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「池袋池尻辺の女」はいまや55,000人超え。 [気になる本]

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 今年も夏がやってきたので、恒例の怪談話Click!を記事にしようと思うのだが、たまには落合地域にもほど近い「池袋」怪談などを少し。以前、戦災で亡くなった人たちを仮埋葬した、山手線・池袋駅東口の根津山Click!で語られつづけている怪談Click!について書いたが、「池袋」怪談はそれより90年も前の江戸期にかかる物語だ。
 岡本綺堂Click!が、1902年(明治35)に「文藝倶楽部」4月号の誌上へ発表した小説に、『池袋の怪』という作品がある。別に、当時の池袋村が舞台なのではなく、1855年(安政2)に麻布にあったさる大名の上屋敷で起きた怪談というかたちで紹介されている小品だ。異変は、同屋敷の隠居部屋にカエルが夜な夜な入ってきて(特に怪異とも思えないが)、蚊帳に飛び乗る現象からはじまった。
 最初は草深い麻布六本木のことなので、家中の者たちは誰も不思議には思わなかったのだが、日を追うごとにカエルの数が増えつづけ、しまいには「無数」のカエルが座敷に入りこむようになった。屋敷では、さっそく庭師を呼んで庭に生える草や木々の手入れをさせ、カエルが棲息できないよう環境を整備すると、以降、カエルの侵入はピタリと止まった。だが、今度は屋敷の屋根になぜか石が降ってくるようになった。その様子を、2008年(平成20)にメディアファクトリーから出版された『綺堂怪奇名作選-飛騨の怪談』収録の、『池袋の怪』から引用してみよう。
  
 ある日の夕ぐれ、突然だしぬけにドドンと凄じい音がして、俄に家がグラグラと揺れ出したので、去年の大地震に魘えている人々は、ソレ地震だと云う大騒ぎ、ところが又忽ちに鎮って何の音もない。で、それからは毎夕点燈頃になると、何処よりとも知らず大浪の寄せるようなゴウゴウという響と共に、さしもに広き邸がグラグラと動く。詰合の武士も怪しんで種々に詮議穿索して見たが、更にその仔細が分らず、気の弱い女共は肝を冷して日を送っている中に、右の家鳴震動は十日ばかりで歇んだかと思うと、今度は石が降る。この「石が降る」という事は往々聞く所だが、必らずしも雨霰の如くに小歇なくバラバラ降るのではなく何処よりとも知らず時々にバラリバラリと三個四個飛び落ちて霎時歇み、また少しく時を経て思い出したようにバラリバラリと落ちる。けれども、不思議な事には決して人には中らぬもので、人もなく物も無く、ツマリ当り障りのない場所を択んで落ちるのが習慣だという。で、右の石は庭内にも落ちるが、座敷内にも落ちる、何が扨、その当時の事であるから、一同ただ驚き怪しんで只管に妖怪変化の所為と恐れ、お部屋様も遂にこの邸に居堪れず、浅草並木辺の実家へ一先お引移りという始末。
  
 さっそく、妖怪を退治するために同家の血気にはやる若侍たちが、刀や鉄砲をもち出して泊まりこみ、屋敷じゅうを調べてまわったが怪異はやまず、ついには飛んできた石でケガ人まで出る始末だった。狐狸のしわざも疑われたが、屋敷の庭に巣穴は見つからなかった。すると、こんなことをいう者が出てきた。
 それは、江戸の巷間で以前からささやかれていた伝説の引用で、「池袋村の女を下女に雇うと、不思議にもその家に種々の怪異がある」(同書)というものだった。そこで、屋敷内に「池袋村」出身の下働きの女がいるかどうか調べさせたところ、ひとり見つかったのでさっそく暇を出した(クビにした)ところ、怪異はそのまま2~3日はつづいたけれど、1週間ほどで少しずつ収まっていった……というものだ。
 だが、ここには岡本綺堂の古い怪談を参考にした、意図的な怪異の創作があったと思われる。麻布六本木の大名屋敷での怪異は安政年間=幕末の想定だが、それに先立つ50年以上も前の、天明年間ごろから江戸市中でささやかれていた伝説は「池尻村」と「池袋村」であり、実際に怪異が記録され伝承されたのは「池尻村」のケーススタディだった。それを、岡本綺堂が明治期になって実際の事例が伝わらなかった「池袋村」のほうを取りあげ、新たな怪談として創作しているとみられる。
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麻布の道.JPG
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 その巷間に伝わる怪異話を、南町奉行だった根岸鎮衛Click!が有名な『耳嚢』に記録している。『耳嚢』巻之二に収録された、「池尻村の女召使ふ間敷事」から引用してみよう。
  
 池尻村とて東武の南池上本門寺などより程近き一村有。彼村出生の女を召仕へば果して妖怪など有と申伝へしが、予評定所留役を勤し頃、同所の書役に大竹栄藏といへる者有。彼者親の代にふしぎなる事ありしが、池尻村の女の故成けると也。享保延享の頃にもあらん、栄藏方にて風と天井の上に大石にても落けるほどの音なしけるが、是を初として燈火の中へ上り、或は茶碗抔長押を越て次の間へ至り、中にも不思議なりしは、座敷と台所の庭垣を隔てけるが、台所の庭にて米を舂き居たるに、米舂多葉粉抔給て休みける内、右の臼垣を越て座敷の庭へ至りし也。其外天井物騷敷故人を入て見しに、何も怪き事なけれども、天井へ上る者の面は煤を以て黒くぬりしと也。其外燈火抔折ふしはみづからそのあたりへ出る事有りければ、火の元を恐れ神主山伏を頼みて色々いのりけれども更にそのしるしなし。ある老人聞て、若し池袋池尻辺の女は召仕ひ給はずやと尋し故、召仕ふ女を尋しに、池尻の者の由申ければ早速暇を遺しけるに、其後は絶て怪異なかりし由。
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 「池袋池尻辺の女」を雇うと怪異が起こるというのは、どのような起源で伝承されるようになったのだろうか? 双方の地名に「池」がつくことから、なんらかの水辺にからんだ怪異話がもとになり、そのような伝承へ発展したのかもしれない。
 確かに、江戸期にはお玉ヶ池Click!や溜池の周辺で、池をめぐる怪談がいくつか語り伝えられている。しかし、それは江戸市中のことであって、突然、江戸市街から遠い池袋村や池尻村と結びつけられるのが理解できない。昭和初期、新聞ダネにもなった青山墓地からタクシーに乗り、途中で消えた女が告げた行き先が「入谷」または「池袋」Click!だったというのは、江戸期からの怪異譚がどこかで生きていたものだろうか。
 当の池袋村のごく近く、下高田村と小石川村の境界にある豊川町にも、非常によく似た怪談が伝承されている。江戸後期から大岡忠正が主膳正を受領していた、豊川稲荷のある大岡家下屋敷と近くで開業していた打紐屋とのエピソードだ。現在の文京区目白台1丁目で、豊川稲荷や日本女子大付属小学校がある目白崖線沿いの一帯だ。こちらは、怪異の原因が「池袋池尻辺の女」ではなく、タヌキのしわざだったとされている。
 1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)に収録の「大岡屋敷の狸の悪戯」から、短いので全文を引用してみよう。
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根岸鎮衛「耳袋」.jpg 根岸鎮衛「耳袋」中身.jpg
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 豊川町の大岡越前守(ママ)の屋敷の前にあつた打紐屋に、毎日何処からともなく、沢山の石が降つて来るので、大評判となり、遠方から見物に来るものも多い。一日、雲低く空暗く、五月雨の蕭々として物淋しき夕、激しく大岡屋敷から石が飛んで来るので、多くの見物人の中から一人が屋敷内に入り調べて見たるに、永くこの屋敷内に棲んで居る幾疋かの古狸が、人間を驚かさんとする悪戯である事が判かつた。
  
 なぜ、「古狸」のしわざ(タヌキたちの投石)だとわかったのか、その経緯が記録されていないので不明だが、いちおう直接の原因が「判明」している。
 だが、市中で起きた石が降る怪異は、「池袋池尻辺の女」の存在が「原因」とされているだけで、なぜ彼女たちがいると屋敷が揺れたり石が降ってくるのか(体力のある彼女たちが家を揺らしたり、石をまいたのではなさそうだw)、その因果関係の説明がまったくなされていない。そこに、なんとなくウサン臭さを感じるのは、わたしだけではないだろう。
 屋敷内のある女中を追いだしたくなった、なんらかの不都合やよんどころない事情が大名屋敷側にあり、たまたま追いだした女中の出身地が「池袋池尻辺の女」だったのではないか。それを、ことさら家が揺れるだの石が降ってくるだのとあれこれ尾ひれをつけ、妖女の怪異譚に仕立てあげて巷間にウワサをリークした気配が濃厚だ。大名屋敷内は基本的に「治外法権」であり、なにか事件があっても幕府でさえ調査をするのはなかなかむずかしい。ちなみに、大岡屋敷の投石怪談は打紐屋と、下屋敷の門番か中元あたりとの間で、なんらかのイザコザがあった近隣トラブルではないだろうか。w
 さて、現在の豊島区にある「池袋」という地名がつく街や地域に住んでいる女性は、5年前に実施された2016年の国勢調査ベースの数字によれば、上池袋が8,369人、東池袋が9,272人、南池袋が3,990人、西池袋が7,897人、池袋が8,823人、池袋本町が8,717人のつごう47,068人となる。また、世田谷区の池尻1~4丁目の女性人口は、池尻まちづくりセンターの調査によれば2021年現在で8,170人が暮らしている。特に文化・芸術事業に注力して、昭和のイメージを一新した池袋地域は、若い女性に人気な「住みたい街」の上位エリアなので、今後とも女性の人口が増えつづけそうだ。
 すなわち、現在では「池袋池尻辺の女」は合計55,000人をゆうに超えるわけだが、残念ながら彼女たちの自宅やその勤務先で建物が揺れたり、石が降ってくるというような怪談はまったく聞かない。もし江戸期の「池袋池尻辺の女」怪談が事実であれば、現代の東京では同様の怪異が少なくとも数万件の単位で起きてなければおかしいことになるが、怪談Click!都市伝説Click!が好きなわたしの耳にさえ、そんなウワサはただのひとつも入ってこない。
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 岡本綺堂が書いた『池袋の怪』が「実話怪談」系であれば、ここは神田三河町に住む半七親分にでも登場してもらって、大名屋敷の怪を解明してほしいものだが、なぜか綺堂の怪異譚はその原因を探ろうともせず、不思議をうっちゃったまま恐怖を楽しむだけのことが多いようだ。それとも、綺堂自身がじっくり腰をすえ調査しながら書いている時間的な余裕がなかったのか、あるいは編集者のニーズやケチな原稿料も含めた“大人の事情”がいろいろと介在し、「文藝倶楽部」編集者が半七捕物帖シリーズの1編だと期待して、なかなか脱稿しない原稿を督促しに岡本邸を訪ねたら、それが「実は怪談」だったのかもしれない。

◆写真上:江戸期には高田豊川町とも小石川豊川町とも呼ばれた、現在は目白台1丁目になっている大岡家下屋敷にあった豊川稲荷社。
◆写真中上上左は、『池袋の怪』が収録された『綺堂怪奇名作選-飛騨の怪談』(メディアファクトリー/2008年)。上右は、著者の岡本綺堂。は、麻布丘陵の随所に通う細い坂道。は、現在は大名屋敷よりももっと怖い麻布の古い西洋館。
◆写真中下は、屋根に石をまいていたのは「砂かけ婆」ならぬ「石かけ婆」だろうか。は、国立公文書館に保存されている根岸鎮衛の『耳嚢』巻之三。は、1857年(安政4)に発行された尾張屋清七版の切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」にみる大岡家下屋敷。
◆写真下は、大岡家下屋敷跡に建つ「目白台一丁目遊び場」。もうすぐ、都道25号線の大道路建設で壊されてしまうだろう。は、豊川稲荷の小祠。は、麻布地域と同様に目白崖線のあちこちに通う細い急坂の1本で目白台の「幽霊坂」(バッケ坂Click!)。

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新事業へ次々と投資する郊外地主たち。 [気になる下落合]

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 東京郊外の遊園地Click!として建設された「野方遊楽園」Click!だが、それに参画していた上落合や江古田の地主たちが判明した。同遊園地は、もともと彼ら地主たちが企画・開発したものではなく、最初は遊園地開発の専門業者が計画したようだ。哲学堂を背景に、妙正寺川の水を引いたプールが主体の遊園地計画だった。
 一帯の地主へ話を持ちこんだのは、牛込矢来町で会社を経営していた尾上辰三郎(役者みたい)という人物で、当初は落合村上落合(字)四村の水田約8,000坪、畑地約7,000坪が開発の中心だったようだ。麹町区飯田町で営業していた、藤野小三郎という人物が経営する土建会社が開発工事を担当し、1923年(大正12)6月に最初の開園をしている。当初から、来園者が多く事業も順調だったが、同年9月に起きた関東大震災で施設がダメージを受け、事業の主体だった矢来町の尾上辰三郎が行方不明(おそらく震災で死亡)となったため、事業継続の話し合いが野方村の地主たちを含めて話しあわれた。
 落合村と野方村で事業継続に手を挙げたのは、深野鉄七郎、熊沢勘五郎、荒川角次郎、深野伊太郎、堀野聰次郎、金子日聰、北島初太郎、小島こと、小島銀蔵、そして熊沢宗一Click!の10名だった。この中で、上落合在住の地主は上落合698番地の荒川角次郎が確認できる。ほかにも、落合村側の地主が含まれている可能性があるが、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には掲載されていない。
 『落合町誌』の「人物事業編」より、荒川角次郎について引用してみよう。
  
 自治功労家 荒川角次郎  上落合六九八
 時勢の変遷に処して固く操節を持し、夙(ママ:昼)夜産業の開発に心を砕き、衆与の利益を増進するを以て氏名となし、終始一貫労功して撓まざる、氏は慶応二年三月十五日本町屈指の旧家に生れ、夙に農業に励精して更に家運の充実を図り、方今地主として一頭地を抜く、而も余力を公共の事に割き村会議員たること二期其の他各種委員に推されて画策奔走したる篤行は早くより郷党の賞讃するところである、現に葛ヶ谷耕地整理組合を主宰して、町治の恒久策を樹立して、其の利益の伸張に努力されつゝあり。(カッコ内引用者註)
  
