも乗せられて(いやもとへ、真摯なビジネス構想に説得されて)、つい近代的養鶏法でおカネをできるだけもうけ、華蔵界(極楽)生活でもしながら絵を描こうとしていたのかもしれない。
銀色ワイアンドット種.jpg
黒色ハンバーグ(ハンブルグ)種.jpg
萬鳥園種禽場1918.jpg
 華蔵界能智は、パンフレットでこんなことも書いている。
  
 御注意
 近来益斯業の隆盛となるや自称の一等賞を看板に或は東洋第一の洋鶏場其飼育場何十万坪的の大法螺を吹きたまたま其家を尋ぬる時は僅々十羽の鶏をも飼養せざるが如き即ちオバケ種禽場も無きにしもあらず購入者諸君御注意あれ/〇貴場にては苗木、種子等販売せざるやとの御照会もまゝ有之候得共当園は多数の鶏を飼養致し居り候事故苗木、種子等迄販売の運びに至らず諸君其れ涼せよ
  
 どうやら、萬鳥園種禽場は「オバケ種禽場」ではなさそうで、東京同文書院Click!の東隣りにあった敷地は、「何十万坪」とはいかないまでも、細長い大型鶏舎を何棟か並べるそれなりの広さはあった。事実、1910年(明治43)の1/10,000地形図を参照すると、敷地内に大きな鶏舎とみられる細長い建物が3棟採取されている。
 ちょうど同じ時期に、下落合の東隣りにあたる高田村の雑司ヶ谷では、小田厚太郎が「小田鳥類試験所」Click!という研究所を設立している。こちらはニワトリではなくウズラで、雑司ヶ谷の旧・字名にみえる“鶉山”の地名にちなんだものだろうか。1914年(大正3)より、同研究所で産出されたウズラの卵は宮内省御用達に指定されている。明治末から大正初期にかけて、近隣地域ではニワトリやウズラなど家禽ブームにわいていたころだが、当時の熱気が感じられるエピソードだ。
 さて、萬鳥園種禽場の販売方法は独特なものだった。養鶏業をやってみたい農家で、元手となる資本金が不足している場合は、村役場で発行された1世帯分の住民証明書を添付して萬鳥園に申請すれば、1農家に無料で種卵を頒布していた。ただし、荷造り費や送料は別に徴収している。そして、種卵から孵化したニワトリからいくらかの利益が出れば、当初の種卵代を支払ってもらうというシステムだった。おそらく、種卵の状態では雄雌が不明なので、希望農家へは複数個を荷造りして送ったものだろう。
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黒色ミノルカ(メノルカ)種.jpg
佐伯絵葉書19280302.JPG
 当時の一般的なニワトリ価格は、種卵1個が10銭、種禽1つがいが6円50銭、種雛1つがいが3円50銭だった。比較的安い値段からすると、おそらく普及率が高かったレグホーン(レグホン)種だろう。通信販売の場合、具体的なニワトリの品種は指定できず、「肉用種」「卵用種」「卵肉兼用種」「愛玩用種」とハガキに希望を書いて萬鳥園に送ると、該当するニワトリ(の種卵)が送られてきた。
 これは、注文時期にちょうど卵を産みはじめたニワトリか、生まれたばかりのヒナまたは種卵が、必ずしも指定された品種では用意できない可能性があるからだろう。ただし、萬鳥園種禽場を訪ねてきた農家には、希望する品種のニワトリや種卵を販売していた。
 最後に、下落合の同パンフから「販売規程」を引用しておこう。
  
 萬鳥園種禽場販売規程
 当園の種卵にして万一不結果なるときは多少に拘らず御請求次第代卵御送付申上候 但し不結果卵の返送及代卵の荷造費運賃等は代卵御請求の節御送金相成度候
 同一種の種卵にして一時に多数の御注文に預りたるときは御申込順に従て出荷致候に付種類によりては多少の延引有之候やも難計候間至急を要せらるゝ御方にして他種類と変換するも妨なき分は予め御所望の種類両三種御示定下され候はゞ当園は充分の御満足相成候様取計ひ可申上候
 小園販売の動物は無病健全発育最も佳良なるものを撰みて御送付申上候間如何に遠隔の地と雖も無事に到着可仕は勿論万一途中に於て斃死疾病等の事有之候節は速に弁償可致候(但し駅長等の確たる証明を要し御受取後は当園其責に任せず)
 表中の雛は孵化後百日内外又水禽の雛は三四十日のものを示したるものに候へば其大小に従ひ多少の差違有之候
 表中に示したる種禽の価格は純粋種の標準価を表したるものなれば其優劣に従て多少の高下可有之随時御相談可仕候
 発送法の御指定
 種禽種卵等御注文の節は必ず御便宜の鉄道停車場又は何々港上げ或は何駅何運送店等御指定下され度候
 種禽種卵等一時に多数御注文の節は相当の割引可仕又各種の雛の予約に応じ可申候 名古屋コーチン種の如きは親雛とも多数の御注文には特別の大割引可致候
  
 これを見る限り、名古屋コーチンがもっとも安価な肉用種のニワトリだったのだろう。ちなみに、水禽類ではエンプデンギース(白色大鵞鳥)が20円、ペキンダック(白色アヒル)が8円、インディアンランナーダックが18円、野鴨(マガモ)が5円だった。
北京ダック.jpg
インデアンランナーダック.jpg
ポインター種.jpg
 佐伯祐三アトリエの庭で飼育されていた、黒色レグホーンとみられる7羽のニワトリは、1年間にどれぐらいの量の卵を産んだのだろう。1羽は確実に雄鶏だったはずなので、雌鶏が6羽だったとすると、1羽が年間200個ほど産めば、1,200個もの卵を採取できたことになる。でも、種卵から孵化するニワトリが必ずしも雌鶏とは限らないので、「あのな~、7羽んうち4羽がな~、雄鶏やねん。なんや知らん、詐欺におうたみたいやで~。毎朝早くからコケコッコーな~、うるそうてかなわんわ~。……♪カンテキ割った~擂鉢割った~で、エサ作るのもようでけへんしな~、ほんましんどいわ。……そやねん」だったかもしれない。w
                                  <了>

◆写真上:下落合523~524番地の、萬鳥園種禽場跡の現状(右手奥)。
◆写真中上は、米国から輸入されたてだった卵用種の銀色ワイアンドット。は、多産な卵用種の黒色ハンバーグ(ハンブルグ)種。は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる萬鳥園種禽場界隈。「523」番地が「423」と誤記載されている。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる萬鳥園種禽場跡。523番地の「佐伯」が、修正されずにそのまま記載されていると思われる。は、卵用種の黒色ミノルカ(メノルカ)。は、1928年3月2日にパリの佐伯祐三から曾宮一念にあてたハガキ。最初に「六二三」と書いて「五二三」に訂正し、下に「もしかすると六二三」と書いてさらに消すという都合三度の修正を加えている。曾宮の住所は下落合623番地だが、佐伯は「下落合523番地」という地番の記憶が強く刻まれていたと思われる。
◆写真下は、肉用種のペキンダック(白色アヒル)。は、観賞用として輸入されたインディアンランナーダック。は、洋犬も販売していた萬鳥園のポインター種。

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近衛邸敷地に接した萬鳥園種禽場。(上) [気になる下落合]

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 東京同文書院Click!(のち目白中学校Click!併設)の東隣り、下落合523~524番地には多種多様なニワトリClick!を販売する萬鳥園種禽場Click!が開業していた。事業所が同地にあったのは、明治末から大正前期にかけてのころだ。かなり大規模な種禽場で、関東一円ばかりでなく、養鶏Click!に必要な関連商品や資材Click!、刊行物などから、顧客は全国に及んでいたと思われる。もちろん、落合村をはじめ、高田村、長崎村、野方村などで養鶏業を営む農家は、萬鳥園種禽場からニワトリを購入していたのだろう。
 目白通りに面した下落合523~524番地は、もともと近衛篤麿邸Click!の敷地の一部だったとみられるが、近衛篤麿Click!が死去した明治末に萬鳥園が土地を買収している。買収したのは、萬鳥園園主の華蔵界能智(けぞうかいよしとも)という僧侶のような名前の人物で、のちに洋犬などペットの飼育でも名前を知られることになる。萬鳥園種禽場の時代から、すでに洋犬のブリーダー事業もはじめており、土地が広い東京郊外の屋敷街への販路を見こしての、先行投資のような事業展開だったのかもしれない。
 下落合の土地を買収しているのは、ひょっとするともともと近衛家の知り合いか、故・近衛篤麿の友人知人だったのかもしれない。華蔵界能智は、明治末に発行した「萬鳥園種禽場営業案内」パンフレットで、次のように書き記している。
  
