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ラジオ体操に駆逐された和式「自彊術」。 [気になるエトセトラ]

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 いまや学校や職場でよく行われている、ラジオ体操が広く普及したのは昭和10年代以降のことだ。1928年(昭和3)に、NHKが米国の放送局をまねてドイツ風の体操を導入し、ラジオで流しはじめたのが最初だった。
 それまで、日本には学校や職場で行われる、いわゆる「体操」が存在しなかったのかというと、そんなことはない。明治末から昭和初期にかけ、中井房五郎が発明した「自彊術(じきょうじゅつ)」体操というのが普及していた。おカネ持ちだけでなく、一般家庭にまでラジオが普及しはじめると、ラジオ体操のほうがピアノの伴奏も軽快で手軽にできるので人気が高まり、日本生まれの自彊術はあまり顧みられなくなっていった。
 従来、自彊術体操を定期的に行ない健康増進をしていた人も、周囲がこぞってラジオ体操に移行するのでそちらに参加するようになり、徐々に日本式体操である自彊術は行われなくなっていった。小中学校で採用された体操が、ラジオ体操で統一されていったのも、既存の体操が廃れる要因となったのだろう。ちょうど、欧米式のクロールやバタフライとなどの水泳法が学校で導入され、和式泳法が廃れていったのにも似ている。
 1985年(昭和60)に文藝春秋から出版された、吉村昭Click!の『東京の下町』にこんな記述がある。日暮里の諏訪大に通う富士見坂Click!(畳坂→骸骨坂→妙隆坂→1927年ごろ富士見坂Click!)界隈を、著者が訪ね歩いたときのレポートだ。
  
 (富士見坂沿いの)平塚氏の家を出て参拝道を進むと、右側に戦前そのままの二階家が並んでいる。二階にスダレが垂れ、軒下には植木鉢がいくつも置かれている。左手には、道に面していたニコニコ会館が露地の奥になっていた。/平塚氏の話によると、ニコニコ会館の館主及川清氏は、東洋的な身体健康法である自彊術を習得し、羽織、袴に十徳頭巾をかぶって一条公爵家などの名家にも出入りしていたという。諏方神社境内で早朝におこなわれていたラジオ体操に、及川氏も加わるようになった。/「及川さんが裸になったのは、昭和十二年です」/平塚氏の言葉が、なんとなく可笑しかった。(カッコ内引用者註)
  
 吉村昭は「東洋的な身体健康法」と書いているが、自彊術は純日本式の体操だった。「及川清」(及川裸観)の名前があるけれど、真冬でも上半身が裸で全国各地に出没し、ときに氷が張った湖にワカサギ釣りのような穴をあけて浸かりながら、「ワ~ハッハッハッ……」と笑っている変わったヲジサンだ。w 
 自彊術が広く普及しだしたのは、1916年(大正5)に中井房五郎が『自彊術』という本を出版してからだろう。同書の「序」には、後藤新平が文章を寄せている。それまでは、道場に通える範囲の生徒を対象に、独自の和式体操を教えていたようだが、弟子のひとりで巣鴨の金門商会を経営していた十文字大元の脊髄炎を治したことがきっかけで、書籍なども出版され広く普及するようになった。それまで、中井房五郎の体操には名前がなかったが、「自彊術」とネーミングしたのは弟子だった十文字大元だ。
 金門商会は1904年(明治37年)に、神田で誕生した日本初国産ガスメーターのパイオニア企業だ。1912年(明治45)に巣鴨の台地上へ移転し、約3,000坪の工場でガスメーターばかりでなく水道メーターの生産もはじめている。現在でもアズビル金門として、各種メーターを製造しつづける大手の精密機器メーカーとして健在だ。金門商会の工場が建設された、山手線の大塚駅と巣鴨駅のちょうど中間にあたる鉄道沿いの高台、巣鴨町1232~1247番地(のち巣鴨町6丁目1234番地/現・巣鴨3丁目)は「金門台」と呼ばれ、現在は工場跡および隣接地が十文字学園のキャンパスになっている。
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 当時の金門商会の巣鴨工場について、1994年(平成6)に豊島区立郷土資料館から発行された、『町工場の履歴書』Click!特別展図録から引用してみよう。
  
 大正5(1916)年刊『東京模範百工場』には豊島区地域で唯一金門商会が紹介されており、そこには工場の機械設備が完備しており、衛生係や嘱託医を置いて約300人の職工の健康や食事を管理しているとあり、当時の工場の労働環境としてはかなり恵まれていたといえます。その工場長として(十文字)大元氏と共に金門商会を作りあげた桑沢松吉は、大正14年巣鴨町長に選出され、町政をも担うことになります。/また大元は脊髄炎を克服した経験から、自ら考案した自彊術を工場の寄宿舎の徒弟や職工に毎日実践させ、道場を地元住民にも開放して自彊術の普及に努めるとともに、大正11年妻ことが文華高等女学校(現十文字高校)を設立する際に資金面で援助し、女性の体位向上のため自彊術を導入するなど、教育面でも地域に貢献したことは注目されます。(カッコ内引用者註)
  
 文中で「自ら考案した自彊術」とあるが、最初に考案したのは中井房五郎であり、普及に努めたのが十文字大元・こと夫妻ということになる。
 十文字大元は、ガスや水道のメーターを製造する金門商会の経営ばかりでなく、兄といっしょに十文字兄弟商会を設立し、消火器や噴霧器、発動機、発電機などを輸入販売している。輸入品の中には、映像を投影する最新のバイタスコープがあり、それに初めて「映写機」という商品名をつけたのは十文字大元だった。
 さて、十文字大元の妻・ことは、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業すると各地で教師をしていたが、1899年(明治39)に大元と結婚すると基本的に教師をやめている。結婚後もつづけていた、日本女学校(現・相模女子大学)を最後に子育てと主婦業をつづけていたが、もともと自分が理想とする女学校を設立する夢をもっていた彼女は、巣鴨町の桑沢町長(金門商会工場長)と夫に相談している。そして、大元の援助を受けて1922年(大正11)、金門商会の工場敷地に隣接して文華高等女学校を創設している。
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 十文字ことの学校設立に関して、同図録の「女学校と自彊術」から引用してみよう。
  
 大正11(1922)年4月、夫の資金援助を得て、同窓の戸野みちゑ・斯波安と共に、工場近くの元玩具工場(木造2階建て)を仮校舎とし、定員500名の文華高等女学校を開校したのである。そこでは女子の教育機会の提供と体位の向上が目的に掲げられ、自彊術の実践は学校の特色の1つとなった。/昭和10(1935)年学校はこと一人の経営となり、金門商会隣の大日本電球工場(通称スメラランプ)跡地約2850坪を私財を投じて購入、翌年鉄筋コンクリート3階建ての校舎が落成し、12年校名を十文字高等女学校に改めた。/昭和20(1945)年空襲で全焼したが、戦後新学制の下に復興、現在学校法人十文字学園として幼稚園から短大までの一貫教育が行われている。
  
 1945年(昭和20)の「空襲で全焼」は、巣鴨に疎開していた巌本真理Click!の祖父の邸宅が焼けた、同年4月13日夜半の第1次山手空襲だったと思われる。
 十文字ことが大正期、高等女学校の体操に自彊術を採用したせいで、他の学校でも採用するところが出てきたとみられる。また、今日でも自彊術を実践する人に女性が多いのは、当初女学校で採用されていたことも関係があるのだろう。ラジオ放送がスタートする以前、大正期の職場や学校では、日本式の体操である自彊術が徐々に普及していった。
 だが、吉村昭『東京の下町』に登場している、自彊術を生徒に教えられるはずの教師格だった及川清(及川裸観)でさえ、諏方神社の境内で開かれていた朝のラジオ体操に参加するようになる。ピアノのメロディにのって行われるラジオ体操は、無音でかけ声だけの地味な自彊術に比べると、華やかで賑やかで楽しげだ。
 また、ラジオ体操は気軽に子どもから大人、年寄りまでが行える軽い体操だが、自彊術は身体をしっかり鍛えて整え、身体の弱点を克服するのが目的の体操なので運動量も多く、ラジオ体操のように気が乗らないときは適当に身体を動かして済ませるわけにはいかず、体操のしっかりした“型”をもっている。そんなところも、昭和10年代から米国輸入のラジオ体操が一般受けし、日本独自の自彊術が衰退するようになっていった要因なのだろう。
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 だが、最近は女性を中心に再びブームのようで、全国にサークルなどがつくられているらしい。ラジオ体操は、短時間で身体の表面的な動きのみだが、自彊術はもう少し時間が長く、身体の不調な部分に合わせてオプションの体操も豊富なので人気があるようだ。

◆写真上:畳1枚の広さがあるとできるといわれる、和式「自彊術」の基本体操。
◆写真中上は、日暮里の諏訪台から西側の坂下に通う富士見坂。は、1916年(大正5)に出版された中井房五郎『自彊術』()と、自彊術の創始者・中井房五郎()。は、同書の内容で体操をマスターするには少し時間がかかりそうだ。
◆写真中下は、1920年(大正9)ごろに撮影された金門商会の水道メーター生産ライン。は、1916年(大正5)の1/10,000地形図にみる巣鴨町の金門商会工場。は、1922年(大正11)に開校した文華高等女学校の廃工場を活用した2階建ての初期校舎。
◆写真下は、1925年(大正14)出版の十文字大元・編『自彊術の解説と実験談』(実業之日本社/)と、編者で金門商会社長の大文字大元()。は、1935年(昭和10)ごろに撮影された講堂で自彊術体操を行なう文華高等女学校(1937年より十文字高等女学校)の女学生たち。は、昭和10年代に撮影された十文字高等女学校のキャンパス。

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ブログ17年目の今日に想うこと。 [気になる下落合]

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 この11月24日で、拙ブログは17年目を迎えた。ずいぶん長いことつづいたものだが、最近は落合地域とその周辺域のかなり細かい事績まで判明してきているので、書く側としてはますます面白い。ちょっとした記録にも、それに重ねあわせる同時代のエピソードや近所の出来事などが、シンクロしていくつも思い浮かぶ。
 それは、いわゆる通常の「郷土史」や「地域史」ではあまり語られることのない、ほんの些細な事件だったり些末な出来事だったり、ウワサ話だったり、実は錯覚にともなう誤伝だったり、その地方・地域ならではの慣習やブームだったりするのだけれど、そういう小さくて一見どうでもよさそうな物事が、地域の時代性をよく反映し、リアルな記述や表現を可能にする、たいせつな要素なのだとつくづく思う。いいつくされた言葉かもしれないが、記録や記憶を掘り起こす際の文章表現と“リアリティ”とが深く関連するテーマ、記録文学やノンフィクションにおける大きな命題のひとつだ。
 拙ブログでは、自治体あるいは公的な郷土史料(地元資料)なら目を向けないような、とるに足らないテーマや、つまらない小事件、どうでもいいようなエピソードや伝承などを、これまで大量に掘り起こしピックアップして書いてきた。別に、書くことがないから些末なテーマをあえて取りあげ、重箱のすみをつっつくような記事を書いているつもりはない。それらは、地域で語り継がれる主要な物語の「骨子」に対する、実は豊かな「肉づけ」につながるたいせつな要素だと思うからだ。
 たとえば、連作「下落合風景」Click!を描いた佐伯祐三Click!は、なぜニワトリClick!を飼育していたのか、ニワトリはどこから購入したのか、なぜ佐伯は萬鳥園種禽場Click!の住所を曾宮一念Click!あてのハガキに書きかけて何度も訂正しているのか、空き地や広場のどこで中学時代Click!から大好きな野球Click!をしていたのか、そのときご近所のチームメイトClick!には誰がいて審判Click!は誰がつとめていたのか、いつどこからなんの贈り物Click!歳暮Click!をもらっていたのか、魚屋Click!はどの店を利用していたのか、乾物屋からはどんな品物Click!をとどけてもらっていたのか、なぜ写真を撮られるとき笑顔ではなくいつも憂鬱な顔Click!になるのか?……などなど、どうでもいいようなディテールが、きわめて重要な意味を持つことさえありうる。また、だからこの現場で「下落合風景」Click!を描いていたんだな……と、新たな“気づき”や視界の拡がりなども、ときには得ることができる。
 いや、この課題は別に“有名人”に限らない。金融恐慌から大恐慌Click!を招来した昭和初期、新興住宅地の落合地域も少なからず影響を受けたとみられるが、具体的にはどのようなことが起きていたのか、新築から間もない近衛町Click!小林邸Click!目白文化村Click!安食邸Click!は、なぜすぐに転居することになったのか、この大恐慌で下落合から練馬へ移転した目白中学校Click!の卒業生たちは、どのような影響を受けているのか……?
 大正期から、東京郊外にはドロボー事件Click!が急増するが、どのようなタイプの窃盗が横行していたのか、ねらわれた家庭にはどのような住宅が多かったのか、なぜ昭和期に入ると新たなタイプのドロボーや強盗Click!が登場してくるのか、ドロボーに対するセキュリティには、各時代でどのような対策がとられているのか、また落合地域に限らず、同時代の近隣地域における状況はどうだったのか?……etc.
 各時代の些細なテーマを掘り返せばキリないが、これらの現象は落合地域で同時代に暮らしていた人々へとつながり、大なり小なり影響を与えているはずだ。彼らの日常や当時の生活観を深く理解し、よりリアルかつ正確な人物たちの暮らしぶりをとらえるためには、これらのディテールが “肉づけ”の欠かせないパーツとなって存在していることに気づく。
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 米国の記録文学者ジョン・マクフィーが、プリンストン大学で講義をした内容を再編した、『DRAFT NO.4:On the Writing Process by John McPhee』の邦訳が出た。2020年に白水社から出版された、『ノンフィクションの技法』から引用してみよう。
  
