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下落合の和田富子(高良とみ)と上代タノ。 [気になる下落合]

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 一昨日、拙ブログへの訪問者がのべ1,900万人(PV)を超えました。いつもお読みいただき、ありがとうございます。もうすぐ17年目に入りますので、そのとき改めてこの16年間にわたる感想などを綴ってみたいと思います。今後とも、よろしくお願いいたします。
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 九州帝国大学の助手だった和田富子は、大正末に弟の早大進学が決まると同大を辞め、下落合に自邸と研究室を建設(下落合810番地の可能性がある)している。1929年(昭和4)に、九州帝大時代から手紙をやり取りしていた高良武久Click!と結婚すると、笠原吉太郎アトリエClick!の棟並び、南原繁邸Click!の3軒北隣りの下落合679番地(のち下落合2丁目680番地)に自邸を建設し、改めて高良とみClick!と名のるようになった。下落合810番地には昭和10年代から、高良家の家族か姻戚が(引き継いだものか)住んでいるようだ。
 和田富子は結婚前、九州帝大から東京にもどると自身が卒業した日本女子大学校で心理学の教授に就任している。彼女は同大英文学部を1917年(大正6)に卒業しており、在学中から上代タノClick!との交流が生まれていたと考えても不自然ではない。和田富子は上代タノよりも10歳年下だが、米国ウェルズ女子大学への留学から帰国した上代が、同大英文学部の教授に就任するのと入れちがいに、和田は米国コロンビア大学大学院に留学している。
 また、上代タノ(当時34歳)は日本女子大学校の学長だった成瀬仁蔵や、国際連盟事務次長の新渡戸稲造Click!たちの支援のもと、1921年(大正10)に婦人平和協会の創立へ参画しているが、和田富子もまた米国留学から帰国したあと同協会へ加入している。そして、のちにWILPF(Women's International League for Peace and Freedom/婦人国際自由平和連盟)の国際会長だったジェーン・アダムスが来日したとき、和田富子は九州から日本各地の講演先をまわりながら彼女のマネージャー役をつとめ、当時は婦人平和協会の国際書記という役職にあった上代タノは、同協会の組織自体が名称をそのままに、WILPFの日本支部になれるよう積極的な活動を展開している。
 WILPFは第1次世界大戦が勃発した翌年、1915年(大正4)に同大戦では中立国だったオランダのハーグで開催された、欧米女性による反戦平和を求める国際会議をベースに誕生した女性の国際平和運動組織だ。日本女子大の成瀬仁蔵は、同年にWILPF事務局から日本女性の参加を呼びかける手紙を受けとっている。当時、日本各地の女子高等教育機関のほとんどは同様の手紙を受けとっていたが、日本からの参加を積極的に推進すると確約した返事を出したのは、日本女子大1校のみだった。当初、WILPFが頼みとしていた津田梅子は重病のため、すでに鎌倉の別荘で療養しており活動ができない境遇だった。
 1923年(大正12)6月に、WILPF国際会長のJ.アダムスが訪日したときの様子を、2010年(平成22)にドメス出版から刊行された、島田法子・中嶌邦・杉森長子共著『上代タノ―女子高等教育・平和運動のパイオニア―』から引用してみよう。
  
 アダムスは、中東、東南アジアを経て、中国から朝鮮半島へ、そして関釜連絡船で日本の下関に到着した。アダムスを出迎えたのは、日本女子大学校の卒業生で、当時、アメリカ留学を終え、帰国して、九州帝国大学の助手をしていた和田富子[後の高良とみ]であった。和田は、一九二一年の「WILPF第三回国際総会と夏期学校」に、留学先のアメリカから参加した。これは、キリスト教婦人矯風会会員の母親の勧めによるものであった。和田は、一九二三年には、帰国しており、アダムスの訪日中の旅のお世話を自発的に担当した。広島の宮島で休息した後、アダムスは、神戸、大阪、京都、東京と講演の旅をする予定であった。アダムスは、訪れた日本各地で「平和の母」として大歓迎された。
  
