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今年こそは正式に日本橋雑煮。 [気になる下落合]

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 いまから10年ほど前、娘に「日本橋雑煮」Click!の作り方を伝えるために、調理法を書いた記事を拙ブログにアップしたことがある。ただし、江戸期からの伝統である本来の鴨肉ではなく、あっさりとした鶏肉を代用したレシピだった。わたしの母親もそうだったが、鴨肉は鶏肉に比べて脂肪分が多いため、雑煮が少し脂っぽくなってしまうので家族が嫌うのと(ただ、鴨肉の脂肪は鶏肉の脂よりしつこつなくあっさりしている)、煮すぎると肉が固くなってしまうため、いまでは扱いやすい鶏肉を代用することが多い。そして、なによりも冬場のいい鴨肉は高価で手に入りにくい事情もある。
 1926年(昭和元)の押しつまった暮れに、下落合661番地の佐伯祐三Click!邸へ正月の雑煮用にと、(城)下町Click!から丸ごと1羽の野生鴨Click!が歳暮としてとどけられている。送り主は、もともと尾張町(銀座)で開店していた佐伯米子Click!の実家(池田家Click!)、ないしはその姻戚筋ではないかと思われるが、記録資料の表現が曖昧で送り主を厳密には規定できない。もし池田家の姻戚関係だったとすれば、日本橋と同様に尾張町(銀座)でも雑煮のメインとなる具材は鴨肉だったことになる。
 「東京雑煮」などというワードを、最近よくネットや雑誌などでときどき見かけるけれど、そんな雑煮はこの世に存在しない。大江戸(江戸後期に拡大し、東海道の品川と甲州街道の内藤新宿を呑みこんだ朱引き墨引きの内側)の(城)下町といってもかなりエリアが広く、各地域や街ごとに雑煮の具材や作り方は異なっていたはずで、深川の雑煮と四谷の雑煮、下谷の雑煮と麻布の雑煮、品川の雑煮と落合の雑煮とが同じだったとは到底思えない。それぞれ、地域の特色や生産品などに見あった、その地元ならではの雑煮が作られていたはずで、日本橋と尾張町(銀座)のメイン具材が鴨肉だったとみられるのは、おそらく江戸期に拡がった両地域における食習慣のひとつなのだろう。
 たとえば、現在の新宿区の片隅にあたる落合村(町)ひとつとってみてもけっこう広い。大江戸期にあった3つの村が併さったもので、約81万3,492坪(約2.7km2)ほどの広さがあるが、それでも新宿区全体からみればわずか14.7%ほどの面積にすぎない。でも、そこで食べられていた旧・下落合村の雑煮と、旧・上落合村や旧・葛ヶ谷村(のち西落合)の雑煮とが、まったく同一だったかどうか正確にはわからない。
 戦前、落合村(町)の地元で作られていた、雑煮の記録が残されている。1989年(平成元)にコミュニティおちあいあれこれが発行した、『おちあい見聞録』より引用してみよう。
  
 お雑煮、神様にお供えする三が日の神事はすべて家長がします。八つ頭(里芋)は茹でておいて一日分だけ細く切り、お餅とうす塩の味をつけて、お神酒と一緒に神仏・稲荷・荒神・石仏などにお供えします。/家族のお雑煮は神仏用の中に鶏肉と野菜を入れ、お節料理と併せて「おめでとうございます。」と、新年の挨拶をしてからいただきました。
  
