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新事業へ次々と投資する郊外地主たち。 [気になる下落合]

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 東京郊外の遊園地Click!として建設された「野方遊楽園」Click!だが、それに参画していた上落合や江古田の地主たちが判明した。同遊園地は、もともと彼ら地主たちが企画・開発したものではなく、最初は遊園地開発の専門業者が計画したようだ。哲学堂を背景に、妙正寺川の水を引いたプールが主体の遊園地計画だった。
 一帯の地主へ話を持ちこんだのは、牛込矢来町で会社を経営していた尾上辰三郎(役者みたい)という人物で、当初は落合村上落合(字)四村の水田約8,000坪、畑地約7,000坪が開発の中心だったようだ。麹町区飯田町で営業していた、藤野小三郎という人物が経営する土建会社が開発工事を担当し、1923年(大正12)6月に最初の開園をしている。当初から、来園者が多く事業も順調だったが、同年9月に起きた関東大震災で施設がダメージを受け、事業の主体だった矢来町の尾上辰三郎が行方不明(おそらく震災で死亡)となったため、事業継続の話し合いが野方村の地主たちを含めて話しあわれた。
 落合村と野方村で事業継続に手を挙げたのは、深野鉄七郎、熊沢勘五郎、荒川角次郎、深野伊太郎、堀野聰次郎、金子日聰、北島初太郎、小島こと、小島銀蔵、そして熊沢宗一Click!の10名だった。この中で、上落合在住の地主は上落合698番地の荒川角次郎が確認できる。ほかにも、落合村側の地主が含まれている可能性があるが、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には掲載されていない。
 『落合町誌』の「人物事業編」より、荒川角次郎について引用してみよう。
  
 自治功労家 荒川角次郎  上落合六九八
 時勢の変遷に処して固く操節を持し、夙(ママ:昼)夜産業の開発に心を砕き、衆与の利益を増進するを以て氏名となし、終始一貫労功して撓まざる、氏は慶応二年三月十五日本町屈指の旧家に生れ、夙に農業に励精して更に家運の充実を図り、方今地主として一頭地を抜く、而も余力を公共の事に割き村会議員たること二期其の他各種委員に推されて画策奔走したる篤行は早くより郷党の賞讃するところである、現に葛ヶ谷耕地整理組合を主宰して、町治の恒久策を樹立して、其の利益の伸張に努力されつゝあり。(カッコ内引用者註)
  
 葛ヶ谷の耕地整理組合Click!の役員に選ばれているのは、四村橋の西側にあった上落合飛び地(のち西落合3丁目)の大地主だったからだろう。
 これら10名の地主たちによって、1924年(大正13)の春から再び開発が行われ、大プールや噴水、料亭、ボート池、釣り堀、大弓場などが設置された。その様子を、地主のひとりだった熊沢宗一の『わがさと/かた山乃栞』(非売品)から引用してみよう。
  
 四十間四方の大プール二ヶ所、其の一方には中央に一大噴水塔を設け、子供の水泳場となし、又一方の大プールには舟を浮べて舟遊び池となし、立教大学水泳部の選手連に其の監督を依頼した、又豊川稲荷を勧請して守護神としたり、私個人の経営として二百余坪の池に鯉を放ちて釣り堀とし、大弓場を設け、水月料亭を開店し、来遊者の便を計り面目を一新して其の年の五月一日野方遊楽園と名付けて、花々しく開園した。
  
フランス式地形図1880.jpg
哲学堂と野方遊楽園.jpg
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 登場している「豊川稲荷」の勧請だが、目白台の大岡屋敷跡にある豊川稲荷か、あるいは赤坂の豊川稲荷かは不明だ。稲荷社は、野方遊楽園の閉園時に遷座したか、あるいは近くの社へ合祀されたものか現存していない。
 さて、野方遊楽園から仰ぎ見た和田山Click!だが、井上円了Click!哲学堂Click!を建設する以前から、所有者がコロコロと変わっている。江戸期には天領だったとみられ、将軍家による中野筋Click!の鷹狩り場、すなわち御留山Click!として存在していたようだ。一説には、榊原家の領地だったとする記述も見えるが、榊原氏は1741年(寛保元)から明治まで越後国の高田へ移封されており、和田山一帯だけポツンと領地があったとは考えにくい。
 明治になると、湯島三組町に住んでいた華族(子爵)の五辻安仲が、和田山を買収して別邸を建設している。また、狭山茶がブームになっていたことから、和田山の斜面には五辻家の使用人によって茶畑がつくられた。1879年(明治12)になると、近くの東福寺に置かれていた小学校が寺の都合で継続できなくなり、五辻家の別邸を借りるかたちで移転している。「和田山の学校」として地元では親しまれたが、1882年(明治15)に遷華小学校(のち江古田小学校)が開設されて再移転している。
 このころ、五辻安仲が別荘を手放したらしく、和田山を購入したのは高田村の面影橋近くにある、芝居や講談の「怪談乳房榎」で有名な南蔵院Click!だった。明治も末期、1903年(明治36)になると哲学館(現・東洋大学)の井上円了Click!が哲学堂の敷地として和田山を買収し、翌年には四聖堂を建設し、つづいて三学亭や六賢台などが竣工(1909年)している。野方遊楽園の閉園後、園内にあった料亭「水月亭」は井上哲学堂の付属となり、妙正寺川の観像梁(富士桟)をわたった旧・遊楽園エリアで休息所として営業をつづけていたようだ。
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蓮華寺本堂.JPG
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 和田山や野方遊楽園の西側、下田橋の少し上流には片山村の鎮守である北野天神社(現・松が丘北野社)が奉られているが、そのあたりの妙正寺川沿いに東京ではめずらしい天然氷の製氷工場が開業していた。片山丘陵地の、ちょうど北側の影になったあたりで、南からの陽射しがあまりとどかず一帯の気温が低かったのだろう。
 拙サイトでは、落合地域に多かった製氷会社(工場)Click!をいくつかご紹介しているが、大正期から昭和期にかけて営業していたそれらの製氷工場は、すべて機械式による製氷事業だった。明治期のエピソードとはいえ、天然氷の工場はこのあたりでもめずらしい。「函館氷」というブランドで売られた天然氷について、1955年(昭和30)に出版された上掲の熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品)から、再び引用してみよう。
  
