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下落合と椎名町の目白通り商店街1932年。 [気になる下落合]

絵はがき「大東京長崎町本通下」1932.jpg
 1932年(昭和7)に、東京市が従来の(城)下町Click!に準じた15区制から35区制Click!に移行し「大東京」時代を迎えたとき、多種多様な出版物Click!記念パンフレットClick!が制作されたことは、これまでいくつかご紹介してきている。中でも絵はがき類は、新たに編入された区の名所や繁華街を写したものが多い。その中に、同年に撮影されたとみられる「大東京(豊島区)長崎町本通下、巣鴨町本通」という1枚の絵はがきがある。(冒頭写真)
 「長崎町本通下」という名称は、現代ではあまり馴染みのない表現だが、あちこち調べてみると、写真の場所は通称・目白バス通りClick!または長崎バス通り(現・南長崎通り)を出て東を向いたところ、すなわち目白駅方面を向いた拡幅前の目白通りであることが判明した。幅員が狭すぎて、今日の目白通りとはとても思えないが、ヒントは右手の商店街にとらえられた「パン製造」と、少し奥にある「目白タクシー」の看板だった。
 写真の左側に写る商店街は、1932年(昭和7)10月の時点で豊島区椎名町4丁目(現・南長崎2丁目)、右側に写る商店街は淀橋区下落合3丁目(現・中落合3丁目)の店舗並びだ。正確な住所でいえば、左寄りが椎名町4丁目1963~1962番地にかけて、右寄りが下落合3丁目1513~1503番地にかけての商店街ということになる。つまり、右手の商店街の裏は、第二府営住宅Click!の家々が建ち並び、その南側が目白文化村Click!の第一文化村が拡がっているはずだ。そこの住民たちは、この商店街で頻繁に買い物をしたと思われるので、おなじみの光景だったのではないだろうか。
 この絵はがきの写真が、なぜ長崎バス通りの出口にある目白通りだと判明したかといえば、同写真が撮影される3年前、1929年(昭和4)にもほぼ同じ場所が撮影されていたからだ。同年に出版された、『長崎町誌』Click!に掲載された写真だった。同写真は、長崎バス通りに少し入りこみ、左手には椎名町派出所(交番)、右手にこの時期には二又の三角形の敷地に奉られていた子育地蔵Click!前のポリボックスが写っている。(現在は二又の三角敷地が交番) 『長崎町誌』の写真は、白い夏服の巡査が目白警察署からの交代要員、あるいは巡回帰りの同僚を待っているかのような様子をとらえたものだ。
 『長崎町誌』のキャプションには「椎名町通り」とあるが、この名称が長崎バス通りのことか、あるいはそこから出た目白通りのことかは曖昧だ。江戸期から長崎村の椎名町、あるいは下落合村の椎名町と呼称されていたので、おそらく「椎名町」のバス停があった旧・清戸道Click!=目白通りをさしている可能性が高い。その写真に、手前の唐物屋(瀬戸物屋)を含め絵はがきにとらえられた「パン製造」と、「目白タクシー」の大きな看板が写っている。左手には交番の建物があり、その向こう隣りの大きめな建物は1929年(昭和4)現在も、また3年後の絵はがきの時代もダット乗合自動車Click!の発着場だ。
 さて、冒頭の絵はがきの風景(1932年)にもどろう。「巣鴨町本通」の楕円に隠れ、左手にダット乗合自動車が2台停車しているが、その左手にあるレンガ造りで洋風の建物が同乗合自動車の発着所であり、その前にあるバス停留所の名前が「椎名町」Click!だったはずだ。この時代、関東乗合自動車の終点で、ターンテーブルがあった聖母坂上のバス停も「椎名町」であり、いまだ目白通りのこの一帯に「椎名町」という、江戸時代の名称が生きていた時代だった。乗合自動車の発着所の前に、「楽盛会・堀野家」と書かれた幟が立っているが、通常は映画を上映していた洛西館Click!で、寄席のイベントでも開かれていたのだろうか。
絵はがき現状.jpg
長崎バス通り1929.jpg
長崎町誌写真現状.jpg
