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金山の刀鍛冶は石堂守久一派の工房か。 [気になるエトセトラ]

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 今年も拙サイトをご訪問いただき、ありがとうございました。きょうの記事が、今年最後のアップロードとなります。どうぞ、よいお年をお迎えください。
  
 雑司ヶ谷村の金山で鍛刀していた石堂派Click!については、その出自や系統についてこれまで何度か記事Click!を重ねてきている。ちょうど古刀期から新刀期へと移行する時期、室町末から江戸最初期にかけて、琵琶湖のほとりの近江にいた刀工集団である石堂派は、戦の世が終焉しそうなのを踏まえ、いくつかの流派が日本の各地へと散っていった。
 石堂派の江戸における主流となった初代・石堂是一(川上左近)は、いち早く江戸への移住を決意して近江をあとにしている。また、残った流派も筑前(福岡)や紀州(和歌山)、大坂(大阪)などおもに当時の都市部(城下町)へ移り住んで工房をかまえることになった。石堂派は、華やかな丁子刃(ちょうじば)を得意とする備前伝の刀工であり、京の公家たちには好まれたが、昔から鎌倉期の五郎入道正宗Click!を頂点とする豪壮かつ優美な相州伝を好む東日本の武家には好まれず、特に江戸石堂派は相州伝を学び直して、「相伝備前」と呼ばれる独自の作品群を生みだしていることにも触れた。
 その過程で、近江の石堂派が全国へと展開した流派の中には、雑司ヶ谷村の金山Click!に工房をかまえたとみられる一派は見つからず、たとえ石堂系の刀工が工房をかまえていたとしても、早々に主流の江戸石堂派の工房へ吸収されてしまったのではないかと考えた。だが、江戸で鍛刀した石堂派の中で、ひとつ見落としていた一族があった。非常に目立たず地味な存在で、三代つづいたかどうかさえ不確かな一派だが、江戸時代の初期に江戸へとやってきて、いずれかの地に工房をかまえている。
 なぜ見落としていたのかというと、近江の石堂本家から分派したのではなく、すでに室町期に分派を終えていた別の地域から、ワンクッション置いて江戸へとやってきており、すでに江戸では石堂是一が大々的に工房をかまえていたため、最後まで目立たず存在感が薄くなってしまった一派だ。現在も、この刀工に注目する愛刀家は少なく、刀剣美術界でも非常に地味でライトをあびない存在となっている。また、江戸へ出府した当初は、お家芸である備前伝を焼いていたが、それが江戸ではあまり受けずに売れないと判断してからは、備前伝の技法をベースに地味な直刃(すぐは)や、乱刃(らんば)に近い互ノ目(ぐのめ)の刃文を焼いているが、とてもその作品に注文が多かったとは思えない。
 したがって、初代の作品はそれなりに現代まで伝えられているが、2代というと作品はまれになり、3代以降はほとんど現存しない状況となっている。3代以降の作品がないのは、ただ単に発見されていない鑑定漏れか、それとも工房自体を閉じてしまい主流の江戸石堂派へ合流したか、あるいは刀工を廃業して早々に転職してしまったのかもしれない。
 その石堂派の傍流とは、初代・石堂守久を中心とする一派で、出自が美濃とも尾張ともいわれているがハッキリしない。おそらく、室町期に石堂守久の先代が尾張または美濃へ石堂の丁子刃を伝えたが、地元では作品があまり受けず(尾張や美濃では、室町期から地元の美濃伝が主流だったろう)、江戸初期の石堂守久の時代になってから江戸へ出府しているのではないか。茎(なかご)の銘は、「守久」「秦東連(しんとうれん)」などと切り、初代の作品はけっこう現代まで伝えられている。
 石堂守久について、2013年(平成25)出版の得能一男『刀工大鑑』(光芸出版)から引用してみよう。ちなみに、同書では「守久」と「東連」の2項目で掲載・解説されている。
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 守久(もりひさ) 慶安-武蔵
 「武州豊島郡江戸庄石堂秦守久」「武州住石堂秦守久」「石堂秦東連」江戸石堂。石堂八左衛門。本国美濃。のちに銘を東蓮と改める。慶安元年より承応三年までの紀年銘がある。作刀は地に映りが出て匂出来の丁子乱をやき、刃文がこずむものが多い。直刃、互の目も見る。(東連の項参照) 業物。
 東連(とうれん) 寛文-武蔵
 「東蓮」「秦東連」「武州住石堂秦東連」江戸石堂。石堂八左衛門。初銘「守久」本国美濃。初代守久同人。延宝四年より入道の二字を添う。業物。(守久の項参照)
  
 文中に「業物」とあるのは、1797年(寛政9)に刊行された試し斬りの山田朝右衛門吉睦(5代目)『懐宝剣尺』(柘植平助編)により、刀剣の斬れ味に等級をつけた評価本で、斬れのよい順に「最上大業物」「大業物」「良業物」「業物」などに分類されている。
 この解説では本国を「美濃」としているが「尾張」から江戸へ出府という説もあり、おそらく1640年前後の寛永年間ごろにいずれかの地域から江戸に出てきて、ほどなく鍛刀しはじめているのだろう。もうお気づきかと思うが、雑司ヶ谷村の金山にいた石堂を名のる刀工は、1828年(文政11)に昌平坂学問所地理局によって編纂された『新編武蔵風土記稿』(雄山閣版)によれば、「石堂孫左衛門」と名前が記録されている。同書より、石堂孫左衛門が登場する金山稲荷社(鐵液稲荷)Click!の解説箇所を引用してみよう。
  
 土人鐵液(カナグソ)稲荷ととなふ、往古石堂孫左衛門と云ふ刀鍛冶居住の地にて、守護神に勧請する所なり、今も社辺より鉄屑(鐵液のこと)を掘出すことまゝあり、村民持、又この社の西の方なる崕 元文の頃崩れしに大なる横穴あり、穴中二段となり上段に骸及び國光の短刀あり、今名主平治左衛門が家蔵とす、下段には骸のみありしと云、何人の古墳なるや詳ならす、(カッコ内引用者註)
  
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 石堂守久(石堂八左衛門)が、江戸初期に工房をかまえた場所は不明だが、「石堂八左衛門」と「石堂孫左衛門」との間に名前の関連性を感じる。江戸石堂の初代が石堂是一、本名が川上左近と武家らしい名前なのに対し、石堂守久は「八左衛門」といわれるだけで苗字が伝わっておらず、「石堂」は姓ではなく近江の地名だ。
 すなわち、本流である江戸石堂は出自が武家中心の工房であるのに対し、石堂守久の一派は農工商いずれかの身分の出身者だったのではないだろうか。そして、初代の石堂守久(八左衛門)の跡を継いだ2代目・守久、あるいは3代目・守久の本名が「孫左衛門」だった可能性がある。このあたり、石堂守久の一派が江戸中期で姿を消してしまうため(作品や資料が未発見の可能性もあるが)、またその作刀技術が初代を除き評判にならなかったせいで、詳細な記録が残りにくかった事情もありそうだ。
 1676年(延宝4)より、年をとった初代・石堂守久は入道して「東連」または「東蓮」と銘を切るようになり、おそらく家督を息子あるいは娘婿にゆずっている。この年以降に残されている「守久」銘の作品が、銘を切るタガネの手がちがう2代・守久の鍛刀ということになる。2代・守久は作刀があまり現存しておらず、3代・守久については存在していたのかさえ曖昧で、彼らについて書かれた書籍はきわめて少ないが、1975年(昭和50)に刊行された藤岡幹也『刀工全書』には、次のように記録されている。
  
 守久 武州住
  新刀 石堂秦八左衛門尉守久と打ち、後に入道して東連と改む。寛文の頃
 守久 武州住
  新刀 同二代 石堂秦守久と打つ、元禄の頃
  
 初代・石堂守久(八左衛門)は、江戸へ出府の当初は丁子乱れの備前伝を焼いていたとみられるが、あまり売れないとわかると剣形(刀の体配=姿のこと)を江戸好みに変えたり、丁子刃ではなく直刃や錵(にえ)本位の互ノ目刃に挑戦したりと、いろいろ試行錯誤をしながら作刀していた様子が、今日まで伝わる作品群に見てとれる。
 また、石堂の備前伝は匂(にお)い出来が基本なのにもかかわらず、しばらくすると覇気のある相州伝のような錵出来にもチャレンジしており、明らかに相州伝のもつ豪壮な美を意識し、追究しているのがわかる。初代・石堂守久が作刀した時代は、その出来が相州正宗にも劣らないと大評判になった長曾祢興里入道虎徹Click!と同時代であり、それも備前伝の石堂守久にとっては非常に不幸で、彼には不利な江戸のマーケット状況だったのだろう。
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 3代目以降、石堂守久一派はどこへ消えたのだろうか。江戸石堂の本流である石堂是一の工房に合流したか、農具や生活用具を鍛える「野鍛冶」へ転向したか、あるいはまったくの職業がえをしているのかもしれない。雑司ヶ谷村の金山から、数代はつづいたであろう工房をたたんで去っていった石堂孫左衛門とは、石堂守久(秦東連)一派の後代ではないだろうか。そして、なぜ工房の建設に雑司ヶ谷村の金山を選んだのかは、刀身への土置き(焼き入れ前の工程)に適する良質な粘土が、タタラ(神奈流し)跡の崖地に露出していたのではないか。刀鍛冶をめぐる、もうひとつの重要なテーマは機会があれば、またいつか、別の物語……。

◆写真上:石堂派の工房があった、雑司ヶ谷金山にある丘のバッケ(崖地)Click!
◆写真中上:初代・守久による、匂い本位の華やかで典型的な丁子刃を焼く備前伝作品。このような貴族趣味的な刃文は、江戸をはじめ東日本では流行らなかった。
◆写真中下:茎(なかご)に刻まれた、初代・石堂守久(八左衛門/秦東連)の銘。いちばん下の作品では、めずらしく逆丁子(さかさちょうじ)の刃文を焼いている。
◆写真下は、初代・守久による丁子刃ではなくのたれ気味の直刃(すぐは)作品。は、まるで相州伝のような荒錵(あらにえ)のついた錵本位の互ノ目を焼く初代・守久の作品。おそらく努力を重ねて、備前伝からの脱却を試みていたのだろう。は、金山の山麓。
おまけ
 1974年(昭和49)制作のTVドラマ(ユニオン映画)で、都電荒川線の鬼子母神前電停近くにあった喫茶店の向かいに、鍛冶屋が営業しているのを見つけた。おそらく、包丁やハサミの刃物かヤスリなどを製造していた街中の鍛冶店で、江戸期の用語でいえば「野鍛冶」ということになるが、雑司ヶ谷金山の石堂との関連があるのかないのかが気になるところだ。
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富永哲夫博士による家庭衛生の常識。(1) [気になる下落合]

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 1932年(昭和7)6月、落合町葛ヶ谷24番地(のち西落合1丁目24番地)に住む医学博士・富永哲夫が、帝國生命保険の求めに応じて著した『家庭衛生の常識』という小冊子を、親しい知人からいただいた。非常に貴重な小冊子で、著者は佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作『看板のある道』Click!に登場していた、当時は内科の富永医院を開業していたあの富永哲夫だ。
 この小冊子が刊行された当時、富永哲夫は葛ヶ谷の富永医院を閉院し、改めて東京市の衛生試験所に勤務している最中で、名刺へ「東京市技師/医学博士」と印刷していた時期にあたる。また、1932年(昭和7)は『落合町誌』(落合町誌刊行会)が出版された年でもあり、彼は東京市技師・医学博士として近影とともに紹介されている。
 富永哲夫の『家庭衛生の常識』は、帝國生命保険の健康増進部が刊行していた「健康増進叢書」の第7篇であり、ほかにも『長寿法』や『強肺と健肺』、『食養生問答』といった、当時の家庭生活には欠かせない衛生や医学に関する知識を啓蒙する目的で編集された小冊子シリーズだった。当時、東京市へ勤務する公務員だったはずの富永哲夫が、なぜ民間の生命保険会社のいわばSPツールに執筆できたのかは不明だが、当時はいまほどガバナンスが厳しくなく、公務員でも柔軟に仕事ができたのかもしれない。
 昭和初期は、いまだ病気の原因となるウィルスの存在がほとんど知られておらず、「インフルエンザ」という用語は存在したが、それが発症するのは体内から多く発見される「インフルエンザ菌」が主因であると考えられていた時代だ。事実、インフルエンザ菌は実在しており、すべてのインフルエンザは菌による発症ととらえられていたため、流行時には衛生管理と消毒が特に重要視されていた。また、結核菌Click!が猛威をふるっていたのも昭和初期で、「家庭衛生」はいかに生活を清潔に保ち、効果的な消毒(すなわち滅菌・減菌を通じてリスク低減)を行うかがメインテーマとして取りあげられている。
 だが、そもそもウィルスは生物ではないので代謝をしておらず、いくら「消毒」しても毒を摂取し、また排泄しない以上「死なない」し、その存在は出現するか(変異を繰り返して)いずこかへ潜伏(消滅)するかしかなく、生物の範疇とは規定できないので、生物学からウィルス学がほぼ切り離されて独立したのは、同小冊子が書かれてから約50年後の、わたしがちょうど学生時代を送っていた1980年(昭和55)前後になってからのことだ。つまり、『家庭衛生の常識』で取りあげられている「衛生」は、あくまで生き物としてのおもに「菌」や「害虫」を対象としているテーマや課題が前提となる。
 『家庭衛生の常識』が書かれたのは、「スペイン風邪」のパンデミックからまだ12年しかたっていない時期だ。同冊子より、富永哲夫の衛生に対する規定を引用してみよう。
  
