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娘から見た料治熊太と料治花子。 [気になる下落合]

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 2年ほど前に、落合町葛ヶ谷37番地(のち西落合1丁目31番地、1965年より西落合1丁目9番地)に住み、版画雑誌「白と黒」や版画集を発行していた料治熊太(朝鳴)Click!についてご紹介したことがあった。その際、妻の料治花子については触れなかったが、彼女は小説家あるいは随筆家として昭和初期から執筆活動をしており、本の出版や雑誌への寄稿などを通じて名が知られた作家だった。
 料治熊太は、1921年(大正10)に岡山から東京へやってくると、「女学生」(女学雑誌社)などの編集の仕事に就いている。その「女学生」に詩や歌を投稿していたのが、師範学校を卒業し岡山で教師をしていたのちの花子夫人だった。彼女は典型的な“文学少女”だったようで、編集部が主宰する「女学生友の会」を通じて知り合った同郷のふたりは、意気投合したのか恋愛のすえ1926年(大正15)に結婚している。
 1933年(昭和8)ごろ、料治花子は自分の恋愛経験をもとに小説を書いて「婦女界」(婦女界社)に応募したところ、作品が入選して懸賞金をもらっている。このときから、彼女はいわゆる“女流作家”の仲間入りをしたようだ。落合地域には当時、文壇の第一線で活躍していた吉屋信子Click!矢田津世子Click!尾崎翠Click!林芙美子Click!などが住んでいたので、料治花子はうれしくまた誇らしかったにちがいない。
 だが、料治花子は「フィクションは書けない人でしたし、恋愛は一つしかないわけだから、身辺のこと以外は書けないんです」という長女・料治真弓の証言どおり、もともと自身の経験から離れたフィクションの世界を創造するのが不得手だったらしく、短い小説は別にしても、その後はエッセイを中心に活躍することになる。
 同じころ、料治熊太は古美術研究に打ちこみはじめ、下落合の会津八一Click!のもとへ頻繁に通っている。娘の目から見た両親の姿を証言している、1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から発行された『新宿に生きた女性たちⅣ』収録の料治真弓「好きな仕事を支えあった両親」から、少し長いが引用してみよう。
  
 父は記者時代に古美術も研究していました。それで、会津八一を自分の師と決めて、落合文化村に住んでおられる先生のお宅に近い、この西落合に引っ越してきて、毎日のように先生のところへ通っていたそうです。会津八一は、歌もいいけど人間の心を大事にする、本当の意味での教育者で、怒ったり、破門にすることはあったけれど、非常に人間的な人で、信奉者も多いわけですよ。/聖母病院の下の方に徳川さんのぼたん園があって、私も、母と先生の養女のキイ子さんと一緒に見に行ったりしました。昭和九年か一〇年ごろかしら。/そして勤めをやめた父は、若い版画家たちと版画雑誌の『白と黒』を出版しました。西落合にあった紙工場に注文した手漉きの紙に版画を手刷りで刷って、表紙もそうでした。母はそれに文章を書いて、ガリ版を切って手伝っていたみたいですよ。第一号が出たのは昭和五年ですから、私がまだ赤ん坊のときです。/『白と黒』には、あとで、有名になった版画家たちの作品が載っているから、今では貴重なものになりました。
  
