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ラジオ体操に駆逐された和式「自彊術」。 [気になるエトセトラ]

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 いまや学校や職場でよく行われている、ラジオ体操が広く普及したのは昭和10年代以降のことだ。1928年(昭和3)に、NHKが米国の放送局をまねてドイツ風の体操を導入し、ラジオで流しはじめたのが最初だった。
 それまで、日本には学校や職場で行われる、いわゆる「体操」が存在しなかったのかというと、そんなことはない。明治末から昭和初期にかけ、中井房五郎が発明した「自彊術(じきょうじゅつ)」体操というのが普及していた。おカネ持ちだけでなく、一般家庭にまでラジオが普及しはじめると、ラジオ体操のほうがピアノの伴奏も軽快で手軽にできるので人気が高まり、日本生まれの自彊術はあまり顧みられなくなっていった。
 従来、自彊術体操を定期的に行ない健康増進をしていた人も、周囲がこぞってラジオ体操に移行するのでそちらに参加するようになり、徐々に日本式体操である自彊術は行われなくなっていった。小中学校で採用された体操が、ラジオ体操で統一されていったのも、既存の体操が廃れる要因となったのだろう。ちょうど、欧米式のクロールやバタフライとなどの水泳法が学校で導入され、和式泳法が廃れていったのにも似ている。
 1985年(昭和60)に文藝春秋から出版された、吉村昭Click!の『東京の下町』にこんな記述がある。日暮里の諏訪大に通う富士見坂Click!(畳坂→骸骨坂→妙隆坂→1927年ごろ富士見坂Click!)界隈を、著者が訪ね歩いたときのレポートだ。
  
 (富士見坂沿いの)平塚氏の家を出て参拝道を進むと、右側に戦前そのままの二階家が並んでいる。二階にスダレが垂れ、軒下には植木鉢がいくつも置かれている。左手には、道に面していたニコニコ会館が露地の奥になっていた。/平塚氏の話によると、ニコニコ会館の館主及川清氏は、東洋的な身体健康法である自彊術を習得し、羽織、袴に十徳頭巾をかぶって一条公爵家などの名家にも出入りしていたという。諏方神社境内で早朝におこなわれていたラジオ体操に、及川氏も加わるようになった。/「及川さんが裸になったのは、昭和十二年です」/平塚氏の言葉が、なんとなく可笑しかった。(カッコ内引用者註)
  
 吉村昭は「東洋的な身体健康法」と書いているが、自彊術は純日本式の体操だった。「及川清」(及川裸観)の名前があるけれど、真冬でも上半身が裸で全国各地に出没し、ときに氷が張った湖にワカサギ釣りのような穴をあけて浸かりながら、「ワ~ハッハッハッ……」と笑っている変わったヲジサンだ。w 
 自彊術が広く普及しだしたのは、1916年(大正5)に中井房五郎が『自彊術』という本を出版してからだろう。同書の「序」には、後藤新平が文章を寄せている。それまでは、道場に通える範囲の生徒を対象に、独自の和式体操を教えていたようだが、弟子のひとりで巣鴨の金門商会を経営していた十文字大元の脊髄炎を治したことがきっかけで、書籍なども出版され広く普及するようになった。それまで、中井房五郎の体操には名前がなかったが、「自彊術」とネーミングしたのは弟子だった十文字大元だ。
 金門商会は1904年(明治37年)に、神田で誕生した日本初国産ガスメーターのパイオニア企業だ。1912年(明治45)に巣鴨の台地上へ移転し、約3,000坪の工場でガスメーターばかりでなく水道メーターの生産もはじめている。現在でもアズビル金門として、各種メーターを製造しつづける大手の精密機器メーカーとして健在だ。金門商会の工場が建設された、山手線の大塚駅と巣鴨駅のちょうど中間にあたる鉄道沿いの高台、巣鴨町1232~1247番地(のち巣鴨町6丁目1234番地/現・巣鴨3丁目)は「金門台」と呼ばれ、現在は工場跡および隣接地が十文字学園のキャンパスになっている。
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中井房五郎「自彊術」1916内容.jpg
 当時の金門商会の巣鴨工場について、1994年(平成6)に豊島区立郷土資料館から発行された、『町工場の履歴書』Click!特別展図録から引用してみよう。
  
 大正5(1916)年刊『東京模範百工場』には豊島区地域で唯一金門商会が紹介されており、そこには工場の機械設備が完備しており、衛生係や嘱託医を置いて約300人の職工の健康や食事を管理しているとあり、当時の工場の労働環境としてはかなり恵まれていたといえます。その工場長として(十文字)大元氏と共に金門商会を作りあげた桑沢松吉は、大正14年巣鴨町長に選出され、町政をも担うことになります。/また大元は脊髄炎を克服した経験から、自ら考案した自彊術を工場の寄宿舎の徒弟や職工に毎日実践させ、道場を地元住民にも開放して自彊術の普及に努めるとともに、大正11年妻ことが文華高等女学校(現十文字高校)を設立する際に資金面で援助し、女性の体位向上のため自彊術を導入するなど、教育面でも地域に貢献したことは注目されます。(カッコ内引用者註)
  
