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のべ2,000万人に感謝と江戸東京のお遊び。 [気になる下落合]

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 拙ブログのスタートから今年で17年目になるが、先週末、訪問者数がのべ2,000万人を超えた。あまりにも膨大なPVなので、もうひとつ実感が湧かずボンヤリするしかないのだが、フォロワーの多い人気のSNSやYouTuberならともかく、これほど地域色が強く非常に地味なサイトのPVにしては、やはり不思議だし少し気持ちが悪い。あまり深く考えるのはやめて、ここは落合・目白地域の好きな方、ひいては江戸東京の好きな方々が何度も訪れては、拙記事を参照してくださっている……と素直に考え、もう少し書きつづけたいと思う。
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 さて、きょうは2,000万PV記念ということで、江戸東京の“お遊び”について取りあげてみたい。美術をはじめ芸術を“遊び”ととらえるなら、「いつも、そのテーマで書いてるじゃん」ということになるけれど、今回は美術ゲームの“遊び”について。
 江戸期から武家や町人を問わず、現在までつづいてきた“お遊び”のひとつに「入札鑑定会」がある。落合・目白地域には、美術刀剣を趣味にする人たちがたくさん住んでいたので、戦前まではあちこちでこのゲームが開かれていたのではないだろうか。わたしもときどき、丁子油など手入れ道具でお世話になる、1880年(明治13)創業の下落合の刀剣店・飯田高遠堂さんは、だからこそ現在まで営業をつづけてこられたのだろう。
 いつかもご紹介Click!したけれど、入札鑑定会とは刀剣の茎(なかご:柄の中に収まる刀身の手持ち部分)の銘を隠して刀工銘を当てさせる、美術品や骨董品ではよく行われているブラインドテストのようなゲームだ。つまり、どれだけ作品について見る眼=鑑識眼があるかを試し競いあうゲームだが、裏返せば自身の観賞眼を養い育てるには最適な、実地の模擬テストのような催しでもある。
 入札鑑定会は、「判者」と呼ばれる主催者(ないしは講師のように招かれた鑑定士)が蒐集している手持ちの作品、あるいは鑑定会用に借りてきた5~10振りの作品を並べ、刀剣の柄に収まる茎の部分を白鞘のまま、あるいは刀身のみの場合は銘の切られた部分を布などで厳重に覆い隠して、参加者たちに刀工銘を当てさせるゲームだ。参加者は、出品された刀剣の体配(刀姿)や刀身(地肌)の色つや、目白(鋼)Click!の折り返し鍛錬の模様、刃文、鋩(きっさき)の形状や帽子(ぼうし:刃文の返り方)などを仔細に観察し、自分がこれだと思う刀工銘を書いて紙片を判者にわたす、すなわち入札する。
 このゲームは、江戸期には刀が好きな武家の屋敷で、あるいは刀剣が趣味の町人宅で、さらに販促プロモーションの一環として刀屋などで開かれていた。町人は、大刀を指して歩くのは幕府に禁じられていたが、自宅に所有するのは「勝手」であり、また2尺(約60.6cm)以下の脇指なら指して出歩けたので、おカネに余裕のある商人たちの間でも鑑定ゲームは急速に広まっていった。さらに、江戸も後期になると刀剣鑑賞の趣味が拡がり、武家や町人をまじえてのいわば芝居連や長唄連などと同じような同好会ができて、身分にとにわれない連中(同好会員のこと)による無礼講の鑑定・鑑賞会も開催されていた。もちろん、裕福な町人たちのもとには出来のよい刀剣作品が集まりやすくなったためで、武家がそれを鑑定会などで拝観するというアベコベの世の中になっていた。
 さて、入札鑑定会で茎(なかご)を白鞘の柄のまま提示するのは、いまや刀剣趣味の常連や上級者向けの鑑定会で、銘の部分だけ布などを巻いて隠すほうが比較的やさしく(江戸期にはこのやり方が多かったようだ)、初心者向けの鑑定会といえるだろうか。なぜなら、刀剣の茎は刀工の特徴が色濃くあらわれている部分であり、茎の形状をはじめ、そこにほどこされた化粧鑢(けしょうやすり)による鑢目のデザイン、茎尻と呼ばれる茎の先のかたち、錆(さび)のつき方(経年)などで、かなり時代や刀工を絞りこめてしまうからだ。
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 たとえば、茎のかたちが舟形(ふながた)をしており、茎尻が入山形(片山形)で化粧鑢が筋違(すじちがい)であれば、まず鎌倉期から室町期にかけての相州伝鍛冶を疑えるし、茎が鰱腹(たなごばら)形で茎尻が入山形ないしは栗尻形なら、まっ先に室町末期から江戸期にかけ伊勢桑名で鍛刀していた千子一派、中でも村正や正重、正真の系統を疑えるというように、ほぼ地域や刀工の一派(工房)をピンポイントで特定できてしまうからだ。もっとも、こんな簡単な問題は、おそらく入札鑑定会では出ないだろうが……。
 鑑定会の参加者が、判者に入札した答えが正解であれば「当(あたり)」という回答をもらえるが、「当」でない場合はハズレではなく、もう一度考え直して絞りこめるようにヒントを与えてくれる。チャンスは三度まで、つまり3回までは入札を繰り返せるが、それでも的中できなければ鑑識眼がいまだ未熟だということになってしまう。
 たとえば、入札して「同然」という回答があったとすれば、先の例でいうと「村正」と書いて判者から「同然」と回答があったなら、じゃあ同じ千子一派の作が似ている「正真」かな……と推定することができる。また、以前の記事Click!でいえば会津の「國定」と書いて「能候(よくそうろ)」となれば、これは同じ国の別の刀工一派だよということで、造りが近しい会津の「兼定」にちがいない……ということになる。あるいは、中村相馬藩の「國貞」だと入札して「通(とおり)」と回答されれば、同じ奥州街道沿いにある別の国の刀工、たとえば仙台の「正繁」あたりかな……と再考できるし、これは相州伝の「志津三郎兼氏」にそっくりなのでそう入札すると「時代違(ちがい)」という回答で、ついでに「そんな国宝に近い作品が、ここの鑑定会に出るわけないじゃん。この作品も超貴重だけどさ」と判者いわれたら、地鉄も新しいし研ぎ減りもほとんどないから四谷正宗Click!の「清麿」で再入札とか、判者との間のやりとりも楽しめるゲームなのだ。
 ただ、上記は単純にわかりやすくするために例として書いたケースで、たとえば「千子村正」なら何代の作品か、あるいは室町期の作なのか江戸期の作品なのかと、よりシビアな上級者向けの鑑定会もあることはお断りしておきたい。先のように、入札して「時代違(じだいちがい)」と回答されたら、そもそも室町期(慶長期)以前の古刀と江戸期(慶長期)以降の新刀とを取りちがえているよという意味だし、濤瀾刃だから「二代・津田助廣」だろうと入札したら「否縁(いやえん)」と回答され、「ひょっとすると越前守助廣の焼き刃を再現した江戸の水心子正秀Click!の新々刀? でも、流派が同じだとはいえないしなぁ」と、別の角度から作品を推理することができる。
 また、江戸の「石堂是一Click!」だろうと入札したら「本国能候(ほんごくにてよくそうろう)」と回答され、じゃあ近江が出自の大坂石堂か紀州石堂あたりかなというように、刀工が分派する以前の国だけは合ってるよという意味になるし、この焼き刃は「越前下坂」だと入札したら「出先能候(でさきにてよくそうろう)」という回答なので、じゃあ越前から江戸にやってきて徳川幕府お抱えになった「康継」あたりしかいないじゃんとなる。最後に、まったく見当ちがいの入札で、どうにも救いようのない鑑定結果の場合は「否(いや)」と回答され、もっと勉強しなさい……ということになる。
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 古刀や新刀、新々刀を問わず、刀剣には必ず刀工や鍛刀法(伝)、流派などの技術的な特徴(法則性)があるので、刀の体配(姿)や地鉄、鎬の造り方、刃文、帽子の返り方、樋、彫刻、茎(鑑定会で一部を見せてくれれば)などを詳しく観察し記憶すれば、1回の入札で当てられなくても3回ほど繰り返せば「当」をもらうことは困難ではない。ただし、そのためには数多くの美術館や博物館の刀剣展に通い、実物を数多く鑑賞しなければならないのは、あらゆる美術品と同様にある程度根気と積み重ねが要求される趣味だ。
 ただし、入札鑑定会ならではの弱点もある。「当」がよく出るようになると、自分にはかなり深い鑑識力や審美眼が備わった……と錯覚しがちなことだ。考えてみれば、入札鑑定会に出品される刀剣は、できるだけ特徴が出やすくわかりやすい作品をあらかじめ選んで、さまざまなレベルの愛刀家たちを集めて行われる。つまり、初心者には難しいが上級者には比較的たやすく「当」がとれるという意味では、実力が中レベルの入札者を想定して作品をそろえる傾向が見られる。換言すれば、入札鑑定会で「当」が多くなるということは、ようやく鑑定の基礎ができたぐらいに解釈しておかないと、鑑識力や審美眼がそれ以上深まらなくなってしまうというデメリットが生じてしまう。
 このデメリットは、すでに戦前から頻繁に指摘されていた課題でもある。1939年(昭和14)に岩波書店から出版された、本間順治『日本刀』から引用してみよう。
  