秋艸堂(霞坂).jpg
会津八一邸跡(霞坂).JPG
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 版画雑誌の「白と黒」は、創刊号が1929年(昭和4)、第1号が翌1930年(昭和5)に刊行されているが、創刊号が刊行される前年、1928年(昭和3)に料治一家は落合町葛ヶ谷37番地(のち西落合1丁目31番地)に転居してきている。長女の料治真弓は転居の翌年、1929年(昭和4)に葛ヶ谷37番地の家で生まれた。
 当時の会津八一Click!は、霞坂のある下落合1296番地の秋艸堂Click!に住んでいたので、料治熊太は師匠と同じ落合町内に住みたかったため、落合町葛ヶ谷へ引っ越してきたのだろう。この時点で、料治邸と会津邸との間は直線距離で800m、当時の道筋を歩いていけばおよそ11~12分ほどでたどり着けただろう。
 だが、1935年(昭和10)になると会津八一は、文中にある「落合文化村」=目白文化村Click!は第一文化村の神谷邸Click!東隣りに建っていた元・安食邸Click!を購入して転居してきているので、料治邸から会津邸までは直線距離で500mと料治邸にやや近くなっている。当時の道筋では、おそらく7~8分も歩けば訪問することができただろう。
 このころの料治邸には、おカネのない貧乏な版画家たちが集まってきては、花子夫人がつくる手料理をごちそうになっていたらしい。その中には前川千帆や大内青圃、谷中安規Click!、平川清蔵、棟方志功などがいた。料治邸で恒例となっていた「版画サークル」活動は、日米戦争がはじまる前まで行われていたというから、10年ほどはつづいていただろうか。料治花子は百人一首が好きだったのか、毎年、近くの自性院Click!で開催されるカルタとりに出場していたというエピソードも残っている。
 太平洋戦争の敗色が濃くなるころ、料治花子は西落合3丁目(当時は西落合1丁目)にあった螺旋管製作の工場に「女子挺身隊」として勤労動員されている。落合地域の裕福な家庭では、勤労動員には主婦ではなく家にいる女中をいかせたり、戦争で営業が不可能になった食品店や料理屋、飲み屋の店員や女主人に依頼して代わりに出てもらったりしているが、料治花子は作家ならではの興味をかき立てられたものか、自身で工場に出勤するようになった。
会津八一邸(第一文化村).JPG
会津八一邸跡(文化村).JPG
料治朝鳴版画「版芸術」193205.jpg
 その日々の様子や経験を書きとめ、敗戦も近い1944年(昭和19)に宝雲舍から出版したのが『女子挺身記』だった。おそらく、書くことが大好きな性格だったのだろう。家庭の日常とは、まったく異なる工場勤務が興味深かったのか、さまざまな出来事や動員仲間たちとの会話を詳細に記録している。今日的にいえば、戦時中の落合地域(西部)の様子をリアルタイムで書きとめた記録文学というところだろう。
 料治花子『女子挺身記』について、料治真弓の証言を聞いてみよう。
  
 でも、本当のところは戦争なんてきらいだったのに、なかに、ところどころ軍国主義みたいなことが書いてあるのは、時代に迎合するためにあとになって、くっつけて書いたのだろうと私は思ってます。そうでなければ、出版できない時代でしたもの。正直者だから、娘の私に見抜かれちゃうわけ。/父もやっぱり戦争反対者だったんですよ。あの時代はそんなこといったら大変なのに「日本は負けるね」なんて友人としゃべっているのを隣の部屋で聞いて、私は子どもごころに「何ということをいう親だろう」と思っていました。学校の教育はそうじゃないわけですからね。
  
 「少国民」の軍国少女だったらしい料治真弓は、戦時中、府立第十高等女学校(現・都立豊島高等学校)に通っていて、やはり勤労動員されていたが身体をこわし、しばらく自宅療養をつづけている。西落合の料治邸が焼けたのは、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!のあと、3月下旬の散発的な空襲時だったようで(おそらく西落合に展開していた工場をねらったものだろう)、その直後に茨城県水海道へ学童疎開をしていた長男・料治真矢を連れもどし、同年4月1日には故郷の岡山県へと一家で疎開している。
料治熊太「白と黒」創刊号1929.jpg 料治熊太「白と黒」27号1932.jpg
料治熊太「白と黒」41号1933.jpg 料治熊太「版画」1932.jpg
谷中安規「蝶を吐く人」41号1933.jpg
 料治花子『女子挺身記』の後半には、「銃後小品」と題した短編小説8編も収録されている。入手済みなので、戦争末期の落合地域西部の様子については、改めて記事に書いてみたいテーマだ。ちなみに、同書の題字は料治真弓が、挿画は料治真矢が担当している。

◆写真上:落合町葛ヶ谷37番地にあった、料治熊太・料治花子邸跡あたりの現状。
◆写真中上は、下落合1296番地にあった霞坂秋艸堂。は、霞坂秋艸堂あたりの現状。は、昭和初期の制作とみられる会津八一・料治熊太合作の書画。
◆写真中下は、1935年(昭和10)に旧・安食邸の建物を購入して転居した目白文化村の会津八一邸。は、同邸が建っていたあたりの第一文化村の現状。は、1932年(昭和7)の「版芸術」5月号に掲載された料治朝鳴(熊太)の版画作品。
◆写真下は、1929年(昭和4)発行の料治熊太・編「白と黒」創刊号()と、1932年(昭和7)発行の「白と黒」第27号()。は、1933年(昭和8)発行の「白と黒」41号()と、1932年(昭和7)に出版された料治熊太・編『版画』()。は、1933年(昭和8)発行の「白と黒」41号に掲載された谷中安規『蝶を吐く人』(木版画)。

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