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近隣ではいちばんオシャレな長崎町役場。 [気になるエトセトラ]

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 落合地域の周辺で、いちばんモダンで華麗な町役場といえば、東京が35区制Click!に移行する1932年(昭和7)現在、長崎町2887番地に建っていた長崎町役場庁舎だったにちがいない。戸塚町役場は、ほとんど装飾もなく味気ない箱型状のデザインで、中野町役場や西巣鴨町役場(現・池袋地域)は下見板張りで当時はありがちの小規模な小学校のような建物だったし、落合町役場と高田町役場(1930年現在)にいたっては住宅に毛の生えたような、まるで1930年以前の長崎町役場Click!の仮設庁舎のような風情だった。
 当初の建設計画では、おそらく長崎町役場は多くの部分をRC(鉄筋コンクリート)工法で予定していたと思われるのだが、途中で予算がなぜか縮小されて不足し、やむなく町の有力者たちで「協賛会」(会長・岩崎萬吉)を組織して協賛金を出しあい、「時代の進運に添はざる憾あり」の木造モルタル造り(外壁部の多くの部材は大谷石)に変更しているとみられる。なぜ、一度議会を通過した予算が再審議され削減・縮小されているのかといえば、豪華な町役場建設に対する町民たちからの強いクレームがあちこちから入った可能性の高いことは、すでに『長崎町政概要』Click!の記事で書いたとおりだ。
 長崎町役場は、1930年(昭和5)4月17日に起工し同年10月には竣工しているので、大急ぎで(これ以上のクレームが入る前に?w)建設した感が強い。そして、建物の各種工事をはじめ、調度・備品などにどれだけカネ(税金+不足分の協賛金)がかかったかの工費報告リーフレットを作成し、同年10月に出版された『長崎町政概要』(長崎町役場)に挿みこんで“情報公開”したとみられる。また、世界大恐慌のまっただ中で苦しい町民の暮らしをよそに、華麗な町役場を建設する当局に抗議した町民たちへは、同報告リーフレットを戸別に郵送・配布しているのかもしれない。
 別刷りされた「長崎町役場敷地並庁舎坪数及工費額調」(あらかじめ建設計画や予算が組まれていたであろう建設報告を、「調」と題する感覚も不可解だが)によれば、敷地壺数は343坪(約1,134平方メートル)、建物総延坪数が248.608坪(約822平方メートル)、建設費総額(地代除く)は2万7,533円70銭ということになっている。1930年(昭和5)前後の給与を基準にして、現在の貨幣価値に換算すると1円は5,000円前後になるので、長崎町役場の建設費は約1億3,767万円前後ということになる。ただし、当時の建設工費(おもに人権費=作業要員の手間賃・雇用賃)は現在に比べて驚くほど廉価だったので、当時の人々がこの金額を見たときの印象は、とっても高価に感じたのではないだろうか?
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 以下、当時の役場の構造や構成を知るうえでは貴重な情報なので、「長崎町役場敷地並庁舎坪数及工費額調」に記載された建築内容を、項目別を見てみよう。建物は、「本館二階建瓦葺」と「地下室ノ部/鉄筋コンクリート」その他別館などの建物に分かれて記載されている。以下が、同報告書の「本館二階建瓦葺」の項目や記載を一覧表化したものだ。
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 全室が洋間にもかかわらず、委員室に「押入」とあるのは、今日のクローゼットの意味あいだろう。「公衆溜廊下」は、町役場に用事があってきた町民たちが、たとえば証明書などの発行を待つ待合所のような立ち合いスペースだ。
 今日の価格に直すと、建設工費の坪単価が約40万円なので、いまの視点で見るならそれほど高くなく普通の価格だが、当時の人件費(建設作業員の手間賃)を考えると、相対的に高めといえるだろう。なぜ高いのかは、室内外の意匠に凝っているからだとみられる。たとえば、窓枠をライト風のデザインにしたり、室内の柱を帝国ホテルのようなデザインで上部にアーチをかけたりと、オシャレで見栄えのよさを追求してるからだと思われる。
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 つづいて、地下室から木造スレート葺きの別館、本館玄関の様子を見てみよう。
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 地下室の鉄筋コンクリートによる工費が、坪単価221円(約121万円)は掘削が必要だったせいか、やはりかなり高めとなっている。今日のRC工法による建築工費は坪あたり80万円前後(東京都)なので、当時と現在のセメントや鉄筋の費用誤差を考慮しても割高なように思える。残念ながら、地下室の竣工写真は残っていないので内部は不明だが、やはり凝った意匠の造りをしていたものだろうか。
 その16坪の地下室とあまり変わらない工費で、本館に隣接した別館が建設されている。坪単価87.6円(約44万円)で、こちらも平家1階建てにしてはやや高めだが、どのような造りをしていたのかは写真がないのでわからない。また、なぜ玄関を本館の建設費に含めず、別扱いにしているかは不明だが、ライト風の豪華なファサードやエントランスにしては「思いのほか安いでしょ」といいたかったものだろうか。ただ、この報告書は町役場からの一方的な数値発表であって、業者の請求額や工費明細がそのまま反映されているとは限らない。換言すれば、総経費は変わらないものの、本館や玄関の工費を、いくらか地下室や別館の建設費にふり分けてしまい、できるだけ「高い!」という印象を町民に与えないよう、「調整と工夫」が施されている可能性を否定できない。
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 最後に、インフラ設備やさまざまな備品、装飾費、設計費、監督費(進行管理費)などの項目が計上されているが、四囲雑工事(全建設工費の5.2%を占めている)が目を引くのは、やはりライト風のモダン庁舎にふさわしい外まわりの見栄えにこだわったものだろう。また、電燈設備もやや高めなのは、町会議場などに装飾性の強いシャンデリア風のモダンな照明などを採用しているからだとみられる。
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 さて、以上のような工費報告のリーフレットが挿みこまれた、こちらが質的にも構成的にも実質『長崎町誌』と呼べそうな『長崎町政概要』(長崎町役場/1930年)だが、その「序」で町長が町民へ「愛町奉公の誠」をつくせなどと“上から目線”で説諭・説教をし、協賛会長が「調査の行届かなかつた点もあらうが、庁舎改築に際して、絶好の記念であると信ずる。読者幸に諒せられむことを」と結んでいるのは、「せっかく庁舎も竣工したことだし、もうそろそろこれぐらいで了解してもらって、これ以上問題を大きくしてこじらせないで!」と訴えているように聞こえるのは、おそらくわたしだけではないだろう。

◆写真上:1930年(昭和5)10月に竣工した、華麗でオシャレなライト風の長崎町役場。
◆写真中上は、『長崎町政概要』(長崎町役場/1930年)に挿みこまれた「長崎町役場敷地並庁舎坪数及工費額調」リーフレット。は、同町役場2階に設置された町会議事堂。は、独特な柱とアールのきいたデザインが特徴の1階執務室。
◆写真中下は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる長崎町役場。は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された焼失前の旧・長崎町役場。は、同町役場跡の現状。
◆写真下からへ、東池袋にあった小学校の分校のような西巣鴨町役場(1932年撮影)、機能性を優先したように見える箱型の戸塚町役場(1931年撮影)、このあたり一帯ではいちばんボロい落合町役場(1932年撮影)、やはり小学校の校舎のような意匠の中野町役場(1933年撮影)、鬼子母神の表参道にあった住宅に毛が生えたような高田町役場(1930年まで)。

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自意識がしっかりした子は乗り物酔いをする? [気になるエトセトラ]

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 子どものころ、バスで遠足にいったりすると、必ず乗り物酔い(正式には「動揺病」というのだそうだ)で吐く子が何人かいた。学生時代にも、フェリーなどの船に乗ったりすると青白い顔をして、デッキで潮風に吹かれてやたら寡黙になっていた友人がいたのを憶えている。わたしは、クルマも列車も船も飛行機も、乗り物にはまったく酔わないので、そんな光景を不思議に思って眺めていた。
 うちの母親もバスのジグザグ走行には弱く、子どものころ小田原から急峻な箱根の山道をクネクネ走る登山バスに乗ると、宮ノ下あたりで「気持ちワル」とつぶやいていた。だが、タクシーや乗用車はまったく平気なようで、40代からギアが5段まであるスポーツタイプのセダンを、親父を乗せては平然とぶっ飛ばしていた。なにか、特別な振動や揺れ、車内の臭いなどがあると気持ちが悪くなったのではないだろうか。ユーホー道路Click!(遊歩道路=湘南道路=国道134号線)をほぼまっすぐ走る鎌倉行きClick!のバスでは、一度も酔った姿を見たことがない。母親は、山道をジグザグ走行する登山バスは苦手だったようだが、ほかの乗り物には別に酔うことはなく大丈夫だったようだ。
 隣りの座席(窓側)に座ったバスに酔う子へ、視線を車内や手もとに置かないで、窓の外の景色を見るようにすれば気持ち悪くならないよといったら、外の景色を見たまま吐いた子もいた。こうなると、「自分は乗り物には弱くて、必ず気持ち悪くなる」という自己暗示にかかっているのではないかとも思えるが、道路を走るバスの不規則な揺れや、運転がヘタだとアクセルとブレーキのきかせ方などちょっとした操作のちがいで、急に胸がむかついて気持ちが悪くなってしまうのかもしれない。
 ちなみに、乗り物酔いは病気だとは思えないので、やはり「動揺病」という名称は不可解に感じる。もともと、平衡感覚をつかさどる三半規管が脆弱で、生来揺れに弱く耐えにくい体質や性格をしているだけで、別に病気ではないだろう。ときどき気圧の急激な変化で頭痛がして、わたしは頭痛薬を飲むのだけれど、それを「気圧病」とはいわないのと同様に、乗り物酔いの薬を飲んでバスに乗る子を「動揺病」と、病人扱いするのはおかしいと感じる。なんでも「病気」にすれば、売り上げが伸びて嬉しがる1970年代以来の日本医師会と製薬会社がつるんだ販促用の病名だろうか?
 子どものころから、鉄道の旅はずいぶんしているけれど、電車や列車に長時間乗って気持ちが悪くなった人はあまり見かけない。変則的な動揺ではなく規則的で予測できる揺れだし、頻繁にアクセルとブレーキを使いわけるクルマとは異なり、一度走りだしてしまえばいちおう安定したスピードを維持するので、身体がそれに馴れてしまい気持ちが悪くならないものだろうか。列車や電車では、別に車窓から風景を眺めず手もとのスマホや本を読んでいても、たいがいの人は気持ちが悪くならないだろう。たまに、通勤電車などで具合が悪くなった人を、駅員が介抱している光景を目にするが、満員電車の人いきれや圧迫で気持ちが悪くなったか、もともと調子が悪かったのに無理して出勤し、途中で症状が悪化した人たちで、乗り物酔いではないように思える。
 もうひとつ、これまでの経験からいうと、船に弱いのは女性のほうが多いような気がする。わたしはボートからディンギー、ヨット、屋形船Click!クルーザーClick!、フェリーや客船などの外洋船にいたるまで乗るのが楽しみだが、船がダメという女性はかなりたくさんいる。「揺れるエレベーターに連続して乗ってるような感じがイヤ」というので、おそらく船のローリングやピッチングが苦手なのだと思うのだが、あれが船に乗る面白さであり醍醐味であり、楽しみだといってもまったく聞く耳をもってくれない。
 「揺れない船なら、乗ってみてもいいけど」とかいうので、「タイタニック」(約4万6,000t)レベルだとまだ多少揺れるだろうから、台風に突っこんでもローリングもピッチングもたいして発生せず、艦首に魚雷を食っても艦内にいた乗組員の大半が気づかなかった戦艦「大和」Click!とか同型艦の「武蔵」Click!(約7万2,000t)クラスだと、たぶん酔わないで大丈夫だと思うといったら、「戦艦『武蔵』なら乗ってもいいわ」などという、わけのわからない会話をした憶えがある。80年ほど前に就役していた両艦が、船酔い防止のフネとして語られることになるとは、当時の海軍工廠の設計・造船技師は思ってもみなかっただろう。
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 わたしは、かなり乗り物には強いはずなのだが、一度だけ吐きそうになったことがある。子どものころ、遊園地で乗ったコーヒーカップだ。若い子は知らないと思うので少し解説すると、メリーゴーランドのように回転する大きなソーサーの上に載った、いくつかのコーヒーカップがまわる遊具だが、カップの真ん中にハンドルがついていて、それを回すとカップ自体もグルグル回転する仕組みになっていた。
 わたしはそれが面白く、調子にのってハンドルをグルグル際限なく回していたら、降りるとき目がまわって気持ちが悪く、両親ともども吐きそうになった。そのあと、回復するまで全員が木陰のベンチで休んでいたのを憶えている。そういえば、ジェットコースターに乗っていて吐いた子もいた。うしろの人たちはたまったものではないが、金山平三Click!「車窓からオシッコ」Click!よりはまだマシだったような気もする。
 東京の市街は、バス路線が網の目のように張りめぐらされているので、それを乗り継げば鉄道を使わなくてもたいがいのところへはいける。しかも、鉄道駅とはちがって目的地のすぐそばにバス停がある可能性が高く、かえって便利なケースも多い。ただし、目的地までどれぐらいの時間を要するか交通事情が日々変化するので、確実性からいえばやはり鉄道のほうが有利だろうか……と、いままで思ってきたけれど、このところ電車や地下鉄も事故で遅延することが頻繁に起きるので、どちらが確実ともいえなくなってきた。
 そんな都バスにたびたび乗っていても、気持ちが悪くなる人を見かけたことはない。もともと酔わない人がバスを利用していると考えることもできるし、乗り物に弱い人は気持ちが悪くなったらボタンを押せば、いつでもすぐに最寄りのバス停で下車してしまえばいいと思って乗車している人もいるだろう。そんな情景を想像していると、乗り物酔いでもうひとつ、重要なファクターに気がつく。つまり、強制されて乗車しているとか、どこでもすぐに降りることができないケースで、乗り物酔いが多く発生していることだ。
 遠足のバスで酔ったら「ここで降りて、しばらく休ませいください」とは、その日のスケジュールや他の参加者たちの手前なかなかいえないし、船舶やジェットコースターならなおさら途中でイヤになったから降りることなどできない。箱根のジグザグカーブを走る登山バスも、途中で気持ちが悪くなったからといって山の中で下車しても、再びバスかタクシーに乗ってジグザグの登山道を走らなければ、進むことも帰ることもできない。つまり、一度乗ったら最後、目的地に着くまで絶対に降りられないという緊張感や強制感(脅迫感)が、乗り物酔いの原因に大きく作用しているのではないだろうか。
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 そんなことを考えながら思い返してみると、乗り物酔いをする子はけっこう頭がよくて几帳面で、自意識がしっかりしたタイプが多かったような気がする。換言すれば、想像力が豊かで先読みができる頭のいい子が、「これに乗ると1時間は走りっぱなしなんだから、途中で気持ちが悪くなるかもしれないわ。バス酔いしたらどうしよう、先生やみんなに迷惑はかけられないし。きょうは、そう考えて朝食はほとんど食べてこなかったんだけど、お腹が空いてるとよけいに乗り物酔いするっていうし。いちおう薬は飲んできたけど、この前は薬を飲んでも酔ったことがあったし」と、緊張とともに几帳面な自意識や心配性が頭をもたげ、いろいろ先々のことを考えているうち、ほんとうに気持ちが悪くなってくる……というようなシチュエーションではなかったろうか。
 わたしのように、きょうは遠足でお菓子をいっぱい持ってきたし、バスの中でも誰かとお菓子の交換しながらどんどん食べちゃおうかな~、「待ちに待った遠足だよん、ウヒャヒャヒャヒャヒャ」というような、刹那的で目先の楽しさしか目に入らない脳天気なガキだと、絶対に乗り物酔いなどしないような気もする。自分の内面を見つめていろいろ考えることができる子、そして少し先の自分の状況を想像できる子、やや自意識が過剰気味で心配性な子が、バスに乗ると青い顔をしていたような気がしないでもない。
 そんな女子には、大人になってからもたまに出会うことがあり、エレベーターに乗ったら先客の女性がひとりで乗ってたりする。わたしが奥に入って、彼女の斜めうしろに立ったりすると、ブラウスの背中がみるみる緊張していくのがわかるのだ。無意識にか“話しかけるなオーラ”がすごく、背中全体でバリアを張っているような気配が漂っている。
 「この人、危ない人じゃないかしら。そのうち、髪が艶やかでキレイですねとか、雨の日の女性はしっとりして見えてステキだ……とかなんとか、いい加減で適当な甘いことをいいながら馴れなれしく近づいて、髪の毛に触るんじゃないかしら。いいえ、ひょっとすると耳もとでそんなことを囁きながら、何気なくウェストからお尻に手をまわすんじゃないかしら」……などと饒舌に語っているような背中が、見るからにピリピリと緊張している。そこで、わたしがうかつに身じろぎをしようものなら、いきなり「さっ、触らないでください!」とか叫びかねないような自意識過剰な女子だ。
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 痴漢にまちがえられないうち、距離をとって両手をうしろで組み、早々にエレベーターを降りたほうが安全な状況だが、わたしの中で乗り物酔いと自意識過剰なエレベーターの女子とが、どこでどう結びついてしまったものだろうか。確かに、子どものころの乗り物酔いは女子のほうがかなり多かったし、また小学生ぐらいだと女子のほうが成長も早く圧倒的にオトナで、自我や自意識をしっかりもった子が多かったのは、確かにまちがいないのだが。

