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佐伯祐三の「下落合ガード」写真を見つけた。 [気になる下落合]

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 もう少し早く、気づくべきだった。少し前にご紹介した、1921年(大正10)に工事がスタートした直後に撮影された逓信省船型試験所(目白水槽)Click!の写真だが、やや望遠気味と思われる画角をよく検討すると、佐伯祐三Click!が描いた「下落合風景」シリーズClick!の1作、山手線の下落合ガードClick!が写っている。ただし、佐伯が描いた側とは反対のガード側(東側)だが、そのぶん当時は面積がかなり広かった山手線の土手に建設されていた、三角屋根の建物がとらえられている。
 1921年(大正10)に撮影された着工された直後、目白水槽の工事現場の写真をためつすがめつ眺めていたのは、背景に写る近衛町Click!の森(近衛篤麿邸Click!の敷地)を細かく観察していたからだ。おもに目白崖線沿いの風景に惹かれ、以前、1914~1917年(大正3~6)にかけて撮影された薗部染工場Click!の写真にとらえられていた、近衛邸敷地に含まれる目白崖線の斜面に建つ、見晴らしのよい四阿のような建築がずっと気になっていたのだ。でも、大正時代の前半に解体されてしまったのかどうかは不明だが、それらしい形状の建築物はとりあえず画面では特定できなかった。
 念のため、撮影ポイントと写真の画角を検討しはじめてすぐに気がついた。左手の前方に、雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)と山手線が交差する地点に設けられた、同線の下落合ガードの東面がやや斜めにとらえられている。しかも、ガード東側の線路土手に建てられていた、小屋のような建物(保線要員か目白貨物駅作業員の宿泊施設あるいは道具置き場だろうか)も同時に写っている。
 大正の初期まで、学習院の境界西側に通う坂道(現・椿坂)は、小島善太郎Click!が描いたスケッチ『目白』Click!のように、坂下が東側へ向けて大きくカーブしていた。そのぶん、山手線の線路土手沿いの敷地は東側に大きく張りだし、土手上から斜面にかけ余裕のある敷地には昭和期に入ってからも、保守・保線あるいは目白貨物駅に関連するとみられる鉄道省の建物が何軒か設置されている。この建物群は、1936年(昭和11)の空中写真でも、椿坂が直線化されたため少し北側にズレた位置(移築?)に確認することができる。また、坂下が東へカーブしていた初期の椿坂は、切り崩された学習院の敷地斜面の中腹、ないしは土砂が盛られた土手の上を通っていたのであり、現在のようにまっすぐかつ平坦できれいに整地されていたのではないことにも留意したい。
 まず、目白水槽の工事がスタートしてから3年目、1923年(大正12)の1/10,000地形図から見ていこう。陸地測量部Click!測量技師たちClick!は、工事中の建築物は地図に採取しないのが“お約束”のようなので、工事から3年がすぎた目白水槽はいまだ記載されていない。また、同年9月に起きた関東大震災Click!の影響で工事が大幅に遅れ、1927年(昭和2)以降の地図まで目白水槽は記載されることがなかった。そこで、1930年(昭和5)の1/10,000地形図に記載されている初期型の目白水槽(第1水槽)を同縮尺でスキャニングし、1923年(大正12)の同地図に透過して重ね合わせ、撮影位置を特定してから撮影画角を割りだしてみた。椿坂の坂下は、ようやくカーブがやや西寄りに修正され、できるだけ直線状に造成しなおされたばかりのころだ。
 すると、画面左手の水槽掘削により出た土砂の山(土砂をネコClick!に載せて搬送する細長い板が、何枚も連続して敷かれている)の向こうにとらえられた、“穴”が開いたように見える構造物は、まちがいなく山手線の下落合ガードだ。その上には、何本もの黒っぽい電柱が建ち並び(電柱については改めて後述)、山手線の線路が走っていることがわかる。また、ガードの下には下落合の山麓からつづく雑司ヶ谷道(新井薬師道)が通っているはずだが、土砂の山に隠れて望見できない。
下落合ガード1923.jpg
小島善太郎「目白」(大正初期).jpg
目白水槽工事中1921.jpg
 明治末か大正の最初期、小島善太郎Click!は写真の土砂山が築かれている画面左手の下、当時は東に大きくカーブしていた椿坂の坂下から北西に向いて、山手線の線路土手を含めた風景を描き(線路土手上に建物がすでに1軒とらえられている)、佐伯祐三は1926年(大正15)ごろに下落合ガードの西側から、レンガ造りClick!とみられるガードとその上の電柱群、そして線路土手に建っていた建物群のひとつ(線路寄りの1棟)を入れて描いている。ほかに、椿坂を描いた画家には同じく小島善太郎の『目白駅から高田馬場望む』Click!(大正初期)や、小熊秀雄Click!が目白貨物駅を描いた『目白駅附近』Click!(1935年ごろ)などがあるが、残念ながら下落合ガードは画面にとらえられていない。
 さて、撮影されたガードとその周囲を仔細に観察してみよう。遠景でややわかりづらいが、まずガードの上には川をわたる鉄橋などによく見られるような板状の太い構造物が、横に細長くわたしてあるのが見えている。おそらく、線路に敷かれた砂利が電車の通過時に跳ねて、下を通る道路へ落下するのを防止する、佐伯祐三の「ガード」に描かれた横長の幅が広い鉄骨、ないしは鉄板のような構造物だろう。そして、その構造物の下には、300mほど南にある山手線の神田川鉄橋Click!と同様に、イギリス積みのレンガ造りと想定することができる擁壁が見えている。
 そして、ガードの上方、線路が敷かれた同じ平面を仔細に観察すると、写真が遠景で見わけにくいがガード上とその直近(北側の脇)に、腐食どめのクレオソートClick!を塗られたとみられる電柱の黒い影を、都合5本ほど確認できる。佐伯が描いた「ガード」でも、下落合ガードのすぐ上かガード脇の線路面で確認できる電柱の数は5本だ。仮に、工事中の目白水槽側から確認できる電柱を、南側から北側へ順番にの番号をふると、佐伯の「ガード」でも視点や角度は異なるが、画面の右手(南側)から左(北側)へ同じ順番のとなるだろうか。
 写真にとらえられた線路土手の上、あるいはその斜面に目を向けてみよう。すでにお気づきの方もおられるだろうか、山手線のこの場所に築かれた線路土手は現在とは異なり、線路面よりもやや高めに築かれていた様子がわかる。この土手の少し盛りあがりのある特徴は、濱田煕Click!が描いた記憶画Click!の山手線でも、ところどころで確認することができる。
下落合ガード拡大.jpg
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 その土手上あるいは土手の斜面には、住宅のような建物(工夫・作業員の宿泊施設ないしは作業小屋か工具小屋?)が数軒、建ち並んでいるのが見えている。下落合ガードのすぐ右手(北側)には、線路土手の斜面とみられるところに1軒(仮に)建てられているのが見える。また、その家の屋根上に重なり、おそらく線路土手の上方(線路面に近い位置)に、三角の屋根を載せた家屋(小屋?=)がもう1軒あるように見える。
 さらに、右手(北側)にももう1軒、屋根と軒とみられる構造物がとらえられているが、この建物は線路土手がつづく斜面の下部あたりの位置、東へカーブしている椿坂の坂下に近い西側沿いに建てられていた建物のように思われる。また、この屋根越しの向こう側にもさらにひとつ、屋根のような構造物が見えているが、線路の手前(東側)に建てられているのか線路の向こう側(西側)にあるのかが不明確だ。もし、線路の向こう側(西側)にあるとすれば、のちの写真にも同位置にとらえられている鉄道関係者の官舎のような、大きめな集合住宅のようにも思えるが、写真が不鮮明なので詳細はわからない。
 土手沿いに設置された、当時は3軒だったと思われるこれらの建造物の配置(建物)は、1923年(大正12)作成の1/10,000地形図に採取された家屋の位置関係にも近似している。また、先述の屋根のような形状に見える建物は、同年の1/10,000地形図にも採取・記載されている、建物と屋根ごしに重なる下落合406番地の崖線斜面に建っていた建物Dととらえられないこともない。
 この建物群の中で、佐伯祐三の「ガード」に描かれている家屋は、明らかに東側の土手上の線路沿いに近い位置に設置されていた建物だろう。1/10,000地形図に描かれた家のかたちは、やや南北に長い建物に描かれているが、写真を見るかぎり屋根の形状から線路脇に建つ正方形に近い建物(工具置き場か作業小屋?)のように見えている。
 ただし、ひとつ留意しなければならないテーマがある。当時の下落合ガードは、山手線の複線(線路2本分)の下をくぐるだけで、下に通う雑司ヶ谷道の隧道は幅が短かったかもしれないということだ。1921年(大正10)の当時、品川駅-渋谷駅間で開通していた山手貨物線が、高田馬場駅-目白駅では未設置の時期だった。その後、山手貨物線を通すために線路土手を東側に拡幅・造成(1924年か?)しているとみられ、写真にとらえられた線路土手や斜面は丸ごと埋め立てられている可能性があることだろう。現在、椿坂横に見られる線路土手は貨物線が造成されたあとの形状であり、写真に見える線路土手とは異なる可能性がある。
佐伯祐三「ガード」1926頃.jpg
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 おそらく、下落合を西へ東へ画道具を携えながら、あちこちに出没する佐伯祐三のことだから、山手線の下落合ガードをくぐり、1926年(大正16)当時は竣工直前だった逓信省船型試験所も目にしているだろう。だが、新築の巨大な建造物には興味を惹かれなかったものか、現存している50点余の画面に同試験所を描いたと思われる作品は見あたらない。

◆写真上:工事がスタートしたばかりのころ、1921年(大正10)に撮影された逓信省船型試験所(目白水槽)の写真にとらえられた山手線の下落合ガード。
◆写真中上は、1923年(大正12)に作成された陸地測量部の1/10,000地形図にみる撮影位置と画角。目白水槽のかたちは、1930年(昭和5)の同地図に採取された目白水槽を同縮尺で透過したもの。は、大正初期に制作されたとみられる小島善太郎『目白』。坂下の大きなカーブをとらえており、椿坂は学習院敷地の斜面中腹を通っていたのがわかる。は、1921年(大正10)に撮影された目白水槽の工事写真。
◆写真中下は、山手線をくぐる下落合ガードの拡大写真。は、ガード上にとらえられた黒い電柱群。は、線路土手に建つ3棟とみられる建築物。
◆写真下は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『下落合風景(ガード)』。中上は、1925年(大正14)に甲斐産商会が撮影したプロモーション映像Click!に写る椿坂の様子。馬車に積まれているのは、同商会の大黒葡萄酒Click!を詰めた樽。中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合ガードとその周辺。椿坂が改めて直線化されており、ガードわきの線路土手に建っていた家屋がやや北側の土手上に“移動”しているのがわかる。は、2014年(平成26)に再補修を終えた下落合ガードの東側面。ガードがこの形状になったのは、山手線の複々線工事が竣成し雑司ヶ谷道が拡幅された昭和初期だとみられる。
おまけ
 上は、有楽町駅ガードに残る古い鉄板状の鋼材。佐伯の画面に描かれたのも、錆止めが塗布された同様の鋼材だろう。下は、明治期のままの山手線・神田川鉄橋(2010年撮影)。
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古墳とタタラの痕跡が散在する片山の丘。 [気になる神田川]

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 以前ご紹介した、落合町上落合(字)四村と野方町片山にまたがる野方遊楽園Click!の、南西160mほどのところに陸橋ファンなら一度は訪れる有名な「片山陸橋」がある。大きく蛇行する妙正寺川沿いの丘陵を切り拓き、中野通りを貫通させたせいで通りの両側は約7~8mの断崖絶壁となり、通りをわたるにはいちいち絶壁を下りて再び上らなければならなくなった。そこで、断ち切られてしまった丘同士をつなぐ手段として、片山陸橋が設置されている。現在の、松が丘1丁目と2丁目の住宅街を結ぶ陸橋だ。
 この片山地域に連なる、妙正寺川を三方から見下ろせる半島状の丘陵地形が興味深い。片山に通う坂は、江戸期から5本を数えたようだだが、その斜面から続々と埋蔵文化財が発見されているのは、落合地域の目白崖線と同じだ。片山村は、朱引墨引が大きく拡大した大江戸(おえど)Click!時代(文政期以降の江戸後期)の、朱引外(しゅびきそと)に隣接する村だが、早くからから拓けており応永年間の板碑が地中から数多く見つかっている。
 和田山Click!(井上哲学堂Click!の丘)の近くなので、付近から見つかっている鎌倉期の住居遺跡や、『自性院縁起』Click!などの伝承や説話をベースに考えれば、平安末から鎌倉期にはすでに拓かれ、開墾が行われていた可能性が高い。地元の古老は、和田山の東側を北上する街道筋を昔から「鎌倉みち」と呼んできたので、当時敷設された鎌倉街道の支道のひとつととらえてもなんら不自然ではない。片山村から発見された、応永年間を含む10数枚の板碑だが、下落合の本村Click!(七曲坂Click!の坂下)で発見された鎌倉時代の板碑(薬王院蔵)と同様、どこかに鎌倉期のものが未発見のまま埋もれている可能性がある。
 また、さらに古い時代の伝承として、隣りの江古田地域には鎌倉期の入植記憶が残されている。「江古田の草分け」と称される深野家では、初代は「対馬」という姓で入植し、鎌倉期には佐渡へ流される日蓮一行が宿泊したという説話が残っている。また、江古田にある第六天Click!(江古田氷川社に合祀)は、和田義盛の子・小太郎磯盛が勧請したという伝承もあり(後世の付会とみられるが)、この地域と鎌倉との間になんらかの深いつながりがあったことをうかがわせる。だが、きょうのテーマはその時代ではない。
 この一帯の「草分け」は、もちろん鎌倉期でも室町期でもなく、同地域から数多くの遺跡が発掘されている縄文期、さらに弥生期に生きた人々だ。片山地域の丘陵からは、縄文早・前・中・後期の土器(中には破片ではなく、細頸壺型や深鉢型など完品が発掘されている)や新石器が、時代ごとにまんべんなく出土しているが、現在は住宅街の下で発掘できないものの、下落合の目白学園Click!学習院Click!キャンパスと同様に旧石器時代の遺物も眠っているかもしれない。旧石器時代から現代まで、人が絶え間なく住みつづけている重層遺跡Click!は、東京西北部の丘陵ではとりたててめずらしくない。
 きょう取りあげたいテーマは、弥生期からもう少し時代が下った片山地域の姿だ。同地域にもまた、古墳の遺跡や伝承が多く存在している。1955年(昭和30)に片山の地元で出版された、熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品)から引用してみよう。
  
