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松山中学出身の安倍能成と『坊っちゃん』。 [気になる下落合]

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 1906年(明治39)に夏目漱石Click!が『坊っちゃん』を発表したとき、「四国辺の中学」を舞台にした同作を読んだ安倍能成Click!は、どのような感想を抱いただろうか。「四国辺の中学」は、明らかに漱石自身が赴任した愛媛県松山市の愛媛県尋常中学校=(旧制松山中学校)がモデルであり、安倍能成Click!は松山が故郷で同中学校の卒業生だった。
 また、漱石の友人だった正岡子規Click!も松山中学の出身であり、『坊っちゃん』が子規の死から4年後に発表されている点にもやや留意したい。漱石はまだ学生だった若いころ、帰省した子規を訪ねて松山を訪れており、松山にはいくらか土地勘があったはずだ。そのころから、漱石は松山の風土・環境や人情にどこか馴染めず、しじゅうイライラして胃を痛めていたのではないだろうか。
 安倍能成の知りあいで、同じ松山出身の同窓生の友人は、『坊っちゃん』について「松山人を侮辱するものだと憤慨」(『朝暮抄』より)し、以降、漱石作品を忌避していた様子が安倍のエッセイに見えている。それとは逆に、安倍能成の友人だった愛媛出身の医学者・真鍋嘉一郎は、「松山の名誉、松山中学校の名誉だ」として、舞台で『坊っちゃん』が演じられるとアドバイザーとして積極的に参画していたりする。
 1937年(昭和12)に書かれた、安倍能成の『坊っちゃん』をめぐる随筆には、作品に対する明確な姿勢や具体的な感慨・感情は書かれていない。『くにことば』と題された随筆は、自身のことを「愛郷の精神は余りない男だ」の書きだしではじまり、松山方言についての「評論」のみに終始し、『坊っちゃん』については「松山の地方語を最もよく活用した小説である」と、できるだけ客観的な姿勢で評価しようとしている。いろいろ文句のひとつも書きたいところだが、師匠の夏目漱石をあからさまに批判するわけにもいかないので、一歩身を引いて第三者的な立場から作品の当たり障りのない評論に徹している……、わたしにはそんな感触がするめずらしいエッセイだ。
 安倍能成が第一高等学校長だった1938年(昭和13)に、岩波書店から出版された『朝暮抄』所収の『くにことば』から、少し長いが引用してみよう。
  
 坊つちやんが宿直の晩にいたづらをされた時の生徒との問答は、坊つちやんの竹を割るやうな、短気な直截な気持、又それを表現する東京語との対照によつて、生徒の方の意地わるい、多数を頼んで先生を呑んでかゝつて居る、冷静な気持を示すといふ文学的効果の為に、松山語がいくらか誇張的に生ぬるく用ひられて居る所もあり、「なもし」が少し濫用され過ぎても居る。それに「な、もし」と「な」の所へ点を打つのは、詞の成立からはそれでよいが、調子の上からはぶちこはしになつて居る。坊つちやんが天麩羅を食つちや可笑しいかといふと、「然し四杯は過ぎるぞな、もし」といふ。君等は卑怯といふ事の意味を知つて居るか、といふと、「自分がした事を笑はれて怒るのが卑怯ぢやらうがな、もし」といふ。或は「バツタた何ぞな」と生徒が聞いて、実物を見せられると、「そりや、イナゴぞな、もし」といつたり、入れないものがどうして床の中に居るんだ、と詰問されて、「イナゴは温い所が好きぢやけれ、大方一人で御這入りたのぢやあろ」などといふのは、一方が愈々ぢりぢりするのを、片方が益々落著(ママ:落着)払つて居る対照的効果を発揮するには十二分であるが、併し少し下宿のおばあさんの詞つきが少年の生徒の詞の中に乗り移つて居るといふ恐れもある。(カッコ内引用者註)
  