 もう一つ、わたしが未だにチョークで板書している標語に触れておこう――「一〇〇〇の細部が一つの印象をつくる」。実は、これはケーリー・グラントからの引用である。細部というものは、それ自体で意味を持つことはほとんどないが、総体としてきわめて重要だという意味である。/細かな事実のどれを記事に入れ、どれを省くかを、書き手はそもそもの初めから考えなくてはならない、現場でメモを取る記者は、言うまでもなく、実際に目に入ったものの多くを省いている。文を書くことは選択であり、出発点ですでに選択は始まるのである。わたしはメモを取るとき、後で記事に使えるとは思えないことも含め、とにかくたくさん書きとめるが、それでも選択をしている。実際に稿を起こすと、選択の幅はさらに狭まる。これはまったく主観に頼って進める作業で、自分にとって面白いことは使い、そうでないことは省くのである。未熟なやり方かもしれないが、ほかの方法をわたしは知らない。
  
 わたしが記事を書くときと、まったく同じ手順であり手法なのに驚く。わたしは取材(インタビューや資料調べの双方)をするとき、どうでもいいような些細なことまで選択的にノート(PC)に書きとめている。そして、それらの中から書こうとしている記事をよりリアルに、あるいはより面白く、さらにはより深く実情に近い空気感を盛りこむために、それらのディテールを記事の特性にあわせて混ぜあわせながら記述している。
 つまり、「落合地域のどこそこに、×××で有名な××××が住んでいて、×××××のような業績を残した」というような、味も素っ気もない、いわば教科書・論文のような記録や記述ではなく、有名無名に限らずその時代に生きた人々について、当時の具体的な暮らしの感触や周辺の環境、空気感、音や匂いなども含め、その人物に「血のかよった」有機的な物語として展開していくためには、一見些細でどうでもいいような先述のディテールが、実はとてもたいせつな関連性や意味をもってくることに気づく。ジョン・マクフィーの言葉でいえば(実際の出所はケ―リー・グラントだそうだが)、「一〇〇〇の細部」へのこだわりこそが表現(映画や文章を問わず)、すべての印象を大きく左右するのだと思う。
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 当時の人々は、実際にそれらの細かな物事を見聞きし、ときには自ら経験し、同じ環境や世相(社会状況)の空気の中で生きていたのだから、どこかで影響を受けていないわけがないのだ。しかも、それが近隣で起きた出来事やテーマ、事件・事故であればなおさら、自分自身の不安や悩みとして、あるいは自身が住んでいる地域の問題として、さらには当時の日本の課題として、どこかで認識していたにちがいない。これは別に負の課題に限らず、地域の誇りや楽しみ、喜び、祝いなどのテーマでもまったく同様だろう。
 それをあぶりだすモノが、各時代における細かな日常の些事(ないしは煩瑣事)であり、ある時代にそこで暮らしていた人物が抱いていた生活観を理解すること、彼らが目にしていた風景を想い描くこと、そして彼らをとり巻いていた空気感を呼びこみ想像することに、それらのディテールが少なからず役に立つのではないかと考える。
 換言すれば、落合地域で暮らしていた、とある人物を描こうとすれば、その人物の経歴や仕事・業績(作品など)、言動などを記述するだけでなく、その人物の性格や性癖、好き嫌い、考え方、趣味・嗜好、仕事以外のささやかなエピソード、そして彼らの周辺に存在したモノや音(生活音や音楽)、同時期に周辺で起きていたことがら、あるいは当時の社会状況などのディテールを、何重にも繰り返し重ね合わせて描写することで、よりリアルで正確な人物像をとらえることができる……と考えるのだ。
 1970年代から1990年代にかけて、数多くの優れたノンフィクション作品を残した共同通信社の斎藤茂男は、若い書き手の前でこんなことをいっている。1989年(昭和64)に築地書館から出版された、斎藤茂男『夢追い人よ』から引用してみよう。
  
 (前略) 修行というか、勉強というか、その最良の機会は「事実によって鍛えられる」という鉄則を超えるものはどうもないのじゃないか。昔から新聞記者の世界でいわれている当たり前のことだが、やっぱりわれわれは、事実というものによって視点を鍛えられて、少しずつ、少しずつ、螺旋状を描きながら自分の観点や感性を練り上げていく――そういう作風みたいなものを身につけていくしかないんじゃないか、というのが私の実感です。
  
 わたしは、記者という仕事は一度もしたことはないが、人にせよ地域にせよテーマがなんであるにせよ、それをとらえる観点や認識、ときには感性が「螺旋状を描きながら」練りあげられていく……という感覚は、この17年でなんとなくわかったような気がする。
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 しかも、デジタルメディアだからこそ、タテにつづく螺旋形の積み重ねのように記述や記録を蓄積でき、いつでも出発点となった過去のテーマ、あるいは枝分かれをした気になる記事を瞬時かつスムーズに検索し参照することができる。これが紙媒体なら、そのコンテンツにたどり着くまでのスピードや効率面では、まず困難で不可能な作業にちがいない。

◆写真:落合地域のテーマなどにからめ、近ごろの取材先や関連していそうな情景。

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勤労動員で螺旋管工場に通う料治花子。 [気になる下落合]

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 葛ヶ谷37番地(のち西落合1丁目31番地>西落合1丁目9番地)に住んだ料治花子Click!は、1944年(昭和19)に町会・隣組Click!による「勤労動員」の女子挺身隊員として、西落合にあった「〇〇螺旋管製作所」の工場へ出勤するようになった。料治花子が属する隣組は総数11家庭で、夫の料治熊太Click!には仕事があったため、料治家からは彼女が工場へ通うことになった。飛行機の部品を造る作業の日当は、弁当代も含めて1円50銭だった。
 1944年(昭和19)の時点での「勤労動員」は、いまだ軍部からの命令が「強制動員」よりもいくらかゆるかったようで、一家からひとりが隔週ごとに同じ町内の工場へ通えばよかった。また、途中から出勤しなくなったり、自分には向かない仕事だとやめてしまっても、特にとがめられたり「服務違反」で罪を問われることもなかった。落合地域の裕福な家庭では、その家の家族が動員に応じず、代わりに女中のひとりが家の“代表”として出勤するケースも多かった。
 料治花子が動員されていた勤務先の螺旋管工場は、角のように突きでた当時の西落合1丁目(現・西落合3~4丁目)の東側、葛ヶ谷の「妙見山」Click!の麓に刻まれた谷間(千川上水Click!から分岐した落合分水Click!が流れる渓谷)に沿って北上した、椎名町7丁目(現・南長崎5丁目)との境目近くにあった工場ではないかとみられる。工場の所在地が具体的に書かれていないのは、スパイの破壊工作や空襲時の目標となるのを懸念してのことだ。
 料治花子の長女(料治真弓)は、戦前に拡幅工事が終了している西落合の十三間道路Click!(現・目白通り)を歩いて、東長崎駅の北側にあった東京府立第十高等女学校(現・豊島区立豊島高等学校)へ通っているが、長女とは十三間道路の“下”で別れ、料治花子はそのまま田圃がつづく落合分水(明治以前は井草流とも)の谷間、古くは弁財天池があった谷戸という字名の渓谷を北上し、長女は“上”の十三間道路を東長崎駅方面へと歩いている。つまり、動員先の螺旋管工場は十三間道路のすぐ西側、西落合1丁目の北東端のどこかにあったと推定することができる。
 料治花子と長女が朝、出勤および登校する様子を、1944年(昭和19)に宝雲舎から出版された料治花子『女子挺身記』から引用してみよう。彼女は、西落合沿いに拡幅された十三間道路のことを、「改正道路」と表現している。
  
 今朝はまた霜がひどい。おみおつけに入れる小松菜を裏の畑へとりに行くと、葉がじわりとして冷く凍つてゐる。きつと昼間はぽかぽかした陽気になることであらう。今日も真弓(長女)と一しよに出かける。彼女は今日から学年末の考査があるのだ。今日は歴史と化学だといふことだ。(中略) 真弓は、丘の上の改正道路、わたしは下の田圃路、別れ別れだが同じ方角に向つて歩いて行く。下は霜どけでぐちやぐちやしてゐるので、草の上を選んで歩く。この二つの道はつむ形(紡錘形)に、中程はふくらんで別別だが、始めと終りは合致してゐるのである。私はどんどん歩いて、改正道路にさしかゝつた時後を振り向いてみたが、娘の姿はもう見えなかつた。途中の道を学校の方へ折れ曲つたのであらう。工場の手前に、大きな猫柳の木のあるある家があるが、この猫柳の花が、目に見えて日増しに艶やかにふくらんで行く。(カッコ内引用者註)
  
 この文章を読むと、螺旋管工場は北へ張りだす三角形をした、西落合1丁目(当時)の先端に近い位置にあったことがわかる。つまり、長女は三角形の先端までいく手前、現在の目白通りに口を開ける「コンコン通り」あたりを右折して、府立第十高等女学校(現・豊島高等学校)へと抜ける道を北へ向かっており、料治花子が「田圃路」と「改正道路」とが合流する手前、三角形の中ほどに着いて振り返っても、すでに娘の姿は見えなくなっていたのだ。
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 換言すれば、勤労動員先の螺旋管工場は、必然的に西落合1丁目(現・西落合3丁目あたり)の三角形の中間点に近い位置にあったことになる。1944年(昭和19)10月に撮影された空中写真を参照すると、三角形の中ほど東側にいくつかの家屋が確認できるが、このうちのいずれかが西落合の町会に課せられた勤労動員先の町工場ではないかと思われる。
 もう1箇所、螺旋管工場の位置を示唆する記述が登場する。工場に勤務していた、料治花子と親しかった「中さん」という工員に召集令状がとどき、出征することになったのだ。同書より、長女との会話部分から引用してみよう。
  
 『私がいつも学校へ行く時通る道に、今日出征の幟の立つてゐる家があるの、みると中正雄君つて書いてあるから、さうぢやあないかと思つて――何だかよくトラツクが出たり入つたりしてゐた家なのよ』/『さう、さう、それぢやあきつとさうよ、中さんは紙の原料をどうとかしてゐたつていつてたから――まあ、さう、どの辺?』/『東長崎の駅へ出る真直ぐの通の右側よ、十三間通路をはいつて間もなくなの――』/ぢやあ工場からもあまり遠くはない、明日工場の帰りに寄つて、一言、御苦労様、と私の微意を伝へよう――私はさう思つて、明日からまた一週間続く工場生活を想ひつゝ、作業衣、前かけ、もんぺなど、きちんと揃へて置いた。
  