 これは(入札鑑定会は)興味を感じつゝ鑑定の稽古となることとして考へられたことで、慥かに益もあることであるが、現在の返答規則では学問的見地からは初学者には勧め兼ねるものがある。(中略) 個名までを信念を以て当てることは容易でないのであるが、入札刀を選ぶ楽屋の手加減と誘導的の返答の結果はさまで苦労もせずして個名までを的中することとなり、そこで宛も個名の特色を会得したかの陶酔気分になる。然し後に省れば当時は系統の特色を捉へてゐたに過ぎなかつたので、偶々知つてゐた一つの名を云つたら当つてきたと云つたやうに微苦笑的の経験が愛刀家には多いことであらう。かくして自然に系統や時代の特色をも覚える、それでもよいのかも知れぬが、自分が提案したいのは、初学者には先ず時代と系統の特色を十分に教へ、それの復習として入札鑑定でも、まづ(ママ)時代と系統のみを当てさせ、高等科の人々にのみ個名までの入札をさせ、而して時代と系統の相違には罰点を与えること、たとひ(ママ)個名は当らずともその作の出来より見て尤もと思はれるものには点を与へることである。(カッコ内引用者註)
  
 著者は「学問的見地」と書いているけれど、趣味を単に楽しむだけでなく学問・研究レベルにまで高めたいのであれば、上記のように地道に努力する姿勢がとても大切だろう。ただ、美術はどの分野も限りなく奥が深いので、最初はちょっと趣味で楽しむだけと思っていたのに、だんだんそれでは飽き足らなくなってのめりこみ、ついには専門書を片端から読みはじめる……なんてことが起きるのもまた、物好きな趣味の世界なのだ。
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 現在、全国で行われている入札鑑定会はほとんどヲジサンばかりの参加者で、若い刀女子には参加しづらいかもしれない。だから、美術館や博物館の展覧会が女子であふれるのだろうが、やはり実際に手にとり間近で観賞しないとわからないことがたくさんある。そういう女子には、刀剣鑑賞会というのが各地で開かれているので、気軽に参加してみるのも面白いだろう。実際に作品を手にとって、鋩の帽子から茎のすみずみまで観察・観賞することができる。いまどきの女子の体格や筋力であれば、大刀の重さもそれほど苦にならないだろう。ただし、あらかじめ刀の扱い方をきちんと勉強して、くれぐれもケガをしませんように。アニメや時代劇のように刀が扱えるなどと思っていては、大まちがいを犯すだろう。

◆写真上:目白通り沿いの下落合にある、今年で創業141年の刀剣店「飯田高遠堂」。
◆写真中上は、舟形の茎が特徴的な室町末期の「相州正廣」。は、鰱腹形の茎ですぐわかる相州伝系で伊勢桑名に住んだ千子一派の初代「村正」。芝居や講談で村正は有名だが、美術刀剣としての価値はあまり高くない。は、美濃鍛冶の後代「志津兼氏」。
◆写真中下は、浜辺にうねり寄せる波を連想させる濤瀾刃で有名な大坂の「津田越前守助廣」(二代助廣)。銘が近衛草書体で丸っこくなっているので、1674年(延宝2)以降に制作された「丸津田」と呼ばれる作品。は、備前伝の互(ぐ)の目丁子乱れ刃が特徴的な江戸赤坂に住んだ初代「石堂是一」。は、江戸幕府の抱え刀工だった越前下坂が故郷の三代「越前康継」。幕府御用のため、茎に葵紋を切ることが許されていた。
◆写真下は、入札鑑定会の会場で茎の白鞘が外されないまま並べられた作品類。は、戦前の代表的な刀剣書籍で、1939年(昭和14)に岩波書店から出版された本間順治『日本刀』()と、1934年(昭和9)に雄山閣から出版された『日本刀講座』(雄山閣編・全20巻/)。は、若い刀女子にも気軽に参加できる刀剣鑑賞会。
おまけ
 ケキョケキョばかりだった下落合のウグイスが、ようやく上手にさえずるようになった。

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高田馬場仮駅は二度設置されている。 [気になる下落合]