 葛ヶ谷の耕地整理組合Click!の役員に選ばれているのは、四村橋の西側にあった上落合飛び地(のち西落合3丁目)の大地主だったからだろう。
 これら10名の地主たちによって、1924年(大正13)の春から再び開発が行われ、大プールや噴水、料亭、ボート池、釣り堀、大弓場などが設置された。その様子を、地主のひとりだった熊沢宗一の『わがさと/かた山乃栞』(非売品)から引用してみよう。
  
 四十間四方の大プール二ヶ所、其の一方には中央に一大噴水塔を設け、子供の水泳場となし、又一方の大プールには舟を浮べて舟遊び池となし、立教大学水泳部の選手連に其の監督を依頼した、又豊川稲荷を勧請して守護神としたり、私個人の経営として二百余坪の池に鯉を放ちて釣り堀とし、大弓場を設け、水月料亭を開店し、来遊者の便を計り面目を一新して其の年の五月一日野方遊楽園と名付けて、花々しく開園した。
  
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 登場している「豊川稲荷」の勧請だが、目白台の大岡屋敷跡にある豊川稲荷か、あるいは赤坂の豊川稲荷かは不明だ。稲荷社は、野方遊楽園の閉園時に遷座したか、あるいは近くの社へ合祀されたものか現存していない。
 さて、野方遊楽園から仰ぎ見た和田山Click!だが、井上円了Click!哲学堂Click!を建設する以前から、所有者がコロコロと変わっている。江戸期には天領だったとみられ、将軍家による中野筋Click!の鷹狩り場、すなわち御留山Click!として存在していたようだ。一説には、榊原家の領地だったとする記述も見えるが、榊原氏は1741年(寛保元)から明治まで越後国の高田へ移封されており、和田山一帯だけポツンと領地があったとは考えにくい。
 明治になると、湯島三組町に住んでいた華族(子爵)の五辻安仲が、和田山を買収して別邸を建設している。また、狭山茶がブームになっていたことから、和田山の斜面には五辻家の使用人によって茶畑がつくられた。1879年(明治12)になると、近くの東福寺に置かれていた小学校が寺の都合で継続できなくなり、五辻家の別邸を借りるかたちで移転している。「和田山の学校」として地元では親しまれたが、1882年(明治15)に遷華小学校(のち江古田小学校)が開設されて再移転している。
 このころ、五辻安仲が別荘を手放したらしく、和田山を購入したのは高田村の面影橋近くにある、芝居や講談の「怪談乳房榎」で有名な南蔵院Click!だった。明治も末期、1903年(明治36)になると哲学館(現・東洋大学)の井上円了Click!が哲学堂の敷地として和田山を買収し、翌年には四聖堂を建設し、つづいて三学亭や六賢台などが竣工(1909年)している。野方遊楽園の閉園後、園内にあった料亭「水月亭」は井上哲学堂の付属となり、妙正寺川の観像梁(富士桟)をわたった旧・遊楽園エリアで休息所として営業をつづけていたようだ。
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 和田山や野方遊楽園の西側、下田橋の少し上流には片山村の鎮守である北野天神社(現・松が丘北野社)が奉られているが、そのあたりの妙正寺川沿いに東京ではめずらしい天然氷の製氷工場が開業していた。片山丘陵地の、ちょうど北側の影になったあたりで、南からの陽射しがあまりとどかず一帯の気温が低かったのだろう。
 拙サイトでは、落合地域に多かった製氷会社(工場)Click!をいくつかご紹介しているが、大正期から昭和期にかけて営業していたそれらの製氷工場は、すべて機械式による製氷事業だった。明治期のエピソードとはいえ、天然氷の工場はこのあたりでもめずらしい。「函館氷」というブランドで売られた天然氷について、1955年(昭和30)に出版された上掲の熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品)から、再び引用してみよう。
  
 明治三十年の頃と思うが、江古田東の深野清三郎氏、深野亀太郎氏等と相謀り、豊多摩製氷会社を起し、片山鎮守北野神社の裏手栢堰より用水をひく揚げ堀と、妙正寺川の中間に、煉瓦にてふちを作り底をコンクリートで固めた、巾二間長さ十五間位の、池二十数ヶ所を造り、其の当時は神田上水であった、妙正寺川の清流を引き入れ、十一月の終り頃より二月のなかばまでの間に、氷を張らせ三四日にして厚さ三寸位になったのを鋸にて一尺五寸に切り、倉に積み込んで貯蔵して置き夏期になって売り出したのである。/其の時代には未だ製氷の技術がなく、東北地方の天然氷を東京に輸送して、飲料又は冷凍用に使用したので、函館氷と書いた旗が、氷屋の店先にひらめいていた。/其後製氷の技術が進み、何時でも氷が出来るようになり且つ衛生上からも、天然氷は余り好ましくないとのことで、私が日露戦役に従軍中に廃業した。
  
 文中に「倉に積み込んで貯蔵」とあるが、この天然氷の貯蔵庫については2種類の証言が残っている。片山北側の崖地にあった横穴を、氷室に活用して夏まで保存していた(中野区江古田地域センター『江古田今昔』1984年)というものと、片山天神(現・松が丘天神)裏に大谷石で20坪ほどの氷室を造り、夏まで保存していた(堀野良之助『江古田のつれづれ』1973年)というふたつの証言だが、おそらくどちらも事実ではないだろうか。
 「函館氷」が世間でブームになると、従来の規模の製氷ではニーズをまかないきれず、当初はバッケ(崖地)Click!に開いた横穴を氷室としていたが、新たに規模の大きめな倉庫を建設しなければ間に合わなくなり、追いかけて片山天神の裏へ増設しているのではないか。
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 ここで、ちょっと気になるのが片山丘陵の北側バッケ(崖地)に開いていた横穴のことだ。以前にもご紹介Click!したように、片山地域では古墳期の遺構がいくつか発見されており、丘全体が落合地域と同様に埋蔵文化財包蔵地のようなエリアだ。丘陵の西側には、早くから「片山西側横穴墳」が発見されており、丘の北側にも同様の横穴古墳群があったのではないかと想像するのは、あながちピント外れではないだろう。おそらく、丘に穿たれたいくつかの横穴は、片山地域の宅地開発の擁壁づくりで埋められてしまったのではないだろうか。

◆写真上:1927年(昭和2)3月発行の「西武鉄道沿線御案内」に掲載された、和田山の井上哲学堂と手前の崖下にオープンしていた野方遊楽園の大プール。
◆写真中上は、1880年(明治13)に作成されたフランス式地形図にみる和田山界隈。は、「西武鉄道沿線御案内」に描かれた井上哲学堂と野方遊楽園のイラスト。は、熊沢宗一が野方遊楽園へ勧請した豊川稲荷社と四阿のひとつ。
◆写真中下は、1941年(昭和)に撮影された野方配水搭方面。右手が哲学堂のある和田山で、配水搭の下に見えている大屋根は蓮華寺。は、井上円了の墓所でもある蓮華寺本堂。下左は、野方遊楽園の地主のひとりで上落合698番地の荒川角次郎。下右は、豊多摩製氷会社「函館氷」の経営者で江古田村片山2137番地の熊沢米太郎。
◆写真下は、明治期の撮影とみられる片山北野天神社(現・松が丘北野社)。は、片山丘陵の北側バッケ。は、豊多摩製氷社があったあたりの現状。

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『高田村誌』と『高田町史』の間に。 [気になるエトセトラ]

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 高田地域(およそ現・目白/高田/雑司が谷/西池袋/南池袋/東池袋界隈)は、大正期から昭和初期にかけて多種多様な記録が残されている、資料(史料)的にたいへんめぐまれた地域だ。1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)と、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)の間には、先年ご紹介した自由学園Click!学生たちClick!による綿密な全町が対象のフィールドワーク(社会調査)をともなった、1925年(大正14)出版の『我が住む町』Click!や、1929年(昭和4)に三才社から出版された江副廣忠『高田の今昔』などがある。
 また、『高田町史』(1933)以降にも、江戸期から昭和初期までの高田地域について記録した資料には、元・高田町長の海老澤了之介Click!による『追憶』Click!(非売品/1954年)や『新編若葉の梢』Click!(新編若葉の梢刊行会/1958年)、森岩雄『大正・雑司ヶ谷』(青蛙房/1978年)など、周囲の地域に比べて資料類がたいへん豊富だ。これらの資料に、『北豊島郡誌』(北豊島郡役所/1918年)や『豊島区史』(豊島区役所/1951年)を加えれば、高田地域の近代から現代にかかる事跡をかなり詳しくトレースすることができる。
 このような記録は、その地域の地勢や風土、特徴、風俗、習慣、気質などを知るうえでは欠かせない貴重な資料となるのだが、残念ながら落合地域には当時のリアルタイムな記録としては、『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会/1932年)と、より古い『豊多摩郡誌』Click!(豊多摩郡役所/1916年)、『自性院縁起と葵陰夜話』Click!(自性院/1932年)ぐらいしか見あたらない。そこで、私家版でもいいから落合地域の古い記録がないかどうかを探していたら、またしても高田地域(高田町時代)の希少本を見つけた。
 ちょうど、海老澤了之介が町長に就任していた1930年(昭和5)に出版されたもので、高田町役場による『高田町政概要』(非売品)がそれだ。高田町の多種多様な当時の調査統計を、円グラフや棒グラフなどを使ってカラーでビジュアル化したり、高田町が実施している事業や施策あるいは計画の詳細を、同様にビジュアルなカラー地図や図版を使って解説したりする、これまで見たことのない行政記録だ。
 同書に近似した構成や表現は、自由学園の卒業間近な高等科2年生たちが発案し、ほぼ全校生徒が参加して実施した『我が住む町』(見やすいようカラーグラフ表現を採用している)に見られるので、高田町では彼女たちの意思や成果物を参考にし引き継ぐかたちで、同様のコンセプトにもとづき『高田町政概要』を出版しているのかもしれない。事実、自由学園の学生たちが興味をもったテーマや事象について、高田町役場側からより詳細に解説しているページがあちこちに散見される。
 豊島区の成立を記念し、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』に先駆けるように、大正中期から昭和初期にかけてのより仔細な町政の状況を紹介した同書は、『高田村誌』(1919年)と『高田町史』(1933年)の間を埋める、かけがえのない貴重な資料といえるだろう。特に統計資料では、町政が施行された1920年(大正9)以降の数字を扱うグラフが多く、前年の1919年(大正8)に出版された『高田村誌』以後の町内状況の推移を、意識的かつ積極的に紹介しているように見える。
 中でも特徴的なテーマは、自由学園の学生たちも強く意識していた関東大震災Click!以降の急激な戸数・人口増加(人口動態)の実態や、高田町予算における歳入・歳出の内訳、年度ごとの歳入・歳出の推移、町内建築物の増加推移、企業や商店をはじめ営業者数の増加率、町内車両(馬車・自動車・自転車など)の増加推移、死亡者の病名ごとに分類された累計、出生率と死亡率の変遷、道路建設計画の推移、町内の河川流域の整備状況、衛生と上下水に関する整備計画など、フィールドワークを前に自由学園の学生たちがノドから手が出るほど欲しがっていたようなデータが、1920年(大正9)を起点に(統計によっては1919年を起点に)して、1929年(昭和4)現在まで目白押しに掲載されている。
 おそらく、自由学園から寄贈された社会調査資料『我が住む町』(1925年)に刺戟を受けた町役場のスタッフたちは、その後、ほどなく町役場内に蓄積された資料を改めて整理しなおし、4年間かけて詳細な統計グラフや統計表組、イラスト、図版などを駆使した『高田町政概要』を編集しているのではないだろうか。ひょっとすると、海老澤了之介は統計のビジュアル表現について自由学園の学生たちと同様に、当時は高田町四ッ谷(家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいた、母校の教授である安部磯雄Click!に相談しているのかもしれない。
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 当時の町長が、海老澤了之介だったことも幸いしたように思える。彼は文化的な事業や、地域の歴史に深い興味をもつ人物であり、「高田町のいま」を後世に残しておこうと考えたのかもしれない。いや、自由学園の『我が住む町』を見て刺激を受け、町内の詳細な状況を記録しておこうと意思決定したのは、彼自身だったのかもしれない。1928年(昭和3)に海老澤了之介は、早くも助役の役職に就いていた。
 また、『高田町史』(1933年)の記述が町内の歴史的な事蹟や物語に偏重し、町政についての記述内容が薄かったのは、これまで高田町教育会による編纂だからだろうと考えてきた。だが、そうではなく3年前に『高田行政概要』を出版したばかりで、あえて再び行政の仔細について触れる必要がなかったからなのだ。東京35区制Click!が施行され、豊島区に編入されて高田町が消滅したとき、最後の町長も海老澤了之介だった。
 『高田町史』を隅々まで読むと、巻末の「町史編纂経過記」には次のような文章が掲載されている。同書より引用してみよう。
  
 当時、高田町に関する著書としては、大正八年一月二十五日発行、山口霞村氏著『高田村誌』櫻井北洲氏著『高田総覧』あり、次て昭和四年五月三日発行、江副廣忠氏の『高田の今昔』等あり。而して同五年六月十五日、高田町役場庁舎改築落成式に際し、高田町は『高田町政概要』を発行せり。/惟ふに之等の著書は地誌又は行政に付き記述せられたるものにして、史実として多く見るべきもの無かりき。/本史は専ら本町に関し、古来より遺されたる史実的文献、並に口碑伝説等を収集調査し、以て郷土史として其の史跡を永久に伝ふることに努めたり。
  