 「東長崎の駅へ出る真直ぐの通」りは、長女が女学校へと通う現在のコンコン通りだとみられ、そのすぐ右手(東側)に「中さん」の自宅があったことになる。
 勤労動員の女子挺身隊に参加している家庭は、食糧品が少し多めに配給(特配)されたようだ。1944年(昭和19)春の時点では、いまだ配給品と近くの空き地で作る野菜だけで、なんとか食事がまかなえている様子がわかる。
 夕食を終えたあと、料治花子は家族とともに「近所の映画館」へ出かけている。土曜の夜が、日本映画社が制作した大本営ニュース(日本ニュース)を流す決まりだったらしく、この映画館とは料治邸を出て八千代通りを北上し、新青梅街道から目白通りを歩いて東へ600mほどのところにある「白系」の映画館、「目白松竹館」Click!(旧・洛西館Click!)のことではないか。目白松竹館は空襲で焼失するまで、戦時中は時代劇が中心の作品を上映している。
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 映画のほかにも、付近の住民は上落合2丁目670番地の古川ロッパClick!が出ている、新橋演舞場Click!などへも出かけている。薬局で話しこんだ近所の老婆は、「しばや(芝居)」を観にいったが「歌舞伎は嫌い」などと、おかしなことをいっている。
  
 『ふん、これこれ。どうもなあ、春さきになると目がくしやくしやしていけませんがな。昨日もしばやを見に行きましてなあ、目が疲れて――ほら奥さん何たらいふ役者でしたぞなあ、中井の駅でよう見るふとつた役者――』/『古川緑波でせう。おばあさん、ぢやあ昨日は新橋演舞場へいらしつたのね、面白かつたでせう』私は新聞広告を思ひ出しながら答へた。/『さうさう、あのふとつた人が座頭でせうなあ、何をしても主だつた役になりましたわえ。私はなあ、も一人の息子がまだ戦地にゐるもんで、あゝいふ兵隊の芝居が面白えですらあ。でれでれした歌舞伎やなんか嫌ひですらあ』
  
 おしゃべりな老婆は、料治花子(岡山県)と同様に中国地方の生まれだったようだが、芝居だけ「しばや」(歌舞伎のこと)と東京方言をつかっている。この記述だけでは、中国地方のどこの方言なのかは不明だが、帰り道でもしゃべりつづけ、オリエンタル写真工業Click!第1工場Click!の裏では燃料になるコークスが拾えるとつい話してしまい、教えなければよかったと後悔している様子がおかしい。
 料治花子は、洗濯をしながら食糧配給への不安な想いが絶えない。同書が書かれた時点では、敗戦前後に比べればまだはるかにマシだったはずだが、それでも不安はぬぐい切れない。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 配給の石鹸をまるで宝ものをすり減らすやうな思ひでこすりつける――石鹸とお米――誰かお酒かビールと取り換へてくれないかしら、お砂糖でもいゝわ、お砂糖なんてものも、なければなくてすむもの――でもたまにはせめて紅茶の一ぱいくらゐ飲むのにやつぱり必要かしら――いやいや、それよりも私が工場へ行き出してからお弁当が要るので、どうしてもお米が足りない、やつぱりお砂糖よりもお米がほしい――などと、自問自答しながらゆつくり洗ふ。(中略) ふと茶の間の卓の上を見た私は、かツと頭が熱くなり胸がどきついて来た。私の無念、私の後悔――憤懣やる方なき思ひに、しばし呆然と佇んだ。配給の丸干鰯を猫にとられたのである。卓の上に陽が当つてゐたので、そこへ並べて、ゆふべ九匹食べて、まだ二十三匹と数までかぞへて干しておいたものを――完全に残されたもの六匹、あとは卓の下に散乱した頭ばかり。
  
 先の映画や芝居もそうだが、夫を喜ばせるために「お酒やビール」との交換や、「紅茶の一ぱい」などと書けているうちは、まだまだ生活には余裕があった時期のことだ。
 配給制を強制している政府の、配給物自体や配給組織、輸送手段などが壊滅状態となり、配給が遅延するかストップしてしまい、「自助」で調達しなければならなくなる翌年から敗戦後の1~2年間は、餓死者が全国で続出するほどの惨状だった。
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 1945年(昭和20)8月15日の敗戦から同年の暮れまでのわずか4ヶ月間で、おおやけに報告された餓死者だけでも数千名を数えているが、未報告でカウントされない独居者や、都市部での戦災孤児などを含めると、実数はおそらく桁ちがいの万単位だったのではないか。

◆写真上:新目白通り(左手)と新青梅街道(前方)、そして目白通りの交差点。手前と右手が目白通りで、右折すると西落合の三角に突出した先端方面へ抜ける。
◆写真中上:1944年(昭和19)10月の空中写真にみる、料治花子と長女が歩いた道筋。
◆写真中下は、1944年(昭和19)10月に撮影された空中写真にみる螺旋管工場があるあたりの拡大。は、1945年(昭和20)4月の空襲前に撮影された同所。は、料治花子が歩いて通った落合分水(暗渠化)が流れる谷間を「妙見山」側から。
◆写真下は、1950年(昭和25)に撮影された西落合2丁目(当時)の宅地造成地を流れる落合分水。は、同年に撮影された落合分水と妙正寺川とが合流する暗渠化後の排水口。は、戦後は都立豊島高等学校に衣がえした府立第十高等女学校跡。

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自分を「オレ」といった目白の師匠夫人。 [気になるエトセトラ]

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 落合地域に隣接する街には、昭和を代表する一門をかまえた落語家たちが住んでいる。上落合の南隣りにあたる柏木(現・北新宿)には6代目・三遊亭圓生Click!が、下落合の東隣り、目白駅の向こう側には5代目・柳家小さんClick!がいた。どちらも、昭和後期の落語界をしょって立った大看板だ。
 当時、「柏木」の師匠といえば親父が大好きだった6代目・三遊亭圓生のことであり、「黒門町」の師匠といえば8代目・桂文楽、「目白」の師匠といえば5代目・柳家小さんを指していた。また、「新宿」といえば末広亭、「上野」は鈴本演芸場か本牧亭、「浅草」といえば浅草演芸ホール、「三越」は日本橋三越本店Click!の名人会が開催された三越劇場……などと、寄席の所在地が符牒で呼ばれていた。
 女性が、自分自身を呼称する一人称で「オレ」といっていたのは、別に下落合4丁目1982番地Click!(現・中井2丁目)に住んだ、秋田出身の矢田津世子Click!だけではない。目白町2丁目1592番地(現・目白2丁目)に住んだ柳家小さんClick!(小林盛夫)の夫人で、福島出身の小林生代子も自分のことを生涯にわたり「オレ」といっていた。
 2008年(平成20)に文藝春秋から出版された、古今亭八朝/岡本和明・編『内儀さんだけはしくじるな』という本がある。師匠はともかく、おかみ(内儀)さんを「しくじる」ととんでもないことになるぞ……という、江戸東京の(城)下町Click!というか、東日本ならではの家庭環境を咄家たちが座談会形式で語りあったものだ。
 おかみさんは、一家の主人・主柱Click!で最終的な意思決定者(CEO)Click!であり、それを「しくじる」つまり「いい関係を築けない」あるいは「仲がうまくいかない」と、そもそも師匠の弟子としては成立しないこと(失格)になってしまう。師匠を怒らせれば最悪でも「破門」(出ていけ!)で済むが、おかみさんを怒らせたら「身の破滅」(広範で緻密な女性ネットワークもあるがゆえに)だと、危機感をもって語る咄家たちの様子がおかしい。
 同書より、「目白」の師匠こと柳家小さんのお内儀(かみ)さんについて引用してみよう。
  
 小さん一門はとにかく大所帯であった。色物さん、孫弟子までいれると六十人近くはいたのではないだろうか。どのお弟子さんも咄家になろうというくらいの人間だから良い意味でも、悪い意味でも一癖も二癖もある連中ばかり。(中略) 小さん師匠のお内儀さん、生代子夫人は独特の雰囲気を持っていた。自分のことを「俺」と言うし、声はしゃがれていたからえも言われぬ迫力があったようで、入門したばかりの弟子達は、それに圧倒される。しかし、それも年とともに変わってゆき、晩年になると弟子と友達のような付き合い方をしていたという。それは古参の弟子には信じられないような光景だったのである。
  
 生代子夫人は、東京のおかみさん(女主人)らしくしようと、最初は小唄Click!を習っていたらしいが、お師匠さん(おしょさん・おしさん)から「お生代さんの声は小唄の声じゃないよ」とサジを投げられ、同じ目白に住んでいた民謡歌手の佐藤松子に弟子入りして、民謡の稽古に鞍がえしている。稽古から帰ると、今度は誰かに教えたくなったようで、小さんの内弟子たちはみなその“被害者”になった。
 師匠が入門を「いいよ」と許しても、おかみさんがダメだといえば弟子入りは決して許されなかった。小さん師匠は、怒っても基本的には真面目で優しい人なのでそれほど怖くないが、おかみさんは「怖しい」というのが弟子たちの共通した認識だったようだ。小さんは外出すると、「いいか、お前なあ、師匠と弟子は生涯だけれど、内弟子ってのはかかあをしくじったら家には居られねえぞ。俺のことはどうでもいいから、かかあをマークしろ。それから俺が外で女にもてたって話があっても家に持ち込むな。もし、そういうことがあったら即、破門だ」と、入門したての新弟子・鈴々舎馬風(当時は柳家小光)へ噛んで含めるようにいい聞かせている。
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 少し余談気味になるが、上記のような家庭環境は、別に咄家一門に限らない。うちの祖父母や親の世代がまさにそうで、わたしの祖母Click!(日本橋の父方)が「けっこうですよ」と首肯しなければ、書生だろうが社員だろうが取引先だろうが、家や社屋の敷居をまたぐことはできなかった。家の基盤となるマネジメントは彼女が手がけているのであり、男は業務現場の実務あるいは職技に精通するのが、この街の慣習であり“お約束”だった。
 東京にくる方、特に西日本の方(中でも九州出身の方?)は気をつけていただきたいのだが、東京に古くから住む家々とのつき合いで、奥さんに「しくじる」ようなことをすれば、プライベートやビジネスを問わず即座に「アウト」だ。柳家小さん流にいえば、「マーク」するのは夫(男)ではなく妻(女)のほうなのだ。
 ましてや、江戸東京落語をなりわいとする家庭では、より厳格かつ規律的にその習慣が守られていただろう。これは、四谷小町といわれた四谷町出身のおかみさん(はな夫人)がいる、三遊亭圓生の一門でも同様だった。一門内の根本的な“しきり”はおかみさんに任されており、落語協会から三遊亭一門が分裂してほどなく圓生が死去すると、彼女はその後始末のネゴに夫の“旧敵”だった「目白」の師匠のもとを訪れている。
 同書より、「目白」の夫婦喧嘩の様子を鈴々舎馬風の証言から引用してみよう。
  
 “この野郎”“手前(てめえ)”だから、どっちが男か分からないよ(笑)。先ず、玄関先で立ち回りが始まって、それが一段落したら、今度は二階で第二ラウンドが始まって、皿なんかが割れる音が聞こえてくるんだ。で、二三(柳家さん吉)さんはおろおろしてね、/「光っちゃん、止めに入ろうよ」/って言うんだけど、ああいうのは下手に止めたりしないほうがいいから、/「いいんだよ、こんなものは。夫婦なんだから、いいようにやらせとけよ。変に間に入るとおかしくなるから」/って、好きなだけやらせちゃう。それから暫くすると静かになってね。二人とも別々に降りてくるんだ。で、師匠は風呂に入って、お内儀(かみ)さんはパチンコ屋へ行っちゃう。/俺と二三さんが二人で喧嘩の後片付けをしながら皿なんか見ると、割れているのは全部貰い物(笑)。高そうな物は壊れてないの。後で師匠に聞いたら、お内儀さんは投げる前に必ず品物を見てから投げるんだって(笑)。(カッコ内引用者註)
  