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 西武鉄道村山線(地元や当時の新聞雑誌では通称・西武電鉄Click!と呼ばれている)が、陸軍の鉄道連隊Click!の演習によって敷設されたあと、しばらくの間は山手線の線路土手の西側下にあった高田馬場仮駅Click!が公的には起点(終点)だったことは、これまでにも記事に何度か取りあげてきた。高田馬場仮駅からは、木製の長い連絡桟橋Click!が旧・神田上水(1966年より神田川)をまたぎ、早稲田通りまで延々とつづいていた。また、物流や操車の観点からすると、氷川明神前の下落合904番地にあった初代・下落合駅Click!が、実質上の起点(終点)だったことも、地元の証言などもまじえながら何度か記事にしている。
 そして、山手線をくぐるガードClick!が竣工すると、西武線は省線・高田馬場駅ホームの東側へと乗り入れている……と漫然と考えてきた。さまざまな資料や書籍を参照すると、いずれもそのような経緯や表現で書かれている。ところが、これがまちがいだったのだ。山手線をくぐるガードが完成しても、省線・高田馬場駅のホームに隣接する西武線のホーム工事、および早稲田通りをまたぐ鉄橋(陸橋)の工事は完成しておらず、西武鉄道は再び第二の仮駅を別の場所へ建設している。今度は山手線の線路土手の東側、早稲田通りの手前にあたる位置に第二の高田馬場仮駅が設置された。
 これは、西武線が敷設された当時、鉄道第一連隊の本部が置かれていた野方町の須藤家(野方町江古田1522番地)の証言を見つけ、わたしも初めて知った事実だ。鉄道第一連隊の敷設演習本部(司令部)には、指揮官の少佐をはじめ、大尉が2名、副官の中尉が1名、当番兵が4名の計8名が詰めていた。そのほかの下士官や兵士たちは、本部の家屋では収容できないので、周辺の寺院や民家に分散して宿泊している。朝鮮での演習Click!につづき、西武線の敷設演習で使用された新兵器=「軌条敷設器」Click!を発明した工兵曹長・笠原治長も、もちろん須藤家の本部付近に駐屯していただろう。
 そして、もうひとつの演習本部は田無町(のち田無市本町3丁目)の増田家に置かれ、同様の構成で士官や兵たちが同家に詰めていたとみられる。国立公文書館の資料を参照すると、西武線の敷設演習は1926年(大正15)の夏から秋にかけ鉄道第一連隊(千葉)と鉄道第二連隊(津田沼)による、朝鮮鉄道の鎮昌線で行われた軌条敷設の合同演習の延長戦的な位置づけで実施されており、田無町の演習本部には鉄道第二連隊の司令部が詰めていた可能性が高い。また、田無町の本部には、中華民国の武官が滞在して演習を見学しており、帰国時には記念にと本部となった増田家へ軸画をプレゼントしている。
 1926年(大正15)の暮れ近く、田無町の増田家を本部にした鉄道連隊の演習では、レールを現在の東村山駅付近から田無駅付近まで敷設するのに8日間かかっている。障害物があまりないとはいえ、約14kmほどの線路敷設演習を8日で結了したのは、鉄道連隊にとってはかなりの好成績だったのではないだろうか。
 一方、野方町の須藤家を本部にした鉄道第一連隊は、井荻駅付近から下落合駅(現在地ではなく下落合氷川明神社前駅Click!)、そして高田馬場仮駅付近までの演習も容易だったとみえ、石神井町から井荻町、野方町、そして落合町までの約8~9kmほどを1週間足らずで完了し、部隊は7日目に省線・高田馬場駅の北方200mの線路土手(西側)下に到達している。電車用の電柱および電力線は、軌条(レール)が敷設されるそばから順に設置されており、その後は1927年(昭和2)4月の開業まで西武鉄道によって各駅舎やホームが建設されていった。
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 わたしは、鉄道連隊による井荻あたりから下落合までのレール敷設リードタイムを、朝鮮・鎮昌線における演習スピードから換算して、以前の記事では2~3週間ほどだったのではないかと想定したが、正味わずか7日間で結了している。すなわち、東村山から下落合まで全長23km強ほどの距離を、途中に目立った難所がなかったとはいえのべ15日間、わずか2週間強で結了していることになるのだ。その工程では、笠原工兵曹長の考案した「軌条敷設器」が、大きな威力を発揮したのかもしれない。
 おそらく、1926年(大正15)10月に朝鮮の鎮昌線敷設演習からもどった千葉鉄道第一連隊と津田沼鉄道第二連隊は、1ヶ月ほどの休息期間をへたあと、同年12月には西武線の敷設演習を開始し、東村山-下落合間約23kmの工事をのべ2週間ほどで完了、すなわち年内に演習工事を結了して、翌1927年(昭和2)1月13日に近衛師団長・津野一輔から陸軍大臣・宇垣一成あてに、「軌条敷設器」を実際に西武鉄道演習で投入してみた実証実験の報告書、「鉄道敷設器材審査採用ノ件申請」を提出しているのだとみられる。
 1927年(昭和2)4月16日に西武線が開業する以前にもかかわらず、線路上を貨物列車が頻繁に往来するのを落合住民が目撃しているが、村山貯水池建設のために東村山駅の物流拠点Click!に集積されていた、秩父産のセメントClick!や多摩川で採掘した砂利Click!を、のちに陸軍のコンクリート建築が林立することになる戸山ヶ原Click!へせっせと運びこんでいたことは、何度かこちらでも指摘してきたとおりだ。その際、物流の拠点として使われた駅が、旧・神田上水に脆弱な木製の連絡桟橋をわたした高田馬場仮駅ではなく、鉄筋コンクリートの頑強な田島橋を利用できる氷川社前の下落合駅だったことも書いた。
 また、電車についても高田馬場仮駅ではなく氷川社前の下落合駅が、実質上の起点(終点)になっていた時期も確かにあったようだ。それがなぜなのかは、地元の証言だけで裏づけとなる資料がいまだ見つからないが、高田馬場仮駅へと急激にカーブする線路上で、何度か電車の脱線事故が起きていたのではないかと想定している。高田馬場仮駅のホームへ入る直前、その入線の鋭角はわずかなスピード超過でも脱線の危険性が高かったとみられる。
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 さて、高田馬場仮駅の長大な木製桟橋を、実際に歩いてわたった方の体験談が残っている。記録を残したのは、鉄道第一連隊の司令部になっていた須藤家の主人で、西武線の開業時に1番電車へ招待されたのかもしれない。いかにも臨時で構築した危なっかしい連絡桟橋の様子を、1984年(昭和59)に発行された『江古田今昔』(中野区江古田地域センター)収録の、須藤亮作「西武鉄道の開通」から引用してみよう。ちなみに、仮駅のホーム自体も、すぐに撤去できるよう木造だったと思われる。
  