◆写真上:1979年(昭和54)に撮影された、高田馬場駅前を出発する都バス。
◆写真中上は、同じく1979年(昭和54)に撮影された高田馬場駅前の様子。は、1970年(昭和45)前後の母親が途中で気持ちが悪くなった箱根登山バス。小田原から元箱根まで一気に運んでくれて、箱根登山鉄道よりもはるかに便利だった。
◆写真中下は、わたしの知らない1937年(昭和12)のユーホー道路(国道134号線)。遠景に見えているのは、高麗山や湘南平(千畳敷山)などの大磯丘陵。は、同じくわたしの知らない1949年(昭和24)撮影の七里ヶ浜から眺めた稲村ヶ崎。は、わたしもよく知っている1960年代後半のユーホー道路(湘南道路)を走るバスと江ノ島。
◆写真下は、わたしが吐きそうになったコーヒーカップ遊具の残骸。は、船に弱い人でも絶対に酔わないと思われる世界最大の客船「シンフォニー・オブ・ザ・シー号」(22万8,000トン)。は、女子とふたりになったりするとたまに要注意なエレベーター。

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「怪談乳房榎」の地元伝承と芝居との相違。 [気になる下落合]

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 三遊亭圓朝の噺をはじめ、ときに芝居や講談、映画、TVの時代劇などに登場した『怪談乳房榎(かいだん・ちぶさえのき)』は、いまの若い子はともかく、中年以上の方はご存じではないだろうか。その舞台となった南蔵院Click!は、下落合の山手線ガードClick!をくぐって目白崖線の麓、神田川(当時は神田上水)沿いを歩いて直線距離約900mほどのところにある。そして、南蔵院の天井画を描いていた絵師の殺害現場は下落合だ。
 圓朝の怪談噺は明治のことで、もちろん実際に聴いたことはないが、『怪談乳房榎』の芝居はときたま上演され、映画やTVの時代劇などでもたびたび取りあげられ制作されているので、子どものころから何度か観た記憶がある。この7年ほど前にも、歌舞伎で中村勘九郎や中村獅童、中村七之助らが演じているが、TVやネットでも夏がくると三大怪談とともに繰り返し放映されている。親の世代だと、2代目・實川延若(えんじゃく)が当たり役の正助を演じた「十二社滝の場」Click!が有名で、「南蔵院」や「落合蛍狩り」の場よりも一幕上演の機会が多かったのではないだろうか。
 『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』の舞台となったお岩さんClick!の家は雑司ヶ谷四谷町(四家町)Click!にあり、『怪談乳房榎』の舞台となった大鏡山南蔵院は高田氷川社の斜向かいの砂利場と、この超有名な怪談資産をふたつも抱える隣りの高田町がうらやましくてしかたがない。ロンドンの怪談ツアーのように、ぜひ豊島区のイベントで「怪談散歩」か「怪談美術展」、「怪談映画祭」でも企画していただきたいものだ。
 『怪談乳房榎』をご存じない方のために概略を記すと、因果はめぐる式のオドロオドロしい物語だ。子ども(真与太郎)が生まれたので、梅若詣でに出かけた人妻のお関(怪談噺では「おきせ」と語られることが多い)に、ひと目惚れした浪人の磯貝浪江はお関に近づくため、その亭主である絵師の菱川重信へ弟子入りする。重信は、南蔵院から天井画を描く注文を受けたため、下高田村まで出張して仕事をはじめる。その留守の間に、浪江は赤子の真与太郎を殺すと脅して、無理やりお関と密通してしまう。
 浪江は、下男・正助(圓朝噺では正介)を馬場下町の飲み屋へと誘い出し、菱川重信を殺そうと持ちかけるが、正助が断ると「殺す」と脅して殺害計画へ無理やり引き入れる。正助は、菱川重信を落合の蛍狩りClick!へと連れだし、「落合土橋」のあたりで待ち伏せた浪江に斬り殺されてしまう。正助は、最初の手はずどおり南蔵院へと駈けもどり、菱川重信の遭難を報告するが、住職は絵師なら先ほどもどり本堂で仕事をしていると答えるのを聞いてゾーッとする。「そんなはずは……」と、正助が本堂をのぞきにいけば、血だらけの物凄い菱川重信の亡霊が、龍の絵に最後の目を入れ消えていくところだった。
 このあと浪江とお関は夫婦になるが、今度は重信の子の真与太郎が邪魔になるので正助に殺してこいと命じる。そして、浪江の悪仲間である“うわばみ三次”(芝居のみに登場)に、裏を知りすぎた正助も殺害するよう依頼する。以下、1953年(昭和28)に白水社から出版された戸板康二『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』から引用してみよう。
  
 重信を殺して、その妻のお関をわが物にした浪江は、邪魔になる子供を滝へ捨てて来いと下男の正助に命じた。十二社の大滝まで来た正助は、赤子の無心な顔を見ると、どうにも殺せない。とつおいつしてゐると、滝壺に重信の霊が現れ、この子を育てて自分の恨みを晴らしてくれれば、一旦悪人に加担した罪は許してやるといつて消える。正助が行きかけようとする所へ、うはばみ三次が匕首をかざして切りつける。この幕は、正助と三次とを、何度も替る、手のこんだ立ち廻りの面白さと、滝に使ふ本水の涼しさとによつて、独特の夏芝居の雰囲気をもつてゐる。
  
 落語では、正助は真与太郎を滝壺へ投げこむが、重信の亡霊が赤子を助けて正助に仇討ちを命じるくだりになっている。さて、このあとまだまだ話はつづき、正助は板橋でひそかに真与太郎を養育して、浪江の妻となったお関は乳に腫れ物ができ、浪江は誤ってお関を殺してしまい、最後には重信が真与太郎に憑依して仇討ちを果たす……といった筋立てだ。
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 『怪談乳房榎』は、三遊亭圓朝がゼロからこしらえた創作怪談ではなく、そのベースとなった怪談が南蔵院に代々伝わっている。圓朝は、この伝承のエピソードを思いっきりふくらませて「実話怪談」に仕立てたのだろう。江戸期の南蔵院が、天井画を絵師に依頼したのは事実で、幽霊が描いたとされる牡竜と牝竜の画が、台風(あるいは火災という説もある)で本堂が消失するまで実際に存在していた。古典落語や芝居では、菱川派の絵師となっているが、南蔵院が依頼した絵師は狩野派と伝えられている。
 1929年(昭和4)4月20日に、南蔵院へ実際に取材した江副廣忠のレポートが残っている。同年に三才社から出版された、『高田の今昔』Click!から引用してみよう。
  
 嘗て狩野朱信(あけのぶ)と云ふ絵師が此の天井へ「雄竜、牝竜」を描きに来て居るうちに、留守の妻が武家出の弟子と密通して、其の発覚を恐れ、或夜夫の朱信に蛍狩を勧め、わざわざ落合村の田島橋へ誘ひ出して姦夫と協力して殺して了つた。其の時絵はまだ牡竜の晴を入れて居なかつたので、朱信の幽魂が来て之を描き入れた。其の為に幽霊の描いた方の眼は、特に凄味があつて色が変つて居たと云ふ事である。しかし其の本堂は今から八十二年程前に頗る古かつたので大風で倒れて了つて、因縁附きの天井絵も跡方(ママ)も亡くなつたのは惜しい事である。(カッコ内引用者註)
  
