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「葛」の字が「星」と同義であってみれば。 [気になる下落合]

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 縄文遺跡を研究していると、明らかに星座の運行を意識していたと思われる遺構が見つかる。ときに、それが環状列石(ストーンサークル)だったり、巨石に刻まれた天文ラインだったりするわけだが、1万年ほどつづいた縄文時代はいまだわからないことが山ほどある。彼らは、現代人と同じ脳の容量を備えており、科学的な視座は存在しなかったとしても、経験則にもとづく論理的な思考回路はもちろん、法則性の発見や豊富な言語体系による複雑なコミュニケーションも当然可能だったにちがいない。
 また、大規模なムラの形成や全国規模の物流ルート(陸路・海路)を整備し、それによってもたらされた鉱物やアスファルト、ときに農作物の種子などで田畑を開墾していたことも明らかになった。新潟のアスファルトを各地へ、長野や北海道の黒曜石、糸魚川の翡翠を全国へ流通させるためには、モノを運搬する技術や方位測定の手法を知らなければ、到底実現することができない。「縄文ランドスケープ論」と呼ばれる学問は、彼らがどのようにしてそのような技術を獲得し、身につけていたかを研究する新しい分野だ。
 ヘタをすると、ある側面では後代の弥生時代よりも高度な技術や芸術性を備えていた縄文期だが、稲作の問題も大きなテーマのひとつだろう。いまでは、稲作の開始は少なく見積もっても紀元前3世紀よりも500年ほどはゆうにさかのぼる縄文期からというのが常識となった。また、稲作は朝鮮半島経由の西からではなく、沿海州経由で日本海をわたり、早い時期に東北日本へもたらされている可能性も高くなっている。
 ちょっと横道にそれるけれど、これらの科学的な発掘調査Click!の成果を、皇国史観Click!の学者たちはまったく認めたがらない。縄文時代は「皇民化」が行われていない、「まつろわぬもの」たちが跋扈する無知蒙昧な蛮族の世界であり、彼らをいつまでも「ウッホウホホ」と半裸で槍を片手に動物を追いまわす野蛮な「原始人」にしておきたいのだろう。
 この姿勢は、別に縄文時代に限らない。日本でネコが飼われはじめたのは「平安時代の都(京)から」という、まことしやかな「史実」がある。クイズにも出題され、「平安時代」と答えないとダメらしいが、前世紀後半の科学的な成果からみても明らかに不正解だ。平安の皇族・貴族が、中国から“輸入”したネコが最初だとしておきたいのだろうが、縄文遺跡でたびたび見つかるイエネコの骨格は、ではいったいなんなのだろうか? 「皇民化」以前の、「まつろわぬもの」たちに関する科学的な成果を無視することで、彼らは数万年余におよぶ日本の歴史をおとしめ、ことさら「自虐」的に泥を塗りつづけている。
 さて、縄文期の方位測定あるいは測量技術は、天空の太陽や星座のほかに、周囲の山々やメルクマールとなる(あるいはメルクマールにするために意図的に運搬して構築された)巨石群などが挙げられている。そして、それらメルクマールを結ぶ交点に縄文遺跡が多いことも、多くの学者による研究で明らかになってきた。また、それらの測量交点には「星」を意味する地名が多々見られることも指摘されている。ここでいう「星」地名とは、別に「ほし」という音とは限らない。原日本語で、星を意味する音を想定した場合の、後世にその音に近い漢字が当てはめられた地名までも含まれている。
 在野の考古学者で医師の森下年晃は、それを「縄文語」と名づけている。縄文語とは、九州に上陸したヤマトClick!によって古朝鮮語がもたらされたとみられる以前、日本列島で広くつかわれていた言葉で、アイヌ語にその影響がいまだ残っていると規定する古い“日本語”のことだ。拙サイトでは、「原日本語(アイヌ語に継承)」Click!と表現してきた言語に近い規定だろうか。その中で、「葛(くず)」は星地名ではないかと考察していく過程がある。
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 2009年(平成21)にリベルタ出版から刊行された、森下年晃『縄文ナビゲーター/星の巫(かんなぎ)』から引用してみよう。
  
