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大江賢次をかわいがった片岡鉄兵夫妻。 [気になる下落合]

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 落合地域に住んだ、大江賢次Click!の想い出エッセイが面白い。なぜ面白いのかというと、書きたいことの趣旨とは別に、その周辺のコト細かなディテールまで描写するので、これまでわからなかった作家の家の様子や間取り、家具調度にいたるまで目な見えるように浮かびあがってくる。おそらく、観察眼に優れた人物だったのだろう。
 大江賢次は、これまで拙サイトの記事のいくつかに登場しており、自分で書いてていうのもおかしいが、いちばん印象に残っているのは、神戸時代から知り合いの片岡鉄兵Click!を頼って東京にやってきた小坂多喜子Click!が、下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)の第二文化村Click!にあった片岡元彌邸Click!を訪ねたときの情景だ。この時期、片岡鉄兵は葛ヶ谷15番地(現・西落合1丁目)の自宅から、日本毛織株式会社(現・ニッケ)の工場長だった姻戚の片岡邸の一部を借りて、葛ヶ谷115番地(のち西落合1丁目115番地)に建設中だった自邸の竣工を待っていた時期だ。
 小坂多喜子Click!がカネを借りに訪ねると、あいにく片岡鉄兵は講演旅行で留守にしており、なぜか大江賢次と片岡夫人のふたりが応対に出ている。大江賢次は、1930年(昭和5)ごろから片岡鉄兵邸に寄宿しており、片岡元彌邸は大きな西洋館だったので、大江賢次は奥に訪問者を取り次ぐ玄関番の書生のようなことをしながら、落合地域で住む家を探していた。つまり、片岡鉄兵夫妻も大江賢次も、片岡元彌邸で“仮住まい”をしていたことになる。小坂多喜子もまた、上落合の神近市子邸Click!にとりあえず寄宿している身だった。
 大江賢次が家庭内のさまざまな雑用をこなす、玄関番の書生のような仕事に通じていたのは、武者小路実篤邸Click!(小岩時代)での数年にわたる書生経験があったからだろう。したがって、作家の家庭事情や訪問客への応接、出版社などへのとどけものなど、まるで作家の秘書のような仕事には慣れていた。武者小路邸では、志賀直哉Click!岸田劉生Click!芥川龍之介Click!里見弴Click!菊池寛Click!河野通勢Click!、岩波茂雄、久米正雄Click!梅原龍三郎Click!などの来客に応対していた。特に印象に残っているのは、日本画のたしなみがあった若い武者小路夫人に対し、「個性がないから、いくらうわべが美しくてもほめるわけにはいかぬ」と批判した岸田劉生だったようだ。
 岸田劉生もそうだったようだが、大江賢次は若い武者小路夫人との反りが合わず、また夫人と真杉静枝Click!との間のゴタゴタや、武者小路自身が文章に書いているトルストイ主義の思想と、日々の生活で実践していることとがあまりにもかけ離れていてイヤになったころ、夫人から女中とイチャついたという理由でクビをいいわたされている。
 大江賢次が片岡邸へ寄宿していたころは、駆けだしの小説家としてなんとか名前の知られていたころのことであり、片岡鉄兵は彼に初めて会ったとき、その処女作をいい当てている。ほどなく、葛ヶ谷115番地の新居が完成して片岡夫妻はそちらへ引っ越したが、大江賢次はいまだ住まいが決まらず困窮していて途方に暮れた。そのときの様子を、1974年(昭和49)に牧野出版から500部限定で出版された、大江賢次『故旧回想』から引用してみよう。
  
 いまの新宿区西落合、むかしは葛ガ谷(ママ)という西武線中井駅から二十分、丘の上に新婚まもなく新築、下は応接間がひろく、食堂と台所と風呂場のすべてが洋式で、二階六畳が和室の寝室と書斎であった。(中略) じっさい、もし片岡さんにめぐり会わなかったら、私はどうなっていたろうか。いや片岡さんが、どんなに私をよくして下さろうとも、光枝夫人のおおどかな才量(ママ)がなかったら、一年半にわたる三度の食事を供してもらえなかったろう。/「きみ、そんならうちの近くに住んで、うちでめしを食べ給え。ねえ光枝」/「ええ、大したご馳走はないけど、よろしかったらいつでも」/いくらなにがなんでも、あまりに虫がよすぎた。夫人は心中でいやな青年と思われたろうが、あまりに爛漫なことばについ甘え、いわば溺れる者が藁をつかんだ形であった。
  
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 片岡鉄兵の光枝夫人は、旧姓も「片岡」であり実家は下落合にあった。姓は片岡光枝のまま結婚したわけだが、下落合(4丁目)2108番地にあった吉屋信子邸Click!まで100mほどのところに実家があったということから、東京土地住宅Click!によるアビラ村開発Click!に関連して、市街地から下落合へ転居してきた家なのかもしれない。
 片岡光枝は、お茶の水の女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業したあと、しばらく長崎や横浜で教師をしていて片岡鉄兵と知りあっている。大江賢次は彼女を姉のように慕っており、光枝夫人もアゴの出た駆けだしの小説家である彼を弟のように面倒をみて、のちに大江は彼女の教え子のひとりだった女性と結婚している。ほかにも、光枝夫人からは片岡鉄兵がもう着なくなった洋服類や、執筆に使わなくなったウォーターマンの万年筆、かなり貴重だったとみられるウォルサーの懐中時計などをもらった。
 片岡鉄兵の人あたりがいいのは、落合地域に住んでいた多くの人々が証言しているが、新感覚派から突然プロレタリア文学へと走り、のちに転向して流行風俗小説のような作品を書くようになって「日和見主義者」と罵倒されながらも、彼の評判を決定的に悪くしなかった(戦後の中野重治でさえ彼をかばっている)のは、尾崎一雄Click!のようなケースはまれだったとしても、四方へ細やかな気を配る光枝夫人の頭のよさと、夫を支援する力にあずかるところが大きかったのかもしれない。
 さて、片岡夫妻の新居に寄宿するわけにはいかない大江賢次は、朝昼晩の食事を片岡邸でとるために、近くに家を借りる必要があった。そこで見つけてきたのが、格安の巡査駐在所の空き家だった。同書から、つづけて引用してみよう。
  
