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佐伯祐三『看板のある道』を拝見する。(下) [気になる下落合]

看板のある道額縁.JPG
 佐伯祐三『看板のある道』Click!の、「富永醫院」と「落合倶楽部」の看板背後に建っている家々は、庭の隅に植えられたアカマツと重なって見えている、物置き小屋のようなものが設置された1軒目の住民は不明だが、その先の2軒目に見えているのは中村邸だ。3軒目に見えている、白い塀の西洋館らしい邸に住んでいた住民の名前もわからない。
 前方に向かってわずかな下り坂の気配があり、右手(西寄り)にゆるくカーブしていく三間道路をはさみ、その向かい(左側)の塀瓦に腰高の白壁が連なる大きな屋敷は、地元旧家の一族である下落合1674番地の宇田川邸だ。この当時の宇田川邸は、いまだひとつの大きな和館だった可能性もあるが、大正末から広い敷地には3軒の建物が描かれた地図もあるので、どちらかハッキリしない。左手の白壁塀の切れ目にある門をくぐると、敷地内の道は西側へややカーブを描きながら、敷地内の家屋の玄関へとつづいていた。
 佐伯祐三Click!は、目白通りから南西に向かって斜めに入る三間道路上、下落合1674番地の広大な宇田川邸前の路上にイーゼルをすえ、画角を南西の方角に向けてやや逆光気味に制作している。人物や建物の影から、おそらく晩秋の午後に写生をはじめた仕事だろう。佐伯の背後には1926年(大正15)9月19日、すなわち2ヶ月ほど前に描いたとみられる、やや上り坂のカーブをとらえた『道』Click!の風景が拡がっていた。その坂を上り110mほど歩くと、当時は拡幅前の目白通りClick!に突きあたる。
 『看板のある道』の画面中央に描かれている三間道路には、落合地域の中部から西部にかけて宅地開発が急速に進捗しているのだろう、すでに下水の側溝Click!が設置されているのがわかる。そして、その道路を3人連れで歩いているのは、落合第一尋常小学校(現・落合第一小学校)Click!から下校途中の生徒たちだ。
 3人の子どもたちが背中にしょっているのは、大正期にはオランダから輸入されていた学童向けの「ランセル(Ransel)」と呼ばれるオシャレなカバンで、のちに今日のランドセルへと発展する最初期型の小学生用背負いバッグだ。帆布など厚くて丈夫な生地でつくられた縦長のカバンで、中には教科書やノート、筆記用具などの学用品が入っているのは、今日のランドセルとまったく変わらない。ちょっとオシャレな小学生の間では大正期から流行していたもので、黒タイツをはいた女子生徒の仲良し3人組も、親にねだって新宿のほていやデパートメントClick!(現・伊勢丹Click!)あたりで買ってもらったのだろう。
 もう少しあとの時代の出来事になるが、この三間道路をそのまま200mほど進んだところに、1929年(昭和4)になると落合第三尋常小学校が開設されている。それまで、この近所に住む子どもたちは落合第一尋常小学校に通っていたわけで、この3人の女子も落一小学校から帰宅途中の生徒たちだ。先にも触れたように、大正末から昭和初期にかけ落合地域の中部から西部にかけては、急速な宅地造成と住宅街の形成が進み、激増する子どもたちのために小学校の教室数や教員たちが絶対的に不足していた。
 落合第一尋常小学校では、校舎の増築に増築を重ね、また学校敷地の拡大を繰り返してきたが、それでも生徒数の急増には追いつかず、大規模な新校舎の建設に着手するとともに、全校生徒を午前組と午後組とに分けて授業を行ったりしている。それでも、1925年(大正14)にはついに生徒が学校からあふれだし、特別に借り受けた地域の建物Click!で授業を行ったり、同年にはすでに建設中だった落合第二尋常小学校Click!の、なんとか生徒たちを収容して授業ができそうな、工事済みの教室を選んでは授業を行っている。
看板のある道4.jpg
ランセル(Ransel).jpg 中野町の文具店(大正期).jpg
看板のある道1936.jpg
 このような状況下で、葛ヶ谷1番地の落合第三尋常小学校は早々に計画された。教員への多大な業務負荷も含め、いかに深刻な事態だったかは同校の建設経過をみてもわかる。落三尋常小学校は敷地も広く、大規模な校舎だったにもかかわらず、1928年(昭和)12月に起工し翌1929年(昭和4)3月には落成するという、わずか4ヶ月の夜を日についでの突貫工事だった。それほど児童も教師も、切羽つまった危機的な状況だったのだ。
 同校は、1929年(昭和4)4月1日に開校しているが、1932年(昭和7)にはすでに卒業生を送りだしている。つまり、開校から4年で最初の卒業生をだしているということは、落合第一尋常小学校からの1~2年生の転入組がいたことになる。画面に描かれた3人の落一尋常小学校の女子生徒も、もう少し時代が進んでいれば、すぐ近くに開校したばかりの落合第三尋常小学校へ通学できていただろう。
 彼女たちは、落合第一尋常小学校(リニューアル中)Click!の校門を出ると(あるいは臨時に設置された校外近くの施設だったかもしれない)、そのまま真っすぐ旧・箱根土地本社ビル(中央生命保険倶楽部)Click!の前を通って、第一文化村Click!に接した北辺の二間道路Click!をそのまま歩き、画面に描かれた三間道路筋へ出るか、あるいは途中で目白文化村に住んでいた友だちとともに第一文化村の中までいっしょに歩き、クラスメートたちが目白文化村の中へ散ってしまうと、そのメインストリートから画面に描かれた三間道路筋へと抜けていたのだろう。3人が歩く道筋には、日本の住宅街とは思えない当時はモダンな西洋館が建ち並び、特異な風景が拡がっていたにちがいない。