 地元の伝承では、ねんごろになった武家出の弟子と妻が共謀し、下落合の「落合土橋」ではなく田島橋で絵師を謀殺したという、ありがちな痴情のもつれによる殺人事件ということになっている。この伝承では、絵師の幽霊はむしろ話を盛りあげるための添え物であり、妻と弟子が共謀して師匠を殺したというセンセーショナルな出来事のほうが、人のウワサにのぼりやすい事件として記憶され、今日まで語り継がれてきたように思える。
 また、狩野朱信は天井画のほか4枚の杉戸にも絵を描いており、それらは大風で本堂が倒壊したあとガレ木の整理の際に見つかって、南蔵院でたいせつに保存されていた。同寺で火災があったとすれば杉戸も燃えているはずで、大風でバラバラに倒壊したという伝承のほうにリアリティを感じる。江副廣忠は、実際に4枚の杉戸を拝観しているが、塵埃で薄汚れてはいたものの、枝ぶりのいい松が描かれていたのを確認している。
 寺側の証言がかなり具体的であり、本堂の倒壊が1929年(昭和4)の時点から82年ほど前の大風というと、1847年(弘化4)に江戸を襲った台風とみられる。調べてみると、同年7月に日本列島を縦断したとみられる台風が各地に被害をもたらしており、南蔵院本堂の倒壊はこの台風に起因しているのかもしれない。南蔵院は1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!で全焼しているため、現在では江戸期由来の本堂部材はまったく残っていない。
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 さて、地元の伝承では殺害現場を田島橋Click!としているが、怪談噺や芝居では「落合土橋」としているケースが多い。この落合土橋とは、田島橋より上流の妙正寺川(北川・井草流)Click!の出口に架かる、江戸前期の1690年代に了然尼Click!が普請した比丘尼橋Click!のことと思われ、江戸後期の1788~1791年(天明8~寛政3)にかけて幕府普請奉行所が編纂した『上水記』によれば、まさに比丘尼橋の位置に架かる橋名が落合の「土橋/西橋」と採取されている。1808~1811年(文化5~8)に、幕府が編纂した「御府内場末往還其外沿革図書」には、残念ながら橋名は採取されていないが、幕末に作成された「下落合村絵図」や「上落合村絵図」には、すでに「西橋」(西ノ橋)とのみ記載されている。
 幕末になると、妙正寺川と神田上水が落ち合う湿地帯がホタル狩りの名所となっており、江戸市街から多くの夕涼み客を集めたとみられ、この橋も土橋から欄干のある木橋へ架け替えられていた様子は、三代豊国・二代広重によって描かれた『書画五十三次・江戸自慢三十六興(景)』第30景「落合ほたる」Click!から推定することができる。ただし、江戸市内あるいは明治期の東京市内で発行されていた既存の名所案内では、新しい橋名の西ノ橋ではなく「落合土橋」のまま記載されていた可能性が高い。
 つまり、圓朝の噺や芝居の演目に『怪談乳房榎』が取りあげられたころ、幕末から明治にかけての落合ホタル狩り名所は、すでに神田上水に架かる田島橋周辺ではなく、さらに上流の妙正寺川に架かる西ノ橋(旧・落合土橋/比丘尼橋)周辺へと移動しており、田島橋よりは落合土橋のほうが聴衆や観衆には馴染みがあって響きやすく、またホタルが舞う名所でのリアルな殺人現場として、怪談噺の上でも舞台上でも効果的で格好のロケーションだったのではないだろうか。夏に演じられる怪談噺や芝居を観聴きして、実際に下落合の「殺人現場」へホタル狩り(肝だめし)にやってきた、明治期の人たちも数多くいたにちがいない。
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 南蔵院に伝承された怪談話の田島橋は、現在では目の前にエステー本社や東京富士大学のキャンパスがある一画で、落語や芝居の『怪談乳房榎』に登場する落合土橋(西ノ橋)のほうは、西武新宿線の下落合駅前になっている。両橋とも、1935年(昭和10)前後に行われた神田川や妙正寺川の直線整流化工事で、多少は架設位置を変えているけれど、いずれにしても江戸期の絵師の亡霊がさまようには、あまりにも賑やかすぎる風情となっている。

◆写真上:妻と弟子に謀殺された、狩野派の絵師による天井画があった南蔵院。
◆写真中上は、1857年(安政4)に作成された尾張屋清七版「雑司ヶ谷音羽絵図」の南蔵院界隈。は、幕府普請奉行所が天明から寛政年間にかけて編纂した『上水記』(1788~1791年)より。は、幕末に作成された「下落合村絵図」。
◆写真中下は、戦前から2代目・實川延若の当たり役だった正助の「十二社大滝の場」。は、戦後まで新宿でも有数の花柳界となっていた十二社大池周辺。は、1936年(昭和11)に撮影された高田南町の南蔵院とその周辺。
◆写真下上左は、1958年(昭和33)に上映された『怪談乳房榎』(新東宝)。上右は、怪談噺が特異だった三遊亭圓朝。は、映画『怪談乳房榎』のワンシーン。

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1930年(昭和5)に課せられた税金づくし。 [気になる下落合]

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 1930年(昭和5)に出版された『高田町政概要』Click!(高田町役場)には、巻末に付録として町村レベルの自治体に関係する税金の一覧と、各種申請書や届出書の様式(書類)への詳しい記入例などが掲載されている。これを見ていると、当時の行政側の徴税に関する考え方や、税金を払う当時の住民たちの暮らしなどが透けて見えてくる。
 当時の所得税は、第一種所得税・第二種所得税・第三種所得税の3種類に分けられていて、町村の自治体で扱うのは第三種所得税だった。その税率表によれば、年間に1,200円を超える所得があった住民には、8%の所得税が賦課されている。1935年(昭和5)の給与額から換算した当時の1円は5,000円前後だから、年間600万円ほどの収入があった人は8%、すなわち約48万円を所得税として納付する義務があった。もちろん累進課税なので、所得が増えれば増えるほど税率は高くなっていく。
 年間1万円を稼げば9.5%、5万円だと17%、10万円だと21%、100万円だと27%が所得税として計算された。たとえば100万円は、今日の貨幣価値に換算すると50億円ぐらいだから、よほど裕福な華族かおカネ持ちの企業家でなければ稼げない額だ。50億ほど稼いでも、13億5,000万円が税金としてもっていかれる額だった。所得税の税率一覧では、400万円の36%まで掲載されているが、1930年(昭和5)から数えて10年ほど前までは、第一次世界大戦の成金ブームで年間にそれぐらい稼げる戦争商人がいたかもしれない。
 また、法人や個人への営業収益税は純利益に対して法人の場合3.6%、個人の場合は同じく2.8%を納付しなければならなかった。たとえば、1,000円(約500万円)ほどの純利益が出れば、法人の場合は36円(約18万円)、個人の場合は28円(約14万円)が税金だった。営業収益税のほかにも、営業しているだけで賦課される営業税(現在の事業税)というのがあり、これが業種業態ごとに非常に細かく分類規定されている。
 たとえば、商品の販売店や飲食店、旅館、貸席業、運送業、下宿業などは、売上高の0.5%が営業税として徴収される。商店の場合、年間の売り上げ高が2,000円(約1,000万円)ぐらいだとすると、そのうち10円(約5万円)が営業税ということになる。これが金融業だと売上高の11%、周旋屋(引っ越し屋)や問屋業だと5%、料理屋だと1.6%、製造業や印刷業、出版社、写真館だと0.5%、銭湯は1.1%……などなど、非常に細かく業種業態が規定されている。ただし、床屋の場合は一律1円90銭(約9,500円)だが、従業員がひとり増えるたびに1円ずつ加算されていった。
 同じ一律の営業税で面白いのは、芸者の置屋の場合で、芸者ひとりにつき月額4円80銭(約2万4,000円)、「小芸者」つまり半玉ひとりにつき月額1円90銭(約9,500円)が課せられた。これを年額に換算すると、芸者がひとりいれば57円60銭(約28万8,000円)、半玉でさえ22円80銭(約11万4,000円)もかかったことになる。また、遊技場では1930年(昭和5)ごろ大ブームとなっていた玉突き場(ビリヤード)Click!が高く、玉突き台1台につき年間で45円(約225,000円)も取られている。ブームで流行っている事業から、税金を取れるときにたくさん取っておくというのは、いまも昔も変わらないようだ。雀荘などの場合は、ゲーム台1台につき年間24円(約12万円)が課税されていた。
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 以上の業種業態は、年間または月間で課せられている税金だが、開業するごとに日割計算で課税される業種もあった。たとえば、寄席や映画館は開館するごとに30銭(約1,500円)が徴収される。また、「遊覧所」のような事業、たとえば遊園地やサーカス、見世物小屋などは、やはり開業(開設)した日ごとに1円50銭(約7,500円)が課せられた。一見、安い税額のように見えるけれど、もし年間300日ほど開館した寄席や映画館は90円(約45万円)、「遊覧所」の場合には450円(約225万円)ほどが、お客の入りにかかわらず税金で消えていくので、法人や商店に比べればかなり高額だったのがわかる。
 次に「雑種税」と呼ばれる、人々の暮らしと密接に関連する物品にかけられていた税金を見ていこう。たとえば、自宅に馬車があった場合(そんな家はめったにないが華族屋敷には常備していた)、2頭立て馬車は年間110円(約55万円)、1頭立てだと75円(約37万5,000円)、自家用人力車はふたり乗りが年間15円(約7万5,000円)、ひとり乗りの俥(じんりき)が9円(約4万5,000円)、自家用車(マイカー)が5馬力以下が年間49円(約24万5,000円)、10馬力以下が82円(約41万円)となっている。このあたりの華族邸やおカネ持ちの屋敷では、自家用の馬車や俥(じんりき)、自動車を所有するのがめずらしくなかったので、目白・落合地域の自治体にはいい収入源となっていただろう。
 また、荷運び用の馬車には年間8円50銭(約4万2,500円)、牛車の場合は細かく規定されていて、大型の荷台のものは荷馬車と同額が年間に徴収されている。庶民に手がとどく自転車にも課税されており、年間2円60銭(約1万3,000円)の納税義務が課せられていた。自転車に付属するリアカーを所有していると、年間にプラス1円20銭(約6,000円)も取られた。自動車とともに、大正末ごろからおカネ持ちの間でブームになっていたオートバイは、年間14円(約7万円)の税額だった。
 ただし商売用の自動車、たとえば魚市場や青果市場へ生産物を運んだり、地方から穀物を運んでくる物流トラックなどには一律課税ではなく、年間の取引高に応じた税金が架けられている。「特殊自動車」と名づけられたこれらのクルマは、魚市場と青果市場の場合は取引高の0.0001%、米穀市場の場合は0.00004%、その他の市場の運搬車は0.0002%とかなり優遇税率が設定されていたのがわかる。これは、税金が物流全体の経費に与える影響を考慮し、生活必需品の物価を安定させるための措置なのだろう。
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 昭和初期の郊外では、どこの住宅でもイヌを飼うペットブームにわいていたが、イヌ1頭あたり年間8円(約4万円)の税金が取られている。もちろん、そこらをうろついたり魚屋の前でスキをうかがっているネコは無税だ。一方、家畜は牛が1頭あたり年間80銭(約4,000円)、馬が64銭(約3,200円)、ヤギ・ヒツジ・ブタが16銭(約800円)だった。郊外に多かった「東京牧場」Click!などで、牛を100頭ほど飼育していれば、年間で80円(約40万円)ほどの税金が発生していた。ひょっとすると、落合火葬場Click!の裏手にあたる上高田の裕福な「乞食部落」に隣接して、ヤギ牧場Click!を経営していた秋山清Click!も、納税期には金策に苦労していたかもしれない。
 そのほか、職業に賦課される税金というのもあった。たとえば、「遊芸師匠」と呼ばれる長唄や清元Click!、常磐津、義太夫、小唄、三味Click!謡曲Click!、琵琶、詩吟、日本舞踊などの師匠(おしょさん・おしさん)Click!は、1等から4等までの芸レベルで等級づけされ、1等の場合は年額50円(約25万円)が課税されている。また、「技芸士」と呼ばれる落語家、講談師、奇術師、活動写真弁士などは同様に1等から5等までのレベルが決められ、1等の場合は年間64円(約32万円)も納税しなければならなかった。同様に、太鼓持ち(幇間)も1等と2等があり、1等の場合は月額4円(約2万円)、年額にすると48円(約24万円)なので、遊芸師匠とあまり変わらない税額だった。
 職業の中でも、とび抜けて税金が高額なのは、歌舞伎や新派などの役者や映画俳優たちで、1等から7等まで分類されている。1等は年間400円(約200万円)で、2等が240円(約120万円)、いちばん安い7等でも9円(約4万5,000円)だった。1930年(昭和5)現在、あちこちから引っぱりだこだった高田町雑司ヶ谷旭出43番地(のち目白町4丁目43番地)に住んだ、華族出身の映画スター・入江たか子(東坊城英子)Click!や、人気が高かった新派の水谷八重子Click!などは、おそらく1等~3等あたりの税額規定を受けていたのではないだろうか。
 また、舞台や映画、各種展覧会、相撲などを楽しむのも「観覧料」と呼ばれる課税の対象だった。たとえば、50銭~1円未満の入場料では、1回の税額が2銭(約100円)、歌舞伎の桟敷席や相撲の砂かぶりなど高額な席で、たとえば7円(約3万5,000円)ほど支払うと25銭(約1,250円)の税金が発生した。つまり、なにか楽しいことをしようと行楽に出かけたり、いわゆる遊楽をともなう施設やイベントへ入場したりすると、そこには「よくきたね、いらっしゃい!」と役所の“納税課”が待ちかまえていたわけだ。
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 この遊楽のために、どこかへ入場・入館する際に発生する「入場税」は、ありとあらゆる施設に拡大され、戦時中は中断されたものの、戦後も引きつづき課税されつづけたが、1989年(昭和64)にすべての売買行為に課税する消費税の導入とともに廃止された。ただし、ゴルフ場の利用のみ、現在でも「娯楽施設利用税」と同等のものが課税されている。