 (片岡邸から)五十米ほど離れたところに、巡査の駐在所の空家があって、六、四半に便所と台所がついて月十円、しかも裏庭が三十坪もあった。ばかに安いと思ったが、のちに隣のおかみさんの話だと、巡査が首をくくって死んだ由、その後住んだ人たちにろくなことがないそうだ。私はへいちゃらであった。めしの種の片岡邸が近く、臆面もなく毎日通って食欲をみたした。朝はパンとコーヒー、昼は和洋どちらか、夕食は和食で、朝などは徹夜の片岡さんはまだ寝ていて、女中さんと二人だけが多かった。(カッコ内引用者註)
  
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 葛ヶ谷115番地(のち西落合1丁目115/現・西落合3丁目)の片岡邸から、50mほど離れたところにあった駐在所の空き家とは、おそらく葛ヶ谷駐在所に付随する建物のことだろう。同地番から、新青梅街道をわたって60mほどの斜向かい、自性院の北隣りにあたる敷地に同駐在所は建っていた。同駐在所は、新青梅街道沿いに西へ270mほど移動し、西落合交番と名を変えて現存している。昭和初期の1円は、当時の給与額から換算すると5,000円前後の価値なので、5万円前後でけっこうな1軒家が借りられたことになる。幽霊などまったく気にならない彼にしてみれば、願ってもない物件だった。
 大江賢次は葛ヶ谷の片岡邸で、あるいは片岡鉄兵を通じて、新感覚派の横光利一Click!川端康成Click!中河與一Click!、またプロレタリア文学の小林多喜二Click!をはじめ、立野信之Click!山田清三郎Click!村山知義Click!蔵原惟人Click!壺井繁治Click!江口渙Click!中野重治Click!上野壮夫Click!佐々木孝丸Click!杉本良吉Click!柳瀬正夢Click!窪川鶴次郎Click!窪川稲子(佐多稲子)Click!たちと知りあい親しくなっていく。そのほとんどが、落合地域とその周辺の住民たちだった。
 1930年(昭和5)の改造社文学賞に、大江賢次の『シベリヤ』が2等で入選したとき、片岡夫妻は自分たちのことのように喜んだ。光枝夫人は、タイの尾頭つきで入選を祝ってくれたらしい。ちなみに、このときの1等はパリで佐伯祐三Click!とも交流があった、芹沢光治良Click!の『ブルジョア』だった。そして、芹沢光治良もまた村山知義アトリエClick!のすぐ西側、上落合206番地に住んでいた。
 1930年(昭和5)の「改造」5月号に、『シベリヤ』はXXXの伏字だらけで掲載されたが、同時に掲載された小説には小林多喜二の『工場細胞』、川端康成の『鬼熊の死と踊子』、野上彌生子の『彼女と春』などがあった。そうそうたる書き手といっしょに並べられた自分の作品を見て、「華かな初舞台で立ちすくむ想いだった」と述懐している。
 1933年(昭和8)の初めごろ、大江賢次はようやく気に入った上落合732番地の借家へ転居している。そこから、わざわざ片岡家へご馳走になりにいくのは、さすがに厚かましくてはばかられ、中井駅前の食堂で昼夜の食事(朝食は片岡邸のパンとコーヒー)は済ませていた。近くの辻山医院Click!で開かれていた文学サークルClick!などにも顔をだし、出された菓子やお茶などを食事代わりにして済ませていたのだろう。また、彼もご多分にもれず、中井駅前に開店していた萩原稲子Click!ママのいる喫茶店「ワゴン」Click!の常連になっていた。
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 ある日の夜更け、大江賢次の家の戸をコツコツたたく音がした。不審に思いながら出てみると、片岡鉄兵といっしょに見慣れぬ男が立っていた。「小林です。よろしく」と男は挨拶した。地下に潜行中の小林多喜二Click!との出会いの瞬間だが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:大江賢次が1930年(昭和5)ごろの一時期に住んでいた、新青梅街道沿いにあった葛ヶ谷43番地(のち西落合1丁目37番地)の葛ヶ谷駐在所跡。
◆写真中上は、片岡鉄兵・光枝夫妻が最初に家を建てた第二文化村の北側にあたる葛ヶ谷15番地の邸跡(道路左手)。は、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」にみる片岡鉄兵邸と葛ヶ谷駐在所の位置関係。葛ヶ谷は1932年(昭和7)の地番変更前で、西落合1丁目115番地は地図中の葛ヶ谷70番地に相当する。
◆写真中下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる片岡鉄兵邸と葛ヶ谷駐在所。駐在所の建物の左下に見えている小さな1軒家が、大江賢次の一時住んでいた「わけあり物件」だろうか。は、落合地域では二度目の自邸建設となった西落合1丁目115番地の片岡邸界隈。は、大江賢次『自著回顧』の自筆原稿。
◆写真下は、1974年(昭和49)に牧野出版から500部限定で刊行された大江賢次『故旧回想』()と著者()。下左は、大江賢次というともっともポピュラーなのはこれだろうか、1958年(昭和33)に新制社から出版された『絶唱』。下右は、出版と同時に日活で映画化された『絶唱』(1958年)。その後、同作は人気キャストで繰り返し映画化された。

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