 「人体の生理的機能を熟知し、吾人の外界に発生する万般の現象を研究し、之に基き吾人の健康を保持し、更に進んで之を増進す」と云ふ衛生学を充分理解して、一に吾人の健康を害すべき諸般の事項を避け、或は之を除き、二に吾人身体の抵抗力を大ならしめ、外来の侵襲に能く耐るやうに鍛錬しなければならぬのである。
  
 ここで、イギリスの経済学者マルサスの言葉を引用し、「衛生学の進歩は急速に人口の生殖増加を来し、終に居る土地なく、食ふに物なきの苦境に陥る」という、有名な『人口論』(懐かしい!)の一節を紹介したあと、多くの人間は長寿を望んでいるのであるから、それだけでも衛生学の存在意義は明らかであり、事実、衛生学の普及以降は平均寿命が劇的に伸長しているイギリスの事例を挙げて婉曲に批判している。
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 当時のデータによれば、ロンドン市における1680年ごろの平均寿命は27歳ほどだが、衛生状態がよくなるにつれ、1840年ごろには35歳となり、1930年代当時の平均寿命は50歳になろうとしていると例示している。ちなみに日本では、1600年代の平均寿命は34~35歳、1700年代には32歳、1800年代後半には44歳、1920年代の平均寿命は43歳となっている。だが、『家庭衛生の常識』が書かれたわずか13年後の1945年(昭和20)には、戦争により平均寿命は31歳と江戸時代へ逆もどりしている。日本で平均寿命が50歳を超えるのは、戦後1947年(昭和22)になりベビーブームが到来して以降のことだ。
 さて、同書は家庭衛生が主題なので、耐菌や滅菌の話=消毒から入るかと思いきや、まず「炭酸」ガスのテーマを取りあげている。文章では「炭酸」と書いているが、もちろん有害な一酸化炭素(CO)のことだ。人間の生存にとって、もっとも重要なのは空気であり、中でも酸素は体内に入ると栄養素や物質の酸化分解を促進し、生存への活力を生むものだが、空気中には有害な一酸化炭素も含まれているので注意が必要だとしている。
 当時の都市部では、一酸化炭素を大量に吐きだす工場やクルマがも多かっただろうが、それにも増して家庭内には炭やガス、練炭(れんたん)、炭団(たどん)などを使った暖房や調理器具が普及しており、家庭内で発生する一酸化炭素の量が多かったとみられる。通常、屋外における一酸化炭素の含有量は0.3~0.4%(当時)としているが、その割合が1.0%を超えると多少の息苦しさや頭痛をおぼえ(いわゆる空気が汚染されているレベルになり)、2.0%を超えると呼吸困難やめまい、耳鳴りなどの症状を起こし、空気中で10.0%を超えると意識を失い、30.0%では即死するとしている。
 たとえば、狭い部屋で調理に練炭やガスを使い、室内の暖房用に火鉢では炭、こたつやストーブでは炭団や石炭、あるいはガスを使用していたとすると、一酸化炭素中毒になる危険率がかなり高まっただろう。ただし、当時の住宅には密閉された空間が少なく、今日のようにコンクリートやモルタル(セメント)にアルミサッシといった、外部の空気との対流が起きにくいような造りの部屋は少なかったとみられ、よほど不注意な使い方をしなければ生命にかかわるようなことはなかったとみられる。
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 このあと、なぜか理科の教科書のようにガラス壜やカラス管、ゴム管、試薬などを使って一酸化炭素を発生させる実験を図入りで解説しているが、とりあえず「家庭衛生」には不要な記述のように思われる。それとも、富永哲夫が特別に書きたかったCO発生実験だったのだろうか。同実験のあと、「恐るべき一酸化炭素」として当時の中毒事件を紹介している。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 炭酸が人間に中毒を惹起する程多量になることは非常に稀である。実際炭酸によつて危険症状は「マンホール」とか、深井戸等の中に於て稀に起るに過ぎないものである。/昭和五年一月九日東京市内に配布された新聞紙上を賑はした記事に/「昨八日市内下谷区金杉町に於て軒並に三軒の家族が瓦斯中毒を起し半死半生なるを発見し大騒となり手当中なるも生命危篤なり」と云ふのがあつた。/昨年十二月の初旬貴族院議員法学博士花井卓蔵氏が瓦斯中毒によつて斃れたのも、本年一月廿八日四谷警察署警部の瓦斯中毒によつて斃れたのも、未だ記憶に新たな所である。
  
 いずれも、ガスによる一酸化炭素中毒のケースだが、昭和初期にコンクリートやモルタルを用いた従来の日本家屋とは異なる、いわゆる「文化住宅」が普及するにつれ、市街地を中心にガス中毒事件が急増することになった。
 これを防止するためには、室内の空気が自然に外の空気と入れ替えられる日本建築ならともかく、コンクリートやセメントを使用した建築では「自然換気」は無理なので、「人工換気」が不可欠だとしている。そこで推奨しているのが窓の開放のほか、ウォルベルトという人物が考案した天井を利用する換気装置や、「プレスコップ」と呼ばれる通風管だ。プレスコップは、よく昔の貨客船Click!の甲板に突きでていた「キセル型通風管」のことで、屋根上に突きだして設置するのだろう。だが、見映えがあまりよくないので、工場や倉庫、ビルなどはともかく一般の住宅ではほとんど普及しなかったようだ。
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 さて、ここ数年にわたってCOVID-19禍がつづき、今日、家庭や施設における衛生管理がかつてないほど注目されている。ウィルスがほとんど知られていなかった昭和初期の衛生対策と、今日の衛生意識とがどのように異なっているのか、あるいは異ならないのかを比較してみるのも興味深い。この90年間で、家庭生活の衛生面でなにが変わり、なにが変わらなかったのか、身近な暮らしにおける移ろいを眺めてみるのも、なかなか面白いテーマだ。

◆写真上:葛ヶ谷24番地の富永邸跡(右手)で、現在は落合第二中学校の敷地内に。
◆写真中上は、帝國生命保険(株)の健康増進部が昭和初期に発行していた「健康増進叢書」シリーズの富永哲夫『家庭衛生の常識』(第7篇/1932年)の表紙()と裏表紙()。下左は、『家庭衛生の常識』の奥付。下右は、1932年(昭和7)の富永哲夫。
◆写真中下は、帝國生命の「健康増進叢書」シリーズ。は、一酸化炭素の発生実験図だが前後の文脈からなぜここで化学実験が必要なのかが不明。
◆写真下は、当時の家庭内で一酸化炭素のおもな発生源だったガスストーブと練炭(煉炭)。は、昭和初期には最新式だった換気装置2種の図版。

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ニッキ飴の匂いと吉永小百合の記憶。 [気になる下落合]

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 ある特定の匂いをかぐと、とたんに昔の記憶がよみがえることがある。焚き火Click!の匂いをかぐと、海辺のクロマツ林ですごした「晩秋」の風景が頭をよぎったり、防水加工された帆布の酸っぱいような匂いをかぐと、昔のとてつもなく重かった黄色いテント(30kg前後)や登山リュックをかついだキャンプClick!を思いだす。人は視覚ばかりでなく、嗅覚によっても強烈な記憶が脳裡に刻みつけられるらしい。
 そんな匂いの記憶を少したどってみると、たとえばヤマト糊の匂いをかげば、子どものころ近くのスーパーマーケットで買い物をするともらえた割引き券を思いだす。ヤマト糊を使って、母親がせっせと台紙に貼っていたのを、小学生のわたしが青いチューブからヤマト糊をだしては手伝っていた記憶がある。ゆでタマゴの匂いがすると、学生時代にバイトをしていたコーヒーショップClick!を思いだす。毎朝、7時に出勤してタマゴを50個ほどゆでる。8時開店の客足によって、足りなくなると今度は10個ずつゆでていく。もちろん、バスケットに入れるモーニングサービス用の支度だ。サービスの終了時間を待ち、わたしは大急ぎで着がえるとあわてて学校へ向かう。
 モミの木の匂いをかいだりすると、子どものころのクリスマスツリーがよみがえる。実際のツリーに使っていたのは、ドイツトウヒ(こちらが本来)の匂いであって最近多いモミの木は米国あたりの代用だと思うが、同じ針葉樹で匂いが似ているのだろう。そのツリーに飾られていたバブルライトClick!のビジュアルが強烈で、いまの日本では販売されておらず、子どもたちが小さいころ米国から取り寄せてクリスマスツリーに飾ってやった。子どもが喜ぶよりも、わたしが子どものころと同じだといって喜んでいただけなのだが。
 同じく、生クリームとイチゴの香りは、条件反射のように不二家のペコちゃんをイメージする。おそらく親がクリスマスに、不二家のデコレーションケーキを買ってきてくれたことがあったのだろう。家でスポンジをわざわざ天火(ガスオーブン)で焼き、手間のかかるクリスマスケーキを手づくりしてくれたこともあるが、母親には悪いけれど、子どもには不二家のケーキのほうがきっと美味しく感じて、ペコちゃんの顔がデザインされた板チョコのトッピングとともに、強く印象に残ったものだろう。
 昔もいまも大好きなウナギの蒲焼きClick!の匂いは、近くで開業していた小児科の医者の顔を思いだす。夕食にウナギの蒲焼きが出て、大好きなわたしはガツガツと食べていたら、その小骨が扁桃の奥にひっかかった。かなりチクチクするので、夜間、母親に連れられ近くの小児科医院で診てもらったら、ピンセットを手にわたしの喉を10分間ほど搔きまわしていたが、どうしても見つけられなかったのか「ほかへいってください」と、ピンセットを膿盆に投げだしながら、そのチョビ髭顔がプイッと横を向いた。その苛立ったような困ったような、はたまた迷惑そうな表情が、蒲焼きの匂いをかぐと鮮明に現れる。
 「ほんと、あすこはヤブなんだから。二度とかからないわ」とこぼす母親に連れられ、今度は耳鼻咽喉科で診察してもらったら、なんと診察イスに座ってから1分足らずで、喉に刺さった小骨を発見してすぐに抜いてくれた。ふつうなら、この抜いてくれた耳鼻咽喉科医こそ頼りになる先生であり、その顔を憶えていてもよさそうなものだけれど、どんな顔をしていたのかまったく記憶にない。むしろ、失敗した小児科医の顔のほうを、ウナギのいい香りとともに思いだすのだから、性格がねじれているといわれてもしかたがない。ひどい目に遭ったにもかかわらず、わたしは相変わらずこの歳になるまで一貫してウナギの蒲焼きが大好物なのは、きっとそんなことではめげないほど食い意地が張っているからだろう。
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 ニッキ=肉桂(シナモン)の匂いをかぐと、なぜか吉永小百合を思いだす。これには、「風が吹くと桶屋がもうかる」式の、イメージが重なる屈折した記憶があるようだ。おそらく小学2~3年生のころ、母親から便箋を買ってくるように頼まれて、近くの文房具店へと出かけた。文房具屋のおじさんが、どれにするかいろいろな種類の便箋を出して見せてくれたのだが、その中に表紙がカラーで林の樹木を背景に麦藁帽子をかぶった吉永小百合が、右斜め45度ほど上にある太陽(照明)を向いてニコッと笑っている便箋があった。
 おそらく母親なら、この便箋が「キレイだわ、いい買い物したわね」といって喜ぶだろうと、わたしはそれを迷わずに買った。その帰りに、お決まりの駄菓子屋Click!に寄ってクジを引き、外れのニッキ飴をもらって舐めながら家に帰った。さっそく、買った便箋と少し足りないお釣りをわたすと、母親が喜ぶかと思きや、「どうしてわたしが、吉永小百合の便箋を使わなきゃなんないのよ。〇〇(わたしの名前)の好みで選んじゃったのね」とハァーッとため息をつき、「替えてもらってらっしゃい」といわれた。それ以来、ニッキ(シナモン)の匂いと吉永小百合は、切っても切れない記憶として刻みこまれたのだろう。
 向田邦子Click!は、合唱曲「流浪の民」を聴くとイカのつけ焼きが浮かんだらしい。1981年(昭和56)に文藝春秋から出版された『霊長類ヒト科動物図鑑』から引用してみよう。
  
 大隈講堂のステージで歌ったことがある――といえば聞えはいいのだが、勿論独唱ではない。合唱団の一員としてである。(中略) 私の学校は渋谷にあった。/週に何回か、授業が終ってから早稲田へ練習に通った。/高田馬場で電車をおり、あとは歩くわけだが、どういうわけか、烏賊を丸のままつけ焼にして売っている店が目についた。/食べ盛りの年頃なのに食糧事情は最悪である。醤油の焦げた烏賊の匂いは、はらわたにまで沁み通った。おいしそうだなあ、食べたいなあと、思いながら歩いた。/十回か二十回はこの道を通ったと思うが、結局私はただの一回も烏賊を買わなかった。それだけのゆとりがなく、買えなかったのであろう。そのせいか、今でもシューマンの「流浪の民」のメロディを聞くと、焼き烏賊の匂いがただよってくる。
  