 小園の幸福
 当種禽場は何十万坪何万羽の鶏を飼養せざると雖も現住の処は地所家屋共小園の所有なるを以て一ヶ月に付一坪何十銭の地代を払ふの要もなく何十円の家賃を取られる心配もあらざるが故各種共廉価に販売致し得るの幸福あり
  
 商品の価格には、地代や家賃の固定費が上乗せされていないので、相対的に安く販売できる……と、下落合の土地が所有地であることをアピールしている。
 明治後期になると、欧米からの品種改良されたニワトリの輸入が盛んになり、その中心的な位置にいたのが岩崎家Click!(三菱)だったのは以前の記事にも書いた。そのせいか、明治末から大正期にかけて養鶏ブームが起こり、農家の副業として貴重な現金収入源となっていった。萬鳥園種禽場では、多彩な洋種のニワトリを飼育しており、東京の家禽品評会では毎年、1等賞~3等賞あるいは優等賞などを独占している。入賞したニワトリには、高価だが当時の人気品種だったアンダルシヤンをはじめ、黒色ミノルカ、白毛冠黒色ポーランド、バフコーチン、黒色ジヤバア(ジャワ)、ビーコンプリモースロック(プリマスロック)、ラフレッシュ、ラ・アレッシュ、白色レグホーン(レグホン)、淡色ブラマ、黒色オーピントン、横斑プリモースロック(プリマスロック)などがいた。
 「拾五羽の養鶏は優に田畑一反部の収益よりも大なり」、あるいは「拾五羽の養鶏は十坪を要せず農作物の如き天災少なし 労力は二分の一を要せず」を事業のキャッチフレーズに、華蔵界能智は明治末から大正初期にかけ、順調に業績を伸ばしていったようだ。明治末には、萬鳥園で繁殖させたニワトリの種卵や親鶏、ヒナなどが、すでに全国各地へ広く出荷されはじめている。萬鳥園の営業案内パンフレットに掲載されている、文語調で読みにくい華蔵界能智の論説「養鶏の利益」から引用してみよう。
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 今や我養禽業は非常の発展を為し昨年度の如き一億三千余万円の輸出を為すに至れりと云ふ誠に喜ぶべきなり 然れ共此重大なる生産業は如何にして発達したるか又何物の手に因りて作られたるか是れ実に農友諸君の副業的努力に外ならず斯業に従事せる者は昼夜の別なく供同相一致して熱心に従事したるが為に外ならざるなり 如何に養禽業が有利なりと雖も若し蠶兒を桑樹に放任し置きて自然に多額の繭を作らする事の不可能事たる事は三才の童兒も能く是れを知らん 然るに養鶏に対しては此方法を以て大なる利益を望まんと欲するは何ぞや 是れ一つは他業に比し斯業の容易なるにも因るならんが誠に笑ふべきなり 例へ造林にもせよ苗木を植付しゝまゝ放任し置きて重分の良材を得る事能はざるべし 况して動物に於ておや 然るに此方法を以て多額の利益を得ざりし者は数羽の鶏を飼養すれば利益よりは害多しと 又或某村の如きは一家三羽以上の鶏を飼養するなかれと 何ぞ無欲の甚しき石地蔵と大差あらざるなり
  
 1年間で1億3千万円余(現代換算で約4,940億円余)も売り上げたらかなりの大企業だが、これは華蔵界能智のオーバートークではないだろうか。2019年度の三井住友建設や京王電鉄でさえ、約4,500億円の売り上げにすぎない。「我家禽業」は、イコール萬鳥園種禽場だけのことではなく、「我の属する家禽業界」というレトリックではなかろうか。ちなみに、筆者は「輸出」という言葉を好んでつかっているが、これは海外へ「輸出」することではなく国内へ「出荷」することだ。
 当時、養鶏はいまだ新しいビジネスだったせいか、さまざまなクレームも多かったようだ。そのようなクレームの出所を調べてみると、ニワトリを飼っただけで面倒をみず、放置しつづけていればヘタな養蚕家や放置林のようになってしまうのはあたりまえだ……と反論している。ただし、農家の副業に養鶏はあまり手がかからず、ラクに収益を上げられるというような、萬鳥園種禽場側の販促表現にもかなり問題がありそうだ。
 大正期、もっとも養鶏業が盛んだったのは千葉県で、東京市や横浜市へ向けて出荷する鶏卵の額が、1年間に180万円以上になっており、同県の主要な生産物に挙げられている。つづいて宮城県の県外出荷が年間20万円、次いで静岡県という出荷量の順位だった。現在では、生産量の全国1位は茨城県(18万8千トン)、2位が千葉県(18万4千トン)、3位が鹿児島県(16万9千トン)となっている。
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萬鳥園種禽場営業案内.jpg 萬鳥園種禽場営業案内表3.jpg
  
 (前略)未だ支那卵の輸入せらるゝもの年々数十万円を下らざるなり 近来農商務省に於いてもやうやく斯業の大利有る事に心付官営的農場をも作りて大に斯業を奨励するに至れり 以て如何に養鶏を軽々に付し難きかを知るにたるべし/過去の大戦の為に蒙りたる財界の傷未だ癒へざるの時我等国民たる者苟(いやしく)も開発すべきの事業有らば共に共に奮励し実力に於て世界の第一等国たらしめん事に勉めざるべからず 前述の如く十五羽の養鶏に一反部に使ふ労力の三分の一或は二分の一を使い見よ其得る処必ず以上の計算よりは数等大なる事を確必信す勉めよや諸士
  
 なんだか、大上段にふりかぶった大言壮語の見本のような文体だが、「世界の第一等国」になるために養鶏がそれほど重要だったかどうかは知らないけれど、ちょっと眉にツバをつけたくなるような文章だ。ちなみに、「過去の大戦」とは明治末か大正初期に書かれた文章なので、1905年(明治38)に勃発した日露戦争のことだ、
 さて、萬鳥園種禽場がいつどこへ移転したのか、あるいは事業を閉じてしまったのかはハッキリしないが、1918年(大正7)の陸地測量部Click!による1/10,000地形図を参照すると、目白通り沿いには家々(おそらく商店など)が稠密に建ちはじめているが、その裏手にはやや空き地表現が見られる。ひょっとすると、萬鳥園種禽場は事業を縮小し、通り沿いの土地を手放して営業をつづけていたのかもしれない。
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 萬鳥園敷地の南側には、貸家とみられる家々が数軒建ちはじめているが、翌々年の暮れあたりからその中の1軒、下落合523番地の貸家を借りて自邸+アトリエが完成するまで仮住まいしていたのが、曾宮一念Click!へのハガキの地番を「623番地」と「523番地」とで、見憶えのある地番の曖昧な記憶Click!に迷っている佐伯祐三Click!ではなかったか……というのが、わたしの以前からの課題意識なのだ。それは、1926年(大正15)の「下落合明細図」で、下落合523番地に「佐伯」は収録されているが、下落合661番地に「佐伯」が記録されていないという、注目すべき齟齬にも直結するテーマなのだ。
                                <つづく>

◆写真上:「萬鳥園種禽場」のパンフレットに掲載された、下落合523~524番地の敷地に建ち並ぶ近代的な鶏舎。左手奥に見えるハーフティンバーの西洋館と暖炉の煙突が、華蔵界能智が敷地内に建設した自邸の可能性が高い。
◆写真中上は、1910年(明治43)の1/10,000地形図に採録された萬鳥園。は、同パンフレットに掲載された来園地図。は、萬鳥園種禽場跡の現状。
◆写真中下は、輸入された肉食用種の銀灰色ドーキング。は、萬鳥園パンフレット()と表3に掲載された土地も建物も自前の「小園の幸福」()。
◆写真下は、現在の一般的な鶏舎。は、卵肉両用種の黒色オーピントン。は、同様に卵肉両用種の横斑プリモースロック(プリマスロック)。

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千代田区の「千代田小学校」はまぎらわしい。 [気になるエトセトラ]

