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とんだ邪魔もの扱いの学習院と根津山。 [気になるエトセトラ]

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 1929年(昭和4)に三才社から出版された『高田の今昔』Click!には、関東大震災Click!の直前、1923年(大正12)8月に発行された読売新聞の記事がほぼそのまま収録されている。大震災の影響で、東京の市街地から郊外へまさに住民たちが“大移動”してくる直前の様子だが、当時から郊外の田園都市ブームにのって、下落合の目白文化村Click!や目黒の洗足田園都市Click!などをはじめ郊外の文化住宅があちこちに建ち並びはじめていた。
 高田町の面積は、南隣りに接する戸塚町の約1.5倍、西隣りの落合町と比べるとその70%ほどの広さだが、1929年(昭和4)現在で戸数は約8,500戸、人口は約3万5,000人に達していた。郊外住宅の人気が沸騰し、当時の町長だった吉野鎌太郎が1887年(明治20)に、雑司ヶ谷で宅地を購入したときは300坪で16円50銭、すなわち坪単価は5銭5厘だった。これが、1905年(明治38)には坪単価40銭となり、1912年(大正元)には4円を突破、1917年(大正6)には坪単価15円、1920年(大正9)以降は一気に高騰をつづけ1929年(昭和4)現在では、高田町のかなり安い宅地でも坪単価60円を超えていた。
 だが、人気の高い地域やにぎやかな通りに面した商売ができる土地は、坪単価120円以上があたりまえで、それ以下の土地を見つけるのはむずかしいほどだった。1930年(昭和5)の給与を基準に、今日の価格に換算すると1円=5,000円前後だから、宅地の坪単価60円は約30万円、人気の土地や商店街筋の坪単価120円は約60万円ということになる。今日の東京の、このあたりの地価からいえば8分の1から10分の1で安価なように感じるが、当時としてはとんでもない高騰だったのだ。
 また、土地を売らずに貸家を建てて賃貸しする、元農家だった高田町の大地主たちは64名おり、それぞれ3,000坪以上の土地を所有していた。宅地用の土地だけでも、資産は約20万円以上にもなるという。今日の資産価値に換算すれば、単純に約10億円以上ということになるが、現代の地価に照応すれば80~100億円の資産といった感覚だろうか。
 読売新聞の記者は、高田町のおもな地主たちへ直接取材して聞き書きしている。
  
 (前略) 昨日まで田畑に出て働いて居たと云ふ百姓が今日は「お大名以上」の生活をしてゐるのは事実である。町一番の地主長者大野銀八さんなんか三十町歩を領してゐるので毎月一万円以上の地代が坐つて居ても入つて来る、長島勘吉さんなんかは十町歩位より持つてゐないが目抜の場所計りなので一万円はらくに上がる、吉澤吉之助、醍醐福次郎、後藤兼五郎さんなんかは何れも七町歩位持つてゐるから先づ五千円は入り、大したものだ、こんな連中が揃つて二十名、代々町会議員に出て居て浮世を知らぬ呑気な町政をやつて平和に暮して居る、(以下略)
  
