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若いころのJAZZ喫茶めぐりのことなど。 [気になる音]

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 今年の11月24日で、ブログをはじめてから丸17年が経過し、18年目に入りました。同時に今週の初め、訪問者数がのべ2,100万人を超えました。いつも拙サイトをご訪問いただきありがとうございます。さすがにくたびれてきたのか、打鍵しすぎの腱鞘炎とドライアイが進み、新型コロナ禍も重なって思うような取材や記事が書けなくなりました。ある日、記事のアップロードが途切れたら、「あ、とうとうくたびれてイヤんなっちゃったんだな」……とご賢察ください。さて、18年目の最初の記事は、落合地域とも江戸東京ともあまり関係のない音楽の話ですので、興味のない方は早々にフォールアウトいただければ幸いです。
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 わたしの学生時代には、京都に老舗のJAZZ喫茶がごまんとあったのだが、そのほとんどが廃業して、いまでは既知の店は「大和屋」(最近はローマ字綴りの「YAMATOYA」のようだ)のみになっている。東京や横浜でも、ずいぶんと廃業した店が多いけれど、いまだに頑張っているJAZZ喫茶Click!も少なくない。左記のリンク先の記事に書いた、学生時代からいきつけの「マイルストーン」は、2019年(平成31)に閉店してしまった。
 JAZZ喫茶というと、条件反射のように「吉祥寺」を挙げる人も少なくないが、JAZZの基盤となった2ビートのニューオリンズなど最初期のJAZZはもちろん、4ビートから出発している8ビート(60年代)も16ビート(70年代)も許容しない、この音楽を4ビートのみに収斂して矮小化しようとする、偏屈なマスター(米国でいえば、時代とともに息づいている音楽=JAZZを博物館へピンでとめて展示するようなW.マルサリスみたいな存在)のいる街には昔から近づかなかったので、どうなっているのかは知らない。
 学校へ出かける前、または終ってから、あるいはアルバイトの勤め帰りなど、時間に余裕があると東京じゅうのJAZZ喫茶やライブハウスを訪ねてまわった。学校が休みに入ると、首都圏はおろか旅行がてら地方のJAZZ喫茶まで探訪して歩いたものだ。たいがい、どこの店でもLP片面のリクエストを受けつけていたが、初めてリクエストを断られたのは後にも先にも岩手県一関にある「ベイシー」のみだ。「いま、東京からお客さんがみえてるから」というのが、店員から伝えられたお断りのトンチンカンな理由だが、わたしも東京からの「お客さん」なんだけどな……と、あきれて連れと顔を見あわせたのを憶えている。
 当時は、『日本列島JAZZ喫茶巡り』とか『ジャズ日本列島』とかいうようなムックも出版されていて、日本全国どこへ旅行するにも持って歩くか、旅行先にあたる地方のページをメモしてもっていった。そんな中でも、とても居心地がよくて印象に残っているのは、横浜については以前に詳しく記事Click!にしているので省略するが、特に離れたところの店を挙げると、島根県松江の宍道湖温泉街にある「ウェザーリポート」だ。
 1970年代に開店した新しい店だったが(もちろん当時JAZZシーンを席巻していた「ウェザーリポート」にちなんだ店名だろう)、お客を好きなだけ放っておいてくれ、温泉街のせいか空いていて静かなのも快適だった。とうに閉店しただろうと思っていたのだが、あにはからんや現在も健在で内装も一新して営業をつづけている。わたしが立ち寄ったころは、なんだかJAZZ喫茶というよりは豪華な内装の名曲喫茶のような意匠だったが、いまではいかにも居心地がよさそうな店内に衣がえしている。今度、松江へ遊びにいく機会があれば、絶対に立ち寄るので閉じませんように。
 JAZZ喫茶だけが出版する独自のカタログが欲しくて、通いつづけた店もあった。高田馬場にいまもある「イントロ」で、現在は夜間のみのライブハウスになっているようだが、わたしの学生時代にはJAZZ喫茶としても午後から営業していた。この店のみで出版されている『JOHN COLTRANE DISCOGRAPHY』は、当時(1980年前後)に存在するコルトレーン(ts,ss,fl)の完全ディスコグラフィーとして全国的というか世界的にも有名で、手に入れられる限りのブートレグClick!まで網羅した、この店でしか手に入らないものだった。
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 ちょうど増刷か、あるいは再編集のタイミングだったのかもしれないが、わたしが求めに訪れたときはたまたま品切れで、その後、何度か通ってようやく手に入れたときはうれしかった。いまも手もとに置いているが、1977年(昭和52)の夏に出版されているので、わたしが手に入れたのは制作から3年後ということになる。
 ちょっと懐かしい同ディスコグラフィーの、小野勝による序文から引用してみよう。
  
