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佐伯祐三『看板のある道』を拝見する。(上) [気になる下落合]

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 佐伯祐三の『森たさんのトナリ』Click!につづき、西銀座通りのShinwa Auction(株)Click!(銀座7丁目)の学芸員・佐藤様のご好意で、今度は佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作『看板のある道』Click!を拝見させていただいた。
 仕事のついでに立ち寄ったので、短時間しか鑑賞することはできなかったが、従来はモノクロ画像しか観たことのなかっためずらしい作品だ。初めてカラーの画面に接して、やはり古いモノクロ画像とは情報量がまったく異なるため、印象がだいぶちがう。この作品のモノクロ画像は、1968年(昭和43)に講談社から出版された『佐伯祐三全画集』に収録されたもので、扱いも小さく細部がよくわからなかった画面だ。朝日晃も、同作は発見できなかったのかカラー写真を撮影していない。
 同画集では、『看板のある道』とタイトルされているが、おそらくこの題名は佐伯自身がつけたものではなく、「下落合風景」シリーズの多くがそうであるように、のちの展覧会などへ出展する際に作品の差別化のためにつけられたものだろう。ちなみに、同作が大阪中之島美術館に収蔵された『目白の風景』Click!というような、ピント外れのタイトルをつけられなくて、ほんとうによかったと思う。
 では、画面を詳細に観察してみよう。まず、タイトルの『看板のある道』の「看板」だが、粗いモノクロ画像からも判読できたように、右側の看板には「富永醫院」と書かれている。その上に書かれている3列の文字は、富永哲夫医師の専門である「内科」や「小児科」というような診療科を記したものだろう。この時期、富永哲夫は葛ヶ谷24番地(現・西落合1丁目=現・落合第二中学校の敷地内)に住んでおり、この立体看板が立つ角を右折した道(画面の右手枠外)を80mほど進んだところで開業していたとみられる。
 富永哲夫は、東京帝大の医科大学を卒業したあと、しばらくは臨床の現場で患者を診察していたが、細菌衛生学に興味をおぼえ同分野の教室に改めて通い博士号を取得している。1932年(昭和7)現在は、臨床医をやめて東京市の職員となり、東京市衛生試験所の技師として勤務していた。富永哲夫について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 東京市技師/医学博士 富永哲夫  葛ヶ谷二四ノ一
 氏は陸軍武官富永幹氏の二男として明治三十二年秋田群(ママ:県)角館に於て生る、夙に仙台高校を経て大正十四年東京帝国大学医科大学を卒業、次で呉内科に臨床の実際を究め更に細菌衛生学教室に蘊奥を積むこと前後六ヶ年、医学博士の学位を獲得す、現時東京市衛生試験所勤務たり。夫人のぶ子は同郷平澤浪治氏の長女にて東京高師附属高女の出身、長男幹洋君(昭和三年出生)がある。因に氏は聞えたる剣道の達人、宜也其の容温乎たる風標の裏、自ら勁操の閃々たるを覚ゆるものがある。
  
 おそらく、東京帝大の医科を卒業したあと、内科を中心とした臨床医をめざし、また新婚夫婦の新居の建設もかねて、当時からなにかと注目されていた新興住宅地の落合地域に開業したものだろう。近くには、目白文化村Click!落合府営住宅Click!の大きな邸宅が並んでいたので、マーケティング的にもこれから拓ける好適地として選んだのかもしれないが、思うように患者が集まらなかったのではないだろうか。ちなみに、同一敷地の葛ヶ谷24番地2には姻戚と思われる「富永五郎」という人物が住んでいるが、『落合町誌』の出版直前に全面カットされたものか、スペースが空いたままで詳しい人物解説は掲載されていない。
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富永哲夫.jpg 片岡鉄兵.jpeg
 富永医院の南側や東側には、この画面が描かれたとみられる1926年(大正15)現在、確かに邸宅群が建ち並んでいたが、富永医院の西側に拡がる葛ヶ谷は耕地整理Click!の真っ最中であり、田畑の跡が拡がる原っぱが多かったとみられる。その様子は、同じく佐伯祐三の『原』Click!でも当時の風景を確認することができる。したがって、家々の数ほどには患者が集まらず、また個人医院はこれら下落合の住宅街の中にも開業していたので、当時は住宅街のやや外れに位置する富永医院へは通院しにくかったように思われる。
 ちなみに、佐伯の『看板のある道』が描かれたころ、片岡鉄兵Click!は葛ヶ谷15番地に最初の自邸Click!を建設して、目白文化村の片岡元彌邸Click!から転居している。「富永醫院」の看板がある、すぐ右手の角地の一帯が葛ヶ谷15番地だ。
 さて、「富永醫院」の左側に設置され、やや道路側に傾いでいる看板には、モノクロ画面では読みとれなかったが「落合倶楽部」というネーム書かれている。その文字の上には、どうやらビリヤードのキュースティックとボールのイラストが描かれているようだ。そして、「落合俱楽部」の立体看板が道路に設置された下水の側溝へ倒れこまないよう、「富永醫院」の看板に棒か細板のようなものをわたして支えているのがわかる。大正末から昭和初期にかけ、東京ではビリヤードClick!が大流行していたのは、拙サイトでも何度かご紹介している。昭和に入ると、第二文化村や中井駅前Click!にもビリヤード場が開業し、近隣に住む多くのファンを集めていたのがわかる。
 では、「落合倶楽部」はビリヤード場の看板なのかというと、どうもそうではない気配が濃厚なのだ。実は、「落合倶楽部」はすでに拙サイトにも登場しており、中村彝Click!を見舞った森田亀之助Click!がその「落合倶楽部」について口にしている。1925年(大正14)に、下落合1443番地の福田久道Click!が主宰する木星社Click!から発行された、「木星」2月号(中村彝追悼号)収録の森田亀之助『中村彝君を想ふ』から引用してみよう。
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 私が中村君と近づきになつたのは、たしか、死んだ友人柳(敬助)君の紹介に依つたので、可なり古いことゝ思ふ。併し其後、近所に居ながら、かへつて近所だけにいつでも行けると思つて、長いこと無沙汰になつて居たが、近年又、落合倶楽部のことだの、柳君の追悼展覧会のことだので、一二辺中村君を訪ね、又昨年中は、福田(久道)君や鈴木(良三)君を通じて私の持つてゐる本を観たいといふ話だつたので、其本を持つて行つて喜ばれたことがあつた。(カッコ内引用者註)
  
