SSブログ

1938年(昭和13)の日本本土への初空襲。 [気になるエトセトラ]

東京同文書院.jpg
 拙サイトでは、1942年(昭和17)4月18日(土)に来襲した米軍ドーリットル隊Click!のB25による爆撃を、日本本土への初空襲Click!としてご紹介していた。ドーリットル中佐が搭乗した2344号機が、神田川から妙正寺川沿いに落合地域の谷間を低空飛行している目撃情報や、その爆撃目標が誤爆だらけだったことにも触れている。
 ところが、国立公文書館に収蔵されている資料を参照していたら、日本本土空襲はドーリットル隊が初めてではなかったことに気がついた。ドーリットル隊の襲来に先がける4年前、本土への初空襲は中国軍(国民党=蒋介石軍)によって実施されていた。米国マーティン社製の双発爆撃機B10が20数機、九州の熊本県から宮崎県一帯を空襲している。当時の台湾総督官房外事課が発行し、極秘のスタンプがベタベタ押された「時局特報」の第29号(1938年6月22日)と、同第30号(同年7月2日)に詳報が掲載されていた。
 しかも、この空襲には爆弾を用いず、「10万枚」とされる宣伝ビラ(伝単)Click!を「攻撃目標」にバラまいている。そこには、「支那空軍は日本機が支那市民に対して為したるが如き空爆と同様の手段を以て之に報復する事を好ま」ず、日本国民は全体主義的な軍国政府による海外侵略や、ファシズムの圧政を排して自由と民主主義を取りもどし、平和な外交を実現して経済交流を促進しよう……というような趣旨の内容が印刷されていた。
 なにやら、現在とは立場がまったく正反対になってしまった呼びかけが、中国側から日本側に対して行われていたわけで、なんとも歴史の皮肉というべきだろうか。「時局特報」の第29号と第30号の発行間隔が、わずか10日間しかないのは、日本本土が初空襲されたことに対する危機意識によるところもあるのだろう。
 では、九州地方(熊本県・宮崎県)への初空襲の様子を、「時局特報」29号に掲載された「支那空軍機日本本土を空襲」から引用してみよう。
  
 漢口二十二日発! 五月二十日約二十機の双発動機装備の爆撃機が編隊を以て日本本土を空襲したが、右に関し(中国政府の)軍制部長何應欽は次の如く豪語す。/飛行行程約四,〇〇〇粁(km)、完全に我機の優秀さを日本に知らしむる事が出来た。/亦財政部長孔祥燕は次の如く発表す。/約二十数機の支那軍爆撃機が南西部より日本本土の中部に至るまでの諸都市の上空を旋回飛行、多数宣伝ビラを撒布悠々引上げたが、之は完全に支那空軍が日本を爆弾下に蹂躙し得る事を実証したものであるが、支那空軍は日本機が支那市民に対して為したるが如き空爆と同様の手段を以て之に報復する事を好まぬ為め爆弾は投下しなかつたのである。宣伝ビラは其の種類五種に分れ何れも日本の覚醒を促せるものである。(カッコ内引用者註)
  
 そして、5種類の宣伝ビラの詳細は、「時局特報」第30号に摘録として3種類の内容が紹介されている。その内訳は、「中華民国空軍将士及中日人民親善同盟より、日本国民に告ぐるの書」、「中華民国全国民衆より、日本国民に告るの書」、「中華民国総工会より日本工人ら告ぐるの書」となっている。これだけ詳細な情報が、台湾総督府でも入手済みということは、熊本県や宮崎県の警察にもなんらかの記録が残っているはずだと考え、いろいろな資料に当たったところ、特高警察Click!が毎月発行していた1938年(昭和13)の「特高月報」に詳しく記録されていることがわかった。
 それを教えてくれたのは、2019年(平成31)にパブリブから出版された、高井ホアン『戦前反戦発言大全』(戦前ホンネ発言大全第2巻)だ。この本は非常に面白く、「特高月報」を中心に戦前・戦中(1937~1944年)にかけ、全国津々浦々で反戦・反軍、厭戦、嫌戦などの膨大な発言・表現・ビラ、そしてこちらでも何度か記事にしている落書きClick!など、その摘発および起訴・不起訴の様子を克明に収録した集大成本だ。
時局特報第29号19380622.jpg 時局特報第30号19380702.jpg
時局特報第29号空襲.jpg 時局特報第30号空襲.jpg
マーティンB10編隊.jpg
 別に共産主義者や社会主義者、アナキストでも、また民主主義者や自由主義者でなくても(これらの思想犯は戦前・戦中を通じて監獄へぶちこまれるか、「転向」して常時監視されていた)、一般市民の発した「戦争はイヤだ」「日本は敗ける」レベルの言葉が、隣組Click!などの監視組織による密告によって、特高や憲兵隊に踏みこまれる経緯が透けて見えてくる。これだけ膨大な数の検挙者や厳重訓戒・論示者を出しているにもかかわらず、戦争への流れが止まらなかったのは、特高や憲兵隊による徹底した暴力による弾圧で、今日の香港やミャンマーにおける民主活動家たちのように沈黙させられていたからだ。
 たとえば愛知県にある小学校の訓導が検挙された事例を、同書より引用してみよう。
  
 今度の事変(上海事変を契機に起きた日中戦争のこと)は大体軍部がやり過ぎである。戦勝戦勝と言っているが地図の上で見ても余り戦果は収めていないではないか、又正義正義と称しているが正義に二通りはない、支那でも今度の戦争を正義だと言っている、日本の軍隊が他国へ攻め込んでそれで正義と言うのは変ではないか、 (カッコ内引用者註)
  
