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おちおち牢屋にも入れない村山知義。 [気になる下落合]

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 上落合(1丁目)186番地のアトリエに住んだ村山知義Click!は、子どものころからなんらかのコレクションをするのが好きだった。それは大人になっても変わらず、さまざまな資料やグッズを集めてはていねいに整理し保存していた。その蒐集癖が、連れ合いの村山籌子Click!にはまったく理解できなかったようだ。
 このテーマは、別に村山夫妻に限らず、多くの夫婦や男女間でも見られる傾向ではないだろうか。夫がせっせと集めている趣味の記念品やグッズを、妻にしてみれば住環境を狭くする邪魔なモノにすぎず、ガラクタでゴミにしか見えないというのは、あちこちで耳にする話だ。せっかく蒐集したコレクションを、妻が夫に確認せず燃えるゴミに出してしまったり、たいせつに保管してきた貴重な作品を、そうとは知らず消費してしまったりと、それが原因で夫婦や恋人の仲が悪くなったケースも多々あるのかもしれない。
 わたしも昔、フロア型スピーカーやLPレコードのラックが邪魔だといわれ、あまり聴かなくなったレコードコレクションを倉庫に避難させたことがある。さすがに、スピーカーを避難させると音楽が聴けないのでそのままにしていたら、エンクロージャーをサイドテーブルか収納スペース、飾り棚がわりに使われ、その上に置かれるモノが徐々に増えていき、JAZZを大きめな音量で聴くとそれらがカタカタ鳴って、音楽を聴いてるのか雑音を聞いてるのかわからなくなり閉口した。ついでに、わが家のネコ(先代)がサランネットを爪とぎにして以来、大きなフロアスピーカーはお払い箱になった。
 ジェンダー(性差)については、いろいろな考え方や視点、思想があるのだろうが、わたしの周囲を見わたす限り、男性は多種多様なコレクションを通じて自身を含めた「かつての物語」にこだわり、女性は過去などサッサと忘れて「現在から未来の物語」を志向する傾向が強いように感じる。そういう意味からすると、男性は空想癖や想像(妄想)癖をともなう夢想家(ロマンティスト)が多く、女性はいまいる生活基盤に立脚した合理的なリアリストが多い……といえなくもないけれど、晶文社あたりからジェンダー関連の書籍を出される方から、「偏見です」といわれそうなので、これぐらいに。
 神田区末広町34番地(現・千代田区外神田)で生まれた村山知義は、少年時代からなにかと蒐集するのが好きだったようだ。少年向け雑誌や、童話集を全巻そろえるのが端緒だった。ニコライ堂Click!下の開成中学に通うようになると、電柱に貼られた森下仁丹Click!のサイネージに書かれている、古今東西の偉人が残した格言を集めるのに熱中している。洋の東西を問わず、集めた格言は日記に赤インクで記録し、蒐集は3年もつづいた。
 カラフルなデザインのマッチ箱や切手はもちろん、当時の少年がコレクションしていそうなものはたいがい集めていた。特に切手の蒐集は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で、上落合の自邸が焼失するまでつづけられていたようで、書架にあった切手のスクラップブックが灰になったことを惜しんでいる。
 大人になってからも収集癖はつづき、自身のことについて書かれている新聞や雑誌の切り抜きはもちろん、批評や写真、演劇や映画のプログラムなど、スクラップブック45冊にのぼる膨大な量の「自分情報」が集められていた。また、自身が描いた絵画やポスター、童話の挿画、原稿にいたっては、ほぼ100%ていねいに保存されている。
 ところが、几帳面につけていた日記でもスクラップブックでも、なんでも記録し保存する性癖が災いして、踏みこまれた特高Click!に格好の証拠品として押収されてしまったケースもあった。戦後の1947年(昭和22)に、桜井書店から出版された村山知義『随筆集/亡き妻に』収録の、「蒐集」から引用してみよう。
  
 蒐集に類した性癖は、読んだ本の名前の記録で、これは、こんなに読んだぞといふ自慢心に鼓吹されたのがやがて習慣になつたらしく、高等学校二年の頃からずつと続いてゐるが、昭和十五年の検挙のときに証拠品として押収された。それと同じノートに、やつた仕事の記録もみんなつけてあるのだが、これらの記録は昭和十八年の判決後、やつと返して貰つた。
  
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 最初の検挙では、村山知義のノートや資料が押収されると、村山籌子が代行して夫が進めている仕事の記録やスクラップを担当したが、二度目の検挙からは面倒くさくなり、村山知義が獄中Click!から何度叱咤してもやらなくなってしまった。
 村山籌子こと「オカズコねえちゃん」Click!は、仕事の記録はもちろん、自身が書いた原稿でさえ用が済んだら見向きもせず、ほとんど保存しないような性格だった。むしろ、夫の蒐集癖をあきれたように眺め、「軽蔑の言葉を投げつけるやうになつた」(同書)と書いているから、「こんなもの、とっといてど~するのよ。邪魔だから棄てたいんだけどな」……というようなことをいわれたのだろう。よくいえば前向きで過去にこだわらない、悪くいえば飽きやすくどこか“めんどくさがり屋”な性格だったようだ。同書の「我が妻の記」で、村山知義は彼女についてこう評している。
  