 その向こう側に見える「目白薬局」は、昔ながらの懐かしい看板建築の店がまえで、店前には「赤まむし」と書かれた栄養剤「養〇〇」の幟が見えている。その隣りが、「水産物と海苔」と書かれた「岡田屋」の看板で、幟には「漬物・佃煮・鰹節・ほしのり/岡田屋」と記載されている。その向こう隣りが、「新作ゆかた」と書かれた幟があるので呉服店、さらにその向こうにみえる大きな樹木の手前、洋風のシャレた看板建築の店は丸印に「本」の目立つ看板があるので書店だろう。以上が目白通りの北側、すなわち椎名町4丁目側(現・南長崎2丁目)で確認できる店舗だ。
 今度は、反対側の下落合3丁目(現・中落合3丁目)側の商店に目を移してみよう。いちばん右手前の、白い割烹着姿の母親と帽子をかぶった幼稚園児ぐらいの親子が出てくる店は、店名は不明だが唐物屋(瀬戸物屋)、ないしは鍋釜やすだれなど日用品も店先に置いてあるので雑貨店だろう。その隣りが「パン製造」と書かれた、めずらしい自家製のパンを焼いて売っていたベーカリーだ。軒下にカタカナが書かれた店名が見えるが、「〇ベルトライン」と読める。その隣りが、「海苔鶏卵/鰹節」の大看板を掲げた乾物屋で、どうやらタバコも扱っていたようだ。その次の小さな間口の店が、「流行/新撰/ゆかた/山形屋支店」とひときわ大きな幟を立てた呉服店だ。
 そして、その向こうには「目白タクシー」の大きな看板と、コンクリート造りらしい3階建てのビルが見えている。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では、この位置に「ツーリング」という自動車やバイクを扱う店が記録されているが、事業転換してタクシー会社になったのかもしれない。
 目白タクシーの隣りには、「文化軒」という中華店があるはずだが、ひょっとするとすでに廃業しているのかもしれない。「きみかけ〇〇」という幟と、「ふとん/仕立一式/〇〇屋」の幟に隠れてよくわからない。このあたり、道路が直線状になっていて店先の幟が重なり、店舗が見えにくくなっている。かろうじて「フタバ足袋店」という幟が確認できるが、「下落合事情明細図」によればこのあたりに「越後屋」や「幸運堂」「小野田石油店」などが軒を連ねているはずだ。
 また、幸運堂と小野田石油店の間には下落合郵便局(落合長崎郵便局)があるはずだが、現代とちがって郵便局は幟など立てないし、郵便ポストらしいかたちも確認できない。かなり向こうに、男性の革靴を描いた看板が見えるが、これが事情明細図にある「平和堂(靴店)」で、その並びに大きく「茶」の垂れ幕の店が「大黒屋」だろうか。また、事情明細図とめずらしく店名が一致する、「長寿庵」の看板か幟が見えているが、おそらく蕎麦屋だろう。
絵はがき地形図1932.jpg
絵はがき撮影ポイント1935.jpg
島倉医院1926.jpg 島倉孝.jpg
雑司ヶ谷医院1926.jpg 雑司ヶ谷医院広告1926.jpg
 「下落合事情明細図」(1926年)や「長崎町事情明細図」(同年)と比較すると、ほとんどの店名が一致せず、わずか7年で商店街が大きく入れ替わっていることがわかる。ちょうど金融恐慌から世界大恐慌Click!をはさんだ時代なので、商店の経営も浮き沈みが激しかったのだろう。また、1925年(大正14)に地元で作成された「出前地図」Click!と翌年の事情明細図×2種を比較しても、多くの店が入れ替わっているので、当時の新興住宅地に拓けた商店街は、店舗がかなり流動的だった様子がわかる。
 電柱に取りつけられた、2種類の医院広告も面白い。ちょうど乗合自動車に乗ると、目の高さでよく見えるような位置に看板が設置されているが、ひとつは近衛町Click!の入口にあった下落合438番地の産婦人科「島倉医院」だ。院長は『落合町誌』によれば島倉孝で、入院設備もあるかなり大きめな医院だったようだ。もうひとつが、山手線の目白駅をすぎた向こう側、雑司ヶ谷823番地にあった外科「雑司ヶ谷医院」だ。長崎バス通りと目白通りが合流するこの地点から、下落合の島倉医院まで直線距離で約1.4km、同位置から雑司ヶ谷医院までが同じく約1.9kmもあるので、当時は椎名町4丁目や下落合3丁目には産婦人科や外科の医院が少なかったのかもしれない。
