SSブログ

遅れてやってきた「第3次山手空襲」。 [気になる下落合]

千代田小学校1945.jpg
 東京の山手地域に、1945年(昭和20)4月13日夜半と5月25日夜半の二度Click!にわたって行われた山手大空襲Click!が終わると、市街地のほぼ50.8%が焼け野原となり、この時点で米軍は東京市街地を名古屋とともに大規模な焼夷弾攻撃リストから外している。でも、あまり知られていないが同年5月29日にも、小規模ながら東京の山手地域に空襲が行なわれている。この「第3次山手空襲」ともいうべき爆撃について、一連の山手大空襲の流れを追いながら具体的に見ていきたい。
 落合地域のみに限ってみれば、4月13日および5月25日の夜間空襲であらかた“終了”しており、上落合はほぼ壊滅状態Click!で下落合は大半が焦土Click!と化していた。西落合は、耕地整理後の空き地や田畑が多かったせいか、それほど大きな被害は受けていない。その後、硫黄島から飛来したP51と思われる戦闘爆撃機が、下落合の聖母病院Click!近衛町Click!藤田本邸跡Click!ないしは深田邸の付近Click!へ散発的に250キロ爆弾を投下したり、野方配水塔Click!へ機銃掃射をあびせたりしているが、B29による絨毯爆撃は以降行われなかった。
 さて、1945年(昭和20)3月10日に東京大空襲Click!の大惨事が起きてから、ほぼ1か月たった4月13日の夜半に第1次山手空襲が行なわれている。午後11時すぎから爆撃が開始され、赤羽の兵器廠を中心とした工場街をはじめ、鉄道や駅舎とその周辺、幹線道路沿いの家屋密集地などを攻撃目標に豊島区、淀橋区、四谷区、牛込区、小石川区、麹町区、王子区、荒川区などが爆撃を受けた。淀橋区に牛込区、四谷区と現在の新宿区に相当する地域は、各地で大きな被害を受けている。
 4月13日夜半に飛来したB29は330機(大本営発表160機)で、翌4月14日の午前2時ごろまでの約3時間にわたり、東京各地でM69集束焼夷弾と250キロ爆弾による爆撃をつづけている。つづけて、4月15日夜半にも340機(大本営発表200機)のB29が、延焼をまぬがれた工場街や鉄道沿いを中心に反復爆撃を行ない、また新たに大森区と蒲田区を加えて爆撃している。この第1次山手空襲で投下された焼夷弾や爆弾は、東京大空襲にほぼ匹敵するほどの量だったが、約22万戸の家屋が焼失しているにもかかわらず、犠牲者は約3,300人と東京大空襲に比べ2桁も低い死者数で済んでいる。
 山手空襲の被害者が少ないのは、もちろん(城)下町Click!よりも緑地や空き地が多く、家々の間隔が広かったせいもあるが、住民たちが東京大空襲の惨状を目の当りにし教訓化していたのも、被害を少なくする要因だったと早乙女勝元Click!は分析している。つまり、空襲警報が出たらバケツリレーや防火ハタキClick!などによるムダな消火活動などせず、安全と思われる場所へできるだけ早く逃げることを最優先させた結果だったとみられる。
 政府がいくら、「敵の空襲恐るるに足らず」とか「来らば来れ敵機いざ!」などと叫んでみても、そんなタワゴトを地元防護団Click!をはじめ住民たちはとうに信じなくなっていた。この4月の山手空襲のあと、警視庁の報告書では東京大空襲の影響を認めている。
  
 三月一〇日ノ大空襲ノ結果一般市民ヲシテ焼夷弾ノ密集投下ニヨル初期防火ハ不可能ナリノ観念ヲ助長セシメオリタルノミナラズ、火災ニ対スル甚大ナル恐怖心ヲ醸成シオリタルタメ、大部分ガ逃避態勢ニアリ、全ク防火準備ヲ怠リオリタルモノト認ム
  
