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最高傑作とまでいわれたフランス式彩色地図。 [気になる下落合]

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 1880年(明治13)の明治初期に、落合地域の地形などを採取・記録して作成された通称「フランス式彩色地図」Click!、正式名称を「第一軍管地方二万分一迅速測図」について書いたことがある。江戸期からあまり変わらない、この地域に関する明治初期の地勢が視覚的に把握できて、非常に貴重な一級資料だ。
 この地形図をもとに、当時は落合地域に設置された異常に多い測量のための二等および三等の三角点Click!について、落合中学校のグラウンドに移動して現存する二等三角点とともにご紹介している。また、同地図の欄外へ参謀本部陸軍部測量局に所属していた画家が描いた、地域の風景画Click!についてもかつて記事にしていた。現在の落合公園あたりにあった稲葉の水車Click!が、1880年(明治13)に同地図が作成される直前、火災で焼失していることが新たに判明したのも、このフランス式彩色地図のおかげだ。
 下落合の西部で、大田南畝Click!『高田雲雀』Click!や昌平坂学問所地理局が編纂した『新編武蔵風土記稿』Click!にみられる、江戸期から大正期にかけてフラフラとあちこちへ移動をつづけた「中井」という小字についての検証にも、同地図は大きなヒントを与えてくれている。さらに、明治初期の東京西郊には建物が少なく、かなり厳密に採取されたとみられる建築物の様子も、かつて松本順Click!蘭疇医院Click!などにからめて引用してきた。
 当時の落合地域全体と、その周辺域が採取・記録されている地形図は、「東京府武蔵国南豊島郡大久保村北豊島郡長嵜(崎)村及東多摩郡中埜(野)村近辺村落図」という非常に長ったらしいタイトルが正式名称だ。実際に測量を行っているのは、参謀本部陸軍部測量局(実施当時の部局表記)に雇用されていた測量士・粟屋篤蔵と、副測量士の永田直芳のふたりであり、地図の枠外にネームが記載されている。
 「フランス式彩色地図」(第一軍管地方二万分一迅速測図)は、1880年(明治13)に事業がスタートし1886年(明治19)に終了した、日本で初めての広域測量による地形図だ。対象は、関東地方のほぼ全域をカバーしており、中でも落合地域を含む東京西郊は、プロジェクトの初年にチーム編成がなされており、翌1881年(明治14)になると東京市街地が測量されている。つまり、同地図は東京市から郊外へ測量範囲を拡げていったのではなく、逆に外周域の東京郊外から市街地へと測量が行われていることになる。
 当時の参謀本部が、なぜフランス式の鮮やかな彩色地形図を作成したのかといえば、明治初期の陸軍は徳川幕府が採用していたフランス軍制をそのまま踏襲していたからにほかならない。また、参謀本部にはフランス陸軍に学んだ人材が多く、地図の制作や表現においてもフランス本国と同様に、鮮やかな彩色地図が目標とされていた。
 同方式により、日本全国の地図を作成するよう「全国測量速成意見」を提出したのは、前年に参謀本部の第6課から測量課に名称変更されたばかりの、測量課長だった小菅友淵だった。意見書の内容は、日本全国にわたり縮尺1/20,000の地形図を、10年かけて予算1,000万円で制作しようという、当時としては途方もない計画だった。だが、参謀本部では西南戦争(1877年)などの経験から、戦闘時における地形図の必要性を痛感していたので、小菅の意見書をほどなく採用している。
 プロジェクトは、関東地方(第一軍管地方)からスタートし、徐々に全国へと拡大する予定だった。1880年(明治13)に、まず落合地域を含む東京府の西郊(南・北豊島郡)から測量がはじまり、次いで南足立郡、南葛飾郡、埼玉県の川口、千葉県の市川や船橋などの測量が進み、東京府とその周辺域は1882年(明治15)までに測量を完了している。東京市の中心部(東京15区Click!)は、おそらく1981年(明治14)のうちに測量が実施されているのだろう。こうして、日本の近・現代に制作された地図の中で、もっとも美しく「最高傑作」と呼ばれるフランス式彩色地図が完成した。
泰雲寺1880.jpg
泰雲寺山門.JPG
泰雲寺扁額.JPG
 同地図の制作当時、工兵少佐だった小菅友淵は、フランスから陸軍砲工学校に招聘された教師ジョルダンのもと、講義の教科書に使われていた「フランス式地図図式」を、同僚の原胤親とともに翻訳している。だが、地図作成を含む軍制全般がフランス式からドイツ式へ移行するにつれ、作成される「迅速測図原図」もドイツ式の1色刷りで味気ないものとなり、明治初期に測図されたフランス式の鮮やかなカラー地図は、すべて用済みの“お蔵入り”となってしまった。明治期に作成された「迅速測図」とタイトルされた地図で、のちのモノクロのものはすべてドイツ式で制作しなおされたものだ。
 さて、これまでのフランス式1/20,000地形図を取りあげた記事では、おもに下落合を中心にご紹介してきているが、もう少し観察の範囲を拡げてみよう。上落合と上戸塚(現・高田馬場3丁目)の境界あたりを見てみると、神田上水の西岸に黄檗宗の禅寺「泰雲寺」Click!が採取されている。泰雲寺は、1694年(元禄7)に伽藍の一部である如意輪観音堂が建設されたのがはじまりだが、美しい顔を焼いて仏門に入ったエピソードとともに、了然がいた尼寺として江戸じゅうに知られるようになった。
