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空襲前に失火で燃えた落合第二小学校。 [気になる下落合]

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 1944年(昭和19)の10月から11月にかけて、陸軍航空隊が撮影した落合地域の空中写真、あるいは1945年(昭和20)4月7日の第1次山手空襲Click!(4月13日夜半)直前に、米軍の偵察機F13Click!が撮影した同地域の空中写真などを、これまでためつすがめつ繰り返し眺めていながら、わたしはうっかり見落としていた。
 東京地方でB29Click!による空襲がスタートするはるか以前から、落合第二尋常小学校Click!が“消滅”していたのだ。いや、それは1944年(昭和19)にサイパン島が陥落しB29が発着する基地が造られる以前から、すでに校舎のほとんどが消えてなくなっていた。厳密にいえば、メインの大きな建物だった中央校舎と、東側の新校舎を含む南へ伸びた細長いウィング校舎のすべて、および同じく西側の南へ伸びるウィング校舎の北半分の建物が消滅している。1944年(昭和19)5月23日(火)に、同校の給食室から出火した大規模な火災で、全校舎の実に4分の3が焼失していたのだ。
 上落合にお住まいの方々や、同地域に関するさまざまな資料から、戦後に落合第二小学校は現在地に移転し、中井駅前の旧敷地には新たに落合第五小学校Click!が建設されたこと、戦時中の同校生徒は零下20℃にもなる群馬県の草津温泉に学童疎開Click!していたこと、上落合地域はほんの一部の例外的なエリアを除き、ほぼ全域が空襲で焼失していることなどは早くから認知しており、また戦後の空襲(延焼)地図や空中写真などでも確認していたが、この火災について触れた証言や資料はこれまで耳に(目に)してこなかった。
 上落合で火事といえば、旧・神田上水沿いの工業地帯だった前田地区Click!で頻発する火災Click!について語られることが多く、落合第二尋常小学校の火災については、ほぼ全焼に近い大火事だったにもかかわらず、これまで知らずにきた。火災の原因が、学校側による失火という「負の記録」だったことも、あまり地域で語り継がれなかった要因だろうか。あるいは、下落合の相馬邸Click!と同様に戦時中の混乱期による記憶の齟齬Click!(相馬邸は日米戦争の以前に解体Click!され、一部がすでに移築されていた)から、「空襲で焼けた」という漠然とした思いこみが作用しているのだろうか。ちなみに、「落合新聞」Click!竹田助雄Click!も1962年(昭和37)8月15日号の紙面に、落合第二尋常小学校の校舎は「戦災で焼失」と書いているので、当時から証言者の記憶が錯綜していたとみられる。
 校舎が焼けて1ヶ月ちょっとで夏休み、そして夏休み明けの9月には草津温泉へ向けての学童疎開、敗戦後にもどってみれば上落合一帯は焼け野原で、焼け残っていたはずの一部の校舎も全焼……という、戦時中の慌ただしい一連の動きや混乱のなかで、記憶の齟齬や希薄化が生じるのは決して不自然ではない。
 では、落合地域で育ち、戦時中は落合第二尋常小学校に勤務していた教師の証言を聞いてみる。1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会が発行した『新宿に生きた女性たちⅢ』所収の、大野初枝「小学校校長から教育委員へ」から引用してみよう。
  
 下谷に二年間通いましたが、一九四四(昭和一九)年四月に母校の落合第二小学校へ転勤しました。ところが、赴任早々の五月二三日に学校の給食室から火が出て四分の三が焼けてしまい大変でした。/さらにそのころ、学校からも男性教師たちが何人か召集されてしまい、歯が抜けたようになってしまいましたので、私は早速六年生の担任でした。/同年七月には学童疎開が決定され、落合第二小は夏休み中に準備をして、九月に三年生以上のクラスが草津温泉に向けて出発しました。年明けには一、二年生も疎開しました。(中略) ところが、ほっとするのも束の間、五月二五日の空襲で学区域が全部焼けてしまい、塩野先生のお宅や「伸びる会幼稚園」のあたりが二、三軒だけ焼け残りました。もちろん落合第二小学校は全部燃えてしまいました。/終戦後の一九四五(昭和二〇)年の一〇月一日、疎開を終えみんなで帰京しましたが、児童と教材とともに落合第四小に居候して、続いて落合第一、第三にも居候しました。
  
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 証言者の大野初枝という方は、1921年(大正10)に上落合で生まれ、新宿区地域女性史編纂委員会によるインタビューが行われた1996年当時は、中井(旧・下落合4丁目)に住んでいた。落合第二尋常小学校には1928年(昭和3)に入学し、そのまま病気もせず順調に進学したとすれば1934年(昭和9)に卒業しているのだろう。
 彼女の生家は、「上落合と東中野の境にある道路脇のちょうど馬の背のような感じのところ」と証言しているので、おそらく丘陵地を掘削した街道筋(現・早稲田通り)に近い、大正期には小高い土手が北側の通り沿いに連なっていた、江戸期からつづく鶏鳴坂Click!の近くではないだろうか。そのあたりから、当時の落合第二尋常小学校までは直線距離で400mほどなので、徒歩7~8分で通学できただろう。
 当時の尋常小学校は国語、算術、理科、地歴、修身、体操、音楽、手工の8教科で、手工の裁縫の授業のみ専門の教師が呼ばれていたようだ。小学校は妙正寺川に面した低地にあり、大雨が降るとすぐに洪水騒ぎになった。学校の前には金魚屋があり、雨が降ると貯水槽の水が妙正寺川まであふれてしまい、小学生たちは金魚すくいをして楽しんでいたという。彼女が入学したころは、妙正寺川の浚渫・護岸工事がなされておらず、河畔から川に手をつっこんで魚に触ることができた。川の周囲には、シイやカシの樹木が多く繁り、「葦ばかりの中に学校が建っていた」ような状況だった。
 最後に「塩野先生」が出てくるが、以前に証言をご紹介している落合第二小学校で洋装女教師第1号だった鹽野まさ子(塩野まさ子)Click!のことだ。時期的にみて、大野初枝は鹽野まさ子の教え子のひとりなのだろう。
 また、「伸びる会幼稚園」は鹽野邸から南へ100mほどのところにある戦後に創立(1949年)された幼稚園だ。同幼稚園のある一帯は空襲で全焼しており、焼け残ったのは伸びる会幼稚園のある鶏鳴坂から西へ150mほどのところ、上落合2丁目583~585番地に建っていた緑が濃い住宅街の一画のことだろう。
 彼女は、「五月二五日の空襲で学区域が全部焼けてしま」ったと証言しているが、確かに上落合のほぼ全域が空襲の延焼で消滅している。だが、かろうじて焼け残った屋敷林に囲まれた家々や、空き地などで延焼をまぬがれた家々が、戦後の空中写真でもわずかながら確認できる。以前から、下落合の焼け残った家々や街角はご紹介してきているので、機会があれば上落合の被災状況についても書いてみたい。
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 昭和初期に見られた早稲田通りあたりの風情と、小学校の様子を引用してみよう。
  
 昭和初期には、街道(早稲田通り)沿いに家が並び、畑ももちろんありました。小滝橋から中野へ行く通りがいち早く発展しましたが、馬車が馬糞を道路にまき散らしているような状況でした。(中略)/日常の買い物は、大根など野菜は下肥を取りにくる人が持ってきてくれましたが、お菓子類などは自転車でやってくるご用聞きに注文しました。仕切ってある重箱にかりん糖や甘納豆などのお菓子の見本を入れて、朝方注文を取りにきて午後商品を持ってくるというやり方でした。呉服屋さんもご用聞きで、豆腐、納豆などは天秤棒で担いで売りにきていました。そのうち市場もできました。(中略)/昭和初期の頃は不景気な時代でして、一、二年生のころはまだ石版と石ろうを使い、母が石版消しを布で作ってくれました。その後は鉛筆を使うようになりました。子どもたちの半分ぐらいは着物を着て登校していました。農家の人は絣や木綿の縞の着物を着て、勤め人の家の子は洋服を着ていました。/そのころ、学校へ弁当を持っていけない子どもが少なからずおりました。近所の東京ゴムの会社が不景気だったころで、欠食する子どもは昼になるとどこかにいなくなってしまいました。たまに弁当を持ってきても蓋をかぶせてこっそり食べたり、せっかくのおかずの塩鮭を食べないでもって帰るような生活をしている子どももいました。/一クラスは五〇人くらいでした。高学年になると、進学希望の児童は放課後学校に残って、夕方遅くまで受験のための補習を受けました。(カッコ内引用者註)
  
 彼女は、1927年(昭和2)の金融恐慌が起きた翌年に入学し、それにつづく未曽有の世界大恐慌Click!の真っただ中で小学校時代をすごしている。
 文中には、上落合の前田地区にあった大規模な工場のひとつ、堤康次郎Click!が経営を手がけた東京護謨工場Click!が登場しているが、同社に勤める家の子に欠食児童が多かったのは、もちろん大恐慌のせいもあったのかもしれないが、昭和初期に起きた同工場の大火災も大きな影響を与えていたのではないだろうか。同工場に勤める工員の間では、給料の遅配・未払いや一時解雇の問題が起きていたのかもしれない。
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 大野初枝は、1942年(昭和17)から教員生活をスタートしているが、池之端の下谷区立忍ヶ岡小学校(現・忍岡小学校)時代の2年間を除き、残りの38年間は落合地域をはじめ新宿区内の小学校に勤務していた。その後、新宿区の教育委員を4年間つとめている。

◆写真上:落合第二小学校跡に建つ、落合第五小学校の東側に建設された体育館。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる東側ウィングに新校舎が竣工して間もない落合第二尋常小学校。は、生徒数の急増で増築に次ぐ増築を重ねた同校の東側ウィング。1932年(昭和7)の撮影だが、この直後に大きな新校舎が東側ウィングに竣工している。は、1935年(昭和10)ごろに斜めフカンから撮影された同校と校舎の焼失部分。
◆写真中下は、1944年(昭和19)10月16日の空中写真にみる火災5ヶ月後の同校。敷地の左手に、焼け残った西側の校舎が見える。は、1945年(昭和20)4月7日の空中写真にみる空襲48日前の同校。は、戦後の1948年(昭和23)の空中写真にみる同校。
◆写真下は、妙正寺川に面した落合第二小学校の旧敷地に建つ落合第五小学校。は、鶏鳴坂の現状で右手が伸びる会幼稚園の塀と建物。は、昭和初期に撮影された妙正寺川の氾濫。左手が西武線で、右手が落合第二尋常小学校の校舎。

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棒打ち歌が流れる西落合の初夏。 [気になる下落合]

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 下落合や上落合の物語やエピソードは、過去にずいぶんご紹介してきているが、葛ヶ谷(のち西落合)の記事は相対的に数が少なめだ。葛ヶ谷(西落合)地域の耕地整理が進み、人々が多く住みはじめたのが昭和10年代以降なので、それまでは東京近郊の典型的な農村だったせいなのだが、西落合にあった斎藤牧場Click!の証言につづき、たまには同地域に拡がる農村をテーマにした記事を書いてみたい。
 ずいぶん以前に落合地域の西隣り、野方町上高田の農村風景Click!について、いくつか記事Click!にしたことがあったけれど、落合町西落合での農村生活もかなり似たような状況だった。大正期から昭和初期にかけ、そこで語られているのは農作業のたいへんさや辛さであり、肥料(下肥など)のたいせつさであり、年一度の村祭りの楽しみであり、さまざまな講の寄り合いであり、落合名産のダイコンClick!沢庵漬けClick!、そして「落合柿(禅寺丸)」Click!という秋の味覚だった甘いカキの話だ。
 1926年(大正15)に落合町葛ヶ谷で生まれた伊佐孝孔という方は、大江戸(おえど)期から250年ほどつづいていた地元の古い農家で育っている。1959年(昭和34)までそのまま建っていた屋敷は、戦災にも焼けずに大江戸の文政年間に建てられた茅葺きの寄棟造りだった。屋根を葺く茅が手に入らなくなり、同年に解体されて新たな自宅を建設している。子どもが12人もいる大家族の中で育ったが、長男は戦死し二男は事故死して、三男の彼が家業を継ぐことになったようだ。
 耕作地は、新井薬師のほうに地主がいたようなのだが、かなり広い土地を借りていたらしく内証は比較的豊かだった。ただし、農作業の手伝いは小学校高学年のころからはじめており、高等科(高等小学校)の2年生になると生産物を淀橋市場へ卸しにいくときは、父親が引く大八車Click!の後押しをしている。当時の様子を、1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会から発行された『新宿に生きた女性たちⅢ』収録の証言記録、伊佐孝孔「農場に生きた母の思い出」から引用してみよう。
  