 起点になる高田馬場の仮停車場は山手線の土手下で神田川の北側に設置され、土手の下部を土手に沿って板張りの歩道を設け高田馬場駅前(現今の早稲田通り)へ連絡した。板張りの通路をガタガタ音をたてて歩いたのも思い出の一つである。/数年の後山手線の土手をガードで東側へ抜け、土手に沿って南折し神田川を鉄橋で渡り山手線に平行して早稲田通りまで鉄道が布設され仮停車場も移行された。(赤文字引用者註)
  
 著者もさりげなく書いているように、山手線をくぐるガードを抜け旧・神田上水の鉄橋をわたって、すぐに省線・高田馬場駅へ乗り入れた……のではなく、早稲田通りの手前まで線路が延長された時点で、省線・高田馬場駅のホームと並ぶ正式な西武高田馬場駅と、早稲田通りをまたぐ鉄橋が竣工待ちの状態になっていたのだ。したがって、山手線の線路土手東側に再び仮駅を設置しなければならず、「仮停車場も移行」せざるをえなくなった。おそらく、第二の仮駅が掲載された地図も、また当時の証言もほとんど残っていないところをみると、その期間は数ヶ月単位で、それほど長くはなかったのだろう。
 この第二の高田馬場仮駅が、山手線の線路土手東側のどこに設置されていたのかは、なんら手がかりがないので不明なのだけれど、西武線が高い位置にある省線・高田馬場駅のホームと同じ高さへ乗り入れる都合から、一定の高度を確保するために線路土手が築かれているが、第二の仮駅は早稲田通りの手前の線路土手上に設置されていたのかもしれない。利用者は、やはり臨時の木造ホームに降りると、早稲田通りへ出るために木製の長い階段を伝わって下りたものだろうか。このあと、1928年(昭和3)春にようやく早稲田通りをまたぐ鉄橋が完成し、省線・高田馬場駅のホームと並んだ西武高田馬場駅が開業することになる。
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 当時、早稲田大学の織田幹雄選手が陸上の三段跳びの日本新記録を次々と塗りかえており、全国で三段跳びのブームが起きていたが、地元住民の中には西武鉄道の高田馬場駅工事、すなわち第一高田馬場仮駅(ホップ)→第二高田馬場仮駅(ステップ)→正式な西武高田馬場駅(ジャンプ)という建設フェーズを、「高田馬場駅の三段跳び」と称してことさら記憶にとどめた人たちがいた。なぜ、わざわざ設置されていた第一高田馬場仮駅を解体して、仮駅を二度も建設しなければならなかったのかは、第一高田馬場駅の急カーブで起きたとみられる電車の脱線事故の防止対策と、どこかでつながる(切実な)課題だったのかもしれない。

◆写真上:第二高田馬場仮駅があった、早稲田通り手前の西武線の線路土手界隈。
◆写真中上は、1928年(昭和3)の「落合町市街図」にみる第一高田馬場仮駅と早稲田通りまでつづく長い木製の連絡桟橋。は、1927年(昭和2)に陸軍士官学校の学生が演習で作成した「落合町」1/8,000地図。第一高田馬場仮駅と、土手沿いにつづく連絡桟橋も採取されている。は、第一高田馬場仮駅があったあたりの現状。
◆写真中下は、開業直後の西武線の様子。上高田から東を向いて撮影されており、遠景の丘陵は下落合の目白崖線だとみられる。は、上高田を通る西武線。
◆写真下は、下落合西部の妙正寺川鉄橋をわたる昭和初期の西武線。は、山手線ガードから下落合側へ抜ける1950年(昭和25)ごろの西武線。第二高田馬場仮駅は、右手の線路つづきで撮影者の背後あたりにあったと思われる。は、同山手線ガードの現状。

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村山知義が好物のウナギとタヌキ。 [気になる下落合]

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 村山知義Click!は、小学生だった10歳のときに父親を亡くし、家の働き手がいなくなって家運が急速に傾いている。したがって、彼の好物だった鰻丼を食べる機会は減り、誕生日とかクリスマスなどの記念日を除いては口に入らなくなった。
 すると、箱に入れられたウナギだけの蒲焼きを、なんとなくもったいなく感じるようになり、蒲焼きの移り香と甘辛ダレが沁みこんだ飯がないと落ち着かないようになった。ごくたまに家で鰻丼をとったりすると、蒲焼きの下にある飯に自宅の残り飯をつぎ足しては、うまく甘辛ダレを混ぜ合わせて食べるのが、村山少年の無上の楽しみになっている。
 1947年(昭和22)に桜井書店から出版された、村山知義『随筆集/亡き妻に』Click!収録の「鰻と時代」から引用してみよう。
  
 子供の時から僕の大好物は鰻だつた。鰻丼とさへ聞けば、僕はもう上機嫌だ。やれ大和田の、やれ竹葉のと、面倒なことは云はない。鰻と名のつくものが蒲焼にしてさへあれば、もうそれで舌がとろけさうになるのだ。(ところで、こんなに大事な「うなどん」といふ言葉は、僕の自信ある発音に依ればウナのウにアクセントがあり、至急電報のウナ、あのウナのやうに発音するのだが、これだけは僕の知つてゐるどの江戸ツ子に聞いてみても一笑に附される。皆そりや極つてる、ナにアクセントがあるのだといふ。そしてさう云ふ彼等は江戸も下町生れのものだ。だから、山の手とは違ふのだらうと思つてゐるのだが――)
  
