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諏訪根自子の印税を横領した近衛秀麿。 [気になる下落合]

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 親の世代が意識していた女性ヴァイオリニストといったら、まず諏訪根自子と巌本真理Click!だろうか。前者は、今日のようにいまだ音楽の英才教育プログラムが存在しなかった時代に出現した、日本初の「ヴァイオリンの天才少女」の嚆矢だし、そのあとを追うように5歳年下の少女だった巌本真理が登場している。ちなみに、ふたりはロシアの亡命ヴァイオリニスト・小野アンナの弟子で同門だったが、諏訪根自子がヨーロッパへ旅経ったあと巌本真理が入門しているので、戦前のふたりに接点はなかった。
 拙サイトでは、向田邦子Click!による空襲がらみのインタビューで巌本真理Click!のほうは何度か取りあげているが、諏訪根自子についてはいままで触れていなかった。巌本真理は王子電気軌道Click!の巣鴨庚申塚に住んでいたが、諏訪根自子は下落合のすぐ東隣り、川村学園の裏にあたる高田町大原1649番地(のち目白町2丁目1648番地/現・目白2丁目)に1923年(大正12)から住んでいた。以前ご紹介した柳家小さん邸Click!から、北北西へ直線距離でわずか40m余のところだ。山手線・目白駅へも、同様に約200mと非常に近く、地元の人たちも彼女の自宅は鮮明に記憶している。
 そして、東京市が35区制Click!へと移行した翌年の1933年(昭和8)、住所が高田町大原1649番地から目白町2丁目1648番地へと変わって間もなく、母と娘たちは父親にあいそをつかしてこの家を出ている。新聞では「諏訪根自子が家出」とセンセーショナルに騒がれたが父母の離婚がらみの別居騒動で、母と娘たちは代々木上原の借家へ転居している。3年後、1936年(昭和11)に諏訪根自子はヨーロッパへ向けて出発し、第二次世界大戦が終わって1946年(昭和21)に帰国するまで、彼女が活躍した舞台はヨーロッパだった。
 つまり、マスコミが「ヴァイオリンの天才少女」と書きたて、日本の音楽界や日本駐在の欧州各国の大使、来日した欧米の高名なヴァイオリニストたちが演奏を聞いて高く評価するなど、彼女に注目が集まって大騒ぎになっていた時代が、まさに高田町時代(のち目白町時代)だったのだ。もちろん、諏訪根自子の名前は全国に知れわたっていたので、当時は日本でもっとも有名な最年少ヴァイオリニストだったろう。下落合に住んでいた近衛秀麿Click!も、早くから彼女の演奏に注目していたかもしれない。
 高田町1649番地の諏訪家について、すぐ近くに住み高田町四ッ谷(四ッ家)Click!の高田郵便局に勤務していた人物の証言が残されている。音楽評論家の野村光一が、当の郵便局員から直接聞いた話で、1974年(昭和49)に発行された「ステレオ芸術」の座談会で明らかにされた事実だ。その様子を、2013年(平成25)にアルファベータから出版された萩谷由喜子『諏訪根自子』より、孫引き引用してみよう。
  
 その郵便局員の人が言うにはね、「私は今、目白の国鉄停車場近くの川村学院の横にある路地の奥のほうに住んでいて、いつもその路地を通って郵便局に通っているんだけど、途中の一軒の家からとてもすばらしいヴァイオリンの音が毎日流れてくる。そこである時、その家へ入って、いったい誰が弾いているんですか、と尋ねたら、その家の娘さんだという。諏訪さんという家なんだけど、その家はひどい小さなボロ家で、主人は尾羽打ち枯らしている。弾いている二分の一のヴァイオリンはひび割れがしているのに絆創膏が貼ってあるような代物で、先生は小野アンナさんだそうだけど、このところ停滞しているようで気になってしょうがない。あれだけの才能がある人はちょっといないのじゃないかと思うので、是非一度聴いてくれ」っていうんだよ。その人はとってもクラシックが好きなんだそうだけど、ずいぶん御節介な話でしたね。
  
 野村光一にしてみれば面倒な依頼だったが、実際に目白駅で降りて少女の家を訪ねボロボロのヴァイオリンが奏でるサラサーテを聴いたとたん、度肝を抜かれてしまった。耳の肥えた彼が聴いても、その演奏は少女とは思えない高度なレベルに達していたからだ。
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 諏訪根自子の英才教育は、母親の諏訪瀧(たき)によって施されたものだった。同書によれば、起床は毎朝午前6時で登校する前からヴァイオリンの練習をしていた。彼女が通った小学校は、4年生の1学期までが高田第三尋常小学校(現・高南小学校)で、卒業までは開校したばかりの高田第五尋常小学校(現・目白小学校Click!)だった。母親は学校と交渉し、午前中に授業を1~2時限受けたあと早退させ、昼食までヴァイオリンの練習をさせたのち、1時間の午睡のあと小日向にあった小野アンナの教室へ通わせている。レッスンが終って帰宅すると、夕食までは練習の時間で、食後の午後7時になると就寝という生活だった。ヴァイオリンの練習が、イヤでイヤでしかたがなかった少女時代の巌本真理に比べ、諏訪根自子はレッスンがかなり好きだったふしが見える。
 野村光一との出会いがきっかけで、3歳から通っていた小野アンナのレッスンにつづき、彼の紹介で革命ロシアから日本に亡命していたヴァイオリニスト、アレクサンダー・モギレフスキーに師事することになった。1930年(昭和5)のことで、彼女が10歳のときだった。また、この年は来日したエフレム・ジンバリストを小野アンナとともに帝国ホテルClick!に訪ね、その演奏を絶賛されている。このころから、新聞でも諏訪根自子のことが報道されはじめ、その名は全国的に知られるようになった。
 親の世代ならともかく、わたしの世代は1980~90年代にかけ、キングレコードから20~30年ぶりにバッハやベートーヴェンの新譜がつづけてプレスされていたにもかかわらず、諏訪根自子の名前はあまりピンとこない。巌本真理のほうが、まだ戦前戦後を通じて絶え間なく活躍していたせいか、わたしでも名前やその演奏を知っているが、残念ながら諏訪根自子の影はすでに「伝説のヴァイオリニスト」化していて薄かった。
 だが、「ヴァイオリンの天才少女」というショルダーで呼ばれたのは、諏訪根自子が日本で初めてだったし、事実、彼女の演奏は高度なテクニックとともに正確無比で、透きとおるような調べを奏でるのが得意だった。諏訪根自子と対比されることが多かった巌本真理は、よく「情熱的」などと書かれエモーショナルでキラキラするような演奏の個性が光っていたが、諏訪根自子はどこまでも端正かつクールできっちりとした几帳面な表現が持ち味だったのではないかと、その演奏を聴くたびに感じている。
 これは当時のリスナーでも、好みがきれいに分かれたのではないだろうか。1980~90年代のたとえでいえば、当時は大人気だったマーラー・チクルスの録音で、うねるような弦楽器が艶やかでビロードのようなバーンスタイン=ウィーンpoが好きという人と、管楽器が華やかでキラキラと美しく光輝くようなショルティ=シカゴsoが好きという人に分かれたように(オーディオClick!好きはワンポイントマイクのインバル=フランクフルト放送soが多かった)、演奏やサウンドの好みで根自子派と真理派へきれいに分かれていたような気がする。(もっとも、男子の中には容姿で好みを分けていた人がいたかもしれないが/爆!)
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 諏訪根自子が徳川義親Click!山田耕筰Click!有島生馬Click!近衛文麿Click!などの後援を得てヨーロッパへ留学する以前に、彼女は1933年(昭和8)から1935年(昭和10)までの3回にわたり、日本コロムビアへ演奏を録音している。特に後半の録音は、日本に残す離婚をした母親と妹の生活を少しでも安定させる目的があった。当時はSP盤で短い曲ばかりの都合45曲だが、諏訪根自子から家族の生活に関する心配を聞き、レコーディングを勧めたのは近衛秀麿だった。戦後、彼女は留守中の家族への印税支払いを近衛秀麿に依頼したのが、そもそもの大まちがいだったことに気づくことになる。同書より、再び引用してみよう。
  
 近衛の話では、レコードの印税は根自子の渡欧中に瀧たち留守家族に入るから、安心して旅立つように、とのこと。十五歳の少女とはいえ、幼いときから母親の苦労をみてきた根自子は、自分の留守中の家族に少しでも楽をさせてやりたいという思いから、この録音話を引き受けたのである。録音は無事に終わってレコードも発売され、根自子は自分の留学中、印税が当然、瀧の手に渡るものと思って安心して旅立った。/ところが、戦後になって、瀧の懐には一銭も入っていなかったことが判明する。それを知った根自子の怒りと悲しみは大きく、近衛にただしてみようと思い悩んだがそれもできずに、結局はうやむやになってしまった。/ちょうどレコーディングの年、昭和十年(一九三五年)は、近衛が実質的オーナーであった新響に内紛が生じた年で、彼は深刻な経済苦境に陥っていた。どういう性格の金であれ、いったん自分のもとに流れてきた金はすべて自分の音楽事業に投じても、それはなんらやましいことではない、といった鷹揚とも不遜ともとれる金銭感覚が名門出の彼にはあったようだ。
  
 端的にいえば、年端もいかない少女を騙してカネをまきあげた近衛秀麿の詐欺事件であって、彼が「名門」だろうが「労働者」だろうが、刑事事件での詐欺罪に問われるべき事案だろう。敗戦後のどさくさと、諏訪根自子の自制とで表沙汰になることはなかった。近衛秀麿は平然と、戦後も何度か彼女と共演さえしている。
 諏訪根自子が戦前のSP盤用に録音した、近衛秀麿による印税ネコババの全曲目は、現在、日本コロムビアからリリースされているアルバム『諏訪根自子の芸術 Early recordings 1933-1935』(2013年)で聴くことができる。1933年(昭和8)録音のスローテンポの曲にはいまだ不安定さがかなり残るが、アップテンポの曲では破綻がほとんどみられず、当時の人々が驚嘆した演奏が繰り広げられている。1年おきの録音ごとに、技量へ磨きがかかっているのが明らかで、彼女の12歳から14歳までの成長の軌跡をもれなく聴くことができる。
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 諏訪根自子は1960年(昭和35)以降、コンサートもレコーディングもやめてしまい、結婚生活に入るとともに沈黙をつづけることになるが、70年代後半から少しずつ小規模ながら演奏活動を再開している。1981年(昭和56)11月、ヴァイオリン曲の最高峰といわれている『バッハ/無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全曲』(キングレード)がLP3枚組で突然リリースされると、音楽界やクラシックファンたちを再び驚嘆させることになる。それは、結婚生活でもたゆまぬ練習をつづけていたせいか、彼女の技術も演奏もまったく衰えてはおらず、むしろ進化していたせいなのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:ヨーロッパで活躍中の、諏訪根自子をとらえたポートレートのアップ。
◆写真中上は、高田町大原1649番地(1932年10月より目白町2丁目1648番地)にあった諏訪根自子邸跡の現状。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同所で、すでに「小さなボロ家」などと書かれた借家は建て替えられているのかもしれない。は、諏訪根自子のブロマイドで当時の男子学生には圧倒的な人気だった。
◆写真中下は、演奏する少女時代の諏訪根自子。中左は、2013年(平成25)リリースの『諏訪根自子の芸術』(日本コロムビア)。中右は、デビューしたての諏訪根自子。は、冒頭の写真と同時期に撮影されたヨーロッパでの諏訪根自子で、クナッパーツブッシュClick!指揮のベルリンpoやワイスバッハ指揮のウィーンpoなどとも共演している。
◆写真下上左は、2013年(平成25)に出版された萩谷由喜子『諏訪根自子』(アルファベータ)。上右は、ヨーロッパの諏訪根自子コンサートをとらえたワンショット。は、1957年(昭和32)にニッポン放送開局65周年記念で行われた伝説のコンサートの様子。この日はバッハの作品が演奏されたが第1ヴァイオリンに諏訪根自子、第2ヴァイオリンに巌本真理、指揮が斎藤秀雄と信じられない顔ぶれが並んでいる。は、下落合1丁目436番地(現・下落合3丁目)にあった近衛秀麿邸跡の現状で、諏訪根自子邸から直線距離で490mほどの距離だ。

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大江賢次をかわいがった片岡鉄兵夫妻。 [気になる下落合]

