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既視感のある別荘地・大磯の古写真。(上) [気になるエトセトラ]

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 以前、子どものころに歩いた鎌倉Click!北鎌倉Click!をはじめ、わたしが生まれる前の誰も歩いていない、同地のひっそりとした家並みや風情Click!をご紹介したことがあった。そこで今回は、わたしが子どものころ海や山で遊んだ大磯Click!について、古写真を見つけたのでちょっと書いてみたい。大磯も鎌倉と同様に、夏場は海水浴客でにぎわうが、季節を外れると休日でも駅周辺の商店街を除きほとんど人出がなくひっそりとしていた。
 大磯は日本初の海水浴場も含め明治中期から別荘地として賑わい、鎌倉は明治末ごろから急速に拓けた街だが、大正期から別荘地の代名詞のようになっていった軽井沢と大磯が本質的に異なるのは、避暑だけでなく避寒の別荘地として1年間を通じてすごせる点だった。いつか、「大磯学」Click!の記事でもご紹介したように、真夏の8月の平均気温が26.2℃、真冬の2月の平均気温が5.4℃(2010年測定結果)と、東京に比べ夏は6~7℃も涼しく、冬は5~6℃も暖かい気候をしている。
 しかも、夏は前の海で泳げ、冬は北側の山々に北風がさえぎられ、1年じゅう連なる丘陵のハイキングコースを楽しめるという、鎌倉と近似した地勢をしている。異なる点といえば、鎌倉は街の歴史的な性格から江戸期より観光地となっていたが、大磯は西武グループが1950年代末からテコ入れしつづけてきたにもかかわらず、特に大きく観光地化することもなく、静かで落ち着いた別荘地のたたずまいをいまだ失わない点だろうか。
 江戸期の大磯は、東海道の単なる8番目の宿場町(品川宿が市内に編入された大江戸時代には7番目の宿場町)にすぎなかったが、同町が大きくクローズアップされたのは、松本順(松本良順)Click!による明治期の海水浴場と海の家の開設からだ。彼は、日本じゅうの海岸線をまわって、保養と海水浴に適した別荘地を探し歩き、最終的には神奈川県の大磯に白羽の矢を立てた。松本順自身が自ら別荘を建てたのを皮切りに、明治以降の政府要人や財界人、おカネ持ち、文化人、芸術家などがこぞって別荘を建てて今日にいたっている。
 わたしが子どものころ、これら政治家やおカネ持ちたちが建てた、明治から大正期にかけての西洋館や和館はずいぶん残っていたけれど、西武グループがプリンスホテル(大磯ロングビーチ)を建設し、高度経済成長が進む1960~1970年代になると次々に姿を消していった記憶がある。いまでは大隈重信Click!や陸奥宗光、伊藤博文、池田成彬、木下建平、安田善次郎Click!など、古い別荘は数えるほどしか残っていないが、戦後、新たな別荘を建てる人も多く、別荘街の風情はいまだに色濃く漂っている。明治期には、歌舞伎など主だった演劇人たちも旧・幕臣の松本順を慕ってか、夏になるとこぞって大磯ですごすようになったので、東京では芝居小屋の幕が開けられないといったエピソードまで残っている。
 以来、大磯は江戸東京人あこがれの別荘地となっていった。わたしの親から上の世代では、江戸東京人の別荘といえば真っ先に大磯の名前が挙がっていたのは、以前の記事Click!でも少し書いたとおりだ。1908年(明治41)の8月に発行された日本新聞による「全国別荘番付」では、大磯がダントツで1位の座を獲得している。ちなみに、2位は長野県の新興開拓地だった軽井沢で、3位も長野県の天竜峡だった。この感覚は、たとえば料亭+芸者の華街といえば江戸東京人は条件反射のように日本橋あるいは柳橋Click!を挙げるが、薩長政府の要人たちがそこいらでは歓迎されず敷居が高かったせいか、旧・新橋駅Click!近くの新興華街へと流れていったのに、どこか近似するような感覚だろうか。
 もっとも、大磯は横浜や東京など大都市圏へ出るのにも便利で、昭和初期に東海道線が電化されるとともに通勤圏内の駅となり、鎌倉と同様に地価もそれなりに高騰したため、別荘を建てる土地としては年々コストパフォーマンスが低下していき、永住する住宅地として注目されるエリアとなった。それにともない、軽井沢や箱根、熱海など他の地域のほうが、そこそこリーズナブルで現実的な別荘地として賑わいはじめたのだろう。
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 平塚駅を出た東海道線は、次の大磯駅に着くのはわずか4分後だ。山手線にたとえれば、目白駅を出たと思ったら下落合の横を通って、すぐに高田馬場駅のホームへ滑りこむのと同じような感覚だろうか。東海道線では、めずらしく間隔の短い区間だが、これも松本順の海水浴場と別荘地の設定が大きく作用している。
 2013年に創森社から出版された『大磯学―自然、歴史、文化との共生モデル―』所収の、黒川鍾信「明治・大正・昭和の商人たち」から少し長いが引用してみよう。
  