 さて、絵はがきの中央に写る目白通りを観察してみよう。ダット乗合自動車のほかにクルマの通行はないが、かわりに自転車が目立っており、店舗の前にも多くの自転車が駐輪されている。また、荷物を積んで運搬しているのはリヤカーだ。昭和に入ると、さすがに大八車Click!による運送は減り、リヤカーが主流となっていたのがわかる。『長崎町誌』の写真にとらえられたポリボックスの脇にも、リヤカーが駐輪されているのが見える。
 ちょっと面白いのは、目白通りの真ん中の上部に「窪穴(?)/此処危険」と書かれた大きな横断幕(おそらく黄色の生地だろう)が下がっていることだ。尾根筋を走る目白通りの真ん中に、水が湧いたとも思えないが、なんらかの事情で路面が凹状に陥没していたのだろう。通りの路面は、砂と砂利で固めた簡易舗装をしているようで、石炭殻を撒いて泥濘を防いだ炭糟道(シンダー・レーン)Click!ではない。
 道路を歩く人々は夏季に近い薄着の装いをしており、子どもの中には半袖の子もいるので、1932年(昭和7)の初夏ごろに撮影されたものだろうか。これから夏に向かう時期だから、あちこちに浴衣の幟が立てられているのであって、東京35区制が施行された同年10月の前後ではないだろう。絵はがきを制作したのは神田の松永好文堂(Kanda Matsunaga co.)だが、秋に東京市の新区制が施行されるのを見こして各地の情景を撮影し、「大東京」=35区制記念の絵はがきセットを制作しているとみられる。
 『長崎町誌』(1929年)の写真と記念絵はがきを比べると、ひとつ面白いテーマに気づく。前者の写真には、当時は急速に普及しはじめた電話線をわたした白木の電信柱が目立つが、3年後の絵はがきにはクレオソートを塗布した黒い電燈線と電力線の電柱しか見あたらない。わずか3年後に、通信線を架けた多くの電信柱はどこへいってしまったのだろうか? 地下の共同溝に埋設したなどというような事跡は聞かないので、わずらわしい電話線の電信柱は表通りの商店街を避け、裏側の住宅地へ設置しなおしているのかもしれない。
絵はがき「長崎町事情明細図」1926.jpg
絵はがき「下落合事情明細図」1926.jpg
椎名町側拡大.jpg
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 当時の地図を参照すると、同業種の店舗が近接して開店・営業しているのが目立つ。この絵はがきにも、呉服店とみられる店舗が3店も確認できる。それでも営業をつづけられたのは、商店街を活気づかせる顧客数が、現代とは異なりケタちがい多かったからだろう。

◆写真上:1932年(昭和7)の「大東京(豊島区)長崎町本通下、巣鴨町本通」絵はがき。
◆写真中上は、同絵はがきの現状。は、『長崎町誌』(1929年)に掲載された長崎バス通りに少し入って撮影された同所の写真。は、町誌掲載写真の現状。
◆写真中下は、絵はがきと同年の1932年(昭和7)に作成された1/10,000地形図にみる撮影ポイント。中上は、1935年(昭和10)に作成された「淀橋区詳細図」にみる撮影ポイント。中下は、「下落合事情明細図」(1926年)に収録された下落合438番地の産婦人科「島倉医院」()と、院長で新潟県佐渡出身の島倉孝()。は、「高田町北部住宅明細図」(1926年)に掲載された雑司ヶ谷823番地の外科「雑司ヶ谷医院」()と、所在地が「三二三」と誤記されている同地図の広告欄に掲載された外科「雑司ヶ谷医院」()。
◆写真下は、「長崎町事情明細図」(1926年)にみる絵はがき左側の商店街。は、「下落合事情明細図」(1926年)にみる絵はがき右側の商店街。世界大恐慌をはさみ、店舗がずいぶん入れ替わっているのがわかる。は、4枚とも絵はがきの部分拡大。
おまけ
 これだけ商店が密に軒を連ね目白通りの幅員が狭いと、ダット乗合自動車のドライバーは運転にかなり苦労をしたのだろう。あんのじょう、絵はがきの写真をよく見ると、左端に停車しているダット乗合自動車の屋根が、商店の軒先にでもぶつけたのか凹んでいる。
乗合自動車屋根ヘコミ.jpg

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