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江戸東京地方を色濃く体現していた親世代。 [気になるエトセトラ]

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 東京の(城)下町Click!について、吉村昭の書いたエッセイ類が面白い……というか、とても懐かしい。うちの親父とはほぼ同世代であり、親父がわたしに話してくれた(城)下町の風情やエピソードと、多くの点でピタリと一致するからだ。
 親父がもの心つく子ども時代から学生時代まで、およそ1932年(昭和7)から1949年(昭和24)ぐらいまでの17年間だが、吉村昭Click!もほぼ同じ時代を故郷の日暮里(新堀)Click!ですごしている。昭和初期の東京の街は、現代とは比べものにならないほど不衛生で、ちまたでは赤痢や疫痢(赤痢の一種)、腸チフス、パラチフスなどが発生し、あちこちで大勢の子どもたちが罹患して死んでいた。
 わたしが子どものころでも、まだ赤痢や腸チフスはたまにどこかで発生していたけれど、それで命を落とすようなことはめったになくなっていた。親は駄菓子屋での買い食いを禁止したが、親の世代よりは禁止の度合いがかなりゆるくなっていただろう。わたしは、親には黙って駄菓子屋に通っていたが、それがバレても「ダメでしょ、しょうがないな」で済んでいた。だが、わたしの親の世代ではそうはいかなかっただろう。
 1985年(昭和60)出版の、吉村昭『東京の下町』(文藝春秋)から引用してみよう。
  
 ことに子供は疫痢にかかって死ぬことが多く、親は戦々兢々であった。/私の母親もその例にもれず、私と弟の食物を極度に制限した。果物を例にとると西瓜、バナナ、梨、桃、柿などすべてだめで、食べるのを許してくれたのは林檎、蜜柑程度で、しかも林檎はおろしガネですって、ふきんでしぼった汁である。アイスクリームは百貨店か著名な菓子店で買ってきたものしかあたえられず、駄菓子屋で売っているものは煎餅、飴類だけを買うことが許された。飲料では三ツ矢サイダー、カルピス、ドリコノ(講談社が販売していた滋養強壮の清涼飲料)ぐらいで、他のものは飲ましてくれない。(カッコ内引用者註)
  
 わたしの子ども時代と、たいして変わりがない制限だが、スイカやカキが禁止されたのは、疫痢などを心配するよりも身体を急激に冷やすためで、わたしの場合バナナはコレラ騒ぎがあったからだと記憶している。リンゴをおろし金でするのは、さすがに小学生になってからはなくなったけれど、パフェやアイスクリーム類は有名デパートやパーラーへ出かけなければ、なかなか食べさせてはもらえなかった。(もちろん、近所の菓子屋で棒アイスやカップアイスは、隠れて好き放題に食べていたけれど)
 駄菓子屋は全面禁止されていたが、親には内緒で平然と出入りしていた。駄菓子屋の煎餅と飴類が禁止されていなかった吉村家に比べれば、うちの親は全面禁止だったのでかなり厳しかったことになる。駄菓子屋の煎餅や飴類は、ガラスの容器からトングではなく手でつまんでわたしてくれるので、親にはかなり不衛生に見えたのだろう。
 清涼飲料はサイダーやカルピスに加え、コーラやファンタないしはチェリオ(湘南の海岸べりではファンタよりもメジャーな飲み物だった)は許されていたが、駄菓子屋で売っていた色のついた「砂糖水」の類は厳禁だった。不衛生というよりも、身体に有害な毒々しい合成着色料や合成甘味料を危惧したのだろう。粉のジュースやシトロンもやはり禁止されていて、これらも駄菓子屋で平然と買ってはなめていたのだが、帰宅すると舌が緑色や赤色に染まっていたのですぐにバレて叱られた。
 いまでも、雑司ヶ谷鬼子母神Click!や新井薬師で駄菓子屋を見かけると、つい立ち寄ってはたくさん買いこんでしまうのは、子どものころに禁止されていた抑圧体験がどこかシコリのように残っていて、親の目をまったく気にしなくてよくなった現在、その欲求をいまさらながら満たしているのかもしれない。
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 親父と、2歳年下の吉村昭で感覚がよく似ているのは、麺類に対するとらえ方だ。これは日暮里(新堀)も日本橋も関係なく、東京の(城)下町とその周辺域ならではの食文化であり食習慣だろう。『東京の下町』より、再び引用してみよう。
  