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 落合地域に住んだ、大江賢次Click!の想い出エッセイが面白い。なぜ面白いのかというと、書きたいことの趣旨とは別に、その周辺のコト細かなディテールまで描写するので、これまでわからなかった作家の家の様子や間取り、家具調度にいたるまで目な見えるように浮かびあがってくる。おそらく、観察眼に優れた人物だったのだろう。
 大江賢次は、これまで拙サイトの記事のいくつかに登場しており、自分で書いてていうのもおかしいが、いちばん印象に残っているのは、神戸時代から知り合いの片岡鉄兵Click!を頼って東京にやってきた小坂多喜子Click!が、下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)の第二文化村Click!にあった片岡元彌邸Click!を訪ねたときの情景だ。この時期、片岡鉄兵は葛ヶ谷15番地(現・西落合1丁目)の自宅から、日本毛織株式会社(現・ニッケ)の工場長だった姻戚の片岡邸の一部を借りて、葛ヶ谷115番地(のち西落合1丁目115番地)に建設中だった自邸の竣工を待っていた時期だ。
 小坂多喜子Click!がカネを借りに訪ねると、あいにく片岡鉄兵は講演旅行で留守にしており、なぜか大江賢次と片岡夫人のふたりが応対に出ている。大江賢次は、1930年(昭和5)ごろから片岡鉄兵邸に寄宿しており、片岡元彌邸は大きな西洋館だったので、大江賢次は奥に訪問者を取り次ぐ玄関番の書生のようなことをしながら、落合地域で住む家を探していた。つまり、片岡鉄兵夫妻も大江賢次も、片岡元彌邸で“仮住まい”をしていたことになる。小坂多喜子もまた、上落合の神近市子邸Click!にとりあえず寄宿している身だった。
 大江賢次が家庭内のさまざまな雑用をこなす、玄関番の書生のような仕事に通じていたのは、武者小路実篤邸Click!(小岩時代)での数年にわたる書生経験があったからだろう。したがって、作家の家庭事情や訪問客への応接、出版社などへのとどけものなど、まるで作家の秘書のような仕事には慣れていた。武者小路邸では、志賀直哉Click!岸田劉生Click!芥川龍之介Click!里見弴Click!菊池寛Click!河野通勢Click!、岩波茂雄、久米正雄Click!梅原龍三郎Click!などの来客に応対していた。特に印象に残っているのは、日本画のたしなみがあった若い武者小路夫人に対し、「個性がないから、いくらうわべが美しくてもほめるわけにはいかぬ」と批判した岸田劉生だったようだ。
 岸田劉生もそうだったようだが、大江賢次は若い武者小路夫人との反りが合わず、また夫人と真杉静枝Click!との間のゴタゴタや、武者小路自身が文章に書いているトルストイ主義の思想と、日々の生活で実践していることとがあまりにもかけ離れていてイヤになったころ、夫人から女中とイチャついたという理由でクビをいいわたされている。
 大江賢次が片岡邸へ寄宿していたころは、駆けだしの小説家としてなんとか名前の知られていたころのことであり、片岡鉄兵は彼に初めて会ったとき、その処女作をいい当てている。ほどなく、葛ヶ谷115番地の新居が完成して片岡夫妻はそちらへ引っ越したが、大江賢次はいまだ住まいが決まらず困窮していて途方に暮れた。そのときの様子を、1974年(昭和49)に牧野出版から500部限定で出版された、大江賢次『故旧回想』から引用してみよう。
  
 いまの新宿区西落合、むかしは葛ガ谷(ママ)という西武線中井駅から二十分、丘の上に新婚まもなく新築、下は応接間がひろく、食堂と台所と風呂場のすべてが洋式で、二階六畳が和室の寝室と書斎であった。(中略) じっさい、もし片岡さんにめぐり会わなかったら、私はどうなっていたろうか。いや片岡さんが、どんなに私をよくして下さろうとも、光枝夫人のおおどかな才量(ママ)がなかったら、一年半にわたる三度の食事を供してもらえなかったろう。/「きみ、そんならうちの近くに住んで、うちでめしを食べ給え。ねえ光枝」/「ええ、大したご馳走はないけど、よろしかったらいつでも」/いくらなにがなんでも、あまりに虫がよすぎた。夫人は心中でいやな青年と思われたろうが、あまりに爛漫なことばについ甘え、いわば溺れる者が藁をつかんだ形であった。
  
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 片岡鉄兵の光枝夫人は、旧姓も「片岡」であり実家は下落合にあった。姓は片岡光枝のまま結婚したわけだが、下落合(4丁目)2108番地にあった吉屋信子邸Click!まで100mほどのところに実家があったということから、東京土地住宅Click!によるアビラ村開発Click!に関連して、市街地から下落合へ転居してきた家なのかもしれない。
 片岡光枝は、お茶の水の女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業したあと、しばらく長崎や横浜で教師をしていて片岡鉄兵と知りあっている。大江賢次は彼女を姉のように慕っており、光枝夫人もアゴの出た駆けだしの小説家である彼を弟のように面倒をみて、のちに大江は彼女の教え子のひとりだった女性と結婚している。ほかにも、光枝夫人からは片岡鉄兵がもう着なくなった洋服類や、執筆に使わなくなったウォーターマンの万年筆、かなり貴重だったとみられるウォルサーの懐中時計などをもらった。
 片岡鉄兵の人あたりがいいのは、落合地域に住んでいた多くの人々が証言しているが、新感覚派から突然プロレタリア文学へと走り、のちに転向して流行風俗小説のような作品を書くようになって「日和見主義者」と罵倒されながらも、彼の評判を決定的に悪くしなかった(戦後の中野重治でさえ彼をかばっている)のは、尾崎一雄Click!のようなケースはまれだったとしても、四方へ細やかな気を配る光枝夫人の頭のよさと、夫を支援する力にあずかるところが大きかったのかもしれない。
 さて、片岡夫妻の新居に寄宿するわけにはいかない大江賢次は、朝昼晩の食事を片岡邸でとるために、近くに家を借りる必要があった。そこで見つけてきたのが、格安の巡査駐在所の空き家だった。同書から、つづけて引用してみよう。
  
 (片岡邸から)五十米ほど離れたところに、巡査の駐在所の空家があって、六、四半に便所と台所がついて月十円、しかも裏庭が三十坪もあった。ばかに安いと思ったが、のちに隣のおかみさんの話だと、巡査が首をくくって死んだ由、その後住んだ人たちにろくなことがないそうだ。私はへいちゃらであった。めしの種の片岡邸が近く、臆面もなく毎日通って食欲をみたした。朝はパンとコーヒー、昼は和洋どちらか、夕食は和食で、朝などは徹夜の片岡さんはまだ寝ていて、女中さんと二人だけが多かった。(カッコ内引用者註)
  
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 葛ヶ谷115番地(のち西落合1丁目115/現・西落合3丁目)の片岡邸から、50mほど離れたところにあった駐在所の空き家とは、おそらく葛ヶ谷駐在所に付随する建物のことだろう。同地番から、新青梅街道をわたって60mほどの斜向かい、自性院の北隣りにあたる敷地に同駐在所は建っていた。同駐在所は、新青梅街道沿いに西へ270mほど移動し、西落合交番と名を変えて現存している。昭和初期の1円は、当時の給与額から換算すると5,000円前後の価値なので、5万円前後でけっこうな1軒家が借りられたことになる。幽霊などまったく気にならない彼にしてみれば、願ってもない物件だった。
 大江賢次は葛ヶ谷の片岡邸で、あるいは片岡鉄兵を通じて、新感覚派の横光利一Click!川端康成Click!中河與一Click!、またプロレタリア文学の小林多喜二Click!をはじめ、立野信之Click!山田清三郎Click!村山知義Click!蔵原惟人Click!壺井繁治Click!江口渙Click!中野重治Click!上野壮夫Click!佐々木孝丸Click!杉本良吉Click!柳瀬正夢Click!窪川鶴次郎Click!窪川稲子(佐多稲子)Click!たちと知りあい親しくなっていく。そのほとんどが、落合地域とその周辺の住民たちだった。
 1930年(昭和5)の改造社文学賞に、大江賢次の『シベリヤ』が2等で入選したとき、片岡夫妻は自分たちのことのように喜んだ。光枝夫人は、タイの尾頭つきで入選を祝ってくれたらしい。ちなみに、このときの1等はパリで佐伯祐三Click!とも交流があった、芹沢光治良Click!の『ブルジョア』だった。そして、芹沢光治良もまた村山知義アトリエClick!のすぐ西側、上落合206番地に住んでいた。
 1930年(昭和5)の「改造」5月号に、『シベリヤ』はXXXの伏字だらけで掲載されたが、同時に掲載された小説には小林多喜二の『工場細胞』、川端康成の『鬼熊の死と踊子』、野上彌生子の『彼女と春』などがあった。そうそうたる書き手といっしょに並べられた自分の作品を見て、「華かな初舞台で立ちすくむ想いだった」と述懐している。
 1933年(昭和8)の初めごろ、大江賢次はようやく気に入った上落合732番地の借家へ転居している。そこから、わざわざ片岡家へご馳走になりにいくのは、さすがに厚かましくてはばかられ、中井駅前の食堂で昼夜の食事(朝食は片岡邸のパンとコーヒー)は済ませていた。近くの辻山医院Click!で開かれていた文学サークルClick!などにも顔をだし、出された菓子やお茶などを食事代わりにして済ませていたのだろう。また、彼もご多分にもれず、中井駅前に開店していた萩原稲子Click!ママのいる喫茶店「ワゴン」Click!の常連になっていた。
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 ある日の夜更け、大江賢次の家の戸をコツコツたたく音がした。不審に思いながら出てみると、片岡鉄兵といっしょに見慣れぬ男が立っていた。「小林です。よろしく」と男は挨拶した。地下に潜行中の小林多喜二Click!との出会いの瞬間だが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:大江賢次が1930年(昭和5)ごろの一時期に住んでいた、新青梅街道沿いにあった葛ヶ谷43番地(のち西落合1丁目37番地)の葛ヶ谷駐在所跡。
◆写真中上は、片岡鉄兵・光枝夫妻が最初に家を建てた第二文化村の北側にあたる葛ヶ谷15番地の邸跡(道路左手)。は、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」にみる片岡鉄兵邸と葛ヶ谷駐在所の位置関係。葛ヶ谷は1932年(昭和7)の地番変更前で、西落合1丁目115番地は地図中の葛ヶ谷70番地に相当する。
◆写真中下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる片岡鉄兵邸と葛ヶ谷駐在所。駐在所の建物の左下に見えている小さな1軒家が、大江賢次の一時住んでいた「わけあり物件」だろうか。は、落合地域では二度目の自邸建設となった西落合1丁目115番地の片岡邸界隈。は、大江賢次『自著回顧』の自筆原稿。
◆写真下は、1974年(昭和49)に牧野出版から500部限定で刊行された大江賢次『故旧回想』()と著者()。下左は、大江賢次というともっともポピュラーなのはこれだろうか、1958年(昭和33)に新制社から出版された『絶唱』。下右は、出版と同時に日活で映画化された『絶唱』(1958年)。その後、同作は人気キャストで繰り返し映画化された。

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既視感のある別荘地・大磯の古写真。(下) [気になるエトセトラ]