 (岩手県軽米町には)少し奥まったところに星野小学校があり(中略)、はたして星野川という美しい川も流れている。/(石川)啄木が星野のことを知っていたかどうかは別として、星野はまさに星降る野であろう。/「葛巻とは何か? 葛巻と星野には何か特別の関係が隠されているのであろうか?」 私のなかに漠然とではあるが既に、葛巻の葛(kuzu)も星地名ゆかりの地名ではないか、葛巻と星野は何らかの糸で結ばれているのではないだろうかという疑問が芽生えていた。(カッコ内引用者註)
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 こうして、「葛(kuzu)」=星地名という仮説を立てて検証していくのだが、同書を通読してはみたものの、浅学なわたしには「葛」が星地名であるという著者の仮説にもとづく飛躍的な論証や解説についていけず、納得することができなかった。本書を読み進めていると、知らないうちに「葛」が星地名として断定的に規定され、論が進められていく……そんな気がしたのだが、これは著者の前著『星の巫-縄文測量の視点で歴史をみる』(私家版/2000年)を未読のせいなのかもしれない。
 拙サイトでは、ずいぶん以前に落合地域の葛ヶ谷Click!(現・西落合)とからめ、鎌倉に残る「葛」の字がふられた地名との類似性について指摘した記事Click!をアップしていた。鎌倉の重要な「葛」地名のひとつである「葛原ヶ岡」を例に、落合地域の葛ヶ谷とでは、どのような共通項や類似点が見つかるかといった趣旨で、後世にまで伝承されているように葛=「隠れ里」にいた人々は、「特殊技能」を備えたプロ集団ではないかと想定していた。そして、周囲に散在する遺跡の状況から、葛ヶ谷にいたのは古代製鉄のタタラ集団だったのではないか?……と疑問形のまま記事を終えている。
 ところが、その後、葛ヶ谷には北斗七星や北極星の象徴とされる妙見山Click!が存在しており、それが鎌倉期以前から語り継がれてきた可能性のありそうなことが、自性院縁起Click!を通じて明らかとなって、なんらかの星あるいは星座に関係した古くからの地域ではないかとの想像が以前より働いていた。たとえば、星屑(ほしくず)という言葉があるが、この「くず」という発音が「葛」と同義であり、その意味が星の重複である「星々」ということになれば、天の川などの銀河をイメージする用語になる。
 少し余談めくが、葛ヶ谷(現・西落合)に住んだ瀧口修造が1979年(昭和54年)に死去したとき、大岡信は同年の『現代詩手帖』8月号に、「タキグチさん。/宇宙青ですか、/そこは。(中略) あなたの骨は、/つつましいひとかたまりの/星砂の枝骨。/でしたよ。」(『西落合迷宮』より)と、ことさら星や銀河をイメージする言葉で追悼しているのに気づく。大岡信が、西落合の前地名である葛ヶ谷の「葛」にこだわり、地名考を意識して書いたとは到底思えないので偶然だろうが、少なからず面白く感じた作品だった。
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 上述のように、「葛(kuzu)」という音と、その背景的な史的意味を取りあげた研究論文などには、感度が悪いながらもわたしなりのアンテナを張ってきたつもりで、日ごろからかなり敏感になっていた。そこにようやく感知できたのが、上掲の『縄文ナビゲーター/星の巫』だったのだ。でも、「葛」がなぜ星地名なのかを納得できる論証は、残念ながら同書で見つけることができなかった。
 「葛」=星地名と規定する、同書に書かれた森下年晃の方法論を引用してみよう。
  
