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乱丁だらけの中河與一『恐ろしき私』。 [気になる下落合]

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 1927年(昭和2)6月に改造社から出版された短編小説集に、中河與一Click!の『恐ろしき私』がある。わたしの手もとには2冊あるのだが、そのうちの1冊は日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)Click!のメンバーで、「戦旗」Click!の編集をしていた作家・田辺耕一郎にあてた献呈本だ。中河がせっかく贈った自作の本なのだが、製本過程で丁合いがメチャクチャになっており、ページをいきつもどりつしなければ読み通すことができない。
 中河與一の『恐ろしき私』に乱丁があるのは、実は手もとの献呈本に限らないのだ。10年以上も前に、とある方の読書感想サイトで丁合いの不都合を指摘する記事を読んだ憶えがあるから、かなりの確率で乱丁本が出まわっていた可能性が高い。そのうちのほとんどは、改造社へ返品されて取り換えられているのだろうが、田辺耕一郎に贈られた本は著者がサインしているので返品するわけにもいかず、そのまま巷間に残ったのだろう。
 乱丁の例を挙げると、収録1作目の『天の扉』を読み進めると、P44で話が途切れて2作目の『乳』の中盤からクライマックス(P49~)が現れ、2作目の『乳』を読みはじめると、とたんにP48で3作目の『恐ろしき私』の前半(P57~)が現れ、『恐ろしき私』を読み進めると、P56からいきなりP61に飛んでストーリーが見えず、同作はわずか12ページで終わり……といった具合だ。田辺耕一郎も、贈られたはいいけれど「なんだこれは?」と、目を白黒させたのではないか。
 短編集『恐ろしき私』は、彼の作品としては『天の夕顔』ほどには知られていないが、本の装丁が第2次渡仏直前の佐伯祐三Click!だったがために、文学界ではなく美術界ではよく知られた“作品”だ。同書中扉の次ページ裏には、装丁者として佐伯の名前が登場するが、「佐伯佑三」と「祐」の字が誤植になっている。ちなみに、中河は1930年(昭和5)出版の『形式主義芸術論』(新潮社)の表紙にも、佐伯が第1次滞仏の帰途ヴェニスに立ち寄って描いた、『ヴェネツィア風景』Click!(1926年)の水彩画面を採用している。
 『恐ろしき私の』の函表には、一気呵成で描いたとみられる16世紀の帆船があしらわれており、佐伯の字で「恐ろしき私」「中河與一著」と書きこまれている。だが、この帆船の絵は本書タイトルの『恐ろしき私』ではなく、『天の扉』に登場する「N」の幻覚として描かれたイメージだろう。ついでに、『天の扉』のタイトルが目次では『天の門』となっており、どちらかがお粗末な誤植だ。改造社の品質管理や校正チームは、どうやらあまり優秀ではなかったようだ。
 中河與一と佐伯祐三が出あったのは、1926年(大正15)9月5日から10月4日にかけ上野公園東京府美術館で開催された、第13回二科展の展示会場においてだった。この展覧会に出品した『LES JEUX DE NOEL(レ・ジュ・ド・ノエル)』(1925年)で、佐伯は二科賞を受賞している。当時の様子を、1929年(昭和4)に1930年協会Click!から出版された『画集佐伯祐三』収録の、中河與一『佐伯祐三は生きてゐる』から引用してみよう。
  
 そして彼は私と同じやうに消毒薬を愛した。/彼は本当にハンブルで、そして極めて高い精神力の中に生きてゐた。/私は彼が、彼の美しい奥さんと一緒に私の家庭を訪問してくれた事を思ひだす。/彼は中背であつた、痩せてゐた。色が焼けてゐた。眼がひつこんでゐた。前歯が一本かけてゐた。歯の間から舌がチロチロのぞいて見えた。/私が彼の服装の中に見出した親しみ深いものは、ヨーダレカケのやうな襟のついた黒い詰め襟の仕事服であつた。彼は彼のすばらしい評判にも拘はらず粗末な風を楽しさうにしてゐた。この服には彼のいゝユモラスと大阪的舌だるさと、真剣さとがあつた。
  
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 「消毒薬を愛した」とは、なにかに触るとき、あるいは誰かが触れたあとに消毒しなければ気が済まない、病的な潔癖症=「消毒の幽霊」(『肉身の賦』より)のことをさしている。中河與一は、『天の扉』に登場する「N」のように「神経衰弱」になりやすく、ときに幻覚や幻聴の症状が起きて精神病院へ入院するほどだった。早大文学部を中退したのも、「神経衰弱」が嵩じて入院しなければならなくなったからだ。また、ストレスをためやすい神経質な性格だったのか、1928年(昭和3)には胃潰瘍で危篤状態に陥っている。
 佐伯祐三は、そこまで病的な潔癖症かつ神経質だったとは思えないので、中河が幻想する「佐伯像」を実際以上に、自分側へ引き寄せて書いているのだろう。確かに佐伯は「ハンブル」で「ユモラス」だが、「大阪的舌だるさ」と前歯の欠損Click!が、ここでも相手をなごませ親しみを感じさせるファクターになっているようだ。
 1927年(昭和2)に二度目の渡仏直前、佐伯祐三は東中野767番地の中河與一邸を訪ね色紙に肖像画(素描)を描いている。その訪問の様子を、1977年(昭和52)に読売新聞社から出版された、中河與一『好きな画家との出会』から引用してみよう。
  