 明治18年、もしこの人が大磯を訪れなかったら、この町は“海辺の寒村”になっていたかもしれない……この人とは、日本人で最初に西洋医学を学び、初代陸軍軍医総監を務めた松本良順(略)である。/これより7年ほど前に陸軍省医務局長の職を辞した松本は、「国民の健康維持には海水浴が欠かせない」と、海水浴に適した海岸を探して全国津々浦々を歩いた。そして、「ここぞ」と見出したのが大磯の照ヶ崎とその西に広がる小余綾(こゆるぎ=小淘綾)の磯であった。/松本が大磯と出合った頃、2年先の鉄道開通を目指して東海道線新橋~国府津間の工事が進められていた。計画の中に大磯駅の設置はなかった。松本は鉄道関係の大物を訪ね、「大磯は将来、東海道沿線でもっとも開けた場所になる」と説得したが、ラチが明かない。/同年、内閣制度が確立して初代首相に伊藤博文が選ばれた。松本は、伊藤が小田原の御幸ヶ浜に別荘を持っていることを知っていた。静養の行き来に大磯を通る伊藤は、松本の計画に賛同、大磯駅の設置に尽力した。同時に松本は、東京の新富座で菊五郎、歌右衛門、左団次などに『名大磯湯場の対面』を演じさせたり、彼らを海水浴に招いたりして大磯の名前を広めた。/東海道線の開通と共に大磯駅ができると、松本は、海辺や丘陵のふもとに高級旅館を建てさせ、名士たちの夏冬の社交場とした。(カッコ内引用者註)
  