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 千代田区には、区立の「千代田小学校」という名称の小学校がある。1993年(平成5)に千桜小学校と神田小学校、それに永田町小学校の一部が合併して創立されたごく“新しい”小学校だ。でも、これってすごくまぎらわしいネーミングだ。
 千代田小学校といえば、日本橋地域にお住まいの方なら、1876年(明治9)8月に幕府の馬調教所および馬場があった日本橋区馬喰町3丁目19番地に創立され、生徒数の増加から1910年(明治43)3月、薬研堀Click!(または元柳橋入堀Click!)の埋立地である日本橋区矢ノ倉町15番地(現・東日本橋1丁目)に移転した、おそらく戦前の東京ではもっとも露出度が高くて有名だった、東京市立の千代田小学校をイメージされる方が圧倒的に多いだろう。わが家では、維新直後は子どもが学齢期を迎えると浅草御門(浅草見附)Click!近くの校舎へ、明治末以降になると薬研堀の千代田小学校の校舎へと通っていただろう。
 同校は、関東大震災Click!の教訓からコンクリート造りの、独特なデザインをした復興校舎の代表的な建築としても著名であり、記念絵ハガキも数多く制作されている。同校は戦災をくぐり抜け、1945年(昭和20)に統廃合されるまで70年間もつづいた小学校だ。戦後、同校の復興校舎は久松中学校へ、そして1974年(昭和49)に日本橋中学校Click!へと衣がえして現在にいたっている。子どものころ、このオシャレな元・小学校には何度か連れられていき、「ここが千代田小学校、東京大空襲からも焼け残ったんだ。中は丸焼けだったけどな」と親父から説明を受けていた。1960年代にこのあたりを歩くと、いまだ近くの床屋などから「カクちゃん!」(親父の愛称)と叫びながら、幼なじみがハサミを手に飛びだしてきていたような時代だ。つまり、東京市立千代田小学校は親父の母校だった。
 当時のわたしは、「日本橋にあるのに、なんで千代田小学校なの?」と訊ねたところ、明治時代から歴代天皇が小学校を参観するとき、馬喰町時代から必ず日本橋のこの小学校に来校したので、千代田城Click!がある柴崎村千代田の地名(太田道灌Click!の時代)にちなんで名づけられたと教えられた。ちょうど、中元・歳暮の時期になると、NHKニュースが定番のように日本橋三越Click!へ取材するような感覚だ。これは、近所のワルガキ仲間だった1年先輩の親父いわく「田沼くん」Click!の証言とも一致する。1999年(平成11)に小学館から出版された「田沼くん」こと、三木のり平『のり平のパーッといきましょう』から引用してみよう。
  
 僕が通った小学校は、千代田小学校。僕の入る前の年か、その前の年から千代田小学校っていうようになったって聞いたね。天皇陛下が来られたっていうんで、それを記念して千代田小学校という名前になったらしい。千代田城の千代田をいただいたんだね。だから校章も菊のご紋章だよ。すごいだろ。すごかないか、べつに。(中略) この小学校は、うちから歩いて三分くらいのところにあった。駆けていけば1分半。だから、昼飯を食べに、うちに来た子が多かった。
  
 三木のり平の記憶は、おそらくどっかでこんがらがっていて、「千代田小学校」という名称は馬喰町時代から、1876年(明治9)の当初から「第一大学区第一中学区十一番小学千代田学校」、つまり明治天皇が来校してからこの名称がついていた。つづいて、1908年(明治41)4月から「千代田小学校」に改称されている。田沼少年に説明した大人が、大きな勘ちがいをしていたのかもしれない。彼が通っていたころ、千代田小学校(小学千代田学校時代を含む)という名称は、すでに60年近い歳月を経ていた。
 「田沼くん」こと三木のり平の実家は、浜町側で待合をやっていたので、美味しい料理がいつも潤沢に用意されていた。だから、小学校の昼休みにうまいもんClick!を食べに「田沼くんちにいこうぜ」と、友だちがたくさん押し寄せたのかもしれない。食いしん坊のうちの親父も、ひょっとすると出かけているだろうか。「田沼くんち」から千代田小学校まで徒歩3分だったようだが、旧・米沢町側にあったうちの実家から同校までは、ミツワ石鹸本社ビルClick!をまわって100m前後だから、おそらく徒歩1分だったろう。
 三木のり平は、浜町で起きた「明治一代女」こと花井青梅事件(箱屋事件)Click!のことも、親や仲居・女中たちから教えられたのか詳しく知っている。
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 たとえば、1978年(昭和53)に閉校して筑波大学に改編された国立の旧・東京教育大学だが、それからしばらくして東京都が新たに、「東京教育大学」という名称を「復活」させ、“新学校”をどこかに設立したら、旧・東京教育大の卒業生や筑波大の関係者たちは「え、なにそれ。どういうこと?」となるにちがいない。旧・東京教育大の出身者には、そのキャンパスや地域で延々と培われた歴史とアイデンティティがあり、筑波大でもその地域性とともにおそらく同様だろう。
 千代田小学校は戦後、行政の教育合理化施策から隣りの神田の小学校との統廃合で名前が消え(「千桜小学校」となった)、しばらくたってはいたけれど、千代田区がその統廃合を根拠に新しい、というか先祖返りの「千代田小学校」を同区内に新設したら、創立以来、学区が異なる日本橋側にあった本来の千代田小学校の卒業生たちは、「ちょっと、そりゃないぜ!」となるだろう。中には、過去の伝統や育まれた校風、70年にわたる独自の教育文化まで、校名とともに日本橋側から神田側へなんとなくそっくり“横どり”されたように感じて、腹を立てる卒業生がいても不思議ではない。
 確かに「千代田」の地名は千代田区にあるが、旧・日本橋区にあった学校の地域的な特徴や歴史的な経緯を無視して、史的にすでに定着している固有名詞を再び使いまわすのは(当事者たちは「復活」させたという意識なのかもしれないが)、明らかに混乱をまねくだろう。本来の千代田小学校の卒業生は、神田っ子だと誤解されかねないし、両方の時代にまたがって事情を知る人は、「千代田小学校って、それ日本橋と神田のどっちの話?」と、いちいち確認をとらなければならない。
 現在、千代田区立の千代田小学校に在籍している生徒、あるいは卒業生たちが聞いたら気分を害するかもしれないけれど、子ども時代の重要なアイデンティティが育まれた、卒業生たちはもちろん東京ではこだわりの深い地域に密着した学校名を(旧・東京教育大のたとえを連想されたい)、気やすく別の自治体が別の地域で使いまわす配慮のなさに、ぜひ留意していただければと思う。
 この校名を、もし千代田区教育委員会が1993年(平成5)に決定しているとすれば、その地域性や歴史を尊重しない姿勢が疑われてもしかたがない状況だ。どこか何百年、ときには千年以上つづいてきた地名を、まったく地元の歴史を知らない人間がいじりまわすClick!のにも似て、こういう歴史や地域性に慎重さや配慮のない姿勢がとても気になる。
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 さて、千代田小学校が薬研堀Click!の埋め立て地に移転する前後、日本橋馬喰町から日本橋矢ノ倉町(現・東日本橋1丁目)への経緯を記録した文章を見つけたのでご紹介したい。当時の日本橋界隈は、子どもの就学数が急増しており、校舎を改築しても増築しても間に合わない状況が生じていた。ちょうど、大正末から昭和初期の落合地域と似たような課題が、その30~40年ほど前に日本橋地域で起きている。
 1916年(大正5)に日本橋区役所から出版された、『日本橋区史』から引用してみよう。
  
 ついで(明治)二十三年九月十九日(千代田小学校の)校舎増築成り落成式を行ふ。増築校舎は二階建二十四坪(中略) 三十一年十二月四日、本校大部の改築工事成り落成式を行ふ。改築に係る校舎は二階建百二十九坪にして、附属家及諸費を合せ費額金八千四百七十六円余、(中略) 本校は従前改築屡々なりしが、就学児童の増加に由りて教場の狭隘を感じたるも、而も敷地に限りありて増築するに由なく、加ふるに門前は電車通なるを以て児童の往復に危険少なからざるを患ひ、好適地を得て移転をなさんと企画せしに、曾々市区改正設計に由れる元柳橋入堀埋築地に設けらるべき公園は、旧両国広小路に移されたれば、其の跡地、即ち矢ノ倉町十五番地四百八坪二合三勺、及び接続地十六.十七番地合五十五坪一合七勺を金二万二千六百十八円三十銭を以て払下げ、元柳河岸市有地二百三十二坪五合六勺を借用(中略) ついで四十二年七月工事に着手し、校舎総二階建二百十四坪七合五勺付属家其他を合せて(中略) 四十三年三月竣工せしを以て、同三十日落成式を挙ぐ、即ち現在の校舎なり。(カッコ内引用者註)
  