 わたしも、もちろん「ウドン」であり、「ナドン」とは発音しない。村山知義は神田末広町(現・千代田区外神田)の生まれだが、すぐに物心つくころから静岡県の沼津や東京の大森、日暮里(谷中)などへせわしなく転居しているので、そのいずれかの地域のイントネーションから影響を受けたものだろうか。
 彼は「山の手とは違ふのだろう思つてゐる」と書いているが、東京の乃手Click!でもまちがいなく「ウドン」だろう。村山家の家庭内だけで発音されていた、局地限定の「ナドン」ではないだろうか。もっとも、わたしが知らないだけで大森あるいは谷中のどちらかでは、ほんとうに「ナドン」と発音するのだろうか?
 村山知義は、特高Click!に逮捕されたあと未決のまま拘置所で食うウナギも、通常より美味に感じていたようだ。1940年(昭和15)8月、新協劇団の公演中に滝沢修Click!千田是也Click!久保守Click!らと三度めに検挙された彼は、判決が出るまでの1941年(昭和16)2月から1942年(昭和17)4月まで拘置所にぶちこまれていた。裁判の進捗を遅らせる、明らかに違法な「代用監獄」だとみられるが、特高は検挙や取り調べで人殺しをしても罰せられないような状況(全国で約200名が虐殺され1500名以上が拷問などで「獄中死」している)になっていたので、そのぐらいのことは問題にもならなかったのだろう。
 豊多摩刑務所Click!とはちがい、拘置所では「自弁」といってカネさえあれば差入屋へ弁当を注文することができた。戦時中であり、拘置所の食事だけでは確実に栄養失調になってしまうため、80銭を出して「中弁」を注文すると、たまに小さなウナギの蒲焼き(の欠片)が入っていた。脂肪のない、まるでドジョウのように細いウナギだったが、「何とうまかつたことだらう」と書いている。
 もっとも、共産主義や社会主義、自由主義、民主主義を問わず、思想犯への嫌がらせは拘置所内にもあり、「自弁」の申請が聞こえないふりをして注文させない、性悪な看守たちもけっこういたらしい。このあたり、急病人が出て医者を呼ぶよう申請しても聞こえないふりをしてシカトする、スターリニズムClick!下のソ連のラーゲリ(強制収容所)にいた看守たちとそっくりだ。拘置所でも監獄でも、栄養失調で死んでくれたほうが面倒がなく、手間がかからずにいいというような上部の意向を、看守たちが率先して“忖度”していたものだろうか。
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 戦時中における官公庁の腐敗ぶりは、拘置所に出入りする「自弁」の差入屋にからめて村山も記録している。食糧はもちろん、世の中すべての物品が配給制Click!になっていた戦時中、統制価格を越えて物品を販売するのを取り締まる、「暴利取締令」が施行されていた。ところが、「自弁」の差入屋は市価の3倍ほどの値段で平然と販売していた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 その未決拘置中、昭和十六年の四月に母が死んだので、葬式の当日、朝九時からその夕方の五時迄、外に出る事を許され、僕は家に帰つて母の棺の前に立つて、弔問者に礼をした。その時の昼飯に、うまくて安いので有名な近所の源氏といふ鰻屋から鰻丼が取り寄せられた。それは同じ八十銭だが差入屋のとは全く違つて、脂の乗つた鰻だつたが、一ト口でもう食べたくなかつた。しかしこの二つの鰻飯をくらべて見ると、あの当時の拘置所の差入屋は一般市価の三倍位の暴利をむさぼつてゐたことが明らかだ。暴利取締令違反の犯人を入れてをく拘置所の差入屋がこれだつたのだから、あの時代の官庁関係の紊乱は言外の沙汰であつたわけだ。
  
 もちろん、差入屋が暴利のすべてをそのままポケットに入れていたわけではなく、そのうちの少なからぬ割合の金銭を、拘置所の官吏たちが賄賂として受けとり、私腹をこやしていたのはまちがいないだろう。
 文中に登場する「源氏」は、1941年(昭和16)の当時は上落合の鶏鳴坂Click!沿い、早稲田通りに近い位置で大正期から営業していたウナギ屋だった。村山知義のアトリエから、西へ直線距離で340mほどのところ(上落合1丁目540番地あたり)にあったが、空襲で上落合が壊滅Click!した戦後は、上落合2丁目635番地(現・上落合3丁目)の上落合銀座通りへと移転し、現在も営業をつづけている。
 「鰻どころではなく、築地小劇場も宮川もM座も源氏も僕自身の家も、何もかも焼けてしまった」と絶望的に書いているので、「鰻と時代」が書かれた1946年(昭和21)2月の時点では、子どものころからのファンだったらしい根岸の「宮川」Click!も上落合の「源氏」も、いまだ復興していなかったのだろう。葬儀では、せっかく脂の乗った「源氏」の鰻丼が出たが、村山知義は母を喪った悲しみばかりで食べることができなかった。
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 さて、村山知義が生まれた神田区末広町34番地の家は、神田明神Click!裏(境内東側)の石段(男坂)を下りて御成街道(中山道のこと)へと抜ける途中にあった。その古い家には、タヌキとイタチが棲みついていたようだ。イタチは、池の金魚をとって食べてしまうので子ども心に凄惨なイメージをもったようだが、さすがに現在ではタヌキはともかく、神田にイタチは棲息していないだろう。タヌキは先年、新宿駅でも目撃されるぐらいだから、神田のどこに棲んでいてもなんら不思議はない。
 村山知義の連れ合い村山籌子Click!の故郷・高松は、町じゅうがタヌキだらけの土地柄だったようだ。彼女の実家の庭にも、「豆さん」と名づけられたタヌキが棲んでおり、5尺(約152cm)もある大きなタヌキの焼き物(おそらく信楽焼だろう)の腹に開いた穴を棲み家にしている。毎日、縁の下に赤飯や油揚げなどをそなえておくと、翌朝にはきれいになくなっていたらしい。「高松といふところは(中略)、恐ろしく狸が群集してゐたところ」と書いているので、彼が妻の実家へ遊びにいくと、よくタヌキの伝説やウワサ話を耳にし、実際にあちこちで目撃していたのかもしれない。
 タヌキが「群集」していたせいか、高松の土産ものに伝説にちなんだ「張り子の禿狸」というのがあり、村山知義はさっそく色分けされた何種類かの作品を蒐集している。高松の郷土玩具になっている「屋島禿狸」は、佐渡島の「団三郎狸」と淡路島の「芝右衛門狸」と並び「日本三狸」と呼ばれるほど有名だ。だが、これら「禿狸」コレクションも1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で、上落合のアトリエとともに灰になってしまった。「この廃墟の中から、再び狸の伝説が蘇へつてくるであらうか? それともB29の爆弾と一緒に滅亡してしまふだらうか」と書いている。
 彼が焦土と化した上落合に立ったとしても、もう少し近くの森や寺社の境内、あるいは焼け残った下落合や西落合の住宅街などを注意ぶかく観察していれば、落合地域のあちこちでタヌキの姿を目撃することができただろう。すでにイタチは絶滅していたかもしれないが、屋根裏に棲み電線をわたるハクビシンは見つけられたかもしれない。
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 村山知義はこのエッセイの冒頭で、「敗戦を契機として、今迄立派なものや、美しいものやに化けてゐたたくさんの狸といたちが、化の皮を剥がれた」と書きだしている。このような軍国主義者や「亡国」論者、エセ「ナショナリスト」や国家を滅亡させたエセ「愛国者」たちは絶滅してほしいものだが、下落合(上落合や西落合にも?)に生息するタヌキたちには、いつまでも生き残っていてほしい。ちなみに、わたしの家の周囲には毎年3~4頭のタヌキたちが姿を見せるが、彼が書いているように決して「化け」ることなどない。w

◆写真上:古くから上落合で営業していた、村山知義が好物の鰻屋「源氏」の蒲焼き。
◆写真中上は、戦後は上落合銀座通りへ移った「源氏」の現状。は、空襲直前の1945年(昭和20)4月6日に撮影された空中写真にみる鶏鳴坂とその周辺。は、村山知義が谷中時代からの贔屓店だったとみられる根岸「宮川」の蒲焼き。
◆写真中下:ブラブラ散歩で立ち寄る、落合地域の周辺にある鰻屋。からへ、南長崎の「鰻家」、雑司ヶ谷の「江戸一」、高田馬場の「愛川」と「伊豆栄」、馬場下町の「すゞ金」。COVID-19禍のせいで、休業または出前と持ち帰りだけのところも多い。
◆写真下は、神田明神脇にあるバッケ階段(男坂)。は、下落合のタヌキたち。
おまけ
 うちのヤマネコは、普段はこんなありさまだが(ジャマ!)、タヌキを見ると咆哮を発して敵愾心をMAXにする。御留山にいた小さいころ、最大の競合相手だったのだろうか。
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落合・目白地域に集った名刀たち。 [気になる下落合]