 下肥は昭和の初めまでは、お金の代わりに空の桶に菜っ葉とか茄子のせて、主に神田方面に汲み取りに行ってたね。現物支給だね。今日は江戸へ行ってくるよってね。(中略) 金肥も使ったね。ホシカ(干した鰯の粕)は俵でおじいさんが長崎(豊島区)から買ってきてさ。臼で細かくひいたものを使ったんだよ。それに藁を細かく切ったものとか糠とか混ぜて「マゼ」っていうのを作ったんですよ。それをコイマっていう肥料小屋に入れておくんです。/それと肥溜めが二つあったの。三畳ぐらいの大きさで真ん中に角入れて厚い板渡しておくの。下肥入れるときはその板はがすんですよ。(中略) 「マゼ」や落ち葉の上にお風呂の水かけて発酵させるの。農家はみんな鶏飼ってるでしょ。その鶏糞を茄子にやると真っ黒いいい茄子になるの。さつま芋には糠と藁灰やると甘いのができるんですよ。胡瓜、とうがんはホシカが効くね。
  
 うまい郊外野菜を作るには、いかに肥料が重要なのかがわかる証言だ。ただし、下肥で育てた野菜を食べると、必ず腹に回虫がわくので定期的に「海人草」という虫下し薬を飲まされた。まずかったようで、飲むと褒美にドロップがもらえたらしい。
 昭和10年代になっても、東京市街地へ出かけるときは昔ながらに「江戸へ行ってくるよ」というのが慣例だったようだ。まるで、佃島Click!住民たちの口ぐせのようで面白い。
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 毎年11月になると、畑から大量の落合ダイコンを抜いてきて洗い、荒縄で10本ずつしばって、空き地に材木で組んだ干し場にかけるのが恒例だった。夜は凍らないように菰(こも)をかけ、朝になると菰をとって干す作業を1ヶ月間もつづけている。最盛期には米国のハワイまで輸出していた、落合地域恒例の沢庵漬けの仕込み作業だ。多いときは伊佐家だけで、ダイコンを四斗樽に100樽ほども漬けていたらしい。
 塩はかます(蒲簀)単位で買い、100俵ほど使う糠は椎名町Click!の米屋あるいは糠屋に注文している。沢庵漬けは、年内に出荷するのが甘塩、長く漬け保存食として出荷するのが辛塩と、2種類を製造していた。当時の沢庵漬けは、製品として仕上がる前にブローカーが買いつけにきて、漬け樽に紙の買約済みマークを貼って歩いたそうだ。落合地域の買約は「桜」マークが多く、陸軍への納品が多かった。
 伊佐家では、米作りは大正期でやめており、昭和初期はおもに麦や前栽物(野菜のこと)の作つけをしていた。主要な野菜は、ナスにトウガン、トウモロコシ、サントウナ、カボチャ、キュウリ、トマトなどだった。年間を通じての農作業スケジュールを見ると、西隣りの上高田とほぼ同じようなサイクルだったのがわかる。1月から2月の仕事は、ほぼダイコンの栽培にあてられ、苗床づくりが行われる。苗を板で囲い、そこへ麦殻や切り藁を入れて保温し、夜になると霜が降りないよう上から障子紙に油紙を貼ったものをかける、たいへん手間のかかる作業だった。冬から春にかけては、前述した近郊野菜類を育てる。
 麦秋(5~6月)になると、麦刈りのあとの「ぼうち(棒打ち=脱穀)」作業が待っている。5~6人がクルリ棒を使い、棒打ち歌を唄いながら脱穀作業を進める。以前、隣りの上高田に伝わる麦刈りあとの棒打ち歌Click!をご紹介しているが、落合地域でも同じような歌が唄われていたのだろう。秋になると、落合地域の名産だった「落合柿(禅寺丸)」の収穫がはじまるが、伊佐家では自家で食べるため出荷はしなかったようだ。
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 市場への出荷の様子を、『新宿に生きた女性たちⅢ』から再び引用してみよう。
  
 朝荷出すのは一時か二時ね。おふくろも起きて提灯つけて送りだすのね。早稲田へ行くことも神田へ行くこともあったね。朝飯は食べないで、向こうへ行ってから安い丼飯食べたようだよ。牛車とか大きなリヤカー使うから、目白坂とか急な坂道では、立ちんぼに二銭か三銭で押してもらうこともあったって。/地物は夜市にだすのね。長崎の「山政」っていうのに出してたよ。新田の千川通りにもあったね。小さな市場は廃止になっちゃって、昭和一四年に公設の淀橋分場(市場)に行くようになったの。/おじいさんが葛が谷の政五郎だから、屋号は「葛政」で通してたの。「葛政」の品はものがいいから、いい値がついてよく売れたよね。仕切りがすんで帰るのは夜九時半か一〇時頃ね。空の荷車引いて帰るの。仕切りがいいと親父はちょっと一杯って飲んで帰るの。帰ると仕切りを神棚のおえべす様(恵比須様)に上げてポンポンって両手合わせると、全部おばあさんが取り上げちゃうんだって。
  
 この証言の中でも、荷を積んだ大八車やリヤカー、ときにはトラックを見かけると、目白坂Click!の下にいて「押しましょう、押しましょう」と声をかける数人の“押し屋”Click!が登場している。卸し先の「早稲田」とは、市電早稲田車庫Click!の裏(南側)にあった、早稲田大学キャンパスの西北隣りにあたる早稲田市場のことだろう。「仕切り」は売上げ金のことだが、東京郊外でも女性が家内をとり仕切っていた様子がうかがえる。
 また、「山政」とはダット乗合自動車Click!(のち東環乗合自動車Click!)が走る目白バス通り(現・長崎バス通り)にある、長崎町の山政マーケットClick!のことだとみられ、昭和初期には千川通りにも同マーケットが開場していたようだ。あるいは、千川通りのマーケットのほうが先で、目白バス通りはあとから建設されているのかもしれない。拙ブログでは、小川薫様Click!の証言で目白バス通りに面して寄席「目白亭」Click!の跡地に建てられた、現存する山政マーケットが何度も登場している。
 家に蓄えの現金が少なくなると、農作業の合い間に、あるいは不作で現金収入が少ない年など、葛ヶ谷の農家では手間稼ぎ(出稼ぎ)がよく行われた。多くの場合、2月から3月にかけての農閑期に出かけ、おもに榎町や鶴巻町の植木屋でのアルバイトだったらしい。関東大震災Click!から昭和初期にかけ、東京の西郊では住宅地が急ピッチで造成されていた時期にあたり、庭に植える植木の需要は急増していただろう。ときには、地元の街の公共事業(道路普請や下水工事など)での土工アルバイトもあったようだ。
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 葛ヶ谷(西落合)は古くから自性院Click!があるせいか、真言宗豊山派の念仏講が盛んだったらしく、伊佐家に限らず同地域の証言には夜通し行われる同講が登場する。それほど信心深い地域だったのかというと、実はそうではなくて年寄りたちの井戸端会議場になっていたフシが見える。念仏講の参加者には年配者が多く、念仏が終ったあとはご馳走や菓子類が各家庭でふるまわれ、それを食べながら徹夜でおしゃべりを楽しむのが恒例だったようだ。

◆写真上:念仏講が盛んだった葛ヶ谷(西落合)にある、真言宗豊山派の自性院山門。
◆写真中上は、戦後間もないころに撮影された住宅と農家、畑地が混在する西落合の風景。は、大正期には落合地域のあちこちで見られた大根干し。
◆写真中下は、収穫期である麦秋(5月ごろ)の麦畑。は、収穫した麦を脱穀する棒打ち(ぼうち)作業の様子で家族総出で行う重労働だった。1982年(昭和57)に出版された、『ふる里上高田の昔語り』(いなほ書房)の挿画より。
◆写真下は、「落合柿」とも呼ばれた地元を代表する甘い禅寺丸。は、モダンな住宅と藁葺き屋根の農家が対照的な西落合の畑地。は、現在はシャッターが閉まっていることが多い長崎バス通りに面した「夜市」の山政マーケットの現状。

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「洋服になっておくれ」の落合第二小学校。 [気になる下落合]

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 西武線・中井駅の南側、妙正寺川の河畔にあった上落合745番地(のち2丁目763番地)の落合第二尋常小学校Click!へ、初めて洋装で出勤した女教師の証言が残っている。大正期が終ったばかりのころ、1927年(昭和2)のことだ。
 落合第二小学校は戦後、旧敷地から南東へ約340mのところ、上落合472番地の大きな野々村金吾邸Click!(戦時中は憲兵隊詰所)の跡へ移転しており、現在、中井駅前の旧敷地には落合第五小学校Click!が建っている。戦後すぐのころ、子息を落合第二小学校へ通わせていた上落合470番地の吉武東里邸Click!から、「落二小学校の再建のために」と屋敷の大谷石が贈られていることは、8年ほど前に記事Click!に書いた。大量の大谷石Click!はいま、落合第五小学校の校庭でていねいに保存されている。
 落合第二小学校へ、初めて洋服を着て出勤した女性教師は鹽野まさ子(塩野まさ子)という方だが、彼女は旧姓の黛まさ子という名で同校に勤務している。もともとは長野県野沢の出身だが、群馬県の女子師範学校を卒業してそのまま群馬で教師になり、やがて結婚して東京にやってくると、信州の小学校で習った恩師に再会している。その恩師が、1927年(昭和2)現在の落合第二尋常小学校の校長だったという経緯だ。
 この校長とは、落合第二小学校が創立された1925年(大正14)3月28日以来の、初代校長・駒村德壽だとみられる。そして、上落合の急激な児童数の増加に対応するため、教え子で教師になっていた黛まさ子を同校へ勧誘したのだろう。同校の創立当初の様子を、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 震災後膨湃として起り来つた人口の増加に伴ひ、学校増設の必要に迫られ、大正十三年度予算に於て金七万円を計上し、同年夏起工、翌十四年一月竣工、同年一月八日より同三月末に至る間、落合尋常高等小学校(のち落合第一尋常高等小学校で現・落合第一小学校)の分教室として校舎使用、同年三月二十八日(駒村德壽)学校長任命、同四月一日初めて尋常科第一学年の入学式を挙げた、当時尋常科各学年共に二箇学級計十二学級、在籍児童数七百六名、職員十四名、使丁二名、通学区域を上落合全部、葛ヶ谷全部、下落合中井西部、氷川神社附近に及んだ。(カッコ内引用者註)
  
 当時の落合第二尋常小学校は、上落合を中心とした地域だけでなく、現在は中野区になっている上高田の氷川社方面まで生徒を集めていたのがわかる。
 創立時から、いきなり706名の生徒数で全学年12学級もできれば、教師集めはたいへんだったろう。文中に登場している落合尋常高等小学校でも、教師不足が深刻化していた時代だ。なお、駒村德壽は1932年(昭和7)5月に他校へ転任するまでの7年間、落合第二尋常小学校の初代校長を勤めている。ちょうど、『落合町誌』が書かれた1932年(昭和7)秋には、2代目校長の三橋和也が就任したばかりだった。
 1927年(昭和2)のある日、駒村校長は若い女教師4人を校長室に呼ぶと、「頼むから洋服になっておくれ」と彼女たちに靴下を配っている。東京の市街地では、女教師の洋装はめずらしくなくなっていたが、郊外の落合地域ではいまだ和装が主流だったのだろう。当時の女教師は紫紺地の銘仙あたりに袴をはき、女子師範学校時代とたいして変わらない服装をしていた。だから、体育の時間などは着物の袂(たもと)を小脇にはさんで襷(たすき)がけにし、いかにも動きにくそうな姿で児童たちと駆けまわっていたが、腕を振りまわす球技などはできなかった。駒村校長はそれを見ていて、いかにも時代遅れな光景に見えたのだろう。
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 黛まさ子は靴下を受けとると、さっそく東中野にあった米国人夫妻が経営する洋品店へ出かけているが、他の3人の女教師はそのまま和装をやめなかったようだ。そのときの様子を、1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会から発行された『新宿に生きた女性たちⅢ』所収の、塩野(鹽野)まさ子「洋装の女教師として」から引用してみよう。
  
 三人の女の先生たちは、靴下だけもらって帰ってしまったの。私は小学校の恩師でしょ。とてもそんなことは出来ないので「頂戴します」といって家に帰り、主人に話すと「そりゃそうだよ。男性はズボンをはいているし体操もしやすいが、袴じゃそうはいかないからね。じゃあこれから、東中野駅の近くの洋装店にいって、頼んでみよう」と言って私を連れていきました。/アメリカの夫妻が経営していて、そこでブラジャーとかコルセットを覚えたの。そして「洋服は全部うちでやりますが、帽子と靴は横浜から取り寄せますからお待ちください」と言われました。/その後一〇日たっていきましたら、ちゃんと洋服が出来ていました。洋服屋さんもよく似合うとほめてくれましたの。その足で学校にいったら、学校中「ワアー」と歓声があがり、先生も子どもたちも拍手してくれました。洋装第一号だったわけです。/何年かたって、その外国人夫妻がいなくなり、その後は伊勢丹のデザイナーに頼みました。教師なので、動きやすく着やすい洋服を仕立ててもらいました。
  