 「現在の校舎なり」と書いている、総2階建ての木造校舎は関東大震災の延焼で全焼し、わずか13年間しか使用できなかった。同書には、当時の千代田小学校校舎の平面図(1910年現在)が掲載されているが、震災後に建設されるコンクリート製の復興校舎とは、比べものにならないほど小規模で狭い。震災後に建設され、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!からも焼け残った校舎は、アールのきいた独特なデザインの屋上に展望台を備えた、総3階建ての鉄筋コンクリート製のビルディングだった。
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日本橋中学校.JPG
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 復興校舎の展望台から、両国の花火大会Click!を見るのは“特等席”だった。「夏祭りなんか大変だよ。小学校が御神酒所になって、町内の神輿Click!がみんな学校に集まる。花火大会もあるだろう。そうなると校庭が花火見物のための座席になっちゃうんだから。そう、夏といえば川開き。え、隅田川? そうだよ。でも、隅田川っていうのは浅草から先をいった。浅草までは大川っていう」と、三木のり平は千代田小学校を懐かしそうに回想している。

◆写真上:千代田小学校の展望台(屋上)から、大橋(両国橋)や大川(隅田川)をはさんで本所側を眺めた写真2葉。対岸の丸いドームは本所国技館Click!で左手奥が本所公会堂Click!だが、両国橋は関東大震災で被害を受けた姿のままで、校舎の左手にミツワ石鹸の本社ビルが未建設なので、1930年(昭和5)以前の昭和初期に撮影されたものと思われる。
◆写真中上は、東に張りだした校舎のウィングをとらえた写真。右手に見える小学校前の商店街では、江戸期からの伝統的な「鴨すき焼き」を食わせる「鳥安」Click!が営業しているはずだ。中上は、大川の川面から見た竣工直後の千代田小学校全景。中下は、京橋図書館に保存されている千代田小学校のファサードで左奥が大川にあたる。は、復興校舎が竣工したあと参観に訪れた昭和天皇の人着記念写真。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる千代田小学校界隈。すでに両国橋が現在の橋に架け替えられ、そのたもとには「一銭蒸気(ポンポン蒸気)」の船着場が見えている。は、空襲で焦土と化した東日本橋エリアと千代田小学校。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる東京大空襲Click!からも焼け残った千代田小学校の校舎。
◆写真下は、1910年(明治43)に薬研堀(矢ノ倉町)へ移転した当時の校舎平面図。中上は、大川から眺めた千代田小学校の跡地に建つ改修工事中の日本橋中学校で、右手のカゴメビルがミツワ石鹸本社ビル跡。中下は、千代田小学校の夏休み臨海学校で撮影された記念写真で、前列右からふたりめが「田沼くん」こと三木のり平。は、親父が5年生の1936年(昭和11)に同じ場所で撮影された記念写真。三木のり平『のり平のパーッといきましょう』(小学館)のキャプションでは「場所不明」と書かれているが、千代田小学校の上級生徒たちが毎年臨海学校で訪れていたのは千葉県勝浦の興津海水浴場で、田沼家のアルバムと親父のアルバムでは小学校時代の記念写真がかなりの割合で重複しそうだ。

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下落合駅を通過する西武電車1960年代末。 [気になる下落合]

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 少し前に、戦後すぐのころ1950年(昭和25)すぎあたりに撮影された、西武線の写真Click!をご紹介したことがある。今回は、1960年代の後半から1970年(昭和45)ごろにかけて、下落合駅を通過する西武新宿線の姿をご紹介したい。
 前の記事でも書いたけれど、わたしは鉄道に詳しくないので、写真にとらえられた車両の種類が西武新宿線に導入されていたなんの種類なのかはわからない。1960年代の後半から70年代にかけ、西武新宿線にはモハ373形、サハ1411形、サハ1412形、モハ501形、サハ1530形などの車両が走っていたらしいが、運転席の窓が3つに分かれている四角い“顔”がモハ373形、どこか当時の湘南電車(東海道線)に似ている、アールがきいた窓がふたつに分かれている“顔”がモハ501形ではないだろうか。
 まず、「しもおちあい」という駅名プレートが見える写真から見ていこう。(写真) 前回と同様に、鉄道ファンにはたいへん恐縮だが写っている電車ではなく、わたしとしては周囲の風景に惹かれるので注目したい。w 西武線のホームで、いましも上り電車と下り電車がすれちがおうとしているが、電車が大きくとらえられている側が下落合駅の上りホームで、カメラマンのいる手前は下りホームだ。
 「〇〇作所」と書かれた、大きなコンクリートの建物か見えているが、妙正寺川に面した「正久刃物製作所」の工場だろう。その右手に見える2階建てモルタル仕様の建物は、当時の下落合郵便局だと思われる。正久刃物製作所の向こう側(北側)に、屋根から樹林がのぞいているので、十三間通りClick!(新目白通り)の工事はそれほど進捗していない、1960年代後半あたりに撮影されたものだろう。
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 つづいて、やはり60年代後半に撮影されたとみられる、上りホームを通過する電車をとらえた写真を見てみよう。(写真) 左端に、洗濯物が干された2階家がとらえられているが、ホームがカーブする東端に近いこの位置にあったのは松原邸だろうか。その向こうに少し引っこんで見える、下見板張りの家が内田邸ないしは望月邸だろう。
 下落合駅のホーム東側の、北へややカーブする線路の先に目白崖線の丘が見えている。その丘上から突きでるように、白いビル状の建物がひとつポツンと片隅にとらえられているが、学習院昭和寮Click!(日立目白クラブClick!)のテニスコートに面した第三寮Click!ではないかと思われる。1960年代は、十三間通り(新目白通り)が存在せず、高い建物が周囲になかったためかなり遠くまで見通せただろう。
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 次に、東京電力の高圧線鉄塔Click!(旧・東京電燈谷村線Click!)が写る、下落合駅の西側をとらえた写真を見てみよう。(写真③④) この高圧線の一部は、下落合駅の東端にあった西武線の鉄道変電施設に入り、その他の高圧線は田島橋Click!の南詰めにあった東京電力(旧・東京電燈)目白変電所Click!へと向かっていた。
 写真2枚の左隅には、人々やクルマが横断する下落合駅西側の踏み切り(下落合1号踏切)が見えている。1970年(昭和45)前後は、十三間通り(新目白通り)がいまだ工事中のため、早稲田通りや小滝橋経由で新宿方面へと抜けられる、補助45号線Click!と名づけられた聖母坂Click!の道筋は、クルマがかなり渋滞して混雑していたとみられる。
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 最後に冒頭の写真と同時期の、おそらく1970年前後の撮影とみられるが、下落合駅の上りホームを通過するモハ501形に牽引された電車の写真を見てみよう。(写真) 下落合駅の西側には、1960年代半ばに建設された東京学生交流会館(学生援護会)のビルが見えている。この広い敷地(上落合1丁目307番地)は、1950年代まで警視庁第4予備隊(警察予備隊→保安隊→自衛隊)の駐屯施設があった場所で、1960年(昭和35)前後に解体されて空き地となり、60年代半ばに東京学生交流会館が建設されている。
 同会館の向こう側にも、北側を妙正寺川に接した当時としてはかなり高層の建築である、1969年(昭和44)竣工の下落合グリーンパークマンションが写っている。また、冒頭写真の右側に写る2階家、写真では電車の上に屋根だけが見えている2階家は、下落合駅のホームに接した野上邸だろう。冒頭写真にもどり、野上邸の右手(東隣り)にとらえられた1階建ての家は吉田邸ではないかとみられる。
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 さて、わたしが下落合界隈を歩きはじめたのは、1974年(昭和49)の高校時代からだった。したがって、これらの写真にとらえられた情景はリアルタイムで目にしていない。当時は目白駅、または高田馬場駅、あるいは下落合駅を起点にして散策したが、すでに落合地域の十三間通り(新目白通り)は開通し、高い建物が少なかったので見通しはよかったものの、現代の風景と基本的には変わらない街の枠組みができあがっていた。当時と現在とで根本的に異なる点は、下落合の街並みに密集していた樹木の緑が、比較にならないほど少なくなっていることだろう。
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 なんだか、鉄道写真集のような体裁の記事になってしまったけれど、1950年代に撮影されたとみられる西武線の写真を、新宿歴史博物館Click!の資料室でも見た記憶がある。そこには、中井駅の近辺からとらえられた下落合の丘(現・中落合/中井の丘)が写っていたように記憶している。また機会があれば、こちらでご紹介したい。