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 少し前、落合・目白地域にあった邸の、武具蔵に収蔵されていた美術刀剣について、その作品や技術の継承にからめ記事Click!を書いた。戦後、これらの邸にあった作品は各地の博物館や美術館に寄贈されるか、あるいは手放されて離散してしまった作品、戦時中に空襲で「焼け身」となったもの、さらに戦後は行方不明の作品(GHQにより持ち去られたか廃棄処分された)などなど、さまざまな経緯をへて現在にいたっている。
 上記の中で「焼け身」とは、火災で焼けた刀剣のことで、一度火をくぐったことにより当初の焼き刃(刃文)が消滅してしまった作品のことだ。もう一度、焼き入れの段階からやり直し再刃(再び刃をつけること)を施すことは可能だが、オリジナルの刃文とはまったく異なってしまうため、美術的な価値は大きく低下する。古くは1614年(慶長19)の大坂夏の陣で、大阪城内にあった重要な刀剣類がすべて焼け身になってしまい、江戸幕府お抱えの刀工・越前康継が焼き直して再刃したエピソードは有名だが、作品の史的な資料価値はともかく、美術的な価値はあまりなくなってしまった。
 明治以降では、関東大震災Click!や戦時中の東京大空襲Click!山手大空襲Click!などでも焼け身の作品が出ているが、史的な価値の高いものは再刃されて現代まで伝わっている。したがって、落合・目白地域の各邸に保存されていた刀剣作品を正確に把握・規定するためには、戦前の収蔵品リスト、すなわち大正期から昭和初期にかけて登録されていた刀剣目録を参照する必要がある。それには、当時の「国宝」に指定された刀剣リストや、いわゆる「名物帖」と呼ばれる美術的にも史的資料としても価値の高い刀剣リストから、落合・目白地域に残る作品を総ざらえするのが手っとり早いだろう。
 ただし、戦前に指定されていた「国宝」と、戦後に規定されている国宝の価値とは大きく異なる。戦後つまり現代の規定は、あくまでも美術的かつ学術的にも優れて重要な作品が指定されているが、戦前の「国宝」には皇国史観Click!が通底しており、美術的にも学術的にもたいしたことのない作品が、天皇がらみというだけで「国宝」に指定されるなど、きわめて恣意的で政治的かつ国家主義的なイデオロギー要素が強いことに留意したい。事実、これは刀剣作品に限らないが戦前は「国宝」だったものの、戦後になると重要文化財に格下げされたり、重文にさえ指定されない作品も決して少なくない。
 さて、まず高田老松町の細川邸から見ていこう。細川護立Click!は、刀剣の名物蒐集が趣味だったせいか、今日でも価値のきわめて高い作品群が収蔵されていた。
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 もちろん、上記のリストは細川家にあった刀剣作品のほんの一部だが、代表的なものを挙げただけでも国宝クラスの作品が収蔵されていたのがわかる。
 茎(なかご)銘の中に「磨上」とあるのは、江戸期の規定に合わせて長寸の刀を磨り上げた(短縮した)という意味で、「光徳」は室町末期から江戸初期にかけて活躍した刀剣の鑑定家であり、研師でもある本阿弥光徳のことだ。つまり、備前長船長光の長寸な刀を光徳自身が磨り上げ、短くなったぶん茎の銘がなくなってしまうので、光徳が花押とともに金象嵌で銘を保証している……という意味になる。細川家の蒐集品は、鎌倉期から南北朝・室町期にかけ、刀工たちも相模から越中、山城、備前、豊後と全国におよび、蒐集のスケールが大きかったことをうかがわせる。
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 つづいて、下落合の近衛篤麿・文麿邸には、鎌倉期の山城と備前鍛冶の作品があった。
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 藤四郎吉光は、鎌倉中期に京の粟田口で鍛刀していた鍛冶で、短刀づくりの名人だった。ほかのふた口は備前鍛冶で、いわゆる“古備前”に分類される作品だ。特に、美術刀剣としては地味だが、仁治期に生きた秀近の太刀があるのがめずらしい。ただし、近衛家の蔵刀はこれだけではなかっただろう。近衛篤麿Click!が死去したあと、近衛文麿Click!が1918年(大正7)に売り立てを行なっているが、その売立入札目録Click!を見ると多彩な作品が並んでいる。その中で、上記の作品だけは入札目録には掲載しなかったようだ。
 つづいて、下落合の相馬孟胤・惠胤邸Click!には、以前にも一度ご紹介Click!しているが、慶長期に活躍した新刀の祖・埋忠明寿の、唯一残された太刀が眠っていた。
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 埋忠明寿は、室町期以前の古刀時代から江戸期の新刀時代への橋わたしをした刀工(金工師でもあった)であり、堀川國廣とともに美術刀剣史でもきわめて重要な存在だ。茎には「他江不可渡之(他所へこの太刀を渡すべからず)」と彫られているので、明寿にとって同作は快心の出来だったのだろう。それが、どういう経緯で相馬家に伝来したものかは不明だが、明寿の大作としてきわめて重要な作品となっている。
 つづいて、下落合の津軽義孝邸には、鎌倉期の高名な金象嵌正宗が伝承されている。
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 通称「津軽正宗」としてあまりにも有名な本作だが、室町期には武田家に江戸期には徳川家に仕えた城和泉守昌茂が持っていたが、早い時期に津軽家へと移り、江戸期を通じて同家で保存されていた。「本阿」とは上記の本阿弥光徳のことで、同作も彼が正宗と折り紙をつけ磨り上げている。現在は東京国立博物館にあり、いつでも観賞することができる。
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 次に、下落合の西坂にあった徳川義恕邸には、鎌倉期の長船長光が伝承されていた。
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 徳川家に数点伝わる長光だが、同作は本能寺の変のあと明智光秀が安土城から持ちだし、家臣の津田重久に与えた「津田長光」とは別口だろう。尾張徳川家の流れをくむ西坂・徳川家だが、戦後は徳川美術館に収蔵されているのかもしれない。
 さて、下落合の林泉園住宅地Click!を開発した東邦電力Click!松永安左衛門邸Click!にも、鎌倉期に備前で活躍した刀工の作品が所蔵されている。
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 銘の「一」は刀工名ではなく、鎌倉末期に備前長船で鍛刀していた一文字派工房の「商標」のような切り銘だ。匂い本位で丁子刃を焼いた華麗な刃文は、どちらかといえば武家よりも京の公家に人気が高かったようだが、吉岡一文字派や福岡一文字派など「一」を刻む刀工集団が複数あり、松永家にあった作品がいずれの工房作かは不明だ。
 目白町4丁目41~42番地に徳川義親Click!が転居してくる以前、住所が雑司ヶ谷旭出41~42番地の時代には戸田康保邸Click!が建っていたが、同家に伝わった刀剣についてはあちこち取材してもよくわからなかった。1934年(昭和9)になると徳川義親邸Click!が建設されているが、同家の武具蔵はもはや美術館のような光景で、キラ星のごとく名作が並んでいる。ただし、下記の作品は目白町と名古屋に分散されていたとみられ、特に1935年(昭和10)に徳川美術館が設立されて以降は、名古屋での保管がより増えたのではないかとみられる。
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 もはや解説するまでもなく、ネットで茎銘や通称の刀銘を検索すれば、すぐにも詳細な解説が見つかる銘品ばかりだ。しかも、これは徳川義親が所蔵していた作品の、ほんの一部にすぎない。いや、本記事にピックアップしている美術刀剣は、すべて国宝か重要文化財クラスの作品ばかりで、ほかにも今日では重文や重要美術品に指定されている作品が、落合・目白地域に建っていた大屋敷には収蔵されていた可能性が高い。
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 最後に、東京国立博物館で長く刀剣室長を務め、つづいて工芸課長に就任して、美術刀剣の研究や保存に尽力した小笠原信夫の言葉を引用して記事を終えたい。
  