 そば屋ではうどんも出していたが、それは女性か子供の食べるのが常で、大人はもっぱら、そばであった。消化不良をおこすと、母が味のよいことで定評のあった「千長」という、今でもある町のそば屋から素うどんを二つとり、それをお粥をつくる土鍋で煮てくれた。病人食でもあった。/関西以西や四国の人が、東京のうどんは醤油の汁にひたしてあるような代物で、と悪評するのをしばしば耳にしたが、うどんなど大の男が食べるものではなく、そんなに目くじら立てなくてもよいのに、と不審に思っていた。
  
 吉村昭の書くとおりで、東京地方の人間が讃岐地方に出かけて「なんだい、うまい蕎麦屋がねえじゃないか」というに等しく、そもそも食文化も食習慣も、地域性も伝統もまったく考慮・尊重しない、場ちがい筋ちがいの失礼な「うどん」クレームだろう。「地域の伝統を守ろう」とか、「地方色を大切に」とかさんざんいわれているけれど、江戸東京地方とて事情はまったく同じなのだ。ただ、「女性か子供の食べるもの」と書いているが、吉村昭の母親がそうしてくれたように、江戸東京の地付き女性だってうどんは病人食、あるいは不調のときに食べるものと思われている方は、いまでも大勢いるだろう。そういううちの連れ合いも、わたしが風邪をひき熱が出て伏せっているとき、「おうどんかおじや(雑炊)食べる? 作ってあげようか?」と訊いてくる。
 以前、「目白の師匠」Click!こと5代目・柳家小さんの江戸噺「うどん屋」Click!をご紹介しているけれど、わたしの子ども時代でさえ“うどん”は、五体健康な人間なら口にしない病人食だった。わが家では、わたしが病気をすると“うどん”が出てくることはほとんどなく(親父が「そんなもん、食わせるなよ」といったのかもしれない)、卵のおじや(雑炊)Click!がメインで出てきた。もちろん、病人が気落ちする粥(かゆ)など論外で(重病であることを本人に悟らせ気を滅入らせてしまうので)、熱が40度ほどに上がった“はしか”のとき以来(わたしも大キライのせいか)、今日まで粥は口にしていない。
 こういうことを書くと、なぜかときどき東京在住なのに憤慨する人物が現れるのだが、憤慨するのは食文化をけなされ貶められるこっち側だ。これは江戸東京地方、特に(城)下町ならではの食文化であり、何百年にもわたって培われた地域に根ざす伝統・習慣なのだから、わけもわからず「大のオトナ」に腹を立てられても困るのだ。先のたとえでいえば、讃岐地方に出かけて「うまい蕎麦も江戸前の天ぷらもねえじゃないか、どうしてくれる!」と腹を立てたりすれば、地元の人たちにしてみれば心外で「あんた、なにゆうてるんかいの? 故郷に帰ってお食べ」と、ただただ呆れられるばかりだろう。それと同じセリフを、わざわざ東京地方へやってきて吐いているのに気がつかない。その土地の食習慣や食文化、料理が気に入らなければ、あえて食わなけりゃいいだけの話だ。
 それに、わざわざ他所の地方・地域にやってきて、その地域性や伝統・文化をまったく考慮も尊重もせず、その土地ならではの食文化や食習慣にあえてケチをつけ悪しざまにけなす、そんな無礼で無神経な言い草は、大のオトナがすることではないだろう。もっとも、吉村昭はその後、香川県に出かけてうどんを食べ「東京のうどんとは別物だ」と認識しているが、香川で口に合わない食べ物をわざわざ探しだして、けなしたりはしていない。
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 吉村昭は、牛乳と牧場についても興味深い記録を残している。もともとは、渋沢栄一が箱根で起業した耕牧舎についてだ、内藤新宿町2丁目裏(現・新宿2丁目)にあった、芥川龍之介Click!の実父である新原敏三が経営していた耕牧舎Click!だが、大正期には根岸あるいは八王子にも牧場を所有していたようだ。そして、日暮里地域に牛乳を配達していたのが、耕牧舎が展開する牛乳屋のひとつだったらしい。同書から、つづけて引用してみよう。
  