◆写真上:西側から見た高田町役場跡の現状で、右手の緑は学習院の森。
◆写真中上は、「雑司ヶ谷の鬼子母神が舞台の、新派の芝居をやってるから観たいわ」などというと、1等席ならふたりで60銭(約3,000円)ほどの税金が発生した。写真は『残菊物語』で、お徳の水谷八重子(右)と菊之助の花柳章太郎(左)。は、ビリヤードの台は1台につき年間45円(約225,000円)も課税された。(小川薫アルバムClick!より)
◆写真中下は、学習院馬場で乗馬をする院生たち。この地域は華族屋敷には馬車が、目白駅の運送店には荷馬車Click!が、さらに乗馬用の馬たちもたくさんいたので動物税は多かっただろう。は、大黒葡萄酒Click!の荷馬車とトラック。ワインは生活必需品ではないので、生鮮食料品用の物流馬車やトラックに比べ税金が高かった。
◆写真下は、小泉清アトリエClick!の表側だった鷺宮の小泉ビリヤード。は、「年間8円(約4万円)払えワン!」のイヌと、「なにしてようが無税で勝手だニャ」のネコ。

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児島善三郎アトリエで稽古の『太陽のない街』。 [気になる下落合]

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 1920年(大正9)ごろ、雑司ヶ谷鬼子母神Click!の門前近くに開店していた駄菓子屋の奥まった部屋に、赤坂の電信局へ勤務する佐々木孝丸Click!が下宿していた。エスペラントを学んでいた彼は、毎日のように隣接する雑司ヶ谷509番地の秋田雨雀邸Click!を訪ねていたが、秋田もまたときどき佐々木を訪ねては誘いだして、雑司ヶ谷や神楽坂あたりをブラブラ散歩している。この散歩には、ときにワシリー・エロシェンコClick!が加わっていた。ほぼ同時期に雑司ヶ谷24番地へ転居し、のちに『高田の今昔』Click!を書くことになる江副廣忠も、秋田邸で佐々木孝丸と顔をあわせているかもしれない。
 それから8年後、1928年(昭和3)9月に上落合502番地へ国際文化研究所Click!を設立する際、佐々木孝丸は所長に秋田雨雀を招聘している。メンバーには、蔵原惟人Click!林房雄Click!、佐々木孝丸、永田一脩、辻恒彦、小川信一(大河内信威)、片岡鉄兵Click!らがいて、機関紙『国際文化』を編集・発行していた。佐々木孝丸は当時、村山知義アトリエClick!から北へわずか100m足らず、月見岡八幡社Click!(現・八幡公園)の北側にあたる上落合215番地(のち村山アトリエの並び上落合189番地へ転居)に住んでいた。
 上落合の家について、1959年(昭和34)に現代社から出版された佐々木孝丸『風雪新劇志―わが半生の記―』から、少しだけ引用してみよう。
  
 今度は上落合の村山知義のマヴォー的な怪奇な様相をした三角形の家のすぐそばに、こじんまりとした二階建ての貸家を見付けてそれへ引き移つたのだ。私の市ヶ谷滞在中に、妻が、山田清三郎夫妻と相談して、そこにきめたのであつた。一年半ぶりで、自分たち家族だけの住居をもつことになつたわけであつた。
  
 上落合の借家を紹介した山田清三郎Click!だが、このとき自身も上落合791番地へ転居していたころだ。また、1928年(昭和3)現在、村山知義アトリエをはじめ敷地内の借家を含む建物は全面リニューアル中だったと思われ、村山知義・村山籌子Click!のふたりは、いまだ下落合735番地のアトリエClick!に仮住まいをしていたかもしれない。
 「市ヶ谷滞在中」というのは、佐々木孝丸が友人と食堂でランチをしていたら、いきなり特高Click!に逮捕され、「深夜路上で泥酔し婦女に乱暴しようとした現行犯」の罪状で29日間、市ヶ谷刑務所に拘留されていたことをさしている。あからさまな罪状デッチ上げによる、特高の不当逮捕でありイヤガラセだが、国家安全維持法をカサにきた今日の香港公安警察と同様に、治安維持法をカサにきた特高によるこの手のデッチ上げ事件やイヤガラセは、別にめずらしくなくなっていた。
 国際文化研究所の設立から、およそ半年ほどたった1929年(昭和4)4月、ちょうど小山内薫Click!が急死してから1年後に、築地小劇場の劇団が内部対立から、とうとう「新築地劇団」と「劇団築地小劇場」とに分裂した。日本プロレタリア演劇同盟(プロット)に属し、左翼劇場の俳優・劇作家(兼翻訳家)・演出家のかけもちをしていた佐々木孝丸は、小林多喜二Click!の『蟹工船』上演をめぐる新築地劇団とのゴタゴタから、同劇団にも所属することになり、目のまわるような忙しさになった。
 同年11月には、新築地劇団でレマルクの『西部戦線異状なし』(脚色/演出・高田保Click!)を上演することになったが、偶然にも劇団築地小劇場も同作(脚色/演出・村山知義)を上演することになった。新築地劇団は帝劇Click!で、劇団築地小劇場は本郷座で上演したが、両舞台とも近来にない大ヒットとなった。劇場には入りきれない観客が押し寄せたため、新築地劇団は翌月に新橋演舞場で追加公演を行っている。
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 もちろん、脚本は特高の検閲Click!でズタズタに削除されていたが、消された重要なセリフの場面にくると、そこだけセリフをいわず無言劇で演じるというジェスチャー作戦を行なったため、観客は削除されたセリフをおおよそ想像することができた。ちなみに、俳優として出演するときは佐々木孝丸のままで、劇作家(兼翻訳家)のペンネームは「落合三郎」、演出家は「香川晋」と名のっているが、「香川」は少年時代をすごした馴染みのある第2の故郷であり、「落合」は自宅のある地元の上落合からとったものだろうか。
 1930年(昭和5)2月、左翼劇場は徳永直Click!原作の『太陽のない街』を上演することになった。脚色は小野宮吉と藤田満雄で、演出を村山知義が担当し、舞台装置は金須孝だった。左翼劇場の俳優だけでは出演者が足りず、新築地劇団から応援の俳優として山本安英や細川ちか子、高橋豊子、山川好子、沢村貞子(沢村さだ)Click!三島雅夫Click!、笈川武夫、小沢栄太郎らが参加している。
 舞台『太陽のない街』は、左翼劇場はじまって以来の空前のヒットとなり、同年2月3日から11日までの9日間にわたり築地小劇場で上演されたが、500人が定員の同劇場に入り切れない、それ以上の観客たちが劇場の周囲を取り巻いた。そのときの様子を、1936年(昭和11)に沙羅書店から出版された、山本安英『素顔』から引用してみよう。
  
 稽古場が狭いというので、代々木の児島善三郎氏のアトリエを借りて稽古をし出したのが、初日の約十日前、旧評議会の人達で、実際に共印争議を指導した人達が、毎日稽古場へ詰めかけては、あの人は少し笑いすぎる、実際はあんなに笑う男ではない――宮地は、今少し大柄だつた。(読点ママ)とか、芝居と現実とをごつたにした、少し困る意見も飛び出しては来ましたが、それもみんな、過去の自分達の舞台にかける喜びの為であつたのでしよう。「太陽のない街」程の大入りは先ずなかつたと言つて差支えないでしよう。/プロレタリア劇団の本城である、左翼劇場の久し振りの公演である事や、芝居も今までの争議物のような固苦しい物でなく、大衆に親しみ易く盛り込んである事や、五百人定員の築地小劇場から毎日五百人乃至それ以上の客を満員の為に帰してしまいました。
  
 書かれている児島善三郎Click!のアトリエとは、代々木初台572番地(現・初台2丁目)に建っており、ちょうど明治神宮や代々木練兵場Click!(現・代々木公園)の西側一帯に拡がる丘陵地の、丘上にあたる眺めのいい一画だった。佐々木孝丸は、代々木に住んでいたことがあるので、そのあたりには土地勘があったのだろう。このころの児島善三郎は、1928年(昭和3)にパリから帰国したあと、1930年協会Click!に参加して間もないころだった。写生旅行など、なんらかの都合でアトリエをしばらく空けることがあったのだろうか。
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 わずか10日間しか稽古をしなかった『太陽のない街』だが、幕を開けてみれば連日満員の大ヒットとなった。入場できず、築地小劇場を取り囲む群集は、少しでも舞台の様子をうかがおうと聞き耳を立てたりしていた。「いっそのこと、劇場の中ではなく外で芝居をやったら」などという冗談まで出たほどで、定員の500人よりもはるかに多い人々が、入場できずに劇場の周囲を取り巻いていた。
 国際文化研究所の所長だった秋田雨雀は、雑司ヶ谷の自宅からステッキをついてわざわざ築地まで歩いてきたが、3日間とも断られて観劇できずに諦めて帰っていった。また、原作者の徳永直でさえ満員で入場できず、2日連続で断られている。なお、小沢栄太郎は築地小劇場での『太陽のない街』が、初舞台でデビュー作となった。
 さて、上落合に住んだ佐々木孝丸も、村山知義Click!立野信之Click!宇野千代Click!が編集する雑誌「スタイル」のAD(アートディレクター)をしていた下落合の松井直樹Click!に劣らず、東中野駅前にあった酒場の「ユーカリ」のことを印象深く記憶している。佐々木孝丸『風雪新劇志-わが半生の記-』から、その想い出を引用してみよう。
  
 連れ立つて、よく新宿辺を飲み歩いたりしたが、ことに、東中野の駅の近くにあつた「ユーカリ」という酒場では、そこの娘のよつちやんという、表面如何にも無邪気そうで、その実、したたかにヴァンプ性を内包した少女をめぐつて、四角、五角の「さやあて」が演じられたりもした。/林、村山、杉本たちのドン・ファンぶりも仲々見事なもので、凡人の追随を許さぬものがあつたが、中でも杉本の迅速果敢なことは一頭地を抜いており、そのため、いつの間にか「良吉」が「エロ吉」と呼ばれるようになつたほどである。
  
 「林」は林房雄、「村山」はもちろん村山知義のことだが、この“よっちゃん”について記録に残す落合住民が多いところをみると、佐々木が観察しているように無邪気さを装いながら、どこか小悪魔的な雰囲気を漂わせた妖婦のような女の子だったのだろう。きっと、ヲジサンたちは各自「よっちゃんは、自分だけに心を許してるにちがいない」などと思いこまされてしまい、毎晩せっせと「ユーカリ」に通っては店の売り上げに貢献していたようだ。たぶん、“よっちゃん”のほうが1枚も2枚も上手だったような気がする。
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 佐々木孝丸は、その容貌から「善玉」よりも「悪玉」の配役のほうが多く、あこぎな資本家や右翼、官憲、ヤクザの親分、暴力団、性悪な地主などを演じることが多く、地方公演などへ出かけると芝居と現実の区別がつかなくなり激高した観客から、舞台上で殴られるという事件がしばしば起きた。だが、それほど役が板についていた、つまりリアルに演じられたからこそ観客は夢中で興奮したのであり、「役者冥利」につきると自ら慰めている。

◆写真上:佐々木孝丸が最初に住んだ、上落合215番地あたりの現状。
◆写真中上は、1959年(昭和34)に出版された佐々木孝丸『風雪新劇志』(現代社)の表紙カバー()と内扉()で装丁は洋画家の芥川沙織。は、1950年代末に滝沢修が撮影した佐々木孝丸。は、上落合215番地界隈の現状。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる代々木初台572番地界隈。は、1934年(昭和9)制作の代々木練兵場の写生とみられる児島善三郎『代々木の原』。は、1936年(昭和11)に沙羅書店から出版された山本安英『素顔』()と著者()。
◆写真下は、戦後に撮影された娘婿の千秋実(左)と佐々木孝丸。は、上落合215番地の次に転居した上落合189番地あたりの現状。この上落合189番地の家は村山アトリエに近接した東側にあたり、旧家・宇田川家Click!が建てた貸家の1軒だったと思われる。

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『高田村誌』と『高田町政概要』の間に。 [気になるエトセトラ]