 了然尼は、妙正寺川に比丘尼橋(現・西ノ橋Click!あたり)を架けたり、地元の子どもたちを集めて寺子屋のようなことをはじめたりと、江戸期の資料や地誌本では有名な女性だ。1911年(明治44)に泰雲寺は廃寺になるが、その30年以上も前に近代地図に採取され、上落合に描きこまれた貴重な卍マークだ。位置は、当時の月見岡八幡社(現・八幡公園)の北北東140mほどのところ、現在の上落合1丁目8番地のやや東あたりだろうか。
 その下(南側)に目を向けると、神田上水の東岸、神田上水に架かる小滝橋Click!の手前に「感応寺」が採取されている。ここにある寺院は昔から真言宗系の観音寺Click!のはずだが、なぜか感応寺と記載されている。これは私見だが、識字率が低い明治初期の寺名は、誰でも読めるよう門前に「かんのうじ」とひらがなで書かれていたのではないだろうか。観音寺は、「かんのんじ」「かんおんじ」「かんのうじ」と3通りの読み方がある。そのうちの「かんのうじ」という表記を見た地図制作者が、早合点して「感応寺」と記載してしまった可能性が高いように思える。したがって、現在は「かんのんじ」と呼ばれることが多い観音寺だが、当時は周囲から「かんのうじ」と呼ばれていたのではないか。
 急峻な目白崖線を貫通するため、高田村の金久保沢の南へのびる谷間を切り通し状に掘削し、南南西へと直線状に走る山手線(当初は日本鉄道の品川赤羽鉄道)だが、1880年(明治13)当時はもちろん敷設されていない。のちに大規模な陸軍射撃場Click!が造られる戸山ヶ原Click!には、横浜に次いで東京初の大きな競馬場Click!が建設されている。目黒へ改めて新競馬場が建設される以前の風景で、大久保射撃場のスペースもいまだ小さい。ただし、競馬場の北西側には、すでに小さめな防弾土塁Click!(三角山Click!)が築かれているのが記録されている。また、防弾土塁は陸軍戸山学校Click!の校庭にも採取されている。
観音寺1880.jpg
観音寺.jpg
戸山ヶ原1880.jpg
 落合地域の北側をみると、下落合の本村Click!を除けば清戸道Click!(ほぼ現在の目白通りに相当)沿いの椎名町Click!(落合村と長崎村の境界)が、家屋の密集地帯だったことがわかる。同じ清戸道沿いで、次に賑やかなのは四谷(四家)町Click!だ。ただし、四谷町(四家町)は江戸期から3つの村境で形成された繁華街で、高田四谷町と雑司ヶ谷四家町、それに小石川四家町が合わさって街道沿いに形成されている。
 清戸道の北側の地図(「東京府武蔵国北豊島郡上板宿図」)をたどると、池袋村に隣接して「金井窪村」が採取されている。日本鉄道の目白駅Click!が設置されたのは金久保沢Click!であり、江戸期の弦巻川Click!と南側のカニ川Click!の呼称が同名の金川(神奈川)、弦巻川が形成した雑司ヶ谷から東にかけての谷間が神田久保(神奈久保)Click!目白不動Click!が奉られていた目白坂が通う椿山Click!から西側にかけてを目白山ないしは目白台と、明治初期の地図にはタタラ製鉄Click!にちなんだ、金(かね=鉄・砂鉄のこと)ないしは目白(鋼=はがねの古語)にまつわる地名が、周辺各地に拡がっていた様子がうかがえる。
 さて、フランス式1/20,000地形図は詳細に観察しはじめると、どこまでも面白くてキリがないので、なにかのエピソードにからめ必要に応じて、当該地域をご紹介できればと考えている。今回は、最後に長崎村から池袋村、そして上板橋宿と下板橋宿の同図、すなわち「東京府武蔵国北豊島郡上板宿図」に、鉛筆による興味深い書きこみを見つけたのでご紹介したい。地図の左枠外に、「明治十三年五月第一測期第一測図」と書かれている。さらに「第壱班」として、測量および地図作成を担当した4人の名前が記載されている。この落合地域の北側にあたるエリアが、フランス式1/20,000地形図でいちばん最初に手がけられた図面の一部ではないだろうか。
 左枠外には、「第一号第八測板」と書かれているので、四角く区切られた測量計画エリア(少なくとも8エリア以上?)のうちの1枚が、現在の豊島区と板橋区、練馬区あたりだと想定することができる。なぜプロジェクトが、東京市の西北近郊からスタートしているのか理由は不明だが、武蔵野Click!特有の起伏に富んだ地形が、測量・作図手順への習熟とともに、技術やスキルの向上には最適だと判断したものだろうか。
戸山ヶ原競馬場跡.JPG
四家町1880.jpg
金井窪村1880.jpg
 「第一測期第一測図」を担当している「第壱班」のメンバーには、測手(測量士)として陸軍歩兵中尉・小倉信恭と同少尉・菊池主殿、副手(副測量士)として参謀本部測量課雇い(勤務)の細見兵太郎と粟屋篤蔵の、計4名の名前が記載されている。

◆写真上:日本鉄道の目白駅が設置される5年前、1880年(明治13)の金久保沢界隈。
◆写真中上は、1880年(明治13)のフランス式彩色地図に採取された泰雲寺。は、下目黒の黄檗宗・海福寺に移設された泰雲寺の山門と扁額。
◆写真中下は、「感応寺」と誤記載されてしまった観音寺とその現状。は、戸山ヶ原に造成された競馬場とその近くに築造されつつある防弾土塁(三角山)。
◆写真下は、競馬場があったあたりの現状で大久保地区の戸山公園となっている。は、東西に細長く高田村と雑司ヶ谷村、小石川村にまたがる四谷町(四家町)。は、同地図にみるかつて池袋村氷川社の北側にあった金井窪村。
おまけ
ようやく近所にあるモミジの葉が、黄緑色からタイダイ色や赤色に紅葉してきました。
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