 正月料理を男が作るのは日本橋地域と同様だが(文中の家長=男だとすればだがw)、雑煮に八つ頭あるいは里芋は入れない。(ちなみに女子たちは、炬燵でぬくぬくとミカンや菓子などを食って、おしゃべりしながら除夜の鐘でも聞いてるのだろう。平和な東京の風景だけれど、少しは手伝ってくれ。/爆!) ただ、鴨肉の代用かどうかは不明だが、とりあえず鶏肉を用いるのは同様のようだ。出汁の詳細がわからないが、「うす塩の味」だったとすれば、日本橋地域のしたじ(醤油)をベースにした雑煮とは明らかに異なっている。この雑煮の作り方は、同資料の性格から落合地域西部の、地付きの家庭ではないかと思われる。
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 さて、新型コロナ禍がつづく今年こそは、験なおしに正式な実家の雑煮を作ろうと張り切っていたのに、正月三が日に作って食べた雑煮は鶏肉入りだった。暮れに注文していた鴨肉の到着が、物流の混雑で遅れに遅れて6日になってしまったのだ。しかたがないので、9日からの3連休で再び雑煮を作ることになった。以下、鴨肉を用いた日本橋雑煮のレシピを、改めて記録しておきたい。
 まず、鴨肉の香ばしさを引きだすため、あるいは余分な脂肪分を抜くために、鴨肉をフライパンで焙(あぶ)って下ごしらえをしておく。鶏肉とは異なり、かなりの脂肪が冬場の鴨肉からは滲み出るだろう。(①-1~4) 次に、具材となるダイコンやニンジン、シイタケなどを細く刻み、まとめてボールに入れておく。(②-1~4) その間に、鍋には酒と水と昆布、そして鰹節をたっぷり入れた出汁を作っておく。
 沸騰した鍋の出汁に塩を少々加え、ボールの野菜やシイタケを入れて、浮かんできた灰汁(あく)をていねいに取り除く。() 灰汁を取り終えたら、本醸造の濃口醤油(なければ出汁醤油でも)を適量と味醂(みりん)を少々、隠し味に三温糖を少し加え、煮汁が黄金(こがね)色になるよう味をととのえる。() 次に、先ほどフライパンで焙っておいた鴨肉を、薄めに切っておく。自然の中で育った地鶏もそうだが、肉を厚めに切って煮ると固くなり、歯が悪い人や子どもにはつらいので薄めに切るのがコツ。() ついでに、鍋へ最後に加える長ネギも切っておく。()
 鍋のダイコンやニンジンが、やわらかくなったころを見はからって鴨肉を投入。野菜のときと同様に、浮かんできた脂肪や灰汁をていねいに取り除く。特に浮いた脂肪を小まめに取ると、脂っぽさが減ってよりあっさりサッパリした雑煮ができる。()
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 鴨肉を入れた直後から、雑煮のトッピング用に小松菜かほうれん草を茹でておく。(⑧-1) 江戸期には、まちがいなく葛西ものの小松菜が使われたのだろうが、わたしは少し甘みのあるほうれん草のほうが好きなので(うちの母親もそうだった)、茹であがったあとのほうれん草は適当な長さに切っておく。また、椀に入れる香りづけのユズ皮や、トッピング用の三つ葉も同時に用意しておく。(⑧-2) 鴨肉は煮すぎると固くなるので、このあたりの手順はとても手早くこなさなければならない。
 最後に、先ほど切っておいた長ネギを加え、同じように灰汁や脂肪を取りながら、塩・醤油・味醂・三温糖などで味を最終的に調整し、長ネギが煮すぎてシナシナにならないうちに火を止める。(⑨-1~2) この時点から、30分~1時間ほど作り置きすると出汁の風味がこなれ、具材に味が馴染んでより美味しく食べられるようになる。
 餅は家に白餅と玄米餅、それに草餅があったので、それぞれ好きずきに焼いて雑煮椀に入れ、雑煮を盛る前にユズの皮も入れておく。(⑩-1~2) 作り置きした鍋を温め直し、熱々の雑煮を椀に盛ったあと、ほうれん草(正式には小松菜)と三つ葉をトッピングしたら、ハイッできあがり。() 作る量にもよるけれど、写真の鍋ぐらいのサイズだったら、おそらく雑煮自体は30~40分ほどでできるだろう。
 鶏肉とはちがい、鴨肉はかなり出汁の表面に脂が浮くのだが、香りがいいのであまり気にならないだろう。でも、雑煮を食べるのが大人数の場合は、鴨肉だとあらかじめフライパンでよく焙ったり、スライスのしかたに気をつかったり、浮いた油を小まめに取り除いたりと、けっこう手間ひまがかかるので、鶏肉のほうがあまり面倒がなく作りやすいかもしれない。今年の正月は、9人分の雑煮を作るハメになったのだが、正直、鴨肉の到着が物流の渋滞で遅れてくれて「正解」だったような気がする。
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 1927年(昭和2)の正月、歳暮の鴨肉を使って佐伯米子Click!ないしは池田家の親戚女子が作り(佐伯祐三自身が台所で雑煮を作ったとは思えない)、佐伯祐三アトリエClick!で食べられていた「尾張町(銀座)雑煮」も、おそらく同じ具材やレシピだったのではないだろうか。

◆写真上:鶏肉の代用ではなく、久しぶりに鴨肉を使った日本橋雑煮を料理。
◆写真中上:1926年(昭和元)暮れに歳暮でとどいた、雑煮用の鴨を描いた佐伯祐三『鴨』。狩猟で仕留められた野生鴨で、雑煮の肉には散弾が混じり「あのな~、なんぼなんでもな~、これ以上の歯欠けClick!は、ほんま、かんにんしてや~」だったかもしれない。
◆写真下:尾張町(銀座)の池田家と、ほぼ同じだったと思われる日本橋雑煮の作り方。同じく銀座の岸田劉生Click!の実家でも、同様の雑煮が食べられていた可能性が高い。

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