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雑司ヶ谷金山にいた石堂派のゆくへは? [気になる神田川]

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 現在の千代田城Click!の一部城郭に包括されたエリアに、太田道灌が江戸城Click!を構築したのが1457年(康正3)であり、江戸東京は570年近い日本で最古クラスの城下町ということになる。もっとも、江戸城と千代田城とでは規模がまったく異なるため、城下に形成された(城)下町Click!も室町期と江戸期とではケタちがいの規模だ。
 道灌の江戸城が、鎌倉幕府の御家人・江戸氏の本拠地だったとみられるエト゜(岬)の付け根に築かれた室町時代の中期、または全国的に戦乱が激しくなった室町後期から末期、あるいは千代田城が築かれて徳川幕府がスタートした江戸時代の最初期に、おそらく近江の石堂村から雑司ヶ谷村の金山にやってきて住みついた刀剣集団、石堂一派Click!がいたことはすでに記事にしている。
 石堂派が近江から各地に展開するのは、おもに室町末期から江戸初期にかけてなので(刀剣美術史に、いわゆる「戦国時代」や「安土桃山時代」は存在しない)、おそらくその流れの一環として江戸へやってきているとみられる。当時の石堂鍛冶はほぼ4流に分派しており、江戸石堂派をはじめ大坂石堂派、紀州石堂派、筑前石堂派などを形成し、新刀から新々刀(江戸末期)の時代を通じて鍛刀している。
 雑司ヶ谷村の金山に工房をかまえた石堂派は、江戸石堂派の一派とみるのが自然だが、より古い時代(室町期)から住みついていたとすれば、これまでの刀剣史には記録されていない、もっとも早い時期に近江から分岐した石堂一派とみることもできる。1800年代の初めに、昌平坂学問所地理局によって編纂された『新編武蔵風土記稿』(雄山閣版)には、石堂派が工房をかまえたのは「土人」(地元民の意)によれば「往古」と書かれている。同書より、引用してみよう。
  
 金山稲荷社
 土人鐵液(カナグソ)稲荷ととなふ、往古石堂孫左衛門と云ふ刀鍛冶居住の地にて、守護神に勧請する所なり、今も社辺より鉄屑(鐵液のこと)を掘出すことまゝあり、村民持、又この社の西の方なる崕 元文の頃崩れしに大なる横穴あり、穴中二段となり上段に骸及び國光の短刀あり、今名主平治左衛門が家蔵とす、下段には骸のみありしと云、何人の古墳なるや詳ならす、(カッコ内引用者註)
  
