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下落合と葛ヶ谷の片岡邸は人間交差点。 [気になる下落合]

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 上落合502番地の国際文化研究所Click!には、1階に立野信之Click!が住んでいたが、すぐ近くには小川信一(大河内信威)や山岸しづえらが住み、上落合460番地の全日本無産者芸術連盟(ナップ)近くには、村山知義Click!山田清三郎Click!、藤枝丈夫、佐々木孝丸Click!林房雄Click!、江口渙、鹿地亘Click!、黒島伝治、貴司山治、武田麟太郎Click!らが暮らしていた。大正末から、1933年(昭和8)ごろにかけての情景だ。
 唯一、下落合1712番地の目白文化村Click!は第二文化村に建っていた、姻戚筋にあたる日本毛織株式会社(現・ニッケ)の工場長・片岡元彌邸Click!に家族ごと寄宿する片岡鉄兵Click!だけが、上落合のプロレタリア作家たちの借家とは異なり大邸宅に住んでいる。この邸の様子については、立野信之や小坂多喜子Click!の訪問記をご紹介しているが、150坪ほどの敷地に建設された2階建て大きな西洋館だった。
 したがって、片岡鉄兵がナップに出かけるには振り子坂Click!「矢田坂」Click!、あるいは一ノ坂Click!のいずれかの坂道を下りて中ノ道Click!(現・中井通り)を横断し、敷設されたばかりの西武電鉄Click!の線路を横切り、妙正寺川に架かる大正橋をわたって上落合の東部へと向かったのだろう。上落合に住んだ作家たちは、開通したばかりの西武線・中井駅を利用せず、相変わらず中央線の東中野駅まで歩いている。西武線のダイヤがまばらで、中央線を利用したほうが早く新宿駅へ出られたからかもしれない。
 そんな環境の中、立野信之が片岡鉄兵と連れ立って歩いていると、背後から林芙美子Click!が小走りに追いかけてきた。そのときの様子を、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された立野信之『青春物語・その時代と人間像』から引用してみよう。
  
 林芙美子も上落合付近に住んでいたいたと見えて、ある日、片岡鉄兵とわたしが歩いていたら、うしろからチビた下駄を引きずって追いかけてきて、/「わたしを『ナップ』へ入れてくださらない?」/と売り込んだ。/林芙美子は詩集を一冊出したきりで、まだ無名の域から大して出ない時分であり、それに彼女の身辺にまつわるウワサも芳ばしくなかったので、/「まあ、そのうちに……」/とか何とかいって、その場を逃れた。/それっきりで、林芙美子が「ナップ」に入っていなかったところを見ると、片岡鉄兵もわたしも彼女を積極的に推薦しなかったものと見える。
  
 このとき、林芙美子Click!は夫の手塚緑敏Click!とともに、もとは尾崎翠Click!が住んでいた上落合850番地の借家Click!で暮らしていた。立野信之が「売り込んだ」と書いているように、彼女はナップの作家になれば活字化が保証され、すぐに作家の仲間入りができるかもしれない……と考えたのだろう。当時の文学界では、いわゆる“芸術派”の作品よりもプロレタリア文学作品のほうが注目を集めており、また本の売れいきもよく、自分の小説を発表する近道だと考えたのかもしれない。
 1階に立野信之一家が住む国際文化研究所には、さまざまな人物が往来していたが、もうひとつ東中野駅前にあったバー「ユーカリ」Click!も、上落合に住む芸術家たちのたまり場になっていた。そこには、ママの娘で“ヨッチャン”と呼ばれた17~18歳ぐらいの女の子がいて、横光利一にいわせれば「東京で一番可愛らしい娘さんだ」った。バー「ユーカリ」には、村山知義Click!林房雄Click!吉行エイスケClick!らが足しげく通っていたが、立野の回想には「ユーカリ」よりも北側の上落合寄りに開店していた、吉行あぐりClick!が経営するバー「あざみ」Click!については触れられていない。
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 立野信之は、しばしば片岡鉄兵邸のもとを訪ねているが、そこでさまざまな人物たちと遭遇している。のちに「武装共産党」を組織する、田中清玄もそのひとりだった。当時、共産党は三・一五事件Click!四・一六事件Click!で壊滅状態にあり、ソ連から帰国した佐野博らとともに田中は党の再建にあたっていた。
 このときの片岡邸は、第二文化村の片岡元彌邸だろうか、それとも第二文化村の北側に接した落合町葛ヶ谷15番地の新邸だろうか。立野信之が記憶する当時の片岡邸は、「女中部屋をのぞいて階上階下で三間しかな」かったということだが、この記述を見るかぎりは葛ヶ谷15番地(現・西落合1丁目)の新邸に思える。だが、第二文化村の広い敷地に建っていた片岡邸が、そもそも棟が分離した二世帯住宅だった可能性もありそうだ。
 戦前の空中写真で確認すると、屋敷のかたちが「』」型をしており、棟によっては屋根の形状が異なっていたことがわかる。北側の棟は、瓦の載る三角屋根にオシャレな屋根裏部屋の窓と切り妻をいくつか備えた西洋館だが、南側の棟はコンクリートの現代型住宅のようにも見える。いずれにせよ、当時はもっとも売れていたプロレタリア作家である片岡鉄兵の家には、多くの人間が出入りしていた。
  
