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新宿歴史博物館の下にあった源清麿工房。 [気になるエトセトラ]

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 これほど有名なのに、その実態がほとんど知られていない江戸期の刀鍛冶もめずらしい。信州の小諸赤岩村で生まれ本名は山浦環、成長して刀鍛冶を仕事にするようになると刀銘を山浦(源)正行と切り、信州から江戸にでてきて麹町時代をへて、四谷北伊賀町で仕事をするようになってからは、刀銘に「源清麿」Click!と切るようになる人物だ。
 最初は、信州上田藩松平家の藩工だった河村寿隆に作刀技術を習い、しばらくは典型的な匂い口がしまる華やかな備前伝Click!を焼いていたが、それに飽き足らず鎌倉は相州伝の正宗Click!につながる左文字一派や志津三郎兼氏などの作品に惹かれたようで、江戸へやってきてからは作風が一変して、水心子正秀や大慶直胤と並び、江戸後期から幕末にかけての大江戸(おえど)を代表する相州伝が中心の刀鍛冶となった。
 23歳で江戸へやってきた当初は、麹町9丁目に屋敷をかまえていたのちに講武所の頭取となる、幕府の旗本・窪田清音(すがね)の道場へ入門して作刀の参考に剣術を習うが、しばらくして屋敷内に工房を建ててもらい作刀するようになる。さらに、窪田清音の斡旋で武器講を設立してもらい、100振りの作品を作りはじめるが、出来が気に入らないとすぐに破棄してしまい、また1振り3両では品質のいい目白(鋼)Click!の入手さえも困難なため作刀は遅々として進まず、講で預かった資金(300両)のあらかたを材料費と酒代に費やして、そのまま江戸から出奔して姿をくらました……とされている。
 だが、最新の研究では水野忠邦による天保改革で、武器講という先行投資のような売買契約に幕府から圧力がかかったため、事実上、講中を維持することが困難になったとする説や、同改革で窪田清音が失脚したため、邸内に用人を置いておく財政的なゆとりがなくなったので、やむなく清麿は窮屈な江戸を出て各地を転々としたのではないかという説も浮上しているが、事実かどうかはわからない。
 江戸を出た清麿が確実に立ち寄った先は、現存している作品群の銘などから、一時は長州の萩や信州などに滞在していたことがわかっている。長州には、筑前から移住した左文字一派(長州左と通称される)がいたため、その作刀技術を学びに立ち寄ったものとみられていたが、近年は萩藩の藩政改革で作刀技術向上のために、幕臣の窪田清音とも親しかった同藩家老の村田清風が清麿を招聘したという説が有力だ。
 また、信州の小諸に立ち寄ったのは、彼の兄で同じく刀鍛冶の山浦真雄のいる実家や、おそらく出奔したままになっていた婿入り先(養子先)の長岡家に顔をだしたついでに、兄の工房を借りて鍛刀しているのではないかと思われる。このとき、弟へ鍛刀技術を教える立場だった兄の山浦真雄は、おそらく自身の技量をはるかに凌駕してしまった環(清麿)の作刀を見て驚嘆したのではないだろうか。
 江戸より姿を消してから5年後、1845年(弘化2)に再び江戸へともどり、四谷北伊賀町の空いていた組屋敷を借りて工房にし、改めて作刀をスタートしている。制作する作品が、いずれも秀逸な出来であるのが評判を呼び、予約する武家や町人たち、あるいは刀屋などで工房はにぎわったようだ。このころから、源清麿は鎌倉の正宗以降にようやく出現した名刀工ということで、「四谷正宗」と通称されるようになる。弟子も何人かとり、清麿の工房からは鈴木正雄、栗原信秀、斎藤清人などが巣立っていった。
 だが、1854年(嘉永7)11月14日に四谷北伊賀町の自宅で、突然自刃して42歳の生涯を閉じてしまう。弟子たちの証言によれば、清麿は若いころからの大酒飲みがたたって、酒が切れると手が震えだし、晩年は思うように鍛刀ができなくなっていたらしい。典型的なアルコール依存症の症状だが、思うような作品が満足にできなくなった自身に絶望しての、発作的な自殺ではないかといわれている。だが、真実は本人にしかわからないので、これから本格的に脂が乗った作品を生みだすはずの40歳余での死は、その破滅型で天才肌の性格とあいまって、源清麿=「四谷正宗」の人気を不動のものとした。
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 以上の経緯が、刀鍛冶として判明している源清麿のほとんどすべてだ。特に、唐突に自刃する最期を含め、その生涯が“謎”だらけなのが数々の伝説を育む結果となった。最初に住んだ麹町9丁目の窪田清音邸は、現在のベルギー大使館の前にある「ミレニアムガーデンコート」(現・麹町5丁目)の敷地で、自身の工房をかまえ最後に自刃した北伊賀町の組屋敷は、御持組(将軍直属の弓隊・鉄砲隊)の大縄地(与力・同心の屋敷街)に相当し、いまはその上に新宿歴史博物館Click!(四谷三栄町12番地)が建っている。
 源清麿の作刀について、2013年(平成25)に光芸出版から刊行された、古今東西7,000人の刀鍛冶を収録した得能一男『刀工大鑑』(太鼓版)から引用してみよう。
  