 目白文化村Click!ができた1922年(大正11)の当時、洋装の婦人が下落合の近所を出歩くと奇異の目を向けられていたころ、あるいは1923年(大正12)に上落合186番地へ村山知義Click!三角のアトリエClick!を建設し、村山籌子Click!が洋装で買い物に出かけると子どもたちがゾロゾロついてきた時代から、わずか4~5年しかたっていないにもかかわらず、落合地域では子どもたちが歓声をあげて拍手するほど洋装が浸透し、それほど奇異な姿でなくなっている様子がうかがえる。
 文中に登場する、東中野駅の近くにあった米国人夫妻が経営する腕のいい洋品店については、いつか壺井栄Click!ないしは佐多稲子Click!のエッセイでも読んだ記憶がある。上落合や上戸塚(現・高田馬場3~4丁目)に住んでいた人たちたちが、よく利用した洋品店だったのだろう。その後、黛(鹽野)まさ子は新宿伊勢丹へのオーダーメイドではおカネがかかりすぎるため、自分で洋裁をして着るものをこしらえている。
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 当時の落合第二尋常小学校の様子を、同書より再び引用してみよう。
  
 昭和の初めごろの学校の前は、田んぼで水車小屋があったの。妙正寺川の水で染め物やさんが染め物を流しながら洗っているのはきれいでしたよ。/学校のクラスは男子組、女子組、男女組とあり、私は男女組に向いているといわれて受け持ちました。/生徒のなかに体操が得意でいつも威張っていて、体操の苦手な子を泣かせてばかりいる子がいました。/「さあ、きょうは鉄棒の前転をしましょう」と言うと、いつも威張っている子は、鉄棒が苦手で前転が出来ないんです。一方、いつも泣かされてばかりいる子がとても上手に出来たので、みんなに「うまいぞ うまいぞ!」と拍手されたの。泣かされてばかりいる子も自信がついたと思うんですよ。/日ごろの子どもたちをみて、先生の配慮が大切なんだと思いましたよ。私は常に平等に教育をしなければと思って教員生活を続けてきました。
  
 文中の「水車小屋」は、落二小から妙正寺川に沿って西へ60mほど離れたところにあった、バッケの水車Click!がまわる小屋Click!のことだろう。このあと、設立されたばかりの落合第三尋常小学校へ転勤した鹽野まさ子は、途中で戦争をはさみ、戦後は戸塚第一小学校に18年勤務し、都合39年間を落合地域と隣接する戸塚町で教師をつづけている。
 1927年(昭和2)に、群馬県から上落合に転居してきて以来、1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会からインタビューを受けるまで、上落合の同じ家に住みつづけているが、その自宅は上落合郵便局の裏(南東側)にあった、上落合667番地(のち2丁目667番地)の鹽野(塩野)邸ではないだろうか。そして、鹽野邸の南西側には周辺の目印となるような、大きなケヤキが繁っていたにちがいない。
 拙サイトを読みつづけてこられた方なら、すでにこの地番にはご記憶があるかもしれない。新婚早々だった、上野壮夫Click!小坂多喜子Click!が1930年(昭和5)から3年間ほど住んだ借家Click!の、きわめて近所だったことがうかがわれる。
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 1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲で、自宅前に生えていたカキの木に落下した焼夷弾が枝葉にあたり、飛び散った破片が顔面をかすめて額を負傷したあと、鹽野まさ子は中井駅のある下落合方面へと避難している。彼女は学童疎開に同行せず、残留組の生徒たちを指導していた。幸い彼女が住んでいたとみられる上落合667番地の一画は、奇跡的に延焼をまぬがれ小島状に焼け残っているのが、戦後に撮られた空中写真で確認できる。

◆写真上:妙正寺川に接して、現在は落合第五小学校が建つ落合第二尋常小学校跡。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる落合第二尋常小学校。は、1932年(昭和7)に撮影された同校校舎。校舎は空襲ではなく、1944年(昭和19)の失火によって4分の3を焼失している。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同校周辺。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に撮影された落合第三尋常小学校。は、落合第三小学校の現状。は、『落合町誌』の同校欄に掲載された教員名簿にみる鹽野まさ子。
◆写真下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる上落合667番地。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる鹽野邸あたり。は、鹽野邸があった界隈の現状。

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下落合に住んだ国際平和運動家・上代タノ。 [気になる下落合]

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 上代(じょうだい)タノの名は、旧・小石川区(現・文京区の一部)側の目白界隈にお住まいの方ならご存じだろう。昭和初期から、日本女子大学Click!の英文学部を牽引し、戦後は1956年(昭和31)から1965年(昭和40)まで同大学の学長をつとめた人物だ。日本で初めて、アメリカ文学の講義を行なったことでも知られている。
 また、大正期の上代タノは新渡戸稲造Click!とともにジュネーブで国際連盟の仕事をして、新渡戸から東京女子大学Click!の創立に加わるよう求められるが、迷ったあげくにその誘いを断って成瀬仁蔵への恩義から日本女子大へ復職し、戦後は1947年(昭和22)から国際連合への加盟活動に参画して、湯川秀樹や平塚らいてふらとともに世界平和アピール七人委員会を創設、1982年(昭和57)に死去するまで国際平和へ貢献しつづけた女性だ。
 したがって、国際平和運動の活動家として、また戦時中でも軍部の圧力に屈せず、英語教育をやめなかった日本女子大学の英文学部(戦時中は軍部の命令で格下げされ、外国語学科に改名させられた)の教授および学部長、そして同大の学長として、彼女の名前はその分野ではあまりにも有名だ。また、彼女は海外、特に米国では知られており、戦時中に強制収容された日系米国人の女学生支援に、米国の女子大学が立ちあがっているのも、留学していた上代タノの存在が大きい。
 上代タノは、1886年(明治19)に島根県で生まれている。松江市高等女学校(現・松江北高等学校に包括)を卒業すると、一時は地元の小学校で教鞭をとっていたが、両親の勧めで東京の日本女子大学校英文学部予科に入学している。同大学の家政部Click!ではなく、両親の推奨で英文学部に進学することは、当時の女性に対する保守的な教育環境を考えれば、特に地方においては例外的な出来事だったろう。
 彼女は入学と同時に、日本女子大キャンパスの学内寮「鳳泉寮」ではなく、英国聖公会福音宣教協会のエリス・フィリップス宣教師(当時は英文学部教授)が経営する、雑司ヶ谷にあった外寮「暁星寮」に入寮している。学内寮の「鳳泉寮」では管理やしつけが厳しかったが、外寮「暁星寮」は規則がゆるく比較的自由で、しかも洋食が主体で英語を教えてもらえる、英文学部の学生たちにとってはあこがれの寮だったようだ。
 1906年(明治39)に、彼女の保証人だった東京日日新聞の河井酔名が月刊『女子文壇』を創刊することになり、上代タノはその編集部でアルバイトをしている。おもに原稿を取りにいく仕事だったが、そのうち自分も同誌に投稿するようになった。また、取材やインタビューなどに同行するようになり、日本女子大設立理事でもあった女学生大好きヲジサンの大隈重信Click!をはじめ、小日向台町Click!の新渡戸稲造、鶴見祐輔、前田多門らと親しくなっている。渋沢栄一の通訳アルバイトをしていたのも、この時期のことだ。
 上代タノ(23歳)は、1910年(明治43)に日本女子大を卒業すると、同大英文学部予科で英語教師になると同時に、学長の成瀬仁蔵が新渡戸稲造や浮田和民とともに創刊した英語雑誌『Life and Light』の編集事務をまかされている。彼女が、成瀬学長の秘書のような仕事をするようになったのもこのころからだ。だが、彼女はさらに上級の学校へ進学することを考えるようになっていた。
 当時の大学制は、女子の進学をまったく認めていなかったので、彼女は海外留学を真剣に考えるようになる。東北帝国大学が、日本で初めて女子学生Click!を受け入れたのは、もう少しあとの1913年(大正2)のことで、しかも理学系の学部のみだった。文部省の官僚が対応に頭を抱えるなか、下落合2080番地の金山平三Click!と結婚する牧田らくClick!が、東北帝大の数学科に通っていたのもこのころだ。北海道帝国大学が女子の予科生を認めたのが1918年(大正7)、早稲田大学が女子聴講生を解禁したのは1921年(大正10)のことであり、上代タノの時代はいまだ上の学校で学ぶことができなかった。
 1912年(大正元)に、彼女は米国ニューヨーク州のウェルズ女子大学英文学科に入学し、1917年(大正6)にM.A.を取得して帰国すると、親しい新渡戸稲造からさっそく東京女子大学の創立に誘われている。だが、成瀬仁蔵への恩義からそれを断り、日本女子大の英文学部教授に就任すると、ほぼ同時に新渡戸稲造の国際問題研究会へ参加しており、国際平和運動に興味をもちはじめたのもこのころからのようだ。つづいて、井上秀や羽仁もと子Click!らとともに婦人平和協会を結成したあと、1924年(大正13)にミシガン大学大学院に留学、翌年には英国のケンブリッジ大学ニューナム・カレッジへと留学している。
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 この間、英国をはじめヨーロッパ各国の教育状況や施設を視察してまわり、WILPF(婦人国際平和自由連盟)の第5回総会には日本代表として出席・講演した。次いで、ジュネーブの国際連盟事務局で事務次長だった新渡戸稲造とともに、同連盟の仕事をこなしている。上代タノは1927年(昭和2)、新渡戸夫妻とともに帰国すると日本女子大の英文学部長になるが、同時にさまざまな執筆活動を行なうようになる。
 ケンブリッジ大学から帰国したあと、上代の講義を受講した女学生たちの証言が残っている。2010年(平成22)にドメス出版から刊行された、島田法子・中嶌邦・杉森長子共著『上代タノ―女子高等教育・平和運動のパイオニア―』から引用してみよう。
  
 国文学部二七回生の白鳥喜代は次のように回想している。「上代タノ先生……の印象は今でも強く残っております。学生の憧れの的でしたから。あの日、先生は講堂から築山を通って、校庭を颯爽と下りてこられたのを目の当たりにしまして、私はそのお姿や歩き方に見とれてしまいました。留学から帰られたときでしたからワンピースの色まで覚えております。それはシックなグリーン、そして胸に大玉のヒスイの、ながーいネックレスをつけられて、素的(ママ)な先生でした」と。留学から戻った上代は、ハイカラなお洒落にもさらに磨きをかけ、女子学生のロール・モデルとして颯爽と活躍したようである。(中略) 高等学部第二回生の長沢ふさは当時を回想して、「女子大時代超一流の先生方に巡り合ったことを後に思い起こすと、なぜ講義をしっかり聞いておかなかったのか悔やまれます。アメリカから帰っていらしたばかりの上代タノ先生にも習いました。あの方は真っ直ぐな、情熱的な方でした。学生の指導もその人の特質と将来を見越してされ、翻訳の仕事を与えられてそれが生涯の仕事となった人もいます」と述べている。
  
 上代タノが下落合に住むようになるのも、ちょうどこの時期だ。文中にも登場しているが、当時の日本女子大では文部省の認可を受けた総合大学化をめざしており、高等学部(大学予科)が設置されたばかりだった。
 上代が担当した講義は、「近代アメリカ文学」と「1870年以降の英文学批評」の2テーマだった。早稲田大学にアメリカ文学科を設置するために、大隈重信のアドバイスで日本女子大に蓄積されている膨大な図書や資料を閲覧しに、早大文学部の教授や学生たちが目白崖線の豊坂をのぼって、頻繁に通ってくるようになるのもこの時期のことだ。また、上代タノは大学の国際化にも力を入れ、日本女子大内に国際連盟協会学生支部を設立している。
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 1933年(昭和8)10月に、恩師で東京における父親のような存在だった新渡戸稲造が他界すると、おそらく悲しみからの気分転換のつもりだったのだろう、翌年から下落合へ転居してきている。残念ながら『落合町誌』(1932年)が刊行された直後のことであり、彼女が下落合のどこに住んでいたのか具体的な住所は不明だ。
 おそらく、日本女子大英文学部の10年ほど後輩で、同じく婦人平和協会に参加していた、和田富子(高良とみ)邸Click!の近くではないかと思われるが、それについては改めて記事に書いてみたい。目白通りをまっすぐ東へたどり、竣工したての千登世橋Click!をわたって日本女子大へ通勤するには、下落合東部の目白駅寄りが適するだろうか。
 下落合で暮らしていた間に、彼女は研究社から出版されていた英米文学評伝叢書の第41巻『リー・ハント』を執筆し出版している。その執筆中に、東京では陸軍皇道派が起こした二二六事件Click!が勃発し、日本とドイツとの間で日独防共協定が締結されている。破局へと向かう世界戦争の時代が、もうすぐそこまで迫っていた。
 上代タノが日本女子大へ入学したころ、同大キャンパスの様子をルポした磯村春子Click!の訪問記事が残っている。彼女の取材目的は学内寮「鳳泉寮」のほうで、上代タノがいた雑司ヶ谷の外寮「暁星寮」でなかったのは残念だが、当時の同大キャンパスの雰囲気をよく写しているとみられる。1913年(大正2)に文明堂から出版された、磯村春子『今の女』収録の「目白台の婦人部落」から引用してみよう。
  