◆写真上:1970年(昭和45)前後の撮影とみられる、下落合駅を通過する西武新宿線。
◆写真中:それぞれ、1960年代後半から1970年(昭和45)にかけて、下落合駅のホーム上から撮影された西武線写真。下落合駅の空中写真は、からへ1963年(昭和38)、1966年(昭和41)、1971年(昭和46)、1975年(昭和50)撮影のもの。
◆写真下は、1960年代に撮影された下落合駅。画面に写る松浦カメラ店は、わたしもフィルムを買った憶えがある。は、1974年(昭和49)撮影の下落合駅。この情景は実際に目にしており、オレンジ屋根の尖がりフィニアルが懐かしい。

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「怪談」系ドラマは久七坂がお好き。 [気になる下落合]

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 1970年代のTVから流れてくるドラマには、ひとつのブームというか傾向があったように思う。明るいドラマや、希望に向かって走るようなストーリーももちろんあったが、恋愛関係や家族・親族関係がにっちもさっちもいかなくなるほど、これでもかと思うほどドロドロでグチャグチャな状況になり、ついには破滅するか「別れ」「旅立ち」のあと虚無の世界へと入りこむか、ヘタをすると主人公が自死してしまうような筋立ての作品だ。きっと、こういうメロドラマや愛憎劇の人気が高く、視聴率が稼げてた時代でもあったのだろう。ちょうど、現代では韓流ドラマに一定の視聴者がついているように……。
 このような作品の一例として以前、木下恵介Click!『冬の雲』Click!について触れた記事をアップしたけれど、そこでも書いたように「だから、大のオトナが雁首そろえて、いったいなにがどうしたってんだよう?」……と感じてしまう、繊細な神経を持ちあわせていないわたしは、このような感覚の物語とは生来、とことん相性が悪くて無縁なのだろう。よほど好きな俳優が出演してでもいない限り、まずはTVを消すかTVの前を離れていた。それでも、当時は続々とこのテの作品(メロドロ・ドラマ)が撮られていたようなので、視聴率はかなり高くスポンサーも喜んで出資していたのではないかと思うのだ。
 わたしの印象では、このようなドラマの原作は渡辺淳一(この作家の作品は、おそらくこれまで2冊とは読んでいないと思う)あたりで、細川俊之あるいは芦田伸介などによるとっても思わせぶりな、だけどまったく意味不明なナレーションが入ったりする、たとえばこんな作品Click!だろうか。こういう画面が映しだされると、わたしは「そろそろ勉強してきま~す!」とかいって、さっさと自分の部屋に引きあげ、好きなラジオ放送を聴きながら絵を描いて遊んでいたような気がする。親たちもきっとホッとして、子どもに見せるにはちょっと早すぎると思われるこういう作品を、おそらく安心して楽しんでいた(またはチャンネルを変えたのかな?) のではないだろうか。
 なんだろう……、ウジウジといつまでも引きずっている苦悩や葛藤など自身の内面生活を、登場人物の台詞や行動でさりげない表現として提示するならともかく、それをドラマのメインテーマにすえて延々と、または遅々として、ナレーションに依存した内向的で動きのない無意味なシーンを繰り返すような映画やドラマは、わたしとしてはともかくカンベンしてほしい作品なのだ。
 観ていて退屈きわまりないし、しかもたいがいウジウジしている主人公には、イラ立たしさを通りこして腹が立ってくる。「あんたが主体的に選択して招来した結果的課題であり状況なのだから、早く自分できちんと認識して考え、グチッてないで新たな意思決定をするなり選択するなりして、なんとか解決しろよ。大のオトナがなにやってんだ、周囲に甘えてんじゃねえぞ」……とかなんとか、映画やドラマの作り手にはまことに申しわけないが、身もフタもないようなことをいいたくなるのだ。
 「苦しい」「哀しい」「わびしい」「寂しい」的な苦悩感情を、思いっきり表にだして“自己主張”する人間、自身が抱える悩みあるいは不満のグチや、人の悪口をどこかで吐きださないと気が済まない人間、相手が嫌な気分になって落ちこもうが、グチを聞かされる側の精神衛生が悪くなろうが、他者の気持ちに思いやりや配慮もせず、周囲を巻きこみながら自分だけ「吐き出してスッキリ」すればいいと考えているような人間は、オトナの矜持をもたない子ども同然の典型的な「自己中心主義」の人物にちがいない。
 汝ら断食せるとき、偽善者の如く悲しき面持ちをすな (「マタイ伝」6章より)。
 そんな人間たちが、映画やドラマの中で跋扈して、自ら招来した結果に苦悩するのを延々と見せられたら、嫌悪感とともにウンザリするのはあたりまえだろう。
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 やや横道にそれるけれど、上記に引用した『野わけ』(1975年/よみうりテレビ)というドラマは、もちろんわたしは観ていないが、細川俊之のナレーションが面白いので、ちょっと気晴らしに遊んでみたい。同ドラマの冒頭から、少し引用してみよう。
  
 野わけ(野分・野わき)とは/野の草を吹き分ける風/秋に吹く疾風(はやて)……
 野わけの風は/それはたとえば/女の涙のかわき……
 野の果てに消える/女の生命(いのち)である
  
 細川俊之の甘い声音で、なんとなくムズムズしてくるが、いくら“女の詩情”を詠った文章だとしても、これでは日本語がおかしくて意味が通らないだろう。
 1行目の「野わけ」の規定は、「広辞苑」でも参照したような解釈なので辞書的な引用記述にすぎないが、2行目の「野わけの風」=「女の涙のかわき」と規定するレトリックは、いったいなんだろう? 疾風(野わけ)の風という、「頭が頭痛」「馬から落馬」と同様の重言も気になるが、「風」=「女のドライアイ」wないしは「風」=「女の涙も枯れはてた深い悲しみ(?)」という規定は、どう考えても「たとえば」で持ちだす比喩にしては、あまりにもほど遠いし、感覚としてもつながらないし馴染まない。
 ましてや、「野わけ」が「野の果てに消える/女の生命である」にいたっては、仮に野をかき分ける「風」を内向的で悩み多き「女」自身の喩えと解釈しても、そんな女性がいさぎよく疾風のように去り、吹きぬけて消えてゆく、まるで月光仮面のようなダイナミックですばやい動きや生き方ができるかどうかは、はなはだ疑問だ。むしろ、いき詰まり遅々として思い悩んでいるからこそ、成立するドラマなのではなかったか。つまり、「野わけ」とヒロインの「女」とは、同一の文脈上で語られるべきものではなく、むしろ“二項対立”の言葉なのでは?……と、これまた身もフタもないことを感じてしまい、大きなお世話ながら心配になってしまう『野わけ』のプロローグなのだ。
 さて、話はまったく変わり、またまた下落合が登場している最近のドラマClick!を見つけたのでご紹介したい。2016年(平成28)にWOWOWで制作された、『双葉荘の友人』(監督・平松恵美子/脚本・川崎クニハル)だ。同作の一部のシーンでロケーションが行われているのは、下落合の急斜面に通う久七坂Click!の界隈で、舞台の設定は横浜市中区の丘陵地帯、「梶原台4-9」(架空の地名・地番)ということになっている。
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 “事故物件”のテラスハウス「双葉荘」に引っ越してきた若夫婦が主人公だが、そこで以前に住んでいた貧乏な画家夫妻の幽霊に遭遇してしまうというストーリーだ。これだけだと、「ほんとにあった怖い話」系のありがちな心霊ドラマのようだが、本作は恐怖が目的ではなく幽霊たちが紡ぎだす過去の情景を通じて、かつて「双葉荘」で起きた事件の真相を徐々にあぶりだしていく……というミステリー仕立ての展開となっている。
 やがて、加害者の家に保存されていた画家のタブローが発見され、ほぼ同時に主人公の実家にも同じ画家の作品が遺されていることに気づき……と、こんがらがったミステリーの糸が徐々に解きほぐされていくという展開だ。どこか、英国のR.ウェストールが描くゴースト小説を連想させる、日本ではめずらしい香りの物語となっている。
 久七坂が登場するのは、「双葉荘」の大家宅が坂道を上った丘上にある日本家屋という設定で、不動産屋に案内された若夫婦が訪ねていくというシチュエーションだ。120分ほどの長さの作品だが、地上波のいわゆる「2時間サスペンスドラマ」とはまったく異質で、俳優たちの演技もなかなかリアルでうまく、映画にしてもいいようなかなり質の高い、出来のいい仕上がりとなっている。下落合がロケ地のひとつに選ばれているのは、どこかで美術Click!画家Click!つながりが意識されたからだろうか? それとも、元・個人邸の「ユアーズ」Click!と坂道というロケーションが、作品にマッチしたからだろうか。
 凝っていて面白いのは、住所表示の青いプレート「新宿区下落合四丁目3」や、電柱の歯科医看板に付属している緑色の「下落合4-3」の上に、「中区梶原台四丁目9」や「梶原台4-9」のシールをうまくかぶせて貼りつけていることだ。そして、西新宿の都庁をはじめとする高層ビル群が見えないよう(横浜市中区の設定なので)、うまく画角を調整して坂下に建っていた青い屋根の日本家屋(現在は建て替え中)と、西武新宿線・下落合駅前のマンション「下落合パークファミリア」を入れて撮影している。
 ただひとつ残念なのは、加害者宅と主人公宅に「偶然」遺されていた死んだ画家の作品が、お世辞にもうまいとはいえないタブロー(の小道具)の画面だったことだ。どう見ても、プロの手によるものではなく、素人(あるいは画家の卵)が描いたとしか思えないような技量の出来だった。きっと、BSドラマということで予算枠が厳しかったのか、小道具にまで潤沢な経費をかける余裕がなかったのだろう。
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 久七坂筋は、なぜか「怪談」系ドラマのロケーションに好まれるのか、2013年(平成25)に放映された「ほんとにあった怖い話」(フジテレビ)の『影の暗示』でも、ビジネススーツ姿の深田恭子が、黒い不吉な影を追いかけて走りまわる舞台としても登場している。

