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立野信之が見たあの時代の作家たち。 [気になる下落合]

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 立野信之Click!は、1928年(昭和3)に結婚し、高田老松町Click!の家に間借りして暮らしはじめている。のちに死別することになる春江夫人は、火野葦平Click!の遠い親戚であり、夫人は火野のことを「玉井の勝ちゃん」と呼んでいた。
 小石川区にある高田老松町の家のことを、立野は「雑司ヶ谷と目白の間」と本に書いているが、彼のいう「目白」は古い時代からの呼称で、室町末期から江戸初期のころ目白坂Click!の中腹に足利から不動尊Click!(目白不動)が勧請された目白山Click!(のちの江戸期に付けられた地名は関口Click!椿山Click!)のことであり、山手線の目白駅Click!とその周辺のことではない。おそらく、近所の住民たちが普段からつかっている表現をそのまま踏襲したのだろうが、この時代は雑司ヶ谷の西にある目白駅界隈(特に駅の東側)は、目白ではなく「高田(町)」と呼ばれることが一般的だった。
 立野信之は、少しずつ原稿が売れるようになってはいたが、「中央公論」や「文藝春秋」に原稿が掲載されたからといって、すぐに暮しが楽になるわけではなかった。結婚早々から、夫婦は質屋通いを繰り返している。そんなとき、片岡鉄兵Click!が彼の原稿を「改造」に持ちこんだが、結局原稿は返送されてきた。生活の苦しさから、「改造」編集部に原稿料の前借りを依頼したのが、編集者には驕慢ととらえられてまずかったのだが、横光利一に会うと「立野君はすぐ原稿料をさいそくするからいけませんよ」と忠告されている。横光利一はすでに売れっ子作家だったが、原稿料を催促しなかったせいか手許不如意がつづき、菊池寛Click!や直木三十五に借金を繰り返していたらしい。
 立野の原稿を「改造」に紹介してくれたのが機縁で、彼はプロレタリア作家になりたての片岡鉄兵と急速に親密になり、同時に上落合にいた蔵原惟人Click!とも親しくなった。このとき、立野は下落合1712番地(現・中落合4丁目)の目白文化村Click!は第二文化村で暮らしていた片岡鉄兵邸を訪問している。この邸は、片岡鉄兵の姻戚筋にあたる日本毛織株式会社(現・ニッケ)の工場長・片岡元彌邸Click!であり、彼は葛ヶ谷15番地(のち西落合1丁目15番地)に自邸が完成するまでの間、家族で仮住まいをしていたようだ。片岡邸の邸内の様子は以前、小坂多喜子Click!の訪問記としてもご紹介Click!している。
 ちょっと余談だが、片岡鉄兵Click!が葛ヶ谷15番地に自邸を新築していた敷地は、その2年ほど前に佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作として描いた画面に偶然とらえられている。角地に「富永醫院」Click!の立て看板があったところで、第二文化村のすぐ北側に位置する画面の右手が、ちょうど葛ヶ谷15番地にあたる。現在の旭通りに面した交番のまん前、巽横町と呼ばれる西側の角地一帯だ。また、「下落合風景」の1作『道』Click!では、ちょうど坂下にイーゼルを立てた画家の背後左手が葛ヶ谷15番地だ。
 第二文化村の片岡(元彌)邸を訪ねたときの様子を、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された立野信之『青春物語・その時代と人間像』から引用してみよう。
  
 その頃、片岡鉄兵は結婚したてのホヤホヤで、下落合に借家していたが、近くに新居を建築中であった。/ある日、わたしが訪ねると、今しがた起きたばかりだといい、長身の細君が運んできたオートミールをすくって食べていた。プロ作家とオートミール――いかにも片岡鉄兵らしい配色だ、とわたしはひそかに思ったことだった。/その頃、蔵原らの肝煎りで国際文化研究所が創立され、その事務所を同じ上落合に持つことになった。そこで、その管理をかねて、わたしたち夫婦に階下の一間に住まないか、という話が突然蔵原からわたしに持ち込まれた。部屋代は、もちろん無料である。/わたしたちは部屋代の支払いに窮していたので、渡りに舟と、さっそくそこへ引っ越した。/二階が六畳と八畳の二間つづきで、これは国際文化研究所の専用、階下は三畳、四畳半、六畳の三部屋に台所がついていて、わたしたちの部屋は奥の六畳であったが、事実上は階下全部を使用していた。
  