 おそらく、こういう匂いの記憶は誰にでもあるのだろう。ハンダの溶ける匂いをかげば、中学時代の技術教師(あだ名がフランケンシュタインだった)のしかめっ面が浮かんでくるし、太平洋の潮の匂いをかげば、全身が弛緩して子どものころのさまざまな出来事が走馬灯のように流れ、資生堂の「MORE」がかすかに漂えば、学生時代の彼女のことを思いだす。
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 ところで、わたしも「流浪の民」を歌わされた経験がある。中学1年のころだったろうか、音楽教師からどうしても合唱部に入れといわれ、入れば成績を手加減するし入らなければどうなるかわかってるわよね……というような、云わず語らずの半ば脅しをかけられ無理やり入部させられたのだ。その課題曲が、シューマンの「流浪の民」だった。
 当時の歌詞は(現在でもそうなのかもしれないが)、戦前に石倉小三郎によって翻訳された文語調の訳詞であり、「♪うたげほがひにぎはしや~(宴寿ひ賑はしや)」とか、「♪なやみはらうねぎごとをかたりつげるおうなあり~(悩み払う祈言を語り告げる嫗あり)」とか、中学1年生にとっては意味不明なコトバがズラリと並んでいて、ちっともまったく、全然とことん面白くなかったのだ。
 面白くないこと、楽しくないことの記憶は限りなく希薄で、いまやどのような練習をしたのかあまり憶えてはいないが、どこか公会堂と思われるステージに出て歌った記憶があるところをみると、中学生の合唱コンクールのようなものに出場したのだろう。いまから考えても、いい思い出になるどころか、教師の見栄のためにつまらない時間をすごしたものだと思う。そんな時間があれば、もっと剣道に身を入れられていたろうし(実は飽きやすいわたしは、練習をサボり1年で辞めたのだが)、美術のクラブ活動(合唱部の練習があったので入れなかった)だってできたかもしれないのだ。
 ただし、音楽教師の化粧の匂いはよく憶えている。濃いめの化粧が発する甘い匂いといえば、「流浪の民」のメロディーと歌詞が浮かんでくる。子どもとは残酷なもので、濃いファンデーションを塗りたくった50歳前後の音楽教師のことを、生徒たちは陰で「セメントばばあ」というあだ名をつけて呼んでいた。化粧直しをしないと、「そのうち、口もとからヒビ割れてくるぞ」などと陰口をきいては笑っていた。
 「流浪の民」は合唱曲なので、高音部(メロディライン)と低音部に、あるいは女声と男声のパートに分かれた歌い方をするのだけれど、声がそろわずに乱れたりするとピアノの前から立ってきて、そろわなかった生徒たちの前にきては何度か歌わせて歌唱の修正をしていた。そんなとき、濃い化粧の匂いがプンと鼻をついたのだ。だから、わたしの場合は「流浪の民」のメロディーが流れると、音楽室に漂っていた濃い化粧の匂いが思い浮かぶ。
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 高校生のころ下落合を歩いていると、まるで山道を歩いているような、そこらじゅうから濃い緑や土の匂いがして、キャンプの飯盒炊爨と焚き木集めの情景が湧いてきた。新宿区なのにこんな辺境か僻地、もとへ“秘境”Click!のような地域あるのかと、当時17歳のわたしには強烈な印象として残った。現在ではだいぶ薄れたとはいえ、下落合に漂う濃い緑と土の匂いをかぐと、やはり子ども時代のキャンプやハイキングの情景が鮮明に浮かんでくる。

◆写真上:子どものころから好きだった、刺激の強くて辛いニッキ(肉桂)飴。
◆写真中上は、ゆで卵の匂いは学生時代のバイト先だったコーヒーショップを思いだす。店には5つのサイフォンが並んでいて、お客が多いと洗浄がたいへんだった。は、クリスマスツリーに飾ったバブルライトと不二家のペコちゃん。
◆写真中下は、江古田の「なかや」のうな重と医療器具が入った膿盆イメージ。は、東京の伝統的なニッキ飴と若いころの吉永小百合。母親に「替えてもらってらっしゃい」といわれた便箋の表紙も、同じころに撮影されたものだろうか。
◆写真下は、1928年(昭和3)に出版された「流浪の民」の楽譜と資生堂の「More」(1970年代後半仕様)。いまでも、「More」の香りには弱い。(爆!) は、佐伯祐三Click!が描いた連作「下落合風景」Click!のひとつ『墓のある風景』Click!に描かれた薬王院墓地の塀。最近、傷んでいた表面がコンクリートで塗り直された。は、わたしが初めて足を踏み入れてから5年後の1979年(昭和54)10月に撮影された下落合東部の空中写真。このころから緑は減りつつあったが、それでもいまに比べたら周囲は森林と屋敷林だらけだった。

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1938年(昭和13)の日本本土への初空襲。 [気になるエトセトラ]

東京同文書院.jpg
 拙サイトでは、1942年(昭和17)4月18日(土)に来襲した米軍ドーリットル隊Click!のB25による爆撃を、日本本土への初空襲Click!としてご紹介していた。ドーリットル中佐が搭乗した2344号機が、神田川から妙正寺川沿いに落合地域の谷間を低空飛行している目撃情報や、その爆撃目標が誤爆だらけだったことにも触れている。
 ところが、国立公文書館に収蔵されている資料を参照していたら、日本本土空襲はドーリットル隊が初めてではなかったことに気がついた。ドーリットル隊の襲来に先がける4年前、本土への初空襲は中国軍(国民党=蒋介石軍)によって実施されていた。米国マーティン社製の双発爆撃機B10が20数機、九州の熊本県から宮崎県一帯を空襲している。当時の台湾総督官房外事課が発行し、極秘のスタンプがベタベタ押された「時局特報」の第29号(1938年6月22日)と、同第30号(同年7月2日)に詳報が掲載されていた。
 しかも、この空襲には爆弾を用いず、「10万枚」とされる宣伝ビラ(伝単)Click!を「攻撃目標」にバラまいている。そこには、「支那空軍は日本機が支那市民に対して為したるが如き空爆と同様の手段を以て之に報復する事を好ま」ず、日本国民は全体主義的な軍国政府による海外侵略や、ファシズムの圧政を排して自由と民主主義を取りもどし、平和な外交を実現して経済交流を促進しよう……というような趣旨の内容が印刷されていた。
 なにやら、現在とは立場がまったく正反対になってしまった呼びかけが、中国側から日本側に対して行われていたわけで、なんとも歴史の皮肉というべきだろうか。「時局特報」の第29号と第30号の発行間隔が、わずか10日間しかないのは、日本本土が初空襲されたことに対する危機意識によるところもあるのだろう。
 では、九州地方(熊本県・宮崎県)への初空襲の様子を、「時局特報」29号に掲載された「支那空軍機日本本土を空襲」から引用してみよう。
  
 漢口二十二日発! 五月二十日約二十機の双発動機装備の爆撃機が編隊を以て日本本土を空襲したが、右に関し(中国政府の)軍制部長何應欽は次の如く豪語す。/飛行行程約四,〇〇〇粁(km)、完全に我機の優秀さを日本に知らしむる事が出来た。/亦財政部長孔祥燕は次の如く発表す。/約二十数機の支那軍爆撃機が南西部より日本本土の中部に至るまでの諸都市の上空を旋回飛行、多数宣伝ビラを撒布悠々引上げたが、之は完全に支那空軍が日本を爆弾下に蹂躙し得る事を実証したものであるが、支那空軍は日本機が支那市民に対して為したるが如き空爆と同様の手段を以て之に報復する事を好まぬ為め爆弾は投下しなかつたのである。宣伝ビラは其の種類五種に分れ何れも日本の覚醒を促せるものである。(カッコ内引用者註)
  
 そして、5種類の宣伝ビラの詳細は、「時局特報」第30号に摘録として3種類の内容が紹介されている。その内訳は、「中華民国空軍将士及中日人民親善同盟より、日本国民に告ぐるの書」、「中華民国全国民衆より、日本国民に告るの書」、「中華民国総工会より日本工人ら告ぐるの書」となっている。これだけ詳細な情報が、台湾総督府でも入手済みということは、熊本県や宮崎県の警察にもなんらかの記録が残っているはずだと考え、いろいろな資料に当たったところ、特高警察Click!が毎月発行していた1938年(昭和13)の「特高月報」に詳しく記録されていることがわかった。
 それを教えてくれたのは、2019年(平成31)にパブリブから出版された、高井ホアン『戦前反戦発言大全』(戦前ホンネ発言大全第2巻)だ。この本は非常に面白く、「特高月報」を中心に戦前・戦中(1937~1944年)にかけ、全国津々浦々で反戦・反軍、厭戦、嫌戦などの膨大な発言・表現・ビラ、そしてこちらでも何度か記事にしている落書きClick!など、その摘発および起訴・不起訴の様子を克明に収録した集大成本だ。
時局特報第29号19380622.jpg 時局特報第30号19380702.jpg
時局特報第29号空襲.jpg 時局特報第30号空襲.jpg
マーティンB10編隊.jpg
 別に共産主義者や社会主義者、アナキストでも、また民主主義者や自由主義者でなくても(これらの思想犯は戦前・戦中を通じて監獄へぶちこまれるか、「転向」して常時監視されていた)、一般市民の発した「戦争はイヤだ」「日本は敗ける」レベルの言葉が、隣組Click!などの監視組織による密告によって、特高や憲兵隊に踏みこまれる経緯が透けて見えてくる。これだけ膨大な数の検挙者や厳重訓戒・論示者を出しているにもかかわらず、戦争への流れが止まらなかったのは、特高や憲兵隊による徹底した暴力による弾圧で、今日の香港やミャンマーにおける民主活動家たちのように沈黙させられていたからだ。
 たとえば愛知県にある小学校の訓導が検挙された事例を、同書より引用してみよう。
  
 今度の事変(上海事変を契機に起きた日中戦争のこと)は大体軍部がやり過ぎである。戦勝戦勝と言っているが地図の上で見ても余り戦果は収めていないではないか、又正義正義と称しているが正義に二通りはない、支那でも今度の戦争を正義だと言っている、日本の軍隊が他国へ攻め込んでそれで正義と言うのは変ではないか、 (カッコ内引用者註)
  
 子どもたちに事実を話しているにすぎないが、反戦言辞として特高に検束され陸軍刑法99条違反(戦時又ハ事変ニ際シ軍事ニ関シ造言飛語ヲ爲シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス)による検挙で、この訓導は起訴・拘留されている。
 敗戦により、大日本帝国が滅亡して日本が連合軍(おもに米軍による統治)に占領された際、マスコミを中心に侵略戦争を「反省」して、国民は「一億総懺悔」というようなことがいわれた。だが、このコトバは戦争を推進していた、あるいは戦争へ積極的に加担していた人間たちには、自身の責任を薄め責任の所在を曖昧化する、まことに都合のいい卑劣なコトバであって、特高や憲兵隊に徹底して弾圧されていた、「特高月報」に記録されている膨大な数の国民たちには当てはまらない。
 彼らにしてみれば、「一億総懺悔」など個々の主体性をどこまでも無視した、戦前日本Click!の「一億総特攻」や「一億火の玉」「一億の底力」などをそのままひっくり返した単なる裏焼きであり、無責任かつ没主体的な響きにしか聞こえなかったはずで、「だから、あれほど戦争はダメだ、日本は敗けるといったじゃねえか。オレを安易に<1億>へ含めるな、バカヤロウが!」としか感じられなかっただろう。
 特高や憲兵隊に検挙・検束されているのは、街中の庶民に限らず僧侶や軍人、在郷軍人、軍医、代議士、市町村会議員、区長、教師、教授、医師、薬剤師、組合長、工場長、経営者、店主、俳優、歌手、文学者、記者などありとあらゆる職種の人々で、傷痍軍人、出征家族、戦死遺族なども含まれている。しかも、「特高月報」に掲載されているのはほんの一部だとみられ、さらに多くの人々が反戦・厭戦を口にしては捕まっていたのだろう。そういえば、親父が学生(高等学校)時代の1943年(昭和18)ごろ、「米国に勝てるわけがない、日本は敗ける」といったのを誰かに密告され、交番にひっぱられた事例Click!もご紹介していた。
戦前反戦発言大全2019.jpg 特高月報(政経出版社).jpg
蒋介石(日本留学中)1907年頃.jpg 蒋介石(高田野砲兵第19連隊)1910頃.jpg
マーティンB10爆撃機.jpg
 さて、同書の紹介はこれぐらいにして、「特高月報」には九州で撒布された宣伝ビラについて、ほぼ全文が掲載されている。「反戦印刷物」と規定されたビラは、「日本商工業者に告ぐ」(中華民国総商会)、「日本労働者諸君に告ぐ」(同総工会)、「日本農民大衆に告ぐ」(同農民協会)、「日本政党人士に告ぐ」(同人民外交協会)、「日本人民に告ぐ」(同パンフレット)の計5種類となっている。『戦前反戦発言大全』より、その中から「日本政党人士に告ぐ」の一部を引用してみよう。
  
 諸君の偉大なる先輩が流血の辛苦を経て戦ひ取つた憲政とは今日如何に五、一五事件、神兵隊事件、二、二六事件等一連の軍閥等の暴挙を想起せよ。/近来に於ける議会政治の種々なる不良学徒を駆り立て、政繁本部破壊等正に彼等は人民の権利の土台に食ひ入つて居るではないか、人民の労苦を見よ、自由は何処にあるか、之等の事実の国外に於ける半面こそ満州事変から今日まで一貫した侵略行動である、要するに彼等が国内の暴力的支配を全アジアの暴力的支配へと延長しただけである、で彼等の勝利は中国の不幸のみならず日本人民の不幸であることは明ではないか。/日本人民の代表者諸君、諸君の偉大なる歴史的責任のために奮闘せよ、諸君の先輩の光輝ある憲政のために闘争をはづかしめるな、土地を失ふな、既に戦略軍閥等は深泥に足を踏み入れた、今こそ東亜両国を永年の暗黒生活から救ふときである、人民の自由は独立せる国家によりてこそまことの中日親善を実現することが出来る、人民の政士を呼び返せ、彼等を犠牲にするな、軍閥を打倒せよ。
  