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 前回の記事Click!では、おおよそ大磯の成り立ちと東京から見た“立ち位置”についておおざっぱに書いたけれど、今回は見つけた古写真をもとに、わたしが実際に子どものころから目にし、記憶している光景を中心に書いてみたいと思う。まず、平塚の海辺から何度この橋をわたって、祖父Click!や親とともに、あるいは友人たちとこの橋をわたったろうか。花水川に架かる、懐かしい木製の下花水橋だ。
 写真は、わたしが生まれる前の1955年(昭和30)に撮影されたものだが、同年すぎに一度補修工事が行われているものの、わたしがもの心つくころから目にしてきたのがこの橋だった。ときに歩いて、小学生になってからは自転車でよくわたったのを憶えている。花水橋を西へわたると、ほどなく大磯町へと入る。わたしが子どものころ、この汚れた川ではうなぎが釣れたせいか(いまではもっと釣れるだろうか)、釣り人の姿をときどき見かけた。大磯を散歩するとき、必ずわたる橋が下花水橋だった。
 わたしが小学生から中学生にかけ、ボーイスカウトClick!に入っていたときは、毎年1月1日の午前3時30分に起床し、近くの公民館へ数人の班ごとに集合したあと、徒歩で、あるいは自転車で下花水橋をわたり高来(たかく)神社へたどり着くと、そこから高麗山を登りはじめて湘南平(千畳敷山)まで尾根伝いに山道を歩いた。湘南平の山頂で、初日の出を迎えるのがキマリになっていたわけだが(ほんとに迷惑なキマリだったが)、もちろん山道は真っ暗なので懐中電灯で方向を確かめながら歩くことになる。
 ほとんど肝試しの世界だが、集合場所から山の麓にある高来社までが3kmの夜道、同社から延々と真っ暗なつづら折りの山道を進むこと(途中から上下の尾根道もあるので)およそ3km弱ほどだ。平地の夜道はともかく、高来社から湘南平までの山道はなにも見えない真っ暗闇で、いまから考えれば厳寒の中、よく崖地などで滑落事故などが起きなかったものだと感心してしまう。当時は、小学生だけが数人で湘南平をめざして登っていったが、現代では親たちが心配して保護者同伴でなければ許さないだろう。転落して負傷しそうな、あるいは足を滑らせて落下しそうな崖地や急斜面が何箇所かある山道だった。
 湘南平の山頂へまだ暗いうちに到着すると、初日の出を待つことになる。日の出を迎えるころには、バラバラに出発したスカウトたちがいつの間にか山頂に集合しており、当時は残っていたB29Click!迎撃用に造られた高射砲陣地Click!のコンクリート台座へ全隊員が上って、初日の出に3本指で敬礼する。わたしの記憶では、曇って初日の出が見えなかったのが二度あったが、あとは快晴でよく見えた。雨天の場合は中止だが、残念ながら大晦日に雨が降ったことは(懸命な祈りにもかかわらずw)、ただの一度もなかった。
 ちなみに、湘南平の山頂に設置された対空砲火用の12.7センチ高角砲だが、大磯町は山の下を低空で侵入する戦闘爆撃機の機銃掃射が主体で、山の上の高射砲は1発も撃てなかったと子どものころ古老から聞いた。それでも、平塚空襲Click!の際にはB29の編隊へ向けて何発か撃っているのだろうか。隣りの二宮駅前に銅像があるが、大磯や二宮の機銃掃射で両親を失った子の物語「ガラスのうさぎ」は、いまでも読み継がれている反戦童話だ。
 ボーイスカウトの隊員たちが初日の出に敬礼している背後には、湘南平の山頂へ1958年(昭和33)に建設されたレストハウスのガラスがピンク色に光って見えた。このレストハウスには親とともに、あるいは友だちとともに何度きたかわからない。わたしはいつも、カレーライスとかき氷、冬場はコーラかクリームソーダを頼んでいた記憶がある。近年、レストハウスも建て替えられたが、リニューアル後もうちの小さな子どもたちを連れて、昆虫採集と海水浴がてら相変わらず何度か訪れている。
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 大磯を訪れるとき、定宿にしていたのが1898年(明治31)創業の老舗・大内館だ。大正期に建てられたままの旅館時代から、リニューアル後のきれいな3階建て旅館時代まで、こちらも何度訪れたか数えきれない。最近では、4年前にお世話になった。いまでは、蔵だけを残してすっかり現代的な建物になったけれど(蔵は珈琲専門店になっている)、大正期の建物だったころの大内館の印象は強烈だった。
 子ども心にはお化けが出そうな旅館であり、1990年前後の建て替え直前には、そこかしこに展示してある同館へ逗留していた作家たちの揮毫や色紙に惹かれた憶えがある。島崎藤村Click!川端康成Click!大岡昇平Click!三島由紀夫Click!、坂西志保……などなど、たくさんの揮毫や色紙が飾ってあっただろうか。もちろん、島崎藤村や大岡昇平は大磯に自邸があったのだが、執筆に集中する際には大内館を利用していたのだろう。そういえば、三岸節子Click!が大磯にアトリエClick!を建設する際、現地の拠点にしていたのも同館だった。
 大内館から、国道1号線を100mほど西南側へ歩いたところにあった旅館で、同志社の新島襄が急死している。妻の新島八重Click!が、会津戦争で世話になった松本順を訪ね、別荘敷地を購入した可能性の高いことはすでに書いたとおりだ。
 さて、大磯にきたらなにはさておき、日本初の海水浴場で泳ぐことだ。現在は、大磯港ができたせいで照ヶ崎海岸と北浜海岸が分断されているが、わたしが子どものころは突堤があるだけで、砂浜は小淘綾(こゆるぎ)の浜までつづいて見わたせた。大正末に撮影された、照ヶ崎海岸へ下るだらだら坂の写真を見ると、西湘バイパスの高架が存在しないだけで、わたしの子どものころの情景とさほど変わらない。避暑のため大磯に滞在した佐伯祐三Click!家族たちClick!も、この情景を実際に見ているのだろう。
 この坂下には、海岸線の手前に昭和初期にオープンした照ヶ崎海岸プールがある。わたしが子どものころは、ずいぶん古めかしいプールだったので、昭和初期と大差ない施設だったのだろう。リニューアル後は、見ちがえるほど明るくきれいなプールになり、うちの子どもたちはここで20回以上は泳いでいるだろう。なぜ海水浴場で泳がないのか訊くと、海の水は目に沁みるからとのごもっともな理由で、せっかく元祖・海水浴場にきているのにプールへ入る回数のほうが多かったような気がする。照ヶ崎海岸プールの背景にクロマツの林でもつづいていれば、もっと相模湾らしい風情が出るのだろうが、西湘バイパスの建設で防砂林はほとんど伐られてしまった。
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 海水浴や山登りに飽きると、なにか物語のある史蹟めぐりがしたくなるのは、いまも子どものころも変わらない。大磯の海岸から丘陵地帯は古墳の巣のようなもので、大昔(旧石器時代Click!)から住みやすい土地として地域の人々には認識されていたようだ。また、一時期は相模国府が大磯にあり、奈良期から江戸期にいたるまでの史跡も多い。
 わたしの好みでチョイスすると、鎌倉初期に「絶世の美女」とうたわれた遊女の虎御前は大磯で暮らしており、いまでも旧・東海道の化粧坂(けわいざか)には、彼女が化粧したといわれる古井戸が残っている。『吾妻鏡』にも、曽我兄弟のエピソードとともに年紀入りで紹介され、墓所も存在することから実在した女性といわれている。明治末に撮られた化粧坂の写真を見ると、現代とあまり変わらないのにも驚く。地元の方々が、風情を後世に残していくために気を配っているのだろう。
 また、西行が立ち寄り「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」と三夕の歌のひとつを詠んだことで知られる鴫立沢(しぎたっさわ)には、江戸期に日本三大俳諧道場のひとつ鴫立庵Click!(でんりゅうあん/しぎたつあん)が建立されている。江戸初期に小田原の俳人・崇雪が鴫立沢と鴫立庵を訪れ、大磯から眺める相模湾の風光明媚さをめでて、「著盡湘南清絶地」と揮毫して碑文に刻まれた。
 以来、大磯を中心に「湘南」という愛称が東西の海岸線沿いに、おもに大正期を通じて徐々に拡がりはじめている。大正期に「湘南」呼称が、「馬入川から小田原あたりまで」と規定され急に西へ伸びたのは、箱根土地Click!堤康次郎Click!が東海道線の電化をにらんで開発していた、国府津の別荘地開発と無縁ではないだろう。下落合の「不動谷」ケースClick!と、まったく同じ経緯を大磯でも強く感じる。彼の起業時には妻の実家がある下落合にあった堤邸だが、現在では大磯の国府本郷にある。わたしの子どものころ鎌倉を「湘南」に含めると、大磯よりも街の歴史が古い生粋の鎌倉人Click!たちは(おそらく現在も変わらない)、「ここは湘南なんかじゃない!」と青筋を立てたものだ。
 昭和初期に、鴫立庵の西行堂(円位堂)をとらえた写真が残っている。手前に4歳ぐらいの男の子が立っているが、その服装から別荘へ遊びにきている東京か横浜あたりの子どもだろう。西行堂をはじめ茅葺きのままの鴫立庵は、わたしが子どものころの情景とほとんど変わらない。変わった点といえば、下水道が整備されてきたのか、庵を流れる鴫立沢からドブの臭いが消えたことだろうか。ちなみに、松本順の墓碑はこの鴫立沢の中にある。また、坂田山心中Click!の比翼塚も、いまでは大磯駅裏の坂田山から鴫立庵へと移されている。
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 国道1号線を西へたどると、いまでも旧・東海道と重なる道筋には、昔ながらのクロマツの大木の並木がそのままつづいている。大隈重信や陸奥宗光、伊藤博文、池田成彬、西園寺公望(跡)など現存する別荘が左手につづく、西小磯から国府本郷にかけての道筋だが、やがて右手に城山公園(三井家別荘)と左手には吉田茂邸が見えてくる。その先の血洗川をわたると、すぐにプリンスホテルと大磯ロングビーチのエリアなのだが、わたしは子どもたちをそこへ話のタネに一度しか連れていかなかった。大磯の魅力は、そこではない。
                                 <了>

◆写真上関東大震災Click!で浮上した照ヶ崎へ、丹沢山塊から飛来するアオバトの群れ。当時の地曳きClick!舟の標識写真から、最大2m近く隆起しているとみられる。
◆写真中上は、1955年(昭和30)に撮影された下花水橋。この直後に補修工事がされているが、わたしがわたった橋の風情はこの写真とさほど変わらなかった。は、1959年(昭和34)撮影の湘南平山頂のレストハウス(上)とその現状(下)。は、大正期の大内館(上)と現在の同館から眺める平塚の潮流観測所から江ノ島、鎌倉方面の眺望(中)、そして大内館が面した国道1号線の並びにある旅館で死去した新島襄の終焉記念碑(下)。
◆写真中下は、大正末から昭和初期に撮影された照ヶ崎海岸へ下りる坂道(上)と海水浴場の海の家(下)で、佐伯一家も同じ風景を見ていただろう。は、昭和初期に撮影された照ヶ崎プール(上)とその現状(下)。は、1970年(昭和45)ごろ撮影の開通した西湘バイパス。周辺にあった土木作業員用の飯場Click!が、次々に姿を消していったころだ。
◆写真下は、明治末に撮影された化粧坂(上)と虎御前の化粧井戸(下)の現状。は、昭和初期に撮影された別荘の子だと思われる男の子が立つ鴫立庵の西行堂(上)とその現状(中)、そして安置されている西行像(下)。は、1955年(昭和30)に撮影された旧・東海道の松並木だが、現在でもあまり変わらない風情を楽しむことができる。

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既視感のある別荘地・大磯の古写真。(上) [気になるエトセトラ]

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 以前、子どものころに歩いた鎌倉Click!北鎌倉Click!をはじめ、わたしが生まれる前の誰も歩いていない、同地のひっそりとした家並みや風情Click!をご紹介したことがあった。そこで今回は、わたしが子どものころ海や山で遊んだ大磯Click!について、古写真を見つけたのでちょっと書いてみたい。大磯も鎌倉と同様に、夏場は海水浴客でにぎわうが、季節を外れると休日でも駅周辺の商店街を除きほとんど人出がなくひっそりとしていた。
 大磯は日本初の海水浴場も含め明治中期から別荘地として賑わい、鎌倉は明治末ごろから急速に拓けた街だが、大正期から別荘地の代名詞のようになっていった軽井沢と大磯が本質的に異なるのは、避暑だけでなく避寒の別荘地として1年間を通じてすごせる点だった。いつか、「大磯学」Click!の記事でもご紹介したように、真夏の8月の平均気温が26.2℃、真冬の2月の平均気温が5.4℃(2010年測定結果)と、東京に比べ夏は6~7℃も涼しく、冬は5~6℃も暖かい気候をしている。
 しかも、夏は前の海で泳げ、冬は北側の山々に北風がさえぎられ、1年じゅう連なる丘陵のハイキングコースを楽しめるという、鎌倉と近似した地勢をしている。異なる点といえば、鎌倉は街の歴史的な性格から江戸期より観光地となっていたが、大磯は西武グループが1950年代末からテコ入れしつづけてきたにもかかわらず、特に大きく観光地化することもなく、静かで落ち着いた別荘地のたたずまいをいまだ失わない点だろうか。
 江戸期の大磯は、東海道の単なる8番目の宿場町(品川宿が市内に編入された大江戸時代には7番目の宿場町)にすぎなかったが、同町が大きくクローズアップされたのは、松本順(松本良順)Click!による明治期の海水浴場と海の家の開設からだ。彼は、日本じゅうの海岸線をまわって、保養と海水浴に適した別荘地を探し歩き、最終的には神奈川県の大磯に白羽の矢を立てた。松本順自身が自ら別荘を建てたのを皮切りに、明治以降の政府要人や財界人、おカネ持ち、文化人、芸術家などがこぞって別荘を建てて今日にいたっている。
 わたしが子どものころ、これら政治家やおカネ持ちたちが建てた、明治から大正期にかけての西洋館や和館はずいぶん残っていたけれど、西武グループがプリンスホテル(大磯ロングビーチ)を建設し、高度経済成長が進む1960~1970年代になると次々に姿を消していった記憶がある。いまでは大隈重信Click!や陸奥宗光、伊藤博文、池田成彬、木下建平、安田善次郎Click!など、古い別荘は数えるほどしか残っていないが、戦後、新たな別荘を建てる人も多く、別荘街の風情はいまだに色濃く漂っている。明治期には、歌舞伎など主だった演劇人たちも旧・幕臣の松本順を慕ってか、夏になるとこぞって大磯ですごすようになったので、東京では芝居小屋の幕が開けられないといったエピソードまで残っている。
 以来、大磯は江戸東京人あこがれの別荘地となっていった。わたしの親から上の世代では、江戸東京人の別荘といえば真っ先に大磯の名前が挙がっていたのは、以前の記事Click!でも少し書いたとおりだ。1908年(明治41)の8月に発行された日本新聞による「全国別荘番付」では、大磯がダントツで1位の座を獲得している。ちなみに、2位は長野県の新興開拓地だった軽井沢で、3位も長野県の天竜峡だった。この感覚は、たとえば料亭+芸者の華街といえば江戸東京人は条件反射のように日本橋あるいは柳橋Click!を挙げるが、薩長政府の要人たちがそこいらでは歓迎されず敷居が高かったせいか、旧・新橋駅Click!近くの新興華街へと流れていったのに、どこか近似するような感覚だろうか。
 もっとも、大磯は横浜や東京など大都市圏へ出るのにも便利で、昭和初期に東海道線が電化されるとともに通勤圏内の駅となり、鎌倉と同様に地価もそれなりに高騰したため、別荘を建てる土地としては年々コストパフォーマンスが低下していき、永住する住宅地として注目されるエリアとなった。それにともない、軽井沢や箱根、熱海など他の地域のほうが、そこそこリーズナブルで現実的な別荘地として賑わいはじめたのだろう。
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 平塚駅を出た東海道線は、次の大磯駅に着くのはわずか4分後だ。山手線にたとえれば、目白駅を出たと思ったら下落合の横を通って、すぐに高田馬場駅のホームへ滑りこむのと同じような感覚だろうか。東海道線では、めずらしく間隔の短い区間だが、これも松本順の海水浴場と別荘地の設定が大きく作用している。
 2013年に創森社から出版された『大磯学―自然、歴史、文化との共生モデル―』所収の、黒川鍾信「明治・大正・昭和の商人たち」から少し長いが引用してみよう。
  
 明治18年、もしこの人が大磯を訪れなかったら、この町は“海辺の寒村”になっていたかもしれない……この人とは、日本人で最初に西洋医学を学び、初代陸軍軍医総監を務めた松本良順(略)である。/これより7年ほど前に陸軍省医務局長の職を辞した松本は、「国民の健康維持には海水浴が欠かせない」と、海水浴に適した海岸を探して全国津々浦々を歩いた。そして、「ここぞ」と見出したのが大磯の照ヶ崎とその西に広がる小余綾(こゆるぎ=小淘綾)の磯であった。/松本が大磯と出合った頃、2年先の鉄道開通を目指して東海道線新橋~国府津間の工事が進められていた。計画の中に大磯駅の設置はなかった。松本は鉄道関係の大物を訪ね、「大磯は将来、東海道沿線でもっとも開けた場所になる」と説得したが、ラチが明かない。/同年、内閣制度が確立して初代首相に伊藤博文が選ばれた。松本は、伊藤が小田原の御幸ヶ浜に別荘を持っていることを知っていた。静養の行き来に大磯を通る伊藤は、松本の計画に賛同、大磯駅の設置に尽力した。同時に松本は、東京の新富座で菊五郎、歌右衛門、左団次などに『名大磯湯場の対面』を演じさせたり、彼らを海水浴に招いたりして大磯の名前を広めた。/東海道線の開通と共に大磯駅ができると、松本は、海辺や丘陵のふもとに高級旅館を建てさせ、名士たちの夏冬の社交場とした。(カッコ内引用者註)
  
