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近隣ではいちばんオシャレな長崎町役場。 [気になるエトセトラ]

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 落合地域の周辺で、いちばんモダンで華麗な町役場といえば、東京が35区制Click!に移行する1932年(昭和7)現在、長崎町2887番地に建っていた長崎町役場庁舎だったにちがいない。戸塚町役場は、ほとんど装飾もなく味気ない箱型状のデザインで、中野町役場や西巣鴨町役場(現・池袋地域)は下見板張りで当時はありがちの小規模な小学校のような建物だったし、落合町役場と高田町役場(1930年現在)にいたっては住宅に毛の生えたような、まるで1930年以前の長崎町役場Click!の仮設庁舎のような風情だった。
 当初の建設計画では、おそらく長崎町役場は多くの部分をRC(鉄筋コンクリート)工法で予定していたと思われるのだが、途中で予算がなぜか縮小されて不足し、やむなく町の有力者たちで「協賛会」(会長・岩崎萬吉)を組織して協賛金を出しあい、「時代の進運に添はざる憾あり」の木造モルタル造り(外壁部の多くの部材は大谷石)に変更しているとみられる。なぜ、一度議会を通過した予算が再審議され削減・縮小されているのかといえば、豪華な町役場建設に対する町民たちからの強いクレームがあちこちから入った可能性の高いことは、すでに『長崎町政概要』Click!の記事で書いたとおりだ。
 長崎町役場は、1930年(昭和5)4月17日に起工し同年10月には竣工しているので、大急ぎで(これ以上のクレームが入る前に?w)建設した感が強い。そして、建物の各種工事をはじめ、調度・備品などにどれだけカネ(税金+不足分の協賛金)がかかったかの工費報告リーフレットを作成し、同年10月に出版された『長崎町政概要』(長崎町役場)に挿みこんで“情報公開”したとみられる。また、世界大恐慌のまっただ中で苦しい町民の暮らしをよそに、華麗な町役場を建設する当局に抗議した町民たちへは、同報告リーフレットを戸別に郵送・配布しているのかもしれない。
 別刷りされた「長崎町役場敷地並庁舎坪数及工費額調」(あらかじめ建設計画や予算が組まれていたであろう建設報告を、「調」と題する感覚も不可解だが)によれば、敷地壺数は343坪(約1,134平方メートル)、建物総延坪数が248.608坪(約822平方メートル)、建設費総額(地代除く)は2万7,533円70銭ということになっている。1930年(昭和5)前後の給与を基準にして、現在の貨幣価値に換算すると1円は5,000円前後になるので、長崎町役場の建設費は約1億3,767万円前後ということになる。ただし、当時の建設工費(おもに人権費=作業要員の手間賃・雇用賃)は現在に比べて驚くほど廉価だったので、当時の人々がこの金額を見たときの印象は、とっても高価に感じたのではないだろうか?
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 以下、当時の役場の構造や構成を知るうえでは貴重な情報なので、「長崎町役場敷地並庁舎坪数及工費額調」に記載された建築内容を、項目別を見てみよう。建物は、「本館二階建瓦葺」と「地下室ノ部/鉄筋コンクリート」その他別館などの建物に分かれて記載されている。以下が、同報告書の「本館二階建瓦葺」の項目や記載を一覧表化したものだ。
本館ノ部.jpg
 全室が洋間にもかかわらず、委員室に「押入」とあるのは、今日のクローゼットの意味あいだろう。「公衆溜廊下」は、町役場に用事があってきた町民たちが、たとえば証明書などの発行を待つ待合所のような立ち合いスペースだ。
 今日の価格に直すと、建設工費の坪単価が約40万円なので、いまの視点で見るならそれほど高くなく普通の価格だが、当時の人件費(建設作業員の手間賃)を考えると、相対的に高めといえるだろう。なぜ高いのかは、室内外の意匠に凝っているからだとみられる。たとえば、窓枠をライト風のデザインにしたり、室内の柱を帝国ホテルのようなデザインで上部にアーチをかけたりと、オシャレで見栄えのよさを追求してるからだと思われる。
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 つづいて、地下室から木造スレート葺きの別館、本館玄関の様子を見てみよう。
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 地下室の鉄筋コンクリートによる工費が、坪単価221円(約121万円)は掘削が必要だったせいか、やはりかなり高めとなっている。今日のRC工法による建築工費は坪あたり80万円前後(東京都)なので、当時と現在のセメントや鉄筋の費用誤差を考慮しても割高なように思える。残念ながら、地下室の竣工写真は残っていないので内部は不明だが、やはり凝った意匠の造りをしていたものだろうか。
 その16坪の地下室とあまり変わらない工費で、本館に隣接した別館が建設されている。坪単価87.6円(約44万円)で、こちらも平家1階建てにしてはやや高めだが、どのような造りをしていたのかは写真がないのでわからない。また、なぜ玄関を本館の建設費に含めず、別扱いにしているかは不明だが、ライト風の豪華なファサードやエントランスにしては「思いのほか安いでしょ」といいたかったものだろうか。ただ、この報告書は町役場からの一方的な数値発表であって、業者の請求額や工費明細がそのまま反映されているとは限らない。換言すれば、総経費は変わらないものの、本館や玄関の工費を、いくらか地下室や別館の建設費にふり分けてしまい、できるだけ「高い!」という印象を町民に与えないよう、「調整と工夫」が施されている可能性を否定できない。
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 最後に、インフラ設備やさまざまな備品、装飾費、設計費、監督費(進行管理費)などの項目が計上されているが、四囲雑工事(全建設工費の5.2%を占めている)が目を引くのは、やはりライト風のモダン庁舎にふさわしい外まわりの見栄えにこだわったものだろう。また、電燈設備もやや高めなのは、町会議場などに装飾性の強いシャンデリア風のモダンな照明などを採用しているからだとみられる。
西巣鴨町役場1932.jpg
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中野町町役場1933.jpg
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 さて、以上のような工費報告のリーフレットが挿みこまれた、こちらが質的にも構成的にも実質『長崎町誌』と呼べそうな『長崎町政概要』(長崎町役場/1930年)だが、その「序」で町長が町民へ「愛町奉公の誠」をつくせなどと“上から目線”で説諭・説教をし、協賛会長が「調査の行届かなかつた点もあらうが、庁舎改築に際して、絶好の記念であると信ずる。読者幸に諒せられむことを」と結んでいるのは、「せっかく庁舎も竣工したことだし、もうそろそろこれぐらいで了解してもらって、これ以上問題を大きくしてこじらせないで!」と訴えているように聞こえるのは、おそらくわたしだけではないだろう。

◆写真上:1930年(昭和5)10月に竣工した、華麗でオシャレなライト風の長崎町役場。
◆写真中上は、『長崎町政概要』(長崎町役場/1930年)に挿みこまれた「長崎町役場敷地並庁舎坪数及工費額調」リーフレット。は、同町役場2階に設置された町会議事堂。は、独特な柱とアールのきいたデザインが特徴の1階執務室。
◆写真中下は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる長崎町役場。は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された焼失前の旧・長崎町役場。は、同町役場跡の現状。
◆写真下からへ、東池袋にあった小学校の分校のような西巣鴨町役場(1932年撮影)、機能性を優先したように見える箱型の戸塚町役場(1931年撮影)、このあたり一帯ではいちばんボロい落合町役場(1932年撮影)、やはり小学校の校舎のような意匠の中野町役場(1933年撮影)、鬼子母神の表参道にあった住宅に毛が生えたような高田町役場(1930年まで)。

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