 まったくもっておっしゃるとおり「人道爆撃」(蒋介石)による正論の主張であり、明治・大正期を通じて憲政や議会制(自由民権)、資本主義における革命思想を、数多くの留学生Click!を通じて「教え」「支援」Click!した「先輩」であるはずの日本が、逆に中国からその凋落と体たらくぶりを「諭され説教される」という、特高や憲兵隊など暴力装置を基盤としたまことに情けない、日本型ファシズム状況を迎えていたことが瞭然とする文章だ。
 ほとんどの国民は、報道管制により中国軍機B10による日本本土への初空襲を知らされなかったため、軍部は東京や横須賀などが爆撃されて、もはや国民の目から隠しようがない米軍ドーリットル隊による空爆を「初空襲」として宣伝したが、それより4年も前の日中戦争時には、すでに中国軍の爆撃機20数機が九州上空から2県1市6郡下の広範囲にわたり、大量の宣伝ビラを「攻撃」目標へ投下する空襲が行われていた。
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 だが、ビラの撒布が夜間だったため住民のほとんどが就寝中であり、警察や軍隊を総動員してビラを回収してまわったせいか、実際にビラを目にしたのはごく一部の人々にすぎなかった。もちろん、彼らには特高や憲兵隊からの脅しにより「緘口令」が敷かれたのだろう。

◆写真上:毎年多くの中国人留学生を集めた、下落合437番地の東京同文書院Click!
◆写真中上は、台湾総督官房外事課が1938年(昭和13)に発行した日本本土初空襲を伝える「時事特報」第29号()と同第30号()。は、空襲の詳細を報じる「時事特報」の第29号()と第30号()。は、マーティンB10爆撃機の編隊。
◆写真中下上左は、2019年(平成31)に出版された高井ホアン『戦前反戦発言大全』(パブリブ)。上右は、戦後に政経出版社から復刻された「特高月報」。は、日本に留学した1907年(明治40)ごろの蒋介石()と、陸軍13師団高田野砲兵第19連隊に勤務した1910年(明治43)ごろの蒋介石()。は、米国マーティン社製のB10爆撃機。
◆写真下は、1913年(大正2)に下落合の東京同文書院で全留学生を撮影した記念写真。は、1939年(昭和14)に撒布された蒋介石の反戦ビラ。は、1945年(昭和20)8月15日の早朝にB29から撒布された米軍によるポツダム宣言受諾と無条件降伏の勧告ビラ。

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もっとも早い時期の「武蔵野」写真集。 [気になる本]

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 時代が大正期から昭和期に入ると、大震災の影響もあって東京郊外に残っていた武蔵野Click!の風情は、急速に姿を消していった。戦後になると、山手線の内外は住宅が密集し、もはや武蔵野と呼べるような風景は東京23区の外周域に後退していった。こちらでも、武蔵野については折りにつけ、その植生Click!織田一磨Click!『武蔵野風景』シリーズClick!、文学に登場する「武蔵野」Click!などさまざまな角度から触れてきている。
 そんな姿を消しつつあった武蔵野を、まとめて写真で記録しようとする動きが1932年(昭和7)に企画されている。それまでは、いわゆる「武蔵野」の農村地帯は東京郊外に出ればどこでも見られる、ありふれた日常風景だった。画道具を抱えた洋画家が、ときたま風景画を制作Click!するため写生に訪れるぐらいだったろう。そんな風景を、個人的に撮影していた人物はいたかもしれないが、急速に変貌しつつある武蔵野の風情を、組織的な企画で大勢のカメラマンがいっせいに撮影してまわったのは、このときが初めてだったろう。
 組織名は「日本写真会」といい、セミプロやアマチュアの写真家たちが集うカメラ愛好家組織だった。日本写真会は、月ごとに例会を開催していたが、ときに撮影するテーマを決めては作品を持ち寄って、お互いに批評しあうような活動もしていた。1932年(昭和7)11月の例会では、「失はれ行く武蔵野及郷土の風物」というテーマが出題された。
 同年から翌年にかけ、多くの会員たちは東京の郊外へ出かけて、急速に宅地化が進んで消滅しつつある武蔵野風景を撮影し記録しつづけた。そして、1933年(昭和8)には合評会が開かれているのだろうが、持ち寄られた膨大な武蔵野の写真は特に写真集にするでもなく、そのまま“お蔵入り”となった。これらの写真作品が、再び写真集として陽の目を見るのは10年後、戦時中で新たな出版企画が立てにくくなった1943年(昭和18)のことだった。ただし、写真集の編集は1942年(昭和17)春ごろには終了しており、出版まで時間がかかったのは用紙とインクの配給が戦時で思うように進まなかったせいだろう。
 1932年(昭和7)現在で、「武蔵野」の風情が色濃く残る地域といわれているのは、わたしの世代で「武蔵野」Click!らしいと認識していたエリアよりもかなり内側、東京市街地に近い山手線からそれほど離れていない外側の一帯だ。すなわち、1932年(昭和7)に東京35区制Click!へ移行した自治体の名称でいえば、中野区をはじめ目黒区、杉並区、世田谷区、練馬区、板橋区、葛飾区、蒲田区(現・大田区の一部)、さらに三鷹、調布といった地域だ。
 1943年(昭和18)に靖文社から出版された『武蔵野風物写真集』より、その編者であり日本写真会の幹事だった福原信三の「はしがき」から引用してみよう。
  
 武蔵野には武蔵野の風物があります。自然にも人世にも、そして此の人世といふ中にも、信仰や、衣食住や、職業、行為、其の他百般の人間の作つたもの等々……。しかも此れらは急テムポを以て淘汰されつゝあります。今日に於て是れらの記録を結集して置かなければ、幾年かの後には、地上から全く跡を絶つて、復た再び想像する事すら不可能となるのは言を俟ちません。敢て百年後の史家のみとは云はず、僅か五年の後、我等の予言の適中我等自ら驚く事がないとは誰にも断言し得ない處でありませう。
  
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 戦時中にもかかわらず、非常に質のよい半光沢のある用紙を使い(78年後の現在もほとんど褪色せず傷んでいない)、写真製版もきわめて精緻で高品質だ。これら武蔵野の鮮明な写真が撮影されてから、2021年でおよそ90年が経過しているが、ここに記録された風景のほぼすべてが消滅してしまった。かろうじて、それらしい姿をとどめているのは、日本写真会のカメラマンがさらに足を伸ばして撮影した、府中地域から以西や埼玉県の南西部、千葉県の西北部ぐらいだろうか。
 また、わたしが高校生のころに「武蔵野」と認識し撮影して歩いたエリアの風情も、そのほとんどが1980年代を境にたちまち姿を消していった。現在では、公園や緑地帯として保存された一部の例外的な区画に、かろうじて昔日の面影をとどめるだけだ。でも、それはごく狭いエリアに押しこめられた風景であり、雑木林の木々を透かして見えるのは、高層マンションや高速道路の高架、またはどこまでも連なる住宅街だったりする。
 写真集が出版された当時、世田谷区の成城に住んでいた柳田國男Click!は、同写真集の「序」で武蔵野の開発の様子をこんなふうに書いている。
  
 今日はもはやその昔の片影も残るまいと思つて居ると、稀にはまだ敏感なる技術家に見出されて後の世に伝へられるやうな、しほらしい場面もあつたといふことを知つたのである。私の今住んで居る西南郊外の丘陵地などは、ちやうど同じ大きな変化がまさに始まつて、すばらしい勢ひでそれが進行して居る。一週に一度ぐらゐは必ずこの間をあるきまはつて居るので、却つて以前とのちがひに心づくことが少ないが、静かに考へて見ると今あるいて居るのは皆新道で、それが両側の石垣生垣と共に、僅かな歳月のうちに尤もらしく落ちついてしまひ、一方にはそれと併行する榛(はん)の並木の細路が、段々に崩れてたゞの畔みたやうにならうとして居る。林がつて居たうちは必要であつた多くの路しるべの石塔も、拓かれて畠となつて見とほしがきくやうになれば、もはや不用だから知らぬ間に片付けられる。
  
 同写真集には、武蔵野の各地域にある特産物や名物、名品なども登場している。たとえば、豊島区では雑司ヶ谷鬼子母神Click!の茶屋で出されていた里芋の味噌田楽やすすきみみずくClick!、練馬のダイコン、深大寺Click!蕎麦Click!などだが、わたしが意外だったのは目黒のタケノコや竹林が何度も登場していることだ。写真を数えてみたら、目黒の竹林が3枚も収録されていた。同じ地域で同じテーマの写真が3枚は、同写真集でもめずらしい。
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板橋区徳丸ヶ原.jpg
蒲田区下丸子.jpg
葛飾区金町.jpg
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練馬区清戸道志木街道.jpg
 目黒村は、江戸時代からタケノコの名産地として知られているが、昭和初期になってもいまだ孟宗竹の竹林で採れるタケノコが、市場へ出荷されていたようだ。武蔵野の中でも、めずらしく昔から竹林(薮=やぶ)が多かった目黒では、開業する医者もことごとく薮ばかりと書いたのは、目黒川は太鼓橋の近くに住んでいた随筆家の磯萍水Click!(いそひょうすい)だ。「笑ひごとぢやない」と書いているので、過去に目黒の医者にかかってひどい目にあわされた、苦々しい経験でもあったのだろうか。
 写真集と同じ年、1943年(昭和18)に青磁社から出版された磯萍水『武蔵野風物志』から引用してみよう。ちなみに、このころには目黒の竹藪もだいぶ減少していたらしい。
  
 寔(まこと)に昔の目黒は栗の木と竹藪の天地、栗飯筍飯が名物だつたのも故ある哉であつた。その亡された筍の怨念か、未だに目黒の医者は薮ばかり、恐らくこの祟りは、目黒の名物は筍と、その噂の消えない限り、永久に、百年でも二百年でも、扁鵲(へんじゃく=古代中国の春秋戦国時代にいたとされる優れた医者)と雖も目黒で看板をかければ、忽然と薮にある、笑ひごとぢやない、何とも恐しい事ではないか。(カッコ内引用者註)
  
 目黒の“枕詞”はタケノコという、慣用的な表現がこの世から消滅しない限り、その祟りである医者の“薮”化は数百年はおろか永久につづくだろうとしているが、およそ1980年代には早くも自然消滅し、目黒の名産はタケノコだと聞けば、「ウッソ~ッ!」という人が大多数になったろう。だが、磯萍水が嘆息する薮医者の数も減ったかどうかは、1967年(昭和42)に死去した彼の追跡エッセイがないので、さだかではない。
 『武蔵野風物写真集』が特異なのは、同写真集を刊行したのが東京ではなく大阪の出版社だったことだ。靖文社は、天王寺区夕陽丘町20番地にあった会社だが、この手の書籍は東京でかなり売れるだろうと見こんだ、あえて戦略的な出版だったのだろうか。それとも、通常なら地元の出版社に持ちこむこのような企画だが、写真集に見あう用紙やインクの配給先(出版社)が東京では見つからず、大阪でようやく探し当てることができたからだろうか。
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 いずれにせよ、きわめて貴重な武蔵野の記録を残してくれたわけで、今日から見れば靖文社様々というところだろう。なぜなら、このあとの大空襲により、日本写真会の会員たちが東京に保管していたネガや写真の多くが、この世から永久に消滅してしまっただろうから。

◆写真上:埼玉県南部の志木付近で見つけた、昔日の武蔵野らしい風景の一画。
◆写真中上:以下、『武蔵野風物写真集』より1932年(昭和7)に記録された貴重な武蔵野風景のほんの一部をご紹介したい。からへ、世田谷区の砧、同じく下北沢に通う林間の小道、同じく瀬田の陸稲畑、同じく等々力、杉並区の西荻窪駅付近、同じく阿佐ヶ谷駅の付近、中野区の鷺宮の芋畑に設置されたネズミ除けの狐絵馬。
◆写真中下からへ、豊島区雑司ヶ谷の落ち葉焚き、板橋区の徳丸ヶ原、蒲田区(現・大田区)は下丸子の街道茶屋、葛飾区の水郷金町の池にみる水難除けの水神牛札、練馬区名物の大根干し、同じく練馬を貫通する清戸道Click!から志木街道への連続。
◆写真下からへ、目黒区大岡山は東京工業大学周辺のススキ原、同区名物の竹林3葉、三鷹駅近くの「四谷丸太」製造林、調布は深大寺参道の蕎麦屋。
おまけ
 同写真集には、残念ながら落合風景は収録されていないが、めずらしい風景も記録されている。1932年(昭和7)の当時、倒壊寸前だった千代田城Click!は和田倉門の最後の姿だ。関東大震災Click!で大きな被害を受けた和田倉門は、このあとほどなく解体されている。
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大江賢次と松本竣介とのコラボレーション。 [気になる下落合]

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 2012年(平成24)の暮れ、世田谷美術館で「松本竣介展―生誕100年―」を観たが、会場には松本竣介Click!が1936年(昭和11)の夏に撮影した、29点におよぶ東京市街の写真が展示されていた。これらは、松本竣介が風景モチーフの参考にと撮影したものもあるのだろうが、大江賢次Click!が書いた「随筆映画ストーリー」というショルダーの、小説ともエッセイともとれる作品の“挿画”用として撮影された画面も含まれている。
 大江賢次Click!が「随筆映画ストーリー」と名づけた『表通と裏通』は、1936年(昭和11)10月に刊行された綜合工房Click!「雑記帳」(創刊号)Click!に掲載されているが、描かれているのは東京の真夏の情景であり、松本竣介はそれに合わせてカメラ片手に東京の街角を撮影してまわったと思われる。だが、「雑記帳」の創刊は秋へずれこんでしまい、松本竣介はそれを気にしてか『表通と裏通』の最後に、こんな一文を寄せている。
 「雑記帳」(創刊号/1936年10月号)の、『表通と裏通』文末から引用してみよう。
  