 幕府の西洋医学所の頭取として、幕末のコロリ(コレラ)の流行や薩摩のテロリストClick!たちによる被害者や罹災者と対峙していた松本順は、江戸東京人たちにもあまねくその名が知られていたので、彼らもこぞって大磯の別荘地(江戸風にいうなら寮町)化と、日本初の海水浴場を応援したのだろう。海水浴に適した旅館ばかりでなく、海水浴場の浜辺に休憩や軽食、身体の洗浄などができる「海の家」を設置したのも松本順のアイデアだ。
 この時期、明治政府にも顔がきくようになった彼は、医師というよりも緻密なプランナー兼プロモーター兼アドバタイザー兼ディベロッパーのような八面六臂の活躍をしており、幕府や明治政府の医者にしておくにはもったいない人材であり才能を感じるのは、わたしだけではないだろう。(爆!) このあと、大磯に次いで鎌倉の由比ヶ浜にも海水浴場が開設され、やがて全国各地の浜辺に次々と海水浴場が拡がっていく。
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 松本順の「大磯は将来、東海道沿線でもっとも開けた場所になる」という、オバートークが過ぎてひやひやするプランナーwのような言葉とは裏腹に、大磯は静寂で落ち着いた別荘街としての風情を今日まで失わずにきている。そのかわり、わたしの子どものころから後続の海水浴場、すなわち東京や横浜に近い鎌倉や藤沢(鵠沼)の海がとんでもない賑やかさとなり、海水浴客が押しかけて芋の子を洗うような混雑を見せるようになった。
 そのころの大磯は、東海道線を降りる観光客の多くは大磯ロングビーチ(プリンスホテル)の送迎バスに消えていき、照ヶ崎や北浜、小淘綾の浜で泳ぐ人たちはそれほど多くはなかった。また、当時は海の汚れから照ヶ崎海岸プールで泳ぐ人たちも多くいて、浜辺で海水浴を楽しむのは地元の人たちか、夏場の別荘にやってきた都会の人たちだったろうか。鎌倉や藤沢に比べたら、大磯の浜辺はガラ空きのように見えていた。海の家でもゆっくりすごすことができ、むしろ大磯ロングビーチのほうがよほど混雑していたように記憶している。
 当時のサーファーは、花水川の出口にある花水ポイントか、北浜の岩場が近い大磯ポイント、あるいは吉田茂邸Click!があり関東大震災Click!で隆起した大磯層(後期中新世)から、貝化石Click!を産出する血洗川近くのポイントに集まっていた。松本順が大磯に住んだころ、大磯の浜辺は東は鎌倉から三浦半島まで、西は小田原の先の真鶴岬まで見わたすかぎり砂浜がつづき、大磯はまさに中心点のように感じられただろう。だが、関東大震災で大磯の浜辺には岩礁が1~2mほど隆起し(江ノ島も1mほど隆起した)、つごうのいいことに海水浴だけでなく潮だまりなどで磯遊びができる浜辺ともなった。
 わたしは子どものころ岩礁での磯遊びというと、よく真鶴や三浦半島にも出かけているが、近くの大磯での磯遊びも手軽にできて楽しかった。潮だまりには、多種多様な生物がいたけれど、運がよければムラサキウニやカニ類が採れた。でも、せっかく採集しても夏休みの自由研究で標本をつくるわけにもいかず、大磯丘陵での昆虫採集ほどに熱心ではなかった。もうひとつ、大磯の岩礁には丹沢の山々からアオバトClick!の群れがやってくるのを見るのもめずらしい光景だった。
 大磯は山の幸や、山歩きのハイキングコースにもめぐまれており、湘南平(千畳敷山)Click!や鷹取山、高麗山、相模国府があった神揃山など、季節を問わず四季折々に楽しめる山が多い。海だけでなく、同時に山歩きができる点も、松本順がことさら大磯を保養別荘地に選んだ要因のひとつなのだろう。山々の山頂からは、相模湾や伊豆半島、三浦半島、丹沢山塊、足柄・箱根連山、そして富士山まで鮮やかに眺められるポイントが多い。
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 先年、花水川の河口近くにある唐ヶ原の地名を、「とうがはら」と呼んでいる人がいて、一瞬、なにをいっているのかわからなかった。もちろん、『更級日記』にちなんだ地名は「もろこしがはら」だが、そうは読めない住民たちが増えたので、「鬼子母神(きしもじん)」の「きし<ぼ>じん」Click!や「新道(じんみち)」の「<し>んみち」Click!、「打(ぶ)ち壊し」の「<う>ちこわし」と同様に、つい誤りの読みのほうへ合わせたのだろう。地図で確認しても、「とうがはら」などとルビがふってあるのが、ほんとうに情けない。
                                <つづく>

◆写真上:大正末に撮影された、大磯駅を出発し花水川の鉄橋をわたる東海道線の列車。背後は高麗山で、大磯へ避暑に出かけた佐伯祐三一家Click!もこの列車に乗っただろう。わたしがもの心つくころ、貨物列車はいまだ蒸気機関車が牽引していた。
◆写真中上は、1955年(昭和30)に撮影された大磯駅(上)と現在の同駅(下)。外壁の塗装や窓が変化しただけで、ほとんど変わらない意匠のままだ。は、昭和初期に撮影された旧・東海道の化粧坂(けわいざか/上)と同坂の現状(下)。
◆写真中下は、1890年(明治23)に3代國貞が描く芝居絵『名大磯湯場対面』(なにおおいそ・ゆばのたいめん)。は、昭和初期に撮影された国府新宿の旧・東海道(上)と同海岸の岩礁で採れる貝化石(下)。は、1935年(昭和10)撮影で国道1号線の花水橋と高麗山(上)、昭和初期の撮影で花水川をはさみ手前が唐ヶ原(もろこしがはら)で対岸が撫子原(なでしこがはら)。この河口の右手海域が、サーファーたちが集まる花水ポイント。
◆写真下は、大震災で岩礁が浮上した照ヶ崎海岸。は、明治期に撮影された伊藤博文別荘「滄浪閣」(上)と、中華料理店時代の同所(下)。ここの料理は子どものころから何度も食べたが、特に印象に残る味ではなかった。は、大正初期に撮影されたコンデル設計の赤星弥之助別荘(上)と、大磯駅前の木下建平別荘(下)。国内材のみを用いた日本で最古の明治建築・木下別荘だが、同邸がイタリア料理店に活用されているとき何度か食べたけれど、こちらも取り立てて印象に残る風味ではなかったが、2階からの相模湾の眺めはよかった。

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中村伸郎から見た『女の一生』と文学座。 [気になる下落合]

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 少し前に、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)に住んでいた脚本家・森本薫Click!について書いたが、杉村春子ら文学座の俳優たちが『女の一生』の稽古場に使ったのが、大久保にあった中村伸郎の自邸だった。中村伸郎Click!の父親・中村税は小松製作所の初代社長であり、空襲が激しくなると文学座は中村社長のはからいで、石川県小松市にあった小松製作所工場の寮に疎開し、工場を手伝いつつ芝居の稽古をつづけることになる。
 『女の一生』の舞台は、1945年(昭和20)4月11日に渋谷の東横映画劇場で初日の幕が開くが、前日の4月10日まで中村邸での稽古がつづけられた。稽古をはじめたのが、同年3月10日の東京大空襲Click!の日だったので、台本が完成してから初演まで、1ヶ月ほどしか時間がなかった。演出や脚本の手直しなどを含めれば、4月11日の初演はほとんどぶっつけ本番に近かっただろう。
 明日は舞台の初日という4月10日、森本薫が京都に疎開していた妻の森本和歌子あてに出した手紙が残っている。西村博子が発掘した同書簡から、少し引用してみよう。
  
 今日は舞台ゲイコ、道具が間に合はないので、衣装ゲイコだけで、ブツツケ初日だ、何も彼も この有様。今手紙ついた、そつちもいろいろ大変だね、家は出来れば一軒ほしいね、これからどんなにして生活費を稼ぐかわからんから家賃のあまり高いやうでは困るが、とにかくその家を借りておいて俺が戻る迄松本にゐるとか何とか出来ないかね、俺も荷物の受つけ(出荷にはあらず)を待つてゐても仕方ないからその<切除のため3字ほど読めず>渡辺さんにたのんで芝居<「女の一生」>が済んで切符買へ次第ゆくつもり<3字ほど読めず>。いろいろ考へるとコンランするし、これから出かけるから取急ぎ 家のことはそちらに委せる。
  
 この文面を読むと、幕が開く初日の前日に『女の一生』の衣装はなんとかそろったが、舞台で使用する大道具小道具類が間にあわないので本格的な稽古ができず、4月11日の初日は出たとこ勝負だった様子がうかがえる。演出家にしてみれば、道具類がなければ俳優の立ち位置ひとつ決められず、その動作も空想で指示だしせざるをえなかっただろう。また、俳優にしてみれば、実際に使用する道具がなければ戸の開け閉めひとつ、イスへの座り方ひとつとってみても不安だったにちがいない。
 もっとも、東京大空襲から1ヶ月後のこの時期、文学座の俳優たちは舞台で芝居ができるだけでも嬉しくて興奮し、「大丈夫、なんとかなるさ」という雰囲気だったのかもしれない。特に、森本薫が自分のために書いてくれた『女の一生』のヒロインを演じる杉村春子は、初日の舞台が待ち遠しくて意欲満々だったのだろう。このとき、稽古場として父親の邸宅を“開放”した中村伸郎は、のちの文学座をめぐる方向性も含め、どのような眼差しで『女の一生』を眺めていたろうか。
 中村伸郎が森本薫と出会ったのは、築地座が『橘体操女塾裏』(田中千禾夫・作)と『冬』(久保田万太郎・作)の2本立てで興行した、1935年(昭和10)2月の京都公演のときだった。京都駅のほの暗い待合室で、俳優の友田恭助から京都帝大の学生服を着た森本薫を紹介された。森本は、築地座が次回に公演を予定している『わが家』の作者だった。このとき、中村伸郎が「(東京へ)公演を見に来ますか?」と訊くと、「行きません、試験中ですから」と森本はそっけなく答えている。このときのやり取りで、中村伸郎は「スカしているという感じで、気の知れない奴だ」と第1印象があまりよくなかったようだ。
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 その後、森本が文学座で脚本を手がけるようになっても「スカした感じ」は変わらず、中村伸郎はしばらく彼が苦手だったらしい。1986年(昭和61)に早川書房から出版された、中村伸郎『おれのことなら放つといて』から引用してみよう。
  
 (スカした)この感じはその後彼との永いつき合いでも変らず、私には感情を素直に表わさない相手はニガ手なのだが、永い間に彼の癖である小声でブツブツ愚痴をこぼすのを聞いて私も気を許すようになった。例えば/「オレが一と月以上も苦労して書いたラジオドラマを、君たちは一夜漬みたいに放送して、しかも貰うものはあんまり変らないんだから」/と愚痴るのをきいて、杉村春子と私が顔を見合わせて笑ったのを覚えている。(カッコ内引用者註)
  
 中村伸郎は、森本薫の前期作品を高く評価しているが、後期作品はあまり評価していない。すなわち、同書の中村分類によれば「京都時代に書いたのが前期」とし、「上落合に居を構え文学座の座付作者となってからの作が後期」と位置づけている。
 そこには、学生時代の前後に書かれた芸術至上主義にもとづく、戦争の影がまったくない作品群(前期)と、戦時色が濃くなって国策にある程度は迎合せざるをえなくなり、また森本が文学座の座付き作者としての責任から劇団の経営事情を意識せざるをえなくなって書いた作品群(後期)とでは、脚本の質的なちがいは明らかだというとらえ方が、中村伸郎の認識として厳然と形成されていたからだろう。
 事実、中村伸郎は文学座の経営層に「前期」作品を上演するようたびたび迫っているが、戦時には芸術至上主義=「非戦」の作品さえ反国家的な演劇だとみなされ、ほとんど上演されることがなかった。当時の状況を考えると、中村伸郎の「後期」作品に対する低評価は、敗戦から時間が経過した結果論的な解釈だととらえられないこともないけれど、とりあえず芸術性は二の次にしてできるだけ「大衆」に迎合する舞台、すなわち少しでも観客を集めて劇団経営を安定させようとする視点を含んだ「後期」作品、なかでも『女の一生』は杉村春子が存命中、文学座の経営が思わしくなくなると、すかさず舞台にかけられていたことを考えあわせれば、あながちピント外れな評価とはいえないような気がする。
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 中村伸郎は、劇団の存在理由である芸術性をそっちのけにして、経営的に有利な作品が先行するようでは本末転倒だと考えたのだろう。彼が文学座から脱退するのも、本質的には「後期」作品の路線を引きずる劇団の体質、すなわち文学座の“顔”になってしまった杉村春子の路線から訣別したかったからにちがいない。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 私は森本の前、後期の作品の本質論にこだわるわけだが、文学座に在籍中、森本が死んで八年後くらいだったか、「女の一生」の地方巡演は九州、四国、東北各地と全国に渉り、かなりの上演回数を経た頃の昭和二十八年、文学座十五周年記念パンフレットに私はこう書いた。/「この辺で『女の一生』の台本を森本の仏前に返すべきである。『女の一生』が文学座の或る時期を大きく支えてくれたことへの感謝の意をこめた上で……」/と。その理由は、若しいま森本が生きていたら、もう止めてくれと言うか、大きく書き直していたかどっちかだろう、が今やそれも出来ない。上演を重ねていて、第三幕の総子の見合いの件りなどの客席の哄笑は大衆劇のウケ方のそれであり、またそんな質の狙いが随所にあるからこそ「女の一生」が日本の各地を巡演して、僻地に至るまで平明にウケたのである。が僻地ならまだいい、都会の上演の客席の中に若し森本がいたら居たたまれずに、もう止めてくれと言うだろうから……。
  
