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女性の好みが180度変わる中村彝。 [気になる下落合]

中村彝アトリエテラス.JPG
 1924年(大正13)5月27日(火)に、下落合464番地の中村彝アトリエClick!では、親しい周囲の人々を集めた昼食会Click!が芝庭で開かれている。いつも中村彝アトリエへ出入りしている、親しい画家や友人知人が20人ほど集まり、また1921年(大正10)に死去していた親友の中原悌二郎Click!は、代わりに彼の作品『墓守老人』が“出席”している。だが、彝アトリエへもっとも頻繁に出入りしていた下落合623番地の曾宮一念Click!の姿が、その日に撮影された記念写真にはない。
 ちょうどそのころ、曾宮一念は静岡県の田子浦村にいた。3月下旬から写生旅行に出かけており、下諏訪から鰍沢、富士川経由で大宮、そして河口近くの田子浦村まで画道具を背負いながら旅をつづけていた。中村彝には、旅先での居所を知らせていたらしく、5月27日の昼食会には出てこいと再三連絡をもらっていたようだ。中村彝は、同年の12月24日に死去するので、死期をさとった彼が開いた「この会も友人らへの別れの意であった」と、曾宮一念は述懐している。つづけて、「あの時一時帰京してスグ引き返せばよかった」と、のちの随筆で悔やんでいる。
 中村彝と曾宮一念が初めて出あったのは、1915年(大正4)12月に今村繁三Click!邸で開かれた牛鍋会Click!の席上でだった。当時の彝は、相馬俊子Click!との結婚を反対され新宿中村屋で日本刀を振りまわしたり(8月)、同家への出入りを以降いっさい禁止されたり(11月)と、精神的には最悪の状態にあった。以来、ふたりは同じ下落合にアトリエをかまえ、彝が死去するまで9年の付き合いになる。曾宮一念も、中村彝と新宿中村屋のことはウワサで知っていたので、知りあった当初はその話題には触れないようにしていた。
 だが、ふたりが親しくなるにつれ、彝のほうから曾宮にコトの経緯をぽつりぽつりと語りはじめている。当時、彝の女性の好みはハッキリしていた。1972年(昭和47)に木耳社から出版された、曾宮一念『白樺の杖』から引用してみよう。
  
 それが二、三年経つうちにモデルの話から女の話も彼の口に出るようになった。それらの言葉を集めてみると、俊子は美人では無い。頬は年中霜焼しているようなブンドウ色の女中型だ。ブンドウは豆の一種らしい。優美に取済ました美人でない女中型が好ましい。そして働いている時が一番美しい。彼女は鈍感な性格だった――大たいこのようであった。彼の裸婦の詩に「顔は日の如く赤く」とあるのはブンドウ色の美化であろう。/失恋した恋人の姿を彼自身の口を借りて記すまでもなく彼の幾つかの作品が良く伝えている。私がこの事を記すわけは、この後に通り過ぎる影のように出て来る別の女と余り型が違うからである。その前に体の重そうな非優美型を好いたということは何に因ったのだろう。
  