 古代の方位測量を検証してゆく過程で、星地点に神社のあることがしばしば見られる。これは方位測量の中心点に建てられた何らかの目標が、やがて祠となり、その後神社になった可能性を示唆するものであろう。以上、星地名に共通する条件として次の三点が考えられた。/ ①三対の目標となる山や丘を結ぶ三本の直線が一点に交わる。/ ②複数の星地名が連携を保っている。/ ③地名の発音(音声)が星と何らかの繫がりを持っている。
  
 こうして抽出された、星地名(音)と思われる場所へのちに当てはめられた漢字として「葛」をはじめ、「越」「細」「保土」「伏」「五十」「押」「遅」「吹」「淵」「折」「虫」「楠」「久慈」など、およそ60種ほどがピックアップされている。
 だが、著者が指摘する社(やしろ)について、由来のはっきりしないほど創建年の古いものは、確かになんらかの聖域に建立された祠が起源の可能性があるし、従来、拙サイトで数多くご紹介Click!しているのは禁忌伝承Click!をベースに、古墳の上に建立された社ないしは祠Click!についてだった。このケーススタディは、全国的に見れば無数に存在しており、その社自体が、あるいは古墳自体が、縄文期となんらかのつながりがあることが証明できない限り、「縄文期の星地名」の根拠として位置づけるのには無理がある。
 同様に、日本列島は山ばかりなのだから、その山頂と山頂、特徴的な高所にある三角点などと山頂、あるいは山に祀られる古い社(やしろ)と山頂とに直線を引いていき、「三本の直線が一点に交わる」地点に残る地名について、「複数の星地名が連携」という主観的な解釈を付与しつつ捜索すれば、数多くの「星地名」を恣意的に「発見」できてしまうことになりかねない。あらかじめ仮定として提示された「星地名」をベースに、新たに見つけた「星地名」を再び重ねて前提とし、その「星地名」同士の連携を規定するのは、そもそも考証になっておらず、論理矛盾の堂々めぐりを引き起こしかねない。
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 「葛」=星地名であるとすれば、葛ヶ谷が和田氏Click!の伝承をともなう鎌倉街道の支道に位置する「隠れ里」の想定とは別に、より古い事蹟が「星降る山」の象徴である妙見山とともに浮かび上がってくるかもしれない。落合地域は、縄文期の遺跡も随所に散在している地勢で、つい先年も家の裏に位置する建設現場の発掘調査で、縄文期や弥生期の土器片が発見されたばかりだ。落合地域に隣接する野方や江古田などの地域は、さらに縄文遺跡が数多いエリアとなっている。はたして、縄文期の葛ヶ谷にはどのようなランドスケープが展開していたのだろうか? 納得できる論証の提示で、説得されたがっているわたしがいる。

◆写真上:葛ヶ谷(現・西落合)で落合分水の谷に落ちこむ、妙見山の東向き斜面。
◆写真中上は、妙見山の山頂から東向き斜面への落ちこみと、北向き斜面への落ちこみ。は、妙見山の急峻な南向き斜面。
◆写真中下は、境内自体が縄文期遺跡の葛ヶ谷御霊社。は、目白学園キャンパスで発掘された縄文集落遺跡。は、妙見山とその周辺に展開する縄文遺跡。早くから宅地化が進みピンポイントでの発掘が中心だが、これらの遺跡が点ではなく面だとしたらかなり大規模な縄文コミュニティとなるだろう。中でも目白学園落合遺跡と西落合2丁目遺跡は、縄文早期・前期・中期・後期とほぼ1万年にわたる重層遺跡であり、一貫して縄文人が住みつづけていた可能性が指摘されている。
◆写真下上左は、2009年(平成21)出版の森下年晃『縄文ナビゲーター/星の巫』(リベルタ出版)。上右は、戦災をほとんど受けなかった葛ヶ谷(西落合)地域には昭和初期の建築が多く残っている。は、秋田県大館市における「葛原」考察例。(同書より)

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