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富士の裾野から東京回顧をする曾宮一念。 [気になる下落合]

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 戦争中、下落合623番地のアトリエClick!から静岡県の吉原町に疎開し、そのあと同県富士宮に転居した曾宮一念Click!は、緑内障の進行とともに徐々に絵画の制作から離れていく。1959年(昭和34)に右目を失明し、1965年(昭和40)には視力障害を理由に国画会を退会、1971年(昭和46)には両目を失明し画家を廃業している。
 そのぶん、戦前から継続している文筆活動は旺盛につづけており、次々とエッセイ集や詩集を刊行している。こちらでも引用する機会が多い、『東京回顧』(創文社)は国画会を退会したあと1967年(昭和42)に刊行され、『白樺の杖』(木耳社)は完全失明後の1972年(昭和47)に、『武蔵野挽歌』(文京書房)は1985年(昭和60)に出版されている。失明してからの曾宮一念は、故郷・東京での暮らしを回顧することが多かったようで、これらのエッセイ集には必ず下落合時代や学生時代の情景が描かれている。
 『白樺の杖』(1972年)には、とかく晩年の病気や諦念のため気弱になり、謙虚で無欲なキリストのようになってしまった中村彝Click!を「神聖化」するのではなく、彼が本来もつ鼻っ柱の強さや傍若無人さ、わがままでひとりよがりで独善的な性格を美化せずに、そのまま隠さずリアルに描いている。陸軍の幼年学校時代、中村彝は行軍の演習中に社(やしろ)の鳥居に向け立ち小便したのを、ある日、下落合のアトリエで突然フッと思い出して、宿痾の結核はそのバチが当たったのだと気に病んでいる。さっそく立ち小便をした道了権現社へ、岡崎キイClick!を派遣して謝罪させている。
 この道了権現社だが、名古屋の陸軍地方幼年学校の周辺に道了権現社は見あたらないので、中村彝が東京へもどった市谷本村町の陸軍中央幼年学校時代のエピソードだろうか。岡崎キイを、わざわざ名古屋まで謝罪にいかせたとは思えないので、その後すぐに退校した市谷の幼年学校での出来事のように思われる。すると、行軍演習で出向いた先は、本郷から駒込あたりにかけての東京近郊なのだろう。岡崎キイが謝罪にいかされたのは、本郷区駒込追分町63番地にあった道了権現社だと思われる。
 『白樺の杖』には、詩も何篇か収められているが、その中には下落合で近所Click!だった佐伯祐三Click!も登場している。同書の詩「断章Ⅲ」から、最後の一節を引用してみよう。
  初夏の晴れた日 麦畑でゴッホが描いていると
  近付いた死神が筆をとって
  青空に幾つも大きな鳥をとばした
    *
  佐伯の煉瓦工場が出来かけた時
  死神は煉瓦の隙間に血をにじませ
  人焼く烟の渦を描かせた
 曾宮一念は、日本橋浜町Click!の生まれなので大川端での思い出や、下落合1296番地の秋艸堂人・会津八一Click!が英語教師で教頭をつとめていた早稲田中学校Click!時代のエピソードも、エッセイにはしばしば登場している。この師弟関係は後年になると逆転し、曾宮一念が会津八一の絵画教師をつとめている。そんな時代の一節を、同書から引用してみよう。
  
 中学生から画の学生になった明治末、大正初年まだ稲穂の畦を歩いて画を描いた早稲田田圃で「また家が出来る。工場に成った」と自分の持物が削られるような惜しさを覚えた。その頃は落合川も澄んで釣りも出来、泳ぐことも出来た。水源の井の頭と三宝寺の池は鬱蒼とした大杉の間に湧泉をたたえていた。昭和の戦後、この川端の路を歩く間、臭気でたまらなかった。武蔵野の畑に点在した肥溜は無くなり、人家の手洗いも水洗になったが、もと澄んで川底の緑の藻が美しかった落合川は肥溜より遥かにひどい悪臭を、空け放しのままにされている。(中略) 私が中学生の時、早稲田は地名通り秋に稲穂がそよいだ。野川の底に水草が透いて見えた。大正になって田圃が日を追って無くなるのを悲しんだ。戦後ここの川沿いは悪臭で歩けない。
  