 相馬俊子は、確かに“おさんどん”型の女性で、洗練された美人ではないけれど、「鈍感な性格」だったかどうかは彝の一方的な主観なので不明だ。
 むしろ、彼女の微妙な感覚や心理の動き、心の機微がうまく読めず、女性に不馴れでひとりよがりな恋心を一方的に爆発させた、むしろ中村彝のほうが「鈍感」だった可能性さえある。彼の研究生時代を知る友人たちは、気が強く強引な性格でよくいえば豪快、ともすれば横柄さClick!をともなう人間像の証言をいくつも残している。それが、病状が進行するにつれ経年とともに、正反対の優しく謙虚な性格へと変貌をとげていくわけだが、曾宮一念と出会ったころはいまだ血気盛んな一面を残していたのだろう。
 「ブンドウ」とは、どうやらエンドウ豆のことで、通常は青い(緑のClick!)色をしている。彝がいう「ブンドウ色」は、日本の在来種にあったムラサキエンドウのさやの色のことではないだろうか。現在は、ムラサキエンドウといえばエジプトのツタンカーメン遺跡で発見された「ツタンカーメン」種が主流だが、彝はどこかで日本の在来種が栽培されたエンドウ畑で、「ブンドウ色」のさやを見たのかもしれない。記念写真19240527.jpg
.曾宮一念「梨畑道」.jpg
ムラサキエンドウ.jpg
 曾宮一念へ女性の好みを語ってから数年後、彼はまったく異なる女性の好みを彝から見せつけられることになる。曾宮に語った「ブンドウ色の女中型」で、「優美に取済ました美人でない女中型が好まし」く思うといってるそばから、それとは正反対の女性に惹かれ、「子供が欲しくなった」などといっているのだ。
 1920年(大正9)1月ごろ、水戸からやってきたばあやの岡崎キイClick!が腎臓病を悪化させてしばらく入院し、家事ができない彝は東京日日新聞に「女書生募集」の広告を出している。すると3月末頃に、ややしゃべり言葉に東北方言が混じる、太田タキという女性がやってきた。柏崎の洲崎義郎Click!が連れてきた土田トウClick!が1ヶ月ほどで帰り、かわりに酒井億尋Click!の紹介で佐渡から大工の河野輝彦Click!がやってきたあとのことだ。ヴァイオリンを手にやってきた太田タキは、家事を手伝うかわりに給料はどうでもいいから、ここでヴァイオリンを思いきり弾かせてくれといった。体力のいる井戸の水汲みさえできなかった彝は、ともかく家事をまかせられるならと彼女を雇っている。
 鼻先が少し下がり気味で、目が吊り上がっている太田タキの容貌について、彝はさっそく曾宮一念に「鋸の目立てには困るね、と顔をしかめ」た。新聞広告を見て、せっかく家事を手伝いにきてくれた女性に、「鋸の目立て」(吊り上がり目)だと容貌にケチをつけている。だが、いっしょに暮しているうちに、彝は太田タキがだんだん気に入ったようで、彼女に「情欲を感じ出し」ている。1926年(大正15)に岩波書店から出版された『藝術の無限感』所収の、1920年(大正9)4月20日付け洲崎義郎あての書簡から引用してみよう。
  
 〇〇さんは勝手で何かせつせと働いて居ります。若し土田のばあやがどうしても来られない様ならば、強ひて他の女を頼むよりも〇〇さんに居て貰ひます。僕は一時(それもほんの一日二日でしたが)どう言ふ訳か(多分ルーベンスのスリーグレースに刺戟されて)少し〇〇さんに情欲を感じ出したので、之は僕の健康にとつての一大事であり、又〇〇さんにとつてもよくない事だと思つたので、急いで「ばァや」に来て貰う気になつたのです。
  
 だが、彝がほんとうに気に入った女性は、この「〇〇さん」こと太田タキではない。このあと、洲崎義郎から懇願されたのだろう、柏崎から土田トウが三度めにやってきて、太田タキがアトリエを去ったあとのことだ。土田トウは、このときも1ヶ月ほどで帰郷してしまい、短期間だが5月に「神田のヲバサン」がアトリエに出入りして家事を手伝っている。このあと、中村彝は自炊生活に入ったことになっているのだが、曾宮一念の証言はちがう。
中村彝1920.jpg
中村彝アトリエ.JPG
曾宮一念「白樺の杖」1972.jpg 曾宮一念.jpg
 中村彝が、俊子以来の“本命”だととらえた19歳の少女は、曾宮一念の記憶では「太田」姓だったとのことなので、生活に困っている彝の話を聞いた太田タキが、姻戚の女性を紹介したものだろう。『白樺の杖』より、曾宮一念の証言を聞いてみよう。
  
 バイオリンが居なくなって未だ噂を我々がしていた頃だから半年足らずの後であったろう。私が庭から彼の室に上ってゆくと一人の女がちょうど辞去の挨拶をしているところであった。私には女性というものが実際の年よりも年上に見えるのが常である。その人は既に少女と呼ぶには落付き過ぎ、淑やかで優美な若婦人に見えた。ほんの立話で出口に送った。その後一ヶ月たってもう一度彼の家で会った。物静かで美しかったのと、化粧をしていなかったのを今も覚えている。私が二度見かけた間に数回訪ねて来たらしい。というのは、その二度目に私が会った日、女が帰ると、中村は私に「ボクも子供が欲しくなったのさ」と云った。恥かしそうというよりも、真面目なことを彼が云う時の癖で一口に続けて話した。
  