 雨上りの踏み心地よき、テニスコートには、ラケツト打振る一群、吹く風に袖をまかせて、球打つ音、冴え渡る笑声混りて、世はこれ等の、若き人々の楽園である。/玄関に立つた。/正面は小使室なる可し。物古りたる紙張りの硝子戸の前に、摺り切れたる古箒只一本。園内の清楚なる気分と思ひ合せて、稍々浅間しき心地した。/正面の校舎を後庭に廻つて、家政科の割烹室。馬鈴薯一升十二銭、蚕豆一升十二銭、即席しるこ四銭五厘などの掛札がある。器具棚、料理板など、とりどりに打並ぶ間に、白前垂掛の女学生数十名入乱れて、今しも日本料理のお稽古最中で、彼方の隅には、試食の連中にやあらん、料理着のまゝ、お皿の立食をして居る。/更に、芝草清き庭を伝ふて、離れの一棟を覗けば、此処には、共同購買組合なる看板が懸けられて、堆く積まれた薪炭に隣つて、沢庵の大樽、大根、葱、薩摩芋其他の野菜の品々、処狭きまで並んで居る。出入商人の悪癖を避けて、二十寮舎連合の購買組合で、目下寄宿生は約五百人、其食料品の購買高は一ケ月約二千円ですと、監督は答へた。其二十寮舎は、一万五千坪の新緑の間に割居し、各寮舎には、二十五名程の学生が収容せられて、とりどりに、其特色を発揮し、さながら、世離れした婦人部落を形造つて居る。
  
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 戦争の激化とともに、日本女子大で英米文学を教授する上代タノへの文部省や軍部から、そして特高Click!からの圧力や恫喝が日増しに強くなっていくが、彼女は大学でも、敗戦色が濃くなった学生たちの勤労動員先の工場でも、ついに英語教育をやめることはなかった。軍部と真正面から対峙していくことになる上代タノだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1917年(大正6)に、留学先の米国ウェルズ女子大学を卒業した上代タノ。
◆写真中上は、1901年(明治34)4月に行われた日本女子大学校の開校式。は、明治末に撮影されたとみられる同大学校の正門。下左は、1906年(明治39)に撮影された同大英文学部予科に在籍していたころの上代タノ。下右は、1916年(大正5)の米国のウェルズ女子大学へ留学中に撮影された上代タノ。
◆写真中下は、1903年(明治36)に撮影された日本女子大の学生たち。前列中央は、親からようやく許された家政学部に在籍中し、絵ばかり描いて画家をめざしていた長沼智恵子Click!だと思われる。は、大正期の撮影とみられる同大桜楓館内にあった売店。は、おそらく1925年(大正14)ごろに行われた第16回運動会の様子。
◆写真下上左は、2010年(平成22)に刊行された『上代タノ―女子高等教育・平和運動のパイオニア―』(ドメス出版)。上右は、2013年(平成25)に開催された「上代タノ―故郷を愛す・国を愛す・世界を愛す―」展図録。は、正門右手にあるリフォーム前の成瀬記念講堂。は、日本女子大学のキャンパス北側に佐藤功一の設計で1927年(昭和2)に建設された同大「明桂寮」。現在、卒業生を中心に保存・活用の運動が展開中だ。

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佐伯米子アトリエを拝見する。 [気になる下落合]

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 佐伯米子Click!が存命中で、静物画を描いてる最中に撮影したとみられる、彼女のアトリエの記録写真が残されている。その細かな情景を観察すると、佐伯祐三Click!が死去したあと、彼女の生活の一端がうかがわれて興味深い。アトリエには、静物画用のモチーフとともに、佐伯米子の愛用品がサイドテーブルや棚などに置かれており、戦後、彼女をアトリエでとらえた写真ではおなじみの品物も見えている。
 イーゼルに、真新しい6~8号Fサイズほどのキャンバスが置かれた横には、テーブルの上にモチーフの花瓶や花束(キスゲのような花弁だが、なんだろう?)、シチュー皿に載せられたニワトリ(チャボ)Click!の死骸(?カモClick!ではなさそうだ)などが置かれている。花瓶の手前にある、袋に入れられたフランスパンか米あられ、またはソーセージのような物体はなんだか不明だ。イーゼルの前に座ると見えなくなるよう、物体の陰にマッチが置かれているのは、彼女がタバコ飲みだったからだろう。
 その花の向こうには、おかしなものが見えている。筆立てや鉛管の箱に並んで設置された、おそらく卓上ラジオの上に置かれているのは小さな獅子頭(ししがしら)だ。尾張町(銀座)にある多くの町内は、江戸期から山王の日枝権現社Click!の氏子町なので、池田家の氏神も同様だったろう。この獅子頭Click!は、日枝権現にまつわるなんらかの記念品か、それとも地元銀座の出世地蔵尊Click!の祭りに関連した思い出の品ででもあるのだろうか。
 その左横に置かれた筆立てにも、筆とともに矢が何本も挿してある。おそらく破魔矢だと思われるが、日枝権現社の破魔矢か、あるいはひょっとすると地元の下落合氷川明神社Click!のそれかもしれない。その手前には、もっと場ちがいな、にわかには信じられないモノが目に入る。金属パイプに布を張った、ドイツのバウハウス風デザインのようなイスの背後には、フランスのオーヴェル・シュル・オワーズにあるゴッホの墓石のような形状の、“なにか”板碑のような物体が立てかけられている。
 同じかたちをした重たい墓石を、そのまま床面が脆弱なアトリエに持ちこんだとはとても思えないので、墓碑銘の拓本か写真をボードに貼りつけ、墓石のかたちに切り抜いたものだろうか。表面には、なにやら文字らしいものが書かれているように見えるが、この写真の解像度では読みとれない。中村彝Click!も、『カルピスの包み紙のある静物』Click!(1923年)を制作する際、十字架のついた同じようなモノ(キリスト磔刑像)をわざわざこしらえているが、モチーフ用に製作した小道具のひとつなのだろうか。
 その左手の棚の上にも、ランプやミニチュアの家具など、モチーフに使われたとみられる道具類が並んでいるが、その中におそらく観音立像(のようなもの)が一体見えている。でも、印形をかたちづくる左右の腕が確認できず、遠目には欠損しているように見える。あるいは、前に向けた右腕が欠損している、夢違観音(ゆめたがいかんのん)の出来の悪いレプリカだろうか。だが、それにしては左手首の印形も見えないので、両腕が破損したレプリカだろうか。わたしは、このようなかたちをした日本の仏像を知らないが、ひょっとすると廃仏毀釈時に壊され両腕の欠損が多い、仏像まがいの神像のたぐいだろうか。
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 左手のソファには、やはりモチーフ用に購入したものか、人や馬、熊などの人形類やぬいぐるみが並んで置かれている。成長した大人の女性が、ぬいぐるみや各種キャラクターに夢中になるのを、わたしは「気味(きび)が悪い」と感じてしまうので、ここはモチーフ用の素材類と解釈したい。この中で、ソファの右側に置かれている黒いシルクハットをかぶった男子の人形は、佐伯祐三が第1次渡仏時にパリ・オペラ座近くの骨董店で、高額にもかかわらず無理をして購入したものだ。
 この人形は、もともと男女のペアだったが、女子の人形は有島生馬Click!にプレゼントしているため(のちに焼失)、男子人形だけが佐伯アトリエに残されていた。人形たちが並べられた手前のソファには、ザルに盛られたミカンのような果実が見えるが、季節が秋だとすればカキかもしれない。いつも晩秋になると、アトリエ中央(穴の開いた丸いイスのあたり)にすえられていた石炭ストーブがまだないので、秋に果実店へ出まわりはじめたカキの可能性が高い。あるいは、下落合にはカキの木が多いので、近所の庭でなったカキを分けてもらったものだろうか。
 バウハウス風のイスと同じデザインのように見える、手前の金属パイプで造られたサイドテーブルに目を移すと、卓上には南欧産らしいワインボトルが見えている。フィアスコのように見えるので、イタリア産のキャンティワイン(赤)だろうか。このボトルは、1950年代に佐伯米子のアトリエを撮影した写真には必ず登場するもので、モチーフに多用されたか、あるいは本人が好きで制作の合い間に飲んでいたものだろう。
 ワインボトルの前には、小さな花瓶にバラのような花(造花かもしれない)が一輪挿してある。その横には、これもアトリエの佐伯米子Click!を撮影した写真ではよく見かける、お気に入りのティーカップやティーポット、シュガーポットなどのセットが並んでいる。さらに、卓上に敷かれたレース編みの上には、輸入されたフランスタバコの「ジタン」とみられるパッケージが4つ、奥にはマッチ箱が見えている。また、周囲には画集や、そこから切り抜いたとみられる写真類、書類などが重ねられており、サイドテーブルの下の段に置かれたソーサーの上には、紅茶缶あるいは緑茶缶らしい容器が見えている。
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 この写真では、左の壁面に架けられていたはずのゴヤ『裸のマハ』のレプリカ(15号サイズほど)が見えず、またランプなどが置かれた棚の上に架けられていた3号F前後の、風景画とみられる作品(自作か?)も見あたらないため、何枚か残されている1950年代のアトリエ写真と比較すると、少なからずタイムラグがありそうだ。
 ワインやティーセットなどの置かれたサイドテーブルだが、1950年代の写真では木製のありふれた四角い仕様のテーブルだったものが、この写真ではより現代的な金属パイプ仕様のテーブルと、おそらくセットで購入したとみられる同じ仕様のイスが置かれている。したがって、この写真は敗戦からかなり時間が経過した、1960年(昭和35)以降に撮影されたアトリエ内部の様子ではないだろうか。
 佐伯アトリエの内部が写真のような状態だったころ、「落合新聞」Click!竹田助雄Click!が佐伯米子のもとをスクーターで訪ねている。1965年(昭和40)4月6日のことだが、竹田は御留山Click!の保存と自然公園化を求める当時の蔵相・田中角栄Click!あての署名用紙を携えていた。1982年(昭和57)に創樹社から出版された、竹田助雄『御禁止山-私の落合町山川記-』から当該部分を引用してみよう。
  
 佐伯邸はたくさんの木立に囲まれている。庭の広さは二百坪くらいであろうか、その奥まったところに静居がある。玄関を真中に、右に大正の名残りを示す急傾斜の破風に、浅葱色のペンキを塗った羽目板のアトリエが建ち、左は離れのような四畳半の居間だ。いきな丸窓が目立つ。雨戸の戸袋には杉板を嵌め込み、近代と伝統を振り分けた和洋折衷の構図である。混みいる木立の中には燈籠も見える。私は四畳半の縁先に腰掛けていたのだった。見上げると屋根の庇が広い。/佐伯米子さんは軀をよじりながら縁先のそばにきて、正座した。そして言った。/「……新聞に小野七郎さんが書いていらっしゃいましたね」/「はい」/「小野さんがお書きになる新聞でしたら……」/信用できるということらしかった。(中略) 「小野さんとは、ロンドンでご一緒しました」/「そうでしたか」/「あなたも、東大ですか……」/「いいえ」/私は微笑した。東大出なら、男の働き盛りにこんなちっぽけな地域新聞なんぞ、やっている訳がない。
  
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 写真の手前に写る、それぞれデザインが異なる3脚の丸イスは、おそらく佐伯米子が開いていた絵画教室へ通ってくる、生徒たちの専用イスなのだろう。中央下にとらえられた丸イスの脚には、生徒のひとりとみられる「文子」と書かれた名前が確認できる。

◆写真上:1960年以降の撮影とみられる、下落合661番地の佐伯米子アトリエ。
◆写真中上は、制作中のイーゼル近くのモチーフ類。中上は、獅子頭に破魔矢、フランスの墓石のようなモノ。中下は、1925年(大正14)にゴッホ兄弟の墓に参詣した右から佐伯祐三、渡辺浩三、木下勝治郎、伊原宇三郎。は、棚の上に置かれたモチーフ類。
◆写真中下は、ソファに置かれた人形やぬいぐるみのアップと、佐伯祐三が1次渡仏中に購入した人形。は、サイドテーブルの上に置かれたワインやティーセット、タバコなど。は、脚に「文子」の名前が入る丸イス。
◆写真下は、1953年(昭和28)に撮影された佐伯米子アトリエ。は、1955年(昭和30)に撮影された同アトリエ。は、竹田助雄が署名願いに訪れた佐伯米子の居間。撮影は1984年(昭和59)で、佐伯邸の改修工事が行われた際のもの。

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高-低-高の風景画が好きな吉岡憲。 [気になる下落合]

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 So-netのWebサーバサービス「U-Page+」の終了にともない、そちらで構築してきた「わたしの落合町誌」および「目白文化村」の各サイトとその関連リンク(オルタネイトテイクなどの別ページ)の全部を、新しいWebサーバへ移植し終えました。これまでのURLは、記事内のリンク先を含めすべてが変更されていますので、So-net配下のURLを登録されていた方は、サイドメニューのバナーから新しいURLを登録していただければ幸いです。
  