 片山の先史時代の遺物や遺跡は、丘陵の西方並に北方の斜面及び低地から掘り出された。縄文式土器石斧石屑竪穴式住居がそれであって、高地には防禦の為築いたと思われる砦跡も発見された。原始時代の遺跡として文献に残るものは片山西南方高地の高塚式墳跡と、丘陵西側の横穴式古墳の遺跡とのことであるが、其の所在地に就ては詳かでないが、私の幼少の頃二一二三番地路傍に行人塚とて、小高い塚があったが或は夫れが、高塚式の古墳で有ったかと思われる。
  
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 文中にある縄文期の遺物と、高地(丘上)で発見された防禦のために築かれた「砦跡」が、今日から見れば同時代のものとは思えないが、著者が疑わないのは戦前からの「皇民化」以前の時代は一括して「原始時代」と呼ぶ、皇国史観Click!による「日本史」教育を受けていたからだろう。今日の科学的な史観からいえば、自国の歴史にあえて泥を塗るような「自虐的」な史観は受け入れられない。
 つづけて、砂鉄から目白(鋼)Click!の精錬はもちろん、刀剣の折り返し鍛錬Click!の技法を獲得し、金象嵌の技術さえあった古墳時代さえ「原始時代の遺跡」(おそらくヤマトに「まつろわぬ蛮族」=「坂東夷」が跋扈していたという、史実に反する「自虐」史観なのだろう)と書いているが、ここで興味深いのは片山地域には大きめな「高塚式」の古墳と、横穴古墳
Click!の双方が存在していることだろう。横穴式の古墳は、埋葬法が簡易化Click!していく古墳時代の後期から末期、あるいは奈良時代の最初期に見られる埋葬法だが、「高塚式」のものはそれ以前の、より古い時代の古墳を想起させる。これらの古墳は、かなり以前に崩され農地開墾や宅地開発などで消滅しており、詳しい調査記録が存在しない。
 同書では、「片山西南方高地」と書かれているが、1943年(昭和18)に出版された『中野区史(上巻)』(中野区役所)では、同古墳は「片山東南方高塚墳」と記録されており、片山の東西で方角ちがいのようだ。『中野区史』が正しいとすれば、片山村の「東南方」にある「高地」とは、上高田村との境界も近い片山村の東南部、現在の松が丘1丁目の南部に位置する高台から斜面にかけてだろう。
 この高台から北西に抜ける道は、現在は新井薬師前駅Click!から北口商店街の道筋となっているが、江戸期以前から存在するとみられる古道だ。この街道は、片山の丘陵を東南から西北に抜けて貫通するが、丘を下り妙正寺川沿いに北上する右手(東側)=西向きの崖地からは、片山西側横穴墳が発見されている。そして、妙正寺川に架かる橋(大正期以前は通称「石橋」=現・沼江橋)をわたると下沼袋村から江古田村へと抜けることができる。
 この古い街道筋の一部には、丘陵を西へと下る斜面の一部にクネクネと、まるでなにかを避けるように刻まれた坂道の半円形カーブが、江戸期から変わらず現在でもそのままの形状で残されている。ちょうど片山村の東南部、古い地番では片山2114~2137番地界隈、現在の住所だと松が丘1丁目20~25番地あたりになる。地勢的に見れば、妙正寺川を西側に見下ろす南西向きの丘上、あるいは丘の西側斜面ということになるが、『中野区史』が記録する「片山東南方高塚墳」は、片山村の東南にあたるこの一帯に存在したのではないだろうか。
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 また、文中に登場している片山2123番地界隈にあったとされる「行人塚」も、地番的にはこの界隈と一致している。麓にサークルの半円形のカーブがつづく、丘上の北寄りの一画だ。「行人塚」は、地番からいえば上記の街道筋から少し離れた丘上にあったとみられるので、もしそのサイズが大きなものでなかったとすれば、主墳に付随する陪墳のひとつが残っていたのかもしれない。
 「行人塚」という名称は、江戸期以前に村で死去した他所者、すなわち行き倒れや旅人を合葬した塚墓なのだが、調査をするとベースが古墳である事例が多く、「行人塚古墳」と名づけられた遺跡が各地にあり、以前から古墳地名のひとつとなっている。中世や近世の村落には、いまだ古墳時代の禁忌伝承Click!屍家(しいや)伝説Click!が残っており、大小の塚が古い時代の墳墓であることを伝え聞いて認知していたとみられる。
 さて、「片山東南方高塚墳」界隈の古い街道筋を実際に歩いてみると、片側に崖地がつづく“ヘビ道”のような、半円を描くような昔ながらの道筋がそのまま残されているが、昭和初期の写真にとらえられている丘上の墳丘を思わせる盛り上がりはすでに破壊され、平面にならされた住宅街と広い駐車場になっている。1947年(昭和22)の空中写真まで、墳丘とみられるサークル状の盛り上がりはそのままで、墳頂には見晴らしのよさそうな大きな邸宅が1軒、ポツンと建てられているだけだった。したがって丘上が整地され、改めて住宅地として開発されたのはそれ以降のことだろう。
 また、落合・目白地域と同様に、片山でもタタラ遺跡Click!が発見されている。おそらく、平川(のち神田上水で現・神田川)から妙正寺川をさかのぼってきた産鉄集団がいたのだろう。ひょっとすると、山手通りの工事で見つかった、中井駅近くの妙正寺川沿いに展開したタタラ遺跡のグループと同一集団なのかもしれない。先述の、『中野区史(上巻)』(1943年)から引用してみよう。
  
 最後に鉄(金+宰の旧字)等の出土によつて製鉄遺跡と考へられるものは、包含層最下部に、鉄(金+宰)が一面に散布埋没して居り、中には一種のタゝラの底に附着したまま固まつたと考へられる様な形に湾曲したものもあつて、本区内に於て製煉の行はれたことを證明してゐる。之と伴つて多数の焼土、炭灰の類が出土し、鞴の火口と考へられる筒形焼土も同位置より出土してゐるので、之によつて製鉄遺跡であることは最も確実に證明せられる。(カッコ内引用者註)
  
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 大量の鐡液(かなぐそ)や、溶鉄炉の火口や鞴(ふいご)跡まで見つかっており、おそらく下落合のタタラ遺跡も同じような出土状況だったのではないだろうか。ただし、下落合は戦時中の発見なのでたいした調査もなされず、山手通り工事によって破壊されている。わたしは下落合の事例も含め、近くの古墳から出土する鉄刀・鉄剣類Click!を踏まえると、それらは古墳期に近い時代のタタラ遺跡であり、製鉄(鋼=目白)痕ではないかと想定している。

◆写真上:陸橋ファンには有名な、松が丘1丁目と2丁目とをつなぐ片山陸橋。
◆写真中上は、1880年(明治3)作成のフランス式地形図にみる片山村。中上は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる片山界隈。中下は、昭和初期の片山地域。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる片山地域。
◆写真中下は、1955年(昭和30)出版の熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品/)と著者()。中上は、1941年(昭和16)撮影の「片山東南方高塚墳」があったあたり。中下は、戦後の1947年(昭和22)撮影の同所。は、1943年(昭和18)出版の『中野区史(上巻)』収録の遺跡リストに掲載された「片山東南方高塚墳」と「片山西側横穴」墳。
◆写真下は、3葉とも「片山東南方高塚墳」があったとみられる山麓に通う繰り返し蛇行する古い街道筋。途中で丘上に登る坂があるが、いかに修正されているとはいえその坂の傾斜を見ても、バッケ(崖地)Click!状の急斜面だった様子がしのばれる。は、戦後に同所の丘上が崩され整地された住宅街の様子。おそらく大量の土砂を運びだし、丘の上半分を削って平地の宅地面積を広げたとみられる。
おまけ
 上の2葉は、1938年(昭和13)に新青梅街道ができてから間もない片山(現・松が丘)風景。北西側から眺めた片山の丘陵で、周囲が妙正寺川沿いに形成されたバッケ(崖地)の急斜面だった様子がよくわかる。下の写真は、戦前に発掘調査が行われていた『中野区史』(1943年)収録の「沼袋氷川神社古墳」。以前、「野方町丸山に点在する古墳の痕跡」記事Click!では、沼袋氷川社は中小規模の前方後円墳(あるいは帆立貝式古墳)ではないかと想定していたが、事実、そのとおりだった。古墳の規模は、北側を住宅に南側を道路と西武線に削られているが、およそ100m弱ほどだろうか。この事実が大きく公表されなかったのは、戦前・戦中を通じての皇国史観によるものだろう。
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酒米を食用米の水田にしてブドウ園を増やせ。 [気になる下落合]

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 わたしの祖父母の世代は、ワインのことを「葡萄酒」Click!と呼んでいた。「ポートワイン」や「スヰトワイン」など、それまでにも「ワイン」という言葉は古くから商品名としてつかわれていたが、一般的に呼ばれていた名称は葡萄酒だった。ワインという呼び名が広く普及したのは、おそらく1960年代以降のことだろう。なぜ、葡萄酒と呼ばれることが多かったかといえば、本格的な日本産ワインである甲斐産商店の宮崎光太郎Click!が醸造していた、「大黒葡萄酒」Click!が全国的に普及していったからだろう。
 「大黒葡萄酒」が誕生した明治末から大正時代にかけ、日本はきわめて深刻な食糧難に陥っていた。人口の増加に対して、米の生産量がまったく追いつかなかったのだ。大正中期になると、米不足はより深刻で危機的な状況を迎え、政府はアジア諸国からの外米を大量に買いつけ輸入している。米が急激に値上がりし、一般家庭でも白米ではなく麦などの雑穀を混ぜて食べる飯が多くなっていった。米の価格がさらに値上がりするのを見こして、米問屋や米屋が白米を備蓄・隠匿して売らなかったため、1918年(大正7)にはついに米騒動へ発展したのは、日本史上でも有名なエピソードだ。
 1969年(昭和44)に発表された、農業経済学者の持田恵三による『米穀市場の近代化―大正期を中心として―』という論文がある。その中に、大正期の外米消費率の推移表が収録されているが、1918~19年(大正7~8)の2年間が7.3%と、もっとも高い外米の消費率をしめしている。各地で米騒動が起きていた、まさにその時期とシンクロしていた。
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 もともと米の生産・供給量が変わらず一定なのに、人口が急激に増加(特に都市部において)しつづけたため、そして米価の値上がりに便乗した売り惜しみが各地で相次いだため、一般家庭で買える米の量も徐々に減っていった。「入営すれば(軍隊に入れば)、三食銀シャリ(白米)が食える」といわれたのもこのころのことだ。
 これは、いまの日本でも基本的に変わらない課題だ。現在、米の自給率は100%とされているが、それはあくまでも需要(消費)に対して100%という意味であって、国民全員に対しての100%ではない。もし、異常気象の影響などで世界的な凶作が起き、小麦の輸入がストップしたらパンやパスタ類のほとんどは生産できなくなるので、人々の主食は米に依存せざるをえなくなる。世界的な凶作なら、日本の米も凶作である可能性は高いが、とても国民全員を飢えさせずに養えるほど米の生産量は高くない。「食糧安保」は、国の死活を左右する一義的なリスク管理のテーマだろう。
 同じようなことが、明治末から大正時代にかけても起きていた。大正期の日本全国で収穫できる米穀の量は、約6,600万石と江戸期よりはやや増えていたが、1897年(明治30)の時点で需要に対して約200万石が不足し、1912年(大正元)には250万石、1923年(大正12)にはついに550万石が不足するにいたった。当時は、パン食も麵食も広く普及していない。
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 このとき、一時しのぎの輸入米だけでは危機を打開できないと判断した政府は、ようやく具体的な対策を打ち出している。それは、日本酒用に栽培されている酒米の水田が、大正中期には約500万石あったので、それらの農家に酒米から食用米への転作をするよう勧告することだった。同時に、米作ほど肥沃な土壌を必要とせず、栽培が比較的容易なブドウを栽培し、それを醸造して米酒のかわりに葡萄酒を生産するよう奨励していった。当時の様子を、大正末に発行された大黒葡萄酒普及会のパンフレットから引用してみよう。
  
 米以外の原料に依つて、酒を造るには、何よりも葡萄を以てするのが、国家のために利益ある賢明な方法なのであります。葡萄は栽培が簡単で容易な上に、米と同一の広さがある地面から、はるか多量の収穫を得る利益があります。殊に葡萄には先天的に酵母菌があつて、その搾り汁を其の儘に放置しても、自然に発酵して立派な葡萄酒となります。然も日本酒以上の滋味と芳香を備へ、壮健者にも病者にも極めて好適な飲料としての条件を悉く有して居るのであります。多難なる食糧問題解決の一途としても、日本酒以上の健全なる飲料としても、葡萄酒は唯一の存在価値を有して居ります。
  