 一見、「大衆」演劇を睥睨する“上から目線”の傲慢な視点に見えるが、実は同じようなことを岸田劉生Click!が「お父さん」と慕った、芝居の7代目・大和屋(坂東三津五郎)Click!も口にしている。「お客さまを相手にしてやると、自分が下落する」、「生きているお客さまを相手にやっちゃいけません」、演劇を突きつめた人だけが獲得できる視界であり、役者ならではの世界観なのだろう。杉村春子によって、947回も上演された文学座の『女の一生』だが、中村伸郎は森本薫が生きていたら「続演は許さなかったろう」とも書いている。
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 戦後の文学座は、杉村春子の路線を主軸として、幾度となく作家や俳優たちの“脱退騒ぎ”を繰り返していく。そのエピソードを追いつづけるだけで、ゆうに分厚い本が書けてしまうほどだ。上落合2丁目829番地の森本邸で執筆された『女の一生』をめぐり、彼と杉村春子との間にどのような男女のやり取りや約束が交わされたものか、少なくともそれからの舞台俳優・杉村春子という「女の一生」を深く刻印した作品なのは揺るがぬ事実だろう。

◆写真上:森本薫邸があった、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の路地。
◆写真中上は、1961年(昭和36)に上演された文学座『女の一生』。「布引けい」の少女時代を演じる杉村春子と、左の「堤伸太郎」役は同劇団の北村和夫だろうか。は、1989年(昭和64)の『女の一生』を演じる83歳の杉村春子。
◆写真中下は、1982年(昭和57)に放映された対談番組での杉村春子と森繁久彌Click!。窓外に見える景色から、どうやら近くの椿山(目白山)の椿山荘のようだ。は、1957年(昭和32)に制作された『東京暮色』(監督:小津安二郎)に出演した杉村春子と笠智衆。は、同じく『東京暮色』で共演した中村伸郎と山田五十鈴Click!
◆写真下は、ドラマ『白い巨塔』に出演した中村伸郎。下左は、1986年(昭和61)出版の中村伸郎『おれのことなら放つといて』(早川書房)。下右は、若き日の杉村春子。

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どんど焼きの煙がただよう江戸東京。 [気になる下落合]

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 子どものころ、親父がよく玩具を買ってきてくれたことがある。それが、アニメキャラクターのロボットやプラモデルだったら嬉しかったのだが、そうではないモノがずいぶん混じっていた。神奈川県の海辺Click!に住んでいたころのことで、ときどき欲求不満になると親父は地元の東京に出かけては、各地を徘徊していたものだろう。
 今戸焼きの土人形を買ってきてくれたときには、こんなものでどうやって遊ぶのだろうと呆気にとられた。白ギツネが銀色の裃(かみしも)を着て、ただ正座して笑っている素焼きの人形に彩色しただけのものだった。ほかに、姉さんかぶりのダルマのようなお多福人形や、ぶちのイヌだかネコだかわからないものもあった。当然、そんなものでは遊ばない(遊べない)ので放置すると、親父は大事そうに居間の棚の上に飾っては眺めていた。
 雑司ヶ谷鬼子母神Click!薄(すすき)みみずくClick!を、「東京のオモチャだよ」といって渡されたときは、頭がエポケー(判断停止)状態になった。こんなモノで、どうやって遊ぶんだ?……と不満顔をしたのを気づかれたのかもしれない。親父は、わたしから早々に薄みみずくを取りあげると、魚が優雅に泳ぐ鎌倉彫りのマガジンラックへ突っとして飾っていた。そのほか、花独楽や芝神明千器箱、王子の槍などもあったと思う。20世紀後半少年は、もはやそんなものでは遊ばない(遊べない)のを悟ったのか、その後、親父は自分のために東京玩具を集めるようになった。棚の上には、なんだか玩具とも置物とも縁起物ともお守りともつかない、多種多様なものが増えていった。
 これらの玩具は、江戸期から東京の寺社や祭りのときに出る屋台などで売られていたもので、親父の世代でさえすでにおぼろげで懐かしいモノたちだったのだろう。江戸東京玩具は、江戸市街地から離れた郊外で造られていたものが多く、日用品を製造するかたわら玩具をこしらえたり、農家の副業として生産されていたものも多い。あるいは、寺社の祭礼にあわせて製造され、あまった玩具は市街地にある寺社の祭礼日に、屋台や露店で縁起物として売られていたのだろう。
 江戸後期の地勢でいえば、今戸焼きの今戸は浅草田圃のさらに外れだし、薄みみずくの鬼子母神は当時から有名な郊外散策の観光スポットで、徳川吉宗Click!が狩りの途中で立ち寄ったり、物見遊山がてら茶番劇Click!の舞台として脚光をあびたりする農村地帯だった。いまから見ればだが、そこで生まれた素朴な玩具は味わいのあるものが多い。
 子どものころ、戦前に売られていたそれらの玩具は、すでに大正末から昭和初期に生まれた「大人のおもちゃ」と化しており、そんなモノをもらっても嬉しくも懐かしくもないわたしは、ひたすら「次のお土産」に期待するしかなかった。1943年(昭和18)に青磁社から出版された『武蔵野風物志』で、磯萍水Click!(いそひょうすい)はこんなことを書いている。
  
 昔の玩具は、今の大人の玩具となつた。而もその大半は過去帳に其名を留めるばかり、今日にして辛うじて得られるのは、神佛関係の物だけである。それさへも此先何年の寿命があらう、覚束ない限りである。来年はと思つて、その明る年に果たしてそれが手に入らうか。年と共に、日と共に滅亡に近づきつつある。
  
 磯萍水はこう書くが、先の今戸焼きも薄みみずくも現役で、いまだに造られつづけている。わが家には、残念ながら今戸焼きはないが、薄みみずくはときどき買っては玄関の収納などに刺しておく。そのうち、穂が乾燥しすぎてバラバラになり棄てることになるが、またしばらくすると入手しては刺しておく。死去した義母Click!が大好きで、わざわざ雑司ヶ谷にある薄みみずくの工房まで買いにいったのを憶えている。
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 休日は、わたしも親父の東京散策に同行できるので楽しみだった。もちろん、洋食和食を問わずうまいもんClick!シャレたもんClick!が食べられるので楽しいのだが、もうひとつオモチャを買ってもらえるチャンスでもあったからだ。特に、空襲で焼けるまで実家があった日本橋方面へ出かけると、日本橋三越Click!のオモチャ売り場へ立ちよる可能性が高くなる。三越の大理石の壁にある、いくつかのアンモナイト化石を眺めたあとオモチャ売り場へ上がっていくのが、子どものわたしが感じる「生き甲斐」の第1号だったろう。
 そこでは、今戸焼きとか薄みみずくとか、頭が真っ白になるどうしようもない昔の玩具ではなく、ちゃんとした現代のオモチャを買ってもらえるからだ。ところが、日本橋をすぎて大川(隅田川)の水辺の匂いがしはじめ、日本橋浜町の明治座Click!なんかに入ったりすると、もうつまらない“大人の事情”ばかりの新派Click!なので、わたしは午睡するしかなかった。水谷八重子(初代)や菅原謙二、安井昌二、伊志井寛、京塚昌子、波乃久里子たちが演じる舞台の下でグッスリ昼寝をしていたのだから、いまから考えればとんでもなく贅沢な午睡をしていたわけで、惜しいことこのうえない。
 いつだったか、親たちが東京の東側に足を向けたので、これは“三越チャンス”とばかり期待したのだが、途中からぜんぜん見馴れない街のほうへと向かっていく。いまでは、どこをどう電車を乗り継いでいったのがまったく憶えていないが、正月明けの寒い季節だったのは紐つきの手袋をしていたので憶えている。小学校1~2年のころだろうか。
 目的地に着いてみると、大きな焚き火がいくつか燃えており、木の枝に色とりどりの餅を突っとしては焼いていた。東京に古くからお住まいの方なら、もうおわかりだろう。正月飾りや、前年の破魔矢、注連縄、御札などを焼いて1年間の無病息災を願う「どんど焼き」Click!(=芝灯祓い/塞戸祓い/歳と祓い)、古い江戸東京方言でいうと「せいとばれえ」Click!だ。どんど焼きで焼いた餅を食べると、1年間は病気をしないで済むという謂れがあった。連れていってくれたのが、どこのどんど焼きだったのかは訊きそびれてしまったので、いまとなってはまったくわからない。
 ちなみに、駄菓子屋Click!で小腹が空いた子どものおやつ用に売られていた「どんど」と「もんじゃ」は、前者が「どんど焼き」=お好み焼きのことで、後者はいまも変わらない名称で呼ばれている粉料理のそれだ。つまり、大人は決して口にしないガキの食いもんだった。学生時代に、わたしが小腹が空いたので「どんど焼き」(お好み焼き)を作って食べていたら、親父が顔をしかめたのは東京の食文化の美意識からすると、「いい歳して、ガキじゃあるまいし」とありえない光景に映ったからだろう。
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 さて、「せいとばれえ」=どんど焼きのほうだが、なぜ親父がわざわざわたしを連れていったのかは、もう少し成長してからだが、少しわかるような気がした。1961年(昭和36)には、すでに両国花火大会Click!は防火の観点から全面禁止されており、つづいて市街地でのどんど焼き=せいとばれえの禁止も時間の問題のように思われていた。現在では、落ち葉を燃やす小さな焚き火Click!でさえ条例で禁止している自治体もめずらしくない。確かに、2階家の屋根上までとどきそうな、どんど焼きの盛大な火炎は、防火の観点から見れば危険なことこの上ないのだろう。
 だからこそ、江戸東京の正月の風物詩だったどんど焼きがいまだ健在なうちに、わたしの目に焼きつけておきたかったのだろう。でも、どんど焼きは消滅することなく、いまでも正月がすぎると、おもに寺社の境内や地域の空き地で、数こそ減ったが昔と変わらずに行われている。日常の焚き火は条例で禁止できても、無形民俗文化遺産のどんど焼きは地元の抵抗が強く、自治体が禁止にできなかったものだろう。この火祭りは、おそらく鎌倉時代よりもはるか以前から行われていたとみられる。
 戦前は、正月になると東京のあちこちで、大昔からつづくどんど焼き=せいとばれえの盛大な火祭りが行われていた。そんな様子を、電車が新宿駅に近づき夕闇迫る小田急線の車窓から観察した、戦前の記録が残っている。磯萍水の同書より引用してみよう。
  
 何の火とも気がつかず、また気をつける気にもならず、私達は無心に見過した。/見返るとまだ見える、烟はいよいよ濃くなつて、白くなり黄に、黒に、渦を捲いて四周に人を寄せつけぬ気勢を示してゐる。見えなくなつた。/と、また同じやうな火が燃え始めてゐる、これはたつた今火が放けられたばかりだ。人人は火がものになるか何うかを気づかふやうに見える。/門松が積み重ねてあつて、それにまじつてお飾りらしいのが見えた。それに火を放つけたのだ。/「どんどぢやないか」/独語のやうに云ひながら、妻の方を見た。/「どんど焚きですね」/それには答へず、見返ると、火はものになつた、勢ひよく烟が横なぐりに吹き流れた。ぱつと火の姿も見える。/この調子だと、まだどんどは此さきにも燃えてゐると思ふ。見よう、見たいものだ。暮かかるのを気にしながら、窓から目を放さない。
  
 磯萍水が目撃しているのは、1月14日の夜に焚かれるどんど焼きであって、15日の昼間行われるどんど焼きの催しとは別のものだ。東京では、14日の晩に火を点けるどんどと、15日の昼間に焚くどんどとが、地域によって混在していた様子がわかる。
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 現在でも、社(やしろ)の境内などでは竹を四隅に立てて正方形に結界を張った、どんど焼き用の焚き火を用意するところが多い。下落合や上高田の氷川明神社Click!でも、正月のどんど焼きは行われている。でも、いまでは15日に正月飾りを持ち寄って焼くことが少ないのか、わたしは同日に盛大な焚き火を見たことがない。初詣のとき、前年の破魔矢や御札を「どんど鉢」(?)で燃やす「プレどんど焼き」の炎が、いちばん大きいだろうか。でも、子どもにしてみれば焚き火も楽しいだろうが、焼いて食べる色とりどりの餅がないのは寂しいのではないかな……などと考えてしまうのは、およそ歳をとった証拠なのだろう。

◆写真上:いまでも東京各地で行われている、どんど焼き(せいとばれえ)の火炎。
◆写真中上は、安藤広重Click!の『名所江戸百景』の1作「墨田河橋場の渡かわら竈」。煙が立ちのぼっている竈が、今戸焼きの窯だ。は、現在でも造られている今戸焼き。子どものころはこんなていねいな造りでなく、もっと粗末な仕上がりだった。
◆写真中下は、雑司ヶ谷鬼子母神の薄みみずくと鬼子母神本堂。子どもが、こんな玩具をお土産にもらっても、まったくちっともぜんぜん嬉しくはないのだ。は、日本橋三越店内の大理石壁のあちこちに見られるアンモナイトの化石。
◆写真下は、1950年代に撮影された木場が舞台の新派『晴小袖』。初代・水谷八重子のおのぶに伊志井寛の三次郎だが、もちろんわたしはこの舞台を知らない。は、なによりも焼き餅が楽しみなどんど焼き(上)と、下落合氷川社のコンパクトなどんど鉢(下)。は、首都圏では最大規模となる大磯のどんど焼き(せえとばれえ)。正月の北浜海岸で行われる「左義長」は、国の重要無形民俗文化財に指定されている。


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情報が筒抜けだったF13の偵察写真。 [気になる下落合]

