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気のり薄な渡辺ふみ『会津八一像』。 [気になる下落合]

渡邊ふみ「八一像」1914.jpg
 1914年(大正3)に制作された、渡辺ふみClick!(亀高文子Click!)の『会津八一像』が現存している。渡辺ふみが会津八一Click!ともっとも近しかったのは、彼女が女子美術学校Click!西洋画科に在学中の1906年(明治39)ごろであるとする資料が多い。同年7月に会津が早大を卒業すると、彼女に求婚したが受け入れられず、失意のうちに故郷の新潟県に帰り、中頸城郡板倉村にある有恒学舎の英語教師になったとする記述も多いが、その8年後の1914年(大正3)でさえ、肖像画が描かれるほどの交流があった様子がうかがえる。
 この間、渡辺ふみは1907年(明治40)に女子美術学校を卒業すると、満谷国四郎Click!のもとへ入門し、満谷や中村不折Click!ら文展画家が主宰していた太平洋画会研究所Click!へと通っている。そこで知り合った宮崎與平(渡辺與平Click!)と1909年(明治42)に結婚するが、1912年(明治45)6月にいまだ22歳だった夫を結核と肺炎で亡くしている。
 渡辺ふみは、1909年(明治42)の第3回文展での入選以来、連続して作品が入選しているが、夫の死後は滅入る気分の転換をはかるためだろう、ふたりの遺児を育てつつ房総半島への写生旅行に出かけるようになった。
 一方、会津八一は故郷の新潟県で教員生活を送り、日々俳句にのめりこむなど文学生活をしていたが、失恋の痛手からか酒量が増えつづけたのか、身体を壊すことが多くなっていた。1909年(明治42)には俳句仲間と玻璃吟社を創立し、「高田新聞」の俳句選者となっている。友人あての手紙には、「小生は深く彼の女を愛し、彼の女も亦た深く小生を慕ひ候ことは、明言するを許されたく候」、「小生は渡辺女史に於て、サツフオーにも劣らざる情熱を感じて千万無量の感に耐へず候」(植田重雄『会津八一の生涯』より)などと書き送っているので、ぜんぜん諦めきれていない。
  我妹子を しぬぶゆふべは 入日さし 紅葉は燃えぬ わが窓のもと
 ちなみに、サッフォーとは古代ギリシャの恋愛詩を得意とする女性詩人のことだ。そして、翌1910年(明治43)9月に教員を辞して再び東京にやってくると、坪内逍遥Click!の推薦で早稲田中学校Click!の英語教師に就いている。
 だが、1911年(明治44)に再び体調を崩し、8月になると房総へ静養に出かけている。さらに、翌1912年(明治45)の7月には腎臓炎が悪化して入院し、同年8月には奈良・京都をまわる旅行に出かけると、ほどなく11月には再び静養するために暖かい房総へと向かっている。おそらく、夫を亡くしたばかりの渡辺ふみと再び接点ができたのは、この静養先の房総旅行ではないかと思われる。
 当時の新聞や雑誌、特に会津八一が目を通したであろう美術誌などでは、有名画家の消息(転居や写生旅行への出先など)が掲載されることがままあるので、すでに名を知られていた文展画家・渡辺ふみの写生旅行を知った八一が、彼女を追いかけて旅先の房総へ「静養」に出かけているのかもしれない。以後、会津八一は渡辺ふみの“追っかけ”(ストーカー?)のように、彼女の出かける先に出没するようになる。
 そもそも、会津八一と渡辺ふみが知りあったのは、1900年(明治33)に新潟から東京へやってきて間もなく、従妹の会津周子も八一を頼って上京し、女子美術学校へ通いはじめてからだ。八一のまわりには、周子を含め女子美に通う女学生たちが集まるようになり、のちに秋艸堂人として下落合で孤高の人生を生きる環境からは想像もできない、女子たちに囲まれた彼の生涯でもっとも華やかな時期だったろう。その女子美学生たちに混じって、ひときわ目立つ渡辺ふみがいた。
