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高田町を訪ね歩いた感想文1925。(下) [気になるエトセトラ]

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 『我が住む町』Click!の巻末に収録された膨大な感想文Click!は、当然のことながら学年が上がるにつれて長文が多くなる。特にプロジェクトを企画した高等科の学生たち(19歳前後)の文章は、感想文というよりも調査後の総括文のような内容が多い。また、最高学年にあたる高等科2年生の文章は4名ぶんしか掲載されておらず、他の学生たちは「貧乏線」Click!「衛生環境」Click!の統計調査の処理や、集計後の論文(本文)執筆に忙しく、巻末の文章にまでは手がまわらなかったのだろう。
 前回と同様に、とてもすべての文章を紹介することはできないので、今回も代表的な感想文の一部を引用してみよう。まずは、本科4年生から。
  
 相当立派な構へのお家でもすぐ主人自ら出ていらしつて心よく(ママ)応対して下さつた所も多くありました。なんでも女中を通じての家はほんとに厄介でした。一事毎に中へ聞きに入るのでこちらも面倒だし、あたらにもお気の毒に思ひました。ちやんと分つてゐるのに、留守だと言はせる家もありました。こういふ家よりも労働してゐる方たちの方は、矢張り初めはこちらの心が通じないので変な顔をしてゐますけれど、分つてくると一生懸命に聞かないことまでも話して呉れます。只もう少し常識と礼儀とかあつて欲しいと思ひました。(本四 菅谷美恵子)
 「頼まれもしないのに御苦労様」と冷めたい目で言つた方がありました。さう云ふ時怒つてはならないと云ふのは、私等の約束でしたので、落ち付(ママ)いて思ひました。私は忍びました。冷めたい打算的な気持で出来る仕事ではない。人から強制されて出来る仕事ではない。唯自分自身したいと云ふ心だけで出来る仕事だと。(本四 宇佐川せつ子)
  
 「もう少し常識と礼儀とかあつて欲しい」人たちとは、おそらく当時の職工の家庭で、彼女たちの調査に主人がいろいろ親切に応対してはくれるものの、いつか女性専用車両の記事に登場した鬼瓦権蔵さんClick!のように、「よっ、ねえちゃん、ハイカラなべべだねい」とか「チョーサ終わったらよ、上がって一杯いこ、よっ、ねえちゃん!」とか、そのたぐいの“気さく”な家ではないかと思われるのだが。w
 中には、海外の衛生環境を知る主人が出てきて、彼女たちにその様子をわかりやすく具体的に解説しながら、衛生設備の改良をぜひ町役場に強くアピールしてほしいと依頼する家庭もあった。おそらく学者か、海外を視察したことのある企業家だったようで、ひょっとすると“電気の家”の山本忠興邸Click!の北隣りにあたる、高田町千登世1番地に住んでいたあめりか屋Click!の技師長・山本拙郎邸Click!だったかもしれない。
 次に、予科の女学生たちの感想を聞いてみよう。予科は、自由学園の本科出身ではなく、通常の女学校(4年間)を卒業してから、高等科(2年間)に進むための教養課程のようなコースで、尋常高等小学校+女学校で、すでに17歳前後の女子たちが多かった。彼女たちが高等科を卒業するころは、20歳を迎える女学生もいただろう。
  
 唯一軒どうしても答へて下さいませんでしたので、悪いとは知りながらも、謙遜な態度をすることが出来なかつたことを、今考て、ほんとうに残念に思つて居ります。少しでも忍耐することが未だ出来ない自分を今更の様に恥しく思ひます。/その外には真剣に親切な謙遜の態度で朝から晩まで働き通し得たのは本当に不思議な位でした。一軒毎に自分の態度言葉が洗練されてゆくのが目に見えて嬉しく心強く感じました。(予科 杉本泰子)
 調査の日は寒い路の悪い日でした。あの日をふり返つてみると、第一にきたない路をこねて歩いた事が思ひ出されます。それ程私達は路の悪いのになやまされました。然しあの二日は私達にとつてはよい勉強の日でした。大きい実社会の仕事にはじめてふれた時、学校で習つて居る事がどんなに役立つかと云ふ事を深く思はされました。(予科 村瀬春子)
  
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 道路の悪さや調査日の悪天候は、これまでも『我が住む町』のレポート記述の随所に出てきているが、1925年(大正14)2月26日(木)と27日(金)は、東京中央気象台の記録によれば「曇り」と「雪」なので、当時は地面がむき出しの路面はグチャグチャだったろう。気象台のある市街地では「曇り」と「雪」だが、高田町は両日とも雨もよいの日だったらしい。特に、高田町の南側には目白崖線があり、その急坂を上り下りするのはたいへんだったにちがいない。転んで泥だらけになった女学生も、何人かいたかもしれない。
 当時の東京は、市街地(東京15区Click!)はともかく、郡部では舗装されている道路がきわめて少なかった。いまだ砂利や砂を撒いて、滑り止めやぬかるみ除けにしたり、幹線道路には石炭がらを撒いて固め、水を吸収するイギリスの方式をまねた「炭糟道」Click!と呼ばれる簡易舗装は行われていたが、住宅街の中に敷かれた三間道路や二間道路は土面がむき出しのままだった。
 ひと雨降れば、平地の道路なら靴を取られるClick!ほどのぬかるみになり、大雨の坂道なら水が滝のように流れ落ちた。道路わきにある側溝(ドブ)が雨であふれると、汚水が道路まで拡がるのも、高田町を縦横に調査する女学生たちを悩ませたにちがいない。当時は、玄関先に靴洗い場Click!を設置している邸も少なくなかった。
 つづけて、高等科1年生による取材の様子を聞いてみよう。
  
