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自分を「オレ」といった目白の師匠夫人。 [気になるエトセトラ]

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 落合地域に隣接する街には、昭和を代表する一門をかまえた落語家たちが住んでいる。上落合の南隣りにあたる柏木(現・北新宿)には6代目・三遊亭圓生Click!が、下落合の東隣り、目白駅の向こう側には5代目・柳家小さんClick!がいた。どちらも、昭和後期の落語界をしょって立った大看板だ。
 当時、「柏木」の師匠といえば親父が大好きだった6代目・三遊亭圓生のことであり、「黒門町」の師匠といえば8代目・桂文楽、「目白」の師匠といえば5代目・柳家小さんを指していた。また、「新宿」といえば末広亭、「上野」は鈴本演芸場か本牧亭、「浅草」といえば浅草演芸ホール、「三越」は日本橋三越本店Click!の名人会が開催された三越劇場……などと、寄席の所在地が符牒で呼ばれていた。
 女性が、自分自身を呼称する一人称で「オレ」といっていたのは、別に下落合4丁目1982番地Click!(現・中井2丁目)に住んだ、秋田出身の矢田津世子Click!だけではない。目白町2丁目1592番地(現・目白2丁目)に住んだ柳家小さんClick!(小林盛夫)の夫人で、福島出身の小林生代子も自分のことを生涯にわたり「オレ」といっていた。
 2008年(平成20)に文藝春秋から出版された、古今亭八朝/岡本和明・編『内儀さんだけはしくじるな』という本がある。師匠はともかく、おかみ(内儀)さんを「しくじる」ととんでもないことになるぞ……という、江戸東京の(城)下町Click!というか、東日本ならではの家庭環境を咄家たちが座談会形式で語りあったものだ。
 おかみさんは、一家の主人・主柱Click!で最終的な意思決定者(CEO)Click!であり、それを「しくじる」つまり「いい関係を築けない」あるいは「仲がうまくいかない」と、そもそも師匠の弟子としては成立しないこと(失格)になってしまう。師匠を怒らせれば最悪でも「破門」(出ていけ!)で済むが、おかみさんを怒らせたら「身の破滅」(広範で緻密な女性ネットワークもあるがゆえに)だと、危機感をもって語る咄家たちの様子がおかしい。
 同書より、「目白」の師匠こと柳家小さんのお内儀(かみ)さんについて引用してみよう。
  
 小さん一門はとにかく大所帯であった。色物さん、孫弟子までいれると六十人近くはいたのではないだろうか。どのお弟子さんも咄家になろうというくらいの人間だから良い意味でも、悪い意味でも一癖も二癖もある連中ばかり。(中略) 小さん師匠のお内儀さん、生代子夫人は独特の雰囲気を持っていた。自分のことを「俺」と言うし、声はしゃがれていたからえも言われぬ迫力があったようで、入門したばかりの弟子達は、それに圧倒される。しかし、それも年とともに変わってゆき、晩年になると弟子と友達のような付き合い方をしていたという。それは古参の弟子には信じられないような光景だったのである。
  
 生代子夫人は、東京のおかみさん(女主人)らしくしようと、最初は小唄Click!を習っていたらしいが、お師匠さん(おしょさん・おしさん)から「お生代さんの声は小唄の声じゃないよ」とサジを投げられ、同じ目白に住んでいた民謡歌手の佐藤松子に弟子入りして、民謡の稽古に鞍がえしている。稽古から帰ると、今度は誰かに教えたくなったようで、小さんの内弟子たちはみなその“被害者”になった。
 師匠が入門を「いいよ」と許しても、おかみさんがダメだといえば弟子入りは決して許されなかった。小さん師匠は、怒っても基本的には真面目で優しい人なのでそれほど怖くないが、おかみさんは「怖しい」というのが弟子たちの共通した認識だったようだ。小さんは外出すると、「いいか、お前なあ、師匠と弟子は生涯だけれど、内弟子ってのはかかあをしくじったら家には居られねえぞ。俺のことはどうでもいいから、かかあをマークしろ。それから俺が外で女にもてたって話があっても家に持ち込むな。もし、そういうことがあったら即、破門だ」と、入門したての新弟子・鈴々舎馬風(当時は柳家小光)へ噛んで含めるようにいい聞かせている。
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 少し余談気味になるが、上記のような家庭環境は、別に咄家一門に限らない。うちの祖父母や親の世代がまさにそうで、わたしの祖母Click!(日本橋の父方)が「けっこうですよ」と首肯しなければ、書生だろうが社員だろうが取引先だろうが、家や社屋の敷居をまたぐことはできなかった。家の基盤となるマネジメントは彼女が手がけているのであり、男は業務現場の実務あるいは職技に精通するのが、この街の慣習であり“お約束”だった。
 東京にくる方、特に西日本の方(中でも九州出身の方?)は気をつけていただきたいのだが、東京に古くから住む家々とのつき合いで、奥さんに「しくじる」ようなことをすれば、プライベートやビジネスを問わず即座に「アウト」だ。柳家小さん流にいえば、「マーク」するのは夫(男)ではなく妻(女)のほうなのだ。
 ましてや、江戸東京落語をなりわいとする家庭では、より厳格かつ規律的にその習慣が守られていただろう。これは、四谷小町といわれた四谷町出身のおかみさん(はな夫人)がいる、三遊亭圓生の一門でも同様だった。一門内の根本的な“しきり”はおかみさんに任されており、落語協会から三遊亭一門が分裂してほどなく圓生が死去すると、彼女はその後始末のネゴに夫の“旧敵”だった「目白」の師匠のもとを訪れている。
 同書より、「目白」の夫婦喧嘩の様子を鈴々舎馬風の証言から引用してみよう。
  