 本稿は新しい試みとして、大江氏が非常な意気込で執筆されたものです。原稿を戴いたのは八月の暑い盛り、モチーフは夏になつてゐるので、涼しい盛りの季節に送るのは、執筆者、読者に誠に申訳ないと思ふのですが、さうしたことに頓着なく読んで戴けると幸甚です。挿入の写真も不自由なもので誠に恐縮して居ります。(編集子)
  
 おそらく、大江賢次Click!の原稿を8月に受けとってから、松本竣介はほどなく市街地に出ているのだろう。撮られた写真の人物は夏服で、女性は半袖のブラウスに男性は麦藁で編んだカンカン帽をかぶり、光線が強いせいか建物や人物の陰影が濃く、半ばハレーション気味な表通りの写真もある。ビルや住宅の窓は開け放たれており、冷房がない当時の東京の蒸しむしした熱気が伝わってきそうな風景写真だ。
 撮影された場所は、大きな貨物駅や操車場のあるおそらく新宿駅のプラットホームにはじまり、神田や秋葉原、御茶ノ水界隈などの情景が多く含まれていると思われる。その中には、現在でも風景的な印象がほとんど変わらない場所も写されており、御茶ノ水駅のプラットホームから眺めた神田川沿いの木造4階建て住宅や、昌平橋から眺めた総武線の神田川に架かる鉄橋なども撮影されている。
 そして、大江賢次の『表通と裏通』を意識してか、市電の線路が通い自動車が往来するにぎやかな表通りと、小さな商店が店開きしている未舗装の裏通りなどを選んでシャッターが切られている。ただし、松本竣介自身の風景モチーフ探しも兼ねていたのか、いかにも彼の作品テーマのひとつである「街」に登場しそうな建築や街角、火の見櫓などの風景も撮影されている。これらの街角写真は、神田や御茶ノ水界隈に古くからお住まいの方に見せれば、どこを撮影したものかがすぐに判明するだろう。
 さて、大江賢次Click!の『表通と裏通』だが、「随筆映画ストーリー」というショルダーのとおり、非常に映像的な描写に終始している。まるで、1936年(昭和11)の夏、東京市街地のとある1日を記録映画に収めたような構成および描写となっている。全体の構成を「朝」「昼」「夜」に分け、全17章で東京各地の情景をビジュアルな筆致で描きだしている。
 たとえば、『表通と裏通』冒頭の「朝」は、こんな情景からスタートしている。
  
 ……朝だ。諸君の眼はカメラ。さあ一緒に歩かう。/この寂しいことは! 昨夜の人通りにくらべて、舗道は靴音もきこえない。両側のビルヂングもデパートも個人商店もまだ扉があかぬ。/みづみづしい街路樹には露が光り遠い郊外からとんできたのであらう蜜蜂が、花をさがして繁みに唸ると戸惑ひしたやうに空へ去った。/その消防署の望楼では、夜つぴて見張つた消防手がまぶしげにバラ色の旭を見てあくびをした。彼は、やがてぐつすりと眠ることのできる自分の家の方を眺めた。街の上には淡いきれぎれの靄がうごき、どうやら今日も暑くなりさうだ。
  
松本竣介展2012.jpg 雑記帳193610.jpg
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 まるで、撮影を意識した映画のシナリオのような冒頭の情景描写であり、大江賢次のカメラ目線は最後まで変わらずにつづいていく。先ほどは記録映画と書いたが、別のいい方をすれば個人的な感想や思いはあまり差しはさまず、できるだけ見たままの情景をリアルに記録するルポルタージュのような手法でもある。
 これは、近くに住み親しく往来していた芹沢光治良Click!による、戸山ヶ原Click!を歩きながらのフランス文学の「講義」にヒントを得たのかもしれず、まるでアンドレ・ジッドの「紀行文」的な文章を読むような趣きをしている。
 あるいは、第二次世界大戦後にフランスで興ったジッドが出発点とされている、近代小説を否定し「ヌーヴォー・ロマン」あるいは「アンチ・ロマン」と呼ばれるようになる、ある一定の思想や登場人物たちの心理描写、あるいは一貫した物語性を排して、世界や状況をできるだけありのままに表現する手法をめざした作品のようにもとらえることができ、松本竣介へ「非常な意気込で執筆」したと語っているのは、大江賢次のそのような先駆的なリアリズムの意図やねらいが、『表通と裏通』にはこめられていたのかもしれない。
 松本竣介もそれに気づき、カメラを手に街中へ出かける意欲が湧いたものだろうか。つづけて、同作品の「昼」から引用してみよう。
  
 ……たとへ蚯蚓が出てくれてもいゝから、もつと水道の出がよければいゝほどの洗濯日和。裏通りのどの物干台も満艦飾だ。盥の中では裸ン坊が海と心得てあそんでゐる。しかしこの子たちは本当の海は知らないのであらう。/風鈴屋、金魚屋、なんでも十銭屋、紙芝居屋、ちんどん屋、汗だくで炎天下にかせいでゐるが儲けは薄い。足もとのアスフアルトは鳥黐だ。ちよつくら市長さんに歩いてもらはう。(章番略) 客はアイスクリームやスマツクで涼をしのいでゐるのに、メツキの盆をもつ水兵服の少女たちは汗みどろだ。それでも裏町にゐる母たちよりもまだ涼しい。
  
 「スマック」アイスというのは、戦前にヒットした米国生まれの棒状アイスのことで、バニラアイスにチョコレートをコーティングしたものが主流だった。今日の100円ショップと同様に、「なんでも十銭屋」が店開きしていたのが面白い。
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 街中では株屋(証券会社の営業)が、まるで自分の持ち株が値上がりしたように興奮しながら、夢中で顧客に“買い”を勧めており、ネコは金魚鉢の金魚へちょっかいを出したが、とても獲れないとわかるとその前足で顔を洗い、ちんどん屋はもの陰で崩れた化粧を直している。それぞれの情景と情景の間にはなんの脈絡もなく、うだるような暑さの東京の街角が、次々に関連性を抜きに描写されていく。
 夕陽が沈みかけ、黄昏どきになると人々は少し活気をとりもどし、いまごろは別荘にでかけているはずの女学生同士が、バッタリ街中で顔をあわせて気まずそうにいいわけしたり、退社したサラリーマンたちは郊外の自宅で妻が夕食の支度をして待っているにもかかわらず、生ビールを飲みに続々とビアホールへと殺到する。
 今日と、あまり変わらない情景が繰りひろげられる東京の街角だが、あたりが闇に包まれると少しは落ち着いた風情を見せはじめる。再び、同作品から引用してみよう。
  
 裏通りは、おマンマをかせいだ人々で氾濫する。その汗にぬれた銭をリレーのやうに米屋へ渡す妻の、よく愚痴に言ふのは『震災前』である。/ざんざんと米をとぎ、水に月光がくだけ、大川端のはうでは花火が爆ぜ、母ちゃん早くマンマとせがむ子に蚊が群れる。/貧しいけれども一日の労苦を冷奴に忘れ、庭もない窓のふちの万年青の葉を、たんねんに筆でなでゝゐる夫は幸福さうである。夕顔がひらき、うち水をした路地風が涼しい。おい、夜店でもブラつかうや!
  
 おそらく(城)下町Click!の、表通りと表通りにはさまれた新道Click!と呼ばれた裏通りの情景なのだろう。夕食のあと、団扇片手に夜店をひやかしながら近くの銭湯に立ち寄り、帰ったら子どもを寝かしつけて、あとは自分たちもラジオを流しながら眠くなるのを待つ時間かもしれない。あるいは、妻が内職の針仕事をしているうちに、夫は蚊帳の中で子どもを団扇であおぎながら、自分も寝落ちしてしまうのだろうか。
 特高Click!に繰り返し検挙され、未決の拘置所では文学作品の読書三昧だった大江賢次の、まるでアンドレ・ジッド『地の糧』を地でいく「書を棄てよ、町へ出よう」の大江版であり、戦後に丸ごとジッドを拝借して書名にした寺山修司Click!の先どりでもある。ただし、大江は家庭の「のぞき」見で警察に逮捕されることはなかったが……。w
 大川(隅田川)Click!両国橋Click!のたもとで、打ちあげられる花火の音が聞こえているから、おそらく神田あたりの裏通りの情景だろうか。このあと、大江賢次Click!は深夜の寝静まった街並みを描き、「諸君、おやすみなさい。やがて朝が追つかけてくる。」で文章を結んでいる。ちなみに、両国橋のたもとで打ちあげられていた花火は、7月に行われた公式の両国花火大会Click!とは別に、おカネ持ちが花火師を雇って打ちあげ柳橋の料亭Click!や屋形船から眺める、江戸期と変わらないプライベートな打ちあげげ花火も健在だった。したがって、8月に書かれている本作の「大川端のほうでは花火が爆ぜ」る音は、どこかのおカネ持ちか会社の接待かは不明だが、私的に打ちあげられた両国橋たもとの花火だ。
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 1936年(昭和11)8月、小学5年生だった親父は千代田小学校Click!の臨海学校で房総の興津海岸Click!ですごしているが、真っ黒になって日本橋にもどってくると、おそらく『表通と裏通』のような情景が街のあちこちで展開していたのだろう。親父が生きていれば、同作の描写を「そうだ、こんな感じだったな」と、その街角リアリズムに感心するかもしれない。

◆写真上:1936年(昭和11)の夏、新宿駅のホームで撮られたとみられるスナップ。
◆写真中上上左は、2012年(平成14)に開催された「松本竣介展―生誕100年―」図録。上右は、1936年(昭和11)10月に発行された「雑記帳」(創刊号)。は、大江賢次『表通と裏通』のページと松本竣介による青果店とみられる挿入フォト。
◆写真中下は、大江賢次の同作と松本竣介による中央線のガード下とみられる挿入フォト。は、昌平橋から眺めた中央線の神田川鉄橋とその現状。
◆写真下は、大江賢次の同作とどこかの廃材置き場のように見える場所。は、御茶ノ水駅のホームから眺めた木造4階建ての住宅群と少し前の現状。現在では同所の建物はコンクリート建築ばかりになり、護岸のコンクリートも一新されている。

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矜持をもつ大人はとてもカッコよかった。 [気になるエトセトラ]

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 なにごとも、キチンとしないと気が済まない人がいる。特に、戦前の教育を受けた親や祖父母の世代には、だらしのない生活を嫌う人が多かった。机の抽斗やロッカーの中が雑然としていると、「抽斗の中は、その人の心の中や性格をよく表わすものだ」という教師がいた。女子が男子のことを「君」づけで呼んでいると、目下の者を呼ぶ「君」ではなく「さん」づけで呼びなさいと訂正した。小学校3~4年生の担任だった定年間近の笹尾先生だが、おそらく大正初期の生まれだったろう。
 高尾山から大正天皇の墓(多摩御陵)へ遠足に出かけたとき、陵墓に90度の最敬礼をしている姿が印象的でいまも目に焼きついている。「多摩御陵」Click!はそのかたちから、わたしは小学生の間じゅうずっと「卵陵」だと思いこんでいたが、そんなことを口にしたらたちまち頭にゲンコツをもらったにちがいない。外で遊ぶのに忙しく午後7時になると眠くなり、まず宿題などやっていかなかったわたしは、しょっちゅうゲンコツを頭にゴツンとくらっていたが、なぜか笹尾先生が大好きだった。
 その思想性からいえば、もう戦後民主主義とはまったく相いれない時代遅れなアナクロニズムであり、おそらく戦前から教師をしていたであろう彼は、その激動の中を文字どおり命がけで歩んできたのだろう。そんな笹尾先生がときおり見せる、1960年代半ばを自由にノビノビとすごす教え子たちを見るまぶしそうな眼差しや、どこかで自分の教育がまちがっているのではないかと自問自答しているような内向的な眼差しや、そんな迷いをどこかで子どもたちに見透かされていると思うのか、ときにドギマギして恥ずかしそうな表情と眼差しをするのが、子どものわたしには教師以前にとても人間らしく思え、信頼できるいい先生だと直感的に感じとれたのかもしれない。
 いまのわたしなら、抽斗の中や心の中が雑然としていたって、そのほうがよほど人間らしいし、特に心の中はいちいちキチンキチンと、右から左へいつも整理整頓できているもんじゃない、むしろ雑然としていたほうが新しい方向性やアイデアが生まれる基盤になるし、より生活や人生が楽しめるのではないか……などと考えながら反発するのだろうが、笹尾先生に関しては当時もいまもまったく反発も反感も湧いてこない。それだけ、子どもながらに人間として教師として信頼し、信用していたのだろう。確か、それからすぐに退職されているので、わたしたちのクラスの2年間が最後の担任だったのかもしれない。
 うちの父親にも、妙なところに頑固で形式主義的で几帳面な性格が出ていたのを憶えている。ワサビおろしがないと、いくら大好きな蕎麦を茹でても口にしなかったし、カツオの刺身には辛子がないとショウガおろしではあまり箸をつけなかった。湯豆腐にタラではなく、別の魚が入っていたりすると食べなかったし、薬研(やげん)=七色唐辛子がないと、せっかくの手づくり豆腐もあまり口に運ばなかった。
 これは、几帳面でキチンとするのとはまた少し別のテーマなのかもしれないが、酒をまったく飲まなかった親父にしてみれば、自身の味覚や作法、伝統に沿った料理の“お約束”や、自身が育った食文化に関するキチンとしたこだわりや規範・形式、口に入れるものに対するこの地域人としての矜持が崩されるのを、なによりも頑固に嫌い抵抗したかったのだろう。ちなみに、東京方言では「薬研(やげん)」または「七色唐辛子(なないろとんがらし)」というが、最近よく耳にする七味唐辛子(ひちみとうがらしClick!)は関西圏の方言だ。七色とんがらしは、親父がときどき冷奴やおみおつけにもふって食べていた憶えもある。
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 向田邦子Click!も、親父と同じようなことをして、おみおつけに薬研をふりながら食べている。おそらく、麻布出身の(城)下町娘Click!だった祖父母や母親からの影響だろう。1980年(昭和55)に文藝春秋から出版された、向田邦子『無名仮名人名録』より引用してみよう。
  