 この「往古」とされる時代が、記述から200年ほど前の室町末か江戸初期のことであれば、近江の石堂派が分岐して全国に展開した時期と重なり、史的にみても不自然ではないが、「往古」が室町中期のことであれば、石堂派はもっと早くから分岐をしていたことになる。ただし、いつの時代の小鍛冶(刀鍛冶)も当然マーケティングは重視しており、需要がない地域へ工房をかまえることはありえない。
 室町前期から中期にかけ、京の室町とともに関東の足利氏が本拠地にしていた鎌倉では刀剣の需要は高かったし、室町後期には(後)北条氏の本拠地だった小田原へ、多くの刀鍛冶が参集している。室町中期、太田道灌の居城があった時代を考えても、石堂派が工房をかまえた雑司ヶ谷村の地理的な位置が、やや中途半端に感じるのはわたしだけではないだろう。太田氏の需要を意識していたのなら、より地金(目白=鋼)も手に入りやすい江戸城近くの城下町に工房をかまえるのが自然だ。あるいは、豊島氏の需要を意識していたものか。
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「日本山海名産図会」タタラ製鉄1754.jpg
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 石堂派が分岐した流れ、あるいは刀剣需要の趨勢を考えてくると、『新編武蔵風土記稿』に収録された地元民の「往古」は、おそらく江戸に徳川氏が移封されることが決まり、近い将来に幕府が開かれることがすでに予想されていた室町末期、あるいは開幕後の江戸初期であると想定したほうが、石堂派の伝承や経緯を踏まえるのなら自然だろう。そして、歴史に興味のある方ならお気づきだと思うが、『新編武蔵風土記稿』の記述には、複数の時代の事跡が混同して証言されている可能性が高いのがおわかりだろう。
 まず、室町末期から江戸初期にかけて古刀時代から新刀時代へと推移する時期、刀剣の原材料である目白(鋼)Click!を製錬する大鍛冶(タタラ製鉄)の仕事と、多種多様な目白(鋼)をもとにさまざまな折り返し鍛錬法で刀剣を鍛える、小鍛冶(刀鍛冶)の仕事とは完全に分業化されており、刀鍛冶の工房跡から鐵液(かなぐそ:金糞=スラグないし鉧の残滓)が出土することは基本的にありえない。江戸後期に、砂鉄を用いたタタラの復興による目白(鋼)精製を唱え、事実、上州館林藩秋元家の江戸藩邸内(浜町中屋敷)にコスト高なタタラ用精錬炉を構築している、新々刀の水心子正秀Click!のような存在はむしろ例外だ。
 雑司ヶ谷村の石堂派が住みついた地名が金山であり、その前に口を開けていた谷間が神田久保Click!であり、谷間を流れていた川が江戸期には金川(弦巻川)Click!と呼ばれていたことにも留意したい。時代は不明だが、明らかにタタラを生業とする産鉄集団が通過した痕跡であり、鐵液(かなぐそ)は彼らが残した廃棄物だろう。金山稲荷の周辺に限らず、タタラの鐵液は下落合の目白崖線沿い(戦時中の山手通り工事現場)からも多く出土している。この集団が、いつごろ通過したものかはさだかではないが、タタラの鋳成神(いなりしん)あるいは荒神(こうじん)を奉った社が建立されており、田畑が拡がるころには改めて農耕神としての金山稲荷社へと再生されているのだろう。
 そして、金山から出現した洞穴についても、古墳末期の横穴古墳の一部なのか鎌倉期の“やぐら”なのか、考古学的な記録がないので不明だ。ただし、鎌倉期の“やぐら”形式の墳墓は土葬ではなく火葬が前提だったとみられ、遺体をそのまま横たえるというような埋葬事例は、鎌倉各地の“やぐら”群には見られない。むしろ、下落合の横穴古墳群Click!と同様に羨道や玄室を備え、遺骸を敷き石の上に横たえた古墳末期(または奈良最初期)の横穴古墳とみるのが地勢的にも自然だが、それでは「國光」の短刀の説明がつかない。
 この短刀が鎌倉期から室町期の作品であれば、出現した古墳の人骨に祟らないで成仏を願う魔除けの守り刀として、屋敷地の所有者あるいは当時の村の分限者が遺体の上に置いたものだろうか。ちょうど、戸山ヶ原Click!穴八幡社Click!に出現した古墳の羨道や玄室とみられる洞穴に、後世になって観音や阿弥陀仏などを奉っているのと近似した感覚だ。
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 もうひとつ、石堂孫左衛門という刀工の名があるが、江戸石堂派の初代・石堂是一(武蔵大掾是一)の名前とは一致しない。初代・是一の本名は「川上左近」と記録されているので、雑司ヶ谷村の孫左衛門ではない。同じく江戸石堂派の支流である、石堂是次や石堂是長、石堂常光の系譜、または遅れてやってきた近江石堂の佐々木一峰系とも異なるようだ。これらの石堂派は、初代・石堂是一よりも少し時代が下って記録される刀工名であり、室町末から江戸初期を連想させる孫左衛門とは別の系統だろう。
 また、大坂石堂の(多々良)長幸一派とも、紀州石堂の為康系とも、さらに筑前石堂の守次系とも異なるとみられる。おそらく、室町末期から江戸初期にかけて、近江の石堂村をいち早くあとにして江戸に入った刀鍛冶の一派が、とりあえず目白(鋼)のいわれが深い雑司ヶ谷の金山に工房をかまえ、江戸の街が繁華になるにつれ、より需要が高い市街地へ工房を移転させているか、あるいは石堂派の本流である石堂是一の一派に吸収され、石堂工房の一員として鍛刀をつづけたのではないかと思われる。
 さて、山麓に大洗堰Click!が設置され「関口」という江戸地名が定着する以前、すなわち神田上水Click!が掘削され上水と江戸川とが分岐する以前の平川Click!時代、目白山(のち椿山Click!)と呼ばれた丘陵に通う目白坂の中腹に、足利から勧請された不動尊が「目白不動」Click!と名づけられた室町末期から江戸最初期のころ、川砂鉄などからタタラで洗練する目白(鋼)は、刀鍛冶に限らず、農業用具や大工道具など鉄製の道具類を鍛える「野鍛冶」たちにとっては、いまだ非常に身近な存在だったろう。
 タタラによる目白(鋼)には、もちろん硬軟多彩な特徴があり、またタタラの首尾によって高品質な鋼から質の悪い鋼まで、不均一の多種多様な“地金”が精製される。その中で、もっとも品質がいい目白(鋼)は、その硬軟によって刃金(鐵=はてつ)・芯金・皮金・棟金と使い分けられ、おもに刀剣や鉄砲、甲冑などの武器製造に用いられた。また、それよりも劣る品質の鋼は、鉄製の生活用品や農機具・大工道具などの製造へとまわされている。だが、江戸期になると高品質な目白(鋼)をあえて用いて、耐久性が高く品質のよい日用鉄器を生産し、諸藩の財政再建のため地域の名産品や土産品にする動きも出てきている。
 余談だけれど、刀剣用の目白(鋼)のことを「玉鋼(たまはがね)」とも表現するが、これは明治以降に海軍が貫通力の高い徹甲弾を開発する際、刀剣に使われた頑丈で耐久性の高い鋼を採用していたことからくる新造語で、弾頭に用いる鋼だから「玉(弾)鋼」と呼ばれるようになった。したがって、江戸期以前の刀剣について語るとき、たとえば「幕府お抱えの康継一派は、品質のいい玉鋼を使ってるよね」といういい方は、「江戸期の南部鉄器には、品質のいい精巧なケトルがあるよね」というに等しく、時代的にチグハグでおかしな表現になってしまう。やはり、江戸期以前は単に鋼(はがね)、または目白(めじろ)と表現するのが妥当だと思うし、後者のケースは「鉄瓶」と表現するのがふさわしいだろう。w
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 先日、ようやく日本刀剣美術保存協会が主宰する「出雲タタラ」で製錬された、最高品質の目白(鋼)を手に入れることができた。(冒頭写真) 通常は、現代刀の刀鍛冶に支給され、なかなか手に入れることができないのでうれしい。鋼(はがね)というと、暗い灰色あるいは濃灰色の黒っぽい金属塊を想像される方が多いと思うが、刀剣用の目白(鋼)はまったく異なる。まるで白銀(しろかね)のようにキラキラと光沢があり、鉄のイメージからはほど遠く地肌が白け気味で輝いている。なぜ、昔日の大鍛冶・小鍛冶たちがタタラ後の鉧(ケラ)の目に混じる高品質な鋼を「目白」と名づけたのかが、すぐさま納得できる出来ばえだ。