 ジョン・コルトレーンのディスコグラフィーは過去に何回作られたであろうか? 私の記憶によれば、国内ではまず、コルトレーンの死んだ年のSJ誌(リーダーアルバムの写真のみ)、次に同じくSJ誌別冊(これはイエプセンを参考にしたと思われる)、その他さまざまなジャズ専門誌において取り上げられている。外国では、イエプセン、それに現在一番詳細であると思われる、ブライアン・デヴィス氏の編集がある。日本のものはジャケット写真を載せているものが多いが、レコード単位の編集の為、未発表セッションが抜けていて明らかにデータ不足と思われるし、また、外国のものは、データは非常に詳しいが、ジャケット写真が載っていないということで、どちらも不満に思っていた。/そこで今回、その両方を満足させるべく、ジャケット写真は出来るかぎり、オリジナルなものを茂串氏と私のものでそろえ、現在日本で得られる最新の情報を基に作成した。
  
 この中に「SJ誌」と出てくるのは、2010年(平成22)に休刊(廃刊?)となった「スイングジャーナル」(スイングジャーナル社)のことだ。当時は、「スイングジャーナル」と「ジャズ批評」(ジャズ批評社/健在)が2大JAZZ誌といわれ、プロのミュージシャンや専門家向きには「JAZZ Life」(ジャズライフ社/健在)や「ADLIB」(スイングジャーナル社/2010年休刊)などがあった。当時はおカネがなかったので、たいてい書店で新着ニュースや新譜のリリース情報を立ち読みしていたのを憶えている。
 当時の「イントロ」は、コルトレーンのブートレグを含めた完全コレクションが聴ける店として全国的に知られていたが、完全ディスコグラフィーを発行している店としても有名だった。もっとも、現在ではコルトレーンのアルバムは当時の倍以上、つまり彼が生きていた時代よりも圧倒的に数が多く、ブートレグにいたっては世界じゅうで数えきれないほどリリースされているので、いま「完全ディスコグラフィー」を画像入りで作成するとすれば、とてつもなくたいへんな仕事になってしまうだろう。
 わたしも、当時から新宿や御茶ノ水、神田などにあった輸入盤の専門店で、日本ではめったに手に入らないアルバムやブートレグを漁っていたが、コルトレーンほどのビッグネームならともかく、ちょっとメジャーから外れるミュージシャンだと国内盤が充実していて輸入されるLPレコードは枚数が少なく、「きのう売り切れました」といわれることも多かった。輸入盤のLPレコードは、国内のリリース盤よりも30~50%も安かったため(そのかわり、ジャケットのどこかが必ず三角形に切りとられていたが)、わたしのように貧乏な学生がしじゅうマメに訪れては、美味しい作品をいち早くかっさらっていったのだ。
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 当時、JAZZ喫茶へ出かけると面白い遊びをしたことがある。たいがいJAZZの名盤と呼ばれるようなメジャーレーベルのアルバム、たとえばVerveやPrestige BlueNote、Impulse!、Columbia、RIVERSIDE、Bethlehem、ECMなどの作品が、有名どころのJAZZ喫茶ではしょっちゅうかかっていることが多かったが、わたしの好きなアルバムだけれど滅茶苦茶マイナーで地味な、クロード・ウィリアムソン(pf)Click!の『クレオパトラの夢』(Venus Record /1977年)とかをリクエストして店内に流れると、お客たちが「このアルバムはなんなんだよ?」と、柱や壁などのスタンドに立てかけられたジャケットを確認しに、ゾロゾロとあちこちから席を立って見にくる。
 いまから考えてみれば、野暮でイヤミでつまらない遊びを臆面もなくしていたものだが、当時は「こんなアルバム、知らないだろ?」「モブレー聴くなら、こんなのもあるよ」と自慢しているようで、それが恥ずかしながら面白かったのだ。玄人好みといわれ、「白いバド・パウエル」などと呼ばれたクロード・ウィリアムソン(pf)でもそうだが、まるで演歌かよと思うようなコブシのきいたFlying Dutchmanのガトー・バルビエリ(ts)や、デビューして間もない高瀬アキ(pf)でも同じような現象が起きて、内心「やった!」などと思っていたのだから、いまから思えば汗顔のいたりだ。
 でも、有名なアルバムばかりでなく、こういう作品もちゃんとそろえているJAZZ喫茶が、都内ではどこでもあたりまえのように存在していた。名盤や名前の知られたミュージシャンから大きく外れ、アルバムがリリースされたこと自体さえあまり知られていないような作品でも、たいがいの店には当たり前のようにたいてい置いてあったのだ。つまり、店のオーナーやマネージャーが、それだけ敏感にアンテナを張りめぐらして、毎月リリースされる作品を几帳面にチェックし、いつリクエストがあっても応えられるよう店の棚にきちんとそろえていたことになる。ただし、こんなJAZZアルバムは置いてないだろうと、ブートレグレベルの作品を次々にリクエストして「なぜ置いてないの?」とマスターを困らせる客もいたというから、わたしの遊びなどかわいい部類に入るのかもしれないが……。
 だが、メディアがLPレコードからCDへ移行するにつれ、広い収納スペースが必要で場所をとる(そしてとてつもない重量の)LPレコードを整理・処分するJAZZ喫茶も増えはじめ、LPからCD化されなかったアルバムは、次々とこの世から姿を消していくことになった。いまだにアナログプレーヤーで、DENONやオーディオテクニカ、GRADO、オルトフォンなどのカートリッジを装備してLPレコードを処分していない店では、そんな古いアルバムをリクエストしてもたいていは聴くことができるが、1980年代以降に開店したJAZZ喫茶orJAZZバー(もどき?)ではCDが主体で、しかもリクエストを受けつけない店も少なくない。
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 頑固にLPレコードをそのまま保存し、最新のオーディオシステムClick!ではなく、当時のレコードの再生に見あった昔のシステムで聴かせる店は、いまやJAZZ喫茶よりもクラシックの名曲喫茶のほうが多いだろうか。いまにして思えば、JAZZ喫茶がバタバタと店じまいをはじめたのは、新宿の歌舞伎町にあった「木馬」の閉店がきっかけだったかもしれない。お客はいつも多く入ってにぎやかだったし、新派Click!の水谷良重(現・水谷八重子)が経営していたので、まさか早々に閉店するとは思ってもみなかった。「木馬」でのリクエストは、地下の広い空間に大音量で流せる、エレクトリック・マイルスがいちばん多かっただろうか。