 文中で「自ら考案した自彊術」とあるが、最初に考案したのは中井房五郎であり、普及に努めたのが十文字大元・こと夫妻ということになる。
 十文字大元は、ガスや水道のメーターを製造する金門商会の経営ばかりでなく、兄といっしょに十文字兄弟商会を設立し、消火器や噴霧器、発動機、発電機などを輸入販売している。輸入品の中には、映像を投影する最新のバイタスコープがあり、それに初めて「映写機」という商品名をつけたのは十文字大元だった。
 さて、十文字大元の妻・ことは、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業すると各地で教師をしていたが、1899年(明治39)に大元と結婚すると基本的に教師をやめている。結婚後もつづけていた、日本女学校(現・相模女子大学)を最後に子育てと主婦業をつづけていたが、もともと自分が理想とする女学校を設立する夢をもっていた彼女は、巣鴨町の桑沢町長(金門商会工場長)と夫に相談している。そして、大元の援助を受けて1922年(大正11)、金門商会の工場敷地に隣接して文華高等女学校を創設している。
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 十文字ことの学校設立に関して、同図録の「女学校と自彊術」から引用してみよう。
  
 大正11(1922)年4月、夫の資金援助を得て、同窓の戸野みちゑ・斯波安と共に、工場近くの元玩具工場(木造2階建て)を仮校舎とし、定員500名の文華高等女学校を開校したのである。そこでは女子の教育機会の提供と体位の向上が目的に掲げられ、自彊術の実践は学校の特色の1つとなった。/昭和10(1935)年学校はこと一人の経営となり、金門商会隣の大日本電球工場(通称スメラランプ)跡地約2850坪を私財を投じて購入、翌年鉄筋コンクリート3階建ての校舎が落成し、12年校名を十文字高等女学校に改めた。/昭和20(1945)年空襲で全焼したが、戦後新学制の下に復興、現在学校法人十文字学園として幼稚園から短大までの一貫教育が行われている。
  
 1945年(昭和20)の「空襲で全焼」は、巣鴨に疎開していた巌本真理Click!の祖父の邸宅が焼けた、同年4月13日夜半の第1次山手空襲だったと思われる。
 十文字ことが大正期、高等女学校の体操に自彊術を採用したせいで、他の学校でも採用するところが出てきたとみられる。また、今日でも自彊術を実践する人に女性が多いのは、当初女学校で採用されていたことも関係があるのだろう。ラジオ放送がスタートする以前、大正期の職場や学校では、日本式の体操である自彊術が徐々に普及していった。
 だが、吉村昭『東京の下町』に登場している、自彊術を生徒に教えられるはずの教師格だった及川清(及川裸観)でさえ、諏方神社の境内で開かれていた朝のラジオ体操に参加するようになる。ピアノのメロディにのって行われるラジオ体操は、無音でかけ声だけの地味な自彊術に比べると、華やかで賑やかで楽しげだ。
 また、ラジオ体操は気軽に子どもから大人、年寄りまでが行える軽い体操だが、自彊術は身体をしっかり鍛えて整え、身体の弱点を克服するのが目的の体操なので運動量も多く、ラジオ体操のように気が乗らないときは適当に身体を動かして済ませるわけにはいかず、体操のしっかりした“型”をもっている。そんなところも、昭和10年代から米国輸入のラジオ体操が一般受けし、日本独自の自彊術が衰退するようになっていった要因なのだろう。
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十文字高等女学校(昭和10年代).jpg
 だが、最近は女性を中心に再びブームのようで、全国にサークルなどがつくられているらしい。ラジオ体操は、短時間で身体の表面的な動きのみだが、自彊術はもう少し時間が長く、身体の不調な部分に合わせてオプションの体操も豊富なので人気があるようだ。

◆写真上:畳1枚の広さがあるとできるといわれる、和式「自彊術」の基本体操。
◆写真中上は、日暮里の諏訪台から西側の坂下に通う富士見坂。は、1916年(大正5)に出版された中井房五郎『自彊術』()と、自彊術の創始者・中井房五郎()。は、同書の内容で体操をマスターするには少し時間がかかりそうだ。
◆写真中下は、1920年(大正9)ごろに撮影された金門商会の水道メーター生産ライン。は、1916年(大正5)の1/10,000地形図にみる巣鴨町の金門商会工場。は、1922年(大正11)に開校した文華高等女学校の廃工場を活用した2階建ての初期校舎。
◆写真下は、1925年(大正14)出版の十文字大元・編『自彊術の解説と実験談』(実業之日本社/)と、編者で金門商会社長の大文字大元()。は、1935年(昭和10)ごろに撮影された講堂で自彊術体操を行なう文華高等女学校(1937年より十文字高等女学校)の女学生たち。は、昭和10年代に撮影された十文字高等女学校のキャンパス。

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