 このとき、生代子夫人が出かけたパチンコ屋とはどこのことだろう? 目白駅の周辺には、昔もいまもパチンコ屋は見あたらないが、彼女は夫婦喧嘩のあと、池袋駅東口か高田馬場駅の周辺まで足をのばしていたのだろうか。
コメント欄へスーサンさんより、かつて目白駅近くには通りの北側に「サクラ」、南側に「ザオー」という2店のパチンコ店ずあったのをご教示いただいた。生代子夫人のエピソードは1970年前後と思われるので、そのころどちらかの店に通っていたのだろう。
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 柳家小さん宅では、内弟子たちが衣服を着ずに、素っ裸で掃除などの家事をしていることが多かったらしい。きっかけは、鈴々舎馬風(当時は柳家小光)が「電話です!」と、風呂場で洗濯している生代子夫人を呼びにいったとき、おかみさんの素っ裸をたまたまのぞいてしまったことらしい。なぜ素っ裸で洗濯するのか、それだけでもかなり腑に落ちない不可解な出来事なのだが、そのときは「ばかっ!」と怒鳴られただけだった。だが、あとで師匠から猛烈に怒られるものと覚悟を決めたらしい。
 しばらくすると、「おい、お前(めえ)うちのかかあの裸を見たのか?」、「済みません」、「そうかあ……。まあ、見ちゃったもんは仕様がねえけどよ。おい、うちのかかあ、面(つら)はまずいけど、いい体してるだろ」、「ええ、いいおっぱいしてますね」、「ならいいんだよ」……というだけで済んでしまった。それ以来、おかみさんがいるのもかまわず、小光は風呂から出ると素っ裸で歩きまわるようになった。すると、内弟子たちも自然に家の中では、みんな裸で歩きまわるようになってしまったらしい。
 ところが、周辺のご近所にとってはとんでもないことだった。柳家小さん宅の南側は、すぐに目白駅前にあたる川村学園Click!高等学校の校舎が、いまも当時も建っていた。休み時間になると、女子高のほうから「キャー、キャー」という叫び声が聞こえてくるようになった。ほどなく、川村学園側から苦情が持ちこまれるが、生代子夫人は「知らないよ。あいつらが勝手にやってるんだから」と、まったく取りあわなかった。
 苦情や抗議は、その後も再三繰り返されたようだが生代子夫人が受けつけないため、川村学園では柳家小さん邸と校舎との間に、高い塀を築いている。その名残りだろうか、いまでも小さん邸跡と川村学園との間には、レンガの頑丈な塀が築かれており、キャンパスから北側が見通せないよう背の高い樹木が密に植えられている。
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 落合地域の南隣り、「柏木」で暮らした6代目・三遊亭圓生だが、ずいぶん長い間周囲からは「気むずかし屋」「へそ曲がり」などというイメージのレッテルを貼られていた。ところが、弟子の三遊亭生之助いわく、単なる人見知りにすぎず「あんなに楽な人はいなかった」、立川談志いわく「圓生師匠を見直しちゃったよ」というように、癇性が多い咄家の師匠連の中では、めずらしく穏やかで優しい人物だったようだ。そのぶん、2歳年上のはな夫人がしっかり手綱を握っていたようなのだが、それはまた、機会があれば、別の物語……。

◆写真上:目白町2丁目1592番地の、柳家小さん・小林生代子邸跡の現状。
◆写真中上は、新婚間もない1942年(昭和17)ごろ撮影の夫妻。は、柳家一門の記念写真で中央右が生代子夫人。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる同邸。
◆写真中下は、1975年(昭和50)と1992年(平成4)の同邸。徐々に敷地が拡げられ、剣道場や弟子たちの寮が建てられている。は、同邸の門へ向かう路地。
◆写真下は、柳家小さん・生代子夫人と柳家小光(鈴々舎馬風)。は、高い塀と目隠し樹木がつづく川村学園のキャンパス北側。下左は、2008年(平成20)出版の古今亭八朝/岡本和明・編『内儀さんだけはしくじるな』(文藝春秋)。下右は、親父が欠かさず聴いていた6代目・三遊亭圓生。わたしも、咄家といえば真っ先に圓生を思い浮かべる。

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織田一磨の「東京郊外風景」。(下) [気になるエトセトラ]

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 織田一磨Click!は、1903年(明治36)に永田町にあった兄の住まいから独立して、本郷区の森川町に住むようになってから、市街地(東京15区Click!)の外周域をこまめに散策しては、風景を写生しはじめている。当時は、東京市電のネットワークなどまだない時代で、ほとんどが徒歩による写生散歩だった。本郷から歩きだし、中野や大久保、新宿まで足をのばすこともめずらしくなかったようだ。
 本郷の森川町から、たとえば雑司ヶ谷まで直線距離で約4km、道路を歩けば片道5~6kmは軽く超えただろう。織田が描いた明治末の作品に、中野駅周辺の風景作品(水彩)があるが、森川町から中野駅までは直線距離で約8km、道を歩けば往復20kmは超えていたのではないかとみられる。当時の様子を、1944年(昭和19)に洸林堂書房から出版された織田一磨『武蔵野の記録』から引用してみよう。
  
 その内に兄と別れて独立し永田町から神田、神田から本郷森川町に移つたので、今度は千駄木、駒込、巣鴨、王子飛鳥山、根岸から千住、小石川の伝通院辺や護国寺、雑司ヶ谷鬼子母神、関口、早稲田、遠くは中野、大久保、戸山の原、新宿といふ方面が写生地として登場して来た。(中略) 当時の雑司ヶ谷辺は、まだ雑木林と、大根畑で、女子大学はすでに在つたが、亀原の台地や墓地なんぞは全く田園風景だつた。音羽通りに田舎家が並んでゐて、護国寺本堂の緑色の屋根は、畑や田圃の向かふに小山の如く構へてゐた。/本郷森川町から、毎朝鬼子母神の森へ冬の赫い朝日が映るのを写生に通つたのを、今でも忘れない。乗物は無いから、駒下駄でコツコツと歩いた。森川町から伝通院へ出て、それから第六天町、江戸川橋、大下氏の前を通つて、女子大学の裏手の路をぬけて、鬼子母神の森へと、三四日通つて写生した。
  
 文中にある「亀原の台地」とは、現在の東京大学目白台キャンパスのある目白台3丁目の丘陵のことだ。以前にも、このあたりにあったきれいな瓢箪型の突起Click!(250~300m)について記事にしているが、なにか亀の甲羅のように見える半球体の突起が、かつて丘上の地面から盛りあがっていたものだろうか。
 織田一磨は、中野や戸山ヶ原Click!まで歩いてくるぐらいだから、もちろん落合地域にもやってきている。織田は、東京の郊外風景をスケッチして記録するのと同時に、昆虫や植物などを採集し標本化することを趣味にしていた。中野駅から北東へ歩き、上落合へ入る直前の丘上にカタクリの群生があるのを知っていた織田は、宝泉寺Click!の東側つづきにある丘へと分け入った。すると、落合火葬場の手前(西側)に「乞食の部落」Click!があるのに驚き、カタクリをあきらめ急いで丘から逃げだしている。
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 この「乞食の部落」については、中野区と新宿区双方の民俗資料に証言や記録が多く残されているが、周辺の農民たちよりもよほど生活水準が高く、郵便局には多額の預金口座をもっていた「乞食」たちだった。以前、こちらでもご紹介しているが、くだんの「乞食村」は詩人・秋山清Click!がヤギ牧場を経営していた丘の斜面つづきにあたる。そのときの様子を、同書より引用してみよう。
  
 中野から落合に行く途中に、小高い丘があつて、カタクリが群落してゐた。落合の焼場の附近だつたと思ふ。そのカタクリを採集に行つたらば、丘の上は乞食の部落で、沢山群をつくつて乞食が出て来たので、驚いて逃げだしたこともある。今でも乞食の部落は健在だらうかしらん。/落合から哲学堂の附近も採集には絶好な地だつた。近頃全く行かないから、土地の変遷は知らない。哲学堂へ行く時は中野からでなく、目白駅から行くのが順序だつた。途中も採集地だつたし、写生地としても高台風景で面白かつた。/明治四十二三年の頃は、雑司ヶ谷に居たので、度々この哲学堂辺へ行つた。池袋も近いので午後からでも採集に行つたが、池袋から大塚へ出る近くまでやはり畑地で、相当な採集地だつた。池袋の監獄署は赤煉瓦で雪の日は美くしかつた。
  
 おそらく、カタクリ採集に出かけた際、これから新宿や銀座などの繁華街へ、「出勤」する人々の群れと遭遇してしまったのだろう。w
 織田一磨がこの文章を書いたのは1943年(昭和18)で、翌年に『武蔵野の記録』は出版されているが、「乞食の部落は健在だらうかしらん」と心配したとおり、日米戦争がはじまると配給制が厳しくなって、彼らは食糧や金銭を手に入れるのが困難となり、また警察からも追い立てられて部落は敗戦を待たずほどなく“解散”している。
 織田一麿は、さまざまな野草を採集しているが、ウラシマソウやマムシグサは不気味に思ったのか採集していない。いわく、「ウラシマサウといふのも面白い花だが、この花は妖怪変化のやうな気味の悪い花で、恐ろしいとか毒々しいといふ気持で、面白いけれども、花挿に挿す花ではない。このウラシマサウに限らず、天南星科の植物は概して妖気がある。ムサシアブミでもマムシグサでもカラスビシヤクでもすべてが、蛇のやうな怪しい花を咲かせる」と書いている。
 織田一磨とは反対に、ウラシマソウの妖しい魅力にとりつかれたわたしは、小中学生時代にハイキングやキャンプへ出かけると、必ず樹林に分け入っては探し歩いていた。湘南の山々や鎌倉、三浦半島にかけては、多くのウラシマソウが見られる絶好の山歩きコースだった。ただし、ウラシマソウは登山コース沿いには、すなわち人目につくような明るい場所などには生えておらず、必ず登山道を外れた薄暗い樹林の陽光が射さない日陰、下草に混じって紫色の妖艶な花を咲かせている。それを見つけると、得意になって親たちを呼んだものだが、よく似たヒゲのないマムシグサばかりが見つかると、「なんか、きょうはついてないぞ」と、ウラシマソウ占いのような山の遊びをしていた。
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 確かに、薄暗い雑木林の中や山の斜面で、ピーンと長いヒゲをのぼした紫色の、まるで食虫植物のようなかたちをしたウラシマソウは、あまり気味のよいものではないし、ときにはマムシが近くでとぐろを巻いていたりするので、あまり印象がよくないのかもしれないが、ふつうの野草には見られない独特な妖しさを周囲にふりまきながら、ひっそりと起立して咲いているのが、当時のわたしにはなぜか愛おしかったのだ。夏の夜に、月光が射すと暗闇で大きな花をヒラヒラと咲かす、オオマツヨイグサの妖しさに惹かれたのと同じような感覚なのかもしれない。さすがに、都内ではめったに見ることができないウラシマソウだが、神奈川県の山々にはいまでもあちこちで健在だ。
 さて、織田一磨が1938年(昭和13)に描いたスケッチに『武蔵野』がある。曇り空の雲が切れ、何ヶ所からか陽射しが地上の畑地や草原、森などを照らしている情景だ。『武蔵野の記録』Click!より、同作のキャプションを引用してみよう。
  
 武蔵国分寺附近の丘陵地、枯れた尾花が前景に残つてゐて、畑地が背景となつてゐる。この地は現在は住宅が建てられてゐるが、当時は武蔵野らしい感情が流れてゐた。/雲間から射す落日の陽光は、文学的の香りを漾はせて、滅び逝く武蔵野を想はせるものがある。田園交響楽とも近似した風景でもある。/国分寺辺から国立の方には、斯うした景観は随所にみられたのだが、近頃はどうなつたか、其後の消息は知らない。
  
 同書には、そのほかにも小金井の野川沿いを描いた石版画や、府中馬場大門のケヤキ並木、井の頭公園の池など、武蔵野を記録した挿画が多数掲載されている。いちいち紹介できないのが残念だが、織田一麿は作品としての絵ではなく、住宅が押し寄せて市街地化が進み、近いうちに消えてしまうであろう武蔵野の記録としての画面を残すと宣言している。そういう意味では、戸山ヶ原Click!の「記憶画」を残した濱田煕Click!と同じようなコンセプトで、武蔵野風景を連作していることになる。
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 織田一磨は、「我々は遊んでゐられない。時間があれば努めて記録を作る可しで、芸術は困難だが記録ならばだれにでも出来る」とあえて書いているが、はたして彼が予想したよりも早く、武蔵野は住宅街で埋めつくされたのだろうか。それとも、彼が予想したよりもずっと後世まで、武蔵野の面影は色濃く残りつづけていたのだろうか。
                                  <了>