 例へば最も便利で合理的な生活を創り上げるための努力も止んだことがない。坐つてゐて飯が炊け、料理が出来、食事ができる、といふ工夫も大変だつたし、暖房問題の解決のためには、石炭ストーヴ、薪ストーヴ、煉炭ストーヴ、電気ストーヴ、瓦斯ストーヴと取り替え引き換え買ひ込み、或る時はアメリカ製のガソリン・ストーヴのために部屋が火に包まれてあわや大事に至らうとしたこともある。埃を立てず掃除が出来るといふ真空掃除機に初り(ママ)、電気按摩器、電気冷蔵庫、電気洗濯器と狭い家に置きどころもなく、尤もこれらは空襲によつて既に一切なく、われわれは原始状態に復帰してしまつた。(中略) 買ひ物は突発的なので、トラツクやサイドカーが家の前にとまると、私の原稿料は忽ち消し飛んでしまひ、私はまたもや何か新製品が到着したことを知るのである。
  
 村山籌子の家電マニアぶりは、以前にもこちらで「えっ、また買ったの? しようがねえな、しようがねえな」(村山知義)の記事Click!にしたけれど、彼女自身の原稿料はもちろん夫の原稿料も、昭和初期には高価だった海外製の輸入家電の購入で、あらかた消えてしまったのではないだろうか。彼女は銀座に出かけると、およそ女性が惹かれそうな店には立ち寄らず、輸入家電を販売する「マツダ・ランプ」の陳列所へと直行していた。村山知義は「しようがねえな、しようがねえな」を繰り返しながら、それでも「彼女の合理的科学的精神は厳として輝いてをり、私はまたそれを尊敬」(同書)していた。
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 さて、村山知義が蒐集した膨大なコレクションの数々は、米軍による空襲がリアルに想定されるようになった1945年(昭和20)早々、上落合からどこかへ疎開させる計画が立てられた。そこで牛車を上落合で雇い、スクラップブック45冊を知人が住んでいる小田急沿線の鶴川村まで疎開させたところ、運賃に300円と酒1升を請求されたのでやむなく中止している。そこで、甲府の医学校で学生をしている長男(村山亜土Click!)の下宿先へ、未発表原稿や雑誌・新聞に発表した作品群(いまだ単行本化されていないもの)、日記、読書帳、仕事帳、油絵、デッサンなどを村山自身がこまめに運んだ。
 上落合が壊滅Click!した第2次山手空襲のとき、村山知義は仕事で朝鮮を旅行中だった。同書の「蒐集」から、再び引用してみよう。
  
 ところが留守の間に、五月二十五日の空襲で東中野の家は焼け、書籍三千冊を始め、先の牛車一台分を除いた一切のものが失はれたが、その中には前述の古切手帳もあり、旅行のたびに集めた土俗的玩具の数々もあり、また十年この方の演劇、映画の入場券で貼りつめた応接間の壁もあつた。ついで七月七日にはたつた一ぺんの空襲で甲府が全焼し、私の息子は何一つ持たず、命からがら逃げ出して、乞食のやうな姿で鶴川村に帰つて来た。かうして私の半生の蒐集は、偶然鶴川に持つて行つてゐたスクラツプ・ブツク四十五冊を除いて一切なくなつてしまつた。
  
 村山知義が、上落合の自宅を「東中野」と書くのは、1921年(大正10)に家を建てたときの最寄り駅が、中央線の東中野駅(少し前まで柏木駅Click!)だったからだ。西武線が敷設されてからは中井駅Click!、または1930年(昭和5)7月からは下落合駅Click!の双方が最寄り駅となる。自宅が空襲で焼失したとき、彼は京城にいて妻からの手紙をもらうと、あまりの口惜しさにひと晩じゅう眠れなかったと書いている。
 村山知義が仕事や旅行、そして特高に検挙されたあとの監獄を問わず家を“留守”をしていると、なにごとか「事件」が起きるのは、別に上落合の空襲時に限らなかったようだ。彼が大正期にドイツで描き、たいせつに持ち帰った油彩のタブロー×3作品を、いつの間にか村山籌子が石炭を入れる袋にしてボロボロに腐らせてしまったし、村山知義が出獄して家に帰ると、洋服ダンスにたくさんあったお気に入りの洋服や帽子が消えていたことがあった。
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 地下に潜行している同志の変装用に、また生活に困っている人たちを支援するために、夫の帽子やオーバー、靴など身のまわりのものいっさいを勝手に“カンパ”してしまい、ようやく刑期を終えて刑務所から帰宅しても、着替えるものがなにもなかったのだ。村山知義は、しばらく家を空けることになると「また、何か失はれはしまいかと、おちおち牢屋にもはいつてゐられない」(同書)とこぼしているので、よほど気が気ではなかったのだろう。

◆写真上:1925年(大正14)ごろ撮影された、毛糸帽子をかぶる村山知義。
◆写真中上は、建て替え前の「三角アトリエ」時代とみられる村山知義アトリエの内部。は、1930年(昭和5)に上落合の自宅付近で撮影された村山一家。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる村山アトリエ。敷地内に数棟みられるのは、新たに庭へ建てた貸家やアパート。は、村山アトリエ跡(右手前)の現状。は、1947年(昭和22)の村山アトリエ跡で、すでにバラックが建設されている。
◆写真下上左は、1926年(大正15)の「アトリエ」4月号に掲載された村山一家。自邸の建て替えスタート後、下落合735番地のアトリエで撮影されたのかもしれない。上右は、1947年(昭和22)出版の『随筆集/亡き妻に』(桜井書店)。は、1927年(昭和2)3月に下落合735番地のアトリエで「アサヒグラフ」のカメラマンClick!が撮影した村山籌子。

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