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棒打ち歌が流れる西落合の初夏。 [気になる下落合]

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 下落合や上落合の物語やエピソードは、過去にずいぶんご紹介してきているが、葛ヶ谷(のち西落合)の記事は相対的に数が少なめだ。葛ヶ谷(西落合)地域の耕地整理が進み、人々が多く住みはじめたのが昭和10年代以降なので、それまでは東京近郊の典型的な農村だったせいなのだが、西落合にあった斎藤牧場Click!の証言につづき、たまには同地域に拡がる農村をテーマにした記事を書いてみたい。
 ずいぶん以前に落合地域の西隣り、野方町上高田の農村風景Click!について、いくつか記事Click!にしたことがあったけれど、落合町西落合での農村生活もかなり似たような状況だった。大正期から昭和初期にかけ、そこで語られているのは農作業のたいへんさや辛さであり、肥料(下肥など)のたいせつさであり、年一度の村祭りの楽しみであり、さまざまな講の寄り合いであり、落合名産のダイコンClick!沢庵漬けClick!、そして「落合柿(禅寺丸)」Click!という秋の味覚だった甘いカキの話だ。
 1926年(大正15)に落合町葛ヶ谷で生まれた伊佐孝孔という方は、大江戸(おえど)期から250年ほどつづいていた地元の古い農家で育っている。1959年(昭和34)までそのまま建っていた屋敷は、戦災にも焼けずに大江戸の文政年間に建てられた茅葺きの寄棟造りだった。屋根を葺く茅が手に入らなくなり、同年に解体されて新たな自宅を建設している。子どもが12人もいる大家族の中で育ったが、長男は戦死し二男は事故死して、三男の彼が家業を継ぐことになったようだ。
 耕作地は、新井薬師のほうに地主がいたようなのだが、かなり広い土地を借りていたらしく内証は比較的豊かだった。ただし、農作業の手伝いは小学校高学年のころからはじめており、高等科(高等小学校)の2年生になると生産物を淀橋市場へ卸しにいくときは、父親が引く大八車Click!の後押しをしている。当時の様子を、1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会から発行された『新宿に生きた女性たちⅢ』収録の証言記録、伊佐孝孔「農場に生きた母の思い出」から引用してみよう。
  
 下肥は昭和の初めまでは、お金の代わりに空の桶に菜っ葉とか茄子のせて、主に神田方面に汲み取りに行ってたね。現物支給だね。今日は江戸へ行ってくるよってね。(中略) 金肥も使ったね。ホシカ(干した鰯の粕)は俵でおじいさんが長崎(豊島区)から買ってきてさ。臼で細かくひいたものを使ったんだよ。それに藁を細かく切ったものとか糠とか混ぜて「マゼ」っていうのを作ったんですよ。それをコイマっていう肥料小屋に入れておくんです。/それと肥溜めが二つあったの。三畳ぐらいの大きさで真ん中に角入れて厚い板渡しておくの。下肥入れるときはその板はがすんですよ。(中略) 「マゼ」や落ち葉の上にお風呂の水かけて発酵させるの。農家はみんな鶏飼ってるでしょ。その鶏糞を茄子にやると真っ黒いいい茄子になるの。さつま芋には糠と藁灰やると甘いのができるんですよ。胡瓜、とうがんはホシカが効くね。
  
 うまい郊外野菜を作るには、いかに肥料が重要なのかがわかる証言だ。ただし、下肥で育てた野菜を食べると、必ず腹に回虫がわくので定期的に「海人草」という虫下し薬を飲まされた。まずかったようで、飲むと褒美にドロップがもらえたらしい。
 昭和10年代になっても、東京市街地へ出かけるときは昔ながらに「江戸へ行ってくるよ」というのが慣例だったようだ。まるで、佃島Click!住民たちの口ぐせのようで面白い。
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 毎年11月になると、畑から大量の落合ダイコンを抜いてきて洗い、荒縄で10本ずつしばって、空き地に材木で組んだ干し場にかけるのが恒例だった。夜は凍らないように菰(こも)をかけ、朝になると菰をとって干す作業を1ヶ月間もつづけている。最盛期には米国のハワイまで輸出していた、落合地域恒例の沢庵漬けの仕込み作業だ。多いときは伊佐家だけで、ダイコンを四斗樽に100樽ほども漬けていたらしい。
 塩はかます(蒲簀)単位で買い、100俵ほど使う糠は椎名町Click!の米屋あるいは糠屋に注文している。沢庵漬けは、年内に出荷するのが甘塩、長く漬け保存食として出荷するのが辛塩と、2種類を製造していた。当時の沢庵漬けは、製品として仕上がる前にブローカーが買いつけにきて、漬け樽に紙の買約済みマークを貼って歩いたそうだ。落合地域の買約は「桜」マークが多く、陸軍への納品が多かった。
 伊佐家では、米作りは大正期でやめており、昭和初期はおもに麦や前栽物(野菜のこと)の作つけをしていた。主要な野菜は、ナスにトウガン、トウモロコシ、サントウナ、カボチャ、キュウリ、トマトなどだった。年間を通じての農作業スケジュールを見ると、西隣りの上高田とほぼ同じようなサイクルだったのがわかる。1月から2月の仕事は、ほぼダイコンの栽培にあてられ、苗床づくりが行われる。苗を板で囲い、そこへ麦殻や切り藁を入れて保温し、夜になると霜が降りないよう上から障子紙に油紙を貼ったものをかける、たいへん手間のかかる作業だった。冬から春にかけては、前述した近郊野菜類を育てる。
 麦秋(5~6月)になると、麦刈りのあとの「ぼうち(棒打ち=脱穀)」作業が待っている。5~6人がクルリ棒を使い、棒打ち歌を唄いながら脱穀作業を進める。以前、隣りの上高田に伝わる麦刈りあとの棒打ち歌Click!をご紹介しているが、落合地域でも同じような歌が唄われていたのだろう。秋になると、落合地域の名産だった「落合柿(禅寺丸)」の収穫がはじまるが、伊佐家では自家で食べるため出荷はしなかったようだ。
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 市場への出荷の様子を、『新宿に生きた女性たちⅢ』から再び引用してみよう。
  