 つまり、詳しい町政の内実については『高田町政概要』を参照してもらい、『高田町史』は最初から地域の歴史や伝承に重点を置いた、いわば“風土記”的な構成を編集のコンセプトとしていたのがわかる。海老澤了之介にしてみれば、『高田町史』のほうがはるかに編集しがいのある、面白い仕事だったのではないだろうか。
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 自由学園の『我が住む町』では、高田町内の道路の悪さや下水道の不備、塵埃処理にともなう衛生環境の未整備などが挙げられていたが、『高田町政概要』では特に上下水道と河川の整備や疾病、塵埃掃除(ゴミ収集)など衛生について独立した章を設けて記述しているのは、『我が住む町』に取りあげられている課題の多くが、そのまま町政に対する“町民の声”(フィードバック)だと判断していたのかもしれない。
 特に、自由学園の学生たちが各戸訪問で苦情が多かった塵芥掃除と汚物掃除は、1927年(昭和2)3月に町内で開業する清掃業者を作業員も含め丸ごと買収して町営とし、同年4月から町営事業としてサービスや料金の平準化と清掃作業の均一・徹底化を行なっている。また、下水道の不備については、『高田町政概要』が出版された1930年(昭和5)に、なんとか実地調査および測量が終わった段階だった。
 下水道計画の進捗が遅れていたのは、関東大震災後の住民増加により道路計画が数多く発生していたせいで、住宅の急増に対し道路の敷設さえ遅延ぎみで間に合わず、道路と一体化していた当時の下水道計画もまた遅れに遅れていたようだ。計画変更による二度手間を避けるために、町内の道路計画がある程度フィックスしてから下水道整備にかかろうとしていたのが、『高田町政概要』が出版された1930年(昭和5)ごろのことだった。ちょうど、宅地開発の爆発的な増加に下水道はおろか、上水道の整備がまったく追いつかないでテンテコ舞いだった、1960~1970年代の神奈川県Click!のような状況だったのだろう。
 『高田町政概要』では、当時の苦労を次のように記述している。
  
 之が(下水道計画が)最善を期する為めには、本町の道路計画及び神田上水の一部防水及排水の設備をも考慮せる計画にあらざれば、町永久施設の意義をなさざるのみならず、(東京府の)認可後に於て設計を変更し再び実地設計に依り認可を得るのは、実に煩雑を生じ事業の進捗に大なる影響があるを感じ、昭和四年十二月二十九日高田町下水調査費四千九百余円を臨時費とし町会に提出して其協賛を得、昭和五年一月十日茂庭博士を顧問に招聘し、一月十四日実地調査員として嘱託六名工夫二名人夫四名を採用し直ちに諸般の準備を整へ、同月十八日より実地に就き下水道中心線の先点に着手し、爾来鋭意調査の進捗に努めたる (カッコ内引用者註)
  
 文中に登場する「茂庭博士」とは、土木工学の専門家だった茂庭竹生のことだろう。
建物累年比較グラフ1930.jpg
下水構造イラスト1930.jpg
高田第五尋常小学校(目白小学校)1930.jpg
 『高田町政概要』は、落合地域の東隣りにあたる高田町の大正後期から昭和初期にかけての生活を、こと細かに知ることができる点で『高田町史』よりも格段に優れている。馬車や自動車ばかりでなく、自転車にも60銭の税金がかけられていたのも初めて知った事実だ。この地域の街の様子を詳しく知ることができる、願ってもない一級資料だろう。これから内容を読みこんで、なにか面白いテーマを見つけたら順次記事にしてみたい。

◆写真上:1930年に撮影された、目白通り沿いに建つ高田町役場総舎。手前は拡幅工事中の目白通りで、町役場は現在の警視庁目白合同庁舎の敷地にあった。役場の右(東側)隣りに見えているのは、火の見やぐらを備えた高田町消防組本部。
◆写真中上は、『北豊島郡誌』(1918年/)内扉と『高田村誌』(1919年/)。は、『高田町史』(1933年/)と『豊島区史』(1951年/)。下は、1930年(昭和5)に出版された『高田町政概要』(高田町役場/)と、当時の町長だった海老澤了之介()。
◆写真中下は、『高田町政概要』に掲載された1920~1929年の「人口及戸数」推移グラフ。は、同じく「人口動態数」推移グラフ。は、高田町立の職業紹介所。
◆写真下は、『高田町政概要』に掲載された「建物累年比較」推移グラフ。は、町内に敷設計画が進められていた各種下水道の構造イラスト。は、1929年(昭和4)に開校したばかりの目白駅前にある高田第五尋常小学校(現・目白小学校)。手前は拡幅工事が進捗する目白通りで、目白文化村Click!の前谷戸埋め立て写真Click!佐伯祐三Click!『目白の風景(中井の風景)』Click!と同様に、建築資材である大量の大谷石が道路端に集積されている。
おまけ
今年も、夏の到来をつげるお客様。サブノートPCのマウスほどもある、すごい力もちの巨大なカブトムシ♀だ。成虫になったばかりなのかボーッとしていて、キュウリに塗ったメープルシロップで水分補給をしたあと、うちのヤマネコに見つかるとかなりヤバいので外へ逃がしたけれど、網戸にたかってなかなか森へ帰らない。
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下落合と椎名町の目白通り商店街1932年。 [気になる下落合]

絵はがき「大東京長崎町本通下」1932.jpg
 1932年(昭和7)に、東京市が従来の(城)下町Click!に準じた15区制から35区制Click!に移行し「大東京」時代を迎えたとき、多種多様な出版物Click!記念パンフレットClick!が制作されたことは、これまでいくつかご紹介してきている。中でも絵はがき類は、新たに編入された区の名所や繁華街を写したものが多い。その中に、同年に撮影されたとみられる「大東京(豊島区)長崎町本通下、巣鴨町本通」という1枚の絵はがきがある。(冒頭写真)
 「長崎町本通下」という名称は、現代ではあまり馴染みのない表現だが、あちこち調べてみると、写真の場所は通称・目白バス通りClick!または長崎バス通り(現・南長崎通り)を出て東を向いたところ、すなわち目白駅方面を向いた拡幅前の目白通りであることが判明した。幅員が狭すぎて、今日の目白通りとはとても思えないが、ヒントは右手の商店街にとらえられた「パン製造」と、少し奥にある「目白タクシー」の看板だった。
 写真の左側に写る商店街は、1932年(昭和7)10月の時点で豊島区椎名町4丁目(現・南長崎2丁目)、右側に写る商店街は淀橋区下落合3丁目(現・中落合3丁目)の店舗並びだ。正確な住所でいえば、左寄りが椎名町4丁目1963~1962番地にかけて、右寄りが下落合3丁目1513~1503番地にかけての商店街ということになる。つまり、右手の商店街の裏は、第二府営住宅Click!の家々が建ち並び、その南側が目白文化村Click!の第一文化村が拡がっているはずだ。そこの住民たちは、この商店街で頻繁に買い物をしたと思われるので、おなじみの光景だったのではないだろうか。
 この絵はがきの写真が、なぜ長崎バス通りの出口にある目白通りだと判明したかといえば、同写真が撮影される3年前、1929年(昭和4)にもほぼ同じ場所が撮影されていたからだ。同年に出版された、『長崎町誌』Click!に掲載された写真だった。同写真は、長崎バス通りに少し入りこみ、左手には椎名町派出所(交番)、右手にこの時期には二又の三角形の敷地に奉られていた子育地蔵Click!前のポリボックスが写っている。(現在は二又の三角敷地が交番) 『長崎町誌』の写真は、白い夏服の巡査が目白警察署からの交代要員、あるいは巡回帰りの同僚を待っているかのような様子をとらえたものだ。
 『長崎町誌』のキャプションには「椎名町通り」とあるが、この名称が長崎バス通りのことか、あるいはそこから出た目白通りのことかは曖昧だ。江戸期から長崎村の椎名町、あるいは下落合村の椎名町と呼称されていたので、おそらく「椎名町」のバス停があった旧・清戸道Click!=目白通りをさしている可能性が高い。その写真に、手前の唐物屋(瀬戸物屋)を含め絵はがきにとらえられた「パン製造」と、「目白タクシー」の大きな看板が写っている。左手には交番の建物があり、その向こう隣りの大きめな建物は1929年(昭和4)現在も、また3年後の絵はがきの時代もダット乗合自動車Click!の発着場だ。
 さて、冒頭の絵はがきの風景(1932年)にもどろう。「巣鴨町本通」の楕円に隠れ、左手にダット乗合自動車が2台停車しているが、その左手にあるレンガ造りで洋風の建物が同乗合自動車の発着所であり、その前にあるバス停留所の名前が「椎名町」Click!だったはずだ。この時代、関東乗合自動車の終点で、ターンテーブルがあった聖母坂上のバス停も「椎名町」であり、いまだ目白通りのこの一帯に「椎名町」という、江戸時代の名称が生きていた時代だった。乗合自動車の発着所の前に、「楽盛会・堀野家」と書かれた幟が立っているが、通常は映画を上映していた洛西館Click!で、寄席のイベントでも開かれていたのだろうか。
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長崎バス通り1929.jpg
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 その向こう側に見える「目白薬局」は、昔ながらの懐かしい看板建築の店がまえで、店前には「赤まむし」と書かれた栄養剤「養〇〇」の幟が見えている。その隣りが、「水産物と海苔」と書かれた「岡田屋」の看板で、幟には「漬物・佃煮・鰹節・ほしのり/岡田屋」と記載されている。その向こう隣りが、「新作ゆかた」と書かれた幟があるので呉服店、さらにその向こうにみえる大きな樹木の手前、洋風のシャレた看板建築の店は丸印に「本」の目立つ看板があるので書店だろう。以上が目白通りの北側、すなわち椎名町4丁目側(現・南長崎2丁目)で確認できる店舗だ。
 今度は、反対側の下落合3丁目(現・中落合3丁目)側の商店に目を移してみよう。いちばん右手前の、白い割烹着姿の母親と帽子をかぶった幼稚園児ぐらいの親子が出てくる店は、店名は不明だが唐物屋(瀬戸物屋)、ないしは鍋釜やすだれなど日用品も店先に置いてあるので雑貨店だろう。その隣りが「パン製造」と書かれた、めずらしい自家製のパンを焼いて売っていたベーカリーだ。軒下にカタカナが書かれた店名が見えるが、「〇ベルトライン」と読める。その隣りが、「海苔鶏卵/鰹節」の大看板を掲げた乾物屋で、どうやらタバコも扱っていたようだ。その次の小さな間口の店が、「流行/新撰/ゆかた/山形屋支店」とひときわ大きな幟を立てた呉服店だ。
 そして、その向こうには「目白タクシー」の大きな看板と、コンクリート造りらしい3階建てのビルが見えている。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では、この位置に「ツーリング」という自動車やバイクを扱う店が記録されているが、事業転換してタクシー会社になったのかもしれない。
 目白タクシーの隣りには、「文化軒」という中華店があるはずだが、ひょっとするとすでに廃業しているのかもしれない。「きみかけ〇〇」という幟と、「ふとん/仕立一式/〇〇屋」の幟に隠れてよくわからない。このあたり、道路が直線状になっていて店先の幟が重なり、店舗が見えにくくなっている。かろうじて「フタバ足袋店」という幟が確認できるが、「下落合事情明細図」によればこのあたりに「越後屋」や「幸運堂」「小野田石油店」などが軒を連ねているはずだ。
 また、幸運堂と小野田石油店の間には下落合郵便局(落合長崎郵便局)があるはずだが、現代とちがって郵便局は幟など立てないし、郵便ポストらしいかたちも確認できない。かなり向こうに、男性の革靴を描いた看板が見えるが、これが事情明細図にある「平和堂(靴店)」で、その並びに大きく「茶」の垂れ幕の店が「大黒屋」だろうか。また、事情明細図とめずらしく店名が一致する、「長寿庵」の看板か幟が見えているが、おそらく蕎麦屋だろう。
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雑司ヶ谷医院1926.jpg 雑司ヶ谷医院広告1926.jpg
 「下落合事情明細図」(1926年)や「長崎町事情明細図」(同年)と比較すると、ほとんどの店名が一致せず、わずか7年で商店街が大きく入れ替わっていることがわかる。ちょうど金融恐慌から世界大恐慌Click!をはさんだ時代なので、商店の経営も浮き沈みが激しかったのだろう。また、1925年(大正14)に地元で作成された「出前地図」Click!と翌年の事情明細図×2種を比較しても、多くの店が入れ替わっているので、当時の新興住宅地に拓けた商店街は、店舗がかなり流動的だった様子がわかる。
 電柱に取りつけられた、2種類の医院広告も面白い。ちょうど乗合自動車に乗ると、目の高さでよく見えるような位置に看板が設置されているが、ひとつは近衛町Click!の入口にあった下落合438番地の産婦人科「島倉医院」だ。院長は『落合町誌』によれば島倉孝で、入院設備もあるかなり大きめな医院だったようだ。もうひとつが、山手線の目白駅をすぎた向こう側、雑司ヶ谷823番地にあった外科「雑司ヶ谷医院」だ。長崎バス通りと目白通りが合流するこの地点から、下落合の島倉医院まで直線距離で約1.4km、同位置から雑司ヶ谷医院までが同じく約1.9kmもあるので、当時は椎名町4丁目や下落合3丁目には産婦人科や外科の医院が少なかったのかもしれない。
 さて、絵はがきの中央に写る目白通りを観察してみよう。ダット乗合自動車のほかにクルマの通行はないが、かわりに自転車が目立っており、店舗の前にも多くの自転車が駐輪されている。また、荷物を積んで運搬しているのはリヤカーだ。昭和に入ると、さすがに大八車Click!による運送は減り、リヤカーが主流となっていたのがわかる。『長崎町誌』の写真にとらえられたポリボックスの脇にも、リヤカーが駐輪されているのが見える。
 ちょっと面白いのは、目白通りの真ん中の上部に「窪穴(?)/此処危険」と書かれた大きな横断幕(おそらく黄色の生地だろう)が下がっていることだ。尾根筋を走る目白通りの真ん中に、水が湧いたとも思えないが、なんらかの事情で路面が凹状に陥没していたのだろう。通りの路面は、砂と砂利で固めた簡易舗装をしているようで、石炭殻を撒いて泥濘を防いだ炭糟道(シンダー・レーン)Click!ではない。
 道路を歩く人々は夏季に近い薄着の装いをしており、子どもの中には半袖の子もいるので、1932年(昭和7)の初夏ごろに撮影されたものだろうか。これから夏に向かう時期だから、あちこちに浴衣の幟が立てられているのであって、東京35区制が施行された同年10月の前後ではないだろう。絵はがきを制作したのは神田の松永好文堂(Kanda Matsunaga co.)だが、秋に東京市の新区制が施行されるのを見こして各地の情景を撮影し、「大東京」=35区制記念の絵はがきセットを制作しているとみられる。
 『長崎町誌』(1929年)の写真と記念絵はがきを比べると、ひとつ面白いテーマに気づく。前者の写真には、当時は急速に普及しはじめた電話線をわたした白木の電信柱が目立つが、3年後の絵はがきにはクレオソートを塗布した黒い電燈線と電力線の電柱しか見あたらない。わずか3年後に、通信線を架けた多くの電信柱はどこへいってしまったのだろうか? 地下の共同溝に埋設したなどというような事跡は聞かないので、わずらわしい電話線の電信柱は表通りの商店街を避け、裏側の住宅地へ設置しなおしているのかもしれない。
絵はがき「長崎町事情明細図」1926.jpg
絵はがき「下落合事情明細図」1926.jpg
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 当時の地図を参照すると、同業種の店舗が近接して開店・営業しているのが目立つ。この絵はがきにも、呉服店とみられる店舗が3店も確認できる。それでも営業をつづけられたのは、商店街を活気づかせる顧客数が、現代とは異なりケタちがい多かったからだろう。