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 米国の国防総省に保存され、前世紀末から米国国立公文書館で公開されている1944~1945年(昭和19~20)の日本本土の米軍偵察写真を参照していると、改めて都市や工業地帯、軍事施設などの詳細な情報が筒抜けだったことがわかる。地上の鉄道や車両はもちろん、歩いている人までがハッキリと精細に確認できる。これらの偵察写真は、B29を改造したF13偵察機Click!によって撮影されたものだ。
 落合地域の詳細なクローズアップ写真は、1945年(昭和20)4月2日に撮影されており、これは11日後の4月13日夜半に予定されていた第1次山手空襲Click!の事前偵察として準備されたものだ。この偵察写真が、戦前の姿を“無傷”なまま伝える、落合地域の街並みをとらえた最後の写真となった。つづいて、同年5月17日にも落合地域がクローズアップで撮影されている。これは、焼け残った山手エリアの状況を把握し、8日後に予定されている第2次山手空襲Click!のための偵察写真だった。写真が斜めフカンから撮影されているのも、焼け残りの住宅街を特定する意図があったものだろう。
 この5月17日の偵察写真は、落合地域のどこが焼失し、どこがかろうじて焼け残っているのか、あるいは防火帯工事(建物疎開)Click!がどこまで進んでいたのかなどを知る、貴重な手がかりを教えてくれる。そして、第2次山手空襲から3日後の5月28日に撮影された偵察写真は、二度にわたる山手大空襲Click!の爆撃効果がどれだけあったのかを測定する記録資料として撮影されているとみられる。
 5月28日の落合地域をみると、上落合は全域がほぼ壊滅状態Click!だが、下落合と西落合は樹木が多く生えていた区画を中心に、かなりの住宅が難を逃れているのがわかる。だが、それから8月15日の敗戦の日まで、落合地域とその周辺域は繰り返し沿岸に接近した米機動部隊の艦載機や、硫黄島から飛来した戦爆機の攻撃にさらされ、250キロ爆弾や機銃掃射の攻撃にさらされていく。5月28日の偵察写真で焼け残っている住宅街のうち、これらの攻撃で破壊されたものも少なくない。
 また、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!の直前、3月8日の偵察撮影では東京市の市街地全域がとらえられているが、落合地域も高高度から撮影されている。旧・神田上水(1966年より神田川)沿いや妙正寺川沿いでは、防火帯36号江戸川線Click!の建物疎開が急ピッチで進められている様子がとらえられている。また、3月10日の午前中に飛来したF13は東京大空襲の成果を確認するために、おもに(城)下町Click!の上空から斜めフカンで撮影しているが、何枚かの写真には被災していない落合地域もとらえられている。
 いずれの写真にも、地上の陣地からの対空砲火は確認できないし、F13が攻撃を受けている様子も見えない。すでに高射砲の弾薬や迎撃戦闘機Click!の燃料が不足し、少数機で現れる明らかに攻撃ではなく偵察を目的としているF13は、迎撃対象から外されていたのだ。広島に疎開して、8月6日の原爆で被爆した大田洋子Click!は、爆撃の前後にF13とみられる偵察機の姿や爆音を頻繁に目撃したり聞いたりしているが、日本側が同機を攻撃している様子は見なかった。だからこそ、エノラゲイに原爆を搭載しわずか3機でやってきたB29を、またしても攻撃ではなく偵察と誤認した市民も多かっただろう。
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 単機あるいは少数機で飛来する、B29にそっくりなF13偵察機は弾薬や燃料がもったいないので攻撃しないという事実は、東京大空襲の直後3月10日の午前中に飛来したF13の写真でも明らかだ。同機は同日午前10時20分ごろ、二宮ないしは大磯西部の上空から炎上する東京市街地を遠望するカットを撮影しているが、下に見えている千畳敷山(湘南平)Click!の山頂に設置された対空陣地は沈黙したままで、12.7センチ高射砲が発射されている様子がない。F13の航路前方に、対空砲火の弾幕がまったく見えないのだ。
 こうして、F13偵察機は“見て見ぬふり”をしてスルーされたが、実は偵察機こそが詳細で貴重な情報を米軍へふんだんにもたらし、より的確で精度の高い攻撃を実現して被害を大きくする要因となっていたので、できる限り阻止しなければならない重要目標だったのだ。日本政府や軍部の暗号電文がダダ漏れだったこともあわせ、こんなところにも「敵機は精神で落とす」Click!(東條英機Click!)などとわけのわからない神がかり精神論をふりまわし、精密な情報収集の重要性を軽視する軍部の姿勢が見え隠れしているように思う。
 1945年(昭和20)4月6日、天一号作戦に備え広島の柱島泊地を離れ、山口の徳山沖へ集結している第二艦隊の姿も鮮明にとらえられている。旗艦の戦艦名が「大和」Click!だということも、とうに暗号電文の解読から米軍には判明していた。翌日、同艦隊は航空機の援護もないまま、徳之島沖で米軍の集中攻撃を受けて壊滅している。
 どんなに些細な情報でも、地道に細かく集めては、それらの断片をつなぎあわせて組み立て、せっせと次の作戦や攻撃に活用していた米軍と、現地の実情をなんら把握せず兵站の保証もまったくないまま、ただ「突っこめ~!」とウ号作戦でインパール突撃を発動していた稚拙な大本営とは、その作戦の質においては雲泥の差があったといえるだろう。
 また、F13偵察機による成果物には、戦争とは直接関係のない貴重な写真類も残されている。1944年(昭和19)12月7日に発生した東南海大地震の記録だ。熊野灘沖が震源の同地震は東海・近畿地方に巨大な津波を引き起こし、紀伊半島や愛知県の海沿いを中心に大きな被害をもたらした。だが、戦時中だったため、地震の発生やその大きな被害は軍部によってすべてが秘匿され、関東大震災の規模に匹敵する最大震度6を記録した大震災にもかかわらず、今日にいたるまで被害の全貌はわかっていない。
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 東南海大地震について、2015年(平成27)に(財)日本地図センターから刊行された『米軍に撮影された日本』に収録の、小林政能「1944年12月7日、隠された東南海地震」から引用してみよう。ちなみに同書では、地震から3日後の1944年(昭和19)12月10日に撮影された、三重県尾鷲町の偵察写真をクローズアップしている。
  
 1944(昭和19)年12月7日午後1時36分に熊野灘を震源(図番号略)として発生したマグニチュード7.9、最大震度6の地震が、1944年の東南海地震です。死者・行方不明者数1,223名といわれ、東海地方は大きな被害を受けました。しかし当時は、日本の敗戦が色濃くなった太平洋戦争末期で、報道管制下のため地震や、その被害の報道は抑えられ「隠された地震」とも言われています。(中略) 1944年東南海地震発生から3日後の12月10日、サイパンを飛び立った一機の米軍偵察機が、紀伊半島南東岸から渥美半島かけて(ママ:にかけて)、空中写真の撮影を行っていました。そのフィルムの中には、津波の痕跡が見られる写真も複数枚含まれていました。(カッコ内引用者註)
  
 海岸沿いの流出した街々や、がれきに埋もれた河川、陸に打ち上げられた船舶などが鮮明にとらえられている。津波は河川をさかのぼったとみられ、内陸の奥まで被害に遭っている様子がわかる。幕末に記録された安政年間の記録によれば、まるで太平洋のプレート沿いをドミノ倒しのように起きる東海地震→東南海地震→南海地震の想定被害を研究するには、これらのF13偵察写真は願ってもない1級資料といえるだろう。
 そのほか、同書では戦後になってまとめられた「空襲被災地図」についても、そのかなりの不正確さが指摘されている。当時、各地の自治体が空襲被害の地図を作成するには、地域住民の証言や現実に目の前に展開する街々の風景をベースに、地図上へ逐次記録していったものと思われる。だが、その被害エリアが敗戦後すぐに空中写真部隊Click!によって撮影された米軍の空中写真と、必ずしも一致しない場合が少なくない。
 これはわたしも感じていたことで、たとえば戦後に作られた下落合地域などの「空襲被災地図」と、戦後すぐに撮影された米軍の空中写真の様子とがあまり一致しない。おしなべて、「空襲被災地図」のほうが被害(赤く網掛けされたエリア)が広めに描かれ、実際の空中写真のほうが焼け残っている区画の多いことに気づく。これは、戦後も間もない時期の人々には、空襲で「すべてが焦土と化した」「東京は空襲で壊滅した」というイメージが強く、実際の被害よりもやや大きめに証言してしまった可能性を指摘できるだろうか。
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 あるいは、戦後になって区画整理で壊されてしまった街角も、空襲で焼けたと錯覚するような記憶の混乱があったのかもしれない。いずれにせよ、戦時中から戦後にかけてF13偵察機による空中写真は、その高解像度とあいまって貴重な証言を今日までとどけてくれる。

◆写真上:爆弾倉の代わりに垂直航空カメラを搭載し、撮影窓を装備したF13の胴体。
◆写真中上は、任務を終えて帰還したF13偵察機。は、1944年(昭和19)11月7日に撮影された空襲前の中島飛行機武蔵製作所。は、空襲後の同製作所。
◆写真中下からへ、1945年(昭和20)3月8日に撮影された落合地域、同年3月10日午前10時35分ごろ撮影された落合地域、同年4月2日の空襲直前に撮影された“無傷”で見られる最後の下落合東部、同じく4月2日に撮影された落合地域西部、同年5月17日撮影の下落合東部、同年5月28日に撮影された第2次山手空襲から3日後の落合地域。
◆写真下は、1945年(昭和20)3月10日午前10時20分ごろ大磯上空を東へ飛ぶF13からの撮影。弾幕が見えず、千畳敷山(湘南平)に設置された高射砲陣地からは1発も撃ってきていない。は、同年4月6日に撮影された徳山沖の第二艦隊で、赤丸の中が24時間後に撃沈される戦艦「大和」。は、1944年(昭和19)12月10日に撮影された東南海大地震による三重県尾鷲町の惨状。津波が河川づたいに、内陸部まで押し寄せた様子がうかがえる。

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雑司ヶ谷の拝み屋は「もくず」といった。 [気になるエトセトラ]

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 その昔、「ガメラ」シリーズClick!(大映)とともに、2本立て同時上映されていた作品に「妖怪」ものがあった。わたしが小学生のとき、いちばん印象に残っているのは『妖怪百物語』(1968年)というタイトルだ。そこに、8代目・林家正蔵が出演していて百物語を語る設定で、十八番だった怪談を披露していた。8代目・正蔵は晩年に彦六と改め、「正蔵」の名は林家三平が死去したあとの海老名家へ返上している。
 当時から、わたしの好物だった怪談を演じる落語家であるにもかかわらず、林家正蔵(彦六)はどうしても好きになれなかった。あのモタモタとしゃべる調子と、独特な節まわしやイントネーションをつける語り口のクセが気に入らず、まことに僭越ながら子ども心にも野暮ったい噺家だと感じていた。この印象は、わたしが学生になってからも変わらず、あのモタついた話し方についていけずにイライラしたものだ。語りがモタモタしているから、効果的な息つぎや間がうまくとれない……そんなふうにも感じていた。
 噺家は、緩急自在に東京弁Click!(城)下町言葉Click!を、ツツーッと歯切れよくリズミカルで流れるように語れなければ、江戸東京落語は似合わない。わたしが好きだったのは圓生や小さんClick!、志ん朝、小三治などで、志ん生Click!文楽Click!は時代がちがうから知らない。林家正蔵(彦六)もそうだが、親父が「歳ばっか喰いやがって」とけなしていた噺家には5代目・三遊亭圓楽もいた。圓生の愛弟子だったようだが、この人もテンポは悪くないものの歯切れが悪く、破擦音もヘタでモゴモゴとモタついたしゃべりの口調が嫌味でカンにさわり、確かに聞いていて気持ちが悪かった。だが、キラ星のごとく名人ぞろいだった時代を知る親父は、もっと気持ちが悪かっただろう。
 宇野信夫は、正蔵改め林家彦六についてこんなことを書いている。2007年(平成19)に河出書房新社から出版された、『私の出会った落語家たち』から引用してみよう。
  
 息子のおかげで小半治は楽をしているようなことを聞いたが、その後、新宿の寄席の前で倒れたという。/林家彦六にあったとき、そのことをいうと、/「いいえ、それは違います。柳家小半治は、新宿の駅で倒れました。そうして駅員の手あつい看護のもとに、息をひきとりました」/小半治の哀れな死も、晩年、顫え声になってばかにテンポがゆるやかになった彦六のあの調子でいわれると、なんとなくケブ半の小半治らい最期のようにきかれた。
  
 上記のエピソードはふたりとも記憶が混乱していて、小半治が倒れたのは上野広小路駅だったのが事実だ。噺家のしゃべりや雰囲気のことを、よく「もち味」というけれど、彦六も圓楽も「もち味」というにはあまりにしゃべりがまだるっこしかった。宇野信夫は「晩年」の彦六と書いているが、あの歯の裏に餅がひっかかっているようなしゃべり方は、わたしが小学生のころから基本的に変わらなかった。
 正蔵(彦六)の弟子が真打になったとき、圓生から「あんなまずい者を真打にするのはどういう了見だい?」といわれ、以来、正蔵は圓生のことを目の敵にして批判するようになった。わたしの目から見ると、正蔵の弟子はおろか「情実人事」の正蔵自身に、圓生の爪のアカでも煎じてのませたなら、もう少しスマートなしゃべりができるようになるのではないかと思ったぐらいだ。わたしでさえイライラするぐらいだから、よりせっかちで耳が肥えていた親父にしてみれば、江戸東京落語を演じるのが許せない噺家のひとりだったのだろう。
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 さて、わたしの知らない「黒門町の師匠」こと8代目・桂文楽には、興味深いエピソードが残っている。文楽は戦前、子どもがいなかったために親戚から養子を迎えたが、日米戦争がはじまると、その養子が軍需工場で働くために満州へわたりたいといいだした。危険だからと文楽は止めたが、養子はきかずに満州へ旅立っていった。
 心配でいてもたってもいられない文楽は、よく当たるという雑司ヶ谷にいた「拝み屋」に出かけていき、養子のゆくすえを占ってもらっている。この雑司ヶ谷の「拝み屋」とは、4代目・柳家小さんの妹が開いていた占い処で、ひょっとすると彼女は江戸期からつづく巫女の系譜だったのかもしれない。文楽は、ふだんから小さんの妹ということで顔なじみだったらしく、さっそく養子について相談している。同書より、占術の箇所を引用してみよう。
  
