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勤労動員で螺旋管工場に通う料治花子。 [気になる下落合]

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 葛ヶ谷37番地(のち西落合1丁目31番地>西落合1丁目9番地)に住んだ料治花子Click!は、1944年(昭和19)に町会・隣組Click!による「勤労動員」の女子挺身隊員として、西落合にあった「〇〇螺旋管製作所」の工場へ出勤するようになった。料治花子が属する隣組は総数11家庭で、夫の料治熊太Click!には仕事があったため、料治家からは彼女が工場へ通うことになった。飛行機の部品を造る作業の日当は、弁当代も含めて1円50銭だった。
 1944年(昭和19)の時点での「勤労動員」は、いまだ軍部からの命令が「強制動員」よりもいくらかゆるかったようで、一家からひとりが隔週ごとに同じ町内の工場へ通えばよかった。また、途中から出勤しなくなったり、自分には向かない仕事だとやめてしまっても、特にとがめられたり「服務違反」で罪を問われることもなかった。落合地域の裕福な家庭では、その家の家族が動員に応じず、代わりに女中のひとりが家の“代表”として出勤するケースも多かった。
 料治花子が動員されていた勤務先の螺旋管工場は、角のように突きでた当時の西落合1丁目(現・西落合3~4丁目)の東側、葛ヶ谷の「妙見山」Click!の麓に刻まれた谷間(千川上水Click!から分岐した落合分水Click!が流れる渓谷)に沿って北上した、椎名町7丁目(現・南長崎5丁目)との境目近くにあった工場ではないかとみられる。工場の所在地が具体的に書かれていないのは、スパイの破壊工作や空襲時の目標となるのを懸念してのことだ。
 料治花子の長女(料治真弓)は、戦前に拡幅工事が終了している西落合の十三間道路Click!(現・目白通り)を歩いて、東長崎駅の北側にあった東京府立第十高等女学校(現・豊島区立豊島高等学校)へ通っているが、長女とは十三間道路の“下”で別れ、料治花子はそのまま田圃がつづく落合分水(明治以前は井草流とも)の谷間、古くは弁財天池があった谷戸という字名の渓谷を北上し、長女は“上”の十三間道路を東長崎駅方面へと歩いている。つまり、動員先の螺旋管工場は十三間道路のすぐ西側、西落合1丁目の北東端のどこかにあったと推定することができる。
 料治花子と長女が朝、出勤および登校する様子を、1944年(昭和19)に宝雲舎から出版された料治花子『女子挺身記』から引用してみよう。彼女は、西落合沿いに拡幅された十三間道路のことを、「改正道路」と表現している。
  
 今朝はまた霜がひどい。おみおつけに入れる小松菜を裏の畑へとりに行くと、葉がじわりとして冷く凍つてゐる。きつと昼間はぽかぽかした陽気になることであらう。今日も真弓(長女)と一しよに出かける。彼女は今日から学年末の考査があるのだ。今日は歴史と化学だといふことだ。(中略) 真弓は、丘の上の改正道路、わたしは下の田圃路、別れ別れだが同じ方角に向つて歩いて行く。下は霜どけでぐちやぐちやしてゐるので、草の上を選んで歩く。この二つの道はつむ形(紡錘形)に、中程はふくらんで別別だが、始めと終りは合致してゐるのである。私はどんどん歩いて、改正道路にさしかゝつた時後を振り向いてみたが、娘の姿はもう見えなかつた。途中の道を学校の方へ折れ曲つたのであらう。工場の手前に、大きな猫柳の木のあるある家があるが、この猫柳の花が、目に見えて日増しに艶やかにふくらんで行く。(カッコ内引用者註)
  
 この文章を読むと、螺旋管工場は北へ張りだす三角形をした、西落合1丁目(当時)の先端に近い位置にあったことがわかる。つまり、長女は三角形の先端までいく手前、現在の目白通りに口を開ける「コンコン通り」あたりを右折して、府立第十高等女学校(現・豊島高等学校)へと抜ける道を北へ向かっており、料治花子が「田圃路」と「改正道路」とが合流する手前、三角形の中ほどに着いて振り返っても、すでに娘の姿は見えなくなっていたのだ。
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 換言すれば、勤労動員先の螺旋管工場は、必然的に西落合1丁目(現・西落合3丁目あたり)の三角形の中間点に近い位置にあったことになる。1944年(昭和19)10月に撮影された空中写真を参照すると、三角形の中ほど東側にいくつかの家屋が確認できるが、このうちのいずれかが西落合の町会に課せられた勤労動員先の町工場ではないかと思われる。
 もう1箇所、螺旋管工場の位置を示唆する記述が登場する。工場に勤務していた、料治花子と親しかった「中さん」という工員に召集令状がとどき、出征することになったのだ。同書より、長女との会話部分から引用してみよう。
  
 『私がいつも学校へ行く時通る道に、今日出征の幟の立つてゐる家があるの、みると中正雄君つて書いてあるから、さうぢやあないかと思つて――何だかよくトラツクが出たり入つたりしてゐた家なのよ』/『さう、さう、それぢやあきつとさうよ、中さんは紙の原料をどうとかしてゐたつていつてたから――まあ、さう、どの辺?』/『東長崎の駅へ出る真直ぐの通の右側よ、十三間通路をはいつて間もなくなの――』/ぢやあ工場からもあまり遠くはない、明日工場の帰りに寄つて、一言、御苦労様、と私の微意を伝へよう――私はさう思つて、明日からまた一週間続く工場生活を想ひつゝ、作業衣、前かけ、もんぺなど、きちんと揃へて置いた。
  