 上落合1丁目328番地のアトリエで暮らした、吉岡憲Click!が描く画角の広い風景画にはひとつのパターンがある。手前の小高い位置にイーゼルをすえ、手前に拡がる街や村を見下ろしながら、向かいに見える丘あるいは山を描くという構図だ。それは、東京の風景でも九州・長崎や東北の風景でもどこか共通している。
 以前にご紹介している、旧・神田上水(1966年より神田川)の南岸にあたる高田南町3丁目から、下落合は近衛町Click!の南端に建つ学習院昭和寮Click!を描いた『高田馬場風景』Click!(1950年ごろ)や、旧・神田上水北岸の同町から下落合の同寮を描いた『目白風景』Click!(1950年ごろ)がそうだった。また、旧・神田上水の大滝橋(大洗堰Click!跡)の北岸、江戸川公園のバッケ(崖地)Click!中腹から早稲田南町のピークである正法寺の丘を描いた、『江戸川風景』(1950年ごろ)についても詳しくご紹介している。
 ほかにも、九州・長崎の風景を写した『南山手風景』や『山手風景』、『大波止』、『おらんだ坂あたり』(1952~53年ごろ)、千葉の布良Click!や御宿の風景とみられる『房州の漁村』や『外房』(1952年ごろ)、福島の冬景色を描いたとみられる『春雪』や『早春の朝』(1952~1954年ごろ)と、近似した構図の作品を見いだすことができる。
 この構図について、2003年(平成15)刊行の『追憶の彼方から―吉岡憲の画業展―』図録収録の、尾崎眞人「聖なる位置をずらした男-吉岡憲」から引用してみよう。
  
 長崎市の「どんの山」中腹の海星学園を描いた<おらんだ坂あたり>(図録ページ略)そして長崎グラバー邸方向を描いたと考えられる<南山手風景>(略)などにも、<高田馬場風景>と同様な画面構図がみられる。/これらの作品は、単に下方から丘の上を描いたものではなく、高い位置から作者の視点は描いている。そのため作品は高見の位置から一度見下ろした視点で前景が描かれ、さらに仰ぎ見る視点で遠景を描くという二重の視点が特徴となっている。私たちの視線は、近景に人影など町の景観から入り、丘の上の建造物へと視線が登り、やがて天空の空へ消失していく。画面のなかを私たちの視線は移動する。
  
 著者が書いているとおり、確かに画面の中を観賞者の視線は徐々に移動していくのだが、わたしはその移動のしかたが逆ではないかと考えてしまう。まず、遠景の丘や山などのかたちを観察して全体の風景を把握し、それから徐々に近景に拡がる街や村の情景に目をとめていく……という順序だ。
 これは、登山やハイキング、あるいは起伏の多い地形の郊外を散策される方なら馴れ親しんだ、よりピンとくる感覚ではないかと思うが、広い視野(絵なら画角)の風景を見るとき、まずは視野全体の地形や地勢を、半ば無意識のうちに読みとろうとする本能が働く。そして、自分がどのような位置にいるのか、どこからその風景を眺めているのかを、まずは把握し認識しようとするだろう。そこで重要なのは、手前に見える街や建物ではなく、遠景に見える土地(山や丘)の起伏形状だ。その把握を前提に、自分の立ち位置を意識しながら、眼前に拡がる街や村を観察しようとする。
 吉岡憲が、上落合のアトリエから西武線に乗り高田馬場駅で下車していた1950年(昭和25)前後、空襲で焼け野原になった東京の街々には、関東大震災Click!の教訓で建てられた焼け残りで、炎をくぐって傷んだコンクリート製の防火建築のほか、建物の多くが急ごしらえで建てたバラックの平家住宅が多く、今日のような高い建造物はほとんどなかった。換言すれば、東京の山手に拡がる丘陵地帯の起伏が、非常によく観察できた時期だったのだ。そもそも起伏に富んだ世田谷育ちの吉岡憲は、子どもの時分からそのような風景観察、あるいは風景のとらえ方に親しみ、好んでいたのかもしれない。
 敗戦から間もないころは、旧・神田上水の両岸にU字ときにはV字で起立する、いまでは高いビルやマンションに隠れて見えにくい河岸段丘Click!やバッケ(崖地)から、対岸に見える丘や段丘斜面を容易に見わたすことができた時代だ。だから、そのような構図を好んだとみられる吉岡憲は、旧・神田上水の南にある急斜面から(『高田馬場風景』)、高田南町3丁目にある焼け残りのビルの屋上から(『目白風景』)、あるいは江戸川公園の傾斜角60度ほどもある崖地の中腹に通う公園の小径から(『江戸川暮色』)、正面の丘上に見える白亜のビル群(学習院昭和寮)や、尾根道を走る早稲田通りのピークの丘Click!(正法寺~早大喜久井町キャンパスあたり)を容易にとらえることができたのだ。
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 余談だが、『江戸川暮色』の画面に描かれた早稲田南町の丘の崖地にも、またイーゼルをすえた江戸川公園の崖地にも、戦時中には大型防空壕Click!がいくつか掘られ、吉岡憲が仕事をするわずか5年ほど前には、空襲で避難してきた数百人の人々が焼夷弾による大火災の炎にあおられ、急激に酸素を奪われて窒息死Click!している。
 1951年(昭和26)12月20日に書かれた、吉岡憲の散文詩(無題)に次のような作品がある。1996年(平成8)に「信濃デッサン館」出版から刊行された、窪島誠一郎・監修『手練のフォルム―吉岡憲全資料集―』から引用してみよう。
  
 一匹の野良犬が丘の端に佇み夕映に染っていた。丘の一角には小学校が建ち、眼下には家並が議事堂の尖塔を焦点に続いていた。炊煙が棚引き外燈の光が目にはいりはじめる頃の静かで温い風景が、強盗殺人汚職売淫の街とは信じ度くなかった。暮色があたりに立ちこめ黝(あおぐろ)く立つ学校からピアノの音がもれて来た。何百回かきいた曲、そして何時も心温る調べ、モツアルトのトルコ行進曲か、野良犬は憤怒をやわらげ、この丘へ通う楽しみに気づいた。(カッコ内引用者註)
  
 「野良犬」とは、もちろん吉岡憲自身のやや自虐をともなう喩えだと思われるが、この「丘」とはどこのことだろう? 夕映えの「暮色」からすると旧・神田上水沿いの『江戸川暮色』が浮かび、「野良犬」がいる地点は江戸川公園の崖地中腹(標高25m前後)ということになる。戦災で焼け野原の痕跡が残る当時は、そこから永田町の国会議事堂Click!が容易に見えただろう。丘の一角にある「小学校」とは、「野良犬」がたたずむ江戸川公園の背後(北側の丘上)にある関口台町小学校Click!ということになる。
 しかし、敗戦後5年ほどなら、下落合の丘上からでも国会議事堂の議場大屋根はなんとか見えていたかもしれない。吉岡憲が、『目白風景』や『高田馬場風景』に描く学習院昭和寮Click!の左手、御留山Click!のピーク近く(標高36m前後)に立てば、さらに遠くまで見わたせただろう。(ちなみに当時の御留山は公園化されておらず、戦前からつづく東邦生命の所有地だった) これらの作品を描いているとき、吉岡憲はモチーフとなった丘に興味をおぼえ、下落合の坂や斜面を上っていてもなんら不思議ではない。また、御留山のピークのすぐ西側には、相馬坂を隔てて落合第四小学校Click!が建っている。
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 『江戸川暮色』の描画ポイント、江戸川公園の急峻な崖地から国会議事堂までは直線距離で約4km強、下落合の御留山ピークから議事堂までは同じく約6kmと、どちらの丘からも遠望の可能性がありそうだ。『江戸川暮色』の作品を中心に想像すれば江戸川公園が有利だが、アトリエのある上落合1丁目328番地から下落合の御留山までは直線距離で1,000mしか離れておらず、当時の道筋で歩いても15分前後でいき着ける(アトリエへ帰れる)ことを考慮すれば、地元のほうが有利だろうか。
 この時期、東邦生命の所有地だった広大な御留山は、夫婦の管理人がふたりしかおらず、竹田助雄Click!は半ば自由に出入りして写真撮影をしていたし、近所の子どもたちはどこからでも入りこんで、沢ガニや昆虫を捕まえていた。
 同書の中で、窪島誠一郎は暮れなずむ上落合の街並みを歩きながら、「吉岡憲の風景」を感じる場面がある。同書の、「吉岡憲の軌跡」から引用してみよう。
  
 菊夫人の家へいそぐ私の前方に、あるいは逆に中井駅の商店街にむかってあるく私の背後に、あたかも無数の黒い塔婆でもならべたみたいな薄暮色の風景がひろがっていた。それは東京という大都会の片隅に息づく、パリかローマの裏街でも思わせるようなエキゾチックな夕景色だった。私は、あゝこゝにはまさしく吉岡憲の風景がある、色彩があると思った。(中略) 吉岡憲の絵の魅力を一口に語れといわれゝば、その筆触がもつ爽快なスピード感と、どんな対象をも瞬時にして一掴みにしてしまう魔術のような描写力につきるといえるだろうけれど、私としてはその色感の豊潤さ、奥深さにいっそう魅入られるのである。あの薄暮どきの、上落合の裏通りをそめていた、微かに霊気さえおびているようにみえた代赭色と蛍光色のひろがり。たぶん吉岡の絵の感触は、あの早暁とも洛陽ともつかない地の果てからとゞくやわらかな光源の中から生まれてきたものにちがいない。
  
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 窪島誠一郎は、「代赭色と蛍光色」と表現しているが、わたしは(もう少し冒険が許されるとすれば)吉岡憲が人物(人の肌)を描くときに使用する色彩を、風景の中にも採り入れている……と感じる。別に暮色の風景画に限らず、太陽が真上にあると思われる画面や雪景色にさえ、随所で同色が使われているように見えるのだ。それは、たとえば当時の東京は舗装道路が少なく、関東ロームが露出していたからだという事実を持ちだせば身もフタもないけれど、たとえば福島の雪に埋もれた家屋にさえも、その色合い(人肌の匂い)を見いだしながら、吉岡憲の人を求めるやわらかな「ぬくもり」のようなものを感じてしまうのだ。

◆写真上:下落合の丘の斜面に繁った、雑木林から眺める冬の黄昏どき。
◆写真中上は、1952年(昭和27)ごろ九州・長崎の情景を描いた吉岡憲『南山手風景』。は、1953年(昭和28)に同じく長崎を描いた吉岡憲『おらんだ坂あたり』。は、同じころ長崎の街並みを描いた吉岡憲『山手風景』。
◆写真中下は、1950年(昭和25)ごろに高田南町から下落合の丘を描いた吉岡憲『目白風景』。は、江戸川公園から早稲田南町の丘をとらえた吉岡憲『江戸川暮色』。は、斜めフカン写真による江戸川公園と下落合の御留山から国会議事堂への遠望。
◆写真下は、1952年(昭和27)ごろ長崎港の波止場を高位置から描いた吉岡憲『大波止』。は、1954年(昭和29)に福島の山間集落を描いたとみられる吉岡憲『春雪』。は、同時期に福島へ旅行した際の情景を写したと思われる吉岡憲『早春の朝』。

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ジッと我慢の劉生とすぐに解放の佐伯。 [気になる下落合]

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 あまり知られていないエピソードだが、便意をひたすら抑えてトイレに駈けこむのをガマンしていた洋画家がいた。娘にあらぬことを口走り、父親の言葉に疑念を抱いた彼女が、しじゅう洋画家を監視しはじめるようになったからだ。娘とは岸田麗子Click!であり、父親の洋画家とは岸田劉生Click!のことだ。
 岸田劉生が、やめとけばいいのに、娘へありえないことを話して聞かせたのは、藤沢の鵠沼で麗子が小学校へ入学する前(1919年前後)のことのようだ。ちょうど、「麗子像」シリーズClick!ではもっとも有名な画面で、東京国立博物館が所蔵し重要文化財に指定されている『麗子微笑 青果持テル』(1921年)を制作する少し前ということになるだろうか。同作は、麗子が鎌倉師範学校付属小学校へ入学したすぐあと、1921年(大正10)10月4日に制作がスタートし10月15日に完成している。
 1921年(大正10)の秋、岸田麗子Click!は学校から帰るとほとんど毎日、父親のいるアトリエのモデル台(本箱)に座らされていた。小学校の友だちが「麗子ちゃん、遊びましょ」と誘いにきても、母親の蓁夫人が玄関先で断ってしまった。麗子が父親のモデルになるのは、これまでにもさんざん繰り返されたことなので、それほど苦ではなかったかもしれない。ただし、何時間も同じポーズでジッとしていなければならないので、ときには不満を口にしただろう。小学校へ入学する前、やはり遊びたくて不服をとなえた麗子に対し、劉生は騙しだまし説得をして制作をつづけていたにちがいない。
 その中に、劉生が自分で自分の首を絞めるような話を、娘に聞かせてしまったエピソードが残っている。2019年に岩波書店から出版された月刊「図書」11月号より、岸田夏子『思い出 麗子あれこれ』から引用してみよう。
  