 いまでいう日本酒との比較広告のようなもので、かなり手前味噌のような書き方だけれど、それだけ当時の米不足は深刻な状況を迎えていたのだろう。
 甲斐産商店の宮崎光太郎は、1919年(大正8)に下落合10番地へ自邸と大黒葡萄酒工場を建設している。先日、大正末に制作された同社の絵はがきセットを見つけたので、さっそく手に入れた。セット袋の表書きは「御絵はがき/大黒葡萄酒」とあり、裏面には下落合の所在地や牛込局の電話番号が記載されている。だが、袋に印刷された所在地が「東京市外落合町十番地」と「下落合」が抜けており、下落合10番地か上落合10番地かが不明で(ちなみに上落合10番地も、工場が建ち並ぶ工業地域の前田地区Click!でまぎらわしい)、中の絵はがきセットに付属した栞では「東京市外下落合十番地」と、今度は「落合町」が抜けている。
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 中身の絵はがきだが、すべて山梨のブドウ畑や醸造所の写真ばかりで、下落合の工場写真は含まれていない。山梨県の醸造所から、醸造樽のまま目白貨物駅Click!まで運ばれた大黒葡萄酒は、下落合の工場で壜に詰められラベルを貼られて、全国へ出荷されていった。その様子を撮影した、1925年(大正14)制作の記録映画が山梨県に残っており、その一部がWebでも公開されていたが、残念ながら数年前から削除されたままになっている。
 さて、いままでご紹介しそびれていた下落合10番地の宮崎光太郎について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 大黒葡萄酒/甲斐産商店主 宮崎光太郎 下落合一〇
 純粋葡萄酒の創醸家宮崎光太郎氏の名は大黒葡萄酒の名と共に全国的に知られ、其の歴史的基礎と時代に適応したる経営方針は断然業界の第一線を抑えてゐる、氏は明治十年松方正義、前田正名、藤村紫郎諸氏の勧誘に依り葡萄酒醸造業の将来あるを確信し、厳君市左衛門氏と共に郷閭山梨県有志をかたらい、祝村葡萄醸造会社を設立す、即ち本邦に於ける純粋葡萄酒醸造の創始なりと云ふ、次いで十九年独立醸造業に就事し、爾来品質の改良に研鑽を重ね明治二十四年以来宮内省帝国医科大学等の用途を仰ぐに至りしは、其の苦心の実を證明して余りがある、(中略) 氏人なり敦厚にして社会精神に富み、衆与のためには一己の利益を超越するの風あり、産業開発の為めに多大の犠牲を払つて栽培者救済に当る等、郷党の普しく欽仰する処である。
  
 ちょうど学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)の南側に位置する、第二寮と第三寮の丘下にあたる敷地に建っていた大黒葡萄酒工場と宮崎光太郎邸だが、工場の様子は昭和寮の寮棟Click!からよく観察できた。寮生の間では、鮮やかな赤いネオンサイン「大黒葡萄酒」を掲げた大きな煙突が強く印象的に残っているようだ。
 大黒葡萄酒の工場は山手大空襲Click!で焼けたが、ほどなく同じ敷地に工場を再建して操業を再開している。同工場は、東京五輪が開かれた1964年(昭和39)ごろまでは確認できるが、以降は移転して空き地になっている。同敷地に、当時はめずらしかった高層分譲アパートの高田馬場住宅Click!が竣工するのは、1969年(昭和44)になってからのことだ。
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 大黒葡萄酒はその後、オーシャン(株)と社名を変えてウィスキーを大ヒットさせるが、さらにメルシャン(株)へと再編され現在にいたっている。その昔、松坂慶子がイメージキャラクターをつとめたメルシャンワインのCMClick!をご記憶の方も多いのではないだろうか。

◆写真上:現在は高層の高田馬場住宅が建っている、1960年代前半まで操業していた下落合(1丁目)10番地の大黒葡萄酒工場と宮崎光太郎邸の跡地。
◆写真中上は、1932年(昭和7)に学習院がチャーターした飛行機から撮影された大黒葡萄酒工場と宮崎邸。中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同工場と宮崎邸。中下は、大正末に制作された大黒葡萄酒の2色刷りパンフレット。は、下落合の大黒葡萄酒工場で行われていた葡萄酒の壜詰めとラベル貼り、梱包作業の様子。
◆写真中下は、絵はがき袋の表面()と裏面()。は、中身の絵はがき3葉。
◆写真下は、1932年(昭和7)に制作された大黒葡萄酒の媒体広告。は、1958年(昭和33)制作のポスター。は、1980年代制作のメルシャンワインのポスターカレンダー。

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下落合584番地の二瓶等と野口英世。 [気になる下落合]

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 先年、行政機関の中でハンコ(印判)を使わずに業務を遂行しようとする動きが、国内外で話題となった。特に海外では、「ハンコってなに?」という疑問や興味とともに、「日本の行政では、FAXとハンコがないとワークフローを形成できない」と笑い話のネタにされ、特にネットでは世界じゅうのメディアで深刻なCOVID-19禍の中でも、かろうじて笑える数少ない話題として紹介されたばかりだ。
 日本の民間企業でさえ、早い社では20年以上も前から解消されていたテーマ(課題)だが、いまだ行政機関ではあたりまえのこととして常態化している事実を、世界じゅうのマスコミが笑い話のネタとして紹介するのも無理からぬことだと思う。だが、ハンコをできるだけ廃止したことで仕事のスピードが向上し、業務の効率化が進みつつある……ということだけで、この話が終わってやしないだろうか?
 ハンコ廃止の本質的なテーマは、実は「申請業務の簡易化や円滑化」あるいは「官公庁内における業務のスピードアップと効率化」にあるのではない。民間企業では、20年ほど前に推進されたハンコの廃止は、それによって稟議の巡回ルートの見直しや稟議を承認する人物、すなわち社内における役職の見直し=組織の再編に直結するテーマだったのだ。その重要な“気づき”(近ごろアウェアネスと横文字をつかう人が急増している)により、事業の意思決定者(事業部長=マネージャー)と仕事の現場(チーム)だけで、ICTによるトップダウンやボトムアップなど迅速なコミュニケーションの仕組みを整備さえすれば、業務がスムーズかつスピーディにまわることが明らかになってしまったのだ。
 換言すれば、事業全体の承認・決裁をつかさどり案件を仕切るマネージャーと、業務またはプロジェクトを推進する現場のチーム(責任者はチームリーダー)のみがいれば、それまで稟議のハンコを延々と押してまわっていた中間管理職たち、すなわち部長、部長補佐、副部長または次長、課長、課長補佐、係長、主任などなどの役職の面々が、実は業務スピードの遅延を招来し、他社(他組織)との競争力を低下させるだけの存在であり、「いらない」ことが可視化され経営的な“気づき”にまで発展してしまったのだ。こうして、多くの企業ではマネージャーとプロジェクトチーム(リーダー含む)のみで、ほとんどの仕事が迅速にまわるよう機動的で身軽な組織づくりがあたりまえになった。
 ハンコの廃止に、行政組織が20年以上にわたって反対してきた本質的な理由が、もうおわかりかと思う。つまり、「いらない」人がワークフロー上で可視化され、組織全体までリストラクションの波が拡がるのを、絶対になんとしてでも阻止しなければならなかったのだ。それほど、官僚組織のヒエラルキーは絶対であり、不変のものとして保守・維持しなければならならないテーマだった。それによってどれほど意思決定が遅れようが、他国との行政・施策面での競争力が低下しようが、世界じゅうの笑いものにされ恥をさらそううが、自身の役職や立場の「存在理由」が消えてなくなってしまうかもしれないテーマへ、容易に賛同するわけにはいかなかったのだ。
 行政に限らず、この時代の流れや速さについていけない、あるいは新たな学術や事業の創造・発展を阻害するヒエラルキーの弊害については、拙サイトでもたとえば下落合1705番地の東京高等歯科医学校Click!(現・東京医科歯科大学)を創立した島峰徹Click!や、雑司ヶ谷572番地の「異人館」Click!に住むリヒャルト・ハイゼClick!がサポートした北里柴三郎Click!などの事例で何度かご紹介している。
 いや、官僚(的)ヒエラルキーや組織による嫌がらせや事業の妨害は、松本順Click!による早稲田の「蘭疇医院」Click!のころから、薩長政府の官製学校ですでにはじまっていた。なにか先進的な事業や創造的な取り組みをしようとすると、寄ってたかって疎外し妨害するという病的かつ陰湿な性質は、いまも昔もたいして変わっていないのかもしれない。松本順が興した事業や教育の重要性に気がついたのは、当時の教部省(のち文部省)や官製学校などの学術分野ではなく、陸軍の軍人・山県有朋だったのはなんとも皮肉なことだ。
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 余談的な前置きが長くなってしまったが、会津(猪苗代町)出身の野口英世も生涯を通じて、日本のそのような組織から冷笑とともに差別され、いろいろとひどい目に遭わされてきた人物のひとりだ。新しい発想や才能をもつ人物主体からではなく、その仕事で得られた成果や実績などから判断されるのでもなく、どこの学校を卒業してどこの組織に属しているのか(どこの学閥に属しているのか)が、すべての判断基準だった当時の日本に、彼が仕事をする居場所などなかった。ほんとうに頭のいい人物や才能のある人間が、日本では育ちにくい典型的な組織の病理を証明しているような、象徴的なケーススタディだ。
 野口英世というと、戦前の伝記物語では“聖人君主”のようにことさら美化され、まるで全国の尋常小学校に建てられた二宮金次郎像Click!なみの扱われ方をしてきたが、そもそも彼の業績を徹底して無視あるいは軽視し、さまざまな嫌がらせや妨害をしてきたのは北里柴三郎ケースとまったく同様、当の文部省であり傘下の官製帝国大学だったはずだ。そのあたりの証言は、同じ福島県の出身で野口英世の親しい友人であり、やはりひどい目に遭わされている薬学者・星一の息子が書いた、星新一『明治の人物誌』など、戦後になって語られはじめた資料は枚挙にいとまがない。
 ただし、“聖人君主”のように美化された野口英世像も、もちろん戦後になって大きく崩れはじめ、大金を持たせたらあと先を考えず一夜のドンチャン騒ぎで全部つかってしまう、底なしの大酒飲み、借金を知らんぷりして返さず踏み倒す、初恋の相手だった人妻に贈り物をして騒動を起こす、米国人の妻と取っ組み合いのケンカをしてしじゅう投げ飛ばされる、同時代のチャップリンのモノマネをする……などなど、かなりひょうきんな変人だったことが、戦後、身近にいた人物たちの証言で語られはじめた。そのあたりの様子は、米国の伝記本であるイザベル・プレセット『野口英世』や、2008年(平成20)に三修社から出版された星亮一『野口英世―波乱の生涯―』などに詳しい。
 さて、野口英世の肖像を描いた洋画家が、下落合584番地のアトリエに住んでいた。当初は大塚にアトリエを建設しようと土地まで購入して地主と契約を済ませていたが、中村彝Click!の強引な勧めで下落合464番地の彝アトリエから西へ270mほどの敷地を購入して、豪華なアトリエと自邸を建設している二瓶等Click!(二瓶徳松→二瓶經松→二瓶義観→二瓶等→二瓶等観)だ。曾宮一念Click!牧野虎雄Click!片多徳郎Click!などのアトリエ跡と彝アトリエとの、ちょうど中間地点にあたる。
 二瓶等Click!は、北海道は札幌の資産家の息子だったので土地を購入し、その上に建てられたアトリエ+自邸は豪華だった。東京美術学校Click!の学生時代から、鈴木良三Click!によれば4間(四方)+3畳半のアトリエを建て、ほかに暖炉のある広い居間や応接室、キッチン、風呂、テラスなどの母屋が付属し、師である中村彝よりもはるかに大きなアトリエで生活していた。美校では、入学時には佐伯祐三Click!山田新一Click!と同級だったが、なぜか1年足らずで退学し翌年改めて入学しなおして、佐伯たちとは1年遅れて卒業している。
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 二瓶等Click!(すでに1945年以降の二瓶等観と名のる時代になっていた)が、野口英世の肖像画を描いたのは戦後間もないころのことだ。つまり、野口英世が黄熱病にかかり、アフリカで「わけが分からない」といい残して病没した、1928年(昭和3)から20年近くの歳月が流れていた。したがって、二瓶等は野口英世のもっとも知られたポートレート(写真)を参考にしながら描いているとみられる。そして、1949年(昭和24)にその肖像画をもとに制作した、郵政省の野口英世8円切手が発行されている。
 どのような因縁で、二瓶等が野口英世の8円切手の肖像を引き受けたのかは不明だが、資料をあたっているうちに面白いことに気がついた。幼少時、貧乏な小作人だった野口家の様子を、先述の星亮一『野口英世―波乱の生涯―』から引用してみよう。
  
 会津では農民に土地の所有権がなかった。/農家二十七軒で構成する三城潟村の土地三百五十石を管理するのは肝煎(庄屋)の二瓶家であった。耕作高の約三分の一を肝煎が取得するので、残り二十六軒の石高は平均すると八石九斗六升になった。
  