 東京大空襲の惨状を見て、防火ハタキやバケツリレーでM69焼夷弾の火災が消せるとは、誰も思わなくなってしまったのだ。そして、その判断はきわめて正しいことが、山手空襲における逃げ遅れを防止し、犠牲者数の減少に直結していると思われる。
B29国産電機19450525.jpg
明治神宮19450525.jpg
B29P51.jpg
 この4月13日夜半の空襲について、吉村昭Click!の『夜間空襲』から引用してみよう。
  
 四月十三日夜、私の町の上空にB29が低空で飛び交った。その機体は巨大な淡水魚のようにみえ、その腹部から焼夷弾がばらまかれた。裏手の家の中でも炎が起り、私はバケツを手に消火に赴こうとした。その時、父が、/お前一人で消そうとでもいうのか、早く逃げろ」/と言って、先に立って路上に出て行った。/私は、父の言に従って非常持出し用のリュックサックをかつぎ、ふとんを頭上にかぶって谷中の墓地に急いだ。途中で、次兄が駈けてくるのに出会った。/「家が焼けた」/と、次兄がいった。家とは、次兄たちの住む古い家のことだった。/谷中の墓地には、避難した人々があふれていた。空が赤く、墓地は墓碑の文字もはっきりみえるほど明るかった。墓地が、これほど人々によって賑ったことはなかったろう。
  
 つづいて同年5月になると、マリアナ諸島の米軍基地には約1,000機におよぶB29が配備され、東京と名古屋を集中的に爆撃している。まず5月24日には、東京西部に約525機(大本営発表250機)のB29が襲来し、大森区や品川区、目黒区、渋谷区、世田谷区、杉並区を絨毯爆撃している。約2時間余にわたる空襲で、死者762人と負傷者4,130人を出したが、これはまだ第2次山手空襲の前哨戦にすぎなかった。
 翌5月25日夜半には、470機(大本営発表250機)のB29が山手の焼け残り地区へ、徹底した絨毯爆撃を繰り返した。このとき投下された焼夷弾や爆弾は、3月10日の東京大空襲の2倍近い量にあたる。この空襲は第2次山手空襲Click!にカテゴライズされてはいるが、実際には(城)下町各区の焼け残り地域への空襲も含まれていた。攻撃範囲は淀橋区をはじめ牛込区、四谷区、麹町区、本郷区、芝区、日本橋区、京橋区、赤坂区、神田区、麻布区、渋谷区、目黒区、小石川区、豊島区、中野区、品川区、下谷区、浅草区、荏原区、城東区、向島区、深川区、江戸川区、板橋区、足立区、杉並区、世田谷区、荒川区、深川区、大森区、滝野川区、王子区の33区におよび、空襲を受けなかったのは本所区(区全域がすでに焦土だった)と蒲田区の2区のみだった。
 5月25日夜半の空襲で、死者2,258人と負傷者8,465人を出しているが、警視庁はもはや空襲には対処するすべがないと認める発表を行なっている。
  