◆写真上:1932年(昭和7)の「大東京(豊島区)長崎町本通下、巣鴨町本通」絵はがき。
◆写真中上は、同絵はがきの現状。は、『長崎町誌』(1929年)に掲載された長崎バス通りに少し入って撮影された同所の写真。は、町誌掲載写真の現状。
◆写真中下は、絵はがきと同年の1932年(昭和7)に作成された1/10,000地形図にみる撮影ポイント。中上は、1935年(昭和10)に作成された「淀橋区詳細図」にみる撮影ポイント。中下は、「下落合事情明細図」(1926年)に収録された下落合438番地の産婦人科「島倉医院」()と、院長で新潟県佐渡出身の島倉孝()。は、「高田町北部住宅明細図」(1926年)に掲載された雑司ヶ谷823番地の外科「雑司ヶ谷医院」()と、所在地が「三二三」と誤記されている同地図の広告欄に掲載された外科「雑司ヶ谷医院」()。
◆写真下は、「長崎町事情明細図」(1926年)にみる絵はがき左側の商店街。は、「下落合事情明細図」(1926年)にみる絵はがき右側の商店街。世界大恐慌をはさみ、店舗がずいぶん入れ替わっているのがわかる。は、4枚とも絵はがきの部分拡大。
おまけ
 これだけ商店が密に軒を連ね目白通りの幅員が狭いと、ダット乗合自動車のドライバーは運転にかなり苦労をしたのだろう。あんのじょう、絵はがきの写真をよく見ると、左端に停車しているダット乗合自動車の屋根が、商店の軒先にでもぶつけたのか凹んでいる。
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地図では目を白黒させてしまう目白学園。 [気になる下落合]

目白学園鳥瞰.jpg
 大正から昭和にかけて、下落合の地図を年代順に眺めていると、少なからずモヤモヤしてくる一画がある。現代では地元で「目白学園」Click!と呼ばれることが多い、下落合西端の高台にある学校のキャンパスだ。
 1923年(大正12)の設立から、地図上に採取されている学校名を列挙すると、研心学園、城北学園、目白商業学校、目白女子商業学校、桐ヶ丘中学校、目白学園中学校、目白学園高等学校、目白学院、國學院高等学校、目白学園女子短期大学、目白研心中学校・高等学校、目白大学と、ときに数年おきで地図上に採取される名称がめまぐるしく変わり、学校の経営主体が次々に変わっているのではないかとさえ思える。
 だが、「國學院高等学校」と採取された一部キャンパスや校舎の國學院大学への貸与時期を除き(「目白学院」は誤採取か誤植だろう)、これらはすべて設立当初から同一の学校なのだ。しかも、経営は(財団法人化される以前を含め)1929年(昭和4)より一貫して(財)目白学園であり、校名のたび重なる変更は同学園の100年におよぶ苦難の歴史をそのまま反映している。これらの校名の中で、わたしがもっとも親しんだネームは、やはり下落合で長くつづいた「目白学園女子短期大学」と「目白学園中学校・高等学校」だろうか。
 また、地元で「目白学園」と学校の総称で呼ばれることが多いのは、戦後すぐに発見され発掘調査が進んだ、旧石器時代から後代までつづく数万年におよぶ重層遺跡、「目白学園落合遺跡」Click!という呼称も影響しているのかもしれない。また、同学園の多くの出版物が各時代の個別の学校名ではなく、学校法人目白学園となっていることも要因のひとつだろうか。きょうは、いまさらながらだが下落合の西端(現・中落合4丁目)にある「目白学園」について取りあげてみたい。
 1923年(大正12)4月に、下落合2186~2227番地(代表地番は下落合2217番地が多い)の広大なキャンパスに2棟の大きな校舎を建て、1,000名の生徒を集めて開校したとき、同校は「研心学園」の名称だった。もともと雑司ヶ谷で武道場「研心館」を開いていた佐藤重遠が創立者だが、郷里の宮崎県延岡からやってきた若者たちを寄宿舎に住まわせ、「研心会」という名称で教育を施していたのが研心学園の前身となった。
 下落合に研心学園を創立した当時、佐藤重遠は駿豆鉄道の社長であり、当然ながら下落合で目白文化村Click!を販売しているまっ最中の堤康次郎Click!とは近しい仲だったろう。また、箱根土地本社Click!国立Click!へ移転し、下落合の元・本社ビルClick!へ次に入ったのが中央生命保険の倶楽部というのも濃いつながりを感じる。佐藤重遠は、大正末から中央生命保険の専務取締役に就任しているので、目白学園の敷地も中央生命倶楽部のビルも、おそらく堤康次郎が仲介ないしは譲渡している可能性が高い。ふたりは趣味の武道でも、気が合う同士だったのかもしれない。
 堤康次郎と佐藤重遠は1924年(大正13)、衆議院選挙へ同時に立候補して当選し政界へ進出している。だが、佐藤重遠は中央生命保険での背任行為が発覚し、1934年(昭和9)に懲役2年の判決を受け議員辞職をしている。さらに、1937年(昭和12)には衆議院選挙での選挙違反を問われて禁錮4ヶ月の判決を受け、以降は政界へ復帰することはなかった。学校の創設者であり理事長が、上記のようなありさまだったので、実務をまかされていた教育現場のスタッフたちはたいへんな思いをしただろう。「先生、警察に二度も捕まらないでください! 生徒や親たちに示しがつかない」と、誰もが思っていたにちがいない。
 最初の逮捕のとき、佐藤重遠は理事長を辞職して、かわりに妻の佐藤フユが同職に就任している。目白学園が、ことさら女子教育に熱心で評判になったのは、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)出身だった佐藤フユ理事長の功績が大きいからだろう。庄次竹二郎の二女として生まれた佐藤フユは、死去する2年前の1956年(昭和31)まで学園教育の第一線に立ちつづけ、夫の佐藤重遠よりも先に他界している。
 当時、目白学園では誰からともなく「散りそで散らぬは目白の桜と重遠」と、創設者への皮肉をこめた戯歌が詠まれるほど、経営手腕はともかく根っからの教育者だった佐藤フユの死は、少なからず惜しまれたようだ。夫にかわり目白学園の理事長であり各学校の校長だった佐藤フユだが、ほんとうは絵画あるいは短歌の道へ進みたかったらしい。生涯を目白学園の経営と教育に忙殺されることになり、1958年(昭和33)に急死したのも修学旅行に関する研修会が行われていた北海道の宿泊先でだった。
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 研心学園のスタートは、当初から波乱含みだった。2005年(平成17)に出版された、『目白学園八十年史』(目白学園八十年史編纂委員会)から引用してみよう。
  
 研心学園は各種学校であった。正規の中学校の設置者は、当時の「私立学校令」によれば財団法人である必要があったが、その設立が間に合わなかったことによる。研心学園は普通部と実業部を併せ持ったが、このうち実業部というのは商業教育の過程のことであり、これが後の目白商業の中核となる。/こうして出発した研心学園であったが、創立の年の九月、あの関東大震災に遭い、たちまちにして経営困難におちいった。やむをえず、学校の縮小ということになり、多くの教職員に向けて退職勧告が出されたが、それに対する教職員全員による拒否にあい、かえってそこに熱意を見たことによって経営の士気が高まった。この後、いったん城北学園に校名を変更して、それに合わせて財団法人を作り、法令上の中学校を立ち上げようとはかり、しかしなお準備整わず、断念のやむなきにいたるという経緯もあった。
  
 校名を「城北学園」に変更し、財団法人化と中学校設置を申請したのは1926年(大正15)で、その申請を取り下げたのが1928年(昭和3)なので、研心学園時代が3年間、城北学園時代はわずか数年ということになる。このあと、1929年(昭和4)に財団法人目白学園を設立し、1935年(昭和10)に目白商業学校が開設されている。
 それから9年後、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」にもとづき、男子が商業を習うことが禁止され、1944年(昭和19)に目白商業学校は目白女子商業学校に改称されて、男子の募集は行わなくなった。ただし、それまで在学していた男子生徒はそのまま通学してきたので、学校名は異なるが戦時中では非常にめずらしい、同一キャンパスにおける中学校レベルの「男女共学」が実現している。しかし、それも翌1945年(昭和20)3月までで、「戦時教育措置要綱」により全生徒は勤労動員に駆り出されている。
 戦後は、1947年(昭和22)に新たな学校教育法のもとで名称を「桐ヶ丘中学校」(翌年には「目白学園中学校」と改称)とし、新制中学の建設が間に合わない新宿区の女生徒200名も受け入れている。1951年(昭和26)に財団法人から学校法人目白学園に変更されたが、生徒数の減少にともなう経営難で学校当局は苦境に立たされた。戦後の新制中学校が義務教育化と無償化を実現したため、私立中学校の廃校が各地で続発していた時代だった。翌1952年(昭和27)に目白学園高等学校を開校するが、それでも経営は好転しなかった。そこで経営難を解消しようと、國學院大学との提携話が浮上してきた。
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 当時、國學院大学では文学部と高等部の新設が課題となっていたが、そのためには校舎と敷地の確保が不可欠だった。そこで、目白学園の校舎1,500坪と校庭6,500坪の借地権を國學院大学(の文学部)にゆずり、そのかわり目白学園中学校・高等学校の経営を委任するという条件だった。1948年(昭和23)に両校は合意し、将来的な合併をも視野に入れた契約を交わしたはずだった。
 ところが、この話は裁判沙汰にまでこじれてしまう。つづけて、同書より引用しよう。
  
 ところが、二四年(1949年)四月に実際に移転してきたのは、大学(文学部)ではなく目白学園と競合する高等学校であった。校名変更や校長人事などをめぐる行き違いをきっかけとして、目白学園側では学校存続という当初の計画に対して危惧が生まれ、契約の解釈や履行のあり方について、國學院側と意見の衝突が生じた。この争いはついに二五年(1950年)四月、契約解除並びに國學院使用建物の明け渡し請求の訴訟に発展した。請求は退けられ、本学園の敗訴となったが、控訴中に行政の仲裁で和解が成立し、学園が元の形に戻ることになったのは、三一年(1955年)七月であった。(カッコ内引用者註)
  
 この裁判の最中に、学園内で教職員組合が結成され、ベアや学園の民主化、経営問題などをテーマに経営陣=理事会側と鋭く対立した。加えて國學院大学との裁判を抱え、目白学園の経営陣は疲れはて「もう、どうにでもなれ!」と思ったかもしれない。同学園史には、「学園の存立にかかわる不幸な状況を生んだ」とだけ書かれているが、長い目白学園史の中でも最大の危機ではなかっただろうか。佐藤フユが理事長を辞任しているのも、國學院側との和解が成立して学園がもとの状態にもどった同年(1955年)のことなので、学内外に裁判騒動の責任をとったかたちなのかもしれない。
 裁判が和解するとともに、学園内の争議も収束していき、1960年(昭和35)を迎えるころには新たに目白学園幼稚園を設置している。そして、幼児教育につづき1963年(昭和38)には、高等教育機関である目白学園女子短期大学を新設した。このころからようやく経営も安定しはじめ、1967年(昭和42)には女子教育研究所をオープンしている。
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 めまぐるしい変遷を繰り返した目白学園だが、少子化の影響で幼稚園は閉園(2000年)したものの、現在では目白大学(大学院)をはじめ、目白学園短期大学部(旧・目白学園女子短期大学)、目白研心中学校/高等学校(旧・目白学園中学校/高等学校)という構成になっている。大正期からの地図を順を追って参照していると、少なからず目を白黒させてしまう目白学園だが、2023年で創立100周年を迎える伝統や歴史があるにもかかわらず、過去に拘泥せずに前を向きつづけるところが同学園の大きな特色なのだろう。

◆写真上:眼下には、旧・下落合と上落合の街並みが拡がる目白学園キャンパス。
◆写真中上:各時代の地図にみる目白学園で、上空から「カフェーブラジル」の宣伝チラシを撒いていた飛行機が墜落Click!(1925年)したのは研心学園時代の校庭。
◆写真中下からへ、昭和初期に撮影された目白商業学校時代の登校風景、同校の運動会、入学記念写真(1931年)、目白女子商業学校時代の授業風景(1944年)、そして戦後に耕地整理を終えた上高田側から眺めた目白学園の丘。
◆写真下は、2005年(平成17)に出版された『目白学園八十年史』()の内扉と、大正期から戦後まで目白学園を経営した佐藤フユ()。は、正門に向かう五ノ坂の登下校風景を撮影した写真。目白商業学校時代の1930年代とみられる下校風景()で、五ノ坂の両側はいまだ宅地開発が進んでいない。次は、1960年代とみられる目白学園高等学校の生徒たちの登校風景()で、左手の大谷石による擁壁は五ノ坂にある古屋邸Click!のもの。戦前から宅地開発が進み、下落合西部の坂道は佐伯祐三Click!が描いた蘭搭坂(二ノ坂)Click!画面Click!と同様に、ひな壇状の擁壁が次々と築かれていった。つづいて、五ノ坂の現状()。遠望の風景は変わったが、五ノ坂の風情はそれほど変わっておらず、車庫の設置で道路と水平にする必要から、取り払われることの多い大谷石の擁壁もそのままだ。

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落合西部と江古田・片山の和田伝説いろいろ。 [気になる下落合]