 シカ(英世の母)は、このあと父親が幕末の京都守護任務で出かけてしまって働き手を失い、向かいに住む地主(元・庄屋)の二瓶橘吾家に奉公に出ることになる。そして、会津戦争のあと二瓶家が仲立ちとなり野口シカの家に婿養子として入ったのが、佐代助(英世の父)ということになる。また、野口英世が通った三ッ和小学校は、野口家に隣接する広い二瓶家の敷地内にあり、当主の二瓶橘吾は同校の学務委員をつとめていた。
 ここに登場する二瓶家と、北海道の札幌で豪商として知られ二瓶徳松(二瓶等)が生まれた二瓶家とは、どこかで家系がつながる姻戚同士ではないか。会津戦争のあと、二瓶家の一族の誰かが会津から北海道へとわたり、新たな事業を創業して軌道に乗ったころ、1888年(明治21)に二瓶徳松(二瓶等)が生まれているのではないだろうか。野口英世は1876年(明治9)の生まれなので、二瓶等は12歳年下ということになる。ひょっとすると、このふたりは会津か東京のどこかで出会っているのかもしれない。
 戦後、野口英世の切手を制作することが決まった際、郵政省の担当者に野口家または隣りの二瓶家の誰かが、「そういえば野口英世に近い二瓶家の親戚に洋画家がいる」と、下落合の二瓶等を紹介しやしなかっただろうか。中国で満州美術会を結成していた二瓶等は、敗戦とともに下落合にもどり、その後ほどなく、戦災からも焼け残っていた下落合584番地の自邸+アトリエを売却して池袋にアトリエを建てて転居している。野口英世の肖像画が、下落合と池袋のどちらのアトリエで描かれたかは定かではないが、鈴木良三にいわせれば「つつましい出来」(『芸術無限に生きて』1999年より)だった。
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 さて、しじゅうカネがなくて空腹を抱え、借金につぐ借金を繰り返して返済しない野口英世は、1,000円札に自身の肖像が採用されているのを見たら、はたしてどんな顔をするだろうか。「オラにそっくらだなし」というだろうか、それとも「わげ分がんね」だろうか。

◆写真上:中村彝のアトリエも近い、下落合584番地の二瓶等アトリエ跡(左手奥)。
◆写真中上は、米国の野口研究所で撮影された野口英世と研究スタッフたち。は、北里柴三郎の北里研究所に保存されていた晩年に近い野口英世の写真。
◆写真中下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる戦災から焼け残った二瓶等アトリエで、周囲の家々と比べても大きな邸宅だったのがわかる。は、1922年(大正11)制作の二瓶徳松(二瓶等)『真珠』。は、1924年(大正13)に制作された二瓶等『裸女』。
◆写真下は、1949年(昭和24)に発行された野口英世8円切手。中左は、肖像画のモチーフになったとみられるポートレート。中右は、現1,000円札の野口英世。実際の写真よりも肖像画に近似しているので、郵政省に残る作品を参照したものだろうか。は、2008年(平成20)に三修社から出版された星亮一『野口英世―波乱の生涯―』()と、1987年(昭和62)に翻訳され星和書店から出版された米国の伝記作家I.R.プレセット『野口英世』()。

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米軍から検閲と恫喝を受ける大田洋子。 [気になるエトセトラ]

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 1945年(昭和20)8月6日午前8時15分、蚊帳の中で寝ていた朝寝坊な大田洋子Click!の頭上600mで、B29「エノラ・ゲイ」から投下された原子爆弾が炸裂した。東京から郷里に疎開してきて、7ヶ月めのことだった。彼女はこの日から数日間、広島市街で目撃したことや起きたことなど、かつて見たこともない未曽有の惨状を、常に自身も原爆症におびえながらつぶさに脳裏へ刻みつけ、記録しつづけることになる。
 それまで、東京での大田洋子は相変わらず周囲から、「鼻もちならない」(『草饐-評伝大田洋子』)性格の人物だとみなされていた。1940年(昭和15)1月に朝日新聞社の懸賞小説に『桜の国』が1等当選し、賞金の1万円を手にすると渋谷区幡ヶ谷に一戸建てをかまえている。母親と女中の3人で暮らしていたこの家に泥棒が入ると、大田洋子は「家の中の事情をよく知る人物の犯行ではないか」と警察に吹聴し、文学やマスコミの関係者から出入りの商店の店員までが、きびしい取り調べの捜査対象となって顰蹙をかっている。犯人が逮捕されると、まったく彼女の知らないプロの泥棒だった。
 大田洋子は、この泥棒騒ぎをきっかけに被害者意識と恐怖感・不安感が高まり、近所の知り合いの主婦や知人の学生、はては愛読者たちまで動員して、夜間の警備をするよう頼んでいる。また、彼らには自身のことを「先生」と呼ぶように指示している。彼女の中に、名の知られた作家だという特権意識が大きくふくらみ、周囲を見くだし睥睨するようなより傲慢で横柄な態度が、以前にも増して表面化していった。
 1971年(昭和46)に濤書房から出版された、晩年を大田洋子といっしょに書生として暮していた、江刺昭子の『草饐―評伝大田洋子―』から引用してみよう。
  
 泥棒に入られる前からだったが、洋子のところに来る手紙には、「一と目でいいからお顔を拝見したい」、「お給料はいらないから住みこみで働きたい」という憧れ型が多い。これではまるで女優かなにかに対する騒ぎのようである。さすがの洋子も、「私は女優ではない、作家だ」などといきまいているが、悪い気はしなかったらしい。この頃から洋子の作家気取り、私は有名な作家なんだ、という歪んだ特権意識が目立ってきて、周囲から鼻もちならない女だと言われるようになる。他人を高みから見下すくせは、以前から洋子にあったが、あたるべからざる勢いのときだけに、よけいにいやみにみえる。それは、日本が太平洋戦争に入っていった頃にもあらためられなかった。
  
 ちょうどそのころ、淀橋区柏木1丁目142番地の足立ハウスに住んでいた、平林たい子Click!が大田洋子を訪問している。「豪華な金蒔絵の桐の胴丸火鉢、着物をたたまずに入れられるような大型の箪笥、ひらひらの長い大暖簾等々で飾り立てられた優美な部屋で、彼女は二つ三つ持っている小説の構想をすすめようとしていた」が、すでに自由に作品を書ける状況ではなくなっていた。「草月流の生け花」の裏ではツギハギだらけの襦袢を干しており、飾り立てた部屋の陰では配給になったサツマイモを細かく刻み人の見えないところで干していたと、平林たい子は皮肉たっぷりに書きとめている。
 1944年(昭和19)になると、大田洋子への原稿依頼はなくなり、幡ヶ谷から練馬のアパートへの転居後、翌年の1月に故郷の広島へ疎開している。そして、彼女の運命を激変させてしまう8月6日の朝を、白島九軒町の寝床の中で迎えた。
 彼女の周囲では、熱線の火傷や水平に突き抜けたガラスによる切り傷がひどい人間も、とりあえず外見的には無傷に見える人間も、次々と死んでいった。大田洋子は、原爆による被曝(放射線障害)と真正面から向きあわざるをえない、人類初の作家のひとりとなった。その瞬間の様子を、原稿用紙がないため避難先で障子紙の切れはしやちり紙などに書きつづけ、1945年(昭和20)11月に脱稿した『屍の街』から引用してみよう。
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 ちなみに、出典は2011年(平成23)に集英社から出版された、「戦争×文学」シリーズ19巻の『ヒロシマ・ナガサキ』収録の完全版から引用している。
  
 私は蚊帳のなかでぐっすりねむっていた。(中略) そのとき私は、海の底で稲妻に似た青い光につつまれたような夢を見たのだった。するとすぐ、大地を震わせるような恐ろしい音が鳴り響いた。雷鳴がとどろきわたるかと思うような、云いようのない音響につれて、山上から巨大な岩でも崩れかかってきたように、家の屋根が烈しい勢いで落ちかかって来た。気がついたとき、私は微塵に砕けた壁土の煙の中にぼんやりと佇んでいた。ひどくぼんやりして、ばかのように立っていた。苦痛もなく恐駭もなく、なんとなく平気な、漠とした泡のような思いであった。朝はやくあんなに輝いていた陽の光は消えて、梅雨時の夕ぐれか何かのようにあたりはうす暗かった。(中略) 微塵に砕けた硝子や、瓦のかけらの小山があるだけで、蚊帳や寝床さえもあと形もなかった。
  
 このとき、「苦痛もなく恐駭も」なかった大田洋子は、原爆の放射線を浴び身体のあちこちをガラスの破片で切っていたが、その痛みを感じないほどなにが起きたのかわからない呆然自失の状態だったと思われる。外を見やると、周囲は家々の残骸で埋まり、八丁堀の中国新聞社や流川町の放送局など、ふだんは見えない遠くの町々までが見わたせた。
 火災から避難する途中、大田洋子はあたりに折り重なる膨大な死体や被爆の惨状を、ときおり立ちどまりながら仔細に観察し、熱線で大火傷を負った妹から「書けますか、こんなこと」と問われ、「いつかは書かなくてはならないね。これを見た作家の責任だもの」と答えている。彼女は「いつか」書くといっていたが、いつ髪の毛が抜け血を吐くかわからない死と紙一重な身体におびえながら、避難先で鉛筆を借りると憑かれたように、黄ばんだ障子紙やちり紙に8月6日の惨状を記録していった。それは小説ではなく、むしろ精緻なルポルタージュあるいは記録文学と呼ばれるような作品だった。
 大田洋子は、1945年(昭和20)11月、死の影に追いかけられるように被爆後わずか4ヶ月で『屍の街』を脱稿しているが、初めて出版されたのは1948年(昭和23)の中央公論社からの単行本だった。ただし、米軍(おそらくGHQのCICかG2の情報機関Click!だろう)の検閲により大幅な削除をよぎなくされ、短縮版とでも称するような無惨な内容になっていた。
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 大田洋子が、自身の原爆体験を克明に書きとめているとの情報が(どこにも発表していないのに)GHQに伝わり、おそらく情報部の内部ではCICではなく、さまざまな謀略事件Click!で主導権を掌握しはじめていたG2Click!が手をまわしたのだろう、彼女への恫喝のために米軍将校が避難・療養先まで派遣されている。
 戦前から戦中にかけ、大田洋子はおしなべて軍国主義には“無害”で、国策とは対峙しない作品を書いていたせいか、特高Click!から弾圧されることはなかったが、敗戦後、なんでも自由に執筆できる時代を迎えると同時に、米軍から直接圧力や検閲を受ける作家になっていた。大田洋子に対する米軍の情報将校の尋問は、長時間にわたりかつ執拗だった。そのときの様子を、前出の『草饐―評伝大田洋子―』から引用してみよう。
  
 (『屍の街』が)掲載されていないのにどういう事情でかぎつけたのかわからないが、二十二年の初め頃、呉の諜報部から日本人通訳と二世の将校が、広島の山奥の玖島村にいる洋子のもとにやってくる。そして訊問が始まる。このときの様子は「山上」(二八・五『群像』)に詳しい。あなたの書いた原稿は誰と誰が読んでいるか、それを読んだ編集者はどんな思想と主義を持っているか、その原稿を日本人のほかに外国人の誰かが読んだか、八月六日以後あなたは広島の街を歩いたか、あなたのその原稿に原子爆弾の秘密が書かれているか、と淡白だが長い訊問が続く。(カッコ内引用者註)
  
 このあと、情報将校は「原子爆弾の記憶を忘れろ」すなわち「書くな」「記録するな」と何度も恫喝するが、大田洋子は「忘れることはできないと思います。忘れたいと思っても、忘れない気がしています」と、米軍の要求を拒否している。
 いまだ未発表だった大田洋子の『屍の街』を、米軍がすでにかぎつけていたということは、1947年(昭和22)を迎えるころには、原爆の詳細を広く公開しないよう抑圧する目的で、米国の工作員が情報収集のため広島へ大量に入りこまれていたとみられる。それは、別に米国人に限らず、免責を条件に米軍のスパイになった元・軍人や元・特高など、きのうまでは「一億玉砕・撃チテシ止マム」を叫んでいた日本人Click!たちだった可能性が高い。
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 朝鮮戦争が勃発した1950年(昭和25)5月、米軍による検閲なしの完全版『屍の街』が、初めて冬芽書房から出版された。脱稿から、すでに5年の歳月が流れていた。「原爆小説」を次々と発表していく大田洋子は、このころから睡眠薬と鎮静剤の依存症になり、不安神経症がこうじて入退院を繰り返している。すると、ほどなく「大田洋子は原爆を食いものにしている」というような非難があびせられるようになった。以前から、傲岸不遜な彼女の性格や言動のせいもあったのだろうが、当時のさまざまな事実が米国国立公文書館などで公開されている今日の視点から見ると、これ以上「原爆」の被害について執筆させないよう、マスコミにまぎれこんだ米国の言論工作員(スパイ)が意図的にバラまいた、大田洋子に対するネガティブキャンペーンの一環のように見える。

◆写真上:米公文書館で情報公開された、広島市上空で原爆が炸裂した直後のキノコ雲。
◆写真中上は、1950年(昭和25)に冬芽書房から初めて完全版が出版された大田洋子『屍の街』()と、自身の被爆体験を語る大田洋子()。は、1971年(昭和46)に濤書房から出版された江刺昭子『草饐―評伝大田洋子―』()と大田洋子()。
◆写真中下は、原爆投下から2日後の1945年(昭和20)8月8日にF13Click!によって撮影された広島市白島九軒町の惨状。眼下に見える二又川(京橋川)の河原のどこかに、大田洋子と母親や妹たち家族もいるはずだ。は、広島城から見た白鳥方面(北北東)の様子。コンクリート建築を除き、山裾までが一面の焦土で住宅が1棟も見えない。
◆写真下は、下落合の北隣りにあった長崎アトリエ村=さくらヶ丘パルテノンClick!で暮らした丸木位里Click!丸木俊(赤松俊子)Click!夫妻の制作よる『原爆の図/第八部』(部分/1954年)。は、1961年(昭和41)制作のイヴ・クライン『ヒロシマ(自家態測定79)』(部分)。は、61歳で取材旅行中に急死する晩年の大田洋子。57歳で死去とする資料は多いが、年齢を常に3~4歳サバ読んで周囲に語っていたことがのちに判明している。