◆写真上:LPジャケットを壁紙がわりにして、壁一面に貼っている店も多かった。ジャケットデザインを見ただけで、サウンドやvoが聴こえてくる“名盤”アルバムばかりだ。
◆写真中上は、2019年に閉店した高田馬場の「マイルストーン」。学生時代はオリジナルエンクロージャの巨大なJBLだったが、今世紀に店内を改装してからはマッキントッシュClick!+JBLオリンパスになった。は、こちらもオリンパスの松江「ウェザーリポート」。わたしが寄ったときは、もっと豪華な内装でかなり明るかった印象だ。は、後藤マスターで有名な四谷の「いーぐる」で、マイルス作品はよくここで勉強した。
◆写真中下は、地味なクロード・ウィリアムソン『クレオパトラの夢』(1978年/)と、ガトー・バルビエリ『アンダー・ファイアー』(1973年/)。は、1986年に発行された最新版(?)『ジャズ日本列島』(ジャズ批評社/)と、1977年に発行された『JOHN COLTRANE DISCOGRAPHY』(イントロ/)。は、学生時代とはちょっと印象がちがうイントロの店内で、当時の装置はALTECだったと思う。
◆写真下は、同ディスコグラフィーのコンテンツで緑色の〇印がついている作品は入手済みだったが、〇印のない希少盤は東京じゅう探しまわったのを憶えている。は、同冊子の奥付で「ムトウ楽器店」とか「タイムレコード」などの店名が懐かしい。(あっ、画像にネコの毛が……。スキャナの上が温かいものだから、最近そこで寝たりするのだ)

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