 私はなんということなしに「箱か表紙に船の絵を描いてほしい」とたのんだ。彼はそれについて随分考えこんでいたらしく、「毎日毎日気になりながら日を送っている」というような手紙をくれたりした。(中略) 私の本がでたのは昭和二年六月二十日で、彼はそれを大阪の本屋でみつけ、「貴方と私とが並んで立っているように思いました」と書き、(六月)二十五日付には間もなく東京へ帰るから逢いたいと書いてあった。消印は七月二日となっていた。(中略) その日(中河邸の訪問日)、彼は私をスケッチしてくれるといって、色紙の上に筆でいきなり描きだした。私は一方の高くなっている長椅子に腰かけて彼の方へむいた。下絵も何もしないで、それは五分もかからなかったようであった。彼は「昭和二年七月、佐伯祐三」と署名し、右上に本の題名をそのままに「恐ろしき私の顔」と書いてくれた。「中河さん、お互いに芸術家は生活に嘘ができては駄目ですな。生活はいつもデタラメに正直にしておかぬといけません」といった。(カッコ内引用者註)
  
恐ろしき私表紙3A.jpg 恐ろしき私裏表紙3B.jpg
恐ろしき私中扉4A.jpg 恐ろしき私奥付4B.jpg
恐ろしき私佐伯祐三2B.jpg 佐伯祐三笑顔.jpg
 『恐ろしき私』の函は帆船だが、本自体の表紙は、5月に長女・女礼(めれい)を失ったばかりの中河によれば、「怪奇なデフォルメした人間の顔」が描かれており、「黄泉の世界を見ている自分のような気がした」と書いている。だが、なにかを右目でのぞき見る表紙の顔の一部は、霧の深い夜に「Y町」のどこかにある魔窟をのぞいてしまった、『恐ろしき私』の「私」ではないかと率直にとらえることができる。
 中河與一は、よほど佐伯の作品が気に入ったらしく、その評価は「彼の絵が殆ど無限の新鮮さと驚異とを、見るたびに吾々に与えへる不思議に驚く」(「南画鑑賞」1937年4月号より)と、およそ最上級の賛辞を送っている。佐伯祐三は1898年(明治31)生まれ、中河與一は1897年(明治30)生まれと、ふたりがほぼ同年齢だったことも気が合い、深い親しみをおぼえる大きな要素だったかもしれない。
 さて、かんじんの『恐ろしき私』に収められた小説群なのだが、全体に通底するひとつの基調やトーンといったものがほとんど感じられず、個々バラバラな作品の印象を受ける短編集だ。よくいえば、さまざまなタイプの表現を試みた実験場的な1冊、あるいは多彩な技法を手馴れた筆致で幅広く網羅し、自身ならではのオリジナル表現を真摯に模索している時代の1冊……ということにでもなるだろうか。
 悪くいえば、エロ・グロ・ナンセンスを下地とした怪奇小説、私小説、推理小説、心理小説、動物小説などなど、大正末から昭和初期にかけて「よく売れている」小説の要素を、カテゴリーにとらわれずあれもこれもと詰めこみ、読者の消化不良は承知のうえで床面にぶちまけたような短編集……のような趣きだ。存在しないのは、中河ら「芸術派」の作家たちと鋭く対立していた、プロレタリア文学表現だけのような印象を受ける。
 たとえば、本書冒頭の『天の扉』では、夜間に街中を散歩して映画館に入る「私とN」は、あたかも浅草の街をさまよい歩く川端康成Click!のような筆運びだが、ふたりが下宿にもどると、とたんに隣室で就寝しているはずの「N」が奇怪な現象にみまわれる。半ば睡眠状態で自殺未遂まで起こす、「N」の叫びやつぶやきを記録して過去の出来事にまつわる暗号的な規則性がないかどうかを解読し、その深層心理を探っていくという、いつの間にか江戸川乱歩Click!の作品のように変貌してしまうのだ。まるで、川端康成の『浅草紅団』を読んでいたら、いつの間にか江戸川乱歩の『心理試験』や『二銭銅貨』にページが飛んでしまうといった、著者・著作をまたいだ「乱丁」本のような印象を受ける。
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 おしなべて当時の「インテリゲンチャ」臭い、昭和初期に発表された小説の典型作品といってしまえばそれまでだが、中河與一らが当時は最先端の心理学や精神分析学などの「科学」にこだわり、作品の中へ織りこみたがるのは、マルクスから多大な影響を受けた「社会・人文科学」諸学の視座にリアルタイムで対抗するため……というよりは、現代から見れば狭隘な視野で政治思想にどこまでも引きずられている、上落合502番地の蔵原惟人Click!が構築した「プロレタリア文学論」に対抗したいがため……だったのだろう。

◆写真上:中河與一『恐ろしき私』の函表に、佐伯祐三が描いた中世の帆船。
◆写真中上は、1927年(昭和2)に改造社から出版された『恐ろしき私』()と著者の中河與一()。は、同書の函の背・裏()と田辺耕一郎への献呈サイン()。は、乱丁でページの前後がバラバラな『天の扉』 『乳』 『恐ろしき私』の本文。
◆写真中下は、『恐ろしき私』の表紙()と裏表紙()。は、同書の中扉()と奥付()。は、装丁者名の誤植()と、前歯の欠損が笑うと目立つ佐伯祐三()。
◆写真下は、まるで江戸川乱歩の作品を開いたかのような錯覚をおぼえる『天の扉』の謎解きページ。は、1927年(昭和2)7月に佐伯祐三が東中野の中河與一邸を訪れ5分足らずで描いた『恐ろしき私の顔(中河與一像)』。は、作家仲間の集まりで発言する中河與一。中河の右側ふたりめに並んで丹羽文雄が写っているが、丹羽も佐伯作品のファンで『エッフェル塔の見える通り』(1925年)を愛蔵していた。
おまけ
 最近、神田川や妙正寺川から離れた住宅街でも、セグロセキレイやハクセキレイをよく見かける。写真はセグロセキレイだが、両河川沿いにエサとなる虫が増えているのだろう。
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