 幕府の西洋医学所の頭取として、幕末のコロリ(コレラ)の流行や薩摩のテロリストClick!たちによる被害者や罹災者と対峙していた松本順は、江戸東京人たちにもあまねくその名が知られていたので、彼らもこぞって大磯の別荘地(江戸風にいうなら寮町)化と、日本初の海水浴場を応援したのだろう。海水浴に適した旅館ばかりでなく、海水浴場の浜辺に休憩や軽食、身体の洗浄などができる「海の家」を設置したのも松本順のアイデアだ。
 この時期、明治政府にも顔がきくようになった彼は、医師というよりも緻密なプランナー兼プロモーター兼アドバタイザー兼ディベロッパーのような八面六臂の活躍をしており、幕府や明治政府の医者にしておくにはもったいない人材であり才能を感じるのは、わたしだけではないだろう。(爆!) このあと、大磯に次いで鎌倉の由比ヶ浜にも海水浴場が開設され、やがて全国各地の浜辺に次々と海水浴場が拡がっていく。
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 松本順の「大磯は将来、東海道沿線でもっとも開けた場所になる」という、オバートークが過ぎてひやひやするプランナーwのような言葉とは裏腹に、大磯は静寂で落ち着いた別荘街としての風情を今日まで失わずにきている。そのかわり、わたしの子どものころから後続の海水浴場、すなわち東京や横浜に近い鎌倉や藤沢(鵠沼)の海がとんでもない賑やかさとなり、海水浴客が押しかけて芋の子を洗うような混雑を見せるようになった。
 そのころの大磯は、東海道線を降りる観光客の多くは大磯ロングビーチ(プリンスホテル)の送迎バスに消えていき、照ヶ崎や北浜、小淘綾の浜で泳ぐ人たちはそれほど多くはなかった。また、当時は海の汚れから照ヶ崎海岸プールで泳ぐ人たちも多くいて、浜辺で海水浴を楽しむのは地元の人たちか、夏場の別荘にやってきた都会の人たちだったろうか。鎌倉や藤沢に比べたら、大磯の浜辺はガラ空きのように見えていた。海の家でもゆっくりすごすことができ、むしろ大磯ロングビーチのほうがよほど混雑していたように記憶している。
 当時のサーファーは、花水川の出口にある花水ポイントか、北浜の岩場が近い大磯ポイント、あるいは吉田茂邸Click!があり関東大震災Click!で隆起した大磯層(後期中新世)から、貝化石Click!を産出する血洗川近くのポイントに集まっていた。松本順が大磯に住んだころ、大磯の浜辺は東は鎌倉から三浦半島まで、西は小田原の先の真鶴岬まで見わたすかぎり砂浜がつづき、大磯はまさに中心点のように感じられただろう。だが、関東大震災で大磯の浜辺には岩礁が1~2mほど隆起し(江ノ島も1mほど隆起した)、つごうのいいことに海水浴だけでなく潮だまりなどで磯遊びができる浜辺ともなった。
 わたしは子どものころ岩礁での磯遊びというと、よく真鶴や三浦半島にも出かけているが、近くの大磯での磯遊びも手軽にできて楽しかった。潮だまりには、多種多様な生物がいたけれど、運がよければムラサキウニやカニ類が採れた。でも、せっかく採集しても夏休みの自由研究で標本をつくるわけにもいかず、大磯丘陵での昆虫採集ほどに熱心ではなかった。もうひとつ、大磯の岩礁には丹沢の山々からアオバトClick!の群れがやってくるのを見るのもめずらしい光景だった。
 大磯は山の幸や、山歩きのハイキングコースにもめぐまれており、湘南平(千畳敷山)Click!や鷹取山、高麗山、相模国府があった神揃山など、季節を問わず四季折々に楽しめる山が多い。海だけでなく、同時に山歩きができる点も、松本順がことさら大磯を保養別荘地に選んだ要因のひとつなのだろう。山々の山頂からは、相模湾や伊豆半島、三浦半島、丹沢山塊、足柄・箱根連山、そして富士山まで鮮やかに眺められるポイントが多い。
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伊藤博文蒼浪閣(明治期).jpg
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 先年、花水川の河口近くにある唐ヶ原の地名を、「とうがはら」と呼んでいる人がいて、一瞬、なにをいっているのかわからなかった。もちろん、『更級日記』にちなんだ地名は「もろこしがはら」だが、そうは読めない住民たちが増えたので、「鬼子母神(きしもじん)」の「きし<ぼ>じん」Click!や「新道(じんみち)」の「<し>んみち」Click!、「打(ぶ)ち壊し」の「<う>ちこわし」と同様に、つい誤りの読みのほうへ合わせたのだろう。地図で確認しても、「とうがはら」などとルビがふってあるのが、ほんとうに情けない。
                                <つづく>

◆写真上:大正末に撮影された、大磯駅を出発し花水川の鉄橋をわたる東海道線の列車。背後は高麗山で、大磯へ避暑に出かけた佐伯祐三一家Click!もこの列車に乗っただろう。わたしがもの心つくころ、貨物列車はいまだ蒸気機関車が牽引していた。
◆写真中上は、1955年(昭和30)に撮影された大磯駅(上)と現在の同駅(下)。外壁の塗装や窓が変化しただけで、ほとんど変わらない意匠のままだ。は、昭和初期に撮影された旧・東海道の化粧坂(けわいざか/上)と同坂の現状(下)。
◆写真中下は、1890年(明治23)に3代國貞が描く芝居絵『名大磯湯場対面』(なにおおいそ・ゆばのたいめん)。は、昭和初期に撮影された国府新宿の旧・東海道(上)と同海岸の岩礁で採れる貝化石(下)。は、1935年(昭和10)撮影で国道1号線の花水橋と高麗山(上)、昭和初期の撮影で花水川をはさみ手前が唐ヶ原(もろこしがはら)で対岸が撫子原(なでしこがはら)。この河口の右手海域が、サーファーたちが集まる花水ポイント。
◆写真下は、大震災で岩礁が浮上した照ヶ崎海岸。は、明治期に撮影された伊藤博文別荘「滄浪閣」(上)と、中華料理店時代の同所(下)。ここの料理は子どものころから何度も食べたが、特に印象に残る味ではなかった。は、大正初期に撮影されたコンデル設計の赤星弥之助別荘(上)と、大磯駅前の木下建平別荘(下)。国内材のみを用いた日本で最古の明治建築・木下別荘だが、同邸がイタリア料理店に活用されているとき何度か食べたけれど、こちらも取り立てて印象に残る風味ではなかったが、2階からの相模湾の眺めはよかった。

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