 学校に上がる前のことですが、あるとき劉生が「お父様はこの世を美しくするために天から遣わされた天使なんだよ」と言い、ここで止めておけば良かったのに劉生らしく続けて、/「だから、天使のお父様はご飯も食べたふりをしているだけ、だから御不浄と言われるものも一切しないんだよ」と続けました。/子供ながらどうもおかしいと思った麗子は、家の外でお父様がお手洗いに入ってくるのを今か今かと待ち構えていたのです。このことは本当に劉生を困らせた出来事の一つでした。父を信じる子供と信じさせたい親心と言っておこうかしら。他愛無い親子の間の事件の一つでしょうか。
  
 この証言から、鵠沼で借りていたアトリエの家は、トイレが母家とは離れた場所に建てられていたのがわかる。農家などでは、庭先に独立したトイレがあるのはめずらしくないが、大正期の藤沢には地主の農家が貸家を建て、避暑・避寒の別荘や東京近郊の住宅として賃貸ししていた家の中には、そのような仕様の家屋があったのだろう。
 このエピソードを、岸田麗子自身はどのようにとらえていたのだろうか。1959年(昭和34)に新潮社から刊行された「芸術新潮」9月号に収録の、岸田麗子『父の遺してくれたもの』では、こんなことになっている。
  
 父は鵠沼に住んでいた頃、よく私にこんなことをいった。/「お父さまはね、本当は天のお使いなのだよ。天の神様が、この世を美しく飾るためにお父さまをおよこしになったのだよ。お父さまは天で虹を描くお仕事をしていたのだけれど、それをほかの天使にたのんできたのだよ。だからお父さまは人間の食べるごはんも食べないし、おツージもしないよ。ごはんは食べているように見せかけているだけだし、うそだと思ったらお便所へお父さまと一緒にきてごらん」/それである時、私は父のうそを見破ってやろうと思い、父の便所へはいるのをみすまして、ソーッと裏へまわって便所の前にしゃがみこんだ。なかから父が人の気配を感じて、/「誰だい、……麗子かい?」/「ウン」/「バカな子だね、あっちへいっておいで」/その父の笑いをこらえた、なんともいえない困った声は今でも忘れられない。子供ながら実に愉快だった。
  
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 劉生は、ご飯のおかわりをすると、ジッと見つめる娘と目を合わさないようにし、おみおつけを啜る音に耳をそばだてる娘の表情を、かなり気にしていたのかもしれない。だが、トイレの前で張りこみをつづける娘には、弱ったを通りこしてパニックを起こさなかっただろうか。劉生の頑固で意固地な性格からして、あれは冗談だったと笑いにまぎらせながら用を足しにトイレへ駈けこむとは考えられず、また父親の権威失墜はどうしても避けなければならないので、なんらかの工夫をして用を済ませていたとみられる。
 「やっぱり、お父様も人間だったのだわ」と気づくまで、麗子がトイレの前からいなくなる算段を蓁夫人とつけたか、なにかトイレ代わりになるものを身のまわりに用意していたのかもしれない。立ち小便で「壽」文字を書くのが得意だった劉生は、「小」の場合は家の裏へこっそりと抜け出して、そこらに生えるクロマツの根元の砂地で用を足していたのだろうが、「大」の場合はほとほと困りはてたにちがいない。でも、麗子のほうが一枚上手だったようだ。張りこみをやめたと見せかけて、父親がトイレに入るのを待ち伏せし、劉生はその麗子のワナへまんまと引っかかった。
 岸田劉生とは正反対に、便意をもよおせばトイレがあろうがなかろうが、用を足せる繁みさえあれば「大小」かまわず、そして友人知人がいようがかまわずすぐに“解放”してしまうのが、下落合の佐伯祐三Click!だった。国内外の写生場所を問わず、自分の気に入った風景に出あうと、すぐにも「大」がしたくなったようだ。それは、幼児のころに刷りこまれた、乳母からの暗示が大きく作用していたらしい。
 1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された、山田新一『素顔の佐伯祐三』から引用してみよう。このエピソードは、佐伯も山田もいまだ東京美術学校の学生時代(1918年)のことで、伊豆の網代へ写生旅行に出かけた際の情景だ。ちなみに、ヴラマンクを訪ねた帰りの里見勝蔵Click!をはじめ、佐伯の周辺にいた画家たちは同様の証言を残している。
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 遠く大島から茫々と伊豆半島の岬の先々まで眺められ、漁船の白帆がちらばる景観と相対するや否や、どうも傍で変な恰好をするので僕が、/「おい、どうしたんや」/と訊くと、/「わし、“ババ”がしとうなったんや」/「ババって、あの大便か?」/「そうなんや」/「そな、どっかその辺にせいやあ」/そこで彼は、数メートル離れた雑木の下へ隠れて、用便をした。しばらくしてイーゼルに戻ったので、/「きみ、みょうな習慣があるんやなあ。なんで写生の前にうんこするんかあ」/と言うと、/「わしはなあ、すごいいい景色みたら、もよおすねん!」/「どうして、そんな変な感覚なのかなあ……」/「わし、小さい時になあ、育ててくれた乳母がなあ、わしに便をさすときになあ、しーこいこい しいこいこい/ほい 富士さん見えるやろ/富士さん見えたるやろ/と唱うのが、癖だったので、そいでまあ、幼い頃のことだし、いいけしきが見えよるのかなあ、と思うているうちに、でたんやなあ。それが今でもつづいとんのや。すごいいい景色見たら出てくんのや」
   
 いい景色や描きたい風景に出あえると、条件反射のように便意をもよおすのは、乳母が唄った大阪の「童謡」(?)とともに植えつけられた幼児体験がベースになっていたのがわかる。ただし、佐伯が育った大阪からは、もちろん富士山が見えるはずもなく、「♪富士さん見えるやろ」でいったい佐伯はなにを見て(想像して)興奮し、乳母の「♪しーこいこい」「♪ばばこいこい」で排便していたのだろうか。
 伊豆の網代ばかりでなく渡仏したときの写生でも、気に入った風景画のモチーフを見つけると、佐伯はあたりかまわず野グソをしている。もちろん、パリの市街地ではさすがにそのようなエピソードは聞かないが(公衆便所をタブローに仕上げているのは、もう済ませたあとかもしれない)、少し郊外に出たとたんに野グソ証言が増加してくる。
 「下落合風景」シリーズClick!を描いた当時、下落合は東京市街地から離れた郊外だったので、いまだ随所に田畑や草原、雑木林が点在するのどかな光景だった。特に開発が進行中で、工事中の箇所が多かった下落合の中・西部には、「雑木の下へ隠れて」用を足すには絶好の場所が、まだ数多くあちこちに残っていただろう。
 拙サイトの記事をご覧になり、ご自宅の近所が「下落合風景」に描かれて残っていると喜ばれる方は下落合に多いのだが、その風景をタブローにして残すほど、とても気に入ったということは、佐伯が興奮して「“ババ”しとうなったんや」「もう、出てくんのや」の場所であったことにも、ちょっと留意する必要があるかもしれない。つまり、描きたくて「下落合風景」の画面に選ばれた風景モチーフのすぐ近くで、佐伯が我慢しきれずに「♪しーこいこい ばばこいこい」と唄いながら、用を足していた可能性が少なからずあることだ。
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 岸田劉生は不用意なことを口にし、かけがえのないモデルのためにトイレを我慢してもだえ、佐伯祐三はお気に入りの風景のために、身もだえしながらあたりかまわずどこでも排便する。この高名な洋画家たちは、ほぼ同時期にふたりしてなにをやっていたのだろう。

◆写真上:1926年(大正15)秋にのちの勝巳商店地所部Click!の所有地から北を向いて描いたとみられる、「宅地造成地は、もよおすねん!」の佐伯祐三『下落合風景』。
◆写真中上は、1923年(大正12)8月に鵠沼の家の前で撮影された岸田劉生と岸田麗子。は、1921年(大正10)秋に制作された岸田劉生『麗子微笑 青果持テル』。
◆写真中下は、1918年(大正7)にわざわざ銀座へ出かけて写真館「児島」で撮影された5歳の岸田麗子。は、1919年(大正8)に撮影された鵠沼の家の周囲を走りまわる岸田麗子。は、ふたりのカップリングがめずらしい1987年(昭和62)に集英社から出版された『20世紀日本の美術』15巻(岸田劉生・佐伯祐三)。
◆写真下は、1923年(大正12)8月に静養先の信州・渋温泉で撮影された佐伯祐三。は、パリ郊外にあるオニーの古い教会近くで1925年(大正14)に撮影された、右から「古いカテドラルは、もよおすねん!」の佐伯祐三、同行した画家仲間の渡辺浩三、佐伯米子、佐伯彌智子。は、改正道路(山手通り)の建設工事で消滅した「矢田坂」Click!の中腹を描いたとみられる、「坂道も、もよおすねん!」の佐伯祐三『下落合風景』(1926年ごろ)。

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女優の卒業生は出禁の女子学習院。 [気になるエトセトラ]

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 現代ならば、卒業した母校のクラスメートに高名な人気女優がいたら、「ぜひ、同窓生が集まる会には出席してね!」となるのではないだろうか。だが、わずか100年ほど前の社会では、クラスメートから「役者ふぜい」が輩出したことを「恥辱」だとする、封建時代そのままの頑迷な偏見がつづいている学校があった。
 明治末からデモクラシーの大正期を迎えても、そのように時代遅れなことをいっていたのは、華族女学校(1906年より女子学習院Click!)だ。明治後期には、すでに舞台における重要な芸術表現のひとつになっていたはずの新劇俳優たちを、学習院Click!女子学習院Click!の院長を兼務していた乃木希典Click!は、ことさら「河原乞食」と呼んで蔑んだ。
 欧米戯曲の積極的な翻訳をはじめ、シェークスピアやイプセンなど坪内逍遥Click!を筆頭に日本における新劇表現の研究や可能性、舞台における演劇全般の近代化を推進し、新たな芸術分野の開拓と確立へ積極的に取り組んでいた、学習院から南東へ1.3kmほどのところにある大学の大隈重信Click!がそれを聞いたら、乃木のいる院長室へ「きさま、なんばいうか!」と怒鳴りこんでいたかもしれない。
 卒業した母校の女子学習院から、正式な同窓会の集まり以外はキャンパスへいっさいの出入り禁止をいいわたされたのは、当時の新劇界では人気女優のひとりだった山川浦路だ。彼女は、1885年(明治18)に旗本の旧家に生まれ、1911年(明治44)に女子学習院を卒業すると、夫で早稲田大学の学生だった上山草人(のち新劇俳優)と結婚し(女子学習院に在学中、長女を出産している)、坪内逍遥が設立した文芸協会に参加している。その後、夫婦で文芸協会を脱会して近代劇協会を創立した。
 おそらく、乃木希典Click!が「河原乞食」と蔑視した背景には、在学中に学生結婚をして子どもを生んだことも含め、当時の言葉でいうならば、彼女の「貞淑」とは正反対だった「新しい女」の自由な生き方そのものが、気に入らなかったのではないだろうか。まるで、現代女優のように身長が170cmほどあった山川浦路は、乃木院長を見下ろしていたのもシャクに触わったのかもしれない。また、女学生の中でもスラリとひときわ目立っていた彼女の容姿に、嫉妬していた同級生も少なくなかったのではないか。
 正式な同窓会の集まり(それにも条件が付与された)以外の親睦会や茶話会、講演会、旧友会などは、すべて出禁になってしまった当時の様子を、1913年(大正2)に文明堂から出版された磯村春子『今の女』収録の、山川浦路「同級会の圧迫」から引用してみよう。『今の女』は、明治末から大正初期にかけ、さまざまな領域で活躍している女性たちに取材した、20世紀初頭のフロントランナー・インタビュー集といった内容だ。
  
 『最近の事ですが、華族女学校同級会の幹事から、二尋もある御手紙が来ましたから、何の事かと、開いて見ると、マー聞いて下さい。/今回、同級会の決議に由り、今後、同級会以外の会合には、御出席御断り申候。/ですって、私は、初めつから、御姫様方の心を、知つて居りますから、何の会、この催しと、度々、御通知があつても、わざと、遠慮して、出席は見合せて居りましたのです。それだのに、今更、麗々しく、御断りが無くつても、宜いぢやありませんかね。其次に曰くですよ。/若し、同級会に御出席の節は、必ず、普通の髪に願ひたく候。/ですって、日本人の普通の髪つたら、何でしやう。日本髪の事でせう。廂髪だつて、結ひ初めは、変に見えたぢやありませんか。ねえ髪の結ひ振りに、法則でもあるぢやなし。』/と、力を入れて、感情に激した。/有楽座のヘツダを、見る心地して、浦路子の顔をさし覗けば、前髪を分けて、スーッと、襟筋の上に落した束髪、物馴れぬお姫様達を驚かしたのも、無理ではないと思はれた。
  