◆写真上:国分寺恋ヶ窪の日立研究所内にある、姿見の池の水面に映る雑木林。現在は観光用に別の「姿見の池」が造成されているが、こちらがホンモノの湧水池。
◆写真中上は、1938年(昭和13)に描かれた織田一麿『武蔵野』。は、小金井の国分寺崖線の崖下を通るハケの道。目白崖線の下を通る、バッケの道(雑司ヶ谷道Click!)と近似した北に崖を背負う古道だ。は、下落合に残る武蔵野の雑木林。
◆写真中下は、制作年代が不詳の野川を描いた織田一磨『小金井風景』(石版画)。は、国分寺恋ヶ窪の姿見の池を湧水源に小金井の国分寺崖線下を流れる野川。は、親父の山歩き用のハンディな植物図鑑より本田正次『原色春・夏の野外植物』(三省堂/1934~1935年)掲載のカタクリ(上)とウラシマソウ(下)。
◆写真下からへ、1938年(昭和13)制作の織田一磨『井ノ頭の池』、国分寺から府中にかけて数多い湧水池のひとつ、1943年(昭和18)に描かれた織田一磨『府中馬場大門欅並木』、サナトリウム(結核療養所)があった東村山の八国山にある湧水池。

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織田一磨の「東京郊外風景」。(上) [気になるエトセトラ]

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 織田一磨Click!が、明治末から大正前期にかけ山手線近くの市街地近郊を「武蔵野」Click!ととらえ、たくさんのタブローClick!スケッチ類Click!を残しているのをご紹介Click!してきた。さらに足をのばし、中央線をさらに西へたどりながら、中野や吉祥寺、井の頭、府中、五日市などの方面へ写生に出かけている。今回は、東京西郊でスケッチされた作品を中心にご紹介したい。
 1944年(昭和19)に洸林堂書房から出版された織田一磨『武蔵野の記録』には、出版当時の住まいが武蔵野町吉祥寺1737番地だったせいか、その周辺(つまり現在の武蔵野市)のスケッチが数多く掲載されている。中でも目立つのが、やはり武蔵野に多いケヤキの樹林あるいは並木だ。1938年(昭和13)に描かれた素描『欅並木』(冒頭写真)について、著者はこんなことを書いている。
  
 吉祥寺には以前欅の立派な並木道があつた。この図は農家の防風林ではあるが相当に見事に育つてゐる。欅の並木は武蔵野特有の風致で実に美くしい。/近頃はいろいろの関係で伐採されることが多くなつたが、これは苗樹でも移植して次の時代へ伝へたいと思ふ。(中略) 欅の芽が出る四月頃、初夏、それから黄色い葉が散る晩秋、四季それぞれ美くしいが、最も武蔵野らしいのは冬季枯れた欅の姿こそは、最も優れた美観だと信じる。この樹に周囲をとり廻らされた農村、これは素描的の趣味が充満してゐる。/武蔵野に欅が残されてゐる間は、我々にいろいろの美を示して呉れるが、これも永久性は受合へないと思ふ。今のうちに写生する方がいゝのだ。
  
 おそらく、織田一磨はケヤキを眺めるだけで、そのメンテナンスを一度もしたことがないのではないか。ケヤキの葉は、「黄色い葉」ではなくベージュに近い茶色になって落葉する。大ケヤキの落ち葉のボリュームときたら、とんでもない量となってあたり一帯に降りそそぐ。それらを掃いて集めるだけでも、相当な労働力と時間(と腰痛との闘い)が必要だ。焚き火Click!が禁止されている今日では、それらを集めて燃やす風情や香りなど楽しめず(昔と変わらず焚き火をしている地付きのお宅Click!もあるがw)、すべて燃えるゴミとして処理しなければならない。
 うちでは、7年前に枝払いをしてもらったとはいえ、それでも毎年暮れになると、足で踏みこんだ45リットルのゴミ袋にギュウギュウ詰めで、10袋は下らない落ち葉を処理することになる。織田一磨が書く農家でも、冬になると庭の焚き火へくべるために、毎日、庭や道路の落ち葉掃きをせっせと行なっていたはずだ。伐られてしまった大ケヤキを嘆き、武蔵野らしい「冬季枯れた欅の姿」を愛でるのは簡単だが、それを維持・継続するには膨大な手間ヒマがかかることにも少しだけ触れてほしいと思う。
 つづいて、1932年(昭和7)制作の織田一麿『武蔵野の街道と並木』を観てみよう。吉祥寺付近を貫く、街道沿いの並木を描いた真夏の風景だ。
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 武蔵野にある街道筋にはきまつて並木が両側にそびえてゐる。これは農家が街道に面して建てられてゐる関係上、防風林とも再建用資材ともなるやうに、家屋の周囲に植樹する風習がある為で、街道の両側は暗いやうに大樹が繁茂してゐる。/近来はこの樹木を伐つたり、農家が普通の商店に代つたりするので、大分伐採されて、今日では暗いほどの茂り合は近郊ではみられなくなつた。この写生は、吉祥寺の附近だが、最早樹木は無くなつてしまつて、街道筋は明るく太陽が直射してゐる。/然し街道の植樹は実によく考へた仕事で、この樹陰を夏でも楽に通行ができたのだ。暑くもなく涼風に送られて旅人は武蔵野を旅することができたのだ。甲州街道、青梅街道、川越街道、五日市街道、皆この計画のもとに以前は並木が茂つてゐたのだ。
  
 この作品にそっくりな写真が、親父のアルバムに貼られて残っている。わたしが生まれる前、1955年(昭和30)ごろの五日市街道で、現在の武蔵野市あたりを貫く五日市街道のケヤキ並木を写したものだ。織田の『武蔵野の街道と並木』には、農家らしい風景は描かれていないが、ケヤキの樹下で立ち話をしているらしい数人の人物がとらえられている。一方、親父の写真には、明らかに街道沿いに建つ大農家の生け垣が写っており、江戸期に街道に面した側へケヤキの植樹をしたものだろう、
 やはり同年ごろの、雑司ヶ谷鬼子母神Click!の表参道に植えられていた、冬枯れのケヤキ並木を写した写真もアルバムにあったので、ついでに掲載しておきたい。鬼子母神参道のケヤキ並木は、あまりに巨木化しないようていねいなメンテナンスが繰り返されており、定期的に幹の剪定や枝払いが行なわれていた様子がわかる。ただし、周囲の商店や住宅では、冬ごとに落ち葉の後始末がたいへんだったろう。大きな樹木は、CO2を吸収して新鮮な酸素を供給してくれ、また織田が書いているように夏場は気温を下げて涼しく快適なのだが、共存するとなると多大な人手がかかる存在なのだ、
 織田一麿は、『武蔵野の記録』の挿画にも、ケヤキの樹林を描いている。1942年(昭和17)のスケッチで『初夏の欅』と題された画面だが、おそらく吉祥寺界隈の情景を写したものだろう。陸軍の施設用地にされていたため、住宅が建たずに樹林や草原が残されていた、どこか戦前の戸山ヶ原Click!をほうふつとさせる風景だ。これらのケヤキは、植樹によるものではなく種が飛ばされて、あるいは鳥に運ばれて根づいたものだろう。
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 武蔵野の風景は、草原ばかりでもなく、また森林ばかりでもなく、それらが交互にうまくミックスされたような独特な景観が魅力なのだと思う。換言すれば、草原ばかりの殺伐とした風景でもなく、周囲の遠望がきかなくなるほどの密な樹林帯でもなく、あちこちに小さな谷戸が刻まれ、そこからはたいてい清冽な水が湧きでていて、大小の美しい泉を形成している。その多彩な変化のある風情が、抒情的な文学作品あるいは絵画作品を生みだすベースとなっているのだろう。同書より、再び引用してみよう。
  
 今日まで武蔵野を書いた書物は夥しく世に出てゐる。けれども其多くのものは、人類の歴史に終つて、武蔵野そのものには余り触れない。時たま触れたものも、個人の感情、生活が主となつてゐて、武蔵野は仮りに対照として存在を認められたにすぎない。自然科学者が稀れに武蔵野の自然を相手にして、専門的の調査を行ひ、その記録は残つてゐる。これが真の記録ではあるが、総合的でなく断片的のものだけに面白味が無い。生きてゐないで乾いてゐる。/武蔵野は乾いて了つてはつまらない。やはり生気溌剌として活動してゐなくてはつまらない。風景を描写した文学に就ても其感が深く、詳細は文学の項に書くが独歩の武蔵野等でも、感情に傾きすぎてゐて、自然の客観性に乏しい。断片的の感想文だからといへばそれ迄だが、独歩の武蔵野が問題にされてゐることから考へると、もっと深く、あらゆる面から武蔵野を観察記録して残して呉れたらとも思はれる。
  
 武蔵野を地質学などを含めた自然科学的に、あるいは東京人が感じている「武蔵野」の趣きをベースに、さらに人間の心情面をたっぷり加味して描いた大岡昇平Click!『武蔵野夫人』Click!を読んだとしたら、織田一磨はどのような感想をもっただろうか。少なくとも、国木田独歩の「断片的の感想文」よりは、はるかに身近な「武蔵野」情緒や自然、生活が感じられたのではないかと思うのだ。
 さて、同じく1942年(昭和17)に描かれた、挿画『武蔵野からみた富士山』にも同様の趣きがある。雑木林や草原には疎密があり、なだらかな丘陵地帯があるからこそ、その丘上からは遠望がよくきく、武蔵野らしい情景がとらえられている。描かれている雑木林には、クヌギかケヤキ、コナラ、エゴ、ゴンズイ、モミジ、イヌシデ、ニガキ、イヌシデ、エノキ、ハンノキ、コブシなどが生えているのだろう。あるいは、立川や府中方面には多かった、独特なアカマツの樹林かもしれない。
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織田一磨「ヒメジヨン咲く武蔵野」1942頃.jpg
 ヒメジオンやハルジオンは、夏になると下落合でも見かけるが、明治以降に武蔵野へ急速に拡がった外来植物だ。織田一磨の挿画には、1935年(昭和10)ごろに描かれた『ヒメジヨン咲く武蔵野』というのがある。やはり、開墾されていない武蔵野の草原を写したものだが、素描なのでヒメジオンの白い花畠がいまいちピンとこない画面となっている。
                                <つづく>

◆写真上:1938年(昭和13)に、吉祥寺の風景をスケッチした織田一磨『欅並木』。
◆写真中上:上は、武蔵野の雑木林。中は、国分寺で撮影されたケヤキ並木。下は、1955年(昭和30)ごろ撮影の雑司ヶ谷鬼子母神参道のケヤキ並木。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に描かれた織田一磨『武蔵野の街道と並木』。は、親父のアルバムから1955年(昭和30)ごろの五日市街道(おそらく武蔵野市あたり)。は、1942年(昭和17)に描かれた織田一磨の挿画『初夏の欅』。
◆写真下は、下落合にもあちこちに残るケヤキ。は、1942年(昭和17)に描かれた織田一磨の挿画『武蔵野からみた富士山』(上)と、冬場に下落合から眺めた富士山。は、1942年(昭和17)ごろに描かれた織田一磨の挿画『ヒメジヨン咲く武蔵野』。

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落合地域にみる昭和初期の「断層」。 [気になる下落合]