◆写真上:日刀保の出雲タタラで、3昼夜かけて製錬された「1級A」の目白(鋼)。10トンの砂鉄から約2.5トンの鉧(ケラ)を製錬し、その鉧からわずか100kgほどしか採取できない。現代の製鉄技術でも、これほど高純度な目白(鋼)は精錬不能だ。
◆写真中上は、1799年(寛政11)に法橋關月の挿画で刊行された『日本山海名産図絵』。描かれているのはバッケ(崖地)Click!の神奈(カンナ)流しで、川や山の砂鉄を採取する職人たち。は、同じく『日本山海名産図絵』に描かれたタタラ製鉄の様子。大きな溶鉱炉に風を送る足踏み鞴(ふいご)を利き足で踏みつづけ、炉の中の様子を利き目で確認しつづけるため、火男(ひょっとこ)たちは中年をすぎると片目片足が萎え、文字どおりタタラを踏んで歩くようになったと伝えられる。は、雑司ヶ谷の金山に通う坂道。
◆写真中下は、出雲タタラの炭足し。1回3昼夜のタタラで、約12トンもの木炭が消費される。は、炉に砂鉄を投入している様子。は、タタラで精錬された約2.5トンの鉧(ケラ)で、ここからとれる高品質な目白(鋼)は100kgほどにすぎない。
◆写真下は、神奈流しの跡に造成された出雲の棚田。雑司ヶ谷の神田久保にあった棚田もおそらく神奈流しの痕跡で、地名の“たなら相通”に倣い神奈久保が神田久保に、神奈山が金山に、神奈川が金川(弦巻川)に転化したとみられる。は、初代・石堂是一が焼いた備前伝の刃文。匂(におい)出来で匂口がしまる互(ぐ)の目か、のたれ気味の広直(ひろすぐ)に典型的な丁子刃を焼いている。錵(にえ)出来で銀砂をまいたような錵本位の相州正宗を頂点とする、豪壮な相州伝(神奈川)が伝統的に好まれる関東では流行らなかった。事実、江戸中期から石堂派は急速に相州伝へ接近し、「相伝備前」と呼ばれる相州伝刀工へと変貌していく。は、初代・石堂是一の茎(なかご)銘で「武蔵大掾佐近是一」と切っている。

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