 明治三十年の頃と思うが、江古田東の深野清三郎氏、深野亀太郎氏等と相謀り、豊多摩製氷会社を起し、片山鎮守北野神社の裏手栢堰より用水をひく揚げ堀と、妙正寺川の中間に、煉瓦にてふちを作り底をコンクリートで固めた、巾二間長さ十五間位の、池二十数ヶ所を造り、其の当時は神田上水であった、妙正寺川の清流を引き入れ、十一月の終り頃より二月のなかばまでの間に、氷を張らせ三四日にして厚さ三寸位になったのを鋸にて一尺五寸に切り、倉に積み込んで貯蔵して置き夏期になって売り出したのである。/其の時代には未だ製氷の技術がなく、東北地方の天然氷を東京に輸送して、飲料又は冷凍用に使用したので、函館氷と書いた旗が、氷屋の店先にひらめいていた。/其後製氷の技術が進み、何時でも氷が出来るようになり且つ衛生上からも、天然氷は余り好ましくないとのことで、私が日露戦役に従軍中に廃業した。
  
 文中に「倉に積み込んで貯蔵」とあるが、この天然氷の貯蔵庫については2種類の証言が残っている。片山北側の崖地にあった横穴を、氷室に活用して夏まで保存していた(中野区江古田地域センター『江古田今昔』1984年)というものと、片山天神(現・松が丘天神)裏に大谷石で20坪ほどの氷室を造り、夏まで保存していた(堀野良之助『江古田のつれづれ』1973年)というふたつの証言だが、おそらくどちらも事実ではないだろうか。
 「函館氷」が世間でブームになると、従来の規模の製氷ではニーズをまかないきれず、当初はバッケ(崖地)Click!に開いた横穴を氷室としていたが、新たに規模の大きめな倉庫を建設しなければ間に合わなくなり、追いかけて片山天神の裏へ増設しているのではないか。
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江古田公園(豊多摩製氷).jpg
 ここで、ちょっと気になるのが片山丘陵の北側バッケ(崖地)に開いていた横穴のことだ。以前にもご紹介Click!したように、片山地域では古墳期の遺構がいくつか発見されており、丘全体が落合地域と同様に埋蔵文化財包蔵地のようなエリアだ。丘陵の西側には、早くから「片山西側横穴墳」が発見されており、丘の北側にも同様の横穴古墳群があったのではないかと想像するのは、あながちピント外れではないだろう。おそらく、丘に穿たれたいくつかの横穴は、片山地域の宅地開発の擁壁づくりで埋められてしまったのではないだろうか。

◆写真上:1927年(昭和2)3月発行の「西武鉄道沿線御案内」に掲載された、和田山の井上哲学堂と手前の崖下にオープンしていた野方遊楽園の大プール。
◆写真中上は、1880年(明治13)に作成されたフランス式地形図にみる和田山界隈。は、「西武鉄道沿線御案内」に描かれた井上哲学堂と野方遊楽園のイラスト。は、熊沢宗一が野方遊楽園へ勧請した豊川稲荷社と四阿のひとつ。
◆写真中下は、1941年(昭和)に撮影された野方配水搭方面。右手が哲学堂のある和田山で、配水搭の下に見えている大屋根は蓮華寺。は、井上円了の墓所でもある蓮華寺本堂。下左は、野方遊楽園の地主のひとりで上落合698番地の荒川角次郎。下右は、豊多摩製氷会社「函館氷」の経営者で江古田村片山2137番地の熊沢米太郎。
◆写真下は、明治期の撮影とみられる片山北野天神社(現・松が丘北野社)。は、片山丘陵の北側バッケ。は、豊多摩製氷社があったあたりの現状。

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