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 1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)と、先ごろご紹介した1930年(昭和5)出版の『高田町政概要』Click!(高田町役場)、あるいは1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)との間に、1929年(昭和4)に三才社から出版された江副廣忠『高田の今昔』がある。
 当時はめずらしい和綴じ本の仕様で、全ページが和紙へのガリ版(謄写版)刷りだ。町政にはじまり、史蹟や伝承など歴史や文化の記述で終わる構成は『高田町史』とほぼ同じだが、『高田の今昔』のほうが部分的にはるかに詳細で、微に入り細に入り具体的だ。しかも、4年後に出版される『高田町史』の記述とほぼ同じ文章の項目も数多く、同町史の高田町教育会には江副廣忠も参画していたのではないだろうか。『高田町史』が250ページほどのボリュームなのに対し『高田の今昔』は300ページを超えており、しかも1ページの文字量も多くガリ版刷りにもかかわらず名所旧跡がイラストなどで挿入されている。
 当時、少部数の本をつくる場合に、ガリ版(謄写版)印刷を選択するのは、別にめずらしいことではなかっただろう。学生街だった神田や早稲田には、謄写版専門の印刷所が軒を連ねていた時代だ。ただし、ガリ版で印刷された本は、ほとんどがインクの沁みこみやすい「わら半紙」と呼ばれる、安価で黄ばんだ質の悪い紙を用いたため、長い時間が経過するとボロボロになり、現在まで伝えられているものはあまりない。
 だが、『高田の今昔』は手ざわりのいい高級和紙に刷られているため、今日でもまったく腐食していない。それどころか、刷られてからそれほど時間がたっていないような、謄写版インクの匂いが漂いそうなほど真新しく感じる品質を保っている。著者の江副廣忠は、北豊島郡高田町雑司ヶ谷24番地に住んでいるが、この住所は秋田雨雀邸Click!の数軒隣りの敷地であり、雑司ヶ谷鬼子母神Click!の門前にあたる位置(威光山法明寺Click!の広い境内のうち)だ。同書の巻頭にも、秋田雨雀が序文を寄せているので、両者は親しく交流していたのだろう。1926年(大正15)に作成された「高田町住宅明細図」には、残念ながら三才社も江副廣忠のネームも採取されていない。
 印刷所は、同じ所在地の三才社印刷部となっており、発行所は著者の住所と同じ三才社なので、江副廣忠は鬼子母神の門前で、なんらかの会社か店舗を経営していたのだろうか。また、印刷者は長崎町3732番地の大橋一邦と記されており、著者が書いた原稿を見ながら実際にガリ切りして印刷したのは彼なのだろう。この住所は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の東長崎駅の北側で、以前ご紹介した片多徳郎Click!描く『郊外の春』Click!(1934年)の旧家・田島邸がある南西側、やはりいくつか田島家が並ぶ駅寄りの一画だ。
 わたしの手もとにある『高田の今昔』は、表紙裏に「拙著壱部/八雲文庫ニ献呈ス/昭和四年九月十六日著者」と献呈書きがあるが、この「八雲文庫」とはどこの施設だろうか。西大久保の旧・小泉八雲邸Click!に、そのような蔵書を公開する施設が当時オープンしてたものか、あるいは晩年に講師をしていた早稲田大学の図書館に、彼の特設コーナーでも設けられていたのだろうか。献呈書きの対向ページが同書の中扉であり、その次には折りたたまれた高田・雑司ヶ谷・落合・長崎地域の絵図、すなわち金子直德Click!が書いた『和佳場の小図絵(若葉の梢)』Click!をもとにした、1798年(寛政10)現在と同一の「曹司谷 白眼 高田 落合 鼠山全図」が付属している。
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高田の今昔奥付.jpg 高田の今昔広告.jpg
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 おそらく、江副廣忠は秋田雨雀Click!よりも年長で、著作に『大日本帝国御皇統大系図』などもあることから、社会主義者の秋田とは思想的に対極だったが、学者同士として積極的に交流していたようだ。同書の巻頭に掲載された、秋田雨雀の序文を少し引用してみよう。
  
 私達の住つてゐる雑司谷の土地は千年以来歴史的に著名な土地であり、七百年来仏教文化の発祥地であり、宗論の伝説を持つてゐる大威光山を有し、また徳川末期に於ては大名、武士、町人三階級の信仰と享楽の土地であつたと言ふ点からも文化史的に重大な位置を占めてゐるものといはなければなりません。然るに私達はその歴史の真相についてはほんの少ししか知つてゐません。或は全く知つてゐないといつていゝ位です。江副さんのこの著述は歴史、伝説、口伝を一々調査して、それに整理を与へてゐます。就中感服に堪へないことは威光寺伝説を研究して、史実により大胆にそれを修正しやうとしてゐることです。著者は威光山の寺内に住居してゐながら、少しも妥協しやうとされなかつたことは学者の態度として尊敬の念を禁じ得ません。
  
 雑司ヶ谷は「千年以来」の歴史どころか、落合地域と同様に旧石器時代から現代まで、間断なく人が住みつづけてきた数万年の重層遺跡が眠る地域となっている。
 秋田雨雀は、威光山法明寺の「寺内」と書いているが、雑司ヶ谷鬼子母神の門前は往年の法明寺境内の一部であり、その借地の上に建てられた江副邸であり三才社だったのだろう。江副廣忠が雑司ヶ谷24番地に住みはじめたのは、1929年(昭和4)の時点で丸9年=1920年(大正9)に転居というから、同町ではかなり新参の住民だった。それが、なにをきっかけに雑司ヶ谷の歴史や風情、文化に惹かれたのかは著者の序文にも書かれていないが、自宅周辺の環境や人情が気に入って調べてみる気になったのだろうか。
 同書より、かなり謙遜がすぎる江副廣忠の「自序」を少し引用してみよう。
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 九年も住んで居ればその土地の名蹟、伝説等にも通暁して居らねばならぬ筈でせうが、鈍感の私には其の知識は欠乏して居ります。誠にお愧かしい次第です。/私へ此の土地の事を少しでも教へて呉れたのは、黴の生えさうな昔の文献(それも少数)で、官公衛の統計等を頂いた外、土地の古老より一言の教へを受けた事もなく、又篤家とかに蔵せらるゝ(若しありとするも)一枚の文書でも借覧致した事がありませぬ。浅学粗笨の頭脳と、史料は貧弱至つて貧弱の書架と、ノートより引出して組立てました此の拙著、先輩各位の御一顧の価のない事は、私自身で百も承知二百も合点いたして居ります。
  
 それにしては、わずかな時間でよくこれだけのコンテンツを取材・編集・執筆できたものだ。威光山法明寺もそうだが、幕末に破却された鼠山Click!感応寺Click!の項目にいたっては、現存する文献のほとんどを網羅しているのではないだろうか。伝説や口伝も、往古の昔から現代に近いウワサ話まで収録してあり、名所旧跡の解説は高田町史よりもよほどボリュームがあって詳細だ。むしろ、『高田の今昔』を要約したり転載したのが、『高田町史』の記述のようにも思えてくる。
 また、現代の高田町については、位置や面積、地勢、沿革などの総説にはじまり、財政や教育、衛生、寺社宗教、商工業、警察、道路などほとんど『高田町史』と変わらない。もっとも、『高田町史』は1933年(昭和8)の出版なので、その4年前の町内データということになる。また、『高田町政概要』(1930年)からみれば前年のデータが網羅されており、『高田村誌』(1919年)からは10年後の高田町の姿をとらえていることになる。
 中には、『高田町史』よりもはるかに詳細な記述が見られ、たとえば高田警察署に関しては、江戸期の警察制度(町奉行所)からの歴史が解説されており、地元の警察署が板橋警察署管下から出発して、1918年(大正7)には板橋警察署巣鴨分署管下となり、1919年(大正8)に高田警察署としで独立。1929年(昭和4)の時点では、警部(署長)×1名、警部補×8名、巡査部長×10名、巡査×132名、書記×3名の計154名で構成されており、高田町と長崎町を管轄として派出所12ヶ所+駐在所5ヶ所で構成されていた……というように、各派出所や駐在所名までこと細かく収録されている。
 また、ところどころに挿入されたガリ切りのイラストも秀逸で、たとえば雑司ヶ谷鬼子母神の境内は、1929年(昭和4)現在ではどのような風情をしており、どのような人物たちが往来していたのかが細かく描きとめられている。イラストの左手には、江戸期創業の上川口屋Click!が見えているが、右手には枝折戸を開けている江戸期からの庭園付き料理屋とみられる店が残っている。また、参道手前の右下には鬼子母神名物の「すすきみみずく」を売る露店や、参道の左手には骨董品のようなものを並べて売る露天商の姿も見えている。当時の記念写真や絵はがきのたぐいは、人物をすべて省いた情景を撮影するのが通例であり、このような境内の日常を活写したイラストはとても貴重だ。
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 挿画の中に、地元の工芸品「すすきみみずく」を何種か描いたイラストがあるが、そのひとつがいわゆる“オーパーツ”のようだ。どう見ても、1988年の「となりのトトロ」(スタジオジブリ)が横を向いた姿そのものだ。ミミズクのほかに、ひょっとすると当時はタヌキやキツネを形象化したものも売っていたのかもしれないが(鬼子母神にかかわる狐狸伝説Click!は周辺地域に多い)、いまでは「すすきみみずく」のみになっている。「すすきみみずく」ではなく、「すすきトトロ」についてなにか判明したら、またこちらでご紹介したい。

◆写真上:鬼子母神の仁王阿形像で、江副廣忠の三才社は画面右手あたりにあった。
◆写真中上は、1929年(昭和4)出版の江副廣忠『高田の今昔』(三才社/)と献呈書き()。は、同書の奥付()と三才社の『大日本帝国御皇統大系図』広告()。は、1926年(大正15)作成の「高田町住宅明細図」にみる雑司ヶ谷24番地界隈。
◆写真中下は、三才社(江副邸)があったあたりの現状。は、高田警察署の沿革について詳述したページ。は、当時の新聞記事まで収録したページ。
◆写真下は、同書の挿画で1929年(昭和4)の鬼子母神境内の様子。は、「すすきみみずく」のイラストだが中にはミミズクに見えない作品がある。は、現在の雑司ヶ谷鬼子母神と境内の茶屋で売っている「おせん団子」。笠森お仙Click!に関連する団子かと思って訊いたら、鬼子母神の子ども千人にちなんだ安産祈願の「お千団子」だそうだ。

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隣り村同士でまったく異なる「おびしゃ」祭り。 [気になる下落合]

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 落合地域にお住まいの方なら、「おびしゃ(お歩射)祭り」をご存知の方は多いだろう。下落合村の御霊社Click!あるいは葛ヶ谷村(→落合村葛ヶ谷→西落合)の御霊社Click!で、毎年正月の1月13日に行われる祭礼のことだ。
 金子直德が寛政年間に書いた『和佳葉の小図絵(若葉の梢)』には、下落合(中井)御霊社と葛ヶ谷御霊社は「上下の御霊の宮」と書かれており、祭神は「諾再二柱」すなわち国産みの神であるイザナギおよびイザナミの2柱だったことが記録されている。現在、中井御霊社の祭神は「仲哀天皇・応仁天皇・仁徳天皇・鹿島大明神」であり、葛ヶ谷御霊社は「仲哀天皇・神功皇后・応仁天皇・武内宿禰」とされ、本来の日本の神々とはまったく関係のない「神」が祀られている。おそらく、薩長政府が1870年(明治3)に発布した大宣教令Click!により、廃社の脅しをかけられた社側が政府の宗教政策におもねるために、祭神の“全とっかえ”をしているケースだと思われる。
 同時期に、神田明神Click!の主柱から平将門Click!が外され(1984年に復活)、下落合の神田明神分社が廃社となり、ついでに下落合の大(第)六天Click!2社から女神のカシコネを外しているのだろう。江戸東京地方に限らず、日本じゅうの社に奉られていた神々を勝手に交換したり、いうことをきかない社は廃社にしたりと、バチ当たりなこと(「日本の神殺し」政策Click!と呼ばれる)を繰り返した薩長政府が造った国家は、わずか70年ほどで破産・滅亡するのだが、1945年(昭和20)以降も祭神を本来のものにもどさない社は少なくない。これにより、わずか70年余で消されてしまった日本の神々(特に地方地域に根づく独自の地主神々や地霊)は、膨大な数にのぼるとみられる。
 下落合と葛ヶ谷の御霊社について、金子直德『和佳葉の小図絵』(『江戸西北郷土誌資料』より)の原文と、1958年(昭和33)に現代語訳で出版された海老澤了之介『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)の双方から引用してみよう。
  
 (原文)堀の内は此橋(落合土橋)をわたり行。橋手前より西に行ばしいな町へ出、根岸通を行ば田中辺に行。此村に御霊の社あり、上下の御霊の宮あり、諾再二柱の神と云。 (現代語訳)この橋を渡って行く、橋の手前から西に行けば椎名町へ出、根岸通りを行けば田中辺に出られる。この村に御霊の社があって、上下の御霊の宮には、伊邪那岐・伊邪那美の二神が祀られている。(カッコ内引用者註)
  
 「上下の御霊の宮」は中井御霊社と葛ヶ谷御霊社で、どちらが上宮でどちらが下宮か規定されていないが、素直に考えれば旧・神田上水の上流にある村が上落合村、下流にあるのが下落合村という呼称と同じように、妙正寺川(北川Click!=井草流)の上流にある葛ヶ谷御霊社が上宮、下流にある中井御霊社が下宮になるだろうか。ただし、江戸期は南東の方角にある千代田城Click!に近いほうを「上」、遠いほうを「下」とした事例もかなりあるので、その場合は上下が逆転することになる。いずれにしても、この2社は創建年が不明なほど、古えの昔から落合地域で奉られている。
 これら御霊社には、正月の祭りである「おびしゃ(お歩射)」が古くから伝わっている。祭りの趣旨は、農村地帯らしく五穀豊穣と子孫繁栄だが、まるで武家の祭礼のように弓矢を用いる点が非常にめずらしく、同様の「おびしゃ」祭りは東京23区内では落合地域にある2社と、大田区の多摩川べりにある六郷社のわずか3社にすぎない。
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 祭りの様子を、1982年(昭和57)に発行された『ガイドブック/新宿区の文化財(4)-史跡(西部篇)』(新宿区教育委員会社会教育課)から引用してみよう。
  