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のべ2,000万人に感謝と江戸東京のお遊び。 [気になる下落合]

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 拙ブログのスタートから今年で17年目になるが、先週末、訪問者数がのべ2,000万人を超えた。あまりにも膨大なPVなので、もうひとつ実感が湧かずボンヤリするしかないのだが、フォロワーの多い人気のSNSやYouTuberならともかく、これほど地域色が強く非常に地味なサイトのPVにしては、やはり不思議だし少し気持ちが悪い。あまり深く考えるのはやめて、ここは落合・目白地域の好きな方、ひいては江戸東京の好きな方々が何度も訪れては、拙記事を参照してくださっている……と素直に考え、もう少し書きつづけたいと思う。
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 さて、きょうは2,000万PV記念ということで、江戸東京の“お遊び”について取りあげてみたい。美術をはじめ芸術を“遊び”ととらえるなら、「いつも、そのテーマで書いてるじゃん」ということになるけれど、今回は美術ゲームの“遊び”について。
 江戸期から武家や町人を問わず、現在までつづいてきた“お遊び”のひとつに「入札鑑定会」がある。落合・目白地域には、美術刀剣を趣味にする人たちがたくさん住んでいたので、戦前まではあちこちでこのゲームが開かれていたのではないだろうか。わたしもときどき、丁子油など手入れ道具でお世話になる、1880年(明治13)創業の下落合の刀剣店・飯田高遠堂さんは、だからこそ現在まで営業をつづけてこられたのだろう。
 いつかもご紹介Click!したけれど、入札鑑定会とは刀剣の茎(なかご:柄の中に収まる刀身の手持ち部分)の銘を隠して刀工銘を当てさせる、美術品や骨董品ではよく行われているブラインドテストのようなゲームだ。つまり、どれだけ作品について見る眼=鑑識眼があるかを試し競いあうゲームだが、裏返せば自身の観賞眼を養い育てるには最適な、実地の模擬テストのような催しでもある。
 入札鑑定会は、「判者」と呼ばれる主催者(ないしは講師のように招かれた鑑定士)が蒐集している手持ちの作品、あるいは鑑定会用に借りてきた5~10振りの作品を並べ、刀剣の柄に収まる茎の部分を白鞘のまま、あるいは刀身のみの場合は銘の切られた部分を布などで厳重に覆い隠して、参加者たちに刀工銘を当てさせるゲームだ。参加者は、出品された刀剣の体配(刀姿)や刀身(地肌)の色つや、目白(鋼)Click!の折り返し鍛錬の模様、刃文、鋩(きっさき)の形状や帽子(ぼうし:刃文の返り方)などを仔細に観察し、自分がこれだと思う刀工銘を書いて紙片を判者にわたす、すなわち入札する。
 このゲームは、江戸期には刀が好きな武家の屋敷で、あるいは刀剣が趣味の町人宅で、さらに販促プロモーションの一環として刀屋などで開かれていた。町人は、大刀を指して歩くのは幕府に禁じられていたが、自宅に所有するのは「勝手」であり、また2尺(約60.6cm)以下の脇指なら指して出歩けたので、おカネに余裕のある商人たちの間でも鑑定ゲームは急速に広まっていった。さらに、江戸も後期になると刀剣鑑賞の趣味が拡がり、武家や町人をまじえてのいわば芝居連や長唄連などと同じような同好会ができて、身分にとにわれない連中(同好会員のこと)による無礼講の鑑定・鑑賞会も開催されていた。もちろん、裕福な町人たちのもとには出来のよい刀剣作品が集まりやすくなったためで、武家がそれを鑑定会などで拝観するというアベコベの世の中になっていた。
 さて、入札鑑定会で茎(なかご)を白鞘の柄のまま提示するのは、いまや刀剣趣味の常連や上級者向けの鑑定会で、銘の部分だけ布などを巻いて隠すほうが比較的やさしく(江戸期にはこのやり方が多かったようだ)、初心者向けの鑑定会といえるだろうか。なぜなら、刀剣の茎は刀工の特徴が色濃くあらわれている部分であり、茎の形状をはじめ、そこにほどこされた化粧鑢(けしょうやすり)による鑢目のデザイン、茎尻と呼ばれる茎の先のかたち、錆(さび)のつき方(経年)などで、かなり時代や刀工を絞りこめてしまうからだ。
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 たとえば、茎のかたちが舟形(ふながた)をしており、茎尻が入山形(片山形)で化粧鑢が筋違(すじちがい)であれば、まず鎌倉期から室町期にかけての相州伝鍛冶を疑えるし、茎が鰱腹(たなごばら)形で茎尻が入山形ないしは栗尻形なら、まっ先に室町末期から江戸期にかけ伊勢桑名で鍛刀していた千子一派、中でも村正や正重、正真の系統を疑えるというように、ほぼ地域や刀工の一派(工房)をピンポイントで特定できてしまうからだ。もっとも、こんな簡単な問題は、おそらく入札鑑定会では出ないだろうが……。
 鑑定会の参加者が、判者に入札した答えが正解であれば「当(あたり)」という回答をもらえるが、「当」でない場合はハズレではなく、もう一度考え直して絞りこめるようにヒントを与えてくれる。チャンスは三度まで、つまり3回までは入札を繰り返せるが、それでも的中できなければ鑑識眼がいまだ未熟だということになってしまう。
 たとえば、入札して「同然」という回答があったとすれば、先の例でいうと「村正」と書いて判者から「同然」と回答があったなら、じゃあ同じ千子一派の作が似ている「正真」かな……と推定することができる。また、以前の記事Click!でいえば会津の「國定」と書いて「能候(よくそうろ)」となれば、これは同じ国の別の刀工一派だよということで、造りが近しい会津の「兼定」にちがいない……ということになる。あるいは、中村相馬藩の「國貞」だと入札して「通(とおり)」と回答されれば、同じ奥州街道沿いにある別の国の刀工、たとえば仙台の「正繁」あたりかな……と再考できるし、これは相州伝の「志津三郎兼氏」にそっくりなので入札すると「時代違(ちがい)」という回答で、ついでに「そんな国宝に近い作品が、ここの鑑定会に出るわけないじゃん。この作品も超貴重だけどさ」と判者からいわれたら、地鉄も新しいし研ぎ減りもほとんどないから四谷正宗Click!の「清麿」で再入札とか、判者との間のやりとりも楽しめるゲームなのだ。
 ただ、上記は単純にわかりやすくするために例として書いたケースで、たとえば「千子村正」なら何代の作品か、あるいは室町期の作なのか江戸期の作品なのかと、よりシビアな上級者向けの鑑定会もあることはお断りしておきたい。先のように、入札して「時代違(じだいちがい)」と回答されたら、そもそも室町期(慶長期)以前の古刀と江戸期(慶長期)以降の新刀とを取りちがえているよという意味だし、濤瀾刃だから「二代・津田助廣」だろうと入札したら「否縁(いやえん)」と回答され、「ひょっとすると越前守助廣の焼き刃を再現した江戸の水心子正秀Click!の新々刀? でも、流派が同じだとはいえないしなぁ」と、別の角度から作品を推理することができる。
 また、江戸の「石堂是一Click!」だろうと入札したら「本国能候(ほんごくにてよくそうろう)」と回答され、じゃあ近江が出自の大坂石堂か紀州石堂あたりかなというように、刀工が分派する以前の国だけは合ってるよという意味になるし、この焼き刃は「越前下坂」だと入札したら「出先能候(でさきにてよくそうろう)」という回答なので、じゃあ越前から江戸にやってきて徳川幕府お抱えになった「康継」あたりしかいないじゃんとなる。最後に、まったく見当ちがいの入札で、どうにも救いようのない鑑定結果の場合は「否(いや)」と回答され、もっと勉強しなさい……ということになる。
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 古刀や新刀、新々刀を問わず、刀剣には必ず刀工や鍛刀法(伝)、流派などの技術的な特徴(法則性)があるので、刀の体配(姿)や地鉄、鎬の造り方、刃文、帽子の返り方、樋、彫刻、茎(鑑定会で一部を見せてくれれば)などを詳しく観察し記憶すれば、1回の入札で当てられなくても3回ほど繰り返せば「当」をもらうことは困難ではない。ただし、そのためには数多くの美術館や博物館の刀剣展に通い、実物を数多く鑑賞しなければならないのは、あらゆる美術品と同様にある程度根気と積み重ねが要求される趣味だ。
 ただし、入札鑑定会ならではの弱点もある。「当」がよく出るようになると、自分にはかなり深い鑑識力や審美眼が備わった……と錯覚しがちなことだ。考えてみれば、入札鑑定会に出品される刀剣は、できるだけ特徴が出やすくわかりやすい作品をあらかじめ選んで、さまざまなレベルの愛刀家たちを集めて行われる。つまり、初心者には難しいが上級者には比較的たやすく「当」がとれるという意味では、実力が中レベルの入札者を想定して作品をそろえる傾向が見られる。換言すれば、入札鑑定会で「当」が多くなるということは、ようやく鑑定の基礎ができたぐらいに解釈しておかないと、鑑識力や審美眼がそれ以上深まらなくなってしまうというデメリットが生じてしまう。
 このデメリットは、すでに戦前から頻繁に指摘されていた課題でもある。1939年(昭和14)に岩波書店から出版された、本間順治『日本刀』から引用してみよう。
  
 これは(入札鑑定会は)興味を感じつゝ鑑定の稽古となることとして考へられたことで、慥かに益もあることであるが、現在の返答規則では学問的見地からは初学者には勧め兼ねるものがある。(中略) 個名までを信念を以て当てることは容易でないのであるが、入札刀を選ぶ楽屋の手加減と誘導的の返答の結果はさまで苦労もせずして個名までを的中することとなり、そこで宛も個名の特色を会得したかの陶酔気分になる。然し後に省れば当時は系統の特色を捉へてゐたに過ぎなかつたので、偶々知つてゐた一つの名を云つたら当つてきたと云つたやうに微苦笑的の経験が愛刀家には多いことであらう。かくして自然に系統や時代の特色をも覚える、それでもよいのかも知れぬが、自分が提案したいのは、初学者には先ず時代と系統の特色を十分に教へ、それの復習として入札鑑定でも、まづ(ママ)時代と系統のみを当てさせ、高等科の人々にのみ個名までの入札をさせ、而して時代と系統の相違には罰点を与えること、たとひ(ママ)個名は当らずともその作の出来より見て尤もと思はれるものには点を与へることである。(カッコ内引用者註)
  
 著者は「学問的見地」と書いているけれど、趣味を単に楽しむだけでなく学問・研究レベルにまで高めたいのであれば、上記のように地道に努力する姿勢がとても大切だろう。ただ、美術はどの分野も限りなく奥が深いので、最初はちょっと趣味で楽しむだけと思っていたのに、だんだんそれでは飽き足らなくなってのめりこみ、ついには専門書を片端から読みはじめる……なんてことが起きるのもまた、物好きな趣味の世界なのだ。
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 現在、全国で行われている入札鑑定会はほとんどヲジサンばかりの参加者で、若い刀女子には参加しづらいかもしれない。だから、美術館や博物館の展覧会が女子であふれるのだろうが、やはり実際に手にとり間近で観賞しないとわからないことがたくさんある。そういう女子には、刀剣鑑賞会というのが各地で開かれているので、気軽に参加してみるのも面白いだろう。実際に作品を手にとって、鋩の帽子から茎のすみずみまで観察・観賞することができる。いまどきの女子の体格や筋力であれば、大刀の重さもそれほど苦にならないだろう。ただし、あらかじめ刀の扱い方をきちんと勉強して、くれぐれもケガをしませんように。アニメや時代劇のように刀が扱えるなどと思っていては、大まちがいを犯すだろう。

◆写真上:目白通り沿いの下落合にある、今年で創業141年の刀剣店「飯田高遠堂」。
◆写真中上は、舟形の茎が特徴的な室町末期の「相州正廣」。は、鰱腹形の茎ですぐわかる相州伝系で伊勢桑名に住んだ千子一派の初代「村正」。芝居や講談で村正は有名だが、美術刀剣としての価値はあまり高くない。は、美濃鍛冶の後代「志津兼氏」。
◆写真中下は、浜辺にうねり寄せる波を連想させる濤瀾刃で有名な大坂の「津田越前守助廣」(二代助廣)。銘が近衛草書体で丸っこくなっているので、1674年(延宝2)以降に制作された「丸津田」と呼ばれる作品。は、備前伝の互(ぐ)の目丁子乱れ刃が特徴的な江戸赤坂に住んだ初代「石堂是一」。は、江戸幕府の抱え刀工だった越前下坂が故郷の三代「越前康継」。幕府御用のため、茎に葵紋を切ることが許されていた。
◆写真下は、入札鑑定会の会場で茎の白鞘が外されないまま並べられた作品類。は、戦前の代表的な刀剣書籍で、1939年(昭和14)に岩波書店から出版された本間順治『日本刀』()と、1934年(昭和9)に雄山閣から出版された『日本刀講座』(雄山閣編・全20巻/)。は、若い刀女子にも気軽に参加できる刀剣鑑賞会。
おまけ
 ケキョケキョばかりだった下落合のウグイスが、ようやく上手にさえずるようになった。

