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どんど焼きの煙がただよう江戸東京。 [気になる下落合]

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 子どものころ、親父がよく玩具を買ってきてくれたことがある。それが、アニメキャラクターのロボットやプラモデルだったら嬉しかったのだが、そうではないモノがずいぶん混じっていた。神奈川県の海辺Click!に住んでいたころのことで、ときどき欲求不満になると親父は地元の東京に出かけては、各地を徘徊していたものだろう。
 今戸焼きの土人形を買ってきてくれたときには、こんなものでどうやって遊ぶのだろうと呆気にとられた。白ギツネが銀色の裃(かみしも)を着て、ただ正座して笑っている素焼きの人形に彩色しただけのものだった。ほかに、姉さんかぶりのダルマのようなお多福人形や、ぶちのイヌだかネコだかわからないものもあった。当然、そんなものでは遊ばない(遊べない)ので放置すると、親父は大事そうに居間の棚の上に飾っては眺めていた。
 雑司ヶ谷鬼子母神Click!薄(すすき)みみずくClick!を、「東京のオモチャだよ」といって渡されたときは、頭がエポケー(判断停止)状態になった。こんなモノで、どうやって遊ぶんだ?……と不満顔をしたのを気づかれたのかもしれない。親父は、わたしから早々に薄みみずくを取りあげると、魚が優雅に泳ぐ鎌倉彫りのマガジンラックへ突っとして飾っていた。そのほか、花独楽や芝神明千器箱、王子の槍などもあったと思う。20世紀後半少年は、もはやそんなものでは遊ばない(遊べない)のを悟ったのか、その後、親父は自分のために東京玩具を集めるようになった。棚の上には、なんだか玩具とも置物とも縁起物ともお守りともつかない、多種多様なものが増えていった。
 これらの玩具は、江戸期から東京の寺社や祭りのときに出る屋台などで売られていたもので、親父の世代でさえすでにおぼろげで懐かしいモノたちだったのだろう。江戸東京玩具は、江戸市街地から離れた郊外で造られていたものが多く、日用品を製造するかたわら玩具をこしらえたり、農家の副業として生産されていたものも多い。あるいは、寺社の祭礼にあわせて製造され、あまった玩具は市街地にある寺社の祭礼日に、屋台や露店で縁起物として売られていたのだろう。
 江戸後期の地勢でいえば、今戸焼きの今戸は浅草田圃のさらに外れだし、薄みみずくの鬼子母神は当時から有名な郊外散策の観光スポットで、徳川吉宗Click!が狩りの途中で立ち寄ったり、物見遊山がてら茶番劇Click!の舞台として脚光をあびたりする農村地帯だった。いまから見ればだが、そこで生まれた素朴な玩具は味わいのあるものが多い。
 子どものころ、戦前に売られていたそれらの玩具は、すでに大正末から昭和初期に生まれた「大人のおもちゃ」と化しており、そんなモノをもらっても嬉しくも懐かしくもないわたしは、ひたすら「次のお土産」に期待するしかなかった。1943年(昭和18)に青磁社から出版された『武蔵野風物志』で、磯萍水Click!(いそひょうすい)はこんなことを書いている。
  
 昔の玩具は、今の大人の玩具となつた。而もその大半は過去帳に其名を留めるばかり、今日にして辛うじて得られるのは、神佛関係の物だけである。それさへも此先何年の寿命があらう、覚束ない限りである。来年はと思つて、その明る年に果たしてそれが手に入らうか。年と共に、日と共に滅亡に近づきつつある。
  