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 落合地域とその周辺には、鎌倉期あるいはそれ以前からの起源がありそうな、鎌倉幕府の御家人「和田氏」の伝説が語り継がれている。以前、周辺に散在している「和田」の地名考Click!については、すでに記事にしていた。東京の西北部には、和田氏が館をかまえていたとされる和田山(現・哲学堂公園/中野区)をはじめ、東和田・和田町(ともに中野区)、大和田(豊島区)、和田戸(新宿区)、和田・和田堀(ともに杉並区)、和田(渋谷区)などだ。
 杉並区と渋谷区は、手もとに資料がないので伝説・伝承の類は不明だが、その他の地域は明らかに鎌倉期前後の和田氏、鎌倉街道が貫通していたとみられる和田戸<山>(戸山ヶ原Click!)を含め(戸山ヶ原の和田戸は、室町期を舞台にした「山吹の里」の和田家にちなんだとする人もいる)、その支道(地元では「鎌倉みち」と呼ばれる)が通っていた、落合地域の西部に隣接する野方村(大字)江古田(字)東和田の和田山を意識しつつ語られているように思われる。これらの伝承は、大別すると鎌倉幕府の以前、幕府が開かれたあと、そして幕府内の御家人同士の内紛が激しくなった時期などに分類できるだろうか。
 落合地域で語られている「和田氏」伝説は、たとえば和田山も近い自性院縁起に代表されると思われる。1932年(昭和7)出版の大澤永潤Click!『自性院縁起と葵陰夜話』Click!(非売品)の記述が代表的だ。少しだが、同書より引用してみよう。
  
 今より八百年前藤原時代の末葉義家卿の部下の士によつて開かれたといふ床しい伝説を持つ当地はそれより三百有余年を経て室町時代となりました、勿論この間、鎌倉時代の伝説として近くに和田義盛の據城跡と伝ふる和田山の伝説が村の鎮守の森に続いて西方一帯の丘陵に渡つてあります。(中略) 和田山の故事は一寸前述致しましたが当初鎮守御霊社境内に続いて西方一帯の丘陵地で明治年間彼の妖怪学の泰斗で社会事業家井上円了博士の哲学堂が建説(ママ:設)せられ都人学徒の参観者数多あり、又この度び大東京都市編入に際し此の辺一帯天然風致区域に指定せられました。
  
 「和田義盛の據城」と和田山が、かなり抽象的な表現で(なんら具体的な根拠のないままに)伝承されてきた様子が想定できる。だが、伝説はこれだけにとどまらない。和田山の周囲にある江古田(えごた)村や片山村などでは、「和田義盛の館があった」というような単純な伝承ではなく、より具体的な説話が語り継がれている。
 1180年(治承4)に、石橋山の合戦で真鶴から敗走した源頼朝Click!は、安房で北条氏や千葉・相馬氏、和田氏、安達氏、上総氏、毛利氏、武田氏、畠山氏、三浦氏、川越氏、江戸氏などと再起をはかり、隅田川を渡河して鎌倉をめざした。このとき、北関東の足利氏や世良田氏(松平氏→徳川氏)、新田氏はいまだ動いていない。のちに、鎌倉幕府によって全国に守護(大名)として配属される坂東武者たちの姿がすでに登場している。
 隅田川を渡ったあと板橋に布陣(本陣)するころには、頼朝の軍勢は2万にふくらんでいた。その際、頼朝にしたがった和田義盛が布陣したのが、のちに和田山と呼ばれるようになる丘陵地帯だったという伝承が、古くから語り継がれている。「和田義盛の館があった」という伝説よりは、がぜんリアリティのあるエピソードだろうか。和田義盛が館を築いたのは鎌倉市街ないしは三浦であって、わざわざ鎌倉から離れた武蔵野丘陵に館を築く必然性はないし、鎌倉期の館遺構が発掘されているわけでもない。
また、戸塚(現・早稲田エリア)の南の戸山には、頼朝が鎌倉入りをする際に休息した場所として「和田戸氏の館」という伝承があるが、「和田戸氏」とはどのような氏族なのだろうか? 頼朝の家臣にも鎌倉幕府の有力御家人の中にも「和田戸氏」という一族はいないし、『東鑑(吾妻鏡)』にも登場していない。なにかの誤伝か、後世の創作ではないか。
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 また、和田義盛の子「和田磯盛」にからんだ伝承が、江古田村の第六天Click!勧請にまつわる物語に登場している。1984年(昭和59)に中野区江古田地域センターから発行された『江古田今昔』に、そのくだりが掲載されているので引用してみよう。
  
 入植伝では和田伝説の続きになるが、氷川社に合祀された第六天は義盛の子和田小太郎磯盛の子孫百姓磯右ヱ門の勧請したものだといい、寺山の西方にあった通称小川屋敷跡はその名残りだったという。窮迫して家具、古文書類を売払って行方知れずとか。それにしても草分千家の一員ということにはなる。
  
 ここに登場する「和田小太郎磯盛」とは、いったい何者だろうか? 和田氏の系譜はかなり詳しく判明しており、和田義盛の子に「磯盛」という人物は見あたらない。江古田村だけで語り継がれている、和田氏の「子孫」だろうか。
 江戸期に入ると、世の中が平和になり万事生活にも余裕がでてきたせいか、自身のあるいは自家の祖先がどこの誰なのかが気になりはじめ、ルーツをたどるアイデンティティ探しが大流行している。江戸期に系図屋の商売が大繁盛したことは拙サイトにも何度か書いているが、その祖先をたどると必ず「清和源氏」か「桓武平氏」、武門っぽくなければ「藤原氏」、どれにもひっかかりそうもなければ「橘氏」へたどり着くというような家系図を、系図屋は全国の津々浦々で大量生産して(デッチ上げて)まわった。
 ありがちな「落人(おちゅうど)」伝説も、そんな江戸期のルーツ探しブームの中でつくられている。現在では全国各地に「平家の落人部落」伝説が散在しているが、それだけ全国規模で各地に「落人」がいれば、鎌倉幕府の軍勢と対抗できるじゃん(爆!)……というぐらい、江戸期には「平家の落人」ブームも各地で起きている。
 ご多分にもれず江古田村にも「落人」伝説が残り、それが和田山の伝承と習合して、鎌倉幕府と対立し敗走した「落人」(和田磯盛?)が住みついて江古田村を形成した……というような伝承になったのではないか。自身の祖先が歴史上でもそこそこ名の知られた人物であり、大枚はたいて手に入れた膨大なツリー状の家系図を引っぱりだしては「世が世なら」と誇示するのを、いい商売をした系図屋は目を細めて眺めていたのではないだろうか。和田義盛の息子をひとりぐらい増やすのは、系図屋にとっては朝飯前だったろう。
 江古田地域センターの『江古田今昔』にも「疑義はあるが」とあるが、幕府と合戦して敗走した和田氏の残党が、鎌倉から馬をとばせば丸1日でたどり着けそうな、しかも鎌倉街道とその支道が通う武蔵野丘陵へ落ちのびることなどありえない。以前、大坂の陣から落ちのびた西軍の騎馬武者が数騎、わざわざ敵の本拠地である江戸の天領(幕府直轄)・下高田村へ落ちのびて住みついたケースをご紹介Click!しているが、『新編若葉の梢』Click!の編者である高田町の海老澤了之介Click!も「ありえない」と書いているように、幕府のきびしい「落ち武者狩り」などまるでなかったことにされた、平和な江戸期の系図屋による“神話”だろう。
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 もうひとつ、片山村には鎌倉期の落ち武者伝説が語られている。1955年(昭和30)に出版された熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品)から引用してみよう。
  
 東鑑(吾妻鏡)には、土御門天皇の御宇建仁二年の頃より享保(ママ)年間に至るまで武蔵野の広野を開発して八十余の武蔵野新田と唱える郷が出来たことが記されている。此の頃から約十年後の建保元年の五月には源頼朝の重臣和田義盛が、和田山「現在の哲学堂公園」に拠って、北条義時と兵を交えたが、力及ばずして敗北し、其の子孫は当地に帰農したことを口碑に伝えている。此のことから推察しても、当地方は古くから農耕が営まれていたのを知ることが出来る。(カッコ内引用者註)
  
 『吾妻鏡(東鑑)』に、江戸期の享保年間のことなど書かれていないし、800万石におよぶ徳川幕府の財政を支える「武蔵野新田と唱える郷」が、わずか「八十余」などということもありえない。また、和田義盛一党と北条氏が戦ったのは鎌倉市街(雪ノ下村の南側で和田氏の墓所である和田塚から由比ガ浜にかけて)であって、まったく史実に反する。そこには、なにか大きな勘ちがいか、江戸期の系図屋による野放図なリップサービスがありそうだ。
 さらに、鎌倉の落ち武者伝説は、江古田村の旧家にも伝わっている。1973年(昭和48)に出版された堀野良之助『江古田のつれづれ』(非売品)から引用してみよう。
  
 江古田村孫右衛門組の名主深野孫右衛門の家は旧家で、鎌倉時代から住んでいたと伝えられる。江古田村字東本村には旧家が七、八軒あったが、深野孫右衛門の家は、その中の一軒である。(中略) 東本村は、江古田の元村(もとむら)であるといわれる。そこに居を構えた旧家は、いずれも古くから江古田本村に住みついた鎌倉時代の落武者の末孫であったのだろう。武蔵風土記稿に記された天正時代(民家十一戸)の大部分は、右に揚げた旧家であろう。
  
 確かに、和田山の南側には鎌倉期の集落跡が見つかっており、また近くの下落合村本村Click!からは鎌倉の年紀銘が刻まれた板碑が出土しているので、鎌倉時代からあちこちに集落が形成されていたのは事実だろうし、落合地域に限ればそれ以前の平安期や奈良期、さらに古墳期以前(旧石器時代まで)にさかのぼる遺構が複数見つかっており、有史以来、このあたりには人が間断なく住みつづけてきたこともまちがいないだろう。
 ただし、それを鎌倉期の「落武者」に収斂していくのは、考古学的(科学的)な検証が皆無だった江戸期由来の、さらにいえば系図屋由来の伝承ではないだろうか。数々の伝承の中で、源頼朝の鎌倉入りに関連して和田義盛とその一党が布陣(先陣)した丘陵が、南に向けて見晴らしのよい和田山だったという伝承が、もっとも歴史学的には不自然ではなくリアルであり、また『吾妻鏡』など文献史学の側面からも矛盾しないいわれのように思える。
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 西落合に隣接する和田山には、このほかにも数多くのエピソードが眠っている。妙正寺川のバッケ(崖地)Click!に開いた横穴氷室や五辻安仲の別荘、和田山の学校、高田南蔵院Click!の買収と、哲学堂以外にも面白いテーマが多いので、またいつか記事に書いてみたい。

◆写真上:古くから「鎌倉みち」と呼ばれた、野方地域(中野区)と落合地域(新宿区)の境界を通る哲学堂通り。伝承や周囲の遺構から、鎌倉街道の支道とみられる。
◆写真中上は、明治末に撮影された和田山の井上哲学堂。手前には、沢庵漬けにして出荷されるダイコンが大量に干されている。は、大正期の井上哲学堂で電燈線とみられる電柱が田畑を横切っている。は、下落合村出身の小島善太郎Click!が描いた『埴輪』(制作年不詳)。1955年(昭和30)出版の熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品)に収録された作品で、一帯から埴輪片も数多く出土しているとみられる。
◆写真中下は、東洋の「六賢人」を奉った井上哲学堂に建つ六賢台の塔上内部。下は、和田山のバッケ(崖地)に現在も繁る森林。
◆写真下は、鎌倉・由比ガ浜にある和田一族の墓所といわれる和田塚。は、1973年(昭和48)出版の堀野良之助『江古田のつれづれ』(非売品/)と著者()。

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まだ記事にしていない下落合の画家たち。 [気になる下落合]

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 いままで、落合地域で暮らした画家たちClick!をずいぶん取りあげて記事にしてきたが、おそらく実際にこの地域でアトリエをかまえていた画家たちの5分の1にも満たないのではないだろうか。拙サイトで取りあげるのは、どうしても記録や地元でのエピソードが数多く残り、物語性に富んでいる、つまり記事にしやすい画家たちとその周辺が多くなってしまうが、“ふつう”に暮らして(佐伯祐三Click!金山平三Click!曾宮一念Click!たちが“ふつう”じゃなく、人間的な魅力にあふれた特異な存在なのだ)、日々黙々と制作していた画家たちまで、また、短期間しか滞在しなかった画家たちまで含めると、大正初期から現在までおよそ千人単位のボリュームになりそうだ。
 鈴木良三Click!は、曾宮一念Click!と同じように出身校や会派などにとらわれず、落合地域に住んでいたさまざまな画家たちのアトリエを訪ね歩いている。彼自身は、いわゆる“帝展派”(帝展に応募する画家たちの意)だったが、曾宮一念など二科の画家たちとも親しく交流し、いまとなっては貴重な落合地域に住んでいた画家たちの記録を残している。曾宮に連れられて佐伯祐三アトリエを訪れたときは、大工から歳暮Click!にもらったよく削れるカンナClick!に熱中していて、庭に置かれた材木から家の柱や天井裏Click!まで、いろいろなところを陶然と削っているまっ最中だった。
 その佐伯アトリエの隣りには、一時期、二科の中村善策がアトリエをかまえている。中村善策は、昭和初期に下落合の中井駅近くにしばらくアトリエをかまえていたが、1937年(昭和12)に長崎南町(現・南長崎/目白4~5丁目)へ一時移ったあと、戦時中に佐伯アトリエの“裏隣り”へ転居してくる。アトリエが戦災で全焼すると信州へ疎開し、東京へもどると今度は上落合で売りに出ていた家を見つけてアトリエにしている。
 戦前、中村善策は二科から一水会へと移ったので、鈴木良三とはつき合いが長かったらしく、彼についての証言が多く残っている。1999年(平成17)に木耳社から出版された、鈴木良三『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』から引用してみよう。
  