◆写真上:青い屋根の邸が解体される以前の、坂上から見下ろした久七坂。
◆写真中上:1975年(昭和50)に放映された、『野わけ』(フジテレビ)のタイトルバック。
◆写真中下:2016年(平成28)に制作された『双葉荘の友人』(WOWOW)の久七坂シーンとその現状で、中腹の青い屋根の大きな邸はすでに建て替え工事中だ。
◆写真下上左は、DVD『双葉荘の友人』(TCエンタテインメント)パッケージでキャッチフレーズは「同じ景色を眺めていた、誰かがいた」。上右は、生涯読みそうもない1974年(昭和49)の女性誌「non-no」に連載された渡辺淳一『野わけ』(集英社)。は、下落合でも屈指の急坂である久七坂を駆けあがる深田恭子で、聖母坂から久七坂筋への駆けあがりも含めかなりきつい仕事だったろう。2013年(平成25)放映の『影の暗示』(フジテレビ)より。
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高田町調査をした1924年度の自由学園。 [気になるエトセトラ]

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 高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の全商店Click!全事業所Click!の調査を実施し、「貧乏線調査」Click!「衛生環境調査」Click!を集計して『我が住む町』Click!のレポートにまとめた自由学園の女学生たちは、1924~25年(大正13~14)の4月から3月まで、どのような学生生活を送っていたのだろうか。その前年に起きた、関東大震災Click!に関するエピソードについては改めて記事にするとして、きょうは社会調査が行われた1924年度の学園内の様子をご紹介したい。
 まず、4月には第4回入学式が行われ、新たに本科33名、予科17名、高等科20名が入学している。予科というのは、自由学園の本科卒業ではなく、通常の女学校(4年間)を出た女子たちが、同学園の高等科へ進学するための教養課程のようなクラスだった。それほど、自由学園の高等科は講義内容のレベルが高く、一般の女学校を卒業しただけでは講義内容についていけないため、1922年(大正11)より高等科の準備クラスである予科が設置されていた。また、高等科卒業生のために、大学の専門課程のような研究科も1923年(大正12)より設けられている。
 当時の女学校の多くは、家政科を中心に「よりよい結婚」と「よき妻」になるための技能習得が目的でカリキュラムが組まれ、相応の教師たちが配置されていた。目白の日本女子大学でさえ、長沼智恵子Click!がそうだったように、家政学があるために親が「大学」と名のつく学校へ入学を許したケースも多い。ところが、自由学園のカリキュラムはまったく異なっており、女性が社会に進出して「職業婦人」になり、自主独立の人生を送ることを前提とするカリキュラムが組まれていた。
 もし結婚するとしても、それは人生のひとつのエピソードにすぎず、あくまでも自身が主体的に生きていくための知識と教養、そして技術を身につけるのが目標だった。したがって、高等科の講師陣には大学教授もめずらしくなく、彼らは大学での講義とさほど変わらない授業内容で彼女たちを教えていた。同年4月、ちょうどこの年はドイツの哲学者イマヌエル・カントの生誕200年にあたるため、高等科では寄宿舎でカント200年記念祭を行い、女学生たちは哲学論文の発表会を行っている。
 4月末の本科生全員による春の遠足は、池袋駅から東部東上線で志木駅まで足をのばし、野火止用水で有名な平林寺まで出かけている。帰りは南側を走る武蔵野鉄道の東久留米駅まで歩き、そこから自由学園が近い池袋駅へと帰着している。従来の遠足が、目白通りから新青梅街道を歩いて井上哲学堂Click!を訪問していた「近足」だったのに比べると、この年はかなりの遠出となった。
 5月に入ると、関東女子軟式庭球大会が開かれ、自由学園は本科1、2年の試合で優勝している。大正末はテニスブームだったので、女学生たちは休み時間になるとテニスコートに走っては熱心に練習をしていた。夕方になると、当時のデビスカップ出場選手だった原田武一、熊谷一弥、安部民雄の3選手が、彼女たちにテニスを教えに来園していた。本科は軟式テニスだったが、高等科は硬式テニスを練習している。
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 6月になると、米国ウェルスレー大学(Wellesley College)の英文科主任教授だったハート教授が来校して講演している。また、同月には北京大学と広東大学から50名を超える学生たちが自由学園を訪問し、それぞれ中国語や英語、日本語によるスピーチ交換会が開かれた。7月10日には、本科と高等科の4ヶ月遅れにあたる卒業式が開催されている。前年の2学期は、関東大震災による被災者の支援活動でほとんど授業ができなかったので、1学期分の授業が1924年(大正13)の7月までずれこんでいたためだ。
 夏休みを迎えると、この年から「夏休み報告書」の作成という宿題が出されるようになった。夏休み中の生活の様子や家族旅行、活動、健康、2学期からの学習についてなど、レポートのテーマはかなり自由で幅が広かったようだ。9月11日に2学期の始業式が開かれた直後から、夏休み報告会が開かれてめいめいのレポートが発表されている。その報告を聞いた羽仁もと子は、1950年(昭和25)に婦人之友社から出版された著作集の『教育三十年』の中で、次のような感想を書いている。
  
 真実な夏休み報告を通して伝わってくる、自由学園に対する世間の眼が、大概は冷たかった。一人一人の家庭においても、同情と反感を相半ばするといってよかった。しかしこの悪評の中にも、私たちの反省させられること、さまざまの意味で深き参考となるものもあった。
  