 磯萍水はこう書くが、先の今戸焼きも薄みみずくも現役で、いまだに造られつづけている。わが家には、残念ながら今戸焼きはないが、薄みみずくはときどき買っては玄関の収納などに刺しておく。そのうち、穂が乾燥しすぎてバラバラになり棄てることになるが、またしばらくすると入手しては刺しておく。死去した義母Click!が大好きで、わざわざ雑司ヶ谷にある薄みみずくの工房まで買いにいったのを憶えている。
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 休日は、わたしも親父の東京散策に同行できるので楽しみだった。もちろん、洋食和食を問わずうまいもんClick!シャレたもんClick!が食べられるので楽しいのだが、もうひとつオモチャを買ってもらえるチャンスでもあったからだ。特に、空襲で焼けるまで実家があった日本橋方面へ出かけると、日本橋三越Click!のオモチャ売り場へ立ちよる可能性が高くなる。三越の大理石の壁にある、いくつかのアンモナイト化石を眺めたあとオモチャ売り場へ上がっていくのが、子どものわたしが感じる「生き甲斐」の第1号だったろう。
 そこでは、今戸焼きとか薄みみずくとか、頭が真っ白になるどうしようもない昔の玩具ではなく、ちゃんとした現代のオモチャを買ってもらえるからだ。ところが、日本橋をすぎて大川(隅田川)の水辺の匂いがしはじめ、日本橋浜町の明治座Click!なんかに入ったりすると、もうつまらない“大人の事情”ばかりの新派Click!なので、わたしは午睡するしかなかった。水谷八重子(初代)や菅原謙二、安井昌二、伊志井寛、京塚昌子、波乃久里子たちが演じる舞台の下でグッスリ昼寝をしていたのだから、いまから考えればとんでもなく贅沢な午睡をしていたわけで、惜しいことこのうえない。
 いつだったか、親たちが東京の東側に足を向けたので、これは“三越チャンス”とばかり期待したのだが、途中からぜんぜん見馴れない街のほうへと向かっていく。いまでは、どこをどう電車を乗り継いでいったのがまったく憶えていないが、正月明けの寒い季節だったのは紐つきの手袋をしていたので憶えている。小学校1~2年のころだろうか。
 目的地に着いてみると、大きな焚き火がいくつか燃えており、木の枝に色とりどりの餅を突っとしては焼いていた。東京に古くからお住まいの方なら、もうおわかりだろう。正月飾りや、前年の破魔矢、注連縄、御札などを焼いて1年間の無病息災を願う「どんど焼き」Click!(=芝灯祓い/塞戸祓い/歳と祓い)、古い江戸東京方言でいうと「せいとばれえ」Click!だ。どんど焼きで焼いた餅を食べると、1年間は病気をしないで済むという謂れがあった。連れていってくれたのが、どこのどんど焼きだったのかは訊きそびれてしまったので、いまとなってはまったくわからない。
 ちなみに、駄菓子屋Click!で小腹が空いた子どものおやつ用に売られていた「どんど」と「もんじゃ」は、前者が「どんど焼き」=お好み焼きのことで、後者はいまも変わらない名称で呼ばれている粉料理のそれだ。つまり、大人は決して口にしないガキの食いもんだった。学生時代に、わたしが小腹が空いたので「どんど焼き」(お好み焼き)を作って食べていたら、親父が顔をしかめたのは東京の食文化の美意識からすると、「いい歳して、ガキじゃあるまいし」とありえない光景に映ったからだろう。
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 さて、「せいとばれえ」=どんど焼きのほうだが、なぜ親父がわざわざわたしを連れていったのかは、もう少し成長してからだが、少しわかるような気がした。1961年(昭和36)には、すでに両国花火大会Click!は防火の観点から全面禁止されており、つづいて市街地でのどんど焼き=せいとばれえの禁止も時間の問題のように思われていた。現在では、落ち葉を燃やす小さな焚き火Click!でさえ条例で禁止している自治体もめずらしくない。確かに、2階家の屋根上までとどきそうな、どんど焼きの盛大な火炎は、防火の観点から見れば危険なことこの上ないのだろう。
 だからこそ、江戸東京の正月の風物詩だったどんど焼きがいまだ健在なうちに、わたしの目に焼きつけておきたかったのだろう。でも、どんど焼きは消滅することなく、いまでも正月がすぎると、おもに寺社の境内や地域の空き地で、数こそ減ったが昔と変わらずに行われている。日常の焚き火は条例で禁止できても、無形民俗文化遺産のどんど焼きは地元の抵抗が強く、自治体が禁止にできなかったものだろう。この火祭りは、おそらく鎌倉時代よりもはるか以前から行われていたとみられる。
 戦前は、正月になると東京のあちこちで、大昔からつづくどんど焼き=せいとばれえの盛大な火祭りが行われていた。そんな様子を、電車が新宿駅に近づき夕闇迫る小田急線の車窓から観察した、戦前の記録が残っている。磯萍水の同書より引用してみよう。
  
