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下落合の「妙」に心打たれた緒形拳。 [気になる下落合]

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 2008年(平成20)10月、下落合(現・中落合/中井含む)で俳優・緒形拳Click!の葬儀がいとなまれた直後に、「緒形拳の下落合散歩」Click!という記事を書いたことがある。親しい身内の方たちだけの、こじんまりとした葬儀だったらしいが、わたしのもとにも葬儀のウワサが聞こえてきたので、生前の彼がたまに薬王院Click!界隈を散歩していたことや、下落合が舞台のドラマClick!に出演していたことなどとからめて書いた憶えがある。
 葬儀が行われたのは、下落合2080番地(現・中井2丁目)の法華宗獅子吼会(戦前は大日本獅子吼会Click!)の本堂だった。わたしは以前の記事で、緒形拳と下落合とのかかわりができたのは、ここを地元とするドラマ『さよなら・今日は』Click!(NTV)がきっかけだったのかもしれないと書いた。だが、彼と下落合とのつながりはもっとはるか以前からで、1942年(昭和17)にもの心がつきはじめた5歳のとき、母親に手を引かれて下落合を訪れたときから、すでにはじまっていたのだ。
 法華宗寺院の大日本獅子吼会については、これまで拙サイトでも金山平三アトリエClick!とともに、蘭塔坂(二ノ坂)Click!上のわかりやすいメルクマールとして、あちこちの記事でずいぶん引用してきたが、1913年(大正2)に開山された同宗については、あまり詳しく触れてはこなかった。わたしの「仏教ギライ」のせいもあるが、改めて1932年(昭和8)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から、同宗の解説を引用してみよう。
  
 本門法華宗 獅子吼会本部 会長 大塚日現
 本会は大正二年大塚日現師により開山せられてより、天下の民生は翁然としてその法傘の下に集まり、現在信徒十万余人布教師二十五名付属教会十六箇所を算し今や北郊に於て有力なる宗教団体を以て目視せられてゐる、殊に会祖が勤行の傍ら新築したる大伽藍は外形的にも優に落合の一名所を創造したるものである。会祖大塚日現師は俗世の生を上総の辺陬(へんすう)に享け夙に小野山日風師に就て得度を受け岡野現相師の教化を仰ぎ真に大徳の風格を偲ばしむるものがある、而も行業世に絶し当代に於ける俗臭紛々たる宗教家と其選を異にし日夜救世済民の為めに獅子吼的説法を懈(おこた)らざるのみならず、私財を投じて幾多慈善事業を実施し、且つ精神界人多しと雖、如何なる難病奇病も全快せしむる慈悲心と神通力を有するものは蓋し師をおいて他に求め得難い、現代人間社会に活仏と欽迎されてゐる。(カッコ内引用者註)
  
 どんな「難病奇病」も、その「神通力」をもって治してしまうという日現会長は、生命の危機が迫る1945年(昭和20)のイザというとき、東京の(城)下町Click!から尻はしょりで逃げだしていった、外来宗教の坊主たちClick!(親たちの世代からさんざん聞かされた)を本質的に信用していないわたしには、まったく「ウソクセ!」としか響かないのだが、それでも戦前は多くの信者たちを集めていたらしい。
 緒形拳の母親も、法華宗セクトのひとつである大日本獅子吼会の、大正期に開山して以来の信者だったのかもしれない。5歳になる子どもを連れて、下落合の山門をくぐっている。なんの用事で参拝したのかは不明だが(下落合には同寺の墓地がないので墓参りではない)、緒形拳は本堂に架けられていた扁額の前で、ジッと動かなくなってしまった。そのときの様子を、1993年(平成5)に東京書籍から出版された緒形拳『恋慕渇仰』から引用してみよう。
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 五歳、母に連れられて行った下落合のお寺で、扁額の書を見て動けなくなってしまった。なんて書いてあるのか訊くと、「妙」だという。/その頃から筆で書いている。/あまり進歩はない。/楷書しか書けない。/習ったことも教わったこともないのだから、くずしようもないのだ。(中略) 自分で読んでも下手だなと思う。バカバカしさも俺のうちだから、あえて打ち消すこともあるまい。/役者の余技かなと思っていたら、いやそうでもなくって、たとえば紙であったり、やきものであったり、布であったり板であったり、相手役がいろいろ変わるが、要するに俺のひとり芝居のようなものだ。
  