 渡辺ふみは、南画家・渡辺豊洲のひとり娘として横浜に生まれ、彼女が女子美術学校へ入学すると通学の便宜を考え、一家をあげて横浜から東京へ転居してきている。明治末の横浜は、東京よりもはるかにハイカラであり、あらゆる生活や風俗が東京よりも進んでいた。そのせいか、渡辺ふみの何気ないしやべり言葉から一挙手一投足にいたるまで、会津八一にはことさら洗練されて見えたのではないかと思われる。後年、曾宮一念Click!に女性の好みを訊かれた八一は、とにかく「美しくなくては……」と答えているのは、渡辺ふみを念頭に置いていたにちがいない。ちなみに、渡辺ふみは父親のつながりからか、鏑木清方Click!のモデルもつとめている。
女子美術学校.jpg
会津八一1908.jpg 渡辺ふみ1918.jpg
東京専門学校教員記念写真.jpg
 1914年(大正3)になると、会津八一は早稲田大学の英文科講師になり、小石川区(現・文京区の一部)高田豊川町58番地(現・目白台)に転居し、初めて斎号を秋艸堂と名のるようになる。この地番は、小布施邸Click!(目白崖線に通う小布施坂の西側一帯)の南麓にあたり、勤務先の早稲田大学へは旧・神田上水をはさみ直線距離で200mほどだ。この家で、八一は「学規四則」を決めて貼りだした。
 秋艸堂学規
  一、深くこの生を愛すべし
  一、省みて己を知るべし
  一、学芸を以て性を養ふべし
  一、日に新面目あるべし
 「秋艸堂は我が別号なり、学規は吾率先して躬行し、範を諸生に示さんことを期す、主張この内にあり、同情この内にあり、反抗また此内にあり」と、新潟新聞に連載していた『落日庵消息』に書いている。転居とともに、新たな出発の決意を示しているような「秋艸堂学規」だが、内面では寡婦となった渡辺ふみへの諦めきれない切実な想いが、フツフツとたぎっていたのではないかと思われる。
 なぜなら、この年(1914年)に渡辺ふみによる『会津八一像』(冒頭写真)が制作されているからだ。当然、彼女の身近にいなければ肖像画など制作できないし、また強い想いを寄せる八一が強引に彼女へ注文したにせよ、画家のもとへ出かけてモデルをつとめなければ作品を仕上げることはできない。
 『会津八一像』の画面を眺めると、彼女の作品にしてはかなり薄塗りのようで、こってりとして丸みを帯びたいつものマチエール(ふくよかな肉厚感とでも)がまるで感じられない。毛髪や着物の描き方もどこかおざなりで大ざっぱ、よほど気が乗らない仕事だったか、制作時間が足りずに大急ぎで仕上げたか(または急いで仕上げたかったのか)、彼女のていねいなはずのタブローにしてはかなり雑な印象を受ける。「いつまで、つきまとうの……。ちゃっちゃと仕上げて、帰ってもらお」(爆!)などと考えていたのかもしれない。
 それに、会津八一が見せている表情が、ふだんの彼の表情とはまったく異なり、タガがゆるんで弛緩しきっているように見える。傲岸不遜の会津八一も、渡辺ふみの前ではこのような哀しげな表情を見せることがあったのだろうか。いくら求婚しても、相手が「はい!」といってはくれない悲哀感のようなものさえ漂っているようだ。
霞坂秋艸堂1922.jpg
法起寺.jpg
銭痩鉄「落合山荘」大正末頃.jpg
 1918年(大正7)に、会津八一が37歳で早稲田中学校の教頭になる以前、1914年(大正3)から同年にかけての5年間、彼は頻繁に房総へ「静養」のために出かけている。確かに、再び体調をくずして腎臓を悪くしたりしてはいるが、ほぼ毎年のように繰り返される房総旅行は、どうもそれだけではないような気がするのだ。それは「静養」する以上に、房総のどこかの宿で写生旅行をする渡辺ふみに逢えるかもしれないという、ひそかな楽しみがあったからではないだろうか。