 朝荷出すのは一時か二時ね。おふくろも起きて提灯つけて送りだすのね。早稲田へ行くことも神田へ行くこともあったね。朝飯は食べないで、向こうへ行ってから安い丼飯食べたようだよ。牛車とか大きなリヤカー使うから、目白坂とか急な坂道では、立ちんぼに二銭か三銭で押してもらうこともあったって。/地物は夜市にだすのね。長崎の「山政」っていうのに出してたよ。新田の千川通りにもあったね。小さな市場は廃止になっちゃって、昭和一四年に公設の淀橋分場(市場)に行くようになったの。/おじいさんが葛が谷の政五郎だから、屋号は「葛政」で通してたの。「葛政」の品はものがいいから、いい値がついてよく売れたよね。仕切りがすんで帰るのは夜九時半か一〇時頃ね。空の荷車引いて帰るの。仕切りがいいと親父はちょっと一杯って飲んで帰るの。帰ると仕切りを神棚のおえべす様(恵比須様)に上げてポンポンって両手合わせると、全部おばあさんが取り上げちゃうんだって。
  
 この証言の中でも、荷を積んだ大八車やリヤカー、ときにはトラックを見かけると、目白坂Click!の下にいて「押しましょう、押しましょう」と声をかける数人の“押し屋”Click!が登場している。卸し先の「早稲田」とは、市電早稲田車庫Click!の裏(南側)にあった、早稲田大学キャンパスの西北隣りにあたる早稲田市場のことだろう。「仕切り」は売上げ金のことだが、東京郊外でも女性が家内をとり仕切っていた様子がうかがえる。
 また、「山政」とはダット乗合自動車Click!(のち東環乗合自動車Click!)が走る目白バス通り(現・長崎バス通り)にある、長崎町の山政マーケットClick!のことだとみられ、昭和初期には千川通りにも同マーケットが開場していたようだ。あるいは、千川通りのマーケットのほうが先で、目白バス通りはあとから建設されているのかもしれない。拙ブログでは、小川薫様Click!の証言で目白バス通りに面して寄席「目白亭」Click!の跡地に建てられた、現存する山政マーケットが何度も登場している。
 家に蓄えの現金が少なくなると、農作業の合い間に、あるいは不作で現金収入が少ない年など、葛ヶ谷の農家では手間稼ぎ(出稼ぎ)がよく行われた。多くの場合、2月から3月にかけての農閑期に出かけ、おもに榎町や鶴巻町の植木屋でのアルバイトだったらしい。関東大震災Click!から昭和初期にかけ、東京の西郊では住宅地が急ピッチで造成されていた時期にあたり、庭に植える植木の需要は急増していただろう。ときには、地元の街の公共事業(道路普請や下水工事など)での土工アルバイトもあったようだ。
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 葛ヶ谷(西落合)は古くから自性院Click!があるせいか、真言宗豊山派の念仏講が盛んだったらしく、伊佐家に限らず同地域の証言には夜通し行われる同講が登場する。それほど信心深い地域だったのかというと、実はそうではなくて年寄りたちの井戸端会議場になっていたフシが見える。念仏講の参加者には年配者が多く、念仏が終ったあとはご馳走や菓子類が各家庭でふるまわれ、それを食べながら徹夜でおしゃべりを楽しむのが恒例だったようだ。

◆写真上:念仏講が盛んだった葛ヶ谷(西落合)にある、真言宗豊山派の自性院山門。
◆写真中上は、戦後間もないころに撮影された住宅と農家、畑地が混在する西落合の風景。は、大正期には落合地域のあちこちで見られた大根干し。
◆写真中下は、収穫期である麦秋(5月ごろ)の麦畑。は、収穫した麦を脱穀する棒打ち(ぼうち)作業の様子で家族総出で行う重労働だった。1982年(昭和57)に出版された、『ふる里上高田の昔語り』(いなほ書房)の挿画より。
◆写真下は、「落合柿」とも呼ばれた地元を代表する甘い禅寺丸。は、モダンな住宅と藁葺き屋根の農家が対照的な西落合の畑地。は、現在はシャッターが閉まっていることが多い長崎バス通りに面した「夜市」の山政マーケットの現状。

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