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 J.アダムスの来日は、当時の主要紙では「平和の母、アダムス来る」と大きく取りあげられ、彼女が行なった講演の内容全文を掲載する新聞もあった。連日の講演会には、数千人の男女が会場を訪れ、アダムスは「婦人と平和」のタイトルで講演している。その講演では、「世界大戦」という未曽有の事態を次のように総括している。
 ①20世紀の戦争は軍隊のみが遂行するのでなく、国家総力戦に変質したこと。
 ②交戦国民は戦争に巻きこまれ、衣食に困窮し子どもは成長を妨げられること。
 ③毒ガスなどの新兵器は、人の生命と地域のすべてを永久的に破壊すること。
 ④人類に大きな傷を残す近代総力戦争は、絶対に阻止しなければならないこと。
 ⑤その反戦の中核は主に女性が担い、世界中で反戦の世論形成を推進すること。
 これらを踏まえた実践活動として、第1次世界大戦でドイツ軍の捕虜になって苦汁をなめたベルギーの人々が、敗戦の惨禍にあえぐドイツの子どもたち3,000人をベルギーに滞在させ、衣食の世話をしている事例を紹介している。
 敗戦国の国民が悲惨な生活をしていれば、「救いの手を差し伸べて、その厚意を示すことにより、その後の世界に戦争を再び起こすようなことはなくなるであろうという希望」(同書より)に支えられた活動だったが、その後、ナチスドイツの台頭で彼らの希望は蹂躙されることになる。WILPFの平和思想は、非暴力主義にもとづく徹底した話し合いによる紛争解決であり、女性たちを主軸とした国際平和創出への絶え間ない努力だった。
 この思想は第2次世界大戦後までも受け継がれ、同大戦で敗戦国となったドイツや日本、イタリアの惨状に対する多種多様な組織的支援として、国際連合のUnicefなど戦後の国際平和活動に大きな影響を与えている。J.アダムスが帰路についたのは関東大震災Click!の直前、1923年(大正12)8月末のことだった。
 さて、J.アダムスは帰国直前の8月17日、東京市長の永田秀次郎が主催した来日歓迎会に、静養中の日光から自動車で駈けつけて出席している。帝国ホテルClick!の会場には、各界の指導者が500人を超えて集まったが、そのときJ.アダムスを先導したのが上代タノと和田富子のふたりだった。したがって、両人は少なくとも1923年(大正12)8月の時点では、すでに懇意になっていたと想定することができる。
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 上代タノは、このあと米国と英国につづけて留学し、その合い間の1926年(大正15)に独立したばかりのアイルランドのダブリンで開かれた、WILPF第5回国際総会で日本支部の活動報告(すでに日本の軍国主義化を予見している)を行ない、ケンブリッジ大学のニューナム・カレッジを卒業後は、そのままジュネーブの新渡戸稲造夫妻のもとで国際連盟の仕事に従事している。そして、翌1927年(昭和2)に新渡戸夫妻とともに帰国すると、日本女子大学英文学部長に就任していることは、以前の記事でも書いたとおりだ。
 上代タノは帰国後、自身が落ち着いて研究に打ちこめる家を探していたとみられるが、1934年(昭和9)に下落合へ転居してくるのは、結婚した高良とみClick!(和田富子)の勧めがあったのではないだろうか。この時期、高良とみは「八島さんの前通り」Click!沿い、すなわち国際聖母病院Click!の西側にあたる下落合2丁目680番地に住んでおり、そのごく近所に上代タノも住んでいた可能性がある。
 また、戦前から高良武久Click!の家族あるいは姻戚筋が住んでいたとみられる(少なくとも1938年の「火保図」では「高良」の名前が確認できる)、下落合(2丁目)810番地にあった久七坂筋Click!の家が、九州帝大を辞めたあとに建てた独身時代の旧・和田富子邸+研究室であり、結婚後も彼女がそのまま家屋を手放さずにいたとすれば、この家を1934年(昭和9)から1936年(昭和11)までの3年間、上代タノへ貸していた可能性もありそうだ。そして、1937年(昭和12)以降には高良家の家族または姻戚筋が住んでいたとすれば、「火保図」(1938年)の記載も整合性がとれることになる。
 上代タノと国際平和運動について、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 上代タノの平和運動との本格的な関わりは、第一次世界大戦直後に結成された日本の女性平和団体、「婦人平和協会」とともに始まり、第二次世界大戦の戦時下では、婦人平和協会が政府の解散命令を受けたにもかかわらず、上代は個人としてできる範囲の平和活動を継続し、戦後いち早く、婦人平和協会を再興して、「日本婦人平和協会」と改名し、平和運動の地平をさらに拓いたのであった。(中略) 第二次世界大戦以前の時期から、平和運動に参画し、戦争中も平和の意志を貫き、戦後の平和運動推進に邁進した女性は稀有の存在であろう。こうした上代の平和運動との関わりを考察すると、上代は、まさに、日本における平和運動のパイオニアであり、きわめて優れた平和運動家として記憶されるべき存在であったといえよう。
  
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 上代タノが、下落合で暮らしたわずか4年後の1940年(昭和15)、政府は婦人平和協会の解散を命令し、WILPF日本支部は連盟を脱退させられた。だが、上代は日本女子大で英米文学を教えることをやめず、軍部と鋭く対立していくことになる。そして、再び同じぐらいの時間が流れた1945年(昭和20)、大日本帝国は滅亡し未曽有の「亡国」状況を招来するにいたった。J.アダムスが日本各地の講演で語ったように、「交戦国民は戦争に巻きこまれ、衣食に困窮し子どもは成長を妨げられる」の状況が、まさに彼女の眼前へ現出したのだ。

◆写真上:目白通りから撮影した、リフォーム前の日本女子大学成瀬記念講堂。
◆写真中上は、戦前に撮影されたとみられる英文学部研究室の上代タノ。は、1917年(大正6)に同大を卒業した和田富子(高良とみ)。は、同大正門の現状。
◆写真中下は、1906年(明治39)に竣工した成瀬記念館(講堂)の内部。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合2丁目680番地の高良武久・高良とみ邸。2年後の1940年(昭和15)には、下落合3丁目1808番地に高良興生院を建設して転居している。は、下落合680番地の現状で路地の奥全体が高良夫妻邸の跡。
◆写真下は、大正期に撮影された新婦人協会の記念写真。右端が新渡戸稲造で中央左が新渡戸メアリー夫人、新渡戸の左上に上代タノ、その左手には眼鏡をかけた若い市川房枝の姿が見える。は、1938年(昭和13)の「火保図」に採取された下落合2丁目810番地の「高良」。この家が、九州帝大からもどった和田富子(高良とみ)が立てた自邸+研究室であり、1934年(昭和9)より上代タノが3年間住んでいた家ではないか。は、下落合810番地の現状(路地奥の左手)で、諏訪谷をはさんだ正面が聖母会聖母ホーム。

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