 また、画面の三間道路の左寄りには、赤い洋服(セーターかカーディガン?)を着てスカートをはいた女性も描かれている。洋装の女性は、佐伯祐三の『文化村前通り』Click!にも登場しているが、当時の落合地域では洋装・洋髪で街中を歩いたりすると、旧住民たちからことさら注目を集めたような時期で、上落合の村山籌子Click!のケースでは、近所の子どもたちがゾロゾロとあとをついてくるような時代だった。落合第二尋常小学校の教師・鹽野まさ子(塩野まさ子)Click!が、校長から「頼むから洋服になっておくれ」と依頼され、さっそく洋装で登校Click!すると学校じゅうから歓声が湧きあがったのは、『看板のある道』が描かれた翌年1927年(昭和2)のことだ。画面のスカートをはいた女性は、第二文化村あたりに住んでいて、東京の市街地から邸宅を建てて転入してきた女性なのだろう。
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落合第一小学校1932.jpg
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 さて、佐伯祐三の「制作メモ」Click!には、『小学生』(15号)と書かれた「下落合風景」シリーズClick!のタイトルが、1926年(大正15)10月12日の欄に見える。だが、『看板のある道』は10月の仕事ではなく、もっと季節がすぎた晩秋の雰囲気が漂っているように見える。右手の奥に見えている、逆光からか黒く描かれた枝のケヤキないしはサクラの樹木、あるいは左手のケヤキと思われる宇田川邸の屋敷林を観察すると、すでに落葉がかなり進んでいる様子が見てとれる。
 下落合でケヤキの落葉が進み、枝々がむき出しに見えはじめるのは11月末から12月にかけての季節だ。当時は、現在よりも気温が低かったにしても、11月を迎えなければケヤキは枯れ葉を落とさなかっただろう。すなわち、『看板のある道』は「制作メモ」にある10月12日の『小学生』Click!ではなく、もう少し秋が深まった11月後半あたりに制作されたものだと推定することができる。画面サイズも、335×455mmとほぼ8号のキャンバスであり、「制作メモ」に記録された15号キャンバスの『小学生』とは一致していない。
 この事実からも、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズは、「制作メモ」に書きこまれたわずか30点余のみでないことは明白であり、翌1927年(昭和2)の1930年協会第2回展に備えた同年5~6月制作の、八島邸Click!の南側に竣工直後(あるいは竣工間近)の納邸Click!が描かれた「八島さんの前通り」Click!のタブローまでには、彼の制作スピードClick!や1ヶ所の風景モチーフを何度も反復して仕上げる制作のクセを考えあわせれば、膨大な数量の「下落合風景」が制作されている可能性の高いことがわかる。
 渡仏2~3ヶ月前の「八島さんの前通り」や、下落合の雪景色Click!をとらえた作品群、あるいは1926年(大正15)9~10月に記録された「制作メモ」以前の作品であるプレ『セメントの坪(ヘイ)』Click!(おそらく7~8月の制作)の存在など、「制作メモ」に記入された期間に限らず、佐伯祐三は絶えず下落合(現・中落合/中井含む)の丘上や丘下を散策しては、その街角を(特に工事中のエリアや新興住宅地の造成エリア、住宅街の外れなど雑然とした開発途上の鄙びた風景を好んで)描いていたのだろう。
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 『看板のある道』も、目白文化村の北外れのそんなエリアであり、この道を5分も歩けば耕地整理が継続中の、一面に草原がつづく葛ヶ谷(現・西落合)の風景が拡がっていた。換言すれば、下落合東部のエリアつまり目白駅近くの、住宅街としては落ち着きを見せはじめていた大きな屋敷が多い街並みや、目白通り沿いに建ちはじめたコンクリートビルや銀行などの商店街、あるいは目白文化村のレンガ造り2階建ての大きな箱根土地本社ビル(1926年当時は中央生命保険倶楽部)など、佐伯が好んで描きそうな下落合にあったコンクリート造り、石造り、レンガ造りの建築物を描いた作品には、いまだお目にかかれていない。すなわち、佐伯はフランスでの風景作品のテーマを下落合へ持ちこんではおらず、連作「下落合風景」の制作にはまったく別のテーマなりコンセプトが存在していたということだろう。
                                   <了>

◆写真上:想像したよりも小さな画面(8号)だった、佐伯祐三『看板のある道』の額装。
◆写真中上は、三間道路を下校する落合第一尋常小学校の女子生徒3人組。中左は、当時のオシャレな女子が背負っていたオランダ製のランセル。中右は、落合地域の南隣りの中野町にあった大正時代の文具店。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる『看板のある道』の描画ポイント。周囲は、連作「下落合風景」の描画ポイントだらけだ。
◆写真中下は、1927年(昭和2)ごろ制作の松下春雄Click!『下落合文化村』Click!で、リニューアル工事中の落合第一尋常小学校がとらえられている。校舎は完成しているが、右手の講堂がいまだ建設途上だ。は、1929年(昭和4)5月24日に松下春雄が旧・箱根土地本社の不動園Click!から、モッコウバラ越しに撮影したリニューアル直後の同校。は、1932年(昭和7)撮影の落合第一尋常小学校(上)と落合第三尋常小学校(下)。
◆写真下は、三間道路を歩く洋装の女性。は、さまざまな角度から画面を観察したが、画面の下に別の絵Click!が塗りつぶされているような気配はなかった。

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