 小さなしあわせ、と言ってしまうと大袈裟になるのだが、人から見ると何でもない、ちょっとしたことで、ふっと気持がなごむことがある。/私の場合、七色とんがらしを振ったおみおつけなどを頂いて、プツンと麻の実を噛み当てると、何かいいことでもありそうで機嫌がよくなるのである。/子供の時分から、七色とんがらしの中の麻の実が好きで、祖母の中に入っているのを見つけると、必ずおねだりをした。子供に辛いものを食べさせると馬鹿になると言って、すしもわさび抜き、とんがらしも滅多にかけてはくれなかったから、どうして麻の実の味を覚えたのか知らないが、とにかく好きだった。
  
 向田家では、寿司はサビ抜きだったようだが、うちでは子どものころから大人と同様にワサビのきいた寿司を食べさせてくれた。子どもの敏感な鼻には刺激的で、ツーンときては涙のでるワサビのきいた寿司だったが、春先の花粉症でつまり気味だった鼻がみるみるとおるのは気持ちがよかった。
 おそらく寿司からワサビを抜いたら、まったく食べさせる意味も寿司の醍醐味もないと考えた親父の想いであり判断だったのだろう。乃手風なサビ抜き向田家とは、そこがちょっとちがう習慣であり考えなのかもしれないが、子どものころから辛いものを食べていた結果、成長して馬鹿に育った……とはやはり思いたくない。
 もうひとり、笹尾先生によく似た人物を知っている。この人も、親父よりもずいぶん歳が上の大正半ばに生れた人で、学生時代にアルバイト先の会社Click!にいた総務経理部長だ。非常に几帳面な性格で、社内がキチンとしていないと我慢ができない性格だったらしく、よく社員の素行や言葉づかいを注意しているのを見かけた。おそらく、どこかの会社を定年退職したあと再就職したか、あるいは社長の縁故関係でアルバイト先の会社へ入社した総務経理畑の専門家だったのだろう。
 社員からは、かなり煙たがられている存在だったが、わたしはどこか笹尾先生と同じ匂いがする、歳をとった総務経理部長が嫌いではなかった。正社員とアルバイトの差別をしないし、ときどきわたしのいるスーバーマーケット用のPOPを支店別に仕分けする、パーティションで仕切られ他の部署からは見えない仕分け室へやってきては、紐のついた老眼鏡を外しながら楽しそうに短い世間話をしていった。
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 だが、部長がいなくなってから、ものの30分もしないうちに今度は経理の女子が連れだってやってきて、細かい部長の性格や仕事のグチをこぼしていったりするのでおかしかった。少し彼をかばいたくなり、総務経理部長が細かくなくてど~するんだよ?……とノドもとまで出かかるのだが、彼女たちはひととおりグチをこぼすと、気分転換ができたのか再び財務経理の最前線へともどっていった。どうやら、各部署から見えない仕分け室が、社員たちの憩いの場になっていたフシがあり、入れかわり立ちかわりさまざまな部署から社員たちがやってきては、5~10分ほど話して一服すると気がすむのか帰っていった。
 かなりのお歳なのに総務経理部長の声は大きくて張りがあり、電話をかけるときは特に仕分け室まで響いてきた。まるで、戦前の壁掛け電話を使っているような雰囲気で(手にしているのは通常のビジネスフォンなのだが)、立ちあがって大声で話さないと相手に聞こえないかのように通話していた。祝電や弔電などの電報を依頼するときが最大音量で、「岡山県の<お>、眼鏡の<め>、出初式の<で>、東横線の<と>、丑三つ時の<う>、午前様の<ご>……」と、いちいち文字を規定しながら文面を1文字ずつ伝えている。その例に挙げる用語が、1980年代にしてはかなり古めかしく、相手の局員が訊き返すのか、何度か用語を変えながら伝えたりしていた。
 おそらく、40年以上にわたり総務経理部門を一筋に歩いてきたくだんの部長には、ある一定の模範的あるいは規範的な“型”があり、それを保持しようとする「これだけは譲れない」という矜持があったのだろう。同じく、40年以上も教師をつづけてきた笹尾先生にもまた同じような“型”があり、時代のめまぐるしい移ろいを横目で眺め、ときにとまどいつつも「悪いことは悪い、いけないことはいけない」と、子どもたちの頭にゲンコツをゴツンと食らわす、教師としての誇りと自信があったのだろう。それは、どこか職人の世界にも通じるプロフェッショナルな“型”の頑固な美しさがあって、周囲を反発させず心を素直にさせ納得させる力があるように思える。実力や中身が薄いのにプライドばかり高い、現代に多いエセ専門職や職人モドキとは、まったく次元を異にする存在に見えていた。
 それはどこか、江戸時代の古い演劇なのに芝居が見せる所作や流暢な七五調のセリフ、誰もが知っている古典落語の予定調和な展開やオチにも似て、形式美に通じる側面があるのかもしれない。プロの決められた仕草や技(わざ)に魅せられる、強い説得力と独特な美意識の世界だ。親父の食事に対する決められた“型”も、どこかこの地域の食文化の美意識を教育的に体現して、向田家と同様に子どもへ見せ、あえて伝えようとしていたのかもしれない。
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 初ガツオの刺身は、ショウガでもワサビでもカラシでもいけるし、中トロClick!どんど焼き(お好み焼き)Click!を美味いといって食べているわたしは、親父からみれば地域教育の大失敗に映るのかもしれないが、小学校の笹尾先生やアルバイト先の経理総務部長が体現していた矜持を、いまではとてもよく理解できるように、親父の食に対するこだわりや伝統的な美意識もまちがいなく理解できる……というところで、およそ勘弁してもらうことにしたい。

◆写真上:抽斗の整理整頓は、人の性格や心の中を表しているというのだが……。
◆写真中上は、笹尾先生とわたしがいた小学校の現状。校舎が建て替えられてまったくちがうので、当時の面影はない。は、スーパーで見かけるPOP。チェーン営業をする大型スーパーになると、当時は専門の版下制作・印刷・配送の会社があった。
◆写真中下は、1980年(昭和55)に出版された向田邦子『無名仮名人名録』(文藝春秋/)と、薬研=七色とんがらし()。は、江戸前期には七色唐辛子や薬種問屋が多かったことからその名がついたといわれる、1859年(安政6)作成の尾張屋清七版「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」にみる薬研堀界隈Click!。日本橋の米沢町(現・東日本橋)や浜町、横山町、若松町などに囲まれた薬研堀は、幕末なので埋め立てが進んでいる。
◆写真下は、子どものオヤツだった醤油が似合うどんど焼き(お好み焼き)。は、親父は箸をつけなかったトロの握り(江戸東京では下魚だったマグロ自体を好まなかった)。わたしは双方とも美味しく食べるので、食文化面からの伝統教育は半ば失敗だったのだろう。

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ストレスがたまると堪忍袋の緒がゆるむ。 [気になるエトセトラ]

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 なんだか、新型コロナ禍の影響で思いどおりに身動きできず、2年間のストレスがたまっているせいか、ちょっとしたことで腹を立てることがある。精神衛生上よろしくないのだけれど、堪忍袋の緒がゆるんでいるのが自分自身でもよくわかる。以前なら、「まあ、そういうこともあるかもね」とか「しゃあがねえなあ」で済んでいたような課題やテーマが、許容範囲が狭くなっているせいかムカッ腹が立つのだ。
 たとえば、こんなことがあった。知人の子どもが小学校へ通っていて、COVID-19の変異ウィルスが蔓延しているにもかかわらず、子どもたちが登校して教室へ集まるのをやめさせようとはしない。当然、感染する生徒とその家族が続々と出て、当該のクラスはもちろん学年全員が検査のうえ、陽性者がでたら全員が自宅待機になる。そこで、知人の親が教育委員会に連絡を入れ、感染の危険性や懸念を最小化するために、自宅でのリモート授業ができないかと問い合わせたところ、教育委員のひとりなのだろう答えていわく、「授業が遅れるし、教育に不平等が生じるからできません」とのたまわったとか。
 この回答を聞かされたとき、わたしは意味不明だった。知人によれば、自宅で端末を導入できる子とできない子、あるいは性能のいい端末とそうでない端末とでは表示性能がちがうし、通信環境にも差異が発生して平等性が保てないから、そして教員のスキルがまちまちで対応できないから……という回答だったそうだ。この言質、教育委員の方は自分でいっていて、自身の言葉になんら不可解さや不自然さを感じなかったのだろうか? 民間の組織で、こんな没主体的でオバカな回答をしたら、わたしが上司なら即座に叱責か勤務評定に×印、あるいは厳格で狭量な上司だったら即座に異動(左遷)だろう。
 「不平等が生じるからできない」のではなく、そのような要望や課題が直接自身の役職に寄せられたとしたら、既存の体制からあれこれいいわけを探しだして並べるのではなく、現在の状況に対する危機管理の意識を踏まえ、どのような施策なら「不平等が生じないように、どうしたら教育を安全に継続・維持できるのか」を考えて検討し、実施できるかどうかを企画・案件化して実現へ向けて努力するのが、あんた自身の仕事なんだよ……というのが、どうやら当人には理解できていないようなのだ。
 教育の現場ではなく、あたかも他人ごとのようなコメントをする、どこか別の次元や地平に立ったヒョ~ロン家のような、主体性のない回答を臆面もなくする人間が、自治体の重要な教育委員というポストに就いていること自体にも唖然とするが、これほど役人の世界には「仕事ができない(をしない)人間」または「使えない人間」が多いのだろうか? もちろん、この教育委員のような人物ばかりではないのだろうが、もう少し上記のような問い合わせに対しては回答のしかたを、特に自身の立場と自身の役職や仕事を、十分にわきまえた上での表現に留意すべきだろう。
 「〇〇〇はできない」という回答は、あらゆる可能性を検討し、それにもとづいて課題を解決する方策を企画して、なぜ「できない」のか、どこに障害があるのか、その障害をどのように取り除けば解決し、実施できるのかどうかを現場で多角的に検証・立案したうえでのものならばともかく、ハナから「できない」という回答は通常の(あたりまえに機能している)組織では、ありえないことだというのを肝に銘じるべきだろう。
 事実、子どもや家族(特に感染すると生命が危うい高齢者のいる家庭)が心配な親たちから、同様の声が数多く教育委員会へ寄せられた各地の自治体や学校では、「できない」はずの全校生徒への端末支給と、教員のスキルアップにともなうリモート授業が現実に「できている」、難なく実現している都内の事例があちこちにあるのを見れば明らかだろう。自分自身の立ち位置や役職をよく理解し、自分の仕事とはなにかをよく考えてわきまえ、トンチンカンなタワゴトを口にせず、ちゃんと当りまえの仕事をしてくれ……それだけだ。
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 さて、役所(役人)への文句ばかりでは後味が悪いので、一所懸命に何代もの役職にわたって地道に仕事をつづけている人たちもいることを書いて、少しは擁護してあげたい。たとえば、都内には頻繁に工事が行われている公園や空き地、公共敷地、あるいは河川敷などがある。何度も同じところを掘り返したり、同じ敷地でもとっかえひっかえ場所をずらして掘り返していたりする。もっとも、(城)下町Click!に多く、戦前は外周域だった山手あるいは新乃手ではあまり見かけない光景だろうか。
 工事現場を見ると、たいがい「整備工事」というような、抽象的な名目(タイトル)の看板が掲げられた養生が張られるのは、区有地や都有地など公有地がほとんどなのだが、事情を知らない方は、「しょっちゅう予算消化のムダな整備ばかりして、工事の音がうるさい!」などと、自治体に文句をいったりする。確かに、同じ敷地内を何度か場所を変えて掘っくり返したり、一度にやればいいものを何度かに分けて掘削したりしている。だから、工事音のみを問題にして、「うるさい!」と自治体に文句の電話を入れたくなるのだろうが、時間があれば少しは「工事」の様子を観察してみるといい。
 なにかを「整備」するにしては、やたら掘削作業のみが多くはないだろうか? パワーショベルとブルドーザーで一気に掘ればいいものを、表層の土砂を少しずつすくいとり、確認しながらゆっくりと作業を進めてはいないだろうか。特に「工事の音がうるさい!」と役所に電話したり怒鳴りこんだりする方は、戦後になって東京にやってきた方たちではないだろうか? もし、そうであるならば、彼らは自分の住んでいる街の歴史を、あまりに知らなさすぎるといわれても仕方がないだろう。
 もちろん、そのような「工事」には、当該地が「埋蔵文化財包蔵地」に指定されていて、慎重に進める遺跡の発掘ケースも多いだろうが、そのような様子が見えずに建物や施設が建設されるわけでもない公園や公有地、あるいは空き地に見える原っぱの「整備工事」は、たいてい空襲で亡くなった人々の遺体を捜索して掘りおこしているのだ。
 空襲の直後、とりあえず仮埋葬で埋めたはずの遺体だが、その後、戦後の混乱から掘り返されて本埋葬されることなく、そのままになっているケースが多い。しかも、一夜にして10万人をゆうに超える死者・行方不明者をだしたとみられる東京大空襲Click!では、遺体を仮埋葬した土地でさえ、戦後になってわからなくなっているところも少なくない。特に、戦前から公園だったり、戦後になって公園化された敷地、寺社の所有地、戦後ずっと空き地のままになっている公有地、あるいはもともと河川敷だった土手や住宅地などには、伝承をたどっていくと戦災犠牲者の仮埋葬にたどりついたりする。
 戦後も76年以上が経過し、「空襲による犠牲者の遺体捜索」では予算がつきにくいのだろうか、公園や公有地などの「整備」予算の中から少しずつ捻出しては、「工事」を実施しているのだろう。戦争からあまりに時間がたちすぎて、一度に大きな予算がつきにくくなっているせいもあり、いっぺんにまとめて「工事」を実施するわけにはいかず、前期と後期の年度予算に分けて、少しずつ遺体捜索をつづけているケースもあるのかもしれない。特に、空襲被害が大きく行方不明者の実態が(何千人・何万人の単位なのかさえ)つかめていない、(城)下町の犠牲者探しは現在でも延々とつづけられている。
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 だから、「うるさい!」とクレームを入れる前に、もう一度、「工事」の理由や現場の様子を仔細に観察するなり、問い合わせをするなりして注意をはらってほしい。役所の担当者は76年間も、代々にわたって忘れず几帳面かつ地道にコツコツと遺体捜索をつづけてきているのであり、少ない予算をなんとか捻出し、好きこのんで繰り返し「工事」を行なっているのではないことを、この街に住むのであれば理解してほしい。遺骨の収集をしているのは、なにも沖縄や南洋の島々だけではないことを認識してほしいのだ。
 前世紀末に、戸山ヶ原Click!に建っていた陸軍軍医学校の陸軍軍陣衛生学教室/化学兵器研究室Click!の前庭で、敗戦と同時に穴を掘って埋められた標本遺体が近年発見されたが、その後、当時勤務していた人たちの証言から、戸山公園Click!内の何ヶ所かを掘り返して調査がなされている。出土した遺体の骨などが、日本人のものではなく、他のアジア系の人々の遺体であり、頭蓋骨に穴(弾痕)の開いたものや、明らかに人為的に実験的な手が加えられた形跡があったため、より綿密な調査が重ねて行われている。
 この建物のすぐ西側には、陸軍防疫研究室Click!すなわち防疫給水部(731部隊)の拠点が建っていたので、地域の住民や自治体が敏感に反応したのだ。敗戦とともに、戸山ヶ原Click!の何ヶ所かに大きな穴を掘って埋められたという、アジア系の諸民族の特徴を備えた標本遺体は、人体実験に使われた被害者(=マルタ)ではないかと推測されたからだ。このケースでも自明なように、いまだ見つかっていない戦争の被害者は、都内あちこちの地面のすぐ下(特に東京大空襲では城下町の被爆地)に眠っている可能性が高い。
 戸山ヶ原Click!は広いので、ショベルカーやトラックが出入りしても「工事の音がうるさい!」と怒鳴りこむ住民はいないだろうが、戦前の市街地だと家々が密集しているせいか、事情を知らないで住んでいる人には、単に耳障りな工事音にすぎないのだろう。そう怒鳴りこむ方の家の下にだって、たくさんの遺体が仮埋葬のまま埋められているかもしれないのだ。戦争のツケを、延々と払いつづけなければならない事業に対し、「うるさい!」とクレームを入れるのは、面上にツバするがごとき行為にちがいない。
 話はガラリと変わるが、このところ下落合(中落合/中井地域含む)のあちこちでマンションや介護老人施設などの大規模な建設工事が行われているが、目白崖線のエリア全域がほぼ「埋蔵文化財包蔵地」のような土地がらであるにもかかわらず、発掘調査が行われたという事実をほとんど聞かない。工事を請け負っている建設業者が、なにかを発見しても下落合横穴古墳群Click!のケースのように当局へ通報せず、おそらく「見なかったこと」にして、そのまま破壊しているケースも多々あるのだろう。
 あるいは、それと気づかず単なる石として処分された石器類や、以前に建っていた家々の残滓だろうということで旧石器時代や縄文期、弥生期、古墳期の土器類や埴輪片が棄てられているケースもあるのかもしれない。それらの中には、日本史はおろか世界史レベルのコペルニクス的な転回点Click!をもたらすような、重大な発見が眠っているのかもしれず、自国の歴史に無頓着なゼネコンが無造作に破壊するのは、実に残念でもったいない光景に見える。
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 戦前、東京の外周域だったところでは、山手大空襲Click!で死亡した人たちの仮埋葬地Click!は、たいがいハッキリと人々の記憶Click!に残されており、戦後に改めて掘り返され本埋葬が行われている。だが、旧・城下町の一帯ではあまりに被害範囲が広く、かつ山手大空襲とは比較にならないほどの膨大な犠牲者のため、身元確認もせずにまとめて仮埋葬されたままになっている場所も少なくない。それが、長い時間経過とともに埋葬地さえわからなくなり、戦後は風景も一変してしまったため証言も曖昧化している。そんな街中に響く「整備工事」の音に、この街の歴史のささやきに、もう少し耳を傾けてみてはくれないだろうか?