 ここに登場する「落合倶楽部」Click!だが、森田亀之助が病身の中村彝に「そこに新規開業した店があるから、いま流行りのビリヤードをさっそく突きにいこうや」などと誘うことはまず考えられず、また柳敬助の追悼展覧会と落合倶楽部とが話の流れで同時に取りあげられているので、落合倶楽部についてはなにか美術関連の相談ごと、あるいは頼みごとがあって中村彝に話しているのではないだろうか。
 ここで想起されるのは、目白文化村の住民親睦を目的とした建物「文化村倶楽部」Click!だ。ここでは、文科系やスポーツ系を問わず、さまざまな同好会やクラブ、グループなどが結成されて、定期的にサークル活動が行われていた。第二文化村の益満邸に接したテニスコートを描いた、佐伯祐三の『テニス』Click!に登場している人たちも、この倶楽部で結成されたテニス同好会に属するメンバーだった可能性が高い。
 ただし、目白文化村のサークル団体だとすれば「文化村倶楽部」と名のるのが自然であり、「落合倶楽部」というネーミングはもっと広範囲の、落合地域全体を包括するような活動を想起させる。事実、森田亀之助や中村彝は、下落合東部の住民たちだ。文化村倶楽部に文科系やスポーツ系の同好会があったように、地域で結成された落合倶楽部にもさまざまな同好会が存在し、ジャンルを問わず活動していたのではないか。そして、森田亀之助が中村彝に相談したのは、美術系サークルの活動についてではなかったか。
 地域で盛んだったこのような文化活動のサークル団体は、戦後にも「目白文化協会」Click!のような、多種多様なジャンルの同好会組織の結成を見ることができる。
森田亀之助.jpg 木星192502.jpg
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 森田亀之助が中村彝に話したのは、美術系の同好会に関する活動(たとえば地域展覧会の開催)であり、富永医院の看板に並ぶ落合倶楽部のそれは、近くで結成されたビリヤード同好会が建てたものではないだろうか。ちなみに、1935年(昭和10)ごろになると、佐伯祐三が描いた『テニス』のコート東側の一部をわざわざつぶして、ビリヤード場がオープンしている。大正末から昭和初期にかけ、それほどビリヤードは東京じゅうで大流行していた。
                               <つづく>

◆写真上:下落合1674番地の路上から1926年(大正15)11月ごろ(後述)に、南西の方角の葛ヶ谷方面を向いて描かれた佐伯祐三『看板のある道』。
◆写真中上は、同作の看板が描かれた部分の拡大。は、看板上に繁っている葛ヶ谷15番地角地の樹木。は、葛ヶ谷24番地に「富永醫院」を開業していた富永哲夫()と、50mと離れていない葛ヶ谷15番地に最初の自邸を建てて住んでいた片岡鉄兵()。
◆写真中下は、下落合1674番地の宇田川邸につづく腰高の白壁。は、1929年(昭和4)の「落合町市街図」にみる描画ポイントとその周辺。は、同作の現状(上)と、同作の描画ポイントから南南西に100mほど下がった原っぱ(下落合1678番地あたり)で描かれたとみられる佐伯祐三『原』(下)。
◆写真下は、若き日の森田亀之助()と、「落合倶楽部」が登場する1925年(大正14)に木星社から発行された「木星」2月号()。は、1923年(大正12)7月に埋め立てられた前谷戸Click!側から撮影された第一文化村の文化村倶楽部。は、鷺ノ宮駅前に開店していた小泉清Click!の妻が経営する「小泉ビリヤード」の入口。

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