 「東長崎の駅へ出る真直ぐの通」りは、長女が女学校へと通う現在のコンコン通りだとみられ、そのすぐ右手(東側)に「中さん」の自宅があったことになる。
 勤労動員の女子挺身隊に参加している家庭は、食糧品が少し多めに配給(特配)されたようだ。1944年(昭和19)春の時点では、いまだ配給品と近くの空き地で作る野菜だけで、なんとか食事がまかなえている様子がわかる。
 夕食を終えたあと、料治花子は家族とともに「近所の映画館」へ出かけている。土曜の夜が、日本映画社が制作した大本営ニュース(日本ニュース)を流す決まりだったらしく、この映画館とは料治邸を出て八千代通りを北上し、新青梅街道から目白通りを歩いて東へ600mほどのところにある「白系」の映画館、「目白松竹館」Click!(旧・洛西館Click!)のことではないか。目白松竹館は空襲で焼失するまで、戦時中は時代劇が中心の作品を上映している。
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 映画のほかにも、付近の住民は上落合2丁目670番地の古川ロッパClick!が出ている、新橋演舞場Click!などへも出かけている。薬局で話しこんだ近所の老婆は、「しばや(芝居)」を観にいったが「歌舞伎は嫌い」などと、おかしなことをいっている。
  
 『ふん、これこれ。どうもなあ、春さきになると目がくしやくしやしていけませんがな。昨日もしばやを見に行きましてなあ、目が疲れて――ほら奥さん何たらいふ役者でしたぞなあ、中井の駅でよう見るふとつた役者――』/『古川緑波でせう。おばあさん、ぢやあ昨日は新橋演舞場へいらしつたのね、面白かつたでせう』私は新聞広告を思ひ出しながら答へた。/『さうさう、あのふとつた人が座頭でせうなあ、何をしても主だつた役になりましたわえ。私はなあ、も一人の息子がまだ戦地にゐるもんで、あゝいふ兵隊の芝居が面白えですらあ。でれでれした歌舞伎やなんか嫌ひですらあ』
  
 おしゃべりな老婆は、料治花子(岡山県)と同様に中国地方の生まれだったようだが、芝居だけ「しばや」(歌舞伎のこと)と東京方言をつかっている。この記述だけでは、中国地方のどこの方言なのかは不明だが、帰り道でもしゃべりつづけ、オリエンタル写真工業Click!第1工場Click!の裏では燃料になるコークスが拾えるとつい話してしまい、教えなければよかったと後悔している様子がおかしい。
 料治花子は、洗濯をしながら食糧配給への不安な想いが絶えない。同書が書かれた時点では、敗戦前後に比べればまだはるかにマシだったはずだが、それでも不安はぬぐい切れない。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 配給の石鹸をまるで宝ものをすり減らすやうな思ひでこすりつける――石鹸とお米――誰かお酒かビールと取り換へてくれないかしら、お砂糖でもいゝわ、お砂糖なんてものも、なければなくてすむもの――でもたまにはせめて紅茶の一ぱいくらゐ飲むのにやつぱり必要かしら――いやいや、それよりも私が工場へ行き出してからお弁当が要るので、どうしてもお米が足りない、やつぱりお砂糖よりもお米がほしい――などと、自問自答しながらゆつくり洗ふ。(中略) ふと茶の間の卓の上を見た私は、かツと頭が熱くなり胸がどきついて来た。私の無念、私の後悔――憤懣やる方なき思ひに、しばし呆然と佇んだ。配給の丸干鰯を猫にとられたのである。卓の上に陽が当つてゐたので、そこへ並べて、ゆふべ九匹食べて、まだ二十三匹と数までかぞへて干しておいたものを――完全に残されたもの六匹、あとは卓の下に散乱した頭ばかり。
  
 先の映画や芝居もそうだが、夫を喜ばせるために「お酒やビール」との交換や、「紅茶の一ぱい」などと書けているうちは、まだまだ生活には余裕があった時期のことだ。
 配給制を強制している政府の、配給物自体や配給組織、輸送手段などが壊滅状態となり、配給が遅延するかストップしてしまい、「自助」で調達しなければならなくなる翌年から敗戦後の1~2年間は、餓死者が全国で続出するほどの惨状だった。
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 1945年(昭和20)8月15日の敗戦から同年の暮れまでのわずか4ヶ月間で、おおやけに報告された餓死者だけでも数千名を数えているが、未報告でカウントされない独居者や、都市部での戦災孤児などを含めると、実数はおそらく桁ちがいの万単位だったのではないか。

◆写真上:新目白通り(左手)と新青梅街道(前方)、そして目白通りの交差点。手前と右手が目白通りで、右折すると西落合の三角に突出した先端方面へ抜ける。
◆写真中上:1944年(昭和19)10月の空中写真にみる、料治花子と長女が歩いた道筋。
◆写真中下は、1944年(昭和19)10月に撮影された空中写真にみる螺旋管工場があるあたりの拡大。は、1945年(昭和20)4月の空襲前に撮影された同所。は、料治花子が歩いて通った落合分水(暗渠化)が流れる谷間を「妙見山」側から。
◆写真下は、1950年(昭和25)に撮影された西落合2丁目(当時)の宅地造成地を流れる落合分水。は、同年に撮影された落合分水と妙正寺川とが合流する暗渠化後の排水口。は、戦後は都立豊島高等学校に衣がえした府立第十高等女学校跡。

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