 「一貫斎正行」「源秀寿」「山浦内蔵助源正行」「山浦環」「山浦環源正行製」「環」「源正行」「山浦環源清麿」「源清麿」「清麿」 山浦内蔵助環。文化十年三月六日、信州小諸赤岩村に生まる。文政十二年六月二十六日、兄真雄とともに河村寿隆に入門。銘は一貫斎正行と切る。天保二年から同五年まで松代梅津城下で鍛刀、銘を山浦内蔵助秀寿、山浦内蔵助正行などに切っている。天保六年出府して幕臣窪田清音の指導によって鍛刀、天保十年より武器講の作刀を始めるが、翌天保十一年暮、出奔して弘化元年に至るまで長州、信州を転々として鍛刀しており、弘化二年江戸に帰り、四谷北伊賀町の組屋敷に住む。弘化三年八月銘を正行から清麿に改める。安政元年(嘉永七年)十一月十四日四谷北伊賀町の自宅にて自刃、四十二歳。清麿の作刀は刀、脇指、短刀、薙刀、槍など多種に亙り、おそらく造りの短刀なども造っている。
  
 以上が、事実として語れる生涯の概要であって、その人物像は霧の中にかすんで見えない。したがって源清麿について語るときは、その人物の面影がおぼろげなため、どうしても彼の残した作品を中心とする解説になりがちだ。
 その不確かな人物像の輪郭をなんとかかたどるため、これまで生涯の“謎”を埋める源清麿に関する小説がたくさん書かれてきた。戦前では、1938年(昭和13)に発表された吉川英治Click!『山浦清麿』が有名だが、源清麿がまるで幕府から追及される「尊王攘夷」のアナクロニストのように描かれていて不自然きわまりない。
 清麿の刀銘は、世話になった幕臣の窪田清音と、町人(元・札差)でパトロンだった国学に造詣の深い斎藤昌麿から一字ずつもらったといわれているが、これも事実かどうかは記録がないのでさだかではなく、彼自身の思想性はまったく不明だ。戦後、まるで大河ドラマのように源清麿の生涯を劇的に描いた、1964年(昭和39)に徳間書店から出版された斎藤鈴子『刀工源清麿』があるが、小説・物語としては非常に面白く優れているものの、彼の生涯をうまくまとめすぎているような感覚をおぼえる。
 ただし、彼が幕末の新たな思想に揺さぶられ、佐久間象山(同じ信州出身)に象徴的な先端技術を吸収して欧米列強に備えようとする幕府の開国派と、尊王を中心に鎖国して外国船を打ち払おうとする薩長や水戸の攘夷派との間で、社会を見る視座がグラグラ揺れていたのではないかという描き方は、非常にリアリティを感じる側面だ。斎藤鈴子が描くように、源清麿はどこかで同郷の佐久間象山や吉田松陰(信州と萩と江戸とで両者には多々接点がある)などと出会っていたかもしれず、金属を素材に扱う専門技術者の彼は、より進歩した科学技術を学びに海外へ脱出しようとする彼らの動きへ、密かに注目していたかもしれない。
北伊賀町1850千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図.jpg
新宿歴史博物館東側.jpg
源清麿為窪田清音君.jpg
 また、1978年(昭和53)に銀河書房から出版された龍野咲人『刀匠源清麿の生涯』という小説もあるが、こちらも短編であまり深く掘り下げられた人物像は描かれていない。同書が貴重なのは、小説のほかに信州小諸へ取材したルポルタージュや、兄の山浦真雄が書いた手記『老の寝ざめ』などの資料類が収録されていることだ。
 『老の寝ざめ』の中に、兄が見ていた弟・清麿の姿が活きいきと描かれている箇所がある。若いころ、昼間は名主・山浦家の仕事に忙殺される真雄だが、夜になると弟の環(清麿)を迎え相槌(あいづち)を打たせて鍛刀していた様子が記録されている。清麿の姿をじかに記録した貴重な文章なので、同書より少し長いが引用してみよう。
  