 民防空ハ最近ニオケル徹底カツ大規模ナル空襲ニ、其ノ戦闘意識ヲ殆ド喪失シオリ、タメニ初期防火全クオコナワレズ、火災ハ全被弾地域ニ及ブ
  
東京市街地194602.jpg
落合地域194602.jpg
桜田門上空.jpg
 1945年(昭和20)の3月から5月にかけて、繰り返し行われた大規模な空襲で東京市街地はほぼ壊滅し、米軍の内部資料によれば焼夷弾や爆弾、ガソリンなどB29の絨毯攻撃による爆撃リストから、東京と名古屋の2都市は外されたはずだった。
 ところが、同年5月29日に横浜の市街地を空襲(横浜大空襲)したB29とP51の一部が、横浜から東京へと攻撃目標を変えている。おそらく、横浜市街地に投下した焼夷弾の効果(空襲による炎上被害)が予想以上だったため、余った焼夷弾や爆弾の投下先を東京へ変えたか、あるいは大火災による煙が原因で地上の爆撃目標が視認できなくなったのではないだろうか。この現象は、3月10日の東京大空襲時にもみられ、予想以上の効果を上げて余剰となった焼夷弾や爆弾を、当初は爆撃を予定していなかった地域にまで拡大投下している。
 5月29日の横浜大空襲では、517機のB29と101機のP51が来襲しているが、そのうちの何機が横浜地域ではなく東京空襲に参加したのかは不明だ。このとき空襲を受けたのは、いまだ焼け残りの住宅街があった大森区、蒲田区、品川区、目黒区、芝区、少し離れた牛込区と四谷区で、死者41名の被害が出ている。そして、この「第3次山手空襲」を最後に、B29による東京市街地への大規模な焼夷弾攻撃は終わった。
 そして、6月10日に39機のB29による空襲が板橋区の工場と立川の航空本部に、翌6月11日には約60機のP51による立川と八王子の空襲(銃爆撃)が行なわれている。また、同時期には伊豆大島をはじめとする伊豆七島へP51が来襲し、銃爆撃が繰り返し行われた。7月に入ると、約1,000機のP51が関東各地を空襲し、特に立川と八王子が反復して銃爆撃を受けている。そして、8月2日夜半に310機のB29が関東各地を爆撃して、そのうちの70機が八王子の住宅街に絨毯爆撃(八王子大空襲)を繰り返し、八王子は一夜の空襲で壊滅している。
 その後、P51や艦載機のグラマンが関東各地を散発的に銃爆撃するが、敗戦間際の8月10日に100機のB29と50機のP51が王子区と板橋区を空襲し、8月13日には艦載機60機が大森区、蒲田区、品川区を銃爆撃している。この二度にわたる東京への空襲は、広島と長崎への原爆が投下されたあとであり、日本にポツダム宣言の無条件降伏受諾を督促する、いわば政府の眼前での“ダメ押し”空襲のような気配が濃厚だ。
中央官庁防空研究会資料1944.jpg 中央官庁防空研究被害想定.jpg
中央官庁防空研究日程表.jpg
被害想定図(代々木市ヶ谷).jpg
 東京への最後の空襲は8月15日深夜1時すぎ、西多摩郡古里村(現・奥多摩町)へ数機のB29が来襲し、村内の住宅を爆撃して22名が犠牲になっている。埼玉の熊谷を空襲したあと、その余剰弾をたまたま帰投ルート上にあった同村へバラまいたといわれている。

◆写真上:3月10日の東京大空襲後に撮影された日本橋の千代田小学校Click!(千代田国民学校=現・日本橋中学校)で、復興校舎は焼け残ったが内部は丸焼けだった。生徒らしい子どもが写っているが、東京駅方面の避難先からもどった親父もこの光景を見ているだろう。わたしの実家は撮影者の背後、元祖すずらん通りに面した一画にあった。
◆写真中上は、5月25日の夜半に根津山Click!の上空あたりで被弾し、学習院に南接する国産電機工場Click!へ墜落するB29で、小石川の住民による個人撮影。は、5月25日夜半にB29から撮影された爆撃を受ける千駄ヶ谷および神宮前地域で、眼下に見えているのは明治神宮。米国防総省の情報公開資料では、明治神宮を「Tokyo palace(皇居)」と誤認している。は、B29の編隊を護衛する戦闘爆撃機P51。硫黄島が陥落すると建設された米軍基地からP51が空襲に加わり、東京各地で銃爆撃を繰り返すようになる。
◆写真中下は、1946年(昭和21)2月に撮影されたほとんど焼け野原の東京市街地。は、同写真から落合地域を拡大したもの。は、桜田門の上空あたりから北を向いて撮影された空中写真。左手下に、旧・警視庁の庁舎が見える。
◆写真下は、1944年(昭和19)ごろに政府が空襲を想定して進めていた主要都市の「中央官庁防空研究会研究資料」。マル秘の印が押され、東京をはじめ全国主要都市の空襲が想定されて、その被害や復旧の見込みが研究されている。ただし、9~10日間かけて行われた政府の防空研究は、空襲の想定が小規模かつ限定的で根拠のない楽観論と希望的な観測に満ちており、実際の大規模な空襲に対してはほとんど無意味だった。は、代々木駅から四ッ谷地域と市ヶ谷地域から飯田橋駅にかけて想定された空襲エリア。

読んだ!(19)  コメント(21) 
共通テーマ:地域