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高田町を訪ね歩いた感想文1925。(上) [気になるエトセトラ]

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 自由学園Click!が、1925年(大正14)に刊行した『我が住む町』Click!(非売品)の巻末には、訪問調査に参加した102名による女学生たちClick!の感想文が掲載されている。本科1~4年生、予科、高等科1~2年と、学年をまたいだ取材後の代表的なレポート類だ。ただし、この中には自由学園に残って情報管理や進捗管理など、後方支援を行っていた女学生たちClick!は含まれていない。
 ここで語られる街の様子は、おそらく高田町(おおよそ現・目白1~3丁目/雑司が谷/高田/西池袋2丁目/南池袋2~4丁目界隈)にとどまらず、南西隣りの落合町(現・下落合/中落合/中井/上落合/西落合のエリア)や、南隣りの戸塚町(およそ現・高田馬場/西早稲田界隈)でも、ほぼ同じような状況ではなかったかと思われる。女学生たちの感想文は、自主規制をしたり羽仁夫妻Click!による校閲の手が加えられておらず、ほぼそのままストレートに掲載されているとみられ、学園の名称のとおり思ったことや感じたことを、「自由」かつありのまま書いているのだろう。
 だから、高田町のいくつかの字名や地区を特定して、「大変きたない」とか「貧乏な人達が沢山ゐる」、「だらしない」とか、今日ならかなり差し障りがあるので校閲の手が入りそうなところも、そのまま活字になっている。特に、調査しに出かけてひどい目に遭っているところや、怒鳴られたり追い払われたりしている住宅や商店、地区などは、彼女たちの容赦ない辛辣な批判にさらされている。
 さすがに、現在では掲載するのががばかられるので、特定できる地域や家屋、商店などを除いて、彼女たちの感想の一部をご紹介してみたい。
  
 おこられたり色々つらい思ひをしてやつた調査がよく出来たので大変うれしうございました。私達ににとつて大きな進歩の二日だつたと思ひます。私達がしたいと思つたことは勇気を出してすれば出来ないことはないとつくづく思ひました。(本一 岡田定慧)
 たまにどなつたり、恐がつて教へて呉れなかつたりするやうな方たちは、神経質だからだと思ひました。私達はさういう人たちをゆつくりさせて上げるつとめがあると思ひます。よい態度と、やさしい心は、是非必要だと思ひます。(本一 豊田百合子)
  
 「本一」とは、本科1年生のことで14歳前後の女子たちだ。本科低学年の子たちが、いちばん怒られ怒鳴られ、追い払われた確率が高そうで、町勢調査でやってきたのが子どもだったので驚き腹を立てたのか、あるいは調査の趣旨をまったく理解できずに煩わしく感じたものだろう。本科低学年の生徒が追い払われた住宅や商店には、改めて高等科の女学生たちが赴いているが、それでも追い返された家や商店があった。
 自由学園による町勢調査の予告は、高田町町役場をはじめ高田警察署による事前告知(回覧板)、あるいは自由学園の女学生たちが全戸に配布した趣意書により、情報は高田町内へいきわたっていたはずだったのだが、それらをまったく読まなかった住民が多数いたのだ。彼女たちが訪ね、初めて調査を知った家庭や商店がずいぶんあったようだ。
 また、この社会調査はもともと高田町の失業対策や福祉対策、衛生施策、保健施策など各種政策の向上のために彼女たちが発案・企画し、そのデータを町政で活用してもらうために実施したものだが、当時は「家の内情を知られると自分が不利になる」と感じた住民も多かった。今日のプライバシー情報の保護とは、別の意味でまったくちがう感覚だろう。
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 つづけて、本科2年生の所感を聞いてみよう。
  
 (前略)或る中の下位の家に行くと、白粉をつけて目のつり上つた女の人が出て来て、もう趣意書も先に上げてあるのに、「何故するのですか、そんな事は交番に行つて聞けばよい、必要なだけは交番にとゞけてある」と云つて教へて呉れないので、私は驚いたが、一生懸命になつて、よく分る様に説明もし、教へて貰はうと思つて頼んだが、「貴方達には研究材料になつてよいかもしれないが、私には何の利益もない」と言つて居る。(中略) その家では前のフトンデーの時も誰かゞ怒られたさうだが、私があそこに行つたのはよい鍛錬だつたと思つた。(中略) 私達のところは下流が六分に中流が四分位だつたが、下流の人はわけがよくわからないかもしれないが、兎も角一体に親切だつた。中流になると、理解して呉れる人は大変親切だつたが、あまりよくわかつて呉れない人は高慢で清潔屋かなにかと心得られたりした。廿七日には二班の手伝ひをしたが、お蕎麦屋さんで怒鳴られた。(本二 山室光子)
 私のしらべた中には、かう言ふ(ママ)家があつたと思ひます。/一、一々奥に入つて行つて聞いてくる家。/二、すぐその場でをしへてくれる家。/三、不注意で自分の家の事をよく知らなくて、一々受取を出して来て見る家、大きな声でお隣に聞く家。/四、不親切でなかなかおしへてくれない家。/(一)は時間がかゝるし、なんだかその家の人が高ぶつてゐるやうでいやでした。/(二)は聞くのも楽だし、時間がかゝらなくていゝと思ひました。/(三)のやうな人はすべての事に不親切ぢやないのかしらと思ひました。(中略)/(四)のやうな家が私のしらべた所には一二軒しかなかつたのはうれしうございました。この二軒も思ひ違ひか何からしく、あとではちやんとおしへてくれました。(本二 堀内みさ子)
  