 大きな数珠を首にかけた小さんの妹は、頷いて祭壇へむかい、数珠をもんで拝みはじめた。経文をとなえるうち、からだ中に顫えがきて、何かがのり移ったらしい。しばらくからだを顫わしていたが、ややあってしづまると、/「もくず――という言葉が出ました」/もくず――拝み屋は、その意味がわからないという。文楽にも、もちろんその意味はわからなかった。/それから半年後、養子の乗った船が撃沈され、全員が戦死をとげた、という知らせがとどいた。/養子は海の藻屑となったのである。
  
 非常によくできた話だが、これは文楽があとから尾ひれをつけて語った“物語”ではないだろうか。小さんの妹は、確かに「もくず」とつぶやいたのかもしれないが、養子が海で死んだのか、満州で戦闘に巻きこまれて死んだのかは戦後になってもわからず、文楽は満州引揚者の尋ね人メディアを使って、戦後もずっと養子の消息を探しつづけている。また、養子は軍人(海軍という話に変わっていく)ではなく、軍需工場の工員として満州へわたったのであり、「半年後」に「戦死」の公報が入ることはありえないだろう。
 結局、養子は行方不明のまま、1年後には死亡したということで文楽はあきらめがついた。だが、「拝み屋」が発した「もくず」という言葉が心にひっかかっていたらしく、ひょっとすると戦時中に海上で乗っていた船が、米軍の潜水艦による攻撃で撃沈されたのかもしれないと、思いこむようになったのではないだろうか。
 なぜなら、戦後に文楽が身体を壊して入院したとき、再び雑司ヶ谷にいた4代目・小さんの妹に、今度は自分自身のゆくすえを占ってもらっているから、あながち彼女の占いを信用していなかったわけではないようだ。この占いで、「桂文楽はまだ大丈夫」といわれ、それが効いたのか再び元気に高座をつとめるようになった。
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 4代目・柳家小さんの妹がやっていた占術は、江戸期には社(やしろ)にいた巫女(現代のアルバイト「巫女もどき」ではなく神主のこと)が占っていたようなテーマで、彼女たちは政治(まつりごと)や生活(たつき)など、市民たちの多種多様な困り事や悩み事について助言したりする役割を担う、よろず相談所のような役割が与えられていた。
 だが、中国や朝鮮半島の思想普及にことさら熱心で忠実な薩長政府が、「儒教の七去三従が、婦人道徳の基調となれば、巫女の身の上にも動揺を来たさぬ理由はない筈」(中山太郎)と、政府教部省は1873年(明治6)に「女子が社の神主とはケシカラン」と巫女禁断法Click!を発令した。もっとも早くから知られる日本の歴史で、巫(ふ)女王だったとみられる卑弥呼(日巫女)をいただく原日本の文化(文化人類学ベースの広義の文化)が、外来思想によって無理やり大きく変質・破壊されようとした近代における危機だったろう。
 以来、神主だった巫女たちは社(やしろ)を追いだされ、市中に住んで「拝み屋」や「占い師」などに姿を変えて、街なかのカウンセラーとして生計を立てていくことになる。戦後になると、東京では次々に女性神主(本来の意味での巫女)が復活しているが、いまだ朝鮮半島経由の儒教思想が根づいてしまった地方では、「神主は男がつとめるもの」という、薩長政府がまいたここ100年ほどのしがらみから抜けきれないようだ。
 このような市井に追いだされた巫女たちの系譜は、政治(まつりごと)について予言や助言を行なう巫女のほか、生活に根ざしたさまざまな課題について占い予言する、おもに5つのタイプに分類できるという。1929年(昭和4)に脱稿した膨大な原稿をもとに、2012年(平成24)に国書刊行会から出版された中山太郎『日本巫女史』から引用してみよう。
  
 、口寄せと称する、死霊を冥界より喚び出して、市子(市井の巫女)の身に憑らせて物語りをする<俗にこれを「死口」という>か、これに反して、遠隔の地にある物の生霊を喚び寄せて物語りする<俗にこれを「生口」という>こと/ 、依頼者の一年間<または一代>の吉凶を判断する<俗にこれを「神口」とも「荒神口」ともいう>こと/ 、病気その他の悪事災難を治癒させ、または祓除すること/ 、病気に適応する薬剤の名を神に問うて知らせること/ 、紛失物、その他走り人(行方不明者)などのあったとき、方角または出る出ないの予言をすること(カッコ内引用者註)
  
 この分類によれば、雑司ヶ谷で開業していた4代目・小さんの妹の「拝み屋」は、「二」あるいは「三」あたりの巫術に長けていた女性だとみられる。ちなみに、その巫術に古くは鋳成神とともに大鍛冶・小鍛冶Click!の奉神であり、江戸期の生活では火床や台所にある竈(かまど)の神とされていた(三宝)荒神Click!と習合しているのが面白い。「荒神」が江戸期の「庚申」信仰と習合し、中にはサルタヒコを祀っていた巫女も存在したかもしれない。
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 もうひとり、わたしの知らない古今亭志ん生(柳家甚語楼)だが、彼が戦前の一時期に師事した柳家三語楼に面白い噺が残っている。戦前、現代落語で知られた三語楼だが、長屋の会話で熊さんが隠居に、「なぜ貧乏人はプロレタリヤってんです?」と訊くと、日ごろから物知りを自慢にしている隠居は返答に困り、「プロレタリヤは元来、フラレタリヤといったんだ。貧乏人は女によくフラれるだろうが」と答えた。すると、熊さんが「フラレタリヤじゃ、フに丸がついてねえじゃありませんか?」と問い返すと、「マル(円)がねえからフラれるんだ」。……次回の記事もなんとか書けたから、おあとがよろしいようで。

◆写真上:子ども時代、親には多くの舞台を連れ歩かれたが寄席は少なかった。
◆写真中上は、1968年(昭和43)に上映された『妖怪百物語』(大映)のオープニング。は、同映画で夜どおし百物語を語る噺家を演じた林家正蔵(彦六)。は、小学生のわたしにはあまりにも怖かったろくろっ首のお姉さん。いまとなっては、こういうキレイなお姉さんなら少しぐらい首が伸びてもいいかもしれない。(爆!) でも、岸田今日子のどこまでも追いかけてくるろくろっ首Click!はおっかないからイヤだ。(爆!×2)
◆写真中下は、映像はともかく実際に見たことがない古今亭志ん生()と桂文楽()。は、噺家といえばこのふたりだった三遊亭圓生()と柳家小さん()。
◆写真下は、巫女が歩いてきそうな法妙寺裏あたり。は、雑司ヶ谷鬼子母神の大イチョウ。は、1921年(大正10)に撮影された『日本巫女史』の著者・中山太郎。(後列左から3人目) 前列には金田一京助Click!やニコライ・ネフスキー、柳田國男Click!、後列左には折口信夫Click!、今泉忠義など民俗学の研究者たちが顔をそろえている。

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上落合へ通いつづける杉村春子と『女の一生』。 [気になる下落合]

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 1970年代の半ば近くだったろうか、わたしは高校時代に文学座の舞台で杉村春子の『女の一生』を観ている。どこの劇場だったかはまったく憶えていないが、両親もいっしょだったので、きっと誘われてしぶしぶ観に出かけたのだろう。
 このとき、「布引けい」の少女時代を演じた70歳近い杉村春子が、桃割れ髪に紅い懸綿の16歳の少女姿で、黄色い声をあげながら舞台へ登場したとき、わたしは危うく座席からずり落ちそうになった。ただし、三つ編みのお下げ髪にセーラー服姿の杉村春子も確かに観たことがあるので、それが『女の一生』だったか別の芝居だったのか、もはやおぼろげな昔のことで記憶がさだかでない。杉村春子は死去するまで、947回も『女の一生』を演じつづけているから、80歳でも16歳の少女を演じていたのだろうか。
 当時は、「すごいもん観ちゃったぜ、かんべんしてくださいよ」と思っていたのだが、第三幕で布引けいが「誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩き出した道ですもの、間違いと知ったら、自分で間違いでないようにしなくちゃ」という主体性あふれる台詞は、戦後の杉村春子を支える座右の言葉になっていたらしい。この芝居自体が、肺結核のため夭折する文学座の脚本家・森本薫が、杉村春子のために書いた台本だったからだ。
 ただし、この言葉にはもうひとつ時勢にからめて深い意味がこめられているように思える。日本がまちがった方向へ進み、それが「間違いと知ったら」ほかでもない自分たちで「間違いでないようにしなくちゃ」。森本薫は、根っからの反戦主義者だった。
 戦時中、東中野に母親と住んでいた杉村春子は、頻繁に落合地域へ足を運んでいた。『女の一生』を執筆中だった森本薫の家が、上落合にあったからだ。当時の様子を、2002年(平成14)に日本図書センターから出版された杉村春子『舞台女優』から引用してみよう。この本は、おもに杉村春子へのインタビューを編集してまとめられたものだ。
  
 戦争中のことですが、その頃私の家は東中野、森本さんの家は落合にあって、歩いて十分程の近さでしたから、しばしば行き来して家族ぐるみでおつきあいしてました。その頃森本さんには既に奥様と二人のかわいい男の子がありました。文学座のこれからのことやなにやかやと、二人は頻繁に会って話していても、恋が私たちの心の中に芽ばえつつあったとは、お互い気づいてもいないことでした。
  
 森本薫の「奥様」とは、女優の吉川和歌子(森本和歌子)のことだ。「歩いて十分程の近さ」としているので、杉村春子は中央線・東中野駅の北側にあたる中野区の住吉町か桜山町に母親とともに住んでいたものだろうか。森本薫は当時、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)に家族とともに暮らしていたので、ちょうど両町の駅寄りのあたりから森本邸へは10分ほどでたどりつけただろう。改正道路(山手通り=環六)Click!の工事がかなり進捗し、工事にひっかかる下落合4丁目1982番地(現・中井2丁目)にあった矢田津世子Click!の家が、隣接する敷地へ移転していたころだ。
 この上落合2丁目829番地は、すでに拙サイトでは何度も繰り返し登場している地番だ。まず、大正末から昭和初期にかけ、「なめくじ横丁」Click!と呼ばれた安普請の長屋が建っていた場所だ。そこには、檀一雄Click!尾崎一雄Click!たちが住んでおり、ときおり太宰治Click!古谷綱武Click!が姿を見せては、中井駅前の喫茶店「ワゴン」Click!で安いウィスキーをひっかけていた。また、向かい合わせの長屋には、上野壮夫Click!小坂多喜子Click!の夫婦が住み、居候には画家の飯野農夫也Click!も暮らしている。さらに、作家の立野信之Click!や水野成夫、村尾薩男も同地番に住んでいた。
 森本薫一家が住むころには、さすがに古びたボロボロの長屋は解体され、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を見るかぎり、新たに一戸建ての借家が並んでいたとみられるが、複雑な細い路地のある風情は、昭和初期とあまり変わらなかったかもしれない。杉村春子は、東中野から北上すると早稲田通りを横断して、北へ入るいずれかの細道を進み、やがて上落合銀座通りを突っきり、さらに細い路地を北へ抜けて森本邸を訪れていたのだろう。
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 当時は戦時中なので、舞台には政府当局からさまざまな制約が課させられていた。上演時間は3時間以内で、場面の転換は許されず1場面のみ、舞台装置も1種類に限られていたから、場所があちこちに変わるような芝居はもはやできなかった。そのため、森本薫は場面を変えずに布引けいが少女から老女になっていく、すなわち時代が流れて変わっていくという同一場面の設定で『女の一生』を書きあげている。
 また、『女の一生』は書きあげていくそばから原稿を4~5部ずつを手書きで複写し、杉村春子をはじめ文学座の俳優たちが常に分散して持ち歩くようにしていた。上落合の森本邸が、いつ空襲に遭うかわからないので、執筆済みの原稿が焼けてしまわないよう、森本や杉村が考えだした危機管理の手法なのだろう。
 森本薫は、杉村春子によれば「戦争には絶対反対の立場に立つ人で、(中略) 戦争を心底嫌っていました」というような思想の脚本家だった。『女の一生』では、堤家の長男・伸太郎と結婚し、家の貿易業を仕切るようになったヒロインの堤けいが、「金もうけができるなら何でもいいじゃないの」と日本の植民地支配を正当化するのに対し、夫の伸太郎が日本の中国侵略を批判する場面が出てくる。また、左翼の活動家になった伸太郎の弟・栄二が、かくまってくれるよう彼女のもとへ訪れるが、事業を守るためにそんな人間は置いておけないと、特高Click!に栄二がいることを告げてしまう。すると、彼女の娘・千恵は「おじさんを権力に売り渡すなんて!」と、別居していた伸太郎(父親)のもとへ去ってしまう。堤けいは、ますます絶望感とともに孤独になっていく……。
 このような台詞のまじる筋立ての脚本が検閲を通ったことに、書いた森本本人はもちろん杉村春子も驚いたようだ。戦争も末期に近づき、緻密な検閲をしている余裕がなくなっていたか、あるいは映画『無法松の一生』Click!のように、たまたま芸術に理解のある文系出身の検閲担当者にあたったものか、その経緯は現在でも不明のままのようだ。
 森本薫が、そもそも上落合2丁目829番地に住んでいたのも、なめくじ横丁時代からそのあたりに土地勘があった、あるいは借家の地主をもともと知っていた文学・演劇仲間からの紹介だったのかもしれない。『女の一生』を脱稿したあと、ますます東京への空襲が激しくなり、森本薫の妻と子どもたちは京都へ疎開することになった。東京には森本薫ひとりが残ることになったが、杉村春子は上落合へ通いつづけるのをやめなかった。
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 1945年(昭和20)になると、森本薫は京都に疎開した家族の様子を見に、鳥取へ疎開する脚本家の田中澄江とともに東京を離れている。『女の一生』の稽古がスタートする直前には、東京へもどることになっていた。ちなみに、『女の一生』の伸太郎は宮口精二が、栄二は中村伸郎が演じる予定になっていた。当時の様子を、同書より再び引用してみよう。
  