 皮肉をたっぷりこめた記事だけれど、なにもしなくても毎月1万円(約5,000万円)あるいは毎月5,000円(約2,500万円)もの現金が入ってくると聞いて、薄給な新聞記者はなんとなく自分の仕事がバカバカしくなったのではないだろうか。
 おそらく、隣接する落合町や戸塚町、長崎町でも似たような状況ではなかったかと思われる。黙っていても、膨大な現金収入が毎月あるので、やることがなくなった地主たちは「町会議員にでもなるか」ということで、町政に参画していった。それが、市街地から転居してきた新たな住民たち(こちらのほうが圧倒的な多数派だったろう)との間で、さまざまな問題や利害関係の軋轢を生じさせることになったのだろう。
 以前にも、こちらでご紹介した戸塚町議会の流血騒ぎClick!や、高田町議会における「斬ってやる!」の町長SP護衛騒ぎClick!も、おそらく根の深いところで旧住民と新住民との対立に根ざしているのではないかと想像することができる。少し前にご紹介した、妙なことに「町誌」Click!を2年つづけて出版したり、町役場Click!をめぐる妙ないいわけがましい文章やリーフレットなどを配布している長崎町のケースもまた、同様だったのではないか。
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 さて、この読売の記事中に、高田町でたいへん邪魔で迷惑あつかいされているのが、東京市雑司ヶ谷墓地と華族たちの学習院、そして根津山などだったことが、当時の“町の声”として拾われている。雑司ヶ谷墓地Click!は、東京市が勝手に公立墓域を設定して買収し、大規模な墓地を建設してしまったという意識が強かったろうし、学習院Click!は宮内省が有無をいわさず土地を買収し、どうしても立ち退かない農家には強制執行を実施して無理やり土地を取りあげたというような記憶が、いまだ色濃く残っていた時代だ。また、根津山Click!にいたっては、開発するでもなく武蔵野の森や草原をそのままにし、町の安全や治安のうえからも放置しているのは「けしからん」という意識が強かったのだろう。
 当時の町民もそうだが、町の有力者たちにいたっては、それらが高田町の開発や発展を阻害する邪魔な存在として映っていたようだ。特に、面積が広い学習院と雑司ヶ谷墓地はヤリ玉に挙げられている。この記事を受け、『高田の今昔』を執筆した江副廣忠は、1929年(昭和4)4月21日現在で「邪魔もの」扱いされていた、これらの敷地面積の実際を調べている。
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 現在では、一部が南池袋公園として残る開発されつくした根津山を除き、他の3ヶ所は目白・雑司ヶ谷地域を代表するメルクマールであり名所・旧蹟となっているが、郊外住宅地として急速な発展をとげようとしていた昭和初期には、周囲から迷惑がられ邪魔ものと見られていたのが面白い。文章の最後で、「発展途上にある高田町、近き将来に大東京に編入せられんとする高田町に、勿体なき土地ならずや」などと書かれていたりする。
 でも、今日的な視点から見れば、根津山が緑地帯として保存されなかったのはしごく残念だし、雑司ヶ谷墓地や学習院のキャンパス、法明寺の境内は緑濃いグリーンベルトを形成して、都心に比べ周辺地域の極端な気温上昇をなんとかセーブしてくれている、地域の貴重な緑の社会リソースとして機能しているように映る。
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 『高田の今昔』の著者・江副廣忠も、町内をあちこち取材してまわって住民たちから聞き書きしているせいか、特に学習院の存在には批判的だ。同書の町政紹介に関連した「教育」の項目では、学習院について以下のような解説を書いている。
  
 皇室より殊遇を受け恩賜金を賜る学習院は、大体に於て華族の子弟を入学せしむる所なるも、募集人員に不足を告ぐる時は、補充として士、民の子弟も募集入学せしむることあり、前掲の如き膨大なる土地と無大なる費用を投じて、所謂特権階級とか称するものゝ子弟を教育しつゝあるが、今日各種学校の設備整へる時に於て、特別に教育する必要なる科目あるものにや、此の学校に縁遠き者には、内部を知るの必要もなからんか。
  
 この文章からわずか16年後、大日本帝国は無謀な戦争を起こしたあげく国家が滅亡するという、日本史上でも未曽有な「亡国」状況を招来したことで、「特権階級」の学習院も必然的に解体され、江副廣忠の不満もスッキリ解消されることになる。
 そして、江副廣忠は「高田町行政」のしめくくりとして次のように書いている。
  
 広豪二十二町余の面積を有する学習院、七町四段の根津山、十町歩の東京市墓地、此の合計三十九町四段、此の坪数約十一万八千六百八十坪、此の坪数の土地が仮りに開放せられて、一戸建平均三十坪とする時は三千九百五十六戸の土地に相当す、特に根津山の如きは現在のまゝ幾十年放任せられ、荊棘徒らに長じ口即(口偏に即)々たる虫声の叢裸に感傷的哀音を発するを聞くのみ、(カッコ内引用者註)
  
 著者は、一戸建てを30坪と仮定して計算しているけれど、当時、この一帯の住宅敷地からいえばあまりに敷地が狭すぎる。著者は、市街地から雑司ヶ谷へ転居してきているようなので、東京市内では一戸建て30坪が特に不自然には感じられなかったのだろう。
法明寺山門.JPG
法明寺墓地.JPG
根津山跡南池袋公園.JPG
 現在の視点からみれば、雑司ヶ谷墓地や学習院キャンパスが追いだされず、消滅しなくてよかったということになるが、関東大震災後の当時は東京市の住宅不足が深刻な状況であり、東京35区時代Click!へ向かう直前ということで、高田町民たちにはこれらのスペースが「勿体なき土地」と感じられていたのだろう。別にこれらの土地や施設がなくなっても、いまだあちこちに森や林など緑が数多く残っていた時代のことだ。いま、これらの土地を再開発しようなどという声が起きたら、さっそく反対運動の嵐にみまわれるにちがいない。

◆写真上:目白通りの正門から見た、学習院大学キャンパスの森。
◆写真中上は、学習院キャンパスの溜池(のち血洗池)。は、キャンパスの中で目白崖線沿いに通う尾根道。は、明治期に打たれた学習院縄張り(敷地境界)の花崗岩杭石。
◆写真中下は、こちらも緑が濃い雑司ヶ谷墓地。は、鬼子母神の大イチョウ。
◆写真下は、威光山法明寺の山門。は、ケヤキの大木が多い法明寺の墓地。は、根津山の一部跡地にできたケヤキの植樹が多い南池袋公園。

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