 何の火とも気がつかず、また気をつける気にもならず、私達は無心に見過した。/見返るとまだ見える、烟はいよいよ濃くなつて、白くなり黄に、黒に、渦を捲いて四周に人を寄せつけぬ気勢を示してゐる。見えなくなつた。/と、また同じやうな火が燃え始めてゐる、これはたつた今火が放けられたばかりだ。人人は火がものになるか何うかを気づかふやうに見える。/門松が積み重ねてあつて、それにまじつてお飾りらしいのが見えた。それに火を放つけたのだ。/「どんどぢやないか」/独語のやうに云ひながら、妻の方を見た。/「どんど焚きですね」/それには答へず、見返ると、火はものになつた、勢ひよく烟が横なぐりに吹き流れた。ぱつと火の姿も見える。/この調子だと、まだどんどは此さきにも燃えてゐると思ふ。見よう、見たいものだ。暮かかるのを気にしながら、窓から目を放さない。
  
 磯萍水が目撃しているのは、1月14日の夜に焚かれるどんど焼きであって、15日の昼間行われるどんど焼きの催しとは別のものだ。東京では、14日の晩に火を点けるどんどと、15日の昼間に焚くどんどとが、地域によって混在していた様子がわかる。
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 現在でも、社(やしろ)の境内などでは竹を四隅に立てて正方形に結界を張った、どんど焼き用の焚き火を用意するところが多い。下落合や上高田の氷川明神社Click!でも、正月のどんど焼きは行われている。でも、いまでは15日に正月飾りを持ち寄って焼くことが少ないのか、わたしは同日に盛大な焚き火を見たことがない。初詣のとき、前年の破魔矢や御札を「どんど鉢」(?)で燃やす「プレどんど焼き」の炎が、いちばん大きいだろうか。でも、子どもにしてみれば焚き火も楽しいだろうが、焼いて食べる色とりどりの餅がないのは寂しいのではないかな……などと考えてしまうのは、およそ歳をとった証拠なのだろう。

◆写真上:いまでも東京各地で行われている、どんど焼き(せいとばれえ)の火炎。
◆写真中上は、安藤広重Click!の『名所江戸百景』の1作「墨田河橋場の渡かわら竈」。煙が立ちのぼっている竈が、今戸焼きの窯だ。は、現在でも造られている今戸焼き。子どものころはこんなていねいな造りでなく、もっと粗末な仕上がりだった。
◆写真中下は、雑司ヶ谷鬼子母神の薄みみずくと鬼子母神本堂。子どもが、こんな玩具をお土産にもらっても、まったくちっともぜんぜん嬉しくはないのだ。は、日本橋三越店内の大理石壁のあちこちに見られるアンモナイトの化石。
◆写真下は、1950年代に撮影された木場が舞台の新派『晴小袖』。初代・水谷八重子のおのぶに伊志井寛の三次郎だが、もちろんわたしはこの舞台を知らない。は、なによりも焼き餅が楽しみなどんど焼き(上)と、下落合氷川社のコンパクトなどんど鉢(下)。は、首都圏では最大規模となる大磯のどんど焼き(せえとばれえ)。正月の北浜海岸で行われる「左義長」は、国の重要無形民俗文化財に指定されている。


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