 そして『女の一生』の稽古が大久保の中村伸郎さんの家であるという日の前日に、森本さんは帰ってくることになっていましたので、その日私は何度となく中野の駅まで迎えに行きました。その頃の駅員ときたら、ほとんどが駆り出された若い女の子たちという有様で、それこそズブの素人ですから、列車の到着時刻も何もわかるはずもなく、ずい分心配させられました。/途中で何かあったのでは、空襲は……、と気も狂いそうな思いで幾度も、駅への暗い道を往復したものです。/夜おそくやっと森本さんは帰ってきました。森本さんのお姉さんの家業の鼻緒のお土産をひらいていると、突然、空襲警報が鳴り出しました。それがあの恐ろしい三月十日の東京大空襲Click!でした。/生きた心地のしなかった夜がやっと明けて、とにかくお稽古ということで、中村伸郎さんの家へ行った時、築地小劇場が昨夜の大空襲で焼け落ちたと聞かされ、私はあまりのショックでその場でワァワァ声を出して泣き出してしまいました。
  
 文学座の中村伸郎Click!の父親は、小松製作所の創業者(社長)であり大久保に大きな邸宅をかまえていたので、広い部屋の家具を片づけて稽古をすることができたのだろう。森本薫が京都からもどったのは、3月9日の夜だったのがわかる。
 杉村春子は、生きているうちに最後の芝居をしたいと、『女の一生』の脚本を手にあちこち働きかけたようだ。文学座の演出家たちや東宝が、焼けていない都内の劇場を探しまわり渋谷の東横映画劇場で、1945年(昭和20)4月11日~13日・15日・16日の5日間にわたり久保田万太郎の演出で上演することができた。すでにお気づきの方もいるだろうが、『女の一生』の舞台は4月13日夜半の第1次山手空襲Click!の真っただ中で開演したことになる。14日に休演しているのは、空襲直後の混乱によるものだろう。
 森本薫は、5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で上落合の家が焼けると、家族のいる京都へ疎開し、そのまま結核の症状が急速に進行して、杉村春子が帝劇で有島武郎の『或る女』を稽古中、1946年(昭和21)10月6日に34歳の若さで急死している。
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 杉村春子が演じる16歳の娘を眼前に、座席からコケそうになった高校生のわたしは、やがて文学座付属研究所を卒業した女性を連れ合いにするとは夢にも思っていなかった。信濃町の自邸+アトリエ(研究所)での杉村春子については、機会があれば、また別の物語……。

◆写真上:杉村春子が通った、上落合2丁目829番地の森本邸があった界隈。
◆写真中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)。すでに長屋状の建物は採取されておらず、地主が新たに建てた一戸建ての借家が並んでいるようだ。は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された空襲直前の同所で、この中に森本薫邸が写っているはずだ。下左は、戦時中に『女の一生』を書きあげた森本薫。下右は、広島女学院で音楽教師をしていた10代のころの杉本春子。
◆写真中下は、戦前に杉村春子が住んでいた東中野の路地のひとつ。は、1953年(昭和28)の小津安二郎・監督『東京物語』に出演した杉村春子と山村聰Click!は、『女の一生』の初演で栄二役だった中村伸郎()と伸太郎役だった宮口精二()。
◆写真下は、第1次山手大空襲のさなかに『女の一生』が上演された渋谷道玄坂の東横映画劇場。は、1945年(昭和20)ごろに撮影された『女の一生』の舞台写真で、手前が布引けい(堤けい)役の杉村春子で奥は夫・伸太郎役の宮口精二だろうか。は、1970年(昭和45)に上演された文学座の舞台『にごりえ』での杉村春子(左)と太地喜和子(右)。

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子どもを食らう深大寺の仁王。 [気になるエトセトラ]

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 「仁王塚」と呼ばれる遺跡が、全国各地に散在している。そう名づけられた由来は、寺の山門にいる仁王像(金剛力士像)が阿吽の2体1対のため、よく似ている“左右”の塚墓だから「仁王塚」と呼ばれるようになった……とするものが多いようだ。もちろん、この名称は後追いの付会と思われ、「仁王塚」と呼ばれる以前から、左右で1対に見える双子のような塚(古墳)は存在していたのだろう。
 東京にも、いくつかの仁王塚が散在しているが、怪談が付随しているのは深大寺門前の仁王塚だけだ。ただし、いまでは深大寺の仁王塚がどこなのか、まったく不明となっているようだ。仁王塚があったとされるあたり(深大寺元町3丁目界隈)で発見された、縄文早期から中世までの遺跡は、自治体が「仁王塚遺跡」と名づけているが、これは塚名というよりも地域名として遺跡に仁王塚を付加したものだろう。下落合の「丸山」Click!と同様に、近世以降は字名として採用されていたのかもしれない。現在の同地は、一面に住宅や各種施設が建ち並び、もはや塚状の地形はどこにも存在しない。
 また、深大寺元町3丁目の斜面から発見された古墳群には、「御塔坂横穴墓群」と名づけられている。もちろん、同古墳群は古墳末期の横穴墓であって塚状突起の墳墓ではない。さらに、深大寺の門前の坂のひとつで、仁王塚があったとされる仁王坂が通う斜面一帯だが、戦前からの空中写真を年代を追って眺めても一面に田畑が拡がるだけで、塚らしい明確な地面の突起は確認できない。ただし、冬場に撮影された空中写真を見ると、仁王坂の坂下に近い斜面西側に、小さな突起物らしきものがふたつ並んで見えているが、武蔵野に多い巨大な樹木(常緑樹)の影かもしれず断定することができない。
 深大寺で語られてきた怪談とは、仁王塚にはその名のとおり深大寺の山門にいるべき仁王像が埋められているという、まことに人を食ったような伝説だ。そのせいで、深大寺の山門には仁王がいなくなってしまったのだという。江戸期あたりの付会臭がプンプンする伝承だが、なぜ仁王が埋められることになったのかといえば、人を食ったからだ。すなわち、深大寺の怪談とは、近所に住む子どもを食った仁王たちの話なのだ。
 わざわざ深大寺まで出かけ、当時の住職に取材した磯萍水Click!のレポートが残っている。1943年(昭和18)出版の『武蔵野風物志』(青磁社)から引用してみよう。
  
 私は深大寺の和尚さんに訊いてみた。和尚は一寸迷惑らしい眉を顰めたが、やがて旧の諦めた顔に復つて、/「実は……」/四辺を憚る挙動で、声を竊めて、/「実は、彼の二王(ママ)は人を喰ひましたので」/「エツ、人を……」/私は不覚ず息を吸いた。
  
 和尚の話はこうだ。時代は不明だが、日が暮れるまで遊びほうけた村の子どものひとりが、黄昏どきになっても帰ってこない。子どもを心配した両親が、暗くなるまで村内をあちこち探してまわったが、まったく行方が知れなくなった。やがて、村じゅうが大騒ぎとなり、村民が総出でたいまつを片手に捜しまわったが見つからない。一度探したところも、人を変え目を変えて繰り返し探したが、ついに発見することができなかった。
 そこで、誰かが念のために深大寺の境内も探してみようということになり、村人たちが山門にやってくると、仁王の口からなにかが下がっている。たいまつの灯りをかざしてよく見ると、子どもが着ていた着物の付き紐がひっかかっていた。
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 馳集る人々、その母は、疑れもないわが児の着物の付紐だと云ふ。/何と云ふ事であらう、浅猿しとも、残酷しとも、何とも云ひやうもない大変である。正に、小児は二王さまに喰はれて了つたのだ、二王が小児を喰つて了つたのだ。
  
 このあと、両親の悲しみと村人たちの憤怒とで、深大寺の山門はただちに打(ぶ)ち壊され、2体の仁王像はバラバラにされ近くに穴を掘って埋められた……。
 この経緯は、おそらく話の順序が逆立ちしているのだろう。古墳時代の末期ごろに造られたとみられる御塔坂横穴墓群の丘上には、ふたつの双子のように築造された塚(時代は発掘調査の記録が見あたらないので不明)が並んでいた。おそらく当時の村人が、まるで寺の山門の左右にいる仁王像のような趣きなので「仁王塚」と名づけ、ほどなく丘上に出られ深大寺への参道筋である近くの坂道は、村人たちから「仁王坂」と呼ばれるようになった。何世代かたつうちに、「仁王」の名称がひとり歩きをしはじめ、おそらく江戸時代からだろうか、深大寺の住職が仁王塚にもっともらしい物語を語りはじめた。「子どもの蒸発」→「仁王に喰われた」→「山門を壊して仁王2体を埋めた」→「だから子どもは暗くならないうちに帰宅するように」という教訓話が、後世に付会されているように思われる。
 現在は形状をとどめない仁王塚だが、磯萍水は当の仁王塚を帰りがけに訪ねている。「秋晴の日何時しか曇つて、今にも降つて来さうな逢魔ヶ時、私はその二王の埋められてゐる、二王塚なるものを訪れた」とあるが、記述が曖昧でハッキリしない。地獄の閻魔大王ならともかく、仏に属する仁王が子どもを食うのはおかしいと、いろいろ推理を重ねていく。
  
 人を食べたが為に生埋めにされた、それなら何故四谷の大宗寺(ママ:太宗寺)の閻魔だの、蔵前の長延寺や大圓寺の十王堂の閻魔などは生埋にされないのであらう。大宗寺のなぞは反つてその為に売出して、付紐閻魔とさへ唱れるやうになつた。四谷と云へば誰しも先ず大宗寺の閻魔を連想する。よくも売込んだものである。處で、おなじ人を喫べながら、二王の場合には生埋めにされて、閻魔だと其儘に黙過されるのであらう。寔に依怙の沙汰ではないか。私は未だに人を喫べた閻魔が生埋めにされたと云ふ伝説を聞いてゐない。
  
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 そして、磯萍水は悪賢い“人さらい”のせいだと推理する。さすがに彼は20世紀人なので、「天狗にさらわれた」というような設定ではなく、人さらいが少年をさらったが、子どもがもどらないと村人が総出で探索・追跡してくるだろうから、追いつかれて見つかるかもしれない。そこで、子どもの着ていた着物の一部を仁王(おそらく阿形だろう)にくわえさせ、あたかも仁王が食ったように見せかけて時間を稼ごうとした……という推理だ。
 「仁王に食われた」よりは、江戸期の社会環境を考えるならかなりリアリティのある想定だろう。でも、当時の人々さえ仏である仁王が「なんで子どもを食らうんだ?」と、疑問をまったく感じないのはおかしいし、当事者である深大寺とのやり取りもないまま、こののちすぐに山門ごと破却され、仁王像が打(ぶ)ち壊されて穴に埋められてしまうのも不自然だ。つまり、子どもが行方不明になったという前提からして、全部丸ごと作り話なのではないかと考えるのがわたしの推測だ。
 なによりも、山門ごと仁王像が破壊されているのに、かんじんの深大寺側からの反応がなにも語り継がれていないし、仁王塚が宅地化される際に縄文期から中世までの遺跡は発掘されているものの、かんじんの仁王像はどこからも出土していない。江戸期から、仁王像のいる大きな山門が存在しない深大寺では、いつも「なぜ天平からつづくこれだけの古刹なのに、仁王のいる山門がないのか?」と訊ねられ、当時の住職がそれを常々残念に思っていて、たまたま坂の途中に地元民から仁王塚と呼ばれる墳墓があるのとからめて、もっともらしい物語を創作したのではないだろうか。
 この怪談は、『江戸名所図会』にも収録されているので、幕末も近い天保年間にはすでに成立していたのがわかる。したがって、語られはじめたのは江戸時代の前中期のいずれかの時期ではなかっただろうか。
 さて、話は変わり、秋めいた深大寺を訪ねた磯萍水だが、そのころからニュウダイスズメ(ニュウナイスズメ)の姿が目立ってきたという。わたしは、スズメにに頬が黒い個体と白い個体があるのは知っていたが、特に別の種だとはとらえてはいなかった。白い頬をしたスズメを、ニュウダイ(入内)と呼ぶのだそうだ。両者は、頬の色を除いてはとてもよく似ており、ちょっと見はふつうのスズメだが、秋から冬にかけて北のほうから渡ってくるのがニュウダイスズメだとか。思うに、京の御所の公家たちが顔に白粉を塗りたくっていたので、入内したスズメということで名づけられたのだろう。
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 磯萍水は地元の村々で、武蔵野の小鳥たちに付けられていた愛称も採取している。たとえば、ミソサザイは「棚さがし」または「下女のぞき」、キビタキは「山の神」または「団子背負い」、キクイタダキは「算盤たたき」、鷺は「雪客」、ヨタカは「瓜もみ」「黄瓜きざみ」「嫁起し」、カワセミは「魚虎」、そしてメジロは「奥さま」と呼ばれていたそうだ。でも、現代では野鳥をこのような名前で呼ぶ人に、わたしは一度も会ったことがない。

◆写真上:玉眼の水晶が美しい、鎌倉比企谷(ひきがやつ)にある妙本寺の仁王(阿形)。
◆写真中上は、仁王門が存在しない深大寺のコンパクトな茅葺きの山門。は、1958年(昭和33)に撮影された深大寺の門前蕎麦と現在の同店。
◆写真中下は、1958年(昭和33)撮影の深大寺雑木林。は、仁王坂の西側にふたつの突起らしいものが写る1947年(昭和22)と1948年(昭和23)の空中写真。
◆写真下は、内藤新宿の太宗寺にある閻魔堂の鰐口と閻魔大王。は、冬になると見かけるニュウダイスズメ(ニュウナイスズメ/)とスズメ()。
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