 佐伯君のアトリエと背中合わせのところに中村善策さんが一時期住んでいた。/彼は大正十三(一九二四)年、二十三歳の時北海道から上京し、最初滝ノ川あたりに間借りの生活をしていたが、その後信州や小樽の間を行き来して写生を続け、二十四歳で二科に入選、昭和元(一九二六)年三十歳で落合も高田馬場近くに住み画家としての本格的な生活に入った。(中略) そして昭和十八(一九四三)年になって佐伯君の裏へ引っ越して来たのであった。善策さんは非常な名文家でもあり、『山下新太郎先生制作余談』や油絵の描き方や風景画の実技、油絵のスケッチ、風景画の四季淡彩スケッチの描き方、風景画の技法分解などを書き、和歌も、書も、日本画もなかなかうまくこなした。殊にいい喉をして江差追分を歌わせると実に名調子で、聴衆をホロリとさせるものがあった。
  
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 鈴木良三が「高田馬場近く」と表記するのは、別に山手線・高田馬場駅近くという意味ではなく、他の画家の例でもそうだが高田馬場駅へすぐに出られる西武線沿線という意味あいが強いようだ。「下落合の高田馬場駅近く」というのは、歩けば山手線の目白駅と高田馬場駅とで大差ない位置に住んでいても、高田馬場駅へ短時間で出られる西武線の下落合駅あるいは中井駅の近くということらしい。
 「佐伯君のアトリエと背中合わせ」または「佐伯君の裏」とあるので、佐伯邸の門は東向きなことからその西側、大きな納三治邸Click!や小泉邸の北側、八島邸Click!の東側にあたる行き止まりの路地(突き当りは小泉邸Click!)の両側に並ぶ、下落合2丁目663番地ないしは666番地に建つ住宅7軒のいずれかではないだろうか。
 中村善策は風景画を得意とした画家で、二科の時代から数多くの作品を描いていたが、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!で、アトリエにあった200点以上の戦前作品を焼失している。それが無念きわまりなかったせいか、長野県明科町の疎開先から5年近くも東京へもどらなかった。疎開先からもどると、上落合に小さな売り家を見つけて住み(地番は不明)、戦後の制作を再開している。
 中井駅の近くには、太平洋画会の永地秀太や一水会の新海覚雄、酒井亮吉たち、少し離れて妙正寺川沿いの上高田に中出三也Click!甲斐仁代Click!アトリエClick!をかまえていた。永地秀太は、東京土地住宅Click!によるアビラ村Click!構想が具体化し、しばらくすると下落合4丁目(現・中井2丁目)に土地を購入して転居してきている。おそらく、同画会の満谷国四郎Click!あたりの勧めによるものだろう。永地秀太アトリエは、金山平三の住所と同じ下落合(4丁目)2080番地、金山アトリエから道路をはさんで3軒北隣りの敷地だった(大日本獅子吼会による敷地の買収前)。
 また、その道路をはさんだ西隣りには新海覚雄がいた。1927年(昭和2)に父親の彫刻家・新海竹太郎が死去しているので、鈴木良三が訪ねたとき大きな邸宅には新海覚雄とその家族が住んでいたのだろう。おそらくアビラ村構想の記憶が残る大正末あたりに、父親が土地を購入して邸宅を建設しているとみられる。
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 つづけて、『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』から引用してみよう。
  
 (下落合の)今の中井辺にあたる。このあたりは太平洋画会の永地秀太、一水会の新開(ママ:新海)覚雄、酒井亮吉、中出三也、甲斐仁代夫妻の諸氏も住んでいた。永地さんのことはあまり知らなかったが、新開君(ママ)も酒井君も一水会だったので多少覚えている。新開君(ママ)は立派な体格で、大人しい性格だったが、絵もアカデミックな婦人像などを描いていた。ただ思想的に交遊も片寄っていたのではないだろうか。割合に早逝した。/酒井君は巴里時代に知り合って、小さな体をまめに動かして飲み歩いたが、帰国して一水会に出品し、会員にまでなったけれど悪性の病気で倒れてしまった。(中略) 中出三也君も、甲斐さんも大の飲んべえで、一夜彼等のアトリエ<畑の中>へ招かれて大勢で飲んで騒いだこともあったが、野球が好きで、よく哲学堂の野球場で絵描き仲間の試合をやったものだ。私も、彼も投手で敵味方になって戦ったものであった。鈴木金平君などはわが方の内野手であった。(カッコ内引用者註)
  
 下落合東部の不動谷(西ノ谷)Click!に建っていた吉田博アトリエClick!の近くには、三岸好太郎Click!たちと交流があった春陽会の岡田七蔵Click!や、坂口右左視らのアトリエがあった。岡田七蔵と三岸好太郎の関係ついては、以前、築地にあった桑山太市朗アトリエにふたりで入りびたり、宮崎モデル紹介所Click!へ依頼したモデルによる裸婦デッサンのエピソードをご紹介している。鈴木良三は、春陽会に親しい友人がいなかったらしく、岡田七蔵や坂口右左視は訪ねていないので、具体的にアトリエの場所がどこだったのかは不明だ。
 また、第三文化村Click!に建っていた下落合(3丁目)1470番地の目白会館文化アパートClick!には、二科の服部正一郎が学生時代から住んで制作している。茨城県龍ヶ崎の大地主の息子なので、生活の心配はまったくなかったのだろう。下落合から、早稲田にあった日本美術学校へ通っている。卒業後、二科への入選がつづくようになると龍ヶ崎へ帰り故郷で制作をつづけた。実家が大農家なので、戦中戦後の食糧難でも食べ物に困らずに生活が送れたらしく、同じ二科の東郷青児Click!や松本弘二が食糧の買い出しに服部家を訪れたという逸話も伝えられている。
 昭和初期、ちょうど曾宮一念Click!がアトリエの改修工事を行なっていたためか、あるいは夫婦が仲たがいをしたせいなのか原因は不明だが、何らかの事情で目白会館に仮住まいをしていた時期と、服部正一郎が住んでいた時期とが重なりそうなので、曾宮のエッセイでもどこかに彼のことが触れられているのかもしれない。あるいは、服部正一郎が書き残した文章のどこかで、少しは目白会館文化アパート内の様子がわかるだろうか。
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 関東大震災Click!のとき、中村彝Click!が避難した下落合の鈴木良三アトリエClick!が下落合800番地にあったことは、これまでたびたび書いてきたけれど、同アトリエもまた下落合436番地の夏目利政Click!による設計だったことに改めて気づいた。「鶴田君の紹介で、夏目という人が下落合に盛んにバラック式の貸家を建てて」(同書)いるのを知り、大震災の前日、1923年(大正12)8月31日に雑司ヶ谷から下落合へ引っ越して入居している。夏目利政は、自身が設計した住宅に画家たちを優先して入居させていた気配が強いので、いまだ知られていない画家たちのアトリエが、下落合東部のあちこちにあったのではないだろうか。

◆写真上:金山平三アトリエと同地番の下落合2080番地(アビラ村)に住んだ、新海覚雄による1937年(昭和12)制作の『椅子に座る女』。昭和初期に大流行した、モダンな金属パイプによるバウハウス風のテーブルやイスのデザインが印象的だ。
◆写真中上は、1977年(昭和52)制作の中村善策『洞爺湖と蝦夷富士』。は、1978年(昭和53)に制作された中村善策『石狩湾の丘の邑』。は、1945年(昭和20)5月17日に米軍F13Click!から撮影された下落合663~666番地界隈の様子。佐伯祐三アトリエの一画と鉄筋コンクリートの聖母病院などを除き、周囲の家々の多くが焼失している。
◆写真中下は、1918年(大正7)に制作された永地秀太『肌』。は、2画面とも新海覚雄の作品で1952年(昭和27)制作の『独立はしたが』(上)と、1961年(昭和36)制作の『ノーモア・ヒロシマ』(下)。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合2080番地界隈。永地(ながとち)アトリエの姓が、「水地」と誤採取されている。
◆写真下は、1935年(昭和10)に制作された酒井亮吉『飴売と子供』。子どものころ不衛生だからということで、わたしが買ってもらえなかった縁日Click!などでよく見かけた「おしんこ(新粉)屋」(しんこ細工)Click!の飴屋だろう。は、1928年(昭和3)制作の岡田七蔵『石神井川風景』。は、1936年(昭和11)に制作された服部正一郎『放水路風景』。

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武蔵野の森にみる100年前と現在の動植物。 [気になる下落合]

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 これまで、「武蔵野」Click!の自然や風情、文学Click!絵画Click!気象Click!などをテーマにした記事Click!を、何度か繰り返しここに書いてきている。ただし、下落合のキノコ類Click!タヌキClick!、一部の昆虫Click!などを除き、植物や動物(特に野鳥類)についてのまとまった記事が不在なのに気がついた。動植物が活気をおびる夏が、今年もまためぐってきたので改めて少し書いてみたい。
 春から初夏にかけての時期、東京でもまだコンクリートやアスファルトで覆われない地面が多く残るエリアでは、たまに濃い霧が立ちこめることがある。おそらく江戸の昔からいわれていたのだろう、「霧がわくは十五日」という俗諺が残っている。1年のうちで、昼と夜とでは寒暖の差が激しい時期、すなわち春から夏にかけてと秋から冬にかけての一時期、東京は濃淡の霧でおおわれる日が都合15日ほどあるよという意味なのだろう。
 ただし、薄っすらとかかった靄(もや)を霧と規定するかしないかで、おそらくこの日数は大きく変わるのではないだろうか。靄まで霧の範疇に入れるとすれば、春先の朝方などには風景が霞んだりにじんだりすることが頻繁にあるので、霧の発生日数は15日どころではないだろう。気象庁の統計では、靄程度の景色のにじみ具合では霧と規定していないようで、最近の統計を見ると霧の日は2019年が1日、2020年が0日となっており(靄の発生はかなり多いと思われるが)、ここ数年は霧の発生がほとんどないことがわかる。
 ところが、80年ほど前までは江戸期とさほど変わらず、東京では霧が16日ほど発生していたらしい。当時は武蔵野会会長だった鳥居龍蔵Click!への献辞のある、1943年(昭和18)に青磁社から出版された磯萍水『武蔵野風物詩』から引用してみよう。
  
 武蔵野には一年の中に、霧の日が十六日あると云ふ。これは気象台の人の話であるから其儘信じられる。試みに日記を繰つてみた。私が霧を日記に書入れてから四年間の日記である。成程、やゝそれに近いものが見出される。二三日数の合はないのは、その朝その頃まだ起きてゐなかつたのだらう。私は霧が好きだ、私としてはもつと霧の日がほしい。
  
 春から初夏にかけ、冷たくは感じない霧につつまれた武蔵野の森の木々は、新緑から深緑へと葉の色を変える。武蔵野の森は、木の実=ドングリがなる広葉樹が主体であり、いまでも下落合のあちこちでドングリやシイの実を集めることができる。樹齢が数百年を超える大木もめずらしくないが、その多くは武蔵野に多いケヤキが主体だ。
 21世紀の現時点で、下落合の森に見られる植生の一部をご紹介すると、ケヤキをはじめ、クヌギ、シイ、クス、サルスベリ、サクラ、ウメ、モモ、カキ、カエデ、ナラ、キリ、モミジ、カシ、ムク、イチョウ、ミズキ、カリン、マツ、スギ、ツツジなどだ。これが、江戸期から明治期にかけても同じ植生だったかどうかは、同地域の記録がないので厳密には不明だが、近隣地域の地元で記録された地誌本などを参照すると、おそらく一部の外来種を除けばそれほど植生に変化はないように思われる。
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 これらの森林や草原には、数多くの動物たちが棲息していた。いや、いま現在も棲息しており、今世紀に入ってからその数が増えて、種類も多くなっているような印象が強い。近隣の森に棲息していた動物たちの記録として、明治期の生き物を記載した地誌本が残っている。落合地域の西側に隣接する江古田地域の記録で、1973年(昭和48)に出版された堀野良之助『江古田のつれづれ』(非売品)から引用してみよう。
  
 小道を隔てた北の方には、目通り五、六尺位の黒松が数本あり、樫の大木もあった。西北方には樅の木の目通り七尺余の大木が一本あり、その他に家のまわりに多くの雑木が枝をまじえて昼間でもうす暗い程であって、いろいろの小鳥が飛んできては、朝早くからさえずっていた。その頃、この辺で見掛けた鳥は、鳶、烏、まぐそたか、ひばり、雀、ひよどり、むくどり、山鴨、百舌鳥、目白、ほおじろ、ばかしいたけ、啄木鳥、うぐいす、しじゅうから、こがら、山鳩、雉、ふくろう、みみずく、赤はら、白鷺、その他、さまざまな水鳥などであった。
  
 この中で、東京近郊の方言で呼ばれている名称がいくつかあるが、「まぐそたか」はノスリのことで、「山鴨」はカルガモのことだと思われるが、「ばかしいたけ」は不明だ。いまも下落合に多い、ツグミのことだろうか。
 さすがにトビは最近、もう少し郊外まで出かけないと見かけないが、オオタカは都心でもあちこちに営巣しているようで、ときどきウワサが耳に入ってくる。わたしが知るかぎり、下落合で見かけないのはキジ、フクロウ、ミミズクの類だが、「山鳩」=キジバトはほぼ毎日、家の周辺でウロウロしているのを見かける。また、著者は「啄木鳥」と書いているが、キツツキと同じように木の幹に穴を開けるコゲラのことではないだろうか。コゲラが樹木をつつく連打音は、いまの下落合でもときおり聞くことができる。
 上記の野鳥たちに加え、最近、下落合でも観察されている個体には、ツミ、オナガ、セキレイ、ツバメ、ショウビタキ、キビタキ、オオルリ、カワラヒワ、アオバト、ヤマガラ、シロハラ、カワセミ、ツツドリ、マガモ、カルガモ、アオサギ、ゴイサギ、シラサギ、カワウ、オシドリ、オオバン、そしてなぜか巨大な緑色のインコなどだ。
 面白いのは、相模湾の海辺と丹沢山塊を往復しているはずのアオバトが、下落合までやってきていることだ。群れではなく、個体として姿を見せているようなので、湘南の海へ飛ぶはずがなぜか新宿まできてしまった方向音痴のアオバトかもしれない。ときに、神田川や妙正寺川沿いでユリカモメ(ミヤコドリ)を見かけるが、通常の群れは面影橋あたりまでしか遡上しないので、下落合まで飛んでくるのは冒険好きなユリカモメだろう。
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 わたしの学生時代(1970年代後半~80年代初め)と比べ、野鳥の種類も数量もケタちがいに増えているが、次にもどってきそうなのは『江古田のつれづれ』にも挙げられているキジだろうか。事実、東京東部の川沿いではキジが数多く確認されており、西北部にも復活するのは時間の問題のように思えてくる。一時に比べれば、カラスの数はかなり減少しているが、南にある神宮の森のようにオオタカが下落合の森にも営巣してくれれば、もっと減るのではないだろうか。
 さて、この付近で明治期によく見かけられた地上の動物たちについても、堀野良利助は記録している。同書より、再び引用してみよう。
  