 現在のびしゃ祭りは午前中に行われる。直径約一メートルの的が鳥居に吊るされる。三重の黒円の的の中央には烏二羽(雄と雌。烏の夫婦だという)と鰯を描いた半紙が貼付してある。烏を描いた的は全国的にも珍らしい。午前十時頃になると、氏子地区の役員が神社に集まり、祭典を行う。びしゃ祭りは(一)文木の授受、(二)ご神酒の儀、(三)引弓の儀の三部からなる。(一)は前年の当番から今年の当番に的を作る時に使用される文木(分木)を渡す式。(二)は勧盃祝言の式で、神酒をいただき、高砂や四海波などの「野謡」が歌われる。(三)は鳥居の的を射る式で、弓を御神酒で清めてから拝殿の入口に立ち、最初の矢を空に向けて射、次に二本を的に向けて射る。矢が的中することはないが、矢を拾うと家が繁盛するといわれている。昔は矢に殺到して怪我人がでるほどであった。
  
 引用の「おびしゃ」は葛ヶ谷御霊社の様子を記したものだが、文木(分木)とは正円を描く的(まと)を作るのに欠かせない木製のコンパスのことだ。毎年1月13日に行われる現代の「おびしゃ」祭りだが、以前は前年の暮れから祭りに用いる“どぶろく”を仕込むところからはじまるので、祭礼の期間はのべ44日間もあったという。明治期の祭りでは前年に結婚した新婚夫婦が紹介されるなど、村内のコミュニティ形成+コミュニケーションの場としての意味合いが強かったようだ。
 中井御霊社の「おびしゃ」祭りも、上記の行事とほとんど変わらないが、同じ正月の1月13日でも午前ではなく午後に行われている。また、的は鳥居ではなく拝殿から20mほどのところに吊るされ、年男が空ではなく鬼門の方角に向かって最初の矢を射る。次に、的に向かって射るがそれで終わりではなく、次々と氏子の代表たちが矢を射って、最後に神主が射的して終わる。中井御霊社は、五穀豊穣とともに安産を祈願する祭りとなっていて、出産が近い妊婦の参詣者が多いようだ。
 中井御霊社には、「永禄癸亥」年の銘が入った分木(文木)が保存されており、1563年(永禄6)すなわち少なくとも室町期から、「おびしゃ」祭りが行われていたことが判明している。祭礼で弓矢を用いることといい、葛ヶ谷御霊社にみられるように、まるで野外で行われる薪能を想起させる「野謡」が謡われることといい、この2社の祭りには純粋な農村の祭礼・神事というよりも武門の匂いがしている。
 これはわたしの想像だが、周辺の鎌倉期の事蹟Click!などを踏まえると、起源は鎌倉期ないしは平安期にまでさかのぼるのではないだろうか。射的による社への奉納行事は、鎌倉では平安期からの鶴岡八幡宮をはじめ、あちこちの社で行われている神事だ。このあたり、古くから関東に平安期から伝わる「五郎(ごろう)」の鉄人武将伝説Click!の社と、「御霊(ごりょう)」の社との中世における習合が、大きなテーマとして基層に横たわっていそうだ。
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 葛ヶ谷村の西隣り、葛ヶ谷御霊社から西北西へわずか1,000mのところに江古田(えごた)村の氷川明神社(スサノオ=牛頭天王)があり、ここでも大正期まで「おびしゃ(お備社)」祭りが行われていた。ところが、落合地域にある2社の「おびしゃ」とはまったく異なり、開催時期も異なれば弓矢もまったく使わない祭礼だった。
 江古田地域に伝わった「おびしゃ」祭りの概要を、1973年(昭和48)に出版された堀野良之助『江古田のつれづれ』(非売品)から引用してみよう。
  
 江古田村には、大正の末頃まで「お備社(おびしゃ)」という行事があった。この行事は、毎年十月二十九日の氷川神社例祭の前夜に行われた前夜祭であって、当日は、組仲間の者が定められた宿に集って「お備社行事」をしたのである。村中三十余軒が二軒づつ一組となり、順番に各家々より白米五合と銭三十銭か五十銭づつ集めて、行事の費用に当て、それで、酒肴などを適当に支度して二十八日の夜、お備社の宿で床の間に掛けた「氷川神社の御神号」の掛物に神酒と供物を上げ、その前で、皆が祝い酒を飲み、そして、黒塗の椀に白米の飯を高く盛り上げた「お高盛り」と呼ぶ御飯を一粒残さず食べた。その頃は大食の者が多かったから、たいていの人は残さず食べてしまった。この儀式が終るのは、夜の十時か十一時頃であった。
  
 ちなみに、江古田の「おびしゃ」については同書よりも、1955年(昭和30)に出版された熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品)のほうが、ここで引用できないほどの詳細な記録を残しているので、興味のある方はそちらを参照してほしい。
 このように、江古田地域の「おびしゃ」は農村の純粋な祭りの匂いが濃く、「武」の匂いはまったく感じられない。江戸期には、白米がことのほか貴重だったと思われるので、それを「組仲間」のメンバーたちが腹いっぱい食べられるところに、「おびしゃ」の醍醐味があったのだろうし、また江古田氷川社本祭の「前夜祭」として「おびしゃ」自体が独立した祭礼でないところも、隣りの落合地域とでは決定的な相違点だ。
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 鎌倉期を起源とするにしても、江古田地域側の「おびしゃ」は弓矢による射的の神事がいつの間にか廃れてしまい、時代経過とともに純粋な農村の祭礼・神事へと変貌してしまったのに対し、落合地域側の「おびしゃ」は昔日の祭礼・神事の姿をそのままとどめていた……そんな気が強くしている。落合側は「お歩射」と表記するが、江古田側は氷川明神社の本祭礼に備える「お備社」(前夜祭)に変化してしまったのではないだろうか。ちなみに落合地域の東側、雑司ヶ谷村の鬼子母神や高田村の氷川社でもお奉射(びしゃ)祭りが行われていたが、前者は江戸期までに絶え、後者は成人式の儀式の行事へと変化してしまったようだ。

◆写真上:1980年代まで茅葺きだった、下落合(現・中井2丁目)の中井御霊社。
◆写真中上は、中井御霊社へ通う急坂の「御霊(ごりょう)坂」。「御霊坂」を「おんりょう(怨霊)坂」と読む情けない人がいるので平仮名に改められたと聞く。は、中井御霊社の現状。は、同社で正月に行われている「おびしゃ(お歩射)」祭り。
◆写真中下は、中井御霊社に掲げられた江戸期の「おびしゃ」絵馬。は、西落合の葛ヶ谷御霊社。は、同社の「おびしゃ(お歩射)」祭り。
◆写真下は、江古田(えごた)にある江古田氷川明神社。は、夕暮れ間近な鎌倉の鶴岡八幡宮。拝殿への階段(きざはし)左側にある大イチョウが、暴風で倒れる直前に撮影したもの。は、平安期から行われているといわれる同宮の流鏑馬神事。

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1年で心を入れかえた(?)『長崎町政概要』。 [気になる本]

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 7年ほど前に、「『長崎町誌』に感じてしまう違和感」Click!という記事を書いたことがある。周辺の町々、たとえば、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!をはじめ、1919年(大正8)の『高田村誌』Click!、1930年(昭和5)の『高田町政概要』Click!、1933年(昭和8)の『高田町史』Click!、1931年(昭和6)の『戸塚町誌』Click!、1933年(昭和8)の『中野町誌』Click!などと比べ、あまりに内容がなさすぎて貧弱だった。
 町役場の町長や幹部連をはじめ、長崎町の有力者、各学校の校長、郵便局長、青年団長、在郷軍人会長、椎名町町会長、国粋会などの地域ボス、なぜか他地域のお呼びでない区会議員(日本橋区会議員なのが恥ずかしい)、町誌の執筆者などが巻頭のグラビア全ページを飾り、それぞれ個人的な紹介と顕彰ばかりを本文中でも繰り返し、「町誌」とタイトルしてはいるが、まるで自己顕示欲充足メディアか選挙用の宣伝媒体パンフレットのような内容と化していた。きわめつけは巻末の町役場全職員名簿で、いったい町の様子や町民の暮らしはどこにいったのだ?……というような、非常にお寒いコンテンツだった。
 周辺地域の町誌史に比べ、あまりにもひどい内容なので上記の記事となったわけだが、『長崎町誌』の出版から1年足らずで、長崎町はもう一度『長崎町政概要』という名の書籍を出版している。そして、「町政概要」と名づけてはいるが、『長崎町誌』ではなぜかほとんど無視されていた長崎町の北部(町誌では長崎町の南部が中心)も含め、町の名所旧跡や伝承、行事なども町の地図などを挿入しながら詳しく紹介している。こちらのほうがよほど町誌らしい構成や体裁であり、事実『長崎町誌』とほとんど重複する記述(概要、地理、沿革、人口と戸数、行政財政、教育など)も多々みられるのだ。
 なぜ、2年つづけて「町誌」を出版するような、こんなムダなことをしているのだろうか? 最初は、『長崎町誌』ではいまだ長崎町2887番地に計画中だったとみられる、町政が注力していたライト風デザインClick!の新・長崎町役場が存在せず(『長崎町誌』出版時は、新庁舎予定敷地に隣接する日本家屋が仮庁舎だった)、その竣工を記念して『長崎町政概要』を改めて作成しているのかと思ったが、正式な町役場庁舎の竣工時期はあらかじめ計画当初から判明していたはずだ。そのタイミングで『長崎町誌』を出版すれば、わずか11ヶ月ほどのズレでなんら問題はなかったはずだ。
 おそらく、町民たちから「なんだ、あの町誌は? 面(つら)洗ってつくり直せ!」という、少なからぬ不満の声が上がったのではないだろうか。「世界大恐慌で暮らしが厳しいというのに、あんなものに町民の血税を協賛出費したのか!?」という声が高まり、ついでに「この苦難の時代に、ライトを真似たオシャレな新庁舎を建設するカネがあるなら、町民の暮らしに還元しろ!」、「豪華なモダン新庁舎をつくるために、税金払ってんじゃねえぞ!」とかなんとか、住民たちの不満が爆発したのではなかろうか。事実、『長崎町政概要』は前年の『長崎町誌』とはまったく異なり、人物写真がただの1点もなければ、歯の浮くような美辞麗句を並べて町の有力者やボスたちを顕彰する文章も皆無となっている。
 なぜ、町民たちからの強い不満や抗議を感じるのかというと、『長崎町政概要』に「長崎町役場敷地並庁舎坪数及工費額調」という、別刷りのリーフレットが付録のように挿みこまれているからだ。つまり、今日でいうなら地上2階・地下1階の新庁舎建設に関する、建設総工費の項目別詳細報告書を情報公開したといったところだろう。
 町民から、「贅沢な新庁舎の建設に関して、われわれの税金がどのようにつかわれたのか明細を見せろ!」とか、「戸数も人口も多く、税収が倍近くもある隣りの落合町は、住宅に毛の生えたようなボロい町役場のまんまなのに、なんで長崎町はライトの自由学園Click!みたいな豪華庁舎が必要なんだよ!?」とか、怒りや不満が町役場にドッと寄せられたせいで、急遽、新庁舎建設にかかった経費概要を一般に公開せざるをえなくなり、急いでリーフレットを別刷りして『長崎町政概要』に挿みこんでいる……、そんな気配が濃厚なのだ。
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 これら町民の抗議や不満を意識したのか、『長崎町政概要』にはいわずもがなの「序」が、長崎町長の鴨下六郎によって書かれている。同概要より引用してみよう。
  
 町民相集つて、長崎町といふ一家を形成し、家族である町民が一致協力して、一家である本町は興る。換言すれば、我長崎町が完全に成長して行く為には何と云つても全町民の愛町心に愬へなければならぬ。/自分の住む郷土を尊敬し、愛護し、公共の為めには労苦をも惜まぬ町民の覚悟があつて初めて、大長崎町建設の目的は達しられる。
  
 要するに「愛だよ愛、それに犠牲精神」と、不満や抗議の声をつまらない感情論でかわそうとしているようだが、前年の『長崎町誌』を目にし建設中の豪華なライト風町役場を目の当たりにした町民たちは、こんな子どもだましの文章に納得できはしなかっただろう。町役場がなにをしようが、「ムダづかいを黙って見てるのが郷土愛なのか? おきゃがれてんだ!Click!」……と、かえって町民たちから強い反発を招いたのではないだろうか。
 『長崎町政概要』には、もうひとり協賛会長の岩崎満吉の「序」がつづくが、ライト風の新庁舎建設に関して、いいわけがましい文章がつづく。再び引用してみよう。
  
 昭和五年二月、町会に於て、役場庁舎改築の議を決し、木造二階建本館及付属建物総延坪二百四十八坪七合二勺の設計に基き四月十七日より工事を起し、茲に落成の運びに至つたことは、御同様慶賀に堪えない。殊に此の改築は、町債を起すことなく、全町民の自力を以て、之が実現を見たのであつて、より一層衷心より祝福するところである。只予算の関係上、時代の進運に添はざる憾ありと雖比較的理想に近いものとして諒とすべきである。而も町費を以て及ばざる施設の一部を援助するの目的を以て、茲に協賛会が組織されたのであるが、これ又、町内有志諸賢の熱誠なる御協賛を辱ふし、相当の成果を挙げ得たことは、燃ゆるが如き愛町心の発露を雄弁に物語るものであり、当事者として、感謝に辞なきところである。(赤文字引用者註)
  