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 この文章の中に出てくる「落合川」や「野川」は、旧・神田上水(1966年より神田川)のことで、林芙美子Click!が随筆に書いている「落合川」Click!=妙正寺川のことではない。この落合地域を流れる旧・神田上水のことを「落合川」と呼ぶケースは曾宮一念に限らず、もともと下落合に実家があった小島善太郎Click!をはじめ、他の落合在住者の証言(資料)でもしばしば目にするが、妙正寺川のことを「落合川」と呼んでいるのは、林芙美子Click!以外は知らない。彼女は地元の人たちが話すのを聞いて、なにか早合点し川筋の勘ちがいをしているような気がしている。曾宮一念がこのエッセイを書いた1970年(昭和45)前後、日本は全国的に高度経済成長が産みだしたひずみ=「公害」の被害で埋まり、日々各地で公害訴訟がニュースになるような時代だった。
 1994年(平成6)12月、最後まで執筆活動をつづけた曾宮一念は101歳で死去したが、あと15年ほど長生きしたなら、現在の神田川Click!を「見て」どのように感じただろうか。川底には鮮やかなグリーンの水草が揺れ、アユやタナゴ、ヨシノボリ、ウナギ、フナなどの魚が棲息Click!し、トンボのヤゴなどの水生昆虫を捕まえに子どもたちが川へ入り、毎年夏になると遊泳教室が開かれる神田川は、もはや田園に囲まれた明治期の風情はどこにもないけれど、曾宮一念は「ほうほう」とそれなりに喜びそうな気がするのだが……。彼の故郷の日本橋区を流れる日本橋川Click!大川Click!では、秋になるとサケの遡上が確認されている。
  
