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高田馬場仮駅は二度設置されている。 [気になる下落合]

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 西武鉄道村山線(地元や当時の新聞雑誌では通称・西武電鉄Click!と呼ばれている)が、陸軍の鉄道連隊Click!の演習によって敷設されたあと、しばらくの間は山手線の線路土手の西側下にあった高田馬場仮駅Click!が公的には起点(終点)だったことは、これまでにも記事に何度か取りあげてきた。高田馬場仮駅からは、木製の長い連絡桟橋Click!が旧・神田上水(1966年より神田川)をまたぎ、早稲田通りまで延々とつづいていた。また、物流や操車の観点からすると、氷川明神前の下落合904番地にあった初代・下落合駅Click!が、実質上の起点(終点)だったことも、地元の証言などもまじえながら何度か記事にしている。
 そして、山手線をくぐるガードClick!が竣工すると、西武線は省線・高田馬場駅ホームの東側へと乗り入れている……と漫然と考えてきた。さまざまな資料や書籍を参照すると、いずれもそのような経緯や表現で書かれている。ところが、これがまちがいだったのだ。山手線をくぐるガードが完成しても、省線・高田馬場駅のホームに隣接する西武線のホーム工事、および早稲田通りをまたぐ鉄橋(陸橋)の工事は完成しておらず、西武鉄道は再び第二の仮駅を別の場所へ建設している。今度は山手線の線路土手の東側、早稲田通りの手前にあたる位置に第二の高田馬場仮駅が設置された。
 これは、西武線が敷設された当時、鉄道第一連隊の本部が置かれていた野方町の須藤家(野方町江古田1522番地)の証言を見つけ、わたしも初めて知った事実だ。鉄道第一連隊の敷設演習本部(司令部)には、指揮官の少佐をはじめ、大尉が2名、副官の中尉が1名、当番兵が4名の計8名が詰めていた。そのほかの下士官や兵士たちは、本部の家屋では収容できないので、周辺の寺院や民家に分散して宿泊している。朝鮮での演習Click!につづき、西武線の敷設演習で使用された新兵器=「軌条敷設器」Click!を発明した工兵曹長・笠原治長も、もちろん須藤家の本部付近に駐屯していただろう。
 そして、もうひとつの演習本部は田無町(のち田無市本町3丁目)の増田家に置かれ、同様の構成で士官や兵たちが同家に詰めていたとみられる。国立公文書館の資料を参照すると、西武線の敷設演習は1926年(大正15)の夏から秋にかけ鉄道第一連隊(千葉)と鉄道第二連隊(津田沼)による、朝鮮鉄道の鎮昌線で行われた軌条敷設の合同演習の延長戦的な位置づけで実施されており、田無町の演習本部には鉄道第二連隊の司令部が詰めていた可能性が高い。また、田無町の本部には、中華民国の武官が滞在して演習を見学しており、帰国時には記念にと本部となった増田家へ軸画をプレゼントしている。
 1926年(大正15)の暮れ近く、田無町の増田家を本部にした鉄道連隊の演習では、レールを現在の東村山駅付近から田無駅付近まで敷設するのに8日間かかっている。障害物があまりないとはいえ、約14kmほどの線路敷設演習を8日で結了したのは、鉄道連隊にとってはかなりの好成績だったのではないだろうか。
 一方、野方町の須藤家を本部にした鉄道第一連隊は、井荻駅付近から下落合駅(現在地ではなく下落合氷川明神社前駅Click!)、そして高田馬場仮駅付近までの演習も容易だったとみえ、石神井町から井荻町、野方町、そして落合町までの約8~9kmほどを1週間足らずで完了し、部隊は7日目に省線・高田馬場駅の北方200mの線路土手(西側)下に到達している。電車用の電柱および電力線は、軌条(レール)が敷設されるそばから順に設置されており、その後は1927年(昭和2)4月の開業まで西武鉄道によって各駅舎やホームが建設されていった。
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 わたしは、鉄道連隊による井荻あたりから下落合までのレール敷設リードタイムを、朝鮮・鎮昌線における演習スピードから換算して、以前の記事では2~3週間ほどだったのではないかと想定したが、正味わずか7日間で結了している。すなわち、東村山から下落合まで全長23km強ほどの距離を、途中に目立った難所がなかったとはいえのべ15日間、わずか2週間強で結了していることになるのだ。その工程では、笠原工兵曹長の考案した「軌条敷設器」が、大きな威力を発揮したのかもしれない。
 おそらく、1926年(大正15)10月に朝鮮の鎮昌線敷設演習からもどった千葉鉄道第一連隊と津田沼鉄道第二連隊は、1ヶ月ほどの休息期間をへたあと、同年12月には西武線の敷設演習を開始し、東村山-下落合間約23kmの工事をのべ2週間ほどで完了、すなわち年内に演習工事を結了して、翌1927年(昭和2)1月13日に近衛師団長・津野一輔から陸軍大臣・宇垣一成あてに、「軌条敷設器」を実際に西武鉄道演習で投入してみた実証実験の報告書、「鉄道敷設器材審査採用ノ件申請」を提出しているのだとみられる。
 1927年(昭和2)4月16日に西武線が開業する以前にもかかわらず、線路上を貨物列車が頻繁に往来するのを落合住民が目撃しているが、村山貯水池建設のために東村山駅の物流拠点Click!に集積されていた、秩父産のセメントClick!や多摩川で採掘した砂利Click!を、のちに陸軍のコンクリート建築が林立することになる戸山ヶ原Click!へせっせと運びこんでいたことは、何度かこちらでも指摘してきたとおりだ。その際、物流の拠点として使われた駅が、旧・神田上水に脆弱な木製の連絡桟橋をわたした高田馬場仮駅ではなく、鉄筋コンクリートの頑強な田島橋を利用できる氷川社前の下落合駅だったことも書いた。
 また、電車についても高田馬場仮駅ではなく氷川社前の下落合駅が、実質上の起点(終点)になっていた時期も確かにあったようだ。それがなぜなのかは、地元の証言だけで裏づけとなる資料がいまだ見つからないが、高田馬場仮駅へと急激にカーブする線路上で、何度か電車の脱線事故が起きていたのではないかと想定している。高田馬場仮駅のホームへ入る直前、その入線の鋭角はわずかなスピード超過でも脱線の危険性が高かったとみられる。
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 さて、高田馬場仮駅の長大な木製桟橋を、実際に歩いてわたった方の体験談が残っている。記録を残したのは、鉄道第一連隊の司令部になっていた須藤家の主人で、西武線の開業時に1番電車へ招待されたのかもしれない。いかにも臨時で構築した危なっかしい連絡桟橋の様子を、1984年(昭和59)に発行された『江古田今昔』(中野区江古田地域センター)収録の、須藤亮作「西武鉄道の開通」から引用してみよう。ちなみに、仮駅のホーム自体も、すぐに撤去できるよう木造だったと思われる。
  