 動物は、きつね、兎、むじな、いたち、かわうそ、などがいた。夜おそくに、きつねの啼き声を聞くと淋しくて、なんとなく気味が悪かった。けれども、春の頃には、実にのどかであり、秋は木の葉が色づいて美しかった。(中略) 夏の頃には、その雑草の間から蛇がにょろにょろと這い出して気味が悪かった。
  
 「むじな」はタヌキのことだが、「かわうそ」は妙正寺川や旧・神田上水にいたニホンカワウソのことで、とうに絶滅しただろう。上記の動物の中で、現在も下落合で健在なのはタヌキとヘビ、ハクビシン、そして目白文化村Click!をときどきウロウロしている野良ウサギClick!ぐらいだろうか。w アオダイショウClick!は、わたしの家の中にヤモリを追いかけて子ヘビが入ってきたり、道を歩いていると樹木の上から「足」(ないし)をすべらせて落ちてきたりする人なつっこいヘビClick!なので、もっとも数が多い個体なのだろう。
 つい先日も、近くで子どもたちが「ヘビだぁ、キャーーッ、ヘビがいた~!」と叫んでいたが、おそらく2m前後の美しい体色をしたアオダイショウを見て騒いでいたのではないだろうか。このアオダイショウは、大人しい性格をした近隣の主(ぬし)のような存在で、うちの子どもたちも何度か身体を触らせてもらっている。シマヘビも何度か見かけたが、臆病なヤマカガシもいるそうで、マムシ以外のヘビはおおよそ健在のようだ。もっとも、うちにいるヤマネコのように凶暴な肉食獣に見つかったりすると、ヘタをすれば頭蓋骨を嚙み砕かれてしまうので十分注意してほしいのだが。
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 『江古田のつれづれ』には、動植物はよく記録されているが、残念ながら昆虫類の記載が少ない。でも、近ごろよく見かける虫たちの様子を観察していると、野鳥たちと同様に種類も個体数も年々増加しているのがわかる。新宿区にある下落合の森でカブトムシやクワガタムシ、タマムシ、オニヤンマ、ギンヤンマ、チョウトンボなどを見かけるのは、およそ40年前には考えられなかったことだろう。武蔵野のキツネやイタチ、ニホンカワウソの復活は無理にしても、せめて虫たちの種類は100年前と同じぐらいにもどってほしいものだ。

◆写真上:ようやく霧が晴れはじめた、早朝の内藤家屋敷跡Click!(現・新宿御苑)。
◆写真中上は、タヌキの森に生えていた樹齢400年を超えるとみられるクス。は、下落合でもっとも多い大木のケヤキ。は、同じく多く見られるモミジ。
◆写真中下は、いつも群れで移動するオナガ。は、家の周囲をつがいでウロウロしているヤマバト(キジバト)。は、音はするがなかなか姿を見せないコゲラ。
◆写真下は、あまりめずらしくなくなったカブトムシ。は、「わたしは枝です」と擬態するナナフシ。は、姿を見るだけで心がときめくオニヤンマ(ドロボウヤンマClick!)。

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壺井栄にポカポカ殴られ蹴られる徳永直。 [気になるエトセトラ]

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 世の中には自分の意思や考え、感想などをハッキリさせず、モゴモゴとその場かぎりのおざなりで曖昧な言葉を並べているうちに、あれよあれよという間に物事が周囲に決められて迅速にコトが運んでしまい、にっちもさっちもいかなくなって呆然自失の態に陥ってしまう、優柔不断で情けない人物が確かに存在している。長編『太陽のない街』を著した徳永直が、そんな性格をした人物の典型だったようだ。
 徳永直といえば、小林多喜二Click!と並んで上落合460番地にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)Click!の機関誌「戦旗」Click!に掲載された作品群とともに、プロレタリア文学の一方の“雄”だったイメージが強く、『太陽のない街』では小石川にある共同印刷の労働争議をたくましい印刷工たちの活躍を通じて描き、国内のみならず海外でも大きな反響を呼んだ作家だ。ところが、私生活ではまったく「たくましく」はなく、いろいろ問題を引き起こしている。その典型的な例が、彼の再婚をめぐるとある“事件”だった。
 1945年(昭和20)の敗戦が迫る6月、徳永直は長年にわたり連れ添った愛妻のトシヲ夫人を病気で亡くしている。あとには、高等学校(旧制)へ通う息子と、まだ幼い女子たち3人が残された。まだまだ手のかかる子どもたちを抱え、料理や裁縫などの家事をこなさなければならない徳永は、原稿を執筆するまとまった時間がとれずに四苦八苦していた。そんなとき、彼の脳裏に浮かんだのは、いつもニコニコと穏やかな笑顔をたたえている、世話好きの大仏さんのような壺井栄Click!の面影だった。
 徳永直は、日々子どもの世話がたいへんで仕事がまったくできないと、窮状を壺井栄あての手紙で切々と訴え、「文学がわからなくともけっこうです。お針のできるやさしい人なら理想的です」と、再婚の相手探しを依頼した。この手紙を読んだ壺井栄は、すぐにも頭の上にピカッとライトが点灯しただろう。彼女の妹は、郷里近くの女学校で裁縫教師をしており、40歳をすぎていたが独身だった。実妹は丙午(ひのえうま)の年に生まれているので、理不尽な迫害を受け敬遠されて結婚できなかったのだ。
 ここでちょっと余談だけれど、前回の丙午は1966年(昭和41)だったが、同年の出生率は急低下している。翌1967年の出生率は例年を超えて急上昇しているので、20世紀半ばの当時でもいまだに丙午の迷信を信じている人たちがたくさんいたことになる。丙午の年に生れた人物(男女を問わず)は、「気が強く支配欲が強い」という虚妄は、中国の陰陽五行に起源があるといわれ、それに中国や朝鮮の「女子は男子の上に立つべからず」という儒教思想とあいまって日本に“輸入”されたものだ。また、芝居や講談の「八百屋お七」が丙午生まれだったとされ(伝承と芝居とでは年齢が不一致で虚構)、ことさら女子の丙午生まれがタブー視されるようになった。次回の丙午は5年後の2026年だが、いまだに中国や朝鮮の儒教思想と一体化した迷信を信じている人たちがいるのだろうか?
 政府の厚生行政基礎調査(1974年)という、面白い調査報告書がある。1966年(昭和41)の丙午に各都道府県の出生率がどのように影響を受けているのかを調べた統計資料だ。それによれば、「八百屋お七」の地元・東京はあまり影響を受けておらず、東日本全体は例年とあまり変わらないが、近畿地方から西の出生率が著しく低下していることがわかった。おそらく九州がいちばん低いだろうと予想したが、さにあらず、四国がきわめて低い出生率なのが目立つ。特に高知県では、日本の出生率の最低を記録していた。つまり、1960年代まで西日本には中国の陰陽五行や朝鮮の儒教思想がベースの、丙午の迷信を気にする人々がたくさんいたことになる。そういえば、壺井栄(岩井栄)の故郷も四国だ。また、関東地方では唯一、群馬県の出生率低下が相対的に目立つ。これは、「いま以上に女子(かかあ)天下が激しくなっては困る」という、ワラにでもすがりたい切実な思いだろう。w
 徳永直からの手紙を受けとった数日後、壺井栄Click!は夫の壺井繁治Click!を連れて、いそいそと経堂の徳永邸へやってきた。そこで、壺井栄はふたりの女性を結婚相手に紹介している。ひとりは、もちろん「お針」が得意な女学校で裁縫教師をしている彼女の実妹、もうひとりが女子大出身で雑誌の編集を仕事にしている女性だった。そして、壺井栄は「ぶきりょうだし、年齢も四十を過ぎてゐるんですよ」と実妹を紹介している。このとき、徳永直は両者のどちらにするかハッキリした返事をしていない。むしろ、器量よしだという女子大出身の女性が、自分のような家庭にきてくれるだろうかと心配し、彼女の妹よりもむしろそちらに惹かれているようなニュアンスさえ感じる。徳永は、「いやもう、来てくださるということだけでありがたいことです」などと答えるだけだった。
 壺井栄はふたりの女性を紹介し、どちらかを選択できるようにしているようだが、実情はひとりの女性しか紹介していないことになる。共同印刷の植字工だった徳永直が、女子大出身で絵画が趣味の女性を選ぶことはまずありえないのを、徳永のやや卑屈気味な性格を知っている壺井栄にはわかっていた。しばらくすると、壺井栄の妹の写真が、佐多稲子Click!を通じて送られてきた。縁談を断るにしても、気の弱い徳永直のことだから、親しい佐多稲子を介してのほうが断りやすいだろうという壺井栄の配慮だった。
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 しばらくして、徳永直は写真を返しに佐多稲子のもとを訪れている。「どうもぼくの好きなタイプじゃない」と断りをいうと、佐多稲子は「やはり、徳永さんに好きな人ができるのが一番いいんだがなア」と正論で答えている。だが、徳永直はもうひとり女子大を卒業した器量よしで編集者の女性に大きな望みをつないでいた。縁談の候補のひとりを断ったのだから、もうひとりの候補を紹介してくれるだろうと、徳永直は1ヶ月も待ってみた。しかし、壺井栄からの連絡はこなかった。
 待ちきれなくなった徳永は、いそいそと上落合から鷺宮へ転居した壺井邸へと出かけていった。まず、写真の返却を詫びて、女子大卒の候補のことを切りだそうとした矢先、壺井栄が「妹は近く上京します」といった。妹の上京は、縁談の有無に関係なく以前からの予定で、遠縁の戦災孤児を引きとり育てなければならなくなったため、壺井家では人手が必要だった。妹の話を聞くうちに、徳永直は性格がよさそうなので会うだけ会ってみるかという気分になってきた。一度断りを入れているのだから、ハッキリとした態度をとりつづければ問題ないのだが、こういうところが周囲から「優柔不断」だといわれるゆえんなのだろう。気がつくと、「一度、妹さんに会わせてくれませんか」などと口走っていた。
 見合いの日は、とてもひとりでは会えないので、徳永直は佐多稲子に付き添いを頼んでいる。彼は壺井栄の妹の真向かいに座ったが、よく容姿を確認せず、ろくに話もしないうちにすっかり酔っぱらってしまった。帰りぎわ、壺井栄が彼の耳もとで、「あとで手紙を下さいね」と囁いたのは憶えている。翌日、妹さんの田舎の人らしい素朴なところがよかった……などと、お世辞を並べた感想の手紙を壺井栄あてに書いてしまった。ここから、徳永直のハチャメチャな言動がスタートする。
 なんとなく、壺井栄が縁談を進めそうな気配を感じた徳永直は、急いで仲立ちになっている佐多稲子に「この縁談はしばらく中止したい」と縁談解消を伝えている。ところが、早まったのではないかとすぐに後悔し、どうしたらいいのかわからなくなって中野重治Click!に助けを求めている。中野重治には、壺井栄の妹が「わたしの妹にたいへんケチンボなのがいまして」(徳永の虚言)その妹と横顔がよく似ていると話し、どうしたらいいでしょうと相談しているが、「そんなこと知らん、自分で決めろ!」とはいわず、やさしい中野重治は「ふん、ふん」といちいち聞いてあげている。
 すると、壺井栄の妹が「ケチンボ」な性格なのかどうかを徳永直が気にしているようだ……というのが、中野重治から佐多稲子の耳に伝わり、壺井栄からさっそく否定の返事がきて、佐多は「そんなとこ、ない人なんですって」とサバサバした表情で徳永に伝えてきた。自分のついたウソがきっかけで、どんどん土壺にはまって身動きがとれなくなり、徳永直はついにエポケー(判断停止)状態に陥ってしまった。そして、「清水の舞台から飛び降りる」思いで、つい佐多稲子には縁談を進めてくれなどと答えてしまった。
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 1946年(昭和21)8月、「ケチンボぎらいな徳永直」のために、壺井夫妻は新橋の高級中華料理店で結婚の披露宴を開くことにした。徳永にしてみれば、なぜ敗戦直後で食糧難にもかかわらず、このようにぜいたくな料理屋が選ばれたのか不可解に感じただろう。事実、彼の高校生になる長男は、「餓死者がどんどん出ているというのに、ブルジョア相手のヤミ料理でやるなんて、何がプロレタリア作家だい」と、しごくまっとうなことをいって出席を拒否している。徳永直の狼狽ぶりが目に浮かぶようだが、高級料理屋が「ケチンボ嫌いな」自分のために決められたことさえ気づかなかった。
 結婚までの経緯は、壺井栄『妻の座』『岸うつ波』と、徳永直『草いきれ』など双方の著作を突き合わせると、ほぼ以上のとおりだったのだろう。結婚披露宴には、壺井夫妻や佐多稲子、中野重治、宮本百合子Click!、村雲毅一(日本画家)、渡辺順三Click!(歌人)、立野信之Click!など十数人が出席している。ところが、やはり壺井栄の妹がどうしても気に入らず、好きになれなかった徳永直は2ヶ月後、「やっぱり、ダメだ」と新妻の手さえ握ることなく、離婚の意思表示を壺井栄に伝えている。
 そのあとの修羅場は、立野信之『青春物語』(河出書房新社/1962年)から引用しよう。
  
 壺井夫妻は最後の談判に徳永を訪れたが、話がけっきょく不調に終ると、栄は憤激をおさえることが出来なくて、手をついて詫びている徳永を蹴ったり、殴ったりした。/それでも足りなくて、栄は夫の繁治の手をつかんで振り上げさせ、/「ぶちなさい、こいつを……ぶちなさいったら……人間一匹をダメにしやがったこいつを、ぶちなさいったら……!」/その絶叫にそそのかされて、繁治の拳がいくつか徳永の頭に打ちおろされた。
  