 或る炭屋のおかみさんは、眼のとげとげした本当に恐ろしい顔をした人で、始めは一と言二た言こちらが言つても何とも云はずに頭の上から足の先までじろじろ眺めてゐた時には、私の弱い心は何だかいやないやな気になりましたが、又勇気をだして、色々丁寧に幾度も幾度もたずねたずねたので、だんだん心がとけたらしく、しまひにはよけいな事まで丁寧に話して呉れる様になり、すつかり始めとは様子が変つてしまひました。(高一 相良淑子)
 大抵のお家は、ちやんと気持のいゝ返事をして下さいましたが、唯一軒だけ、可なり立派そうなお家で、気を悪くさせられました。その時もう少しで私は自由学園の学生らしい態度を失ひかけました。色んな事にすぐ破裂しそうになる私には、小さい事ですけれど我慢すると云ふ事のいゝ勉強だつたと思ひます。(高一 林始子)
 直接社会の仕事にあたつて見ると、段々自分が忍耐強くなれて行くと云ふことを感じて本当に嬉しく思ひます。前には意地の悪い人にあつたり、また人に侮辱されたりすると、怒つてしまふ自分であつたのに、忍耐して、お互ひに解り合ふまでつとめて行きたいと思ふやうになりました。(高一 安東千鶴子)
  
 おそらく、わたしは女学生たちよりも、はるかに短気で忍耐力がないだろう。
 わたしは、彼女たちのようにキリスト教的な思想や倫理観は持ちあわせていないので、もし「気を悪くさせられ」ることがあったりすれば、彼女たちも文中で書いている「左の頬を打たれると右の頬を差しだす」どころか、相手の左右の頬を打ち返す以上のダメージを与える報復権を留保し、機会があれば即座に実行するか、機会を自ら進んでつくろうとするだろう。わたしには、当時の高田町の社会調査にはおそらく参加できそうにない。w
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 林さんが、別のところでホンネを書いているように、社会調査に参加することについて「何だか嫌だつたのです。一昨年の蒲団デーで蒲団を集めた時の事を思ふと」と、関東大震災Click!時に展開した被災者支援のボランティア活動Click!でも、高田町内でイヤな思いを味わっていたようなのだ。
 同様に、「自分の我儘を全く捨てなければ出来ないこのお仕事は、二日間の教場の授業よりも、私のやうなものゝ生命の本当に成長して行く上に大事なお仕事であつたと思ひます」(高一 横田のり子)と書くように、自我を滅却し広いキャパシティのある鷹揚な心を鍛える、ほとんど“悟り”に近い精神力を獲得するための、修練あるいは修業のような2日間だったのかもしれない。
 最後に、卒業を目前にした高等科2年生の感想を引用してみよう。
  
 調査のことをきめる前に、一万にも近い高田町全体を、一軒一軒戸別訪問して面倒なことを聞いたりすることが出来るだらうか、モツトたやすい仕事を擇んだ方がよくはないか、そんな心配はしながらも、かう云ふ必要な調査が、町役場にも警察署にも、まだないと云ふことを聞いて、力一つぱいやつて見る気になつた。調査に出かける一週間位前からは、毎日全体講堂に集つて、説明したり質問したりして、色々に研究し相談をした。少ない人数で考へてゐるよりも、大勢になればなる程又沢山のよい考へが出るものだと云ふことを学んだ。(高二 山脇登志子)
 一度も怒鳴られず、却つてどこへ行つても御礼を云はれ、ほんとうに、恐縮してしまひました。怒鳴られた方々もあつた様でしたけれど、聞く方の人の態度も十分でなかつたのではないでせうか。(高二 奥村數子)
  
 山脇さんは商店レポートで乾物屋Click!を、奥村さんは菓子屋Click!を担当している。奥村さんの「一度も怒鳴られず」は、女学生の多くがイヤな思いを感想文に書いていることを考慮すれば、非常に幸運でまれなケースだろう。自由学園の町勢調査だと聞くと、なぜか顔色を変えて怒りだす住民がけっこういたらしい。社会調査について、なにか大きな勘ちがいをしている家庭か、もともと女子の自立や「職業婦人」をめざす同学園の教育方針を、快く思ってはいない住民たちだったのかもしれない。
 「だけどあの(床屋の)主人のことを思ふと馬鹿らしいと思ひながら腹が立つた」(高二 渡邊みき)と、自身の素直な想いをそのまま綴る彼女たちの文章に惹かれるのは、自分の考えや感じたことを率直に、宗教の教義による妙なオブラートに包んで自己規制せず、また、なにものからも検閲を受けずに表現できることこそ、「自由」なのだと感じるからだろう。
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 もちろん、「ウェ~イ、好き勝手書きゃがって、てめ~出てこい! コノヤロー!」と、どこか泉谷しげる似の床屋が、酒臭い息で学園に怒鳴りこんできたら、「コノヤローとはなんです、腹が立つのはこちらですの! だいたい、わたくしは野郎じゃないわ。おとついいらっしゃい、このナマズヒゲの大べらぼう*の床屋いらずのハゲ頭!」とケンカを買う責任は、羽仁夫妻はさておき、「自由」な表現をした渡邊さんにはついてまわるのだが。w
 *おおべらぼう:東京地方の方言で、この場合はばか野郎を上まわる救いようのない「大ばか野郎」の意。
                                  <了>

◆写真上:敗戦直後の1947年(昭和22)に、米軍のF13Click!から爆撃効果測定用に撮影された自由学園。旧・高田町の上屋敷界隈は、戦災の延焼からまぬがれている。
◆写真中・下:同様に、F13によって撮影された旧・高田町界隈。

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