 長崎町役場の庁舎は、まったくの新築だったはずなのに、あえて「改築」などと言い換えている点にも留意したい。モダンでオシャレな新庁舎なのに、いくら「改築」だと言葉だけ変えても町民の目はごまかされず、まったく納得も了解も得られなかったのではないか。
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 この一文で、コトのなりゆきがなんとなく透けて見えてくる。町議会で、町債の発行を前提とせず町費のキャパシティを超えるような、新庁舎の予算が計上されることなどありえない。当初に予定されていた膨大な建設予算が、町民たちからの抗議や異議申し立てのせいで、途中から見直さざるをえず減額縮小されたのだ。そのため急遽、町の有力者で構成された「協賛会」を設置せざるをえなくなった。この協賛会自体も、豪華な庁舎建設を推進した町長や、長崎町議会議員たちが重ねて名前を連ねているのだろう。
 「只予算の関係上、時代の進運に添はざる憾あり」とは、その設計や意匠から建物の構造が当初は庁舎全体、あるいはその大部分を鉄筋コンクリート造りにする計画だったと思われる。なぜなら、基礎工事から地下室の建設まで、すべての工程がRC(鉄筋コンクリート)構造で進められていたからだ。ところが、工事がスタートしてしばらくしてから、「なぜ、そんな豪華な町役場が必要なのか?」という声が、町のあちこちから強まりだしたのだろう。そこで、上部の2階建ての庁舎は木造モルタル構造(大谷石外壁)に変更して予算を緊縮し、それでも足りない経費は「協賛会」を組織して募金しているように見える。
 また、新庁舎問題とは別に、前年の『長崎町誌』に対する不平不満も、住民たちから数多く寄せられたにちがいない。「金剛院や長崎神社が載ってるのに、なんで天祖神社や五郎窪稲荷神社を無視しゃがるんだよ!?」と、各社の町内氏子連はこぞって抗議の声を上げただろうし、長崎富士Click!を掲載してるのに「なんで粟島弁天社や千川上水の史跡や、地蔵堂や観音堂を素どおりするんだよ!?」と、長崎町の中北部からは不満の声が頻々と聞こえてきただろう。『長崎町政概要』には、ようやく町内全体をなんとかカバーできる主だった旧跡・史蹟・石碑などが、地図とともに紹介されている。ただし、五郎窪(五郎久保)稲荷社Click!はなぜか今回も取りあげられていない。
 『長崎町政概要』(長崎町役場)のライターは、『長崎町誌』(国民自治会)と同じく長崎町大和田2118番地の塩田忠敬だが、今回は自身のポートレートを巻頭グラビアにちゃっかり1ページ挿入して掲載などしていない。w 町誌が出てから半年もたたないのに、再びオーダーを受け「また書くんですか? ほう、今度は町政と町の歴史や史蹟を中心にですね」と引き受けた彼は、1929年(昭和4)の暮れから1930年(昭和5)の前半期にかけて町内で起きた、さまざまな動向や騒動のたぐいを熟知していただろう。「1年足らずで町誌を二度も書けて、ギャラをもう一度もらえるんだから、ま、いっか」とホクホク顔だったのかもしれない。
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 豪華でオシャレな新・長崎町役場については、竣工直後の鮮明な外観や建物内部の写真が手に入ったので、『長崎町政概要』に挿みこまれた工費報告書と併せ、近いうちにご紹介したい。「おたくは自由学園か!」と周囲から突っこみを入れられそうなほど、ファサードから窓枠のデザインまで、自由学園の付属施設だと思うぐらいソックリなのだ。

◆写真上:こちらのほうが町誌らしい体裁の、1930年(昭和5)出版の『長崎町政概要』。
◆写真中上:『長崎町政概要』の目次で、折りこまれた全町の地図には公共施設や名所旧跡が記載されている。目次の内容は、前年の『長崎町誌』とほとんど変わらないが、町内の歴史や史蹟、伝承・伝説などのページが増加している。
◆写真中下は、実質の町誌らしく長崎町全域にわたって町内の公共施設や名所・旧跡が紹介された折りこみ「長崎町地図」。は、『長崎町政概要』の奥付。は、町誌らしい構成や記述が増えた『長崎町政概要』本文の一部。
◆写真下は、前年の『長崎町誌』ではパスされていた粟島社(粟島弁天社)。は、同じくパスされていた目白天祖社(長崎天祖宮)。は、著者の自宅からそれほど離れていないのに今回もなぜか取りあげられていない五郎窪(五郎久保)稲荷社。

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松山中学出身の安倍能成と『坊っちゃん』。 [気になる下落合]

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 1906年(明治39)に夏目漱石Click!が『坊っちゃん』を発表したとき、「四国辺の中学」を舞台にした同作を読んだ安倍能成Click!は、どのような感想を抱いただろうか。「四国辺の中学」は、明らかに漱石自身が赴任した愛媛県松山市の愛媛県尋常中学校(=旧制松山中学校)がモデルであり、安倍能成Click!は松山が故郷で同中学校の卒業生だった。
 また、漱石の友人だった正岡子規Click!も松山中学の出身であり、『坊っちゃん』が子規の死から4年後に発表されている点にもやや留意したい。漱石はまだ学生だった若いころ、帰省した子規を訪ねて松山を訪れており、松山にはいくらか土地勘があったはずだ。そのころから、漱石は松山の風土・環境や人情にどこか馴染めず、しじゅうイライラして胃を痛めていたのではないだろうか。
 安倍能成の知りあいで、同じ松山出身の同窓生の友人は、『坊っちゃん』について「松山人を侮辱するものだと憤慨」(『朝暮抄』より)し、以降、漱石作品を忌避していた様子が安倍のエッセイに見えている。それとは逆に、安倍能成の友人だった愛媛出身の医学者・真鍋嘉一郎は、「松山の名誉、松山中学校の名誉だ」として、舞台で『坊っちゃん』が演じられるとアドバイザーとして積極的に参画していたりする。
 1937年(昭和12)に書かれた、安倍能成の『坊っちゃん』をめぐる随筆には、作品に対する明確な姿勢や具体的な感慨・感情は書かれていない。『くにことば』と題された随筆は、自身のことを「愛郷の精神は余りない男だ」の書きだしではじまり、松山方言についての「評論」のみに終始し、『坊っちゃん』については「松山の地方語を最もよく活用した小説である」と、できるだけ客観的な姿勢で評価しようとしている。いろいろ文句のひとつも書きたいところだが、師匠の夏目漱石をあからさまに批判するわけにもいかないので、一歩身を引いて第三者的な立場から作品の当たり障りのない評論に徹している……、わたしにはそんな感触がするめずらしいエッセイだ。
 安倍能成が第一高等学校長だった1938年(昭和13)に、岩波書店から出版された『朝暮抄』所収の『くにことば』から、少し長いが引用してみよう。
  
 坊つちやんが宿直の晩にいたづらをされた時の生徒との問答は、坊つちやんの竹を割るやうな、短気な直截な気持、又それを表現する東京語との対照によつて、生徒の方の意地わるい、多数を頼んで先生を呑んでかゝつて居る、冷静な気持を示すといふ文学的効果の為に、松山語がいくらか誇張的に生ぬるく用ひられて居る所もあり、「なもし」が少し濫用され過ぎても居る。それに「な、もし」と「な」の所へ点を打つのは、詞の成立からはそれでよいが、調子の上からはぶちこはしになつて居る。坊つちやんが天麩羅を食つちや可笑しいかといふと、「然し四杯は過ぎるぞな、もし」といふ。君等は卑怯といふ事の意味を知つて居るか、といふと、「自分がした事を笑はれて怒るのが卑怯ぢやらうがな、もし」といふ。或は「バツタた何ぞな」と生徒が聞いて、実物を見せられると、「そりや、イナゴぞな、もし」といつたり、入れないものがどうして床の中に居るんだ、と詰問されて、「イナゴは温い所が好きぢやけれ、大方一人で御這入りたのぢやあろ」などといふのは、一方が愈々ぢりぢりするのを、片方が益々落著(ママ:落着)払つて居る対照的効果を発揮するには十二分であるが、併し少し下宿のおばあさんの詞つきが少年の生徒の詞の中に乗り移つて居るといふ恐れもある。(カッコ内引用者註)
  
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 安倍能成の文章にしては、かなり持ってまわったような表現で、『坊っちゃん』の評価にあちこちで気をつかっている様子がうかがえる。漱石の文章で、「な」と「もし」の間に「、」を付加することは文法上は正しいが、調子が「ぶちこはし(打壊し)」Click!だと江戸東京方言で苦言を呈する。「バツタた何」は「バツタとは何」という意味で、漱石が松山方言を正しく採取しているのは褒めるが、漱石が操る生徒たちの松山方言は若者らしくなく年寄り臭いと批判している。
 このアンビバレントな感覚の文章は、『くにことば』の最後までつづくので、安倍能成が『坊っちゃん』に抱いていた感想もまた、漱石の作品を評価する面と漱石に反発する面とで同様だったのだろう。冒頭に「愛郷の精神は余りない」と書いておきながら、文章のあちこちから安倍能成が感じていた「愛郷の精神」のコンプレックス(感情複合体)を感じるのは、わたしだけではないと思う。
 安倍能成は、「田舎の中学の空気、先生、生徒の類型を確かに把んでこれを描出し得た所に特色がある。この作の意図からいへば、松山の方言は実に巧みに利用されたといつてよい」と、最終的には『坊っちゃん』をおおよそ評価しているが、作品全体の流れや構成、登場人物などにはあまり触れず、松山方言のみの記述で終わっている。タイトルが『くにことば』だから、それでまったく不自然ではないのだけれど、どこか『坊っちゃん』の作品評が手もとから突き放され、宙に浮いた感じを受けるのだ。
 さて、わたしも「坊っちゃん」ほどではないけれど、こらえ性がなく気が短いので、おそらく作品では誇張されているのかもしれないが、描かれた多くの登場人物たちのような応対をされ、「ぞな、もし」の話し言葉で地元の人たちからいい加減な、半分バカにしたような受け答えをされたら、まちがいなくストレスが積み重なり、ほどなく針が危険なレッドゾーンへ振りきれるんじゃないかと思う。
 『坊っちゃん』の随所から、漱石のイライラした感情が伝わってくるが、それは別に「坊っちゃん」ともども漱石が「竹を割るやうな」性格だからではなく、地域性からくる風土や人情のちがいで「水があわない」せいだろう。その逆もしかりで、『坊っちゃん』に登場するようなカリカチュアライズされた松山人でなくとも、ふつうの松山人が四国から東京へやってきたら、たいていは「水があわない」と感じるのではないだろうか。そこでは、ちょっとばかり「東京のうどんは醤油の汁にひたしてあるような代物」と、こちらでは「病人食」扱いの食べ物へ文句のひとつClick!もいいたくなるのかもしれない。w
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 安倍能成は、『くにことば』の中で徳川時代の武家言葉と町人言葉についても触れている。「坊っちゃん」が下宿する家の「お婆」について、再び同書から引用してみよう。
  
 「お婆の言ふことをきいて、赤シヤツさんが月給をあげてやらうと御言ひたら、難有うと受けて御置きなさいや」/「お婆の言ふことをきいて」といふのは、何も松山に限つた表現ではないが、松山生れの私にはそれが実に松山的に感ぜられる。「御置きなさいや」の「や」も松山でよく使ふ詞である。「下さいね」とか「下さいよ」といふ場合に、「つかあさいや」といふ。「や」には、それをつけない場合よりも親愛、親昵の気持がある。序にいふが、このおばあさんの詞は士族の詞である。かういふ城下町では皆さうであるやうに、士族の詞と町家の詞とは大分違ふ。恐らく今は大分混淆して来ただらうとは思ふが。この現象は独り松山だけのことでなく、方言を研究する人の恐らく疾くに注意して居る所であらう。
  