 私の在学した早稲田中学の構内に小川が流れていて、一年生の教室はこの川を隔てて青物市場があって、ちょうど今頃(十二月中)は大根をこの川で毎日洗っていた。私は窓から大根洗いに見とれては、先生に注意された。朝一時間目の体操には駆け足で一廻りさせられた。五分も駆けると枯田に出て面影橋という木橋の所で十分程休ませた。川べりの枯萱の間には野菊(ヨメナ)がまだ咲きのこっていることもあった。この辺人通りが少なく、橋の上は霜で白かった。岸の内側に結晶していた霜柱を見ていると、川に一塊り落ちた。それが暫く溶けずに流れていった。/これは六十年前の十二月か一月の朝のことで、私は大ヘン美しい物を見たように感じ、今も忘れない。その川べりは現在臭くて歩けない位に流れが汚れ、あらゆるゴミ、廃物、犬猫の死体で埋まっている。
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 早稲田中学校Click!の校庭を流れていた小川は、尾張徳川家下屋敷(戸山山荘)Click!があった戸山ヶ原Click!から旧・神田上水へ注いでいたカニ川(金川)Click!のことだ。
 そして、早稲田中学の敷地はかつて松本順Click!の邸跡であり、カニ川(金川)は同邸の庭園を流れ、のちの大隈重信邸Click!の庭園へと流れくだっていた。明治初期には、松本順邸のすぐ北側にあった蘭疇医院(のち資生堂)Click!の存在とともに、日本における本格的な西洋医学のメッカだったエリアでもある。その蘭疇医院の跡地は早大キャンパスの一部になっているが、史的な経緯を踏まえると同大に医学部がないのが不思議なくらいだ。
 昭和初期まで、東京の市街地にはあちこちに広場や日除け地があえて設けられ、残された掘割りには水が流れ、緑地が意識的に保存されていた。だが、関東大震災Click!の教訓で造られたそれら安全を担保するための防災施設や社会インフラは、戦後、まったく顧みられずに壊されつづけている。曾宮一念が書くように、「何時起るかも知れない地震を時々マスコミは警告しても、空地、原ッパ、広場がゴキブリの交尾態のような醜い建造物で埋ま」(同書「国破れて山河無し」より)ってしまった。あとは野となれ山となれClick!で、「バチがあたる」Click!のはこれからなのだろう。
 下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!は、野分や木枯しが吹きつけるかなり寒い家だったようだ。自ら「ボロ家に住んでいた」と書くアトリエは、1月下旬の野分か木枯しで雨どいを吹き飛ばされている。夜、布団にもぐって温まろうとしても、風が室内まで吹いていたらしい。寒い晩の翌朝は、よく晴れるかわりに「流しの水が凍り、戸外の霜解けは荷馬車の轍のまま凍っていた」というが、いまの下落合では室内で氷が張ることはない。それだけ、都市部での温暖化が進んでいるのだろう。
 1970年前後の時代、東京のサクラが品種を問わず次々に枯死していったのを、わたしも憶えている。東海道線に乗っていると、川崎をすぎ多摩川の六郷鉄橋をわたるころから太陽光がおかしな具合になり、まだ午前中にもかかわらず日光がスモッグにさえぎられ、都心は午後3時ぐらいの陽射しに感じられた。「花の都も先進国もあったものでは無い。亡国日本である」と書いている曾宮一念だが、ここ30~40年ぐらいで以前ほどではないにせよ、東京各地のサクラはいくらかもとどおりに回復している。彼がそれを「見た」ら、神田川の情景とともに少しはマシになったと喜ぶだろうか。
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 曾宮一念は戦前、下落合で「どんたくの会」Click!という絵画教室を二度ほど開いている。一度めは、当時親しかった鶴田吾郎Click!といっしょに教えていたが、二度めは仲たがいをしてひとりで教授していた。その授業の様子はどうだったのか、次回は山岳雑誌「アルプ」に連載された“絵画の描き方”の文章から、当時の曾宮先生の教え方を想定してみたい。おそらく、先生から生徒へと逆転した会津八一Click!も、同様の教えられ方をしているのだろう。

◆写真上:花が咲く季節になると、江戸川橋から面影橋のさらに上流まで延々と2kmほどつづく、神田川両岸の遊歩道沿いで開催される「さくらまつり」。江戸期から明治期にかけては、江戸川橋の下流から千代田城外濠の出口に架かる舩河原橋までの旧・江戸川(現・神田川)が花見の名所だったが、戦後には上流へと移動している。
◆写真中上は、山手線の鉄橋下に近い神田川の急流で、大人でも油断すると足をとられそうになる。は、神田川で水棲昆虫をつかまえる夏休みの子どもたち。は、水温が低い妙正寺川(暗渠)と神田川が落ち合う高戸橋あたり。アユなど清流の魚が遡上しており、川底には緑も鮮やかな水草が揺れている。
◆写真中下は、1991年(平成3)10月に撮影された執筆中のもうすぐ99歳になる曾宮一念。失明したため、原稿のマス目状に切り抜いたガイドボードを探りながら書きつづけている。は、1911年(明治44)の東京美術学校時代に制作した曾宮一念『工部学校』。は、早稲田大学図書館に収蔵された曾宮一念『風景』(制作年不詳)。
◆写真下は、1919年(大正8)撮影の曾宮一念が見ていた木製の面影橋(上)と同橋の現状(下)。サクラ並木がつづく橋のたもとに、地元川柳会の句だろう「大ゲサにおどろくタレント ばかばかり」。は、早稲田中学校の正門とカニ川が流れていたグラウンド。もともとは日本初の西洋医学病院「蘭疇医院」の院長である、松本順の邸敷地だった。

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