 ある日、わたしが何かの用事で下落合の片岡鉄兵宅を訪れると、玄関わきの書斎兼用の応接間に、見馴れない男客がいた。色白な、体格のいい男で、黒ぶちのロイド眼鏡をかけ、いかにも精悍そのものの、苦味走った好男子である。年は、わたしと同年配ぐらいであろうか。片岡家の応接間でもちょいちょい見かける雑誌記者とも、新聞記者とも違う。(中略) だが、それにしても再建共産党の責任者である田中が、白昼公然と、もっとも人の出入りの多い、華やかな左翼作家である片岡鉄兵の応接間で片岡と談笑しているとは?! わたしは田中の大胆な行動に舌を捲くと同時に、その粗笨な身の晒し方に賛成のできない危惧をおぼえた。もっとも田中は、あえてそうせざるを得なかったほど、金と居所に窮していたのかも知れない。
  
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 立野信之は「下落合の片岡鉄兵宅」と書いているが、下落合と葛ヶ谷との境界にある葛ヶ谷15番地の邸を、慣例的にそう呼んでいたのかもしれない。上落合側から見れば、目白崖線の丘はすべて「下落合」と呼んでいただろう。
 片岡邸にいた田中清玄は、その夜のうちに片岡から依頼された下北沢の横光利一邸にかくまわれている。そこで10日前後をすごしたあと、今度は片岡の紹介で本郷の菊富士ホテルClick!に住んでいた広津和郎Click!のもとに潜伏している。文学論をめぐり、ふだんは“芸術派”の作家とプロレタリア作家は激しい対立を繰り返していたが、このような場面では表現者同士だからか密に連携している。三・一五事件の際、村山知義が熱海にあった川端康成Click!の別荘にかくまわれていたのは有名な話だ。
 立野信之は、片岡鉄兵邸の留守番もしている。片岡一家が郷里の岡山に帰省しているときで、上落合502番地の国際文化研究所から東中野駅近くの下宿屋へ転居していたときだ。片岡鉄兵は、立野に留守番を依頼すると「オールド・パア」を1瓶置いていった。そこへ、中野重治Click!がひょっこり訪ねてきた。おそらく、カネを借りに片岡邸を訪ねたのだろう。そのときの様子を、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 中野は青い顔をしていた。/「金……ないかね」/「少しならある……どうしたんだ?」/たずねると、中野は髪の毛に手をつっこんで/「実は、おれ、四十円ばかり原稿料が入ったのを、みんな飲んじゃったんだ……おれ、酒をやめようと思う」/当時はまだ独身だった中野には、少しまとまった金が入ると、金がなくなるまで、二日でも三日でも一人で雲がくれする習癖があった。どこへ雲がくれするのか、誰にもわからない。(中略) その中野がある時、わたしに酒をあまり飲むな、という忠告の手紙をくれたことがある。戦旗社の宮本喜久雄といまは中野の細君になっている女優の原泉子とわたしの三人が、高田馬場付近を夜おそくまで飲み歩いたことが、中野の耳に入ったためであった。(中略) わたしには、中野が酒をやめる、といっても、それは信用できなかった。一晩に四十円も使ってしまったあとでは、後悔の臍を噛んでそう思ったかも知れないが、それは実行不可能である。/わたしは中野の言葉を聞き流して、オールド・パアの瓶を持ち出した。/「どうだね」/グラスに注いでやると、/「おお、いいものがあるね」/中野は前言をケロリと忘れて、すぐグラスを口へ運んだ。中野は急に上機嫌になり、例のねばりつくような話し方でペラペラ喋りながら、勝手にグラスにウイスキーを注いで飲んだ。
  
 中野重治の大酒飲みは有名だが、上落合での破天荒なエピソードをあまり聞かないところをみると、連れ合いの原泉Click!がうまくセーブしていたものだろうか。
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 ある夏の晩、上落合の会合から片岡邸にもどった立野信之は、文学少女の女中たちから「今夜は、おやすみになる部屋がありませんよ」といわれた。彼がいつも寝ていた2階の部屋には、地下で潜行をつづける女連れの田中清玄が泊っていた。相手が地下に潜った共産党の幹部なので、「オレが使ってる部屋だからどいてくれ」とはいえなかったろう。立野は女中たちに頼みこみ、なんとか3畳ほどの女中部屋の片隅で仮眠して夜を明かしている。

◆写真上:落合町葛ヶ谷15番地にあった、片岡鉄兵邸跡の現状(道路左手)。
◆写真中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる第二文化村の片岡元彌邸と葛ヶ谷の片岡鉄兵邸の位置関係。は、1936年(昭和11)に撮影された片岡元彌邸。
◆写真中下は、片岡鉄兵()と林芙美子()。は、空襲から焼け残った1947年(昭和22)の空中写真にみる片岡元彌邸。は、片岡元彌邸跡の現状(道路右手)。
◆写真下は、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲直前に撮影された葛ヶ谷15番地界隈。このあと、空襲で一帯は焼け野原となった。は、田中清玄()と中野重治()。は、1935年(昭和10)ごろに斜めフカンから撮影された第二文化村界隈。
おまけ
 近くの畑では菜の花が満開です。早咲きの牡丹も、きょうは開花していました。
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