 安倍能成は、「城下町では皆さうである」と書いているが、同じ城下町Click!である江戸東京では必ずしもそうとはいえない。江戸時代も中期をすぎると、武家言葉はどこか無粋で野暮で“カッコ悪い”という感覚が広まり、幕府の旗本や御家人たちは日常の生活言語として町言葉をふつうにしゃべりはじめている。それは、町人たちからの借金がかさみ、首がまわらず頭が上がらなくなったからではないだろう。武家たちの耳にも、江戸の町言葉が洗練されて美しく聞こえていたからだ。
 勝海舟へインタビューし、その表現をできるだけ忠実に再現してまとめた、『氷川清話』を読まれた地元の方ならピンとくるだろうが、彼の話し言葉は多くが町言葉であって武家言葉ではない。幕末になると、幕閣でさえ町言葉でしゃべる人間が出現していた。ちなみに、ここでいう町言葉Click!とは、多くの時代劇で町人がなぜか口にする、「べらんめえ」調のかなり品が悪く不可解な職人言葉のことではない。ときに、武家言葉が下地の武骨な山手言葉よりもやさしく繊細に聞こえる、商人言葉がベースのていねいな町言葉Click!のことだ。松山ではどうだったのかは知らないが、武骨で硬直化した武家言葉よりも町言葉にあこがれ、生活言語としてつかっていた武家もいたのではないだろうか。
 安倍能成は、『坊っちゃん』に登場する人物たちについてはあまり触れてないが、地元の松山出身者は「うらなり」と「マドンナ」と下宿の「お婆」ということになるだろうか。ほかの主要な登場人物たちは、「坊っちゃん」を含めほとんどが別の地方出身であり、別に物語の舞台が松山でなくても当時はありがちなエピソードだったのではないだろうか。中には、漱石自身が松山で経験したことももちろん含まれているのだろうが、ひときわせっかちな「坊っちゃん」と対照的にカリカチュアライズしやすかったのが、どこかのんびした「な、もし」の松山方言をつかう松山人だったのかもしれない。
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 そういえば、松山の中学校で「長いものには巻かれない」のが、江戸東京の出身である「坊っちゃん」Click!と会津出身の「山嵐」なのも、薩長政府に対する漱石の“想い”が感じられて面白い。1905年(明治38)の春に物理学校を卒業して、ほどなく初夏の陽射しの中を数学教師として赴任し、同年10月にはすでに「赤シャツ」と「野だいこ」を打(ぶ)ん殴って東京にもどっているというから、正味5ヶ月ぐらいしか教師をしていなかったことになる。わたしは、「坊っちゃん」ほど気が短くはないつもりだが、それでも同じような境遇に置かれ同じ目にあったりしたら、はたして5ヶ月間も我慢できるかどうかわからない。

◆写真上:1970年(昭和45)に制作されたドラマ『坊っちゃん』の主人公役で、同役ではあまり違和感をおぼえなかった竹脇無我。喜久井町の夏目坂で撮影されたもので、背後に見えているのは下落合の安倍能成が揮毫した「夏目漱石生誕之地」記念碑。
◆写真中上は、1966年(昭和41)2月9日に撮影された「夏目漱石生誕之地」除幕式での安倍能成。右側は漱石の曾孫にあたる女の子で、「落合新聞」同年3月14日号より。は、米倉斉加年Click!の「赤シャツ」が秀逸な『坊っちゃん』の1シーン。のちに松坂慶子Click!が「マドンナ」役のときも米倉が好演しており、同役は米倉のイメージが強い。
◆写真中下上左は、松山中学校の教師時代の夏目漱石。上右は、装丁に中村彝Click!の『海辺の村(白壁の家)』があしらわれた角川文庫版『坊っちゃん』(1970年)。下左は、『くにことば』が収録された1938年(昭和13)出版の安倍能成『朝暮抄』(岩波書店)。下右は、1949年(昭和24)に学習院の開講式で登壇した学内民主化を推進する院長の安倍能成。
◆写真下は、夏目漱石の生誕地から500mほどしか離れていない夏目漱石邸跡(終焉地)にできた漱石山房記念館。散歩に出られる距離だが、手前の「すず金」Click!にひっかかって記念館はゆっくり訪れていない。は、館内に再現された夏目漱石の書斎。は、東京の町場と乃手の中間あたりの風味をしている漱石も常連だった「すず金」のうな重。

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失意のなかの鶴田吾郎『長崎村の春』。 [気になるエトセトラ]

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 1926年(大正15)5月に開催された第1回聖徳太子奉讃美術展覧会に、鶴田吾郎Click!は『長崎村の春』と題する風景画を出品している。同作は、日本橋にあった巧藝社により記念絵はがきが制作され、会場だった東京府美術館で販売されたものだろう。絵はがき店で見つけた、あまり見かけることのないめずらしい1枚だ。
 画面を見ると、制作年の春先のようにも思えるが、右側に描かれた稲を収穫したと思われる稲木(藁干し)がどこか秋を感じさせる。左手の遠景に見えている黄土色のかたちは、黍(きび)殻を三角錐に束ねたキビガラボッチだろうか。でも、手前の田畑と思われる地面には青々とした草叢ができており、晩秋のようには見えない。畑地の中央に、茶色い窪地のような描きこみがあり、左から右へ線状に描かれているのは用水路だろうか。あるいは、当時の谷端川や千川上水であっても、決しておかしくはない風情だろう。また、遠景に見える木立ちは葉を落とした(あるいは若葉をふいて間もない)ケヤキの、空へ拡がる枝幹のような描き方であり、空に描かれた雲も強い気流に吹かれる筋雲のような趣きを見せているので、どこか冬のような雰囲気も漂っている。
 タイトルが『長崎村の春』なのだから、「春」にまちがいはないのだろうが、どことなく描き方にチグハグさを感じてしまう。右の藁干しから、「秋」の10月といわれればそんな気もするし、遠景のケヤキなど落葉樹と思われる木々や、よく晴れあがった空模様だけを取りだして見れば、「冬」だといわれてもおかしくない風景だ。また、下の草叢だけに視点を合わせれば、そろそろバッタが飛びだす初夏のような風情にさえ感じる。タイトルには「春」としっかり規定されているが、どこか季節感が曖昧で虚ろな感覚を画面から受けてしまうのは、わたしだけだろうか?
 このとき鶴田吾郎Click!は、関東大震災Click!のあと夏目利政Click!が設計し手配してくれた下落合804番地のアトリエClick!を放棄し、短期間の仮住まいをへて、長崎村地蔵堂971番地(現・千早1丁目)のささやかなアトリエClick!へ転居したばかりのころだった。ちなみに、長崎村が町制へ移行して長崎町になるのは、『長崎村の春』が出品された聖徳太子奉讃美術展の1ヶ月後、1926年(大正15)6月のことだ。
 当時、地蔵堂のアトリエを出て、『長崎村の春』のような風景を探すのは非常にたやすかっただろう。作品と同年に作成された「長崎町事情明細図」を見ると、地蔵堂971番地にはすでに「ツル田」のネームが採取されている。そのアトリエから西側に拡がる、字名でいえば西向(現・千早/長崎/要町界隈)、あるいは北側の北荒井や北原(きたっぱら)、境窪、高松(現・要町/千川/高松界隈)には、画面のような風景があちこちに拡がっていたとみられる。したがって、地形的な特徴や目印となる構造物が描かれていない、同作の描画ポイントを絞りこむのはむずかしい。
 『長崎村の春』を描いたとき、鶴田吾郎はいまだ失意と虚脱感を抱えていただろう。1982年(昭和57)に中央公論美術出版から刊行された鶴田吾郎『半世紀の素顔』によれば、「私の身辺は決して面白いものではなかった」と書いている時期から、まだそれほど時間が経過していない。1924年(大正13)の夏、自信をもって描いた100号(宇都宮まで写生に出かけた作品)が帝展に落選したのを皮切りに、同年の秋には中村彝Click!が名づけ親だった長男の徹一を、疫痢によりたった一晩で亡くしている。つづいて、同年12月には兄事していた中村彝が病没する。彼にしてみれば、下落合804番地のアトリエは忌まわしい想い出がこもる住まいとなった。
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 そのあたりの経緯を、1999年(平成11)に木耳社から出版された鈴木良三Click!『芸術無限に生きて』収録の、「目白のバルビゾン」から引用してみよう。
  
 (鶴田吾郎アトリエは)曽宮(一念)さんのところも近かったので往来は繁く曽宮さんのアトリエで、二人でドンタクの会を毎日曜日、アマチュアのために指導を始めた。その間に曽宮さんをモデルにして百号に「初秋」を描き、第三回帝展に入選し、その次の年にも「余の見たる曽宮君」を出品した。/この年夏目利政さんという建築好きの人がいて盛んに貸家を造っていたが、その人の世話で小画室を造られ移った。大震災に遭い長男の徹一君が疫痢で亡くなった。/翌年は彝さんの死にあい、全力を尽くしてその後始末をするのだった。葬儀のことは勿論、遺作展、遺作集、遺稿集、画保存会、遺品の分配等々。(カッコ内引用者註)
  
 この文章の中で、鈴木良三の記憶にいくらかの齟齬がみられる。まず、関東大震災に遭遇したとき、鶴田吾郎は目白通りも近い下落合645番地の借家Click!(佐伯祐三Click!アトリエの北約140mのところ)に住んでいたのであり、震災で傾いた同住宅には住めなくなったので、夏目利政Click!に相談して下落合804番地に「小画室」を建てている。
 また、長男・徹一が疫痢で急死したのは1924年(大正13)の秋であり、その葬儀や法事の後始末が終わらないうちに、今度は中村彝の死去に遭遇している。鈴木良三の「翌年は彝さんの死にあい」は、明らかに記憶ちがいだろう。中村彝に関する残務があり(息子や彝の死を、身辺の忙しさで紛らせようとしていたのかもしれない)、1925年(大正14)までは下落合804番地に住みつづけていたが、たび重なる不幸に嫌気がさして、「祥雲寺前の新築の貸家を見つけて三ヶ月ばかり」(『半世紀の素顔』より)住んだあと、翌1926年(大正15)に長崎村地蔵堂971番地へと引っ越している。
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 さて、描かれた『長崎村の春』のころの長崎地域は、どのような様子だったのだろうか。武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)が走り椎名町駅Click!東長崎駅Click!のある長崎村の南部と、山手線の池袋駅に近いエリアには、すでに住宅街が形成されていたが、広大な長崎村の北部や西部は明治期とさして変わらない風景をそのまま残していた。幕末から明治にかけ、千川上水にはニホンカワウソが棲息しており、地域の昔話にも登場しているが、そのころとさして変わりない風景が展開していただろう。
 明治期から大正期にかけての、長崎地域における土地活用(耕作)について、明治末の1/10,000地形図をもとに解説した文章がある。1996年(平成8)に発行された「長崎村物語」展図録(豊島区立郷土資料館)から引用してみよう。
  
 一見してわかることは、畑が広がり、そのなかに家々が点在しているということです。そして、字並木、字地蔵堂の集落が立地する舌状台地に沿って、西から東へ谷端川が流れ、その周囲に水田ができていることもよくわかります。南には、東西を結ぶ道路が通っています。これは、江戸時代には通っていた道で、江戸と郊外を結ぶ清戸道です。昭和の初め頃までは、長崎の特産だった茄子や大根が、この道を通って神田市場等へ運ばれていました。清戸道の途中に人家が密集するところがありますが、ここが、西武池袋線の駅名の由来ともなった椎名町です。商店が多く、農家の人たちが買物にいく場所でした。椎名町の東には、等高線の幅が狭くなっているところがありますが、これが鼠山で、現在は住宅地となっています。(中略) 椎名町から北上する道も旧道のひとつで、板橋に向かう幹線道路でした。金剛院の西を通りますが、この道筋は、今もあまり変わっていません。道の両脇は、苗木畑として利用されていたようです。
  
 現在、住宅街に埋めつくされている長崎地域からは想像もできないが、その北部(現在の千早/千川/高松界隈)は、戦後まで田畑が拡がる農村の面影を色濃く残していた。田畑には米や麦、黍、野菜類などが栽培されていた。
 特に黍殻は、名産だった茄子の苗床をつくるときには欠かせない風よけに使われたため、田畑のあちこちにキビガラボッチ(別名「ニュウ」)が立てられている。だから、鶴田吾郎の『長崎村の春』(左手の奥)にそれが描かれていても不自然ではない。画面の正面に見える、遠く離れた農家の屋根は茅葺きであり、屋敷林に植えられた常緑樹(おそらく針葉樹)が、空に向けて濃い緑を突きだしている。その背後に描かれた地平線に近い空が、どこか濁ったように灰茶がかっているのは、強い春風にあおられて舞いあがった赤土(関東ローム)が混じる色だからかもしれない。
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 新しい生命の息吹を感じる、春の風景をモチーフに選んだにしては、なんとなくチグハグで不安定な感覚をおぼえるのは、鶴田吾郎の心のうちをそのまま画面に写しているからだろうか。立ち直らなければという思いを背に、春の野へ出て写生をはじめてはみたものの、さまざまな思い出が去来してタブローにうまく集中できない、そんな感慨を抱かせる画面だ。

◆写真上:下落合から転居後、1926年(大正15)に制作された鶴田吾郎『長崎村の春』。
◆写真中上は、第1回聖徳太子奉讃美術展覧会で販売された『長崎村の春』の絵はがき(巧藝社製)。は、同画面の中央部と左側の部分拡大。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる地蔵堂971番地の鶴田吾郎アトリエ。は、戦後の1950年(昭和25)ごろ撮影された千川4丁目の風景。は、1929年(昭和4)制作の春日部たすく『長崎(池袋よりのぞむ)』。
◆写真下は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図に書きこまれた長崎村の字名。いまでこそ、「長崎」の地名は半分以下のエリアに限定されているが、「下落合」の地名が3分の1の面積になってしまったのと同様に、本来の長崎地域は広大だった。は、1932年(昭和7)ごろに描かれた本橋司『長崎町の農家』。は、長崎村(町)のあちこちの畑地で見られたキビガラボッチ(ニュウ)。

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