西洋館(10年で解体).JPG
 落合地域の人々や住宅のことを、多彩な資料に当たって調べていると、昭和初期に特徴的な大きな「断層」があるのに気づかされる。地質学における地層上の「大絶滅」ではないけれど、大正期から住んでいた落合住民が少なからず姿を消し、また建築からそれほど年月を経ていない住宅が、惜しげもなく解体され建て替えられたりしている。
 この現象は、近衛町Click!目白文化村Click!アビラ村Click!など地域を問わず、落合全域(下落合・上落合・西落合)のあちこちで見られる顕著な傾向だ。この「断層」は、ちょうど1928年(昭和3)あたりから1931年(昭和6)ごろまでつづき、いまだ新築とさえいえる大正末に建設された文化住宅の住民が入れ替わっていたり、築5~6年ほどしかたっていない西洋館が解体され、別の人物がまったく異なる和館を建設したりと、街角の風景も短期間で大きく変わっていたことがわかる。
 この時期、たくさんの住民の入れ替わりや、築年数の浅い住宅の解体および建て替えが集中しているのは、もちろん1927年(昭和2)の金融恐慌にはじまり、1929年(昭和4)には未曽有の世界大恐慌Click!へとつながる、一連の壊滅的な経済危機が原因だったとみられる。街角には失業者があふれ、いわゆる「ホワイトカラー」の失業率がきわめて高く、「大学は出たけれど」就職できる企業が存在しない時代だった。
 この経済危機の波をまともにかぶったのが、落合地域に住んでいた「中流」と呼ばれる大正期から形成されていた勤め人(サラリーマン)層や、企業の経営者・役員たちだった。せっかく手に入れた、東京郊外の大きな邸宅や余裕のある生活を、やむなく手放さざるをえなかったのだ。いや、この現象は落合地域に限らず、隣接する高田町(現・目白地域)や戸塚町(現・高田馬場地域)でも同時期に目にすることができる。山手線や市電に乗り、東京市街にある企業へと向かう勤め人たちは、未曽有の経済危機に退職を迫られて職を失い、あるいは依るべき会社が倒産して、少なからず茫然自失のような状態だったろう。
 大学や専門学校を卒業した学生も、当時の内務省社会局による統計をみると、1927年(昭和2)には64.7%だった就職率が、1929年(昭和4)には50.2%と急落している。ただし、これは表に現れた数字であって、家業を手伝ったり故郷に帰ってしまったり、ちょっとしたアルバイトをしていると「就業者」扱いになってしまうので、実態はこの数字よりもはるかに深刻だったとみられる。当時の言葉でいえば、大学出の「知識階級」が大量に失業するという、従来では考えられなかった未曽有の課題が現実化した時代だった。
 内務省社会局がまとめた、1923年(大正12)から1929年(昭和4)までの「全国大学専門学校卒業生就職状況」と題する統計表を見ると、以下のような推移になる。
卒業生就職状況図版1.jpg
 以上の数値は、あくまでも新卒者の就職状況だが、学校を卒業して半数の学生が就職できないという社会状況は、少子化が進む今日では考えられない事態だ。
 失業者数もうなぎ上りで、1930年(昭和5)2月の時点における内務省社会局の調査によれば、無作為に抽出した調査人数7,021,332人(分母)の中で、失業者は350,372人(分子)がカウントされている。この数値だけみると5%の失業率だが、これは名目上の統計数値(1日でも働けば失業者にカウントされない)で、社会局も指摘するとおり実数は70万~80万人が失業しており、10.0%~11.4%の失業率だと推測している。また、この数字には学校を卒業しても就職できない、「プレ失業」者数は含まれていない。
 当時の日本社会は、いまだムキ出しの資本主義経済(社会)そのものであり、戦後のように国家が社会主義的な要素を多分に取り入れた、修正資本主義には不可欠な社会政策や福祉政策などはほとんど存在しなかった。文字どおり江戸後期(産業資本主義経済フェーズ)とほとんど変わらない、「飢える者は仕方がない」の切り棄て社会だったのだ。
小林邸(近衛町).jpg
 上掲の就職状況を、世界大恐慌の真っただ中だった1929年(昭和4)にしぼり、学校別あるいは学部別の就職状況をもう少し詳しく見てみよう。
卒業生就職状況図版2.jpg
 「学部/学校」の中で、もっとも落ちこみの激しいのが「技芸学校」(技術を身につける専門校)と、いわゆる文科系の大学生(事務職のホワイトカラー層)、そして「女子専門学校」だったのがわかる。その背景には、大正期に大学や専門学校の創立ブームがあり、高等教育を受けた学生数が急増していることも一因として挙げられるのだろう。
 たとえば男子の中学校(今日の中学・高等学校に相当)を例にとると、1912年(明治45)の中学校卒業者数は18,660人だったものが、1921年(大正10)には24,269人、1926年(大正15)には一気に44,269人にまでふくれあがっている。卒業生たちの多くは、大学や専門学校に進学するので、当然、それらの学校も卒業生が急増していることになる。だが、その卒業者数に見あう職場の数も急増しているとは限らない。高等教育を受けた卒業生たちが増えても、それに見あう仕事場の数がたいして増えなければ、供給過剰で飽和状態になるのは目に見えていただろう。そのようなタイミングにあわせたように、世界ほぼ同時の経済恐慌が襲ったとすれば、「大学は出たけれど」になるのは自明のことだったのではないか。
 これらの失業者を救済するために、政府は応急措置として今日と同様、やたら公共事業(失業救済土木事業)を乱発するが、これらによって救済されるのは工場などを馘首された「労働者」や「職工」、あるいは常に産業予備軍としてプールされていた「土木作業員」であって、大卒で事務職のいわゆる「ホワイトカラー」の失業対策としては無意味だった。
安食邸(会津邸・第一文化村).jpg
 当時の政府は、急増するサラリーマンの失業に対してはまったくの無策だった。社会不安の増大に対し、「調査」と「慎重審議」を繰り返すだけで、なんら具体的な救済策を提示することができなかった。特に「ホワイトカラー」に対する施策は皆無にひとしく、“将来的なテーマ”として4つの「解決策」をアドバルーンとして上げたにすぎない。
 ①将来適当なる時期に於て国立智識階級専門職業紹介所を設置する。
 ②青少年の職業選択指導の制度を設くること。
 ③高等教育制度の方針並に職業教育の完備に就き慎重調査を遂げ、適当の
  具体的改善方法を講ずること。
 ④海外職業紹介に努むること。
 役所が、「将来適当なる時期に」とか「調査」「慎重」というワードを使うときは、要するに「なにもしません」と同義だ。事実、「ホワイトカラー」の失業課題に対する①~④までの施策は、同時期にただのひとつも実行されなかった。ひたすら経済恐慌の「嵐」が通りすぎるのを、無策のまま他人事のように傍観していたにすぎない。1929年(昭和4)現在の濱口雄幸首相は、「失業問題の根本的解決は財界の安定、産業の繁栄に待つの外良策はない」と、お手あげ声明を発表している。
 目白中学校Click!を1929年(昭和4)に卒業(第16回生)し、大学へ進学した学生のひとりが、1930年(昭和5)発行の「同窓会会誌」Click!第16号に次のような一文を寄せている。同誌収録の、富岡隆『知識階級の失業に対する一考察』から引用してみよう。
  
 インテリゲンチヤは依然として一切の文化の担当者たる『忠僕』でなければならないのだらうか。飽く迄も智識的特権の社会層として、社会的進歩の協力者なりと『自負』しなければならぬのだらうか。自分は、知識階級プロパアを限定しようとするものでもなく、又将来に於ける知識階級の解体を推測せんとするものでもない。ラッシュ・アワーの現代日本に於て『自殺階級』への道を辿りつゝあるインテリゲンチヤは須(すべから)く自己を清算すべしと強調したいのである。/知識貴族として特権を棄て得ぬ者は、旧き文化的誇りを保持つゝ没落せねばならぬ。旧き科学、芸術への奉仕者、或は棒給生活者を目標として進みつゝある一般知識階級はその必然的結果として過剰労働量を来し、深刻なる失業を招来するは寧ろ当然としなければならぬ。/厳粛な現実的問題、知識階級の失業苦を打開せんとするには、須く封建的イデオロギーの拘束を脱し、体面思想、虚栄観念を排撃して正しき直観の上に立ち、以てインテリゲンチヤの行くべき道を認識すべきである。(カッコ内引用者註)
  
 彼の同級生には、就職できない大学(高等学校含む)への進学をあきらめ、工場の労働者や帰郷して農業に携わる者たち、円タクClick!の運転手になる者などもいたようだ。
日本家屋の大邸宅1992.jpg
 このような深刻な状況を迎え、郊外住宅地に念願のマイホームや邸宅を手に入れたサラリーマンたちは、絶望の中で家を処分して手放したり、ときには家を借金のカタにとられて追い出された人たちが少なくなかったろう。また、企業の経営者や役員たちは事業が立ちいかなくなり、倒産して不動産を金融機関の担保として取られたケースも多かったにちがいない。昭和初期の落合地域を見わたすとき、上記のような抜きさしならない社会状況を前提に考えなければ見えてこない、時代のうねりが大きく変わる潮目のような表情がある。

◆写真上:現在でも同じようなことがときどき起きており、建築後まもなく解体されてしまった下落合の大きな西洋館。最後は、所有者が壊すのにしのびなかったのか、ハウススタジオとしてドラマの撮影Click!が行われていたが築10年前後で解体された。
◆写真中上:1923年(大正12)ごろ、あめりか屋Click!の設計・施工で近衛町に建設されたが、築5年ほどで解体された下落合414番地の小林邸Click!
◆写真中下:築10年ほどで会津八一Click!が購入した、下落合1321番地の第一文化村・安食邸Click!。安食家はお気に入りの邸で、テニスが趣味だったはずだが……。
◆写真下:わたしが学生時代の1970年代後半から、結婚して子どもができたあとまで、実に20年以上も「建築中」だった豪邸。結局、放置されたまま竣工せずに解体された。

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娘から見た料治熊太と料治花子。 [気になる下落合]

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 2年ほど前に、落合町葛ヶ谷37番地(のち西落合1丁目31番地、1965年より西落合1丁目9番地)に住み、版画雑誌「白と黒」や版画集を発行していた料治熊太(朝鳴)Click!についてご紹介したことがあった。その際、妻の料治花子については触れなかったが、彼女は小説家あるいは随筆家として昭和初期から執筆活動をしており、本の出版や雑誌への寄稿などを通じて名が知られた作家だった。
 料治熊太は、1921年(大正10)に岡山から東京へやってくると、「女学生」(女学雑誌社)などの編集の仕事に就いている。その「女学生」に詩や歌を投稿していたのが、師範学校を卒業し岡山で教師をしていたのちの花子夫人だった。彼女は典型的な“文学少女”だったようで、編集部が主宰する「女学生友の会」を通じて知り合った同郷のふたりは、意気投合したのか恋愛のすえ1926年(大正15)に結婚している。
 1933年(昭和8)ごろ、料治花子は自分の恋愛経験をもとに小説を書いて「婦女界」(婦女界社)に応募したところ、作品が入選して懸賞金をもらっている。このときから、彼女はいわゆる“女流作家”の仲間入りをしたようだ。落合地域には当時、文壇の第一線で活躍していた吉屋信子Click!矢田津世子Click!尾崎翠Click!林芙美子Click!などが住んでいたので、料治花子はうれしくまた誇らしかったにちがいない。
 だが、料治花子は「フィクションは書けない人でしたし、恋愛は一つしかないわけだから、身辺のこと以外は書けないんです」という長女・料治真弓の証言どおり、もともと自身の経験から離れたフィクションの世界を創造するのが不得手だったらしく、短い小説は別にしても、その後はエッセイを中心に活躍することになる。
 同じころ、料治熊太は古美術研究に打ちこみはじめ、下落合の会津八一Click!のもとへ頻繁に通っている。娘の目から見た両親の姿を証言している、1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から発行された『新宿に生きた女性たちⅣ』収録の料治真弓「好きな仕事を支えあった両親」から、少し長いが引用してみよう。
  
 父は記者時代に古美術も研究していました。それで、会津八一を自分の師と決めて、落合文化村に住んでおられる先生のお宅に近い、この西落合に引っ越してきて、毎日のように先生のところへ通っていたそうです。会津八一は、歌もいいけど人間の心を大事にする、本当の意味での教育者で、怒ったり、破門にすることはあったけれど、非常に人間的な人で、信奉者も多いわけですよ。/聖母病院の下の方に徳川さんのぼたん園があって、私も、母と先生の養女のキイ子さんと一緒に見に行ったりしました。昭和九年か一〇年ごろかしら。/そして勤めをやめた父は、若い版画家たちと版画雑誌の『白と黒』を出版しました。西落合にあった紙工場に注文した手漉きの紙に版画を手刷りで刷って、表紙もそうでした。母はそれに文章を書いて、ガリ版を切って手伝っていたみたいですよ。第一号が出たのは昭和五年ですから、私がまだ赤ん坊のときです。/『白と黒』には、あとで、有名になった版画家たちの作品が載っているから、今では貴重なものになりました。
  