 5歳児の記憶だが、「妙」と書かれた扁額に強い印象を受けた様子がわかる。
 緒形拳は、1937年(昭和12)に牛込区(現・新宿区の一部)で生まれ育っている。1941年(昭和16)に日米戦争がはじまったときは、いまだ4歳で記憶も不確かな幼児のころだった。今日の感覚でいえば、扁額「妙」を見たときは幼稚園生ということになる。それでも5歳とはいえ、戦前の大日本獅子吼会本堂に架けられていた扁額の文字をハッキリ憶えていたのだから、よほどの衝撃的な出来事だったのだろう。
 彼の父親は、髪を長くのばしたまま坊主刈りを拒否していたせいで、戦時中は町会(隣組)Click!から常に「非国民」と非難・恫喝されていたらしい。1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で自宅が焼け、母親の遠い親戚が住んでいた長野県に疎開している。その後、「書」にのめりこんだことを考えると、緒形拳はこのころからすでに筆をしじゅう手にしていたのかもしれない。
 『復讐するは我にあり』(監督・今村昌平/1979年)を撮り終えたあと、常に「自閉症気味の緊張感」がついてまわり、「ハナもミもなくイロケなしの役者には、終生ついてまわる症候だろう」と書いているところをみると、書や焼き物などは緊張感をときほぐし気分転換するための、あるいは自身を勇気づけ、自信をもたせ奮い立たせるための、もうひとつの欠かせない“仕事”だったのかもしれない。
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 緒形拳の書の中に、「ちる櫻 残るさくらも 散る櫻」という作品がある。1974年(昭和49)制作の、下落合を舞台にしたドラマ『さよなら・今日は』Click!では、高橋清(緒形拳)役のセリフとして「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生さ」とつぶやくシーンが、少なくとも3ヶ所ほど記録されている。ひょっとすると、台本のセリフの中に思わず挿入した、彼自身のアドリブだったのかもしれない。
 緒形拳は、真鶴にアトリエをかまえていたかなり年上の画家・中川一政Click!と親しく交流しているが、新国劇Click!時代には三岸好太郎Click!熊谷守一Click!との妙な「縁」があった。『恋慕渇仰』から、再び引用してみよう。
  
 新国劇に入って、“右に芸術、左に大衆”と歌っていた頃、島田正吾先生の楽屋に、熊谷守一の描いた誕生仏が、ぽんと置いてあった。/手足が異様に大きく、とてもお釈迦さまに見えないが、まさしく唯我独尊がそこにあった。/それを見てしばらく立ちすくんでしまった。茫然とすくんでいた。/師の辰巳柳太郎は、三岸好太郎の『家族の肖像』という小さい油彩をこよなく愛し、ひとときも傍から離さなかった。巡業先の楽屋、旅館でも。/その絵は記念写真のようで、幼児をはさんで夫婦が椅子にまっすぐ坐り、緑濃い木立の中に犬が寝そべっている。(中略)肉親愛に薄かった幼児体験からか、希望願望を乗り越えて、一枚の絵が彼をとりこにするぬくもりがその小さな絵から香ってくる。/肌ざわりの良い絵である。
  
 新国劇では、終生のライバルである島田正吾が好きな熊谷守一の作品を、辰巳柳太郎は「あっさりしとって厭」と嫌っていた。面白いのは、淡白で自然な演技を標榜していた水彩画のような辰巳柳太郎と、こってりとした肉厚な演技を好む油彩画のような島田正吾とでは、絵の趣味がまったく正反対だったという点だ。このふたりの役者は、お互い“ないものねだり”を絵に求めていたのだろうか。
 やがて、辰巳柳太郎は愛蔵する三岸好太郎作品を、「やるッ!」と緒形拳に譲った。緒形が「これは三岸好太郎ですよ!」と念押しすると、「誰でもええわ」といってポイッとくれたようだ。これには後日譚があって、偶然に三岸節子Click!と知りあった緒形拳は、師からもらった三岸好太郎の『家族の肖像』を自慢げに見せた。すると、彼女はしばらく画面を見たあと、静かに首を横にふった。贋作だったのだ。
 島田正吾が所有していた熊谷守一の『唯我独尊』は、画面に釈迦の絵とともに「唯我獨尊」という筆文字が書かれていたようだ。その書について、緒形拳は「良寛も会津八一Click!も、北大路魯山人も辿りつけない何かがある」と書いているけれど、熊谷守一は長生きして膨大な作品を描いているとはいえ、こちらも贋作でないことを祈るばかりだ。
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 わずか5歳のとき、母親と下落合で「妙」の扁額に見入っていた幼児は、やがて書をこよなく愛する大俳優になった。いや、本人にすれば、人生の後半は書や旅の合い間に俳優業……というような意識だったものだろうか。どこに成長への奇跡の芽が、さりげなく存在しているか知れたものではないと、わたしはもう一度、下落合じゅうを見まわしてみる。

◆写真上:戦災からもまぬがれた、解体前の大日本獅子吼会の昭和本部。
◆写真中上は、1932年(昭和7)に撮影された大日本獅子吼会本部。は、母に連れられた5歳の緒形拳が目にして動けなくなった堂内の扁額「妙」。
◆写真中下は、細かな彫刻がほどこされた現在の獅子吼会山門。は、1993年(平成5)出版のグラフィックデザイナー・鬼澤邦が装丁を担当した緒形拳『恋慕渇仰』(東京書籍)のカバー()と表紙()。は、アトリエで“仕事”をする緒形拳。
◆写真下は、中川一政について書いた「真鶴の巨人」。は、緒形拳の書「ちる櫻 残るさくらも 散る櫻」。は、1924年(大正13)ごろ制作された三岸好太郎『家族像』。

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