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高田馬場仮駅は二度設置されている。 [気になる下落合]

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 西武鉄道村山線(地元や当時の新聞雑誌では通称・西武電鉄Click!と呼ばれている)が、陸軍の鉄道連隊Click!の演習によって敷設されたあと、しばらくの間は山手線の線路土手の西側下にあった高田馬場仮駅Click!が公的には起点(終点)だったことは、これまでにも記事に何度か取りあげてきた。高田馬場仮駅からは、木製の長い連絡桟橋Click!が旧・神田上水(1966年より神田川)をまたぎ、早稲田通りまで延々とつづいていた。また、物流や操車の観点からすると、氷川明神前の下落合904番地にあった初代・下落合駅Click!が、実質上の起点(終点)だったことも、地元の証言などもまじえながら何度か記事にしている。
 そして、山手線をくぐるガードClick!が竣工すると、西武線は省線・高田馬場駅ホームの東側へと乗り入れている……と漫然と考えてきた。さまざまな資料や書籍を参照すると、いずれもそのような経緯や表現で書かれている。ところが、これがまちがいだったのだ。山手線をくぐるガードが完成しても、省線・高田馬場駅のホームに隣接する西武線のホーム工事、および早稲田通りをまたぐ鉄橋(陸橋)の工事は完成しておらず、西武鉄道は再び第二の仮駅を別の場所へ建設している。今度は山手線の線路土手の東側、早稲田通りの手前にあたる位置に第二の高田馬場仮駅が設置された。
 これは、西武線が敷設された当時、鉄道第一連隊の本部が置かれていた野方町の須藤家(野方町江古田1522番地)の証言を見つけ、わたしも初めて知った事実だ。鉄道第一連隊の敷設演習本部(司令部)には、指揮官の少佐をはじめ、大尉が2名、副官の中尉が1名、当番兵が4名の計8名が詰めていた。そのほかの下士官や兵士たちは、本部の家屋では収容できないので、周辺の寺院や民家に分散して宿泊している。朝鮮での演習Click!につづき、西武線の敷設演習で使用された新兵器=「軌条敷設器」Click!を発明した工兵曹長・笠原治長も、もちろん須藤家の本部付近に駐屯していただろう。
 そして、もうひとつの演習本部は田無町(のち田無市本町3丁目)の増田家に置かれ、同様の構成で士官や兵たちが同家に詰めていたとみられる。国立公文書館の資料を参照すると、西武線の敷設演習は1926年(大正15)の夏から秋にかけ鉄道第一連隊(千葉)と鉄道第二連隊(津田沼)による、朝鮮鉄道の鎮昌線で行われた軌条敷設の合同演習の延長戦的な位置づけで実施されており、田無町の演習本部には鉄道第二連隊の司令部が詰めていた可能性が高い。また、田無町の本部には、中華民国の武官が滞在して演習を見学しており、帰国時には記念にと本部となった増田家へ軸画をプレゼントしている。
 1926年(大正15)の暮れ近く、田無町の増田家を本部にした鉄道連隊の演習では、レールを現在の東村山駅付近から田無駅付近まで敷設するのに8日間かかっている。障害物があまりないとはいえ、約14kmほどの線路敷設演習を8日で結了したのは、鉄道連隊にとってはかなりの好成績だったのではないだろうか。
 一方、野方町の須藤家を本部にした鉄道第一連隊は、井荻駅付近から下落合駅(現在地ではなく下落合氷川明神社前駅Click!)、そして高田馬場仮駅付近までの演習も容易だったとみえ、石神井町から井荻町、野方町、そして落合町までの約8~9kmほどを1週間足らずで完了し、部隊は7日目に省線・高田馬場駅の北方200mの線路土手(西側)下に到達している。電車用の電柱および電力線は、軌条(レール)が敷設されるそばから順に設置されており、その後は1927年(昭和2)4月の開業まで西武鉄道によって各駅舎やホームが建設されていった。
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 わたしは、鉄道連隊による井荻あたりから下落合までのレール敷設リードタイムを、朝鮮・鎮昌線における演習スピードから換算して、以前の記事では2~3週間ほどだったのではないかと想定したが、正味わずか7日間で結了している。すなわち、東村山から下落合まで全長23km強ほどの距離を、途中に目立った難所がなかったとはいえのべ15日間、わずか2週間強で結了していることになるのだ。その工程では、笠原工兵曹長の考案した「軌条敷設器」が、大きな威力を発揮したのかもしれない。
 おそらく、1926年(大正15)10月に朝鮮の鎮昌線敷設演習からもどった千葉鉄道第一連隊と津田沼鉄道第二連隊は、1ヶ月ほどの休息期間をへたあと、同年12月には西武線の敷設演習を開始し、東村山-下落合間約23kmの工事をのべ2週間ほどで完了、すなわち年内に演習工事を結了して、翌1927年(昭和2)1月13日に近衛師団長・津野一輔から陸軍大臣・宇垣一成あてに、「軌条敷設器」を実際に西武鉄道演習で投入してみた実証実験の報告書、「鉄道敷設器材審査採用ノ件申請」を提出しているのだとみられる。
 1927年(昭和2)4月16日に西武線が開業する以前にもかかわらず、線路上を貨物列車が頻繁に往来するのを落合住民が目撃しているが、村山貯水池建設のために東村山駅の物流拠点Click!に集積されていた、秩父産のセメントClick!や多摩川で採掘した砂利Click!を、のちに陸軍のコンクリート建築が林立することになる戸山ヶ原Click!へせっせと運びこんでいたことは、何度かこちらでも指摘してきたとおりだ。その際、物流の拠点として使われた駅が、旧・神田上水に脆弱な木製の連絡桟橋をわたした高田馬場仮駅ではなく、鉄筋コンクリートの頑強な田島橋を利用できる氷川社前の下落合駅だったことも書いた。
 また、電車についても高田馬場仮駅ではなく氷川社前の下落合駅が、実質上の起点(終点)になっていた時期も確かにあったようだ。それがなぜなのかは、地元の証言だけで裏づけとなる資料がいまだ見つからないが、高田馬場仮駅へと急激にカーブする線路上で、何度か電車の脱線事故が起きていたのではないかと想定している。高田馬場仮駅のホームへ入る直前、その入線の鋭角はわずかなスピード超過でも脱線の危険性が高かったとみられる。
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 さて、高田馬場仮駅の長大な木製桟橋を、実際に歩いてわたった方の体験談が残っている。記録を残したのは、鉄道第一連隊の司令部になっていた須藤家の主人で、西武線の開業時に1番電車へ招待されたのかもしれない。いかにも臨時で構築した危なっかしい連絡桟橋の様子を、1984年(昭和59)に発行された『江古田今昔』(中野区江古田地域センター)収録の、須藤亮作「西武鉄道の開通」から引用してみよう。ちなみに、仮駅のホーム自体も、すぐに撤去できるよう木造だったと思われる。
  
 起点になる高田馬場の仮停車場は山手線の土手下で神田川の北側に設置され、土手の下部を土手に沿って板張りの歩道を設け高田馬場駅前(現今の早稲田通り)へ連絡した。板張りの通路をガタガタ音をたてて歩いたのも思い出の一つである。/数年の後山手線の土手をガードで東側へ抜け、土手に沿って南折し神田川を鉄橋で渡り山手線に平行して早稲田通りまで鉄道が布設され仮停車場も移行された。(赤文字引用者註)
  
 著者もさりげなく書いているように、山手線をくぐるガードを抜け旧・神田上水の鉄橋をわたって、すぐに省線・高田馬場駅へ乗り入れた……のではなく、早稲田通りの手前まで線路が延長された時点で、省線・高田馬場駅のホームと並ぶ正式な西武高田馬場駅と、早稲田通りをまたぐ鉄橋が竣工待ちの状態になっていたのだ。したがって、山手線の線路土手東側に再び仮駅を設置しなければならず、「仮停車場も移行」せざるをえなくなった。おそらく、第二の仮駅が掲載された地図も、また当時の証言もほとんど残っていないところをみると、その期間は数ヶ月単位で、それほど長くはなかったのだろう。
 この第二の高田馬場仮駅が、山手線の線路土手東側のどこに設置されていたのかは、なんら手がかりがないので不明なのだけれど、西武線が高い位置にある省線・高田馬場駅のホームと同じ高さへ乗り入れる都合から、一定の高度を確保するために線路土手が築かれているが、第二の仮駅は早稲田通りの手前の線路土手上に設置されていたのかもしれない。利用者は、やはり臨時の木造ホームに降りると、早稲田通りへ出るために木製の長い階段を伝わって下りたものだろうか。このあと、1928年(昭和3)春にようやく早稲田通りをまたぐ鉄橋が完成し、省線・高田馬場駅のホームと並んだ西武高田馬場駅が開業することになる。
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 当時、早稲田大学の織田幹雄選手が陸上の三段跳びの日本新記録を次々と塗りかえており、全国で三段跳びのブームが起きていたが、地元住民の中には西武鉄道の高田馬場駅工事、すなわち第一高田馬場仮駅(ホップ)→第二高田馬場仮駅(ステップ)→正式な西武高田馬場駅(ジャンプ)という建設フェーズを、「高田馬場駅の三段跳び」と称してことさら記憶にとどめた人たちがいた。なぜ、わざわざ設置されていた第一高田馬場仮駅を解体して、仮駅を二度も建設しなければならなかったのかは、第一高田馬場駅の急カーブで起きたとみられる電車の脱線事故の防止対策と、どこかでつながる(切実な)課題だったのかもしれない。

◆写真上:第二高田馬場仮駅があった、早稲田通り手前の西武線の線路土手界隈。
◆写真中上は、1928年(昭和3)の「落合町市街図」にみる第一高田馬場仮駅と早稲田通りまでつづく長い木製の連絡桟橋。は、1927年(昭和2)に陸軍士官学校の学生が演習で作成した「落合町」1/8,000地図。第一高田馬場仮駅と、土手沿いにつづく連絡桟橋も採取されている。は、第一高田馬場仮駅があったあたりの現状。
◆写真中下は、開業直後の西武線の様子。上高田から東を向いて撮影されており、遠景の丘陵は下落合の目白崖線だとみられる。は、上高田を通る西武線。
◆写真下は、下落合西部の妙正寺川鉄橋をわたる昭和初期の西武線。は、山手線ガードから下落合側へ抜ける1950年(昭和25)ごろの西武線。第二高田馬場仮駅は、右手の線路つづきで撮影者の背後あたりにあったと思われる。は、同山手線ガードの現状。

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村山知義が好物のウナギとタヌキ。 [気になる下落合]

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 村山知義Click!は、小学生だった10歳のときに父親を亡くし、家の働き手がいなくなって家運が急速に傾いている。したがって、彼の好物だった鰻丼を食べる機会は減り、誕生日とかクリスマスなどの記念日を除いては口に入らなくなった。
 すると、箱に入れられたウナギだけの蒲焼きを、なんとなくもったいなく感じるようになり、蒲焼きの移り香と甘辛ダレが沁みこんだ飯がないと落ち着かないようになった。ごくたまに家で鰻丼をとったりすると、蒲焼きの下にある飯に自宅の残り飯をつぎ足しては、うまく甘辛ダレを混ぜ合わせて食べるのが、村山少年の無上の楽しみになっている。
 1947年(昭和22)に桜井書店から出版された、村山知義『随筆集/亡き妻に』Click!収録の「鰻と時代」から引用してみよう。
  
 子供の時から僕の大好物は鰻だつた。鰻丼とさへ聞けば、僕はもう上機嫌だ。やれ大和田の、やれ竹葉のと、面倒なことは云はない。鰻と名のつくものが蒲焼にしてさへあれば、もうそれで舌がとろけさうになるのだ。(ところで、こんなに大事な「うなどん」といふ言葉は、僕の自信ある発音に依ればウナのウにアクセントがあり、至急電報のウナ、あのウナのやうに発音するのだが、これだけは僕の知つてゐるどの江戸ツ子に聞いてみても一笑に附される。皆そりや極つてる、ナにアクセントがあるのだといふ。そしてさう云ふ彼等は江戸も下町生れのものだ。だから、山の手とは違ふのだらうと思つてゐるのだが――)
  