 日本人は「花」といえば桜をいうように、古くから桜花を愛し続けてきた。それは視覚的な美しさ以上に心情的に深く共鳴する感性をもっているのではなかろうか。本居宣長の「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」の歌は、朝の光に照り映える桜に心を通わす日本人特有の遺伝子の表現だという人がいる。/それを、潔ぎよく散ることが武士道だと曲解させて軍国主義へとつき進み、若い人達を死地に駆り立てた一時代があった。その軍刀外装金具に、鋳型で量産された山桜の文様が散らされている。私は、早く散るということを武士道だと鼓舞したこともさることながら、軍刀に山桜文を用いて大和心だと思わせようとしたことに憤りをおぼえる。
  
 2007年(平成19)に文藝春秋から出版された、小笠原信夫『日本刀』(文春新書)より。

◆写真上:細川家で蒐集された収蔵刀剣展が開かれる、肥後細川庭園の永青文庫。
◆写真中上は、細川家伝来の「包丁正宗」。は、相馬邸にあった黒門長屋のカラー写真。(提供:相馬彰様Click!) は、同家伝来の埋忠明寿の太刀茎と不動彫刻。
◆写真中下は、下落合の見晴し坂上にあった津軽義孝邸跡の現状で遠景は新宿西口の高層ビル群。は、同家に伝えられた高名な「津軽正宗」。「正宗の太刀」といえば、同作をイメージする刀剣ファンは多い。鋩(きっさき)が大きく伸び(大鋩)、鎌倉後期の典型的な体配(太刀姿)をしている。は、「一」と切られた福岡一文字の太刀茎。
◆写真下は、下落合の北側に接する目白町にあった徳川義親邸跡で、現在は徳川黎明会になっている。は、同家伝来の「包丁正宗」と「不動正宗」。

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泳ぐと泥んこになる野方と落合の遊楽園プール。 [気になる下落合]

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 明治末から大正期にかけ、東京郊外に「遊園地」Click!と呼ばれる公園が造られたことは以前にご紹介している。「遊園地」は、今日の遊園地とは異なり子ども用のアトラクションがあるわけではなく、花壇や温室のある庭園、釣り堀、プール、料理屋や宴会場Click!、ときに音楽堂などがある、大人も楽しめる文字どおり「遊」びの「園」だった。
 そんな遊園のひとつが、落合地域と野方地域にまたがる位置に開園していた。1923年(大正12)から、少なくとも1931年(昭和6)ごろまでの期間だ。当時、落合町の北西部は葛ヶ谷Click!と呼ばれており、そのエリアが西落合と呼ばれるようになるのは、東京市が35区制Click!に拡大した1932年(昭和7)からだ。それまでは、妙正寺川に架かる四村橋Click!(しむらばし)の西にあたる、野方町の片山側に突き出たエリアは江戸期からの上落合村飛び地で、字名は四村(のち西落合3丁目/現・西落合2丁目)と名づけられていた。
 四村橋は、妙正寺川の西側に位置する上高田村と江古田(えごた)村、上落合村の飛び地である上落合村(字)四村、そして妙正寺川の東側にあたる葛ヶ谷村(のち西落合)の4村にかかるように設置されたのでそう呼ばれていたのだろう。現代では、片山村と上高田村、葛ヶ谷村、それに江古田村が接していたので4村と記した資料も見かけるけれど、実際に四村橋へじかに接していたのは、地籍からいうと葛ヶ谷村と上落合村四村(飛び地/のち西落合へ併合)と落合エリアの2村のみだ。
 ほんのわずか南に離れて上高田村の村境があり、少し離れて江古田村と片山村の境界が周囲を囲むように引かれている。たとえば、1982年(昭和57)にいなほ書房から出版された細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田昔語り』Click!(非売品)では、片山村と上高田村、葛ヶ谷村、江古田村の4村Click!が接していたから四村橋とされているが明らかに誤りで、同じ野方町側で1984年(昭和59)に中野区江古田地域センターから出版された『江古田今昔』の、上落合村(字)四村を含めた記述が正しい。すなわち、四村橋の4つの村とは①上落合村②葛ヶ谷村③上高田村④江古田村(または④片山村)を指しているのだろう。
 さて、その四村橋から妙正寺川を上流へ300mちょっとさかのぼると、片山村と江古田村を結ぶ街道に下田橋が架かっている。この下田橋と四村橋の間、妙正寺川の南岸に「野方遊楽園」と名づけられた遊園地が、1923年(大正12)になると開園している。野方遊楽園の敷地には、野方村(町)と落合村(町)の村(町)境が走っており、どちらの住民もこの遊園地ができるとこぞって利用したとみられる。当時、落合町の葛ヶ谷地域は東京府の風致地区(1933年指定で、できるだけ自然景観を保存する区域)に指定されており、また妙正寺川の北側に位置する和田山Click!には井上円了Click!井上哲学堂Click!があったので、人を集める流行の遊園地を造るには最適な場所と考えられたのだろう。
 遊園地内には、料亭や釣り堀、弓技場、ボート池、プールなどが設置されたが、なんといっても夏場に人気を集めたのが、妙正寺川の清流から引かれた水をたたえる「遊楽園プール」だった。当時の様子を、上掲の『江古田今昔』から引用してみよう。
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 大正時代に江古田村と上落合にまたがった哲学堂(和田山)の南側に遊園地があった。/熊沢宗一氏著「かた山の栞」の記録によると、「大正十二年から昭和初期頃迄、数名の地主達によって、哲学堂を背景に妙正寺川の清流を引込んで、五十米プールと、四十間(約七十米)四方の大プール二か所を作り、それぞれに子供の水泳場と、舟を浮べて舟遊び池とした。(ママ:引用カッコ閉じず) その外に釣り堀り池や大弓場、水月料亭等を開店して、「野方遊楽園」と名付けた。/その当時、プール等は東京府内でも珍らしいので、盛夏になると大小のカッパ連で埋まる程の盛況であった。数年後、豊多摩刑務所が移転してきたり、関東大震災の後、城西方面に住宅が急に多く成り、その為河水も汚水の混入で水泳に適さなくなったので、たまたまオリエンタル写真会社の拡張もあり、其の工場敷地に貸与し、名残り惜しくも閉園の止むなきに至ったとある。
  