 会津八一が、早稲田中学の教頭に就任した年の4月、渡辺ふみは東洋汽船の定期航路を運航していた貨客船の船長・亀高五市と再婚して亀高文子となり、また同年には女性だけの美術団体・朱葉会を与謝野晶子Click!らとともに創立している。そして、1923年(大正12)には関東大震災Click!が転機となり、夫の転勤も重なり神戸への移住を決意して、東京を永久に去っている。
 1922年(大正10)7月、会津八一は早稲田中学の教育方針をめぐる混乱に嫌気がさし、教頭を辞して同校の一教師にもどると、市島春城Click!の別荘「閑松庵」だった下落合1296番地の和館Click!へ転居してくる。目白崖線の霞坂がほど近い、いわゆる下落合の霞坂秋艸堂Click!だ。渡辺ふみにもようやく諦めがつき、教頭の職も投げうったせいか、「せいせいした」という感慨が漂う歌が『南京新唱』の「村荘雑事」に収録されている。
  かすみたつ をちかたのべの わかくさの しらねしぬぎて しみづわくらし
  しげりたつ かしのこのまの あおぞらを ながるるくもの やむときもなし
 霞坂のバッケ(崖地)Click!に露出した武蔵野礫層の基底から、とうとうと流れでる湧水が目に見えるようだ。カシの樹の間からは、青空にゆっくりと流れる雲が見え、これらの風情が恋愛と仕事に打ちのめされ、疲れはてた八一の心を慰めたのだろう。
 1935年(昭和10)に、下落合(3丁目)1321番地の第一文化村Click!(目白文化村・第9号)に転居し、いわゆる文化村秋艸堂Click!(別斎号を翠蓮亭/滋樹園とも)で暮らすようになってからも、八一を慕うおおぜいの美術家や学生たちが下落合へ通ってきている。
亀高文子1924.jpg
文化村秋艸堂1935.jpg
文化村秋艸堂会津八一1.jpg
文化村秋艸堂会津八一2.jpg
 もし、渡辺ふみが「はい!」といって会津八一と結婚し、ともに下落合に住んでいたら、彼女はどのような作品を残していたかと思うと少し残念な気もするが、どうしても気が合わない、感性的にも不一致な男女間の機微は、埋めようがないほど深かったのだろう。

◆写真上:1914年(大正3)に制作された、気のり薄な(?)渡辺ふみ『会津八一像』。
◆写真中上は、女子美術学校の正面玄関。は、1908年(明治41)の会津八一()と、1918年(大正7)の渡辺ふみ()。は、会津八一が在学中の早稲田大学教師陣。女学校の記念写真とは異なりブスッとした大隈重信Click!を中心に、高田早苗Click!安部磯雄Click!、市島春城、坪内逍遥Click!島村抱月Click!夏目漱石Click!らの顔が見えるが、八一へ大きな影響を与える小泉八雲Click!(ラフカディオ・ハーン)はいまだ就任していない。
◆写真中下は、1922年(大正11)撮影の落合(霞坂)秋艸堂。は、斑鳩を訪れた八一が法隆寺Click!とともによく訪れた法起寺。最近、観光用のキャッチフレーズから「コスモスの法起寺、カキの法輪寺」などといわれてるらしいが、橙色に実ったカキのイメージは昔から法起寺のほうだ。は、大正末ごろ制作された銭痩鉄『落合山荘(秋艸堂)』。
◆写真下は、1924年(大正13)に神戸の赤艸社女子洋画研究所のアトリエで制作する亀高文子(渡辺ふみ)。おそらく、このアルカイックスマイルClick!会津八一Click!はメロメロになってしまったのだろう。 は、第一文化村の元・安食邸に転居したあと1935年(昭和10)に撮影された文化村秋艸堂の室内。は、2葉とも文化村秋艸堂の会津八一。よく訪れた曾宮一念が記録している、キュウカンチョウClick!とみられる鳥が籠の中に写っている。

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