◆写真上:変異種によるピーク時に、リモート授業へ転換できない小学校がかなりあった。
◆写真中上は、タブレットで勉強する小学生。新型コロナ禍のリスクから、GIGAスクール構想を前倒しにした自治体も多い。は、独特な教育風土で知られた小日向の黒田小学校Click!は、神田上水の開渠遺跡Click!を発掘中の同校跡。
◆写真中下は、公園における埋蔵文化財(江戸期の屋敷遺跡)の発掘調査。は、戸山ヶ原(現・戸山公園)の現状。は、標本遺体の発掘調査が行われた戸山ヶ原の区画。
◆写真下は、台東区三筋1丁目に残る東京大空襲時の電柱(レプリカ)で、実物は江戸東京博物館で保存されている。は、墨田区の横網町公園内にある関東大震災Click!東京大空襲Click!による犠牲者の慰霊塔。毎年、新たに発見される空襲犠牲者の身元不明遺骨も納められている。は、東京都の戦災殉難者名簿の一部。同名簿には判明している犠牲者のみが記録されているが、街の1区画の住民全員が丸ごと焼死したり、ひとりの係累も残らなかった一家全滅のケースも多いため、あとどれぐらい行方不明者がいるのかわからない。

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佐伯祐三『看板のある道』を拝見する。(下) [気になる下落合]

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 佐伯祐三『看板のある道』Click!の、「富永醫院」と「落合倶楽部」の看板背後に建っている家々は、庭の隅に植えられたアカマツと重なって見えている、物置き小屋のようなものが設置された1軒目の住民は不明だが、その先の2軒目に見えているのは中村邸だ。3軒目に見えている、白い塀の西洋館らしい邸に住んでいた住民の名前もわからない。
 前方に向かってわずかな下り坂の気配があり、右手(西寄り)にゆるくカーブしていく三間道路をはさみ、その向かい(左側)の塀瓦に腰高の白壁が連なる大きな屋敷は、地元旧家の一族である下落合1674番地の宇田川邸だ。この当時の宇田川邸は、いまだひとつの大きな和館だった可能性もあるが、大正末から広い敷地には3軒の建物が描かれた地図もあるので、どちらかハッキリしない。左手の白壁塀の切れ目にある門をくぐると、敷地内の道は西側へややカーブを描きながら、敷地内の家屋の玄関へとつづいていた。
 佐伯祐三Click!は、目白通りから南西に向かって斜めに入る三間道路上、下落合1674番地の広大な宇田川邸前の路上にイーゼルをすえ、画角を南西の方角に向けてやや逆光気味に制作している。人物や建物の影から、おそらく晩秋の午後に写生をはじめた仕事だろう。佐伯の背後には1926年(大正15)9月19日、すなわち2ヶ月ほど前に描いたとみられる、やや上り坂のカーブをとらえた『道』Click!の風景が拡がっていた。その坂を上り110mほど歩くと、当時は拡幅前の目白通りClick!に突きあたる。
 『看板のある道』の画面中央に描かれている三間道路には、落合地域の中部から西部にかけて宅地開発が急速に進捗しているのだろう、すでに下水の側溝Click!が設置されているのがわかる。そして、その道路を3人連れで歩いているのは、落合第一尋常小学校(現・落合第一小学校)Click!から下校途中の生徒たちだ。
 3人の子どもたちが背中にしょっているのは、大正期にはオランダから輸入されていた学童向けの「ランセル(Ransel)」と呼ばれるオシャレなカバンで、のちに今日のランドセルへと発展する最初期型の小学生用背負いバッグだ。帆布など厚くて丈夫な生地でつくられた縦長のカバンで、中には教科書やノート、筆記用具などの学用品が入っているのは、今日のランドセルとまったく変わらない。ちょっとオシャレな小学生の間では大正期から流行していたもので、黒タイツをはいた女子生徒の仲良し3人組も、親にねだって新宿のほていやデパートメントClick!(現・伊勢丹Click!)あたりで買ってもらったのだろう。
 もう少しあとの時代の出来事になるが、この三間道路をそのまま200mほど進んだところに、1929年(昭和4)になると落合第三尋常小学校が開設されている。それまで、この近所に住む子どもたちは落合第一尋常小学校に通っていたわけで、この3人の女子も落一小学校から帰宅途中の生徒たちだ。先にも触れたように、大正末から昭和初期にかけ落合地域の中部から西部にかけては、急速な宅地造成と住宅街の形成が進み、激増する子どもたちのために小学校の教室数や教員たちが絶対的に不足していた。
 落合第一尋常小学校では、校舎の増築に増築を重ね、また学校敷地の拡大を繰り返してきたが、それでも生徒数の急増には追いつかず、大規模な新校舎の建設に着手するとともに、全校生徒を午前組と午後組とに分けて授業を行ったりしている。それでも、1925年(大正14)にはついに生徒が学校からあふれだし、特別に借り受けた地域の建物Click!で授業を行ったり、同年にはすでに建設中だった落合第二尋常小学校Click!の、なんとか生徒たちを収容して授業ができそうな、工事済みの教室を選んでは授業を行っている。
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ランセル(Ransel).jpg 中野町の文具店(大正期).jpg
看板のある道1936.jpg
 このような状況下で、葛ヶ谷1番地の落合第三尋常小学校は早々に計画された。教員への多大な業務負荷も含め、いかに深刻な事態だったかは同校の建設経過をみてもわかる。落三尋常小学校は敷地も広く、大規模な校舎だったにもかかわらず、1928年(昭和)12月に起工し翌1929年(昭和4)3月には落成するという、わずか4ヶ月の夜を日についでの突貫工事だった。それほど児童も教師も、切羽つまった危機的な状況だったのだ。
 同校は、1929年(昭和4)4月1日に開校しているが、1932年(昭和7)にはすでに卒業生を送りだしている。つまり、開校から4年で最初の卒業生をだしているということは、落合第一尋常小学校からの1~2年生の転入組がいたことになる。画面に描かれた3人の落一尋常小学校の女子生徒も、もう少し時代が進んでいれば、すぐ近くに開校したばかりの落合第三尋常小学校へ通学できていただろう。
 彼女たちは、落合第一尋常小学校(リニューアル中)Click!の校門を出ると(あるいは臨時に設置された校外近くの施設だったかもしれない)、そのまま真っすぐ旧・箱根土地本社ビル(中央生命保険倶楽部)Click!の前を通って、第一文化村Click!に接した北辺の二間道路Click!をそのまま歩き、画面に描かれた三間道路筋へ出るか、あるいは途中で目白文化村に住んでいた友だちとともに第一文化村の中までいっしょに歩き、クラスメートたちが目白文化村の中へ散ってしまうと、そのメインストリートから画面に描かれた三間道路筋へと抜けていたのだろう。3人が歩く道筋には、日本の住宅街とは思えない当時はモダンな西洋館が建ち並び、特異な風景が拡がっていたにちがいない。
 また、画面の三間道路の左寄りには、赤い洋服(セーターかカーディガン?)を着てスカートをはいた女性も描かれている。洋装の女性は、佐伯祐三の『文化村前通り』Click!にも登場しているが、当時の落合地域では洋装・洋髪で街中を歩いたりすると、旧住民たちからことさら注目を集めたような時期で、上落合の村山籌子Click!のケースでは、近所の子どもたちがゾロゾロとあとをついてくるような時代だった。落合第二尋常小学校の教師・鹽野まさ子(塩野まさ子)Click!が、校長から「頼むから洋服になっておくれ」と依頼され、さっそく洋装で登校Click!すると学校じゅうから歓声が湧きあがったのは、『看板のある道』が描かれた翌年1927年(昭和2)のことだ。画面のスカートをはいた女性は、第二文化村あたりに住んでいて、東京の市街地から邸宅を建てて転入してきた女性なのだろう。
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 さて、佐伯祐三の「制作メモ」Click!には、『小学生』(15号)と書かれた「下落合風景」シリーズClick!のタイトルが、1926年(大正15)10月12日の欄に見える。だが、『看板のある道』は10月の仕事ではなく、もっと季節がすぎた晩秋の雰囲気が漂っているように見える。右手の奥に見えている、逆光からか黒く描かれた枝のケヤキないしはサクラの樹木、あるいは左手のケヤキと思われる宇田川邸の屋敷林を観察すると、すでに落葉がかなり進んでいる様子が見てとれる。
 下落合でケヤキの落葉が進み、枝々がむき出しに見えはじめるのは11月末から12月にかけての季節だ。当時は、現在よりも気温が低かったにしても、11月を迎えなければケヤキは枯れ葉を落とさなかっただろう。すなわち、『看板のある道』は「制作メモ」にある10月12日の『小学生』Click!ではなく、もう少し秋が深まった11月後半あたりに制作されたものだと推定することができる。画面サイズも、335×455mmとほぼ8号のキャンバスであり、「制作メモ」に記録された15号キャンバスの『小学生』とは一致していない。
 この事実からも、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズは、「制作メモ」に書きこまれたわずか30点余のみでないことは明白であり、翌1927年(昭和2)の1930年協会第2回展に備えた同年5~6月制作の、八島邸Click!の南側に竣工直後(あるいは竣工間近)の納邸Click!が描かれた「八島さんの前通り」Click!のタブローまでには、彼の制作スピードClick!や1ヶ所の風景モチーフを何度も反復して仕上げる制作のクセを考えあわせれば、膨大な数量の「下落合風景」が制作されている可能性の高いことがわかる。
 渡仏2~3ヶ月前の「八島さんの前通り」や、下落合の雪景色Click!をとらえた作品群、あるいは1926年(大正15)9~10月に記録された「制作メモ」以前の作品であるプレ『セメントの坪(ヘイ)』Click!(おそらく7~8月の制作)の存在など、「制作メモ」に記入された期間に限らず、佐伯祐三は絶えず下落合(現・中落合/中井含む)の丘上や丘下を散策しては、その街角を(特に工事中のエリアや新興住宅地の造成エリア、住宅街の外れなど雑然とした開発途上の鄙びた風景を好んで)描いていたのだろう。
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 『看板のある道』も、目白文化村の北外れのそんなエリアであり、この道を5分も歩けば耕地整理が継続中の、一面に草原がつづく葛ヶ谷(現・西落合)の風景が拡がっていた。換言すれば、下落合東部のエリアつまり目白駅近くの、住宅街としては落ち着きを見せはじめていた大きな屋敷が多い街並みや、目白通り沿いに建ちはじめたコンクリートビルや銀行などの商店街、あるいは目白文化村のレンガ造り2階建ての大きな箱根土地本社ビル(1926年当時は中央生命保険倶楽部)など、佐伯が好んで描きそうな下落合にあったコンクリート造り、石造り、レンガ造りの建築物を描いた作品には、いまだお目にかかれていない。すなわち、佐伯はフランスでの風景作品のテーマを下落合へ持ちこんではおらず、連作「下落合風景」の制作にはまったく別のテーマなりコンセプトが存在していたということだろう。
                                   <了>

