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空き地があれば畑にする1944年。 [気になる下落合]

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 太平洋戦争がはじまった翌年、1942年(昭和17)7月から東條内閣Click!のもとで施行されたのが、ほぼすべての主要食糧を国家が管理し配給制にする「食糧管理法」だった。だが、敗戦が近づくにつれ食糧生産高の低下や輸入食糧の急減、物流ネットワークの破綻などにより、配給制そのものが破産し成り立たなくなっていく。
 国民は、ほんのわずかな食糧しか配給してもらえないので、今日的ないい方をすれば「自助」、すなわち各家庭で自給自足を考えなければならなかった。それでも、まだ地方から都市部へ出てきた人々はマシだった。食糧が乏しく飢餓状態がひどくなれば、都市部と比較して食糧事情がマシだった故郷から送ってもらったり、「田舎」が農家であれば生産品を家に直送してもらえたりした。だが、都市部が故郷の市民たちは、配給制の崩壊により直接生命の危機にさらされることになった。
 さらに、敗戦まぎわになると、地方から都市部への個人的な食糧の郵送や運搬さえ禁じられてしまい、都市部に住む人々は自分たちでなんとか食糧を調達しなければならなくなった。裕福なおカネ持ちの家庭であれば、必要な食糧は配給に頼らず、今日の北朝鮮のようにヤミ(闇市場)で手に入ったが、そうでない家庭ではいっそのこと故郷に帰るか、食糧不足がそれほど深刻でない地方へ疎開するか、あるいは自分で畑を耕したり野草を摘んで食べる「自助」で飢えをしのぐしかなかった。
 あまりにもひもじくて空腹なので、どうせ死ぬなら腹いっぱい食ってから死のうと、空襲の直前に天ぷらを揚げて満腹になるまで食べさせられた、向田邦子Click!の記録が残っている。(『父の詫び状』Click!所収「ごはん」) 狭い庭をようやく耕してこしらえていた、サツマイモが天ぷらの具のすべてだった。子どもを飢えたままで死なすのが、親としてはあまりにも不憫でかわいそうに思えたのだろう。
 落合地域では、住宅の庭先はもちろん、空き地が多い西部では少しでも飢えをしのごうと、地面を耕して野菜などが栽培されていた。空き地は、たいがい自分の土地ではなく所有者がいるので、いちおう地主に断ってから開墾するのだが、耕し終わって肥料を入れ収穫ができるようになってから、「うちの土地だから」と耕作禁止をいいわたし、自分の畑地にしてしまう性悪な地主もいたようだ。
 西落合1丁目31番地(1965年より西落合1丁目9番地)で暮らしていた料治熊太・花子夫妻Click!は、近くにあった磁石工場(試験所)の所有地を借りて耕し、野菜類を育てている。その様子を、1944年(昭和19)に宝雲舎から出版された料治花子Click!『女子挺身記』Click!所収の、短編「隣組の畑」から引用してみよう。
  
 私共の裏庭つゞきには、生垣一つを境に約千五六百坪ほどの原つぱがあつた。その原つぱは一本の道をさしはさんで更に向ふの、それ以上に広い原つぱにつゞいてゐた。こゝ十五六年、私共が落合に住みついてから、住宅の建築は年と共に増加して来たのにもかゝはらず、このやうに広い原つぱがあるのは、その真ん中に磁石工場があり、その試験場があつて、感度の関係で周囲に建築が許されないからであつた。子供達にとつてはどこよりも安全な遊び場所で、四季折々、凧をあげたりとんぼをつかまへたり、眺めてゐるだけでも楽しげな風景であつた。私自身も春になると、垣根をくぐつては原つぱへ出て、よめな、つくし、たんぽゝなどを摘んだり、或る時は茣蓙や小さなちやぶ台を持ち出して野天で昼食をしたりしたことさへあつた。
  
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 家の裏にある空き地を耕そうと、最初に料治熊太へ声をかけたのは、近所に住む同じ隣組の小説家で戯曲家の大島萬世だった。磁石工場の所有地なので、いちおう管理室にかけあうと、「公認はできないが勝手に耕すのなら黙認」と許可を得た。
 こうして、料治家では少しでも食糧不足を補おうと、馴れない畑仕事に精をだして40坪ばかりの菜園をようやくこしらえた。同様に、隣接するほぼ同じ広さの空き地を耕して、大島萬世も野菜畑をつくっている。その様子を見ていた隣組の近隣家庭では、さっそくあちこちに縄張りを設けて、料治家裏の空き地はほぼ全スペースが野菜畑になってしまった。育てていた野菜は、ダイコンやジャガイモ、トウモロコシ、サツマイモ、ナガネギ、ラッキョウ、コマツナ、ゴボウなどだった。
 ある日、磁石工場から通告の高札が、元・原っぱだった空き地に立てられた。高札には、「警察の指令に依り、工員の食糧増産の為、以後畑の使用を絶対に禁止す」と書かれていた。雑草だらけの原っぱを、よぶんな根を取り除き肥料を入れ、ようやく満足に収穫できるようになった矢先のことだった。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 蒔いた種が芽を出すころ、二人の先鞭者(料治家と大島家)に刺戟されて、あちこちに縄張りの土地が出来た。この原つぱを取り囲む隣組の人達が、それぞれ増産の鍬をふるひ出したのである。それから二年たつた頃は、もう原つぱの真ん中に一本の細路を残すだけで、全部立派な野菜畑になつてしまつた。四十何軒の人たちが、大小、正方形、長方形、いろいろの畑に、みんな互ひに苗や種を分け合つたり、作物を交換し合つたり、どんなに明け暮れのひと時を、そこに楽しく過して来たことであつたらう。おかげで子供達は遊び場所を失つてしまつたけれど、その代わり、たうもろこしをもいだり、お藷を掘つたりする楽しみを得ることが出来たのであつた。/それが突然、今年の春さき、みんなが堆肥を入れ、灰を撒き、そろそろじやがいもの種を植ゑたり大根の種を蒔いたりしはじめる頃、使用禁止の声が私達を脅かしたのであつた。(カッコ内引用者註)
  