 ポカポカ打(ぶ)たれる徳永直はまさに自業自得だが、壺井栄の「人間一匹ダメにしやがった」は、要するに初婚の妹を精神的にも肉体的にも「キズモノ」にされたという、古い概念から出た言葉なのだろう。いまや女性の自立が進み離婚の急増とともに、「キズモノ」になったなどというような感覚は消滅し、男女ともに「相性がよくなかった」「性格や反りが合わなかった」で語られる時代だ。
 ここで再びちょっと横道にそれるけれど、ドラマで再婚の見合い相手に「キズモノ同士だから気楽」だといわれて、「あたし、キズモノじゃありません! 身体のどこにもキズなんてないわよ! なんなら、ここで調べてごらんになる!?」と洋服を脱ぎかける森山良子と、その前でオドオドして汗をぬぐっている泉谷しげるのワンシーンを思い出してしまった。1980年代末のドラマだが、当時でさえそのような感覚がまだ残っていたのだろう。
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 いつもニコニコやさしく、まるで穏和な大仏さんのように見える壺井栄Click!だが、ほんとに怒らせると鬼のように怖い。いつか、中野鈴子Click!と壺井繁治のエピソードClick!もご紹介しているが、非のある相手には「教育的措置」として自ら暴力で身体に教えこむようだ。それにしても、あの身体でおもいっきりポカポカ打(ぶ)たれたら、けっこう痛いだろうに。

◆写真上:「太陽のない街」を流れる、旧・千川上水Click!に架かっていた猫股橋の橋脚石。
◆写真中上上左は、1929年(昭和4)出版の徳永直『太陽のない街』(戦旗社/装丁・柳瀬正夢Click!)。上右は、著者の徳永直(奥)と大宅壮一(手前)。は、舞台となった旧・千川上水の暗渠道路と住宅街。共同印刷は現存するが、住宅街に当時の面影はない。
◆写真中下は、1954年(昭和29)制作の『太陽のない街』(新星映画/監督・山本薩夫)。は、川沿いの簸川社(氷川社)。は、石橋だった猫股橋の橋脚。
◆写真下は、1935年(昭和10)の「文学案内」10月号座談会の記念写真。は、いつもニコニコ大仏さんのように温和な壺井栄だが、激怒するとガブClick!のように豹変して……。は、1931年(昭和6)に上演された東京左翼劇場『太陽のない街』の舞台記念写真。

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江戸東京地方を色濃く体現していた親世代。 [気になるエトセトラ]

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 東京の(城)下町Click!について、吉村昭の書いたエッセイ類が面白い……というか、とても懐かしい。うちの親父とはほぼ同世代であり、親父がわたしに話してくれた(城)下町の風情やエピソードと、多くの点でピタリと一致するからだ。
 親父がもの心つく子ども時代から学生時代まで、およそ1932年(昭和7)から1949年(昭和24)ぐらいまでの17年間だが、吉村昭Click!もほぼ同じ時代を故郷の日暮里(新堀)Click!ですごしている。昭和初期の東京の街は、現代とは比べものにならないほど不衛生で、ちまたでは赤痢や疫痢(赤痢の一種)、腸チフス、パラチフスなどが発生し、あちこちで大勢の子どもたちが罹患して死んでいた。
 わたしが子どものころでも、まだ赤痢や腸チフスはたまにどこかで発生していたけれど、それで命を落とすようなことはめったになくなっていた。親は駄菓子屋での買い食いを禁止したが、親の世代よりは禁止の度合いがかなりゆるくなっていただろう。わたしは、親には黙って駄菓子屋に通っていたが、それがバレても「ダメでしょ、しょうがないな」で済んでいた。だが、わたしの親の世代ではそうはいかなかっただろう。
 1985年(昭和60)出版の、吉村昭『東京の下町』(文藝春秋)から引用してみよう。
  
 ことに子供は疫痢にかかって死ぬことが多く、親は戦々兢々であった。/私の母親もその例にもれず、私と弟の食物を極度に制限した。果物を例にとると西瓜、バナナ、梨、桃、柿などすべてだめで、食べるのを許してくれたのは林檎、蜜柑程度で、しかも林檎はおろしガネですって、ふきんでしぼった汁である。アイスクリームは百貨店か著名な菓子店で買ってきたものしかあたえられず、駄菓子屋で売っているものは煎餅、飴類だけを買うことが許された。飲料では三ツ矢サイダー、カルピス、ドリコノ(講談社が販売していた滋養強壮の清涼飲料)ぐらいで、他のものは飲ましてくれない。(カッコ内引用者註)
  
 わたしの子ども時代と、たいして変わりがない制限だが、スイカやカキが禁止されたのは、疫痢などを心配するよりも身体を急激に冷やすためで、わたしの場合バナナはコレラ騒ぎがあったからだと記憶している。リンゴをおろし金でするのは、さすがに小学生になってからはなくなったけれど、パフェやアイスクリーム類は有名デパートやパーラーへ出かけなければ、なかなか食べさせてはもらえなかった。(もちろん、近所の菓子屋で棒アイスやカップアイスは、隠れて好き放題に食べていたけれど)
 駄菓子屋は全面禁止されていたが、親には内緒で平然と出入りしていた。駄菓子屋の煎餅と飴類が禁止されていなかった吉村家に比べれば、うちの親は全面禁止だったのでかなり厳しかったことになる。駄菓子屋の煎餅や飴類は、ガラスの容器からトングではなく手でつまんでわたしてくれるので、親にはかなり不衛生に見えたのだろう。
 清涼飲料はサイダーやカルピスに加え、コーラやファンタないしはチェリオ(湘南の海岸べりではファンタよりもメジャーな飲み物だった)は許されていたが、駄菓子屋で売っていた色のついた「砂糖水」の類は厳禁だった。不衛生というよりも、身体に有害な毒々しい合成着色料や合成甘味料を危惧したのだろう。粉のジュースやシトロンもやはり禁止されていて、これらも駄菓子屋で平然と買ってはなめていたのだが、帰宅すると舌が緑色や赤色に染まっていたのですぐにバレて叱られた。
 いまでも、雑司ヶ谷鬼子母神Click!や新井薬師で駄菓子屋を見かけると、つい立ち寄ってはたくさん買いこんでしまうのは、子どものころに禁止されていた抑圧体験がどこかシコリのように残っていて、親の目をまったく気にしなくてよくなった現在、その欲求をいまさらながら満たしているのかもしれない。
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 親父と、2歳年下の吉村昭で感覚がよく似ているのは、麺類に対するとらえ方だ。これは日暮里(新堀)も日本橋も関係なく、東京の(城)下町とその周辺域ならではの食文化であり食習慣だろう。『東京の下町』より、再び引用してみよう。
  
 そば屋ではうどんも出していたが、それは女性か子供の食べるのが常で、大人はもっぱら、そばであった。消化不良をおこすと、母が味のよいことで定評のあった「千長」という、今でもある町のそば屋から素うどんを二つとり、それをお粥をつくる土鍋で煮てくれた。病人食でもあった。/関西以西や四国の人が、東京のうどんは醤油の汁にひたしてあるような代物で、と悪評するのをしばしば耳にしたが、うどんなど大の男が食べるものではなく、そんなに目くじら立てなくてもよいのに、と不審に思っていた。
  
 吉村昭の書くとおりで、東京地方の人間が讃岐地方に出かけて「なんだい、うまい蕎麦屋がねえじゃないか」というに等しく、そもそも食文化も食習慣も、地域性も伝統もまったく考慮・尊重しない、場ちがい筋ちがいの失礼な「うどん」クレームだろう。「地域の伝統を守ろう」とか、「地方色を大切に」とかさんざんいわれているけれど、江戸東京地方とて事情はまったく同じなのだ。ただ、「女性か子供の食べるもの」と書いているが、吉村昭の母親がそうしてくれたように、江戸東京の地付き女性だってうどんは病人食、あるいは不調のときに食べるものと思われている方は、いまでも大勢いるだろう。そういううちの連れ合いも、わたしが風邪をひき熱が出て伏せっているとき、「おうどんかおじや(雑炊)食べる? 作ってあげようか?」と訊いてくる。
 以前、「目白の師匠」Click!こと5代目・柳家小さんの江戸噺「うどん屋」Click!をご紹介しているけれど、わたしの子ども時代でさえ“うどん”は、五体健康な人間なら口にしない病人食だった。わが家では、わたしが病気をすると“うどん”が出てくることはほとんどなく(親父が「そんなもん、食わせるなよ」といったのかもしれない)、卵のおじや(雑炊)Click!がメインで出てきた。もちろん、病人が気落ちする粥(かゆ)など論外で(重病であることを本人に悟らせ気を滅入らせてしまうので)、熱が40度ほどに上がった“はしか”のとき以来(わたしも大キライのせいか)、今日まで粥は口にしていない。
 こういうことを書くと、なぜかときどき東京在住なのに憤慨する人物が現れるのだが、憤慨するのは食文化をけなされ貶められるこっち側だ。これは江戸東京地方、特に(城)下町ならではの食文化であり、何百年にもわたって培われた地域に根ざす伝統・習慣なのだから、わけもわからず「大のオトナ」に腹を立てられても困るのだ。先のたとえでいえば、讃岐地方に出かけて「うまい蕎麦も江戸前の天ぷらもねえじゃないか、どうしてくれる!」と腹を立てたりすれば、地元の人たちにしてみれば心外で「あんた、なにゆうてるんかいの? 故郷に帰ってお食べ」と、ただただ呆れられるばかりだろう。それと同じセリフを、わざわざ東京地方へやってきて吐いているのに気がつかない。その土地の食習慣や食文化、料理が気に入らなければ、あえて食わなけりゃいいだけの話だ。
 それに、わざわざ他所の地方・地域にやってきて、その地域性や伝統・文化をまったく考慮も尊重もせず、その土地ならではの食文化や食習慣にあえてケチをつけ悪しざまにけなす、そんな無礼で無神経な言い草は、大のオトナがすることではないだろう。もっとも、吉村昭はその後、香川県に出かけてうどんを食べ「東京のうどんとは別物だ」と認識しているが、香川で口に合わない食べ物をわざわざ探しだして、けなしたりはしていない。
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 吉村昭は、牛乳と牧場についても興味深い記録を残している。もともとは、渋沢栄一が箱根で起業した耕牧舎についてだ、内藤新宿町2丁目裏(現・新宿2丁目)にあった、芥川龍之介Click!の実父である新原敏三が経営していた耕牧舎Click!だが、大正期には根岸あるいは八王子にも牧場を所有していたようだ。そして、日暮里地域に牛乳を配達していたのが、耕牧舎が展開する牛乳屋のひとつだったらしい。同書から、つづけて引用してみよう。
  
 その箱車は白いペンキでぬられ、青い文字で両側と後部の扉の部分に耕牧舎と書かれていた。日暮里駅前から根岸にむかう道の左手にあった牛乳屋で、裏手に乳牛を飼う柵をめぐらした牧場と牧舎があり、道に面して二階建の洋館が建っていた。その建物の中でしぼった乳を殺菌して瓶づめにし、箱車に入れて町の家々にくばる。牛乳瓶は現在の牛乳瓶より細身で、ふたは針金の止め金のついた陶器製のものであった。/高田卓郎氏という郷土史家の「音無川べりの史蹟」に、耕牧舎は芥川龍之介の生家と関係があると書かれている。龍之介の父新原敏三は、明治十五年に隣町の中根岸以外に新宿、八王子にも牧場をもつ東京の五指の一つに数えられる牛乳屋を経営していたが、大資本の製菓会社の牛乳業界への進出で経営不振におちいり、大正末期に廃業した。
  
 耕牧舎は大正末、すでに廃業しているはずなのに、吉村少年は昭和10年代の日暮里で、いまだに同牧場の牛乳を飲んでいたことになる。新宿に拡がる「牛屋の原」と呼ばれた耕牧舎も、1921年(大正10)には閉業しており、その跡地には同年3月、新宿通りに建ち並んでいた「風紀を乱す」遊女屋がまとめて移転させられている。根岸にあった耕牧舎の牧場と牛乳加工場は、「耕牧舎」のブランド名を受け継いだ根岸・日暮里地域に限定の関連会社ないしは店舗と牧場だったものだろうか。
 耕牧舎の牛乳瓶は、「現在の牛乳瓶より細身」と書いているが、おそらく以前にこちらでご紹介している平塚の守山商会Click!が、駅売りをメインにして販売していた「守山牛乳」Click!と、同じような容器だったのだろう。
 わが家は、落合地域の牛乳屋から瓶牛乳を配達してもらっているが、瓶はわたしが子どものころに比べると少し太くなったが基本的に変わらないものの、フタはビニールと紙ではなくプラスチックの完全密閉式になっている。牛乳の味は、親の世代とたいしてちがわないのだろうが、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳の味は、かなり洗練されて美味しくなっている。
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 吉村昭は、子ども時代に朝早く目ざめると、「牛乳瓶のにぎやかにふれ合う音がして」と牛乳の配達音をなつかしげに書いているが、うちでも7時ごろになると箱に配達する牛乳瓶の音が聞こえてくる。昔は、夏になると牛乳の傷みが早いので、陽が高くならないうちに取りこんで冷蔵庫に入れなければならなかったけれど、現代ではリサイクルできる保冷剤がいっしょに配達されるので、ゆっくり寝すごしても大丈夫だ。目をつぶると、牛乳瓶の音に子ども時代へ回帰したような懐かしさをおぼえるのは、わたしの世代も同様なのだ。

◆写真上:新井薬師前駅の近くにある、駄菓子屋「ぎふ屋」。東側の目白台には、その名に似合わず駄菓子屋がけっこうあるのだが、今度ぜひ回遊してみたい。
◆写真中上は、雑司ヶ谷鬼子母神の境内にある創業240年近い「上川口屋」。は、神奈川県の海辺では清涼飲料の地域標準だった藤沢工場のチェリオ。は、1949年(昭和54)に撮影されたユーホー道路Click!(湘南道路=国道134号線)でコカ・コーラの木製看板が目立っていた。沖に見えるのは江ノ島で、その向こう側が三浦半島の山々。
◆写真中下上左は、1985年(昭和60)に出版された吉村昭『東京の下町』(文藝春秋)。上右は、取材中の吉村昭。は、この地方では病人食のイメージが強いうどん。
◆写真下は、昭和初期に撮影された牛乳屋の箱車。は、現在の牛乳瓶(左)と戦前の牛乳瓶(右)。は、1960年代とみられる明治牛乳のチラシ。

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