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国際文化研究所跡.jpg
 書かれている国際文化研究所は上落合502番地、すなわち少しあとには蔵原惟人とその両親など家族が住む家であり、ちょうど吉武東里邸Click!神近市子邸Click!大賀一郎邸Click!古川ロッパ邸Click!などのすぐ南側にあたる位置だ。研究所のメンバーには、蔵原惟人をはじめ秋田雨雀Click!林房雄Click!、永田一脩、小川信一(大河内信威)、佐々木孝丸Click!、片岡鉄兵らで、落合地域に住んでいる人たちも少なくなかった。国際文化研究所では、1928年(昭和3)11月から機関紙「国際文化」を発行している。
 小川信一はペンネームで本名は大河内信威といい、先にお邪魔をした池之端画廊Click!がある一帯の大邸宅に住んでいた大河内正敏家(子爵)の息子だ。彼は、国際文化研究所のすぐ近くにある上落合502番地の同じ地番に建っていた小さな平家を借りて、帝劇Click!出身の女優・山岸しづえと暮らしていた。彼女が前進座の河原崎長十郎と結婚し、河原崎しづ江Click!になるのは7年後のことだ。
 さて、立野信之は山田清三郎に勧められて、ぽつりぽつり小説を書きはじめていた。その1篇『標的になった彼奴』が、前衛芸術家同盟が発行していた雑誌「前衛」の終刊号に掲載されている。「前衛」が終刊したのは、ソ連帰りの蔵原惟人が弾圧が強まる状況下で文化団体の大同団結を呼びかけ、全日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成して機関紙「戦旗」Click!を発行する計画が、すでにできあがっていたからだ。
 『標的になった彼奴』は、立野自身が軍隊生活で経験したことを書いたものだが、プロレタリア文学界だけでなく“芸術派”の作家にも評判がよく、横光利一も「文藝春秋」で好意的な批評をしている。つづいて、立野はナップの「戦旗」創刊号に『赤い空』を掲載したことで、正式にナップのメンバーとなった。彼はそこで、数多くの作家たちと出会うことになる。ちなみに、全日本無産者芸術連盟(ナップ)も上落合460番地で結成されており、位置的には村山知義・籌子アトリエClick!のすぐ北側だった。
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永田一脩「プラウダを持つ蔵原惟人」1928.jpg 立野信之「青春物語」1962.jpg
 その村山邸(敷地内の家)の2階では、発表された作品の合評会が開かれていた。『赤い空』が掲載され、「戦旗」創刊号が発刊された直後というから、三・一五事件Click!から間もない1928年5月ごろのことだろう。この時期、村山邸の敷地は全面リニューアルのまっ最中だったと思われ、従来の「三角アトリエ」Click!を解体して新たなアトリエを建設し、同時に村山家の敷地内には借家やアパートが数棟、建設途上だったのではないだろうか。そのため、村山夫妻は前年から下落合735番地Click!の仮住まいにアトリエを移しており、上落合186番地に住んでいなかった可能性が高い。
 そのような環境で、合評会が開かれたのは解体予定の古家か、あるいは借家用に建てた新築の2階だったのではないだろうか。立野信之は合評会に出席し、会合が終わると新宿へ散歩に出かけている。そのときの様子を、『青春物語』から再び引用してみよう。
  
 わたしが上落合の村山知義の家の二階で行われた合評会に出席した帰りに新宿へ出ると、中村屋の前の雑踏の中を、蔵原惟人が大島のついの着物を着て、お天気なのに高下駄をはいて、雑誌を読みながら歩いてくるのに出会った。/蔵原はわたしを見て、立ちどまった。「新潮」か何かの合評会に行くところだ、と蔵原は問わず語りにいった。歩きながら雑誌を読んでいたのは、そのためだったらしい。/「あなたの小説は面白かった……つづいて書きなさいよ」/別れぎわに、蔵原からいきなりそう言われて、わたしは面食らった。わたしにとって、蔵原惟人は、畏敬する指導理論家である。わたしよりも二つ年長であるが、十も十五も違っているように思われた。
  
 この蔵原に励まされた言葉がきっかけとなり、立野信之は小説家になる決心がついたとみられる。創刊号につづき、さっそく「戦旗」第2号に『軍隊病』を発表して、周囲から圧倒的な好評を得た。ようやく人生の方向性が定まったのは、25歳のときだった。その後、立野信之は「戦旗」の小説部門の編集委員になり、激流の時代を泳いでいくことになる。
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日本プロレタリア美術家同盟ヤップ跡.JPG
 ある日、「戦旗」の編集部に蔵原惟人がやってきて、風呂包みの中から分厚い原稿を取りだした。立野がのぞくと、題名に『一九二八・三・一五』と書かれており、そこには「文章倶楽部」や「文章世界」への投稿仲間として、あるいは「新興文学」の寄稿者として以前から記憶していた、小林多喜二Click!の名前が記されていた。立野信之は、さっそく原稿を校正し、タイトルを『一九二八年三月一五日』と修正して「戦旗」に掲載している。このあと、立野は小林多喜二といっしょに暮らすことになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:上落合460番地にあった、全日本無産者芸術連盟(ナップ)の本部跡(左手)。
◆写真中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる上落合502番地界隈。国際文化研究所があり、立野信之や小川信一(大河内信威)、山岸しづえ(河原崎しづ江)、蔵原惟人らが暮らしていた。は、国際文化研究所跡(左手)の現状。
◆写真中下は、1928年(昭和3)5月に上落合で発刊された「戦旗」創刊号()と、同年11月に発刊された「国際文化」創刊号()。下左は、ソ連から帰国後の1928年(昭和3)に制作された永田一脩『<プラウダ>を持つ蔵原惟人』。下右は、1962年(昭和37)に出版された立野信之『青春物語・その時代と人間像』(河出書房新社)。
◆写真下は、ナップ再編により1929年(昭和4)2月10日に浅草信愛会館で開かれた日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の設立大会。壇上は議長・藤森成吉と書記・猪野省三で、左手には臨検する警官が3名写っている。翌年のナルプ第2回大会では、議長に江口渙と中央委員には小林多喜二が選出されている。ナルプ本部は、ナップと同様に上落合460番地に置かれていた。は、上落合429番地の日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)跡の現状。

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