 普段から、母校の集まりへは遠慮して顔を出さない山川浦路へ、ことさら出入り禁止の手紙を送って寄こすのは、明らかに嫌がらせでイジメに近い行為だろう。
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 彼女が髪型を日本髪風に結わず、前髪を分けてうしろでひとつ結びにし、そのまま長髪を背中へたらすようにするか、あるいは簡易に結んでまとめ髪にする、現代に限らず大正期以降の女子ならしごくありふれた髪型が、女子学習院の「御姫様(おひいさま)」たちには気に入らなかったのだろう。山川浦路の髪型は、下落合で九条武子Click!がよくしていた髪型とまったく同じスタイルだ。
 この文章から10年余ののち、都市部では山川浦路のような髪型が「普通の髪」になり、日本髪のほうがむしろ仰々しく時代遅れで、さまざまな封建的な呪縛を脱ぎ棄てて自由を追求する、「デモクラシー」を理解しない野暮な女性と見られるようになっていく。つづけて、山川浦路のインタビューを引用してみよう。
  
 浦路子は、稍々興奮の眼を、輝かして/『私には、私だけの希望がありますから、後日、必ず嘲罵した、あの人達を、私の立つステーヂの前に、引付ける様に、努めますわ。』/両の手に、火箸を握りつめて(ママ)、身を震はす。/『境遇の変化は、恐ろしいもので、初めは、遊ばせ言葉が、口癖になつてゐて、女優の使ふべき言葉でない、と、いはれたものが、今日では、窮屈でソンな、言葉が、出なくなりました。』/と吐息をつく。
  
 同級生たちからの嫌がらせの手紙が、よほど口惜しかったとみえて、「御姫様」たちが話す「遊ばせ」言葉をつかっていたのが“恥”とまでいわんばかりの勢いだ。おそらく「ごきげんよう」も、彼女の語彙から早々に廃棄されたのだろう。
 山川浦路の予言どおり、明治末に日本橋三越Click!が打ちだした「今日は三越、明日は帝劇」のキャッチフレーズが大正期には大流行となり、彼女が帝国劇場で出演していたシェークスピア劇の舞台は、大正期を代表するモダンで洗練された演劇エンターテインメントになっていく。当然、女子学習院を卒業した「御姫様」たちも時代の流れには逆らえず、否応なく「ステーヂの前に、引付け」られたのではないだろうか。
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 同じ『今の女』の中に、当時は芝居(歌舞伎)の戯作者をしていた、まだ若い長谷川時雨Click!のインタビューも掲載されている。そこでは新派Click!を痛烈に批判し、新劇(近代劇)を高く評価しているのが面白い。同書から、再び引用してみよう。
  
 『で厶(ござ)いますが、現在の処、チヨツト妙な物になつて居るのは、アノ新派劇で厶いませうね。旧劇(歌舞伎のこと)の衰へかゝつた時代に、芽を出して、一時は、非常な勢で、歓迎されたものでしたが、つまりは、我々、今日の現在の儘を、芝居に見せる丈のもので、ソレが、然も、舞台の上から、妙テケレンな声色を発して、女といへば、何れを見ても、浪子(『不如帰』のヒロイン)といつた型、男は相も変らず、英雄とか豪傑のきまりもの計りを、出し物にして、何の其間に、趣味とか、優雅といふ点が、ありませうかと、マー疑はれますね。』/と熱心に、上気した白粉の面、ホンノリと紅らむ。『こんな事を申すと、生意気だと、仰しやるかも知れませんが、近頃の近代劇などが、驚く程、人気を取つて居るのを見ましても、確かに、其劇中の人物を、真面目に研究して、出して見せると云ふ、熱心が現はれて、居るからだと思ひます。(後略)』(カッコ内引用者註)
  
 長谷川時雨が思わず口にした新派劇評は、わたしが子どものころの新派劇Click!に、そっくりそのまま当てはまるだろうか。
 さすがに、「英雄とか豪傑のきまりもの」の上演は減っていたけれど、男や周囲の環境、時代に翻弄され流されていく哀れでか弱い女が、「別れろ切れろは芸者の時にいうことば」とか「今の妾(わたし)には死ねといって下さい」とか、70歳も近い水谷八重子(初代)に舞台上から「妙テケレンな声色」でいわれても、20世紀後半に生まれたわたしは、ただ午睡するしかなかったのだ。歌舞伎に比べ、新派の衰退ははるか以前からはじまっていたのだろう。
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 その後、山川浦路の女子学習院への出入り禁止が、いつごろまでつづいていたのかはさだかでないが、彼女も懲りごりだったらしい陰湿で底意地の悪い、「御姫様」たち同級生の性悪な性格を勘案すれば、たとえ帝劇の高名な女優へ改めて招待状がとどいたとしても、地付きの女性らしく「おとついおいで遊ばせ」と、出席お断りだったのではないだろうか。

◆写真上:帝国劇場のビルから眺める、千代田城Click!桜田門Click!方面の内濠。
◆写真中上は、磯村春子がインタビュー時の山川浦路()と、彼女が出演していた帝劇のシェークスピア劇『マクベス』のポスター()。は、当初は青山にあった女子学習院(華族女学校)の全景。は、女子学習院の青山キャンパス玄関。
◆写真中下は、青山にあった女子学習院の大講堂。は、青山の女子学習院で行われた卒業式の様子。は、青山の女子学習院正門の門柱にあった笠石で、戸山に移転した現在の学習院女子大学のキャンパス内に保存されている。
◆写真下は、戦後に戸山ヶ原の近衛騎兵連隊Click!跡に移転してきた学習院女子大学(旧・女子学習院)の校舎。キャンパスでは近衛騎兵連隊のレンガ造り兵舎が、そのまま解体されずに活用されている。は、1913年(大正2)に文明堂から出版された磯村春子『今の女』()と、明治末に撮影された磯村春子のポートレート()。

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落合消費組合と早稲田の松栄食堂。 [気になる下落合]

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 複数のメディアを同時に管理するのは、むずかしいですね。facebookは、こちらの記事のURLリンクを張るだけに利用していたのですが、管理がゆきとどかずスキができてしまい、スパムの侵入を許してしまいました。ご迷惑をおかけした方々には、まことに申しわけありません。片手間のいい加減な管理では、再びリスクを生じることになりますので、先ほどfacebookのアカウントを利用解除いたしました。ご了承いただければ幸いです。
  
 以前、落合消費組合の活動について、柳瀬正夢Click!の妻である松岡朝子Click!の証言を記事にしていた。今回は、落合消費組合の設立とほぼ同時に入会した松本武市・エイ夫妻の娘、松本清子(結婚後は小沢清子)の回想をご紹介したい。
 落合消費組合は1929年(昭和4)に結成されたが、それまでは西郊消費組合に所属していた落合地域のグループだった。その後、1932年(昭和7)2月になると、再び西郊消費組合および武蔵野消費組合とともに合併することが決められ、のちに新たな城西消費組合が設立されている。したがって、落合地域の落合消費組合はわずか4年間しか存在しなかったことになり、その後は城西消費組合の落合グループとして活動することになった。
 松本清子の両親は、愛媛県から大阪に転居したあと大衆食堂を経営していた。ところが、父親の松本武市が病気になり一時的に愛媛へ帰郷したあと、改めて1927年(昭和2)に今度は東京へとやってきている。息子が東京帝大に進み、吉野作造Click!らの新人会Click!に属していたことも、東京への転居をうながしたのだろう。
 だが、1929年(昭和4)の4.16事件で兄が特高Click!に検挙されてしまい、松本家では弁護士の勧めもあり一家をあげて、1928年(昭和3)に結成された解放運動犠牲者救援会に参加するようになった。おそらく、当時の松本家の自宅は落合地域にあったと思われ、落合消費組合に加盟すると神近市子Click!や井汲花子、荻郁子らと同じ班になっている。荻郁子については、松岡朝子も印象深い人物として証言しているが、高田馬場駅近くで「のんべえ」という飲み屋を経営していた、なにごとにも動じない姉御肌の女性だったようだ。
 しばらくして、松本一家は戸塚3丁目に転居し、小学6年生になっていた松本清子は戸塚第三小学校Click!へ転校している。「シチズン時計の工場(現シチズンボウル)の所から通りを渡って右に行ったところ」と証言しているので、戸塚3丁目593番地に住んでいた佐多稲子(窪川稲子)宅Click!よりも高田馬場駅寄りで、戸塚4丁目866番地にあった藤川栄子アトリエClick!の早稲田通りをはさんだ斜向かいを、少し入ったあたりではないだろうか。
 女学校を卒業した松本清子は、救援会への依頼から1932年(昭和7)5月1日に行われたメーデーの、デモ参加者に冷たい水を配ろうとして芝の増上寺で検束されている。彼女は1日で釈放されたが、同年4月からはじまっていた東京市電の早稲田車庫(現在の都バス早稲田車庫=東京都交通局早稲田自動車営業所と同敷地)における、不親切かつ高くてマズい東京市が運営する職員食堂の、ボイコット運動に関わることになる。
 市電早稲田車庫には消費組合の「職場班」があり、ボイコット運動を進めるために落合消費組合へ炊き出しの支援依頼がきたのだ。落合消費組合はそれに応え、五目ご飯などの炊き出しを行なっている。炊き出しが美味しかったのか、早稲田車庫につめる職員たちから、安くてうまい食堂が早稲田車庫の近くにできないかという声が数多く寄せられた。
 彼女の両親はその昔、大阪で食堂を経営していた経験があったので、父親はすでに60歳になっていたが、もう一度やってみようかと腰をあげたらしい。当時の様子を、1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から発行された『新宿に生きた女性たちⅣ』所収の、小沢清子「松本エイ・武市と落合消費組合」から引用してみよう。
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 実は、幼い子を抱えて車庫を首になった方がいて組合の人たちと話し合いの結果、その方を雇うことになりました。資金は両親が全部出したようです。/車庫の近くの店を、住まいをちょっと離れたところに借りました。店では温めぐらいしかできないので近くの自分の家で煮炊きをしてみんなで運びました。/始発から始めてほしいと言われたのですが、それはとても無理なので昼御飯を中心にしました。でも、のべつ幕無しに電車が入ってきて時間帯が一定でないうえに短時間で食べなくてはいけない。注文から出すまで時間がかかってはいけない。ほんとうにてんてこ舞いでした。/大きな岡持ちをもって電車道を横切り、店と車庫との往復。私は体は小さいけれどとても元気だったからできたんですね。キャッチフレーズ「一〇銭で満腹の松栄食堂」は安くておいしいと大人気で、近くの労働者や早稲田の学生さんも利用して大盛況でした。/独立採算でしたが、食券制で月給日には組合が集計をしてくれお金は確実に入りました。両親は自分たちはお金は要らないからと、妻子を抱えて車庫を首になった方を中心にお給料を払いました。お手伝いの女性たちにも支払うと私も小遣い程度で、結局、両親はただ働き同然でした。
  
 文中の「電車道」とは、今日の都電荒川線の終点・早稲田電停のある、都バス車庫前の十三間通り(新目白通り)Click!のことだ。このあと、両親と彼女は松栄食堂を2年ほどつづけたが、調理と経営ができる若い世代が育ってきたので、店舗の出資金を回収しないまま両親は「引退」してしまった。
 松本家では、なにごとも母親である松本エイが意思決定をしていたようで、状況の先読みができる頭のいい女性だったようだ。愛媛から大阪へでるのも、また再び東京へでるのも、早稲田車庫の前で松栄食堂を開店するのも、資金の工面や負債の返済などのやり繰りも母親の仕切りだった。父親の松本鹿市は、方針が決まると業務に徹して励む人物だったらしい。娘の眼から見ると、ふたりはいいコンビネーションだったようだ。
 松栄食堂を若い人たちにまかせた松本一家は、今度は旅館を経営しはじめている。松本家は5人兄弟姉妹だったが、兄ふたりは東京帝大で左翼運動をしていたために投獄され、姉ふたりはすでに結婚して親元を離れていた。だから、遅生まれの末娘を抱えた60すぎの両親は、引退するわけにはいかなかったのだ。
 1932年(昭和7)現在の、落合消費組合についてのレポートが、内務省の特高資料Click!に残されている。同年2月28日の正午から、中野で開かれた「城西消費組合創立総会」の事前配布資料だ。その中から、落合消費組合の項目を引用してみよう。
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 それから落合で特に注意せねばならぬ事は、早稲田の車庫の従業員によつて、職場班(その従業員を中心とした班)がつくられたが、その後此の班が少しも成長して居らぬ事である(。)その原因の主なるものは、此の班をつくつた人々に多少党派的な欠点があつた事と、前に述べた組合への官憲の弾圧がわざわいとなつたのであるが、我々の消費組合運動の中に、改党運動や労働組合運動の争ひを持ち込んで、消費組合運動を混乱せしめそれを阻害する事は大きな間違ひであるから此の点大いに注意せねばならぬ。尚落合も此の早稲田を除く他は西郊、武蔵野と同様無産知識階級が主であるが、此処の人々は組合創立の初めから、全体としてやゝ極左的な傾きがあつて、之れは最近自分で大いに清算したとは云へ、今後の班活動の上では一層誤りのないように注意されねばならぬ。(カッコ内引用者註)
  