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 安倍能成の文章にしては、かなり持ってまわったような表現で、『坊っちゃん』の評価にあちこちで気をつかっている様子がうかがえる。漱石の文章で、「な」と「もし」の間に「、」を付加することは文法上は正しいが、調子が「ぶちこはし(打壊し)」Click!だと江戸東京方言で苦言を呈する。「バツタた何」は「バツタとは何」という意味で、漱石が松山方言を正しく採取しているのは褒めるが、漱石が操る生徒たちの松山方言は若者らしくなく年寄り臭いと批判している。
 このアンビバレントな感覚の文章は、『くにことば』の最後までつづくので、安倍能成が『坊っちゃん』に抱いていた感想もまた、漱石の作品を評価する面と漱石に反発する面とで同様だったのだろう。冒頭に「愛郷の精神は余りない」と書いておきながら、文章のあちこちから安倍能成が感じていた「愛郷の精神」のコンプレックス(感情複合体)を感じるのは、わたしだけではないと思う。
 安倍能成は、「田舎の中学の空気、先生、生徒の類型を確かに把んでこれを描出し得た所に特色がある。この作の意図からいへば、松山の方言は実に巧みに利用されたといつてよい」と、最終的には『坊っちゃん』をおおよそ評価しているが、作品全体の流れや構成、登場人物などにはあまり触れず、松山方言のみの記述で終わっている。タイトルが『くにことば』だから、それでまったく不自然ではないのだけれど、どこか『坊っちゃん』の作品評が手もとから突き放され、宙に浮いた感じを受けるのだ。
 さて、わたしも「坊っちゃん」ほどではないけれど、こらえ性がなく気が短いので、おそらく作品では誇張されているのかもしれないが、描かれた多くの登場人物たちのような応対をされ、「ぞな、もし」の話し言葉で地元の人たちからいい加減な、半分バカにしたような受け答えをされたら、まちがいなくストレスが積み重なり、ほどなく針が危険なレッドゾーンへ振りきれるんじゃないかと思う。
 『坊っちゃん』の随所から、漱石のイライラした感情が伝わってくるが、それは別に「坊っちゃん」ともども漱石が「竹を割るやうな」性格だからではなく、地域性からくる風土や人情のちがいで「水があわない」せいだろう。その逆もしかりで、『坊っちゃん』に登場するようなカリカチュアライズされた松山人でなくとも、ふつうの松山人が四国から東京へやってきたら、たいていは「水があわない」と感じるのではないだろうか。そこでは、ちょっとばかり「東京のうどんは醤油の汁にひたしてあるような代物」と、こちらでは「病人食」扱いの食べ物へ文句のひとつClick!もいいたくなるのかもしれない。w
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 安倍能成は、『くにことば』の中で徳川時代の武家言葉と町人言葉についても触れている。「坊っちゃん」が下宿する家の「お婆」について、再び同書から引用してみよう。
  
 「お婆の言ふことをきいて、赤シヤツさんが月給をあげてやらうと御言ひたら、難有うと受けて御置きなさいや」/「お婆の言ふことをきいて」といふのは、何も松山に限つた表現ではないが、松山生れの私にはそれが実に松山的に感ぜられる。「御置きなさいや」の「や」も松山でよく使ふ詞である。「下さいね」とか「下さいよ」といふ場合に、「つかあさいや」といふ。「や」には、それをつけない場合よりも親愛、親昵の気持がある。序にいふが、このおばあさんの詞は士族の詞である。かういふ城下町では皆さうであるやうに、士族の詞と町家の詞とは大分違ふ。恐らく今は大分混淆して来ただらうとは思ふが。この現象は独り松山だけのことでなく、方言を研究する人の恐らく疾くに注意して居る所であらう。
  