 曾宮一念は、ヴァイオリンの太田タキと19歳の「太田某女」とを分けて書いているので、両者を混同しているのでないことは確かだ。また、「太田某女」は太田タキが紹介した「従妹」だとも書いているので、確かな記憶なのだろう。
 だが、結婚して子どもが欲しいとまでいった「太田某女」は、中村彝が常々いっていた「ブンドウ色」の頬をした「女中型で非優美型」だった好みの女性とは、まるで正反対のとびきり洗練された優美な容貌をしていた。そのとき「ぜんぜんちがうじゃん!」と、曾宮は病気の中村彝に突っこみは入れなかったけれど、さすがに『白樺の杖』ではいってることと実際がちがいすぎると指摘している。
 そんな言行不一致な中村彝は、同年6月28日付けの洲崎義郎あての手紙で、その少女についてこんなことを書いている。『藝術の無限感』から引用してみよう。
  
 それからも一つ奇抜な御報告を致しませうか。これは余り奇抜だし、それに僕としては少し艶つぽすぎるので今の処この事だけは誰にも黙つて居るのですが。最近ある非常に美しい少女(拾九歳)が私を愛して、十月に学校を卒業したら早速僕のところへ来て、僕の世話をしたり、僕の「モデル」になつたりして上げ度いと言つてくれるのです。その人は大して利口の性質ではないかも知れませんが、然し大変に優しい心と何時も平和で快活で、深い信仰の喜びとでも言つた様なものを持つ人の様です。肉体や顔ダチは豊満無類で、日本人には珍しい程立派な、私の趣味に実によくかなつたタイプの女性です。
  
 中村彝は、「誰にも黙つて居る」と書きながら、曾宮一念にはあふれる恋心をベラベラしゃべってしまい、もうウキウキ気分だったのが透けて見える。この少女の前では、「ブンドウ色」の「女中型で非優美型」の女性など、どこかへ消し飛んでしまったようだ。すでに、「私を愛して」くれているなんてことにまでなっている。彝の妄想は止まらない。
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中村彝「婦人像」1922.jpg
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 そんな中村彝の様子を見て、「太田某女」はその執着心や目つきから「ちょっと、このヲジサン、マジヤバかも」と、だんだん怖くなってきたのだろう。彝によれば、「例の少女が又しても周囲の反対と僕自身の病的な情熱とに脅かされて」(8月19日付け洲崎義郎あて書簡)、アトリエへこなくなってしまった。自身も「病的な情熱」と認識してはいるが、怖くなって少女のほうから離れていくのは、相馬俊子のときとまったく同様のケースだった。

◆写真上:アトリエのテラスにある扉の向こう側、居間兼寝室で中村彝は太田タキの従妹といわれる少女と、いったいなにを熱心に話していたのだろうか。
◆写真中上は、1924年(大正13)5月27日に開かれたアトリエでの昼食会だが曾宮一念の姿がない。は、大正中期に田子浦村で描いたとみられる曾宮一念『梨畑道』。は、ムラサキエンドウのいわゆる「ブンドウ色」のさや。
◆写真中下は、ちょうど太田タキや「太田某女」がやってきた1920年(大正9)に撮影されたアトリエ庭の中村彝。は、現在の中村彝アトリエ記念館。下左は、1972年(昭和47)に木耳社から出版された曾宮一念『白樺の杖』。下右は、1917年(大正6)ごろ中村彝アトリエで撮影された曾宮一念で、手前には中原悌二郎Click!が座っている。
◆写真下は、1922年(大正11)に描かれたデッサンで目が異常に怖い中村彝『自画像』。は、同年に制作された中村彝『婦人像』だが誰を描いたものだろうか? は、1924年(大正13)12月27日に行われた中村彝の告別式に出席した曾宮一念。彼のすぐ背後には会津八一Click!が、彼の左横には鶴田吾郎Click!の姿が見える。

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