 その箱車は白いペンキでぬられ、青い文字で両側と後部の扉の部分に耕牧舎と書かれていた。日暮里駅前から根岸にむかう道の左手にあった牛乳屋で、裏手に乳牛を飼う柵をめぐらした牧場と牧舎があり、道に面して二階建の洋館が建っていた。その建物の中でしぼった乳を殺菌して瓶づめにし、箱車に入れて町の家々にくばる。牛乳瓶は現在の牛乳瓶より細身で、ふたは針金の止め金のついた陶器製のものであった。/高田卓郎氏という郷土史家の「音無川べりの史蹟」に、耕牧舎は芥川龍之介の生家と関係があると書かれている。龍之介の父新原敏三は、明治十五年に隣町の中根岸以外に新宿、八王子にも牧場をもつ東京の五指の一つに数えられる牛乳屋を経営していたが、大資本の製菓会社の牛乳業界への進出で経営不振におちいり、大正末期に廃業した。
  
 耕牧舎は大正末、すでに廃業しているはずなのに、吉村少年は昭和10年代の日暮里で、いまだに同牧場の牛乳を飲んでいたことになる。新宿に拡がる「牛屋の原」と呼ばれた耕牧舎も、1921年(大正10)には閉業しており、その跡地には同年3月、新宿通りに建ち並んでいた「風紀を乱す」遊女屋がまとめて移転させられている。根岸にあった耕牧舎の牧場と牛乳加工場は、「耕牧舎」のブランド名を受け継いだ根岸・日暮里地域に限定の関連会社ないしは店舗と牧場だったものだろうか。
 耕牧舎の牛乳瓶は、「現在の牛乳瓶より細身」と書いているが、おそらく以前にこちらでご紹介している平塚の守山商会Click!が、駅売りをメインにして販売していた「守山牛乳」Click!と、同じような容器だったのだろう。
 わが家は、落合地域の牛乳屋から瓶牛乳を配達してもらっているが、瓶はわたしが子どものころに比べると少し太くなったが基本的に変わらないものの、フタはビニールと紙ではなくプラスチックの完全密閉式になっている。牛乳の味は、親の世代とたいしてちがわないのだろうが、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳の味は、かなり洗練されて美味しくなっている。
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 吉村昭は、子ども時代に朝早く目ざめると、「牛乳瓶のにぎやかにふれ合う音がして」と牛乳の配達音をなつかしげに書いているが、うちでも7時ごろになると箱に配達する牛乳瓶の音が聞こえてくる。昔は、夏になると牛乳の傷みが早いので、陽が高くならないうちに取りこんで冷蔵庫に入れなければならなかったけれど、現代ではリサイクルできる保冷剤がいっしょに配達されるので、ゆっくり寝すごしても大丈夫だ。目をつぶると、牛乳瓶の音に子ども時代へ回帰したような懐かしさをおぼえるのは、わたしの世代も同様なのだ。

◆写真上:新井薬師前駅の近くにある、駄菓子屋「ぎふ屋」。東側の目白台には、その名に似合わず駄菓子屋がけっこうあるのだが、今度ぜひ回遊してみたい。
◆写真中上は、雑司ヶ谷鬼子母神の境内にある創業240年近い「上川口屋」。は、神奈川県の海辺では清涼飲料の地域標準だった藤沢工場のチェリオ。は、1949年(昭和54)に撮影されたユーホー道路Click!(湘南道路=国道134号線)でコカ・コーラの木製看板が目立っていた。沖に見えるのは江ノ島で、その向こう側が三浦半島の山々。
◆写真中下上左は、1985年(昭和60)に出版された吉村昭『東京の下町』(文藝春秋)。上右は、取材中の吉村昭。は、この地方では病人食のイメージが強いうどん。
◆写真下は、昭和初期に撮影された牛乳屋の箱車。は、現在の牛乳瓶(左)と戦前の牛乳瓶(右)。は、1960年代とみられる明治牛乳のチラシ。

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