 「清潔屋」Click!とは、以前も書いたようにゴミ屋のことだが、衛生環境を調べるので不要品の回収とまちがえた家庭がずいぶんあったようだ。また、「フトンデー」とは関東大震災Click!時に被災者へ自由学園で縫製しなおした布団を配るボランティア活動のことで、おそらくくだんの家へ不要になった古い布団が余っていないかどうか、女学生が訊きにいって怒られたものだろう。
 自由学園の知らない女子が訪ねてきて、いきなりわけも聞かずに怒鳴るほうも怒鳴るほうだが、その家屋や生活を品定めして「中の下」とか「下」とか評価している彼女たちも、おそらく感想文を提出後か、『我が住む町』の刊行後に羽仁夫妻から、その差別的で高慢な眼差しを注意されているのではないかと思われる。巻末の感想文では、おしなべて貧しい家の人たちは親切に教えてくれるケースが多く、おカネ持ちの家ほど取材がむずかしかった様子がうかがわれる。
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 ただし、目白貨物駅の周辺に展開するおカネ持ちの運送店(馬方)Click!の場合は例外で、快く調査に応じてくれたようだ。馬小屋がついた、「汚らし」くて不衛生な家に住み、荷運びの人夫たちが暮らす長屋も女学生たちが入るのをためらうほどだったが、彼らがとんでもない高額所得者であり、運送店の店主宅は小さくてみすぼらしいにもかかわらず、高田町ではトップクラスの裕福さだったのに驚愕している。したがって、「貧乏線」調査Click!ではのちの統計処理の作業で、町内の住宅の広さや部屋数の多さと、家族の所得から割り出す百分率に大きな誤差が生じると考えた彼女たちは、運送店(馬方)をあえて“例外”として集計から除外している。
 また、「高ぶつてゐるやうな」家は「中流」から「上流」に多かったようで、「一々奥に入つて行つて聞いてくる」のは女中か書生、執事が応対しているからで、そのような家では住民はまったく姿を見せなかった。
 つづいて、本科3年生(16歳前後)の感想を引用してみよう。
  
 私は四五軒はきつとどなられるものと思ひ覚悟して行きましたところが、邪険な返事をしたのは、唯一軒だけでしたので、こんなに皆が親切に私達の質問に乗つて下さるのかとほんとに嬉しく思ひました。(中略) 其のどなられた家はお湯屋で、大きな家でしたけれど、その内儀さんはほんとに人の悪さうな人でした。そして、私が聞く度に随分ブツキラボウな答をして、はらはらしてしまひました。それから一軒お気の毒な家がありました。それは、若いはきはきした奥さんで、御主人が頭が悪くてフラフラして居るので、ほんとうに困つてゐらつしやるやうでした。(本三 山岡秀子)
 一日目に私の行つたところはいやな家ばかりなので「もし日本中の人々があんなであつたらどうしやう」と思つたのです。いくら一生懸命になつて聞いても返事もしない家や何も解らない中から怒り出す人や、あんな訳の解らない人がゐても、それこそ何のやくにもたゝないと思ひます。あんな人達の子供も好い子なんてゐないとつくづく思ひました。(本三 石塚富美子)
  
 石塚さんは、完全にキレて頭にきているようだが、同じような感想を書いている女子は彼女ひとりではない。彼女もまた、あとで羽仁夫妻から諭されているような気がするのだが。また、山岡さんの文章に出てくる「御主人が頭が悪くてフラフラ」しているのは、どのような状況なのだろう。今日的にいえば、仕事のストレスか過労がたまって鬱になり、出社拒否で働けなくなってしまったものだろうか。
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 彼女たちの感想を細かく読んでいると、時代の技術や思想、生活様式が進歩しただけで、今日とさほど変わらない人々の生活や社会観、価値観などが透けて見える。次回は、高学年の女学生たち(およそ17~20歳)が書いた感想文をご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:1936年(昭和11)に撮影された自由学園校舎と講堂、運動場など。
◆写真中・下:陸軍航空隊によって、同年に撮影された旧・高田町界隈。

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