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隣り村同士でまったく異なる「おびしゃ」祭り。 [気になる下落合]

中井御霊社(茅葺き).jpg
 落合地域にお住まいの方なら、「おびしゃ(お歩射)祭り」をご存知の方は多いだろう。下落合村の御霊社Click!あるいは葛ヶ谷村(→落合村葛ヶ谷→西落合)の御霊社Click!で、毎年正月の1月13日に行われる祭礼のことだ。
 金子直德が寛政年間に書いた『和佳葉の小図絵(若葉の梢)』には、下落合(中井)御霊社と葛ヶ谷御霊社は「上下の御霊の宮」と書かれており、祭神は「諾再二柱」すなわち国産みの神であるイザナギおよびイザナミの2柱だったことが記録されている。現在、中井御霊社の祭神は「仲哀天皇・応仁天皇・仁徳天皇・鹿島大明神」であり、葛ヶ谷御霊社は「仲哀天皇・神功皇后・応仁天皇・武内宿禰」とされ、本来の日本の神々とはまったく関係のない「神」が祀られている。おそらく、薩長政府が1870年(明治3)に発布した大宣教令Click!により、廃社の脅しをかけられた社側が政府の宗教政策におもねるために、祭神の“全とっかえ”をしているケースだと思われる。
 同時期に、神田明神Click!の主柱から平将門Click!が外され(1984年に復活)、下落合の神田明神分社が廃社となり、ついでに下落合の大(第)六天Click!2社から女神のカシコネを外しているのだろう。江戸東京地方に限らず、日本じゅうの社に奉られていた神々を勝手に交換したり、いうことをきかない社は廃社にしたりと、バチ当たりなこと(「日本の神殺し」政策Click!と呼ばれる)を繰り返した薩長政府が造った国家は、わずか70年ほどで破産・滅亡するのだが、1945年(昭和20)以降も祭神を本来のものにもどさない社は少なくない。これにより、わずか70年余で消されてしまった日本の神々(特に地方地域に根づく独自の地主神々や地霊)は、膨大な数にのぼるとみられる。
 下落合と葛ヶ谷の御霊社について、金子直德『和佳葉の小図絵』(『江戸西北郷土誌資料』より)の原文と、1958年(昭和33)に現代語訳で出版された海老澤了之介『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)の双方から引用してみよう。
  
 (原文)堀の内は此橋(落合土橋)をわたり行。橋手前より西に行ばしいな町へ出、根岸通を行ば田中辺に行。此村に御霊の社あり、上下の御霊の宮あり、諾再二柱の神と云。 (現代語訳)この橋を渡って行く、橋の手前から西に行けば椎名町へ出、根岸通りを行けば田中辺に出られる。この村に御霊の社があって、上下の御霊の宮には、伊邪那岐・伊邪那美の二神が祀られている。(カッコ内引用者註)
  
 「上下の御霊の宮」は中井御霊社と葛ヶ谷御霊社で、どちらが上宮でどちらが下宮か規定されていないが、素直に考えれば旧・神田上水の上流にある村が上落合村、下流にあるのが下落合村という呼称と同じように、妙正寺川(北川Click!=井草流)の上流にある葛ヶ谷御霊社が上宮、下流にある中井御霊社が下宮になるだろうか。ただし、江戸期は南東の方角にある千代田城Click!に近いほうを「上」、遠いほうを「下」とした事例もかなりあるので、その場合は上下が逆転することになる。いずれにしても、この2社は創建年が不明なほど、古えの昔から落合地域で奉られている。
 これら御霊社には、正月の祭りである「おびしゃ(お歩射)」が古くから伝わっている。祭りの趣旨は、農村地帯らしく五穀豊穣と子孫繁栄だが、まるで武家の祭礼のように弓矢を用いる点が非常にめずらしく、同様の「おびしゃ」祭りは東京23区内では落合地域にある2社と、大田区の多摩川べりにある六郷社のわずか3社にすぎない。
御霊坂.JPG
中井御霊社.JPG
おびしゃ(中井御霊社).jpg
 祭りの様子を、1982年(昭和57)に発行された『ガイドブック/新宿区の文化財(4)-史跡(西部篇)』(新宿区教育委員会社会教育課)から引用してみよう。
  
 現在のびしゃ祭りは午前中に行われる。直径約一メートルの的が鳥居に吊るされる。三重の黒円の的の中央には烏二羽(雄と雌。烏の夫婦だという)と鰯を描いた半紙が貼付してある。烏を描いた的は全国的にも珍らしい。午前十時頃になると、氏子地区の役員が神社に集まり、祭典を行う。びしゃ祭りは(一)文木の授受、(二)ご神酒の儀、(三)引弓の儀の三部からなる。(一)は前年の当番から今年の当番に的を作る時に使用される文木(分木)を渡す式。(二)は勧盃祝言の式で、神酒をいただき、高砂や四海波などの「野謡」が歌われる。(三)は鳥居の的を射る式で、弓を御神酒で清めてから拝殿の入口に立ち、最初の矢を空に向けて射、次に二本を的に向けて射る。矢が的中することはないが、矢を拾うと家が繁盛するといわれている。昔は矢に殺到して怪我人がでるほどであった。
  