 大正末、女学生へ高度な教育をほどこし、主体性を身につけさせて自立した「職業婦人」を輩出しようとするような学校が、「世間」から好評で迎えられるはずはなかった。女は経済的に男に頼り、「家」を継ぐ子どもを生んで育てる一生があたりまえで常識だった時代に、教育分野の保守勢力からの攻撃も数多くあったのだろう。また、従来にはない斬新で革新的なことをはじめることで必ず起きる、旧態勢力からの反発や反動も大きかったとみられる。それでも、大正デモクラシーの社会的な思想を反映してか、娘を自由学園へ通わせる家庭は少なくなかった。
 2学期がはじまると同時に、海老茶に白文字で「JIYU」マークがデザインされた七宝焼きのバッジが、学園生全員に配られた。10月に入ると、秋の遠足が催され本科1、2年生は筑波山へ日帰り、本科の高学年と高等科は日光へ2泊3日の旅行に出かけている。また、11月には第2回絵画展覧会が校舎で開かれ、美術教師の木村荘八Click!らが展示作品を選ぶだけで、やることがなく手をこまねいて見ていた様子は、すでに記事に書いたとおりだ。そして、放課後のスポーツの練習など“部活”で帰宅が遅くなる女学生が急増し、家庭からも苦情がたびたび寄せられたため、初めて下校時間が設定されている。
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 この秋、羽仁夫妻の自邸を近くの畑地に移築し、もとの敷地を自由学園寄宿舎に建て替える工事がスタートしている。この工事で運動場がやや広くなり、テニスコートが1面と新たにバスケットボールのコートも新設された。ほぼ同時に、自由学園の学科や教育方針、学園生活などを解説した案内パンフレット(28ページ)を制作し、入学希望者をはじめ各方面に配布している。
 1925年(大正14)の3学期を迎えると、父母の会から寄贈された自転車6台に加え、新たに学園で6台の自転車を購入し、にわかに自転車ブームが起きている。放課後に練習する女子たちが増え、またしても下校時間が遅くなっただろう。そして、次年度の秋の運動会から、自転車行進がプログラムに加わることになった。校舎内では、食堂の中央に書棚を設置し、学園図書館の前身となる図書コーナーが新たに設けられ、図書の貸し出しや返却を管理する図書委員が決められた。
 そして、新学期の開始と同時に、高等科では高田町四ツ家344番地(現・高田1丁目)に住む早大教授の安部磯雄Click!に依頼して、本格的な社会調査の勉強と下準備をはじめているとみられる。高等科2年生を中心に、各戸や商店、企業などに向けた調査趣旨や各種質問票がつくられ、高田町の全戸を対象に配布・調査を実施している。その調査結果はレポート『我が住む町』としてまとめられ、同年5月に自由学園から出版(非売品)され、同時に地元の自治体である高田町町役場へと提出されている。
 そのときの様子を、1985年(昭和60)に婦人之友社から出版された、自由学園女子部卒業生会・編『自由学園の歴史1 雑司ヶ谷時代』から引用してみよう。
  
 安部磯雄先生のご指導で、高田町戸数八〇〇〇の区域に挑戦、高等科二年は一月の末から貧窮調査に当たり、地域全体の衛生設備、職業別の調査には全校生徒が参加した。二月二十六、七の両日、全校を縦に六班に分け、本科一、二年生も一軒一軒歩いてまわった。この調査は後に一〇〇頁のパンフレットにまとめられた。
  
 また、高田町調査を終えた高等科2年生は、卒業を間近にひかえ羽仁もと子とともに関西や九州方面への卒業旅行に出発している。
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 同年の3月21日は、日本で初めてラジオ放送が開始された日で、自由学園の理科(鉱物学)教師だった和田八重造は、さっそく鉱石ラジオを学園内に持ちこんで設置している。夜になると、放送予定の音楽を楽しみに聴きに集まってきた女学生たちは、「本日は晴天なり、只今マイクの試験中」の声しか聞こえてこなかったため、少なからずガッカリしたようだ。

◆写真上:高田町1148番地に建設された、羽仁吉一・もと子邸跡の自由学園寮。ほどなく学園寮は田無町南沢に移転し、婦人之友社の社屋が建設されている。
◆写真中上は、カフェテラスのような自由学園寮の食堂。は、夕暮れの婦人之友社。は、1925年(大正14)3月に行われた高等科2年の卒業旅行。羽仁もと子を囲んでいる女学生たちが、社会調査『我が住む町』を実施したメンバーClick!だ。
◆写真中下は、1926年(大正15)撮影の大谷石の石畳を掃除する本科の女学生たち。は、1926年(大正15)に撮影された学生委員会(自治組織)の委員長を選ぶ総選挙コラージュ。は、1928年(昭和3)に完成した自由学園消費組合の建物。
◆写真下は、1921年(大正10)撮影の山本鼎Click!による美術授業で、大正中期とは思えない少女たちの装いに注目したい。中上は、1926年(大正15)発行の第4回自由学園美術展記念絵はがき『静物』(作者不詳)。中下は、1931年(昭和6)撮影の近衛秀麿Click!新響Click!自由学園女声合唱団Click!による記念写真。このときの演奏は、ベートーヴェンNo.9とマーラーNo.3だった。は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる高田町(大字)雑司ヶ谷(字)西谷戸大門原1148~1149番地の自由学園と婦人之友社。

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「高次の存在」に進化した貞子さん。 [気になる下落合]

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 このサイトをはじめる前から、散歩をしていると下落合駅より歩いて4分ほどの上落合に、「日本心霊科学協会」という団体があるのが気になっていた。同協会は、日本政府ないしは東京都が認可した、いわばおおやけの公益財団法人であり、設立は敗戦直後の1946年(昭和21)だ。1990年代の末ごろ、落合地域の隣りにある井上哲学堂Click!に興味をもち、井上円了Click!の著作などを読んでいたせいか、あるいは深夜ドラマの「TRICK」を観ていたせいで、よけいに気になったのかもしれない。
 同協会の出発点は、英文学研究家で翻訳家の浅野和三郎が、1923年(大正12)に母校近くの本郷に「心霊科学研究会」を創立したのにはじまる。東京帝大で教授だった福来友吉Click!とともに、1928年(昭和3)にロンドンで開催された第3回ISF(International Spiritualist Federation)国際会議に参加し、同会議では登壇して研究論文を発表している。福来友吉は、御船千鶴子Click!長尾郁子Click!、高橋貞子らとともに公開実験を行い、超能力者Click!の存在を証明しようとした学者だ。拙サイトでも、ずいぶん以前に細川邸へとやってきた御船千鶴子のエピソードをご紹介している。
 ロンドンからもどった浅野和三郎は、1929年(昭和4)に心霊科学研究会を「東京心霊科学協会」へと改組し、1936年(昭和11)に死去するまで活動をつづけた。つまり、日本心霊科学協会は原点となった心霊科学研究会から数えると、2020年で創立97周年、戦後の法人化から数えても創立74周年と、公益財団法人の中でもかなり古株に属する団体ということになる。同協会の機関誌「心霊研究」は、スピリチュアリズムを研究する「学術誌」ないしは「紀要」という体裁だが、1947年(昭和22)から毎月発刊されており、その中の1冊をネットで見かけたので手に入れて読んでみた。
 購入したのは、2007年(平成19)に発行された「心霊研究」5月号で、表紙に「ITC~電子機器が開く他界への扉(9)」という記事を見つけたからだ。わたしがITCと聞けば、仕事がらIT Coordinatorをイメージするので、ITコーディネーターがどうして「他界への扉」を開けるのか? それともICT(Information Communication Technology)の誤植?……と興味をおぼえたからだ。ところが、ITCとはデジタル情報通信用語とは関係ない(いや、むしろ関係ある?)、Instrumental Transcommunicationの略称だったのだ。オカルトブームのころ、いまだアナログ通信が主流だった時代の用語でいえば「霊界ラジオ」、いま風にいえば「霊界通信デバイス」ということになるだろうか。
 ITCは、米国の研究者たちが物理的に設計した「霊界」と通信ができる(とされる)専用装置だが、もちろん当時の通信手段はアナログだった。それは、あまりにイカサマ臭い霊媒師や、金儲けのためにサギを働くエセ超能力者、霊媒師と同じようなことをして注目を集めるマジシャン、あるいは「霊界」から伝わった情報へ主観的な脚色をしてしまう降霊術師などが語る「死者の声」を排除するため、霊感のない人間でも「霊界」とダイレクトに通信ができる情報機器を開発しよう……というのが、当初の研究者たちの開発動機だったらしい。また、同様の動きは「霊界」でも起きており、地上の人々と自在に通信ができるような装置を開発していて、その開発プロジェクトチームに加わっているのは、死去する以前に通信技術分野の仕事をしていた技師や科学者たちなのだそうだ。
 「霊界」にいる「スエジェン・サルター博士」の証言をメインに参照しつつ、世界のさまざまな事例を紹介する前述の「心霊研究」に収録された、冨山詩曜・編著『ITC~電子機器が開く他界への扉(9)』から少し引用してみよう。
  
 ホリスターの方も、ハーシュ・フィッシュバッハ夫妻に会いたいと強く希望していて、一九九四年の一月、彼は三人の会合を提案する手紙を書いた。すると、その手紙を受け取ってから一週間もたたないうちに、マギーのもとに霊界の友人であり信頼すべき助言者でもあるタイムストリームのスエジェン・サルターからのファックスが届いたのだ。
  