 家にありてあまねく古今の鍛法をさぐりて、打試みける事とはなしぬ。昼は諸用の多ければ夜毎に弟也ける、清麿(当時は環)と二人して精を砕きて数多のつるぎ作立て侍るほどに、またの夜さり更たけてのち、いかに吹くともかねのわかざる事有けり。その程は父の諱信風いまそがりつる時なれば、傍より見給ひて、各(おのおの)よ、気の疲たらんと給ひけるを、かげにて母聞給ひ、もとより常ならぬ事には気がかり有性なれば、酒持出てたび給ひけり。/兄弟ほりするすじなれば、清麿是は有難し有難しと、こおどりしてよろこび父母にも進らせ、おのれらものみて、時うつりとりかゝり吹立侍りぬ。かねのわく事始には似ず、いかにも快く錬きぬるを面白くおもへ、夜のあくるも知らず鍛侍りけり。此事を考るに始めわかざりしは、夜半極陰の時なればなり、のちの錬きよろしきは明近き頃にして純陽の故なんめり。(カッコ内引用者註)
  
 鞴(ふいご)で目白(鋼)Click!を沸かし(溶解させ)折り返し鍛錬をする手順が、どうしてもうまくいかないとき、近くで見ていた父が「ふたりとも疲れたからだろう」といい、それを奥で聞いていた母親が、ひと息入れさせようと酒を工房までもってきてくれた情景だ。酒好きな弟の環(清麿)が小躍りして喜び、家族みんなで一杯やってなごんだあと、再び目白(鋼)の沸かしの作業に入ったら今度は上手にできている。
 山浦真雄は、陰陽哲学から深夜は極陰なので鋼がうまく沸かず、夜が明けはじめるころに沸かしを再開したので、周囲の気が陽気に変わっていたためうまくいったのだと記しているが、明らかに気をきかせた父母が小休止させてくれたおかげで、気分転換ができて作業がスムーズに進んだのだろう。家族団らんの中で、活きいきと喜ぶ若い源清麿の姿がある。
斎藤鈴子「刀工源清麿」1964.jpg 龍野咲人「刀匠源清麿の生涯」1978.jpg
中島宇一「清麿大鑑」2010刀剣春秋.jpg 生誕200年記念清麿展図録2013佐野美術館.jpg
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 現在、新宿歴史博物館の敷地の東側が、源清麿の工房があった北伊賀町の組屋敷跡にかかっていると思われる。刀剣美術史では、いまや鎌倉の正宗をしのぐほどに人気が高い「四谷正宗」なので、ぜひ近々「源清麿展」プロジェクトを起ち上げられてはいかがだろうか。

◆写真上:地錵(ちにえ)がついて地景がからむ澄んだ美しい地肌と、錵の激しい互(ぐ)の目に砂流しや足・葉、金筋銀筋が入る刃中の働ききわめて盛んな源清麿の刃文。
◆写真中上は、1850年(嘉永3)の尾張屋清七版「東都番町大絵図」にみる麹町9丁目の窪田清音邸。は、窪田清音のために1833年(天保4)に作刀した正行銘の脇指。
◆写真中下は、1850年(嘉永3)の尾張屋清七版「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」にみる源清麿工房があった北伊賀町御持組屋敷。は、同組屋敷跡の現状で右側が新宿歴博。は、1846年(弘化3)に窪田清音のために鍛刀した源清麿銘の太刀。
◆写真下上左は、徳間書店から出版された斎藤鈴子『刀工源清麿』(1964年)。上右は、銀河書房から出版された龍野咲人『刀匠源清麿の生涯』(1978年)。中左は、刀剣春秋から出版された代表的な美術図鑑の中島宇一『清麿大鑑』(2010年)。中右は、佐野美術館から発行された『生誕200年記念/清麿展』図録(2013年)。は、源清麿が自刃した工房から南へ700mほどの崇福寺(須賀町10番地)にある源清麿の墓()と、同寺にある水心子正秀Click!(天秀)の墓()。新々刀を代表するふたりが、新宿区の同じ寺に眠るのもなにかの因縁だろうか。ちなみに兄の山浦真雄は一時期、水心子正秀に弟子入りして江戸で鍛刀している。

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