 “この野郎”“手前(てめえ)”だから、どっちが男か分からないよ(笑)。先ず、玄関先で立ち回りが始まって、それが一段落したら、今度は二階で第二ラウンドが始まって、皿なんかが割れる音が聞こえてくるんだ。で、二三(柳家さん吉)さんはおろおろしてね、/「光っちゃん、止めに入ろうよ」/って言うんだけど、ああいうのは下手に止めたりしないほうがいいから、/「いいんだよ、こんなものは。夫婦なんだから、いいようにやらせとけよ。変に間に入るとおかしくなるから」/って、好きなだけやらせちゃう。それから暫くすると静かになってね。二人とも別々に降りてくるんだ。で、師匠は風呂に入って、お内儀(かみ)さんはパチンコ屋へ行っちゃう。/俺と二三さんが二人で喧嘩の後片付けをしながら皿なんか見ると、割れているのは全部貰い物(笑)。高そうな物は壊れてないの。後で師匠に聞いたら、お内儀さんは投げる前に必ず品物を見てから投げるんだって(笑)。(カッコ内引用者註)
  
 このとき、生代子夫人が出かけたパチンコ屋とはどこのことだろう? 目白駅の周辺には、昔もいまもパチンコ屋は見あたらないが、彼女は夫婦喧嘩のあと、池袋駅東口か高田馬場駅の周辺まで足をのばしていたのだろうか。
コメント欄へスーサンさんより、かつて目白駅近くには通りの北側に「サクラ」、南側に「ザオー」という2店のパチンコ店ずあったのをご教示いただいた。生代子夫人のエピソードは1970年前後と思われるので、そのころどちらかの店に通っていたのだろう。
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 柳家小さん宅では、内弟子たちが衣服を着ずに、素っ裸で掃除などの家事をしていることが多かったらしい。きっかけは、鈴々舎馬風(当時は柳家小光)が「電話です!」と、風呂場で洗濯している生代子夫人を呼びにいったとき、おかみさんの素っ裸をたまたまのぞいてしまったことらしい。なぜ素っ裸で洗濯するのか、それだけでもかなり腑に落ちない不可解な出来事なのだが、そのときは「ばかっ!」と怒鳴られただけだった。だが、あとで師匠から猛烈に怒られるものと覚悟を決めたらしい。
 しばらくすると、「おい、お前(めえ)うちのかかあの裸を見たのか?」、「済みません」、「そうかあ……。まあ、見ちゃったもんは仕様がねえけどよ。おい、うちのかかあ、面(つら)はまずいけど、いい体してるだろ」、「ええ、いいおっぱいしてますね」、「ならいいんだよ」……というだけで済んでしまった。それ以来、おかみさんがいるのもかまわず、小光は風呂から出ると素っ裸で歩きまわるようになった。すると、内弟子たちも自然に家の中では、みんな裸で歩きまわるようになってしまったらしい。
 ところが、周辺のご近所にとってはとんでもないことだった。柳家小さん宅の南側は、すぐに目白駅前にあたる川村学園Click!高等学校の校舎が、いまも当時も建っていた。休み時間になると、女子高のほうから「キャー、キャー」という叫び声が聞こえてくるようになった。ほどなく、川村学園側から苦情が持ちこまれるが、生代子夫人は「知らないよ。あいつらが勝手にやってるんだから」と、まったく取りあわなかった。
 苦情や抗議は、その後も再三繰り返されたようだが生代子夫人が受けつけないため、川村学園では柳家小さん邸と校舎との間に、高い塀を築いている。その名残りだろうか、いまでも小さん邸跡と川村学園との間には、レンガの頑丈な塀が築かれており、キャンパスから北側が見通せないよう背の高い樹木が密に植えられている。
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 落合地域の南隣り、「柏木」で暮らした6代目・三遊亭圓生だが、ずいぶん長い間周囲からは「気むずかし屋」「へそ曲がり」などというイメージのレッテルを貼られていた。ところが、弟子の三遊亭生之助いわく、単なる人見知りにすぎず「あんなに楽な人はいなかった」、立川談志いわく「圓生師匠を見直しちゃったよ」というように、癇性が多い咄家の師匠連の中では、めずらしく穏やかで優しい人物だったようだ。そのぶん、2歳年上のはな夫人がしっかり手綱を握っていたようなのだが、それはまた、機会があれば、別の物語……。

◆写真上:目白町2丁目1592番地の、柳家小さん・小林生代子邸跡の現状。
◆写真中上は、新婚間もない1942年(昭和17)ごろ撮影の夫妻。は、柳家一門の記念写真で中央右が生代子夫人。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる同邸。
◆写真中下は、1975年(昭和50)と1992年(平成4)の同邸。徐々に敷地が拡げられ、剣道場や弟子たちの寮が建てられている。は、同邸の門へ向かう路地。
◆写真下は、柳家小さん・生代子夫人と柳家小光(鈴々舎馬風)。は、高い塀と目隠し樹木がつづく川村学園のキャンパス北側。下左は、2008年(平成20)出版の古今亭八朝/岡本和明・編『内儀さんだけはしくじるな』(文藝春秋)。下右は、親父が欠かさず聴いていた6代目・三遊亭圓生。わたしも、咄家といえば真っ先に圓生を思い浮かべる。

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