◆写真上:想像したよりも小さな画面(8号)だった、佐伯祐三『看板のある道』の額装。
◆写真中上は、三間道路を下校する落合第一尋常小学校の女子生徒3人組。中左は、当時のオシャレな女子が背負っていたオランダ製のランセル。中右は、落合地域の南隣りの中野町にあった大正時代の文具店。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる『看板のある道』の描画ポイント。周囲は、連作「下落合風景」の描画ポイントだらけだ。
◆写真中下は、1927年(昭和2)ごろ制作の松下春雄Click!『下落合文化村』Click!で、リニューアル工事中の落合第一尋常小学校がとらえられている。校舎は完成しているが、右手の講堂がいまだ建設途上だ。は、1929年(昭和4)5月24日に松下春雄が旧・箱根土地本社の不動園Click!から、モッコウバラ越しに撮影したリニューアル直後の同校。は、1932年(昭和7)撮影の落合第一尋常小学校(上)と落合第三尋常小学校(下)。
◆写真下は、三間道路を歩く洋装の女性。は、さまざまな角度から画面を観察したが、画面の下に別の絵Click!が塗りつぶされているような気配はなかった。

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佐伯祐三『看板のある道』を拝見する。(上) [気になる下落合]

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 佐伯祐三の『森たさんのトナリ』Click!につづき、西銀座通りのShinwa Auction(株)Click!(銀座7丁目)の学芸員・佐藤様のご好意で、今度は佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作『看板のある道』Click!を拝見させていただいた。
 仕事のついでに立ち寄ったので、短時間しか鑑賞することはできなかったが、従来はモノクロ画像しか観たことのなかっためずらしい作品だ。初めてカラーの画面に接して、やはり古いモノクロ画像とは情報量がまったく異なるため、印象がだいぶちがう。この作品のモノクロ画像は、1968年(昭和43)に講談社から出版された『佐伯祐三全画集』に収録されたもので、扱いも小さく細部がよくわからなかった画面だ。朝日晃も、同作は発見できなかったのかカラー写真を撮影していない。
 同画集では、『看板のある道』とタイトルされているが、おそらくこの題名は佐伯自身がつけたものではなく、「下落合風景」シリーズの多くがそうであるように、のちの展覧会などへ出展する際に作品の差別化のためにつけられたものだろう。ちなみに、同作が大阪中之島美術館に収蔵された『目白の風景』Click!というような、ピント外れのタイトルをつけられなくて、ほんとうによかったと思う。
 では、画面を詳細に観察してみよう。まず、タイトルの『看板のある道』の「看板」だが、粗いモノクロ画像からも判読できたように、右側の看板には「富永醫院」と書かれている。その上に書かれている3列の文字は、富永哲夫医師の専門である「内科」や「小児科」というような診療科を記したものだろう。この時期、富永哲夫は葛ヶ谷24番地(現・西落合1丁目=現・落合第二中学校の敷地内)に住んでおり、この立体看板が立つ角を右折した道(画面の右手枠外)を80mほど進んだところで開業していたとみられる。
 富永哲夫は、東京帝大の医科大学を卒業したあと、しばらくは臨床の現場で患者を診察していたが、細菌衛生学に興味をおぼえ同分野の教室に改めて通い博士号を取得している。1932年(昭和7)現在は、臨床医をやめて東京市の職員となり、東京市衛生試験所の技師として勤務していた。富永哲夫について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 東京市技師/医学博士 富永哲夫  葛ヶ谷二四ノ一
 氏は陸軍武官富永幹氏の二男として明治三十二年秋田群(ママ:県)角館に於て生る、夙に仙台高校を経て大正十四年東京帝国大学医科大学を卒業、次で呉内科に臨床の実際を究め更に細菌衛生学教室に蘊奥を積むこと前後六ヶ年、医学博士の学位を獲得す、現時東京市衛生試験所勤務たり。夫人のぶ子は同郷平澤浪治氏の長女にて東京高師附属高女の出身、長男幹洋君(昭和三年出生)がある。因に氏は聞えたる剣道の達人、宜也其の容温乎たる風標の裏、自ら勁操の閃々たるを覚ゆるものがある。
  
 おそらく、東京帝大の医科を卒業したあと、内科を中心とした臨床医をめざし、また新婚夫婦の新居の建設もかねて、当時からなにかと注目されていた新興住宅地の落合地域に開業したものだろう。近くには、目白文化村Click!落合府営住宅Click!の大きな邸宅が並んでいたので、マーケティング的にもこれから拓ける好適地として選んだのかもしれないが、思うように患者が集まらなかったのではないだろうか。ちなみに、同一敷地の葛ヶ谷24番地2には姻戚と思われる「富永五郎」という人物が住んでいるが、『落合町誌』の出版直前に全面カットされたものか、スペースが空いたままで詳しい人物解説は掲載されていない。
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 富永医院の南側や東側には、この画面が描かれたとみられる1926年(大正15)現在、確かに邸宅群が建ち並んでいたが、富永医院の西側に拡がる葛ヶ谷は耕地整理Click!の真っ最中であり、田畑の跡が拡がる原っぱが多かったとみられる。その様子は、同じく佐伯祐三の『原』Click!でも当時の風景を確認することができる。したがって、家々の数ほどには患者が集まらず、また個人医院はこれら下落合の住宅街の中にも開業していたので、当時は住宅街のやや外れに位置する富永医院へは通院しにくかったように思われる。
 ちなみに、佐伯の『看板のある道』が描かれたころ、片岡鉄兵Click!は葛ヶ谷15番地に最初の自邸Click!を建設して、目白文化村の片岡元彌邸Click!から転居している。「富永醫院」の看板がある、すぐ右手の角地の一帯が葛ヶ谷15番地だ。
 さて、「富永醫院」の左側に設置され、やや道路側に傾いでいる看板には、モノクロ画面では読みとれなかったが「落合倶楽部」というネーム書かれている。その文字の上には、どうやらビリヤードのキュースティックとボールのイラストが描かれているようだ。そして、「落合俱楽部」の立体看板が道路に設置された下水の側溝へ倒れこまないよう、「富永醫院」の看板に棒か細板のようなものをわたして支えているのがわかる。大正末から昭和初期にかけ、東京ではビリヤードClick!が大流行していたのは、拙サイトでも何度かご紹介している。昭和に入ると、第二文化村や中井駅前Click!にもビリヤード場が開業し、近隣に住む多くのファンを集めていたのがわかる。
 では、「落合倶楽部」はビリヤード場の看板なのかというと、どうもそうではない気配が濃厚なのだ。実は、「落合倶楽部」はすでに拙サイトにも登場しており、中村彝Click!を見舞った森田亀之助Click!がその「落合倶楽部」について口にしている。1925年(大正14)に、下落合1443番地の福田久道Click!が主宰する木星社Click!から発行された、「木星」2月号(中村彝追悼号)収録の森田亀之助『中村彝君を想ふ』から引用してみよう。
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原1926.jpg
  
 私が中村君と近づきになつたのは、たしか、死んだ友人柳(敬助)君の紹介に依つたので、可なり古いことゝ思ふ。併し其後、近所に居ながら、かへつて近所だけにいつでも行けると思つて、長いこと無沙汰になつて居たが、近年又、落合倶楽部のことだの、柳君の追悼展覧会のことだので、一二辺中村君を訪ね、又昨年中は、福田(久道)君や鈴木(良三)君を通じて私の持つてゐる本を観たいといふ話だつたので、其本を持つて行つて喜ばれたことがあつた。(カッコ内引用者註)
  
 ここに登場する「落合倶楽部」Click!だが、森田亀之助が病身の中村彝に「そこに新規開業した店があるから、いま流行りのビリヤードをさっそく突きにいこうや」などと誘うことはまず考えられず、また柳敬助の追悼展覧会と落合倶楽部とが話の流れで同時に取りあげられているので、落合倶楽部についてはなにか美術関連の相談ごと、あるいは頼みごとがあって中村彝に話しているのではないだろうか。
 ここで想起されるのは、目白文化村の住民親睦を目的とした建物「文化村倶楽部」Click!だ。ここでは、文科系やスポーツ系を問わず、さまざまな同好会やクラブ、グループなどが結成されて、定期的にサークル活動が行われていた。第二文化村の益満邸に接したテニスコートを描いた、佐伯祐三の『テニス』Click!に登場している人たちも、この倶楽部で結成されたテニス同好会に属するメンバーだった可能性が高い。
 ただし、目白文化村のサークル団体だとすれば「文化村倶楽部」と名のるのが自然であり、「落合倶楽部」というネーミングはもっと広範囲の、落合地域全体を包括するような活動を想起させる。事実、森田亀之助や中村彝は、下落合東部の住民たちだ。文化村倶楽部に文科系やスポーツ系の同好会があったように、地域で結成された落合倶楽部にもさまざまな同好会が存在し、ジャンルを問わず活動していたのではないか。そして、森田亀之助が中村彝に相談したのは、美術系サークルの活動についてではなかったか。
 地域で盛んだったこのような文化活動のサークル団体は、戦後にも「目白文化協会」Click!のような、多種多様なジャンルの同好会組織の結成を見ることができる。
森田亀之助.jpg 木星192502.jpg
文化村倶楽部192307.jpg
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 森田亀之助が中村彝に話したのは、美術系の同好会に関する活動(たとえば地域展覧会の開催)であり、富永医院の看板に並ぶ落合倶楽部のそれは、近くで結成されたビリヤード同好会が建てたものではないだろうか。ちなみに、1935年(昭和10)ごろになると、佐伯祐三が描いた『テニス』のコート東側の一部をわざわざつぶして、ビリヤード場がオープンしている。大正末から昭和初期にかけ、それほどビリヤードは東京じゅうで大流行していた。
                               <つづく>

◆写真上:下落合1674番地の路上から1926年(大正15)11月ごろ(後述)に、南西の方角の葛ヶ谷方面を向いて描かれた佐伯祐三『看板のある道』。
◆写真中上は、同作の看板が描かれた部分の拡大。は、看板上に繁っている葛ヶ谷15番地角地の樹木。は、葛ヶ谷24番地に「富永醫院」を開業していた富永哲夫()と、50mと離れていない葛ヶ谷15番地に最初の自邸を建てて住んでいた片岡鉄兵()。
◆写真中下は、下落合1674番地の宇田川邸につづく腰高の白壁。は、1929年(昭和4)の「落合町市街図」にみる描画ポイントとその周辺。は、同作の現状(上)と、同作の描画ポイントから南南西に100mほど下がった原っぱ(下落合1678番地あたり)で描かれたとみられる佐伯祐三『原』(下)。
◆写真下は、若き日の森田亀之助()と、「落合倶楽部」が登場する1925年(大正14)に木星社から発行された「木星」2月号()。は、1923年(大正12)7月に埋め立てられた前谷戸Click!側から撮影された第一文化村の文化村倶楽部。は、鷺ノ宮駅前に開店していた小泉清Click!の妻が経営する「小泉ビリヤード」の入口。

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