 起点になる高田馬場の仮停車場は山手線の土手下で神田川の北側に設置され、土手の下部を土手に沿って板張りの歩道を設け高田馬場駅前(現今の早稲田通り)へ連絡した。板張りの通路をガタガタ音をたてて歩いたのも思い出の一つである。/数年の後山手線の土手をガードで東側へ抜け、土手に沿って南折し神田川を鉄橋で渡り山手線に平行して早稲田通りまで鉄道が布設され仮停車場も移行された。(赤文字引用者註)
  
 著者もさりげなく書いているように、山手線をくぐるガードを抜け旧・神田上水の鉄橋をわたって、すぐに省線・高田馬場駅へ乗り入れた……のではなく、早稲田通りの手前まで線路が延長された時点で、省線・高田馬場駅のホームと並ぶ正式な西武高田馬場駅と、早稲田通りをまたぐ鉄橋が竣工待ちの状態になっていたのだ。したがって、山手線の線路土手東側に再び仮駅を設置しなければならず、「仮停車場も移行」せざるをえなくなった。おそらく、第二の仮駅が掲載された地図も、また当時の証言もほとんど残っていないところをみると、その期間は数ヶ月単位で、それほど長くはなかったのだろう。
 この第二の高田馬場仮駅が、山手線の線路土手東側のどこに設置されていたのかは、なんら手がかりがないので不明なのだけれど、西武線が高い位置にある省線・高田馬場駅のホームと同じ高さへ乗り入れる都合から、一定の高度を確保するために線路土手が築かれているが、第二の仮駅は早稲田通りの手前の線路土手上に設置されていたのかもしれない。利用者は、やはり臨時の木造ホームに降りると、早稲田通りへ出るために木製の長い階段を伝わって下りたものだろうか。このあと、1928年(昭和3)春にようやく早稲田通りをまたぐ鉄橋が完成し、省線・高田馬場駅のホームと並んだ西武高田馬場駅が開業することになる。
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 当時、早稲田大学の織田幹雄選手が陸上の三段跳びの日本新記録を次々と塗りかえており、全国で三段跳びのブームが起きていたが、地元住民の中には西武鉄道の高田馬場駅工事、すなわち第一高田馬場仮駅(ホップ)→第二高田馬場仮駅(ステップ)→正式な西武高田馬場駅(ジャンプ)という建設フェーズを、「高田馬場駅の三段跳び」と称してことさら記憶にとどめた人たちがいた。なぜ、わざわざ設置されていた第一高田馬場仮駅を解体して、仮駅を二度も建設しなければならなかったのかは、第一高田馬場駅の急カーブで起きたとみられる電車の脱線事故の防止対策と、どこかでつながる(切実な)課題だったのかもしれない。

◆写真上:第二高田馬場仮駅があった、早稲田通り手前の西武線の線路土手界隈。
◆写真中上は、1928年(昭和3)の「落合町市街図」にみる第一高田馬場仮駅と早稲田通りまでつづく長い木製の連絡桟橋。は、1927年(昭和2)に陸軍士官学校の学生が演習で作成した「落合町」1/8,000地図。第一高田馬場仮駅と、土手沿いにつづく連絡桟橋も採取されている。は、第一高田馬場仮駅があったあたりの現状。
◆写真中下は、開業直後の西武線の様子。上高田から東を向いて撮影されており、遠景の丘陵は下落合の目白崖線だとみられる。は、上高田を通る西武線。
◆写真下は、下落合西部の妙正寺川鉄橋をわたる昭和初期の西武線。は、山手線ガードから下落合側へ抜ける1950年(昭和25)ごろの西武線。第二高田馬場仮駅は、右手の線路つづきで撮影者の背後あたりにあったと思われる。は、同山手線ガードの現状。

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