 引用の「おびしゃ」は葛ヶ谷御霊社の様子を記したものだが、文木(分木)とは正円を描く的(まと)を作るのに欠かせない木製のコンパスのことだ。毎年1月13日に行われる現代の「おびしゃ」祭りだが、以前は前年の暮れから祭りに用いる“どぶろく”を仕込むところからはじまるので、祭礼の期間はのべ44日間もあったという。明治期の祭りでは前年に結婚した新婚夫婦が紹介されるなど、村内のコミュニティ形成+コミュニケーションの場としての意味合いが強かったようだ。
 中井御霊社の「おびしゃ」祭りも、上記の行事とほとんど変わらないが、同じ正月の1月13日でも午前ではなく午後に行われている。また、的は鳥居ではなく拝殿から20mほどのところに吊るされ、年男が空ではなく鬼門の方角に向かって最初の矢を射る。次に、的に向かって射るがそれで終わりではなく、次々と氏子の代表たちが矢を射って、最後に神主が射的して終わる。中井御霊社は、五穀豊穣とともに安産を祈願する祭りとなっていて、出産が近い妊婦の参詣者が多いようだ。
 中井御霊社には、「永禄癸亥」年の銘が入った分木(文木)が保存されており、1563年(永禄6)すなわち少なくとも室町期から、「おびしゃ」祭りが行われていたことが判明している。祭礼で弓矢を用いることといい、葛ヶ谷御霊社にみられるように、まるで野外で行われる薪能を想起させる「野謡」が謡われることといい、この2社の祭りには純粋な農村の祭礼・神事というよりも武門の匂いがしている。
 これはわたしの想像だが、周辺の鎌倉期の事蹟Click!などを踏まえると、起源は鎌倉期ないしは平安期にまでさかのぼるのではないだろうか。射的による社への奉納行事は、鎌倉では平安期からの鶴岡八幡宮をはじめ、あちこちの社で行われている神事だ。このあたり、古くから関東に平安期から伝わる「五郎(ごろう)」の鉄人武将伝説Click!の社と、「御霊(ごりょう)」の社との中世における習合が、大きなテーマとして基層に横たわっていそうだ。
おびしゃ絵馬(中井御霊社.jpg
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おびしゃ(葛ヶ谷御霊社).jpg
 葛ヶ谷村の西隣り、葛ヶ谷御霊社から西北西へわずか1,000mのところに江古田(えごた)村の氷川明神社(スサノオ=牛頭天王)があり、ここでも大正期まで「おびしゃ(お備社)」祭りが行われていた。ところが、落合地域にある2社の「おびしゃ」とはまったく異なり、開催時期も異なれば弓矢もまったく使わない祭礼だった。
 江古田地域に伝わった「おびしゃ」祭りの概要を、1973年(昭和48)に出版された堀野良之助『江古田のつれづれ』(非売品)から引用してみよう。
  
 江古田村には、大正の末頃まで「お備社(おびしゃ)」という行事があった。この行事は、毎年十月二十九日の氷川神社例祭の前夜に行われた前夜祭であって、当日は、組仲間の者が定められた宿に集って「お備社行事」をしたのである。村中三十余軒が二軒づつ一組となり、順番に各家々より白米五合と銭三十銭か五十銭づつ集めて、行事の費用に当て、それで、酒肴などを適当に支度して二十八日の夜、お備社の宿で床の間に掛けた「氷川神社の御神号」の掛物に神酒と供物を上げ、その前で、皆が祝い酒を飲み、そして、黒塗の椀に白米の飯を高く盛り上げた「お高盛り」と呼ぶ御飯を一粒残さず食べた。その頃は大食の者が多かったから、たいていの人は残さず食べてしまった。この儀式が終るのは、夜の十時か十一時頃であった。
  
 ちなみに、江古田の「おびしゃ」については同書よりも、1955年(昭和30)に出版された熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品)のほうが、ここで引用できないほどの詳細な記録を残しているので、興味のある方はそちらを参照してほしい。
 このように、江古田地域の「おびしゃ」は農村の純粋な祭りの匂いが濃く、「武」の匂いはまったく感じられない。江戸期には、白米がことのほか貴重だったと思われるので、それを「組仲間」のメンバーたちが腹いっぱい食べられるところに、「おびしゃ」の醍醐味があったのだろうし、また江古田氷川社本祭の「前夜祭」として「おびしゃ」自体が独立した祭礼でないところも、隣りの落合地域とでは決定的な相違点だ。
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 鎌倉期を起源とするにしても、江古田地域側の「おびしゃ」は弓矢による射的の神事がいつの間にか廃れてしまい、時代経過とともに純粋な農村の祭礼・神事へと変貌してしまったのに対し、落合地域側の「おびしゃ」は昔日の祭礼・神事の姿をそのままとどめていた……そんな気が強くしている。落合側は「お歩射」と表記するが、江古田側は氷川明神社の本祭礼に備える「お備社」(前夜祭)に変化してしまったのではないだろうか。ちなみに落合地域の東側、雑司ヶ谷村の鬼子母神や高田村の氷川社でもお奉射(びしゃ)祭りが行われていたが、前者は江戸期までに絶え、後者は成人式の儀式の行事へと変化してしまったようだ。

◆写真上:1980年代まで茅葺きだった、下落合(現・中井2丁目)の中井御霊社。
◆写真中上は、中井御霊社へ通う急坂の「御霊(ごりょう)坂」。「御霊坂」を「おんりょう(怨霊)坂」と読む情けない人がいるので平仮名に改められたと聞く。は、中井御霊社の現状。は、同社で正月に行われている「おびしゃ(お歩射)」祭り。
◆写真中下は、中井御霊社に掲げられた江戸期の「おびしゃ」絵馬。は、西落合の葛ヶ谷御霊社。は、同社の「おびしゃ(お歩射)」祭り。
◆写真下は、江古田(えごた)にある江古田氷川明神社。は、夕暮れ間近な鎌倉の鶴岡八幡宮。拝殿への階段(きざはし)左側にある大イチョウが、暴風で倒れる直前に撮影したもの。は、平安期から行われているといわれる同宮の流鏑馬神事。

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