 1923年(大正12)に開園し、妙正寺川の汚濁のため数年で閉園したと書かれているが、地図上では1933年(昭和8)まで野方遊楽園を確認することができる。ただし、オリエンタル写真工業Click!が野方遊楽園の跡地へ第2工場の建設を開始したのが1931年(昭和6)なので、実際には開園から7年前後で閉園しているのだろう。閉園する際、料亭「水月亭」の建物だけは井上哲学堂に移築され、俳句などの集会場に使われていた。
 当初、江古田(野方村)と上落合(落合村)で村境がまたがっているので、「数名の地主達」の中には上落合村側の地主も遊園地建設には参画していたとみられる。現在でも、同エリアには新宿区と中野区の区境が通っており、新宿区立妙正寺川公園には大雨のときなど妙正寺川の氾濫を防止する調整池が、中野区立妙正寺川公園には遊楽園プール跡に運動広場が設けられ、両公園は仲よく一体化して共存運用されている。
 文中に、野方遊楽園が閉園した理由のひとつとして、「豊多摩刑務所が移転してきたり」と書かれているが、同遊園地から豊多摩刑務所Click!(のち中野刑務所)までは南西に直線距離で1km以上も離れており、それが閉園理由になったとは思えない。むしろ、四村橋のすぐ東側にあったオリエンタル写真工業の第1工場が手狭になり、また急速に普及しはじめたカメラとともに、市場ではフィルムの需要が急増して生産が追いつかず、大急ぎで第2工場の敷地を確保する必要に迫られていたとみるのが事実に近いだろう。「数名の地主達」にしてみれば、保守メンテが不可欠な遊園地で細々と稼ぐ売り上げよりも、成長がいちじるしいオリエンタル写真工業が提示する地代のほうが、はるかに魅力的だったのではないだろうか。
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 野方遊楽園で、もっとも人気を集めた遊楽園プールの写真が現存している。それを見ると、プールはかなり広大で、写っているのは40間四方(70m×70m)のプールではないかと思われるが、プールと名づけられているものの実際はコンクリートで構築されたものではなく、水田を掘り下げて四角い池にしただけの造りだった。したがって、大勢で泳ぐと底の泥が舞いあがり、水がにごって泥水になったという証言が残っている。『江古田今昔』より、再び引用してみよう。
  
 そのプールに子供の頃よく泳ぎに行ったと言う人の話しによると……/プールといってもタンボを掘り下げて、廻りを板で囲った簡単な沼の様なものだった。/プールの底は土のままなので、皆で泳いだり水中でボチャボチャ騒いで居る内に、水が泥でにごって来る。余りにごりがひどく成ると係員が大きな声で、「おーい時間だぞ!、皆んなあがれ―!!」と、どなり続ける。/一斉に水から上ったフンドシ一つのカッパ達は、プールサイドで甲ら干しをした。/水の汚れが治まる(ママ)迄、何分間か休憩をした後で又泳いだ。一日に何回かそんなことを繰り返したことがあったと。
  
 おそらく、甲羅干しをして身体が乾いてくると、泥がついた肌がザラザラしただろう。また、水中にはたくさんの魚介類や水棲昆虫がいたのではないだろうか。
 『江古田今昔』の引用に掲載された「熊沢宗一氏著『かた山の栞』」は、正式書名が1955年(昭和30)に出版された私家版『わがさと/かた山乃栞』(非売品)であり、面白そうなのでさっそく古書店で手に入れた。同書もそうだが、『ふる里上高田昔語り』なども同様に、隣接する町誌には落合地域についてのかなり詳細な事跡やエピソードが紹介されていることがある。たとえば、妙正寺川の水車橋近くにあった「稲葉の水車」Click!の経営や第2のバッケ堰についてなど、落合地域ではあまり記録されていない事跡が書かれていることが多い。それだけ、周辺地域との交流が深く、長くつづいてきたことの証左なのだろう。これからも落合地域ばかりでなく、ときおり周辺の町々に残る資料にも留意していきたい。
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 1921年(大正10)から葛ヶ谷(西落合)で操業をつづけていたオリエンタル写真工業だが、空襲で本社・第1工場とオリエンタル写真学校は全焼したものの、野方遊楽園の跡地にできた第2工場は戦災をまぬがれ、戦後は第2工場でフィルムの生産が再開されている。

◆写真上:上流の下田橋から眺める、左岸が哲学堂公園で右岸が野方遊楽園跡。
◆写真中上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる野方遊楽園ができる直前の様子。は、1929年(昭和4)の「落合町全図」。「野方遊園」と書かれているが、プールは野方町側に描かれている。は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図。プールらしい大きな長方形は、野方側と上落合側をまたいで描かれている。地図の年度によって、採取されるプール形状が変化しているのは、コンクリートや石材で固定せず土を掘り下げただけの簡易構造なので、保守や拡張のため常に手を入れていた可能性がある。
◆写真中下は、昭和初期の撮影とみられる遊楽園プールの40間(70m)四方プールと思われる写真。は、1933年(昭和8)の「淀橋区全図」に描かれた野方遊楽園のプールだが、すでにオリエンタル写真工業の第2工場が竣工していたはずで同遊園地は閉園していた。は、1932年(昭和7)に撮影されたオリエンタル写真工業。手前の右手が本社と第1工場で、奥に見えている塔と煙突のある建物が第2工場。
◆写真下は、1935年(昭和10)ごろに撮影された空中写真にみる左手が井上哲学堂(北側)で、妙正寺川をはさみ右手がオリエンタル写真工業の第2工場(南側)。は、オリエンタル写真工業本社(第1工場)の正門扉で『おちあいよろず写真館』(2003年)より。御殿場への移転作業中か、本社屋または工場建屋が解体されている様子がとらえられている。は、1984年(昭和59)に刊行された『江古田今昔』(中野区江古田地域センター/)と、1982年(昭和57)に出版された細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田昔語り』(いなほ書房/)。

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