 わたしも、もちろん「ウドン」であり、「ナドン」とは発音しない。村山知義は神田末広町(現・千代田区外神田)の生まれだが、すぐに物心つくころから静岡県の沼津や東京の大森、日暮里(谷中)などへせわしなく転居しているので、そのいずれかの地域のイントネーションから影響を受けたものだろうか。
 彼は「山の手とは違ふのだろう思つてゐる」と書いているが、東京の乃手Click!でもまちがいなく「ウドン」だろう。村山家の家庭内だけで発音されていた、局地限定の「ナドン」ではないだろうか。もっとも、わたしが知らないだけで大森あるいは谷中のどちらかでは、ほんとうに「ナドン」と発音するのだろうか?
 村山知義は、特高Click!に逮捕されたあと未決のまま拘置所で食うウナギも、通常より美味に感じていたようだ。1940年(昭和15)8月、新協劇団の公演中に滝沢修Click!千田是也Click!久保守Click!らと三度めに検挙された彼は、判決が出るまでの1941年(昭和16)2月から1942年(昭和17)4月まで拘置所にぶちこまれていた。裁判の進捗を遅らせる、明らかに違法な「代用監獄」だとみられるが、特高は検挙や取り調べで人殺しをしても罰せられないような状況(全国で約200名が虐殺され1500名以上が拷問などで「獄中死」している)になっていたので、そのぐらいのことは問題にもならなかったのだろう。
 豊多摩刑務所Click!とはちがい、拘置所では「自弁」といってカネさえあれば差入屋へ弁当を注文することができた。戦時中であり、拘置所の食事だけでは確実に栄養失調になってしまうため、80銭を出して「中弁」を注文すると、たまに小さなウナギの蒲焼き(の欠片)が入っていた。脂肪のない、まるでドジョウのように細いウナギだったが、「何とうまかつたことだらう」と書いている。
 もっとも、共産主義や社会主義、自由主義、民主主義を問わず、思想犯への嫌がらせは拘置所内にもあり、「自弁」の申請が聞こえないふりをして注文させない、性悪な看守たちもけっこういたらしい。このあたり、急病人が出て医者を呼ぶよう申請しても聞こえないふりをしてシカトする、スターリニズムClick!下のソ連のラーゲリ(強制収容所)にいた看守たちとそっくりだ。拘置所でも監獄でも、栄養失調で死んでくれたほうが面倒がなく、手間がかからずにいいというような上部の意向を、看守たちが率先して“忖度”していたものだろうか。
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 戦時中における官公庁の腐敗ぶりは、拘置所に出入りする「自弁」の差入屋にからめて村山も記録している。食糧はもちろん、世の中すべての物品が配給制Click!になっていた戦時中、統制価格を越えて物品を販売するのを取り締まる、「暴利取締令」が施行されていた。ところが、「自弁」の差入屋は市価の3倍ほどの値段で平然と販売していた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 その未決拘置中、昭和十六年の四月に母が死んだので、葬式の当日、朝九時からその夕方の五時迄、外に出る事を許され、僕は家に帰つて母の棺の前に立つて、弔問者に礼をした。その時の昼飯に、うまくて安いので有名な近所の源氏といふ鰻屋から鰻丼が取り寄せられた。それは同じ八十銭だが差入屋のとは全く違つて、脂の乗つた鰻だつたが、一ト口でもう食べたくなかつた。しかしこの二つの鰻飯をくらべて見ると、あの当時の拘置所の差入屋は一般市価の三倍位の暴利をむさぼつてゐたことが明らかだ。暴利取締令違反の犯人を入れてをく拘置所の差入屋がこれだつたのだから、あの時代の官庁関係の紊乱は言外の沙汰であつたわけだ。
  
 もちろん、差入屋が暴利のすべてをそのままポケットに入れていたわけではなく、そのうちの少なからぬ割合の金銭を、拘置所の官吏たちが賄賂として受けとり、私腹をこやしていたのはまちがいないだろう。
 文中に登場する「源氏」は、1941年(昭和16)の当時は上落合の鶏鳴坂Click!沿い、早稲田通りに近い位置で大正期から営業していたウナギ屋だった。村山知義のアトリエから、西へ直線距離で340mほどのところ(上落合1丁目540番地あたり)にあったが、空襲で上落合が壊滅Click!した戦後は、上落合2丁目635番地(現・上落合3丁目)の上落合銀座通りへと移転し、現在も営業をつづけている。
 「鰻どころではなく、築地小劇場も宮川もM座も源氏も僕自身の家も、何もかも焼けてしまった」と絶望的に書いているので、「鰻と時代」が書かれた1946年(昭和21)2月の時点では、子どものころからのファンだったらしい根岸の「宮川」Click!も上落合の「源氏」も、いまだ復興していなかったのだろう。葬儀では、せっかく脂の乗った「源氏」の鰻丼が出たが、村山知義は母を喪った悲しみばかりで食べることができなかった。
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 さて、村山知義が生まれた神田区末広町34番地の家は、神田明神Click!裏(境内東側)の石段(男坂)を下りて御成街道(中山道のこと)へと抜ける途中にあった。その古い家には、タヌキとイタチが棲みついていたようだ。イタチは、池の金魚をとって食べてしまうので子ども心に凄惨なイメージをもったようだが、さすがに現在ではタヌキはともかく、神田にイタチは棲息していないだろう。タヌキは先年、新宿駅でも目撃されるぐらいだから、神田のどこに棲んでいてもなんら不思議はない。
 村山知義の連れ合い村山籌子Click!の故郷・高松は、町じゅうがタヌキだらけの土地柄だったようだ。彼女の実家の庭にも、「豆さん」と名づけられたタヌキが棲んでおり、5尺(約152cm)もある大きなタヌキの焼き物(おそらく信楽焼だろう)の腹に開いた穴を棲み家にしている。毎日、縁の下に赤飯や油揚げなどをそなえておくと、翌朝にはきれいになくなっていたらしい。「高松といふところは(中略)、恐ろしく狸が群集してゐたところ」と書いているので、彼が妻の実家へ遊びにいくと、よくタヌキの伝説やウワサ話を耳にし、実際にあちこちで目撃していたのかもしれない。
 タヌキが「群集」していたせいか、高松の土産ものに伝説にちなんだ「張り子の禿狸」というのがあり、村山知義はさっそく色分けされた何種類かの作品を蒐集している。高松の郷土玩具になっている「屋島禿狸」は、佐渡島の「団三郎狸」と淡路島の「芝右衛門狸」と並び「日本三狸」と呼ばれるほど有名だ。だが、これら「禿狸」コレクションも1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で、上落合のアトリエとともに灰になってしまった。「この廃墟の中から、再び狸の伝説が蘇へつてくるであらうか? それともB29の爆弾と一緒に滅亡してしまふだらうか」と書いている。
 彼が焦土と化した上落合に立ったとしても、もう少し近くの森や寺社の境内、あるいは焼け残った下落合や西落合の住宅街などを注意ぶかく観察していれば、落合地域のあちこちでタヌキの姿を目撃することができただろう。すでにイタチは絶滅していたかもしれないが、屋根裏に棲み電線をわたるハクビシンは見つけられたかもしれない。
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 村山知義はこのエッセイの冒頭で、「敗戦を契機として、今迄立派なものや、美しいものやに化けてゐたたくさんの狸といたちが、化の皮を剥がれた」と書きだしている。このような軍国主義者や「亡国」論者、エセ「ナショナリスト」や国家を滅亡させたエセ「愛国者」たちは絶滅してほしいものだが、下落合(上落合や西落合にも?)に生息するタヌキたちには、いつまでも生き残っていてほしい。ちなみに、わたしの家の周囲には毎年3~4頭のタヌキたちが姿を見せるが、彼が書いているように決して「化け」ることなどない。w

◆写真上:古くから上落合で営業していた、村山知義が好物の鰻屋「源氏」の蒲焼き。
◆写真中上は、戦後は上落合銀座通りへ移った「源氏」の現状。は、空襲直前の1945年(昭和20)4月6日に撮影された空中写真にみる鶏鳴坂とその周辺。は、村山知義が谷中時代からの贔屓店だったとみられる根岸「宮川」の蒲焼き。
◆写真中下:ブラブラ散歩で立ち寄る、落合地域の周辺にある鰻屋。からへ、南長崎の「鰻家」、雑司ヶ谷の「江戸一」、高田馬場の「愛川」と「伊豆栄」、馬場下町の「すゞ金」。COVID-19禍のせいで、休業または出前と持ち帰りだけのところも多い。
◆写真下は、神田明神脇にあるバッケ階段(男坂)。は、下落合のタヌキたち。
おまけ
 うちのヤマネコは、普段はこんなありさまだが(ジャマ!)、タヌキを見ると咆哮を発して敵愾心をMAXにする。御留山にいた小さいころ、最大の競合相手だったのだろうか。
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落合・目白地域に集った名刀たち。 [気になる下落合]

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 少し前、落合・目白地域にあった邸の、武具蔵に収蔵されていた美術刀剣について、その作品や技術の継承にからめ記事Click!を書いた。戦後、これらの邸にあった作品は各地の博物館や美術館に寄贈されるか、あるいは手放されて離散してしまった作品、戦時中に空襲で「焼け身」となったもの、さらに戦後は行方不明の作品(GHQにより持ち去られたか廃棄処分された)などなど、さまざまな経緯をへて現在にいたっている。
 上記の中で「焼け身」とは、火災で焼けた刀剣のことで、一度火をくぐったことにより当初の焼き刃(刃文)が消滅してしまった作品のことだ。もう一度、焼き入れの段階からやり直し再刃(再び刃をつけること)を施すことは可能だが、オリジナルの刃文とはまったく異なってしまうため、美術的な価値は大きく低下する。古くは1614年(慶長19)の大坂夏の陣で、大阪城内にあった重要な刀剣類がすべて焼け身になってしまい、江戸幕府お抱えの刀工・越前康継が焼き直して再刃したエピソードは有名だが、作品の史的な資料価値はともかく、美術的な価値はあまりなくなってしまった。
 明治以降では、関東大震災Click!や戦時中の東京大空襲Click!山手大空襲Click!などでも焼け身の作品が出ているが、史的な価値の高いものは再刃されて現代まで伝わっている。したがって、落合・目白地域の各邸に保存されていた刀剣作品を正確に把握・規定するためには、戦前の収蔵品リスト、すなわち大正期から昭和初期にかけて登録されていた刀剣目録を参照する必要がある。それには、当時の「国宝」に指定された刀剣リストや、いわゆる「名物帖」と呼ばれる美術的にも史的資料としても価値の高い刀剣リストから、落合・目白地域に残る作品を総ざらえするのが手っとり早いだろう。
 ただし、戦前に指定されていた「国宝」と、戦後に規定されている国宝の価値とは大きく異なる。戦後つまり現代の規定は、あくまでも美術的かつ学術的にも優れて重要な作品が指定されているが、戦前の「国宝」には皇国史観Click!が通底しており、美術的にも学術的にもたいしたことのない作品が、天皇がらみというだけで「国宝」に指定されるなど、きわめて恣意的で政治的かつ国家主義的なイデオロギー要素が強いことに留意したい。事実、これは刀剣作品に限らないが戦前は「国宝」だったものの、戦後になると重要文化財に格下げされたり、重文にさえ指定されない作品も決して少なくない。
 さて、まず高田老松町の細川邸から見ていこう。細川護立Click!は、刀剣の名物蒐集が趣味だったせいか、今日でも価値のきわめて高い作品群が収蔵されていた。
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 もちろん、上記のリストは細川家にあった刀剣作品のほんの一部だが、代表的なものを挙げただけでも国宝クラスの作品が収蔵されていたのがわかる。
 茎(なかご)銘の中に「磨上」とあるのは、江戸期の規定に合わせて長寸の刀を磨り上げた(短縮した)という意味で、「光徳」は室町末期から江戸初期にかけて活躍した刀剣の鑑定家であり、研師でもある本阿弥光徳のことだ。つまり、備前長船長光の長寸な刀を光徳自身が磨り上げ、短くなったぶん茎の銘がなくなってしまうので、光徳が花押とともに金象嵌で銘を保証している……という意味になる。細川家の蒐集品は、鎌倉期から南北朝・室町期にかけ、刀工たちも相模から越中、山城、備前、豊後と全国におよび、蒐集のスケールが大きかったことをうかがわせる。
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 つづいて、下落合の近衛篤麿・文麿邸には、鎌倉期の山城と備前鍛冶の作品があった。
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 藤四郎吉光は、鎌倉中期に京の粟田口で鍛刀していた鍛冶で、短刀づくりの名人だった。ほかのふた口は備前鍛冶で、いわゆる“古備前”に分類される作品だ。特に、美術刀剣としては地味だが、仁治期に生きた秀近の太刀があるのがめずらしい。ただし、近衛家の蔵刀はこれだけではなかっただろう。近衛篤麿Click!が死去したあと、近衛文麿Click!が1918年(大正7)に売り立てを行なっているが、その売立入札目録Click!を見ると多彩な作品が並んでいる。その中で、上記の作品だけは入札目録には掲載しなかったようだ。
 つづいて、下落合の相馬孟胤・惠胤邸Click!には、以前にも一度ご紹介Click!しているが、慶長期に活躍した新刀の祖・埋忠明寿の、唯一残された太刀が眠っていた。
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 埋忠明寿は、室町期以前の古刀時代から江戸期の新刀時代への橋わたしをした刀工(金工師でもあった)であり、堀川國廣とともに美術刀剣史でもきわめて重要な存在だ。茎には「他江不可渡之(他所へこの太刀を渡すべからず)」と彫られているので、明寿にとって同作は快心の出来だったのだろう。それが、どういう経緯で相馬家に伝来したものかは不明だが、明寿の大作としてきわめて重要な作品となっている。
 つづいて、下落合の津軽義孝邸には、鎌倉期の高名な金象嵌正宗が伝承されている。
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 通称「津軽正宗」としてあまりにも有名な本作だが、室町期には武田家に江戸期には徳川家に仕えた城和泉守昌茂が持っていたが、早い時期に津軽家へと移り、江戸期を通じて同家で保存されていた。「本阿」とは上記の本阿弥光徳のことで、同作も彼が正宗と折り紙をつけ磨り上げている。現在は東京国立博物館にあり、いつでも観賞することができる。
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 次に、下落合の西坂にあった徳川義恕邸には、鎌倉期の長船長光が伝承されていた。
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 徳川家に数点伝わる長光だが、同作は本能寺の変のあと明智光秀が安土城から持ちだし、家臣の津田重久に与えた「津田長光」とは別口だろう。尾張徳川家の流れをくむ西坂・徳川家だが、戦後は徳川美術館に収蔵されているのかもしれない。
 さて、下落合の林泉園住宅地Click!を開発した東邦電力Click!松永安左衛門邸Click!にも、鎌倉期に備前で活躍した刀工の作品が所蔵されている。
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 銘の「一」は刀工名ではなく、鎌倉末期に備前長船で鍛刀していた一文字派工房の「商標」のような切り銘だ。匂い本位で丁子刃を焼いた華麗な刃文は、どちらかといえば武家よりも京の公家に人気が高かったようだが、吉岡一文字派や福岡一文字派など「一」を刻む刀工集団が複数あり、松永家にあった作品がいずれの工房作かは不明だ。
 目白町4丁目41~42番地に徳川義親Click!が転居してくる以前、住所が雑司ヶ谷旭出41~42番地の時代には戸田康保邸Click!が建っていたが、同家に伝わった刀剣についてはあちこち取材してもよくわからなかった。1934年(昭和9)になると徳川義親邸Click!が建設されているが、同家の武具蔵はもはや美術館のような光景で、キラ星のごとく名作が並んでいる。ただし、下記の作品は目白町と名古屋に分散されていたとみられ、特に1935年(昭和10)に徳川美術館が設立されて以降は、名古屋での保管がより増えたのではないかとみられる。
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 もはや解説するまでもなく、ネットで茎銘や通称の刀銘を検索すれば、すぐにも詳細な解説が見つかる銘品ばかりだ。しかも、これは徳川義親が所蔵していた作品の、ほんの一部にすぎない。いや、本記事にピックアップしている美術刀剣は、すべて国宝か重要文化財クラスの作品ばかりで、ほかにも今日では重文や重要美術品に指定されている作品が、落合・目白地域に建っていた大屋敷には収蔵されていた可能性が高い。
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 最後に、東京国立博物館で長く刀剣室長を務め、つづいて工芸課長に就任して、美術刀剣の研究や保存に尽力した小笠原信夫の言葉を引用して記事を終えたい。
  