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会津八一邸跡(霞坂).JPG
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 版画雑誌の「白と黒」は、創刊号が1929年(昭和4)、第1号が翌1930年(昭和5)に刊行されているが、創刊号が刊行される前年、1928年(昭和3)に料治一家は落合町葛ヶ谷37番地(のち西落合1丁目31番地)に転居してきている。長女の料治真弓は転居の翌年、1929年(昭和4)に葛ヶ谷37番地の家で生まれた。
 当時の会津八一Click!は、霞坂のある下落合1296番地の秋艸堂Click!に住んでいたので、料治熊太は師匠と同じ落合町内に住みたかったため、落合町葛ヶ谷へ引っ越してきたのだろう。この時点で、料治邸と会津邸との間は直線距離で800m、当時の道筋を歩いていけばおよそ11~12分ほどでたどり着けただろう。
 だが、1935年(昭和10)になると会津八一は、文中にある「落合文化村」=目白文化村Click!は第一文化村の神谷邸Click!東隣りに建っていた元・安食邸Click!を購入して転居してきているので、料治邸から会津邸までは直線距離で500mと料治邸にやや近くなっている。当時の道筋では、おそらく7~8分も歩けば訪問することができただろう。
 このころの料治邸には、おカネのない貧乏な版画家たちが集まってきては、花子夫人がつくる手料理をごちそうになっていたらしい。その中には前川千帆や大内青圃、谷中安規Click!、平川清蔵、棟方志功などがいた。料治邸で恒例となっていた「版画サークル」活動は、日米戦争がはじまる前まで行われていたというから、10年ほどはつづいていただろうか。料治花子は百人一首が好きだったのか、毎年、近くの自性院Click!で開催されるカルタとりに出場していたというエピソードも残っている。
 太平洋戦争の敗色が濃くなるころ、料治花子は西落合3丁目(当時は西落合1丁目)にあった螺旋管製作の工場に「女子挺身隊」として勤労動員されている。落合地域の裕福な家庭では、勤労動員には主婦ではなく家にいる女中をいかせたり、戦争で営業が不可能になった食品店や料理屋、飲み屋の店員や女主人に依頼して代わりに出てもらったりしているが、料治花子は作家ならではの興味をかき立てられたものか、自身で工場に出勤するようになった。
会津八一邸(第一文化村).JPG
会津八一邸跡(文化村).JPG
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 その日々の様子や経験を書きとめ、敗戦も近い1944年(昭和19)に宝雲舍から出版したのが『女子挺身記』だった。おそらく、書くことが大好きな性格だったのだろう。家庭の日常とは、まったく異なる工場勤務が興味深かったのか、さまざまな出来事や動員仲間たちとの会話を詳細に記録している。今日的にいえば、戦時中の落合地域(西部)の様子をリアルタイムで書きとめた記録文学というところだろう。
 料治花子『女子挺身記』について、料治真弓の証言を聞いてみよう。
  
 でも、本当のところは戦争なんてきらいだったのに、なかに、ところどころ軍国主義みたいなことが書いてあるのは、時代に迎合するためにあとになって、くっつけて書いたのだろうと私は思ってます。そうでなければ、出版できない時代でしたもの。正直者だから、娘の私に見抜かれちゃうわけ。/父もやっぱり戦争反対者だったんですよ。あの時代はそんなこといったら大変なのに「日本は負けるね」なんて友人としゃべっているのを隣の部屋で聞いて、私は子どもごころに「何ということをいう親だろう」と思っていました。学校の教育はそうじゃないわけですからね。
  
 「少国民」の軍国少女だったらしい料治真弓は、戦時中、府立第十高等女学校(現・都立豊島高等学校)に通っていて、やはり勤労動員されていたが身体をこわし、しばらく自宅療養をつづけている。西落合の料治邸が焼けたのは、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!のあと、3月下旬の散発的な空襲時だったようで(おそらく西落合に展開していた工場をねらったものだろう)、その直後に茨城県水海道へ学童疎開をしていた長男・料治真矢を連れもどし、同年4月1日には故郷の岡山県へと一家で疎開している。
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 料治花子『女子挺身記』の後半には、「銃後小品」と題した短編小説8編も収録されている。入手済みなので、戦争末期の落合地域西部の様子については、改めて記事に書いてみたいテーマだ。ちなみに、同書の題字は料治真弓が、挿画は料治真矢が担当している。

◆写真上:落合町葛ヶ谷37番地にあった、料治熊太・料治花子邸跡あたりの現状。
◆写真中上は、下落合1296番地にあった霞坂秋艸堂。は、霞坂秋艸堂あたりの現状。は、昭和初期の制作とみられる会津八一・料治熊太合作の書画。
◆写真中下は、1935年(昭和10)に旧・安食邸の建物を購入して転居した目白文化村の会津八一邸。は、同邸が建っていたあたりの第一文化村の現状。は、1932年(昭和7)の「版芸術」5月号に掲載された料治朝鳴(熊太)の版画作品。
◆写真下は、1929年(昭和4)発行の料治熊太・編「白と黒」創刊号()と、1932年(昭和7)発行の「白と黒」第27号()。は、1933年(昭和8)発行の「白と黒」41号()と、1932年(昭和7)に出版された料治熊太・編『版画』()。は、1933年(昭和8)発行の「白と黒」41号に掲載された谷中安規『蝶を吐く人』(木版画)。

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下落合の和田富子(高良とみ)と上代タノ。 [気になる下落合]

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 一昨日、拙ブログへの訪問者がのべ1,900万人(PV)を超えました。いつもお読みいただき、ありがとうございます。もうすぐ17年目に入りますので、そのとき改めてこの16年間にわたる感想などを綴ってみたいと思います。今後とも、よろしくお願いいたします。
落合学PV.jpg
  
 九州帝国大学の助手だった和田富子は、大正末に弟の早大進学が決まると同大を辞め、下落合に自邸と研究室を建設(下落合810番地の可能性がある)している。1929年(昭和4)に、九州帝大時代から手紙をやり取りしていた高良武久Click!と結婚すると、笠原吉太郎アトリエClick!の棟並び、南原繁邸Click!の3軒北隣りの下落合679番地(のち下落合2丁目680番地)に自邸を建設し、改めて高良とみClick!と名のるようになった。下落合810番地には昭和10年代から、高良家の家族か姻戚が(引き継いだものか)住んでいるようだ。
 和田富子は結婚前、九州帝大から東京にもどると自身が卒業した日本女子大学校で心理学の教授に就任している。彼女は同大英文学部を1917年(大正6)に卒業しており、在学中から上代タノClick!との交流が生まれていたと考えても不自然ではない。和田富子は上代タノよりも10歳年下だが、米国ウェルズ女子大学への留学から帰国した上代が、同大英文学部の教授に就任するのと入れちがいに、和田は米国コロンビア大学大学院に留学している。
 また、上代タノ(当時34歳)は日本女子大学校の学長だった成瀬仁蔵や、国際連盟事務次長の新渡戸稲造Click!たちの支援のもと、1921年(大正10)に婦人平和協会の創立へ参画しているが、和田富子もまた米国留学から帰国したあと同協会へ加入している。そして、のちにWILPF(Women's International League for Peace and Freedom/婦人国際自由平和連盟)の国際会長だったジェーン・アダムスが来日したとき、和田富子は九州から日本各地の講演先をまわりながら彼女のマネージャー役をつとめ、当時は婦人平和協会の国際書記という役職にあった上代タノは、同協会の組織自体が名称をそのままに、WILPFの日本支部になれるよう積極的な活動を展開している。
 WILPFは第1次世界大戦が勃発した翌年、1915年(大正4)に同大戦では中立国だったオランダのハーグで開催された、欧米女性による反戦平和を求める国際会議をベースに誕生した女性の国際平和運動組織だ。日本女子大の成瀬仁蔵は、同年にWILPF事務局から日本女性の参加を呼びかける手紙を受けとっている。当時、日本各地の女子高等教育機関のほとんどは同様の手紙を受けとっていたが、日本からの参加を積極的に推進すると確約した返事を出したのは、日本女子大1校のみだった。当初、WILPFが頼みとしていた津田梅子は重病のため、すでに鎌倉の別荘で療養しており活動ができない境遇だった。
 1923年(大正12)6月に、WILPF国際会長のJ.アダムスが訪日したときの様子を、2010年(平成22)にドメス出版から刊行された、島田法子・中嶌邦・杉森長子共著『上代タノ―女子高等教育・平和運動のパイオニア―』から引用してみよう。
  
 アダムスは、中東、東南アジアを経て、中国から朝鮮半島へ、そして関釜連絡船で日本の下関に到着した。アダムスを出迎えたのは、日本女子大学校の卒業生で、当時、アメリカ留学を終え、帰国して、九州帝国大学の助手をしていた和田富子[後の高良とみ]であった。和田は、一九二一年の「WILPF第三回国際総会と夏期学校」に、留学先のアメリカから参加した。これは、キリスト教婦人矯風会会員の母親の勧めによるものであった。和田は、一九二三年には、帰国しており、アダムスの訪日中の旅のお世話を自発的に担当した。広島の宮島で休息した後、アダムスは、神戸、大阪、京都、東京と講演の旅をする予定であった。アダムスは、訪れた日本各地で「平和の母」として大歓迎された。
  
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日本女子大学.JPG
 J.アダムスの来日は、当時の主要紙では「平和の母、アダムス来る」と大きく取りあげられ、彼女が行なった講演の内容全文を掲載する新聞もあった。連日の講演会には、数千人の男女が会場を訪れ、アダムスは「婦人と平和」のタイトルで講演している。その講演では、「世界大戦」という未曽有の事態を次のように総括している。
 ①20世紀の戦争は軍隊のみが遂行するのでなく、国家総力戦に変質したこと。
 ②交戦国民は戦争に巻きこまれ、衣食に困窮し子どもは成長を妨げられること。
 ③毒ガスなどの新兵器は、人の生命と地域のすべてを永久的に破壊すること。
 ④人類に大きな傷を残す近代総力戦争は、絶対に阻止しなければならないこと。
 ⑤その反戦の中核は主に女性が担い、世界中で反戦の世論形成を推進すること。
 これらを踏まえた実践活動として、第1次世界大戦でドイツ軍の捕虜になって苦汁をなめたベルギーの人々が、敗戦の惨禍にあえぐドイツの子どもたち3,000人をベルギーに滞在させ、衣食の世話をしている事例を紹介している。
 敗戦国の国民が悲惨な生活をしていれば、「救いの手を差し伸べて、その厚意を示すことにより、その後の世界に戦争を再び起こすようなことはなくなるであろうという希望」(同書より)に支えられた活動だったが、その後、ナチスドイツの台頭で彼らの希望は蹂躙されることになる。WILPFの平和思想は、非暴力主義にもとづく徹底した話し合いによる紛争解決であり、女性たちを主軸とした国際平和創出への絶え間ない努力だった。
 この思想は第2次世界大戦後までも受け継がれ、同大戦で敗戦国となったドイツや日本、イタリアの惨状に対する多種多様な組織的支援として、国際連合のUnicefなど戦後の国際平和活動に大きな影響を与えている。J.アダムスが帰路についたのは関東大震災Click!の直前、1923年(大正12)8月末のことだった。
 さて、J.アダムスは帰国直前の8月17日、東京市長の永田秀次郎が主催した来日歓迎会に、静養中の日光から自動車で駈けつけて出席している。帝国ホテルClick!の会場には、各界の指導者が500人を超えて集まったが、そのときJ.アダムスを先導したのが上代タノと和田富子のふたりだった。したがって、両人は少なくとも1923年(大正12)8月の時点では、すでに懇意になっていたと想定することができる。
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 上代タノは、このあと米国と英国につづけて留学し、その合い間の1926年(大正15)に独立したばかりのアイルランドのダブリンで開かれた、WILPF第5回国際総会で日本支部の活動報告(すでに日本の軍国主義化を予見している)を行ない、ケンブリッジ大学のニューナム・カレッジを卒業後は、そのままジュネーブの新渡戸稲造夫妻のもとで国際連盟の仕事に従事している。そして、翌1927年(昭和2)に新渡戸夫妻とともに帰国すると、日本女子大学英文学部長に就任していることは、以前の記事でも書いたとおりだ。
 上代タノは帰国後、自身が落ち着いて研究に打ちこめる家を探していたとみられるが、1934年(昭和9)に下落合へ転居してくるのは、結婚した高良とみClick!(和田富子)の勧めがあったのではないだろうか。この時期、高良とみは「八島さんの前通り」Click!沿い、すなわち国際聖母病院Click!の西側にあたる下落合2丁目680番地に住んでおり、そのごく近所に上代タノも住んでいた可能性がある。
 また、戦前から高良武久Click!の家族あるいは姻戚筋が住んでいたとみられる(少なくとも1938年の「火保図」では「高良」の名前が確認できる)、下落合(2丁目)810番地にあった久七坂筋Click!の家が、九州帝大を辞めたあとに建てた独身時代の旧・和田富子邸+研究室であり、結婚後も彼女がそのまま家屋を手放さずにいたとすれば、この家を1934年(昭和9)から1936年(昭和11)までの3年間、上代タノへ貸していた可能性もありそうだ。そして、1937年(昭和12)以降には高良家の家族または姻戚筋が住んでいたとすれば、「火保図」(1938年)の記載も整合性がとれることになる。
 上代タノと国際平和運動について、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 上代タノの平和運動との本格的な関わりは、第一次世界大戦直後に結成された日本の女性平和団体、「婦人平和協会」とともに始まり、第二次世界大戦の戦時下では、婦人平和協会が政府の解散命令を受けたにもかかわらず、上代は個人としてできる範囲の平和活動を継続し、戦後いち早く、婦人平和協会を再興して、「日本婦人平和協会」と改名し、平和運動の地平をさらに拓いたのであった。(中略) 第二次世界大戦以前の時期から、平和運動に参画し、戦争中も平和の意志を貫き、戦後の平和運動推進に邁進した女性は稀有の存在であろう。こうした上代の平和運動との関わりを考察すると、上代は、まさに、日本における平和運動のパイオニアであり、きわめて優れた平和運動家として記憶されるべき存在であったといえよう。
  