 同論文は、心して覚悟を決めてから読まないと、とたんに脳みそがクラクラとめまいだけを残していくので要注意なのだが、この時点で「霊界」と地上とはFAX回線、つまりアナログの音声ネットワークによる通信手順でつながっていたことになる。換言すれば、「霊界」でも同様の通信技術の開発に成功していたとみられ、目標とする地上の人物宅に設置されていたFAXへ、無事メッセージを送信できた……ということになるのだろう。
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 ここで留意したいのは、死者が生前の職業を「霊界」でも引きつづき踏襲できるという点だろうか。技術者は、そのまま機器開発の仕事をし、科学者は地上と同じような研究をつづけることができるわけだ。でも、そう考えると「霊界」では大量の失業者が生まれているのを心配するのは、わたしだけではないだろう。地上で仕事をしていた葬儀関係者は、まちがいなく全員が失業だし、病気や事故に対応していた医療関係者や保険業従事者、墓のある寺院の坊主Click!、おカネに関係する仕事をしていたすべての金融・証券業の関係者などは、新たな職を求めて「霊界」ハローワークへ通うことになる。
 ええと、ちょっと脱線しそうなので、話をITC(霊界ラジオ)にもどそう。ITCの課題は、地上のICT(デジタル情報通信技術)の進化が速すぎて、「霊界」にいる亡くなった前世代にあたる技術者や研究者たちのスキルでは追いつかず、ついていけないのではないか?……というような心配はまったく無用で、技術がどのように進歩をとげようが、霊感の強い人物あるいはニセモノではない霊媒師が機器の近くに存在すれば、「霊界」の「高次の存在」ならどのような電子機器(汎用的な機器)を使ってでも通信ができるとしている。
 じゃあ、ITC専用機なんてそもそも不要じゃん!……ということにもなるが、「霊界」でも地上と同様の仕事をつづけている人たち、つまり「低次の存在」(「低級霊」といういい方をする人もいるようで、「霊界」にもどうやら社会科学的な階級観を適用する余地がありそうなのだ)には、どうしても必要だということらしい。同誌から、再び引用してみよう。
  
 彼ら(高次の存在)の意思伝達には人間が理解できないほどたくさんの文字や記号、物理的・数学的な公式が使われる。実際、サルターは「高次の存在たちの知識は、一人の人間の心よりも電子機器を使った方がより正確に受信できる」と述べている。/サルターはまた、高次の存在について驚くべきことはその誠実さである、と言っている。/「彼らはお互いに対して何の隠し事も持ちません。コンピューターの『ネットワーク』のように相互に対話をし、コンピューター・バンクのような速さで情報の交換を行います。もしあなたが一人の高次存在に話しかければ、その他の全ての高次存在が『同時に』その会話の内容を知るのです。(後略)」(カッコ内引用者註)
  
 「コンピューター・バンク」は、コンピュータ・バンキングのことだと思うが、ネット・バンキングの処理スピードがことさら「速い」と感じられていた時代の、「霊界」にいる「サルター博士」の感想だろうか。「高次の存在」の「霊」は、あたかもハイスペック・ハイパフォーマンスのサーバが数千台つながった、ときにスパコンよりも速いHPCクラスタのように超高速の並列処理が可能で、かつ汎用的な通信手段をもっていることになる。
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 さて、ITCにからむ論文を読んでいて気がつく事実は、「霊界」からの通信はアナログ/デジタルのちがいは関係なく(あらかじめD/Aコンバータ機能を装備しているようだ)、また、あらゆる通信規格や通信手順、通信速度、周波数帯域やその制御機能をいっさい無視して成立しているということだ。換言すれば、アナログ音声ネットワーク時代のFAX回線から、デジタル携帯端末の4G/5G(ローカル5G含む)のちがい、EthernetやVPNなどのIEEE802.XX規格やプロトコル、IPアドレスやMACアドレスの有無、1G~100Gbpsと通信速度のちがい、無線LANによるAP(WiFi・WiMAX)の周波数帯とその制御など、まったく考えなくてもいいのがITC(霊界ラジオ)ということになる。じゃあ、「霊界」の技術者たちは、いったいなにを延々と研究開発する必要があるんだよ?……ということになるが、あまり深く考えると頭痛がするのでやめておきたい。
 ここで、福来友吉の名が出ているので、関連深い『リング』(1998年/東宝)の山村貞子さんを例に取りあげてみたい。1990年代の貞子さんは、アナログビデオテープに呪いを念写して、アナログ仕様のブラウン管TVに映像を投影し、犠牲者が呪いのビデオを視聴後はアナログ電話回線を使って情報を伝達(交換局はデジタルPBXかVoIPサーバ?)していた。ところが、21世紀になると貞子さんはインターネットや専用線の別なく、多種多様な無線通信規格を含め、PCだろうがスマホ(PDA)だろうが、デジタル放送のTVだろうがウェアラブルデバイスだろうが、ありとあらゆるエンドポイントの端末を伝って呪いをとどけるマルチプロトコル対応化と、大容量データの輻輳制御に短期間で成功している。つまり、地上で呪いをふりまく「低級霊」のはずだった貞子さんが、いつのまにか「霊界」でも「高次の存在」と同様のコミュニケーション処理能力を備えるにいたったのだ。
 「霊界」にいる「高次の存在」をスカウトすることはできないが、地上にとどまっている貞子さんなら、交渉しだいでは仕事を引き受けてくれるかもしれない。もちろん、巨大なデータセンターにおける各クラスタやセグメントごとに置かれたラックマウントサーバ群向けの、ルータ/ネットワークスイッチの機能および運用管理を彼女に担ってもらえれば、万全なセキュリティ対策が施された史上最強のネットワークインフラを構築できると考えるからだ。D/Aコンバートを意識することなく、またあらゆる通信仕様・手順も彼女は包括しているので、どのような規格の通信にも対応することができる。しかも、貞子さんは「ダウンしない」「死なない」から冗長化が不要で二重投資の必要がなく、彼女は自身で考え判断できる存在なので、あらかじめ高度なAI機能も備えていることになる。
 執拗に繰り返されるDoS攻撃やゼロデイ攻撃、標的型攻撃、大量の迷惑スパム、ワンクリック詐欺、悪質ハッカーなどが入りこめば、たちどころに発信者のモニターから艶やかで美しい漆黒のストレートヘアをヌ~~ッとのぞかせて、複数人を並列処理で同時に呪い殺すことができるのだ。たった一度、呪いのウィルスに感染すれば死ぬまでつづくので、犯罪者は怖くて二度とICTデバイスの側には近づきたくなくなり、ネット環境の安全・安心はこれまでになく柔軟でスムーズかつスケーラブルに実現されるだろう。ただし、恨みがすごく根深そうな貞子さんを、どのように説得してリクルートするかが大きな課題なのだが……。
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 「貞子さん、ぜひわが社のDCへお招きしたいのですが」、「…………」、「月給100万円は保証します!」、「………呪うわよ」、「ご、ごめんなさい! 月額1,000万円でいかがでしょう」、「……もうひと超え」、「案外、しっかりされてますね」、「………死ぬわよ」、「し、失礼しました。では、2,000万円でいかがでしょう」、「……ボーナスは?」、「……10ヶ月分ということで」、「………いいわ」、「では、明日からさっそく出社して……」、「いいえ、井戸の中からテレワークね」、「……い、井戸ワーク、ですか?」、「だって、COVID-19に感染したらどうしてくれるの? あたし、既往症があるから怖いのよ」。

◆写真上:上落合にある、公益財団法人「日本心霊科学協会」本部の正面。
◆写真中上上左は、大正期の撮影とみられる浅野和三郎のポートレート。上右は、同協会が毎月発行する「心霊研究」の2007年(平成19)5月号。は、浅野和三郎の著作で1936年(昭和11)に柳香書院から出版された『心霊から観たる世界の動き』()と、1938年(昭和13)に心霊科学研究会出版部から刊行された『欧米心霊行脚録』()。
◆写真中下は、浅野和三郎の心霊写真。は、散歩していると目立つ「日本心霊科学協会」の本部ビル。は、「心霊研究」の奥付に掲載された案内。
◆写真下は、霊媒師あるいは霊感の強い人物の存在が不可欠な「心霊ラジオ」ケーススタディ。(「心の道場」発行の2000年4月「スピリチュアリズム・ニューズレター」第9号より) は、人間臭さが残るアナログ時代の貞子さん。(1998年東宝『リング』より) は、ゲームのキャラクターのようになってしまったデジタル時代の貞子さん(サマラさん)。(2017年ハリウッド版『ザ・リング/リバース』より)

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