 日本人は「花」といえば桜をいうように、古くから桜花を愛し続けてきた。それは視覚的な美しさ以上に心情的に深く共鳴する感性をもっているのではなかろうか。本居宣長の「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」の歌は、朝の光に照り映える桜に心を通わす日本人特有の遺伝子の表現だという人がいる。/それを、潔ぎよく散ることが武士道だと曲解させて軍国主義へとつき進み、若い人達を死地に駆り立てた一時代があった。その軍刀外装金具に、鋳型で量産された山桜の文様が散らされている。私は、早く散るということを武士道だと鼓舞したこともさることながら、軍刀に山桜文を用いて大和心だと思わせようとしたことに憤りをおぼえる。
  
 2007年(平成19)に文藝春秋から出版された、小笠原信夫『日本刀』(文春新書)より。

◆写真上:細川家で蒐集された収蔵刀剣展が開かれる、肥後細川庭園の永青文庫。
◆写真中上は、細川家伝来の「包丁正宗」。は、相馬邸にあった黒門長屋のカラー写真。(提供:相馬彰様Click!) は、同家伝来の埋忠明寿の太刀茎と不動彫刻。
◆写真中下は、下落合の見晴し坂上にあった津軽義孝邸跡の現状で遠景は新宿西口の高層ビル群。は、同家に伝えられた高名な「津軽正宗」。「正宗の太刀」といえば、同作をイメージする刀剣ファンは多い。鋩(きっさき)が大きく伸び(大鋩)、鎌倉後期の典型的な体配(太刀姿)をしている。は、「一」と切られた福岡一文字の太刀茎。
◆写真下は、下落合の北側に接する目白町にあった徳川義親邸跡で、現在は徳川黎明会になっている。は、同家伝来の「包丁正宗」と「不動正宗」。

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泳ぐと泥んこになる野方と落合の遊楽園プール。 [気になる下落合]

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 明治末から大正期にかけ、東京郊外に「遊園地」Click!と呼ばれる公園が造られたことは以前にご紹介している。「遊園地」は、今日の遊園地とは異なり子ども用のアトラクションがあるわけではなく、花壇や温室のある庭園、釣り堀、プール、料理屋や宴会場Click!、ときに音楽堂などがある、大人も楽しめる文字どおり「遊」びの「園」だった。
 そんな遊園のひとつが、落合地域と野方地域にまたがる位置に開園していた。1923年(大正12)から、少なくとも1931年(昭和6)ごろまでの期間だ。当時、落合町の北西部は葛ヶ谷Click!と呼ばれており、そのエリアが西落合と呼ばれるようになるのは、東京市が35区制Click!に拡大した1932年(昭和7)からだ。それまでは、妙正寺川に架かる四村橋Click!(しむらばし)の西にあたる、野方町の片山側に突き出たエリアは江戸期からの上落合村飛び地で、字名は四村(のち西落合3丁目/現・西落合2丁目)と名づけられていた。
 四村橋は、妙正寺川の西側に位置する上高田村と江古田(えごた)村、上落合村の飛び地である上落合村(字)四村、そして妙正寺川の東側にあたる葛ヶ谷村(のち西落合)の4村にかかるように設置されたのでそう呼ばれていたのだろう。現代では、片山村と上高田村、葛ヶ谷村、それに江古田村が接していたので4村と記した資料も見かけるけれど、実際に四村橋へじかに接していたのは、地籍からいうと葛ヶ谷村と上落合村四村(飛び地/のち西落合へ併合)と落合エリアの2村のみだ。
 ほんのわずか南に離れて上高田村の村境があり、少し離れて江古田村と片山村の境界が周囲を囲むように引かれている。たとえば、1982年(昭和57)にいなほ書房から出版された細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田昔語り』Click!(非売品)では、片山村と上高田村、葛ヶ谷村、江古田村の4村Click!が接していたから四村橋とされているが明らかに誤りで、同じ野方町側で1984年(昭和59)に中野区江古田地域センターから出版された『江古田今昔』の、上落合村(字)四村を含めた記述が正しい。すなわち、四村橋の4つの村とは①上落合村②葛ヶ谷村③上高田村④江古田村(または④片山村)を指しているのだろう。
 さて、その四村橋から妙正寺川を上流へ300mちょっとさかのぼると、片山村と江古田村を結ぶ街道に下田橋が架かっている。この下田橋と四村橋の間、妙正寺川の南岸に「野方遊楽園」と名づけられた遊園地が、1923年(大正12)になると開園している。野方遊楽園の敷地には、野方村(町)と落合村(町)の村(町)境が走っており、どちらの住民もこの遊園地ができるとこぞって利用したとみられる。当時、落合町の葛ヶ谷地域は東京府の風致地区(1933年指定で、できるだけ自然景観を保存する区域)に指定されており、また妙正寺川の北側に位置する和田山Click!には井上円了Click!井上哲学堂Click!があったので、人を集める流行の遊園地を造るには最適な場所と考えられたのだろう。
 遊園地内には、料亭や釣り堀、弓技場、ボート池、プールなどが設置されたが、なんといっても夏場に人気を集めたのが、妙正寺川の清流から引かれた水をたたえる「遊楽園プール」だった。当時の様子を、上掲の『江古田今昔』から引用してみよう。
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 大正時代に江古田村と上落合にまたがった哲学堂(和田山)の南側に遊園地があった。/熊沢宗一氏著「かた山の栞」の記録によると、「大正十二年から昭和初期頃迄、数名の地主達によって、哲学堂を背景に妙正寺川の清流を引込んで、五十米プールと、四十間(約七十米)四方の大プール二か所を作り、それぞれに子供の水泳場と、舟を浮べて舟遊び池とした。(ママ:引用カッコ閉じず) その外に釣り堀り池や大弓場、水月料亭等を開店して、「野方遊楽園」と名付けた。/その当時、プール等は東京府内でも珍らしいので、盛夏になると大小のカッパ連で埋まる程の盛況であった。数年後、豊多摩刑務所が移転してきたり、関東大震災の後、城西方面に住宅が急に多く成り、その為河水も汚水の混入で水泳に適さなくなったので、たまたまオリエンタル写真会社の拡張もあり、其の工場敷地に貸与し、名残り惜しくも閉園の止むなきに至ったとある。
  
 1923年(大正12)に開園し、妙正寺川の汚濁のため数年で閉園したと書かれているが、地図上では1933年(昭和8)まで野方遊楽園を確認することができる。ただし、オリエンタル写真工業Click!が野方遊楽園の跡地へ第2工場の建設を開始したのが1931年(昭和6)なので、実際には開園から7年前後で閉園しているのだろう。閉園する際、料亭「水月亭」の建物だけは井上哲学堂に移築され、俳句などの集会場に使われていた。
 当初、江古田(野方村)と上落合(落合村)で村境がまたがっているので、「数名の地主達」の中には上落合村側の地主も遊園地建設には参画していたとみられる。現在でも、同エリアには新宿区と中野区の区境が通っており、新宿区立妙正寺川公園には大雨のときなど妙正寺川の氾濫を防止する調整池が、中野区立妙正寺川公園には遊楽園プール跡に運動広場が設けられ、両公園は仲よく一体化して共存運用されている。
 文中に、野方遊楽園が閉園した理由のひとつとして、「豊多摩刑務所が移転してきたり」と書かれているが、同遊園地から豊多摩刑務所Click!(のち中野刑務所)までは南西に直線距離で1km以上も離れており、それが閉園理由になったとは思えない。むしろ、四村橋のすぐ東側にあったオリエンタル写真工業の第1工場が手狭になり、また急速に普及しはじめたカメラとともに、市場ではフィルムの需要が急増して生産が追いつかず、大急ぎで第2工場の敷地を確保する必要に迫られていたとみるのが事実に近いだろう。「数名の地主達」にしてみれば、保守メンテが不可欠な遊園地で細々と稼ぐ売り上げよりも、成長がいちじるしいオリエンタル写真工業が提示する地代のほうが、はるかに魅力的だったのではないだろうか。
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 野方遊楽園で、もっとも人気を集めた遊楽園プールの写真が現存している。それを見ると、プールはかなり広大で、写っているのは40間四方(70m×70m)のプールではないかと思われるが、プールと名づけられているものの実際はコンクリートで構築されたものではなく、水田を掘り下げて四角い池にしただけの造りだった。したがって、大勢で泳ぐと底の泥が舞いあがり、水がにごって泥水になったという証言が残っている。『江古田今昔』より、再び引用してみよう。
  
 そのプールに子供の頃よく泳ぎに行ったと言う人の話しによると……/プールといってもタンボを掘り下げて、廻りを板で囲った簡単な沼の様なものだった。/プールの底は土のままなので、皆で泳いだり水中でボチャボチャ騒いで居る内に、水が泥でにごって来る。余りにごりがひどく成ると係員が大きな声で、「おーい時間だぞ!、皆んなあがれ―!!」と、どなり続ける。/一斉に水から上ったフンドシ一つのカッパ達は、プールサイドで甲ら干しをした。/水の汚れが治まる(ママ)迄、何分間か休憩をした後で又泳いだ。一日に何回かそんなことを繰り返したことがあったと。
  
 おそらく、甲羅干しをして身体が乾いてくると、泥がついた肌がザラザラしただろう。また、水中にはたくさんの魚介類や水棲昆虫がいたのではないだろうか。
 『江古田今昔』の引用に掲載された「熊沢宗一氏著『かた山の栞』」は、正式書名が1955年(昭和30)に出版された私家版『わがさと/かた山乃栞』(非売品)であり、面白そうなのでさっそく古書店で手に入れた。同書もそうだが、『ふる里上高田昔語り』なども同様に、隣接する町誌には落合地域についてのかなり詳細な事跡やエピソードが紹介されていることがある。たとえば、妙正寺川の水車橋近くにあった「稲葉の水車」Click!の経営や第2のバッケ堰についてなど、落合地域ではあまり記録されていない事跡が書かれていることが多い。それだけ、周辺地域との交流が深く、長くつづいてきたことの証左なのだろう。これからも落合地域ばかりでなく、ときおり周辺の町々に残る資料にも留意していきたい。
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 1921年(大正10)から葛ヶ谷(西落合)で操業をつづけていたオリエンタル写真工業だが、空襲で本社・第1工場とオリエンタル写真学校は全焼したものの、野方遊楽園の跡地にできた第2工場は戦災をまぬがれ、戦後は第2工場でフィルムの生産が再開されている。

◆写真上:上流の下田橋から眺める、左岸が哲学堂公園で右岸が野方遊楽園跡。
◆写真中上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる野方遊楽園ができる直前の様子。は、1929年(昭和4)の「落合町全図」。「野方遊園」と書かれているが、プールは野方町側に描かれている。は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図。プールらしい大きな長方形は、野方側と上落合側をまたいで描かれている。地図の年度によって、採取されるプール形状が変化しているのは、コンクリートや石材で固定せず土を掘り下げただけの簡易構造なので、保守や拡張のため常に手を入れていた可能性がある。
◆写真中下は、昭和初期の撮影とみられる遊楽園プールの40間(70m)四方プールと思われる写真。は、1933年(昭和8)の「淀橋区全図」に描かれた野方遊楽園のプールだが、すでにオリエンタル写真工業の第2工場が竣工していたはずで同遊園地は閉園していた。は、1932年(昭和7)に撮影されたオリエンタル写真工業。手前の右手が本社と第1工場で、奥に見えている塔と煙突のある建物が第2工場。
◆写真下は、1935年(昭和10)ごろに撮影された空中写真にみる左手が井上哲学堂(北側)で、妙正寺川をはさみ右手がオリエンタル写真工業の第2工場(南側)。は、オリエンタル写真工業本社(第1工場)の正門扉で『おちあいよろず写真館』(2003年)より。御殿場への移転作業中か、本社屋または工場建屋が解体されている様子がとらえられている。は、1984年(昭和59)に刊行された『江古田今昔』(中野区江古田地域センター/)と、1982年(昭和57)に出版された細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田昔語り』(いなほ書房/)。

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