 城西消費組合の総会前に配られたこの資料は、読んでいると違和感をおぼえる。せっかく3つの消費組合が合同し、より大きな組織になろうとしているのに、活動方針に縛られた総括の姿勢がきわめて“内向き”で杓子定規なのだ。「理屈のこね合いは禁物である」と書きながら、世界情勢や日本社会の状況を大上段に触れつつ、消費組合の事業に関しては狭隘な視界の「理屈」で、ものごとの成否を決めているような感触をおぼえる。
 報告書では落合消費組合が批判されているが、東京市電の早稲田車庫で会員の松本夫妻と「職場班」が共同で起ち上げた松栄食堂とその仲間たちは、消費組合の販路拡大のフックになりこそすれ、「極左的」とレッテル張りされるような活動ではないだろう。松栄食堂のような店舗経営を積極的に支援し、労働組合運動の「混乱」(一組と二組の対立?)などを超えて、東京近郊にあった市電車庫などへチェーン店のように出店し、その仕入れいっさいを消費組合の商品でまかなうことで、むしろ事業拡大の可能性を秘めた絶好の商機であり、経営安定の近道だったように思える。
 消費組合は、販路を拡げるという事業方針の大前提にもかかわらず、実情はまるで“仲間うち”のサークル活動のような感覚でしかなかったように見える。世界情勢から語る大風呂敷をひろげた「理念」が先に立って、事業を拡大する具体的な構想も計画性も実践力もない、凡庸な経営者の繰り言を聞いているようだ。当時は、官憲(おもに特高警察)からの介入・弾圧を警戒しなければならなかった状況とはいえ、これでは組合組織の内向きな維持・管理が先に立ち、事業を拡大するプロアクティブな要素がなにもないように思えるのだが。
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 事実、この総会前に配られた資料は特高資料(特高による検閲の書きこみや発禁印が生々しい)として存在しているのであり、当局から目をつけられるリスクは、早稲田車庫の職場班を含む落合消費組合も、のちに合併された城西消費組合も同じだったろう。……と、こんなことを書くと、当時は「ブルジョア的街頭カンパニア主義」とでもいわれて批判されたのだろうか。それとも総括レポートの文脈から推察すれば、「極左冒険主義」とでもいわれかねないのだろうか。事業を常に安定させ、企画から運営・継続、検証、発展(いわゆる螺旋形の基礎的なPDCAサイクル)させるためには、ごくごく基本的な経営視点だと思うのだが。

◆写真上:現在は都電荒川線の終点となっている、旧・東京市電の早稲田電停。
◆写真中上は、落合消費組合の会員になって活動した1939年(昭和14)撮影の柳瀬正夢・松岡朝子夫妻。は、濱田煕Click!が描く昭和10年代の記憶画Click!にみるシチズン時計工場とその周辺の街並み。は、同工場の跡地に建つ「シチズンボウル」の現状。
◆写真中下は、1936年(昭和11)と1948年(昭和23)の空中写真にみる市電(都電)の早稲田車庫とその周辺。は、1932年(昭和7)2月28日の総会前に配布された「城西消費組合創立総会」資料に掲載の「落合消費組合」に関する総括項目。
◆写真下は、「城西消費組合創立総会」資料の表紙。総会が行われた翌日早々に、内務省の特高警察による発禁処分のハンコが押され、その理由に該当するページを指摘した記載が見える。は、城西消費組合の事務所敷地で行われた“よいとまけ”Click!

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下落合の「妙」に心打たれた緒形拳。 [気になる下落合]

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 2008年(平成20)10月、下落合(現・中落合/中井含む)で俳優・緒形拳Click!の葬儀がいとなまれた直後に、「緒形拳の下落合散歩」Click!という記事を書いたことがある。親しい身内の方たちだけの、こじんまりとした葬儀だったらしいが、わたしのもとにも葬儀のウワサが聞こえてきたので、生前の彼がたまに薬王院Click!界隈を散歩していたことや、下落合が舞台のドラマClick!に出演していたことなどとからめて書いた憶えがある。
 葬儀が行われたのは、下落合2080番地(現・中井2丁目)の法華宗獅子吼会(戦前は大日本獅子吼会Click!)の本堂だった。わたしは以前の記事で、緒形拳と下落合とのかかわりができたのは、ここを地元とするドラマ『さよなら・今日は』Click!(NTV)がきっかけだったのかもしれないと書いた。だが、彼と下落合とのつながりはもっとはるか以前からで、1942年(昭和17)にもの心がつきはじめた5歳のとき、母親に手を引かれて下落合を訪れたときから、すでにはじまっていたのだ。
 法華宗寺院の大日本獅子吼会については、これまで拙サイトでも金山平三アトリエClick!とともに、蘭塔坂(二ノ坂)Click!上のわかりやすいメルクマールとして、あちこちの記事でずいぶん引用してきたが、1913年(大正2)に開山された同宗については、あまり詳しく触れてはこなかった。わたしの「仏教ギライ」のせいもあるが、改めて1932年(昭和8)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から、同宗の解説を引用してみよう。
  
 本門法華宗 獅子吼会本部 会長 大塚日現
 本会は大正二年大塚日現師により開山せられてより、天下の民生は翁然としてその法傘の下に集まり、現在信徒十万余人布教師二十五名付属教会十六箇所を算し今や北郊に於て有力なる宗教団体を以て目視せられてゐる、殊に会祖が勤行の傍ら新築したる大伽藍は外形的にも優に落合の一名所を創造したるものである。会祖大塚日現師は俗世の生を上総の辺陬(へんすう)に享け夙に小野山日風師に就て得度を受け岡野現相師の教化を仰ぎ真に大徳の風格を偲ばしむるものがある、而も行業世に絶し当代に於ける俗臭紛々たる宗教家と其選を異にし日夜救世済民の為めに獅子吼的説法を懈(おこた)らざるのみならず、私財を投じて幾多慈善事業を実施し、且つ精神界人多しと雖、如何なる難病奇病も全快せしむる慈悲心と神通力を有するものは蓋し師をおいて他に求め得難い、現代人間社会に活仏と欽迎されてゐる。(カッコ内引用者註)
  
 どんな「難病奇病」も、その「神通力」をもって治してしまうという日現会長は、生命の危機が迫る1945年(昭和20)のイザというとき、東京の(城)下町Click!から尻はしょりで逃げだしていった、外来宗教の坊主たちClick!(親たちの世代からさんざん聞かされた)を本質的に信用していないわたしには、まったく「ウソクセ!」としか響かないのだが、それでも戦前は多くの信者たちを集めていたらしい。
 緒形拳の母親も、法華宗セクトのひとつである大日本獅子吼会の、大正期に開山して以来の信者だったのかもしれない。5歳になる子どもを連れて、下落合の山門をくぐっている。なんの用事で参拝したのかは不明だが(下落合には同寺の墓地がないので墓参りではない)、緒形拳は本堂に架けられていた扁額の前で、ジッと動かなくなってしまった。そのときの様子を、1993年(平成5)に東京書籍から出版された緒形拳『恋慕渇仰』から引用してみよう。
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 五歳、母に連れられて行った下落合のお寺で、扁額の書を見て動けなくなってしまった。なんて書いてあるのか訊くと、「妙」だという。/その頃から筆で書いている。/あまり進歩はない。/楷書しか書けない。/習ったことも教わったこともないのだから、くずしようもないのだ。(中略) 自分で読んでも下手だなと思う。バカバカしさも俺のうちだから、あえて打ち消すこともあるまい。/役者の余技かなと思っていたら、いやそうでもなくって、たとえば紙であったり、やきものであったり、布であったり板であったり、相手役がいろいろ変わるが、要するに俺のひとり芝居のようなものだ。
  
 5歳児の記憶だが、「妙」と書かれた扁額に強い印象を受けた様子がわかる。
 緒形拳は、1937年(昭和12)に牛込区(現・新宿区の一部)で生まれ育っている。1941年(昭和16)に日米戦争がはじまったときは、いまだ4歳で記憶も不確かな幼児のころだった。今日の感覚でいえば、扁額「妙」を見たときは幼稚園生ということになる。それでも5歳とはいえ、戦前の大日本獅子吼会本堂に架けられていた扁額の文字をハッキリ憶えていたのだから、よほどの衝撃的な出来事だったのだろう。
 彼の父親は、髪を長くのばしたまま坊主刈りを拒否していたせいで、戦時中は町会(隣組)Click!から常に「非国民」と非難・恫喝されていたらしい。1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で自宅が焼け、母親の遠い親戚が住んでいた長野県に疎開している。その後、「書」にのめりこんだことを考えると、緒形拳はこのころからすでに筆をしじゅう手にしていたのかもしれない。
 『復讐するは我にあり』(監督・今村昌平/1979年)を撮り終えたあと、常に「自閉症気味の緊張感」がついてまわり、「ハナもミもなくイロケなしの役者には、終生ついてまわる症候だろう」と書いているところをみると、書や焼き物などは緊張感をときほぐし気分転換するための、あるいは自身を勇気づけ、自信をもたせ奮い立たせるための、もうひとつの欠かせない“仕事”だったのかもしれない。
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 緒形拳の書の中に、「ちる櫻 残るさくらも 散る櫻」という作品がある。1974年(昭和49)制作の、下落合を舞台にしたドラマ『さよなら・今日は』Click!では、高橋清(緒形拳)役のセリフとして「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生さ」とつぶやくシーンが、少なくとも3ヶ所ほど記録されている。ひょっとすると、台本のセリフの中に思わず挿入した、彼自身のアドリブだったのかもしれない。
 緒形拳は、真鶴にアトリエをかまえていたかなり年上の画家・中川一政Click!と親しく交流しているが、新国劇Click!時代には三岸好太郎Click!熊谷守一Click!との妙な「縁」があった。『恋慕渇仰』から、再び引用してみよう。
  
 新国劇に入って、“右に芸術、左に大衆”と歌っていた頃、島田正吾先生の楽屋に、熊谷守一の描いた誕生仏が、ぽんと置いてあった。/手足が異様に大きく、とてもお釈迦さまに見えないが、まさしく唯我独尊がそこにあった。/それを見てしばらく立ちすくんでしまった。茫然とすくんでいた。/師の辰巳柳太郎は、三岸好太郎の『家族の肖像』という小さい油彩をこよなく愛し、ひとときも傍から離さなかった。巡業先の楽屋、旅館でも。/その絵は記念写真のようで、幼児をはさんで夫婦が椅子にまっすぐ坐り、緑濃い木立の中に犬が寝そべっている。(中略)肉親愛に薄かった幼児体験からか、希望願望を乗り越えて、一枚の絵が彼をとりこにするぬくもりがその小さな絵から香ってくる。/肌ざわりの良い絵である。
  
 新国劇では、終生のライバルである島田正吾が好きな熊谷守一の作品を、辰巳柳太郎は「あっさりしとって厭」と嫌っていた。面白いのは、淡白で自然な演技を標榜していた水彩画のような辰巳柳太郎と、こってりとした肉厚な演技を好む油彩画のような島田正吾とでは、絵の趣味がまったく正反対だったという点だ。このふたりの役者は、お互い“ないものねだり”を絵に求めていたのだろうか。
 やがて、辰巳柳太郎は愛蔵する三岸好太郎作品を、「やるッ!」と緒形拳に譲った。緒形が「これは三岸好太郎ですよ!」と念押しすると、「誰でもええわ」といってポイッとくれたようだ。これには後日譚があって、偶然に三岸節子Click!と知りあった緒形拳は、師からもらった三岸好太郎の『家族の肖像』を自慢げに見せた。すると、彼女はしばらく画面を見たあと、静かに首を横にふった。贋作だったのだ。
 島田正吾が所有していた熊谷守一の『唯我独尊』は、画面に釈迦の絵とともに「唯我獨尊」という筆文字が書かれていたようだ。その書について、緒形拳は「良寛も会津八一Click!も、北大路魯山人も辿りつけない何かがある」と書いているけれど、熊谷守一は長生きして膨大な作品を描いているとはいえ、こちらも贋作でないことを祈るばかりだ。
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 わずか5歳のとき、母親と下落合で「妙」の扁額に見入っていた幼児は、やがて書をこよなく愛する大俳優になった。いや、本人にすれば、人生の後半は書や旅の合い間に俳優業……というような意識だったものだろうか。どこに成長への奇跡の芽が、さりげなく存在しているか知れたものではないと、わたしはもう一度、下落合じゅうを見まわしてみる。

◆写真上:戦災からもまぬがれた、解体前の大日本獅子吼会の昭和本部。
◆写真中上は、1932年(昭和7)に撮影された大日本獅子吼会本部。は、母に連れられた5歳の緒形拳が目にして動けなくなった堂内の扁額「妙」。
◆写真中下は、細かな彫刻がほどこされた現在の獅子吼会山門。は、1993年(平成5)出版のグラフィックデザイナー・鬼澤邦が装丁を担当した緒形拳『恋慕渇仰』(東京書籍)のカバー()と表紙()。は、アトリエで“仕事”をする緒形拳。
◆写真下は、中川一政について書いた「真鶴の巨人」。は、緒形拳の書「ちる櫻 残るさくらも 散る櫻」。は、1924年(大正13)ごろ制作された三岸好太郎『家族像』。

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