 この文章から、原っぱの開墾と畑地化は食利用配給制がはじまって間もない、1942年(昭和17)から行われていたのがわかる。1944年(昭和19)の「春さき」に突然、工場からの耕作禁止がいい渡されたことになる。
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 この一連のエピソードでは、大島萬世のほかに同じ隣組の「白石」「尾崎」「臼倉」「丹羽」などのネームが登場するが、この中で臼倉家が隣組の組長だった。これだけ近隣の名前がわかれば、よりリアルに記事が書けると思ったので、さっそく1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照したのだが、採取されていたのは「丹羽」と「斉藤」の両家だけだった。西落合は新築の家が多かったせいか、ネームが採取されていない住宅が多い。「火保図」では、料治家の隣りがタバコ屋だったことがわかる。
 この中で、尾崎という老人がクセ者だったようだ。空き地の畑ではおもに麦を育てていたらしいが、麦秋の収穫を目前に畑をつぶさなければならなくなった。そこで、畑を耕す隣組の「代表者」と称して、磁石工場へかけ合いに出かけている。近所の人たちには、「わしは明日工場へかけ合つて埒があかなきや、区役所なり警察なりへ談判に行くつもりですよ。だからまあ当分は大丈夫ですよ」と話していた。ところが、突然上記の高札が畑のある空き地に立てられたのだ。
 ほどなく、尾崎老人は畑の耕作者宅をまわって、工場との交渉の経過を報告せずに、「裏の畑のものを明日中に引つこ抜いてくれ」、「あさっては工員達がひつくり返して」しまうから、「滅茶滅茶にしても意義は申し立てられません」といって歩いた。驚いた住民たちは、急いで食べられそうな野菜をすべて収穫し、畑を空き地にもどしている。ところが、老人の麦畑だけは手つかずだった。
 直後に、料治熊太Click!が情報を仕入れてきた。「尾崎さんはあの麦を工場へいゝ値で売つたんだつてさ。(中略) 尾崎さんは自分さへよければそれでいゝんだからね」。工場の幹部と、「俺は畑の代表者だ」と吹聴していた斎藤老人との間で「ボス交」が行われ、畑の処分やスケジュールを工場の都合がいいように勝手に決めて、そのかわりに自分の麦畑を買いとってもらっていたのだ。こういうこすっからい人間はどこにでもいるもので、農村ならさっそく「村八分」にされそうな所業だが、西落合は新興住宅地だったので、以降は近隣の「鼻つまみ」か「うしろ指」ぐらいで済んだのかもしれない。
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 料治熊太は、なんとか食べられるものは収穫し、生育中の野菜類はせっせと庭へ移植している。料治花子は工場から帰宅すると、昨日とは打って変わって畑が消滅し、空き地にもどってしまった家の“裏”を見わたして感慨にふけった。その一画に、「尾崎さんの麦畑のみが、くっきりと青く、煙る雨の中に鮮やか」な情景を見せていた。戦中戦後の飢餓状況で、「食いもんの恨み」は早々に忘れられることはなさそうだ。

◆写真上:近くの畑地で、なぜかポツンと収穫し残している落合大根。
◆写真中上は、磁石工場(試験所)が建設される前の1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる西落合1丁目の空き地。は、1944年(昭和19)10月18日撮影の空中写真で磁石工場の周辺には畑地らしい開墾跡が見られる。すでにこのときは、工員たちが耕していたのだろう。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる料治邸とその周辺。料治邸の並びには「タバコヤ」、空き地の南側には「丹羽」「斉藤」の名前が採取されている。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月6日撮影の空中写真にみる同所。は、戦後の1947年(昭和22)撮影の同所。料治邸は3月以降の空襲で焼けているので、西落合1丁目31番地の角地ではないか。は、畑にした空き地跡(右手)と磁石工場跡(左手)の現状。畑跡は天理教本理世大教会に、磁石工場跡は落合第二中学校になっている。
◆写真下は、1944年(昭和19)撮影の牛込区(現・新宿区の一部)津久戸町の街中につくられた畑。は、1946年(昭和21)に撮影された日本橋区の昭和通りで戦後初の麦刈りをする女性たち。食糧不足は戦後も深刻で、都市部では大量の餓死者をだした。は、江戸橋倉庫ビル(2012年解体)前の昭和通り。日本橋の目貫き通りClick!のひとつに、戦時中から食糧増産の麦畑ができるようでは、戦争はとうに敗けなのだ。

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