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 上代タノが、下落合で暮らしたわずか4年後の1940年(昭和15)、政府は婦人平和協会の解散を命令し、WILPF日本支部は連盟を脱退させられた。だが、上代は日本女子大で英米文学を教えることをやめず、軍部と鋭く対立していくことになる。そして、再び同じぐらいの時間が流れた1945年(昭和20)、大日本帝国は滅亡し未曽有の「亡国」状況を招来するにいたった。J.アダムスが日本各地の講演で語ったように、「交戦国民は戦争に巻きこまれ、衣食に困窮し子どもは成長を妨げられる」の状況が、まさに彼女の眼前へ現出したのだ。

◆写真上:目白通りから撮影した、リフォーム前の日本女子大学成瀬記念講堂。
◆写真中上は、戦前に撮影されたとみられる英文学部研究室の上代タノ。は、1917年(大正6)に同大を卒業した和田富子(高良とみ)。は、同大正門の現状。
◆写真中下は、1906年(明治39)に竣工した成瀬記念館(講堂)の内部。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合2丁目680番地の高良武久・高良とみ邸。2年後の1940年(昭和15)には、下落合3丁目1808番地に高良興生院を建設して転居している。は、下落合680番地の現状で路地の奥全体が高良夫妻邸の跡。
◆写真下は、大正期に撮影された新婦人協会の記念写真。右端が新渡戸稲造で中央左が新渡戸メアリー夫人、新渡戸の左上に上代タノ、その左手には眼鏡をかけた若い市川房枝の姿が見える。は、1938年(昭和13)の「火保図」に採取された下落合2丁目810番地の「高良」。この家が、九州帝大からもどった和田富子(高良とみ)が立てた自邸+研究室であり、1934年(昭和9)より上代タノが3年間住んでいた家ではないか。は、下落合810番地の現状(路地奥の左手)で、諏訪谷をはさんだ正面が聖母会聖母ホーム。

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練馬で生徒が集まらない目白中学校。 [気になる下落合]

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 1926年(大正15)10月、落合町下落合437番地Click!から上練馬村高松2305番地Click!へ移転した目白中学校Click!は、入学希望者の急減に頭を痛めている。やはり東京市街から遠いせいか、同校へ進学を希望する生徒たちも減っていたのだろう。
 いくらかは寮らしい施設も用意されていたようだが、目白中学校に併設されている東京同文書院Click!へ海外から留学Click!してきた中国人やベトナム人、インド人などの入寮が優先され、そもそも寮や下宿の絶対数が足りず、日本の生徒まで手がまわらなかったのが実情のようだ。多くの生徒は自宅から、あるいは下宿先から登校しなければならなかった。
 移転した目白中学校の最寄り駅は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の中村橋駅、あるいは新たな支線の豊島線にできたばかりの豊島駅(のち豊島園駅)だが、中村橋からは直線距離で1.2km、豊島駅からでも直線距離で1kmほど離れていた。当時の道筋(ほとんどが畑地の畦道)を歩いたら、15~20分はゆうにかかっただろう。雨でも降れば、生徒たちは登校に難渋したにちがいない。今日なら、最寄り駅から学バス(乗合自動車Click!)でも用意するのだろうが、目白中学校にはそのような立地条件も財政的な余裕もなかった。
 1930年(昭和5)に発行された「同窓会会誌」第16号では、同校校長で同窓会会長の柏原文太郎Click!もその点を懸念したのだろう。学校の立地が市街地から遠く離れ、入学者数の減少が大きな課題になっていた様子をうかがわせる文章を書いている。同誌に収録された、柏原文太郎『目白中学校に就きて』から引用してみよう。
  
 今日学校の位地は四隣の境遇上先づ校地に適するものと思ふ。其施設に付ては将来諸君と我々の大に努力を要する、殊に他邦人の (中略) 寄宿舎を設けて其生活に耐ゆる設備をなし、教育するのは他の施設と同じく必要であります。又東京市其他少し遠隔の居住者が殊に子弟の修学の為めに学校附近に家を構へて居住する者も尠くない、是等の人々より学校に寄宿舎の設けを望まるゝ事が多い。まして寄宿舎生活に注意して其弊を去るは団体生活の美風を養ひ、共同心を助長し自助自治の習慣を養ふの益があるのであります。
  
 この文章は、目白中学校の卒業生たちに呼びかけた内容であり、東亜同文会Click!の設立から30年余、目白中学校の設立から20年余がすぎた時点で、、改めて同窓生たちに練馬における学校発展への支援を要請したものだろう。
 だが、あまりにも時代が悪すぎた。1930年(昭和5)は、前年の1929年(昭和4)にニューヨークの株価が大暴落し(「暗黒の木曜日」)、翌年、各国は未曽有の世界大恐慌の危機にさらされていた。日本でも輸出の急減とともに株価が軒並み大暴落し、街中には失業者があふれ、学校を卒業しても就職できない「大学は出たけれど」の社会状況が深刻さを増していた。つまり、多くの国民は教育費におカネをまわすことができず、明日の生活さえ見とおせないような混沌とした状態だったのだ。大学や専門学校を卒業した学生の就職率は、1929年(昭和4)度の全国調査でも50.2%という惨憺たる数値を記録している。
 柏原文太郎は、この世界恐慌について『目白中学校に就きて』でも、多くの紙数を費やして日本経済を分析している。第1次世界大戦では、どのような低品質で粗悪な製品を生産・輸出しても、ヨーロッパの交戦国やその周辺国では物資不足のため飛ぶように売れ、日本の資本家や企業家はボロ儲けしたが、戦争が終結したあと製品の品質向上や生産ラインの見直しをなおざりにしたため、その後、生産力を回復した欧米製品に比べて国際競争力が徐々に下落しつづけ、今回の米国の経済破綻をまともにかぶることとなり、国内経済の壊滅状況を招来しているとしている。
 他国の製品を上まわる日本製品の品質向上や、生産品目の見直しをたゆまずにつづけていれば、輸出がここまで落ちこむこともなかったとし、現状は「諸外国と競争して販路の拡張を講ずる能はずして、粗悪品の製造国として人後に墜つるの有様」だとこっぴどく批判している。ときの政治家は軍人あがりが多く、財政や経済には無知かつ「大活眼の人」も不在で、また国際通商(貿易)に関する「人材の乏しく」、「大勢を乗り切る者尠き為、此惨状を現出した」としている。当時は、Made in Japan=高品質・高機能製品などという概念が、影もかたちもなかった時代だ。
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 一方、同窓会委員長Click!の河奈光三郎は「同窓会会誌」第16号の中で、卒業生たちへ“母校愛”を訴えて目白中学校への協力・支援を呼びかけている。彼は、1915年(大正4)に第2期生として同校を卒業しているので、1930年(昭和5)の時点では30代半ばぐらいの年齢だろうか。当時、河奈光三郎は赤羽に住み、目白中学校で講師の仕事をしていた。
 同誌収録の河奈光三郎『偶感』から、少し長いが“熱い”文章を引用してみよう。
  
 母校目白中学校に対しては、実に無限の愛と懐みとを感ずるものであり、従つて吾人は其の御恩に報ゆるの甚だ当然である事を信ずる。母校の御恩に報ゆる事は、実に当然すぎる程当然であると余は思ふ者である。回顧すれば、吾人の中学生時代の生活は、一生の間でも最も意味深きもので、吾人は屡々在学当時の限りなき思ひ出に耽るのである。母校を憶ひ、吾人各々の在りし日の追想は、真に人間たるものゝ至情であり、同時にその長所、美点でもある。吾人は吾人の揺籃であり、産みの親とさえ思惟せられる母校……その母校を盛り立てゝ益々その伸張を図るは、如何にしても同窓生諸君の鞏固なる結束と、応援とに俟つ外はないと確信するものである。多数諸君の親睦や団結は、母校の発展と不離不即の密接関係を有するものである事を強く感ずる。かの同じ巣で生れ親鳥の限りなき愛に懐かれて、共に睦じく成長した燕の雛は、成長して愈々彼等の別離に臨んで何をか憶ひ、又何をか期したであらうか。
  
 実に“母校愛”にあふれた文章なのだが、少なからず違和感をおぼえるのは、おそらくわたしだけではないだろう。鎌倉時代の封建制のもと、全国へ展開した政子さんClick!配下の坂東武士団ではあるまいし、わたしは出身校に対して「御恩に報ゆるの甚だ当然」などとは思えないし、「産みの親とさえ思惟せられる母校」などとも到底とらえられない。
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 人はそれぞれ、在学中あるいは卒業後に獲得した思想や価値観、生活観、生き方などによって、出身校の教育機関とその教育環境に対する想いや感慨は、千差万別に位置づけ規定するのがふつうだし、中等教育よりもむしろ高等教育などのほうが、人生を左右する影響を受けやすいかもしれない。
 たとえば、1923年(大正12)に目白中学校を卒業した難波田龍起Click!(第10期生)は、アヴァンギャルド芸術家クラブが画家としての「産みの親」だと感じていたかもしれないし、1927年(昭和2)に同校を卒業した埴谷雄高Click!(般若豊/第14期生)は、特高Click!に検挙されてぶちこまれた監獄が、独自の世界観を獲得し文学への道程を決定づけた「産みの親」だと感じていたにちがいない。目白中学校の在学中に、教師や友人たちと反りが合わず、イヤな思い出しかない生徒だっていたかもしれない。
 そして、なによりも出身校を後生大事に気にかける人間、換言すれば学歴をいつまでも心にとめる人間ばかりではないことも、もうひとつの大きな価値観としていまや存在するだろう。いわゆる文科省の教育制度で「偏差値」が高い「一流校」を卒業した人間にも、与えられた仕事はソツなくこなせるが、ゼロからの企画力や創造力がなく頭の悪い人間はたくさんいるし、中学や高校しか出ていない人物でも、優れた才能にあふれる頭のいい人物だっている。要は個々の人間性であり、才能であり主体性なのであって、同窓会会長のいう「巣」や「産みの親」の問題ではない……と考えるわたしは、どうしてもこの文章には「どっかちがうだろ」といいたくなるのだ。
 学校当局や同窓会が、せっぱつまった強い危機感をおぼえるのも当然だったかもしれない。大恐慌の荒んだ時代を背景に、わざわざ子どもを学校の近くに下宿させ部屋代と生活費を援助したり、自邸を練馬に移転してまで目白中学校に通わせようとする裕福な親は、それほど多くはなかった。この文章が書かれてからわずか3年後、1933年(昭和8)には全校生徒が122人に急減し、病気がちになった柏原文太郎は同校校長を辞任している。
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 翌1934年(昭和9)には、新入生の数がついに0人となり生徒数は65名に激減して、杉並区からの申し出により同校の杉並移転がリアルに検討されはじめている。そして、1935年(昭和10)に杉並区中通町へと移転し、校名も目白中学校から「杉並中学校」へと改称された。

◆写真上:かつて目白中学校が建っていた、下落合437番地(現・下落合3丁目)界隈。
◆写真中上は、上練馬村へ移転直後の目白中学校。一面の畑地の中で、生徒たちもやることがなく無聊をかこっているようだ。は、1930年(昭和5)に発行された「同窓会会誌」第16号の表紙()と奥付()。は、寄稿者がけっこう多い同誌の目次。
◆写真中下は、同誌目次のつづきとグラビア。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・目白中学校と豊島園の位置関係。は、1948年(昭和23)の同校校舎。
◆写真下は、第10回生の難波田龍起と第14回生の埴谷雄高(般若豊)の卒業生名簿。は、晩年に撮影された画家の難波田龍起()と作家の埴谷雄高()。

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