 安倍能成は、「城下町では皆さうである」と書いているが、同じ城下町Click!である江戸東京では必ずしもそうとはいえない。江戸時代も中期をすぎると、武家言葉はどこか無粋で野暮で“カッコ悪い”という感覚が広まり、幕府の旗本や御家人たちは日常の生活言語として町言葉をふつうにしゃべりはじめている。それは、町人たちからの借金がかさみ、首がまわらず頭が上がらなくなったからではないだろう。武家たちの耳にも、江戸の町言葉が洗練されて美しく聞こえていたからだ。
 勝海舟へインタビューし、その表現をできるだけ忠実に再現してまとめた、『氷川清話』を読まれた地元の方ならピンとくるだろうが、彼の話し言葉は多くが町言葉であって武家言葉ではない。幕末になると、幕閣でさえ町言葉でしゃべる人間が出現していた。ちなみに、ここでいう町言葉Click!とは、多くの時代劇で町人がなぜか口にする、「べらんめえ」調のかなり品が悪く不可解な職人言葉のことではない。ときに、武家言葉が下地の武骨な山手言葉よりもやさしく繊細に聞こえる、商人言葉がベースのていねいな町言葉Click!のことだ。松山ではどうだったのかは知らないが、武骨で硬直化した武家言葉よりも町言葉にあこがれ、生活言語としてつかっていた武家もいたのではないだろうか。
 安倍能成は、『坊っちゃん』に登場する人物たちについてはあまり触れてないが、地元の松山出身者は「うらなり」と「マドンナ」と下宿の「お婆」ということになるだろうか。ほかの主要な登場人物たちは、「坊っちゃん」を含めほとんどが別の地方出身であり、別に物語の舞台が松山でなくても当時はありがちなエピソードだったのではないだろうか。中には、漱石自身が松山で経験したことももちろん含まれているのだろうが、ひときわせっかちな「坊っちゃん」と対照的にカリカチュアライズしやすかったのが、どこかのんびした「な、もし」の松山方言をつかう松山人だったのかもしれない。
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 そういえば、松山の中学校で「長いものには巻かれない」のが、江戸東京の出身である「坊っちゃん」Click!と会津出身の「山嵐」なのも、薩長政府に対する漱石の“想い”が感じられて面白い。1905年(明治38)の春に理科学校を卒業して、ほどなく初夏の陽射しの中を数学教師として赴任し、同年10月にはすでに「赤シャツ」と「野だいこ」を打(ぶ)ん殴って東京にもどっているというから、正味5ヶ月ぐらいしか教師をしていなかったことになる。わたしは、「坊っちゃん」ほど気が短くはないつもりだが、それでも同じような境遇に置かれ同じ目にあったりしたら、はたして5ヶ月間も我慢できるかどうかわからない。

◆写真上:1970年(昭和45)に制作されたドラマ『坊っちゃん』の主人公役で、同役ではあまり違和感をおぼえなかった竹脇無我。喜久井町の夏目坂で撮影されたもので、背後に見えているのは下落合の安倍能成が揮毫した「夏目漱石生誕之地」記念碑。
◆写真中上は、1966年(昭和41)2月9日に撮影された「夏目漱石生誕之地」除幕式での安倍能成。右側は漱石の曾孫にあたる女の子で、「落合新聞」同年3月14日号より。は、米倉斉加年Click!の「赤シャツ」が秀逸な『坊っちゃん』の1シーン。のちに松坂慶子Click!が「マドンナ」役のときも米倉が好演しており、同役は米倉のイメージが強い。
◆写真中下上左は、松山中学校の教師時代の夏目漱石。上右は、装丁に中村彝Click!の『海辺の村(白壁の家)』があしらわれた角川文庫版『坊っちゃん』(1970年)。下左は、『くにことば』が収録された1938年(昭和13)出版の安倍能成『朝暮抄』(岩波書店)。下右は、1949年(昭和24)に学習院の開講式で登壇した学内民主化を推進する院長の安倍能成。
◆写真下は、夏目漱石の生誕地から500mほどしか離れていない夏目漱石邸跡(終焉地)にできた漱石山房記念館。散歩に出られる距離だが、手前の「すず金」Click!にひっかかって記念館はゆっくり訪れていない。は、館内に再現された夏目漱石の書斎。は、東京の町場と乃手の中間あたりの風味をしている漱石も常連だった「すず金」のうな重。

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