 子どもたちに事実を話しているにすぎないが、反戦言辞として特高に検束され陸軍刑法99条違反(戦時又ハ事変ニ際シ軍事ニ関シ造言飛語ヲ爲シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス)による検挙で、この訓導は起訴・拘留されている。
 敗戦により、大日本帝国が滅亡して日本が連合軍(おもに米軍による統治)に占領された際、マスコミを中心に侵略戦争を「反省」して、国民は「一億総懺悔」というようなことがいわれた。だが、このコトバは戦争を推進していた、あるいは戦争へ積極的に加担していた人間たちには、自身の責任を薄め責任の所在を曖昧化する、まことに都合のいい卑劣なコトバであって、特高や憲兵隊に徹底して弾圧されていた、「特高月報」に記録されている膨大な数の国民たちには当てはまらない。
 彼らにしてみれば、「一億総懺悔」など個々の主体性をどこまでも無視した、戦前日本Click!の「一億総特攻」や「一億火の玉」「一億の底力」などをそのままひっくり返した単なる裏焼きであり、無責任かつ没主体的な響きにしか聞こえなかったはずで、「だから、あれほど戦争はダメだ、日本は敗けるといったじゃねえか。オレを安易に<1億>へ含めるな、バカヤロウが!」としか感じられなかっただろう。
 特高や憲兵隊に検挙・検束されているのは、街中の庶民に限らず僧侶や軍人、在郷軍人、軍医、代議士、市町村会議員、区長、教師、教授、医師、薬剤師、組合長、工場長、経営者、店主、俳優、歌手、文学者、記者などありとあらゆる職種の人々で、傷痍軍人、出征家族、戦死遺族なども含まれている。しかも、「特高月報」に掲載されているのはほんの一部だとみられ、さらに多くの人々が反戦・厭戦を口にしては捕まっていたのだろう。そういえば、親父が学生(高等学校)時代の1943年(昭和18)ごろ、「米国に勝てるわけがない、日本は敗ける」といったのを誰かに密告され、交番にひっぱられた事例Click!もご紹介していた。
戦前反戦発言大全2019.jpg 特高月報(政経出版社).jpg
蒋介石(日本留学中)1907年頃.jpg 蒋介石(高田野砲兵第19連隊)1910頃.jpg
マーティンB10爆撃機.jpg
 さて、同書の紹介はこれぐらいにして、「特高月報」には九州で撒布された宣伝ビラについて、ほぼ全文が掲載されている。「反戦印刷物」と規定されたビラは、「日本商工業者に告ぐ」(中華民国総商会)、「日本労働者諸君に告ぐ」(同総工会)、「日本農民大衆に告ぐ」(同農民協会)、「日本政党人士に告ぐ」(同人民外交協会)、「日本人民に告ぐ」(同パンフレット)の計5種類となっている。『戦前反戦発言大全』より、その中から「日本政党人士に告ぐ」の一部を引用してみよう。
  
 諸君の偉大なる先輩が流血の辛苦を経て戦ひ取つた憲政とは今日如何に五、一五事件、神兵隊事件、二、二六事件等一連の軍閥等の暴挙を想起せよ。/近来に於ける議会政治の種々なる不良学徒を駆り立て、政繁本部破壊等正に彼等は人民の権利の土台に食ひ入つて居るではないか、人民の労苦を見よ、自由は何処にあるか、之等の事実の国外に於ける半面こそ満州事変から今日まで一貫した侵略行動である、要するに彼等が国内の暴力的支配を全アジアの暴力的支配へと延長しただけである、で彼等の勝利は中国の不幸のみならず日本人民の不幸であることは明ではないか。/日本人民の代表者諸君、諸君の偉大なる歴史的責任のために奮闘せよ、諸君の先輩の光輝ある憲政のために闘争をはづかしめるな、土地を失ふな、既に戦略軍閥等は深泥に足を踏み入れた、今こそ東亜両国を永年の暗黒生活から救ふときである、人民の自由は独立せる国家によりてこそまことの中日親善を実現することが出来る、人民の政士を呼び返せ、彼等を犠牲にするな、軍閥を打倒せよ。
  
 まったくもっておっしゃるとおり「人道爆撃」(蒋介石)による正論の主張であり、明治・大正期を通じて憲政や議会制(自由民権)、資本主義における革命思想を、数多くの留学生Click!を通じて「教え」「支援」Click!した「先輩」であるはずの日本が、逆に中国からその凋落と体たらくぶりを「諭され説教される」という、特高や憲兵隊など暴力装置を基盤としたまことに情けない、日本型ファシズム状況を迎えていたことが瞭然とする文章だ。
 ほとんどの国民は、報道管制により中国軍機B10による日本本土への初空襲を知らされなかったため、軍部は東京や横須賀などが爆撃されて、もはや国民の目から隠しようがない米軍ドーリットル隊による空爆を「初空襲」として宣伝したが、それより4年も前の日中戦争時には、すでに中国軍の爆撃機20数機が九州上空から2県1市6郡下の広範囲にわたり、大量の宣伝ビラを「攻撃」目標へ投下する空襲が行われていた。
東京同文書院1913.jpg
蒋介石反戦ビラ1939.jpg
米軍伝単19450815.jpg
 だが、ビラの撒布が夜間だったため住民のほとんどが就寝中であり、警察や軍隊を総動員してビラを回収してまわったせいか、実際にビラを目にしたのはごく一部の人々にすぎなかった。もちろん、彼らには特高や憲兵隊からの脅しにより「緘口令」が敷かれたのだろう。

◆写真上:毎年多くの中国人留学生を集めた、下落合437番地の東京同文書院Click!
◆写真中上は、台湾総督官房外事課が1938年(昭和13)に発行した日本本土初空襲を伝える「時事特報」第29号()と同第30号()。は、空襲の詳細を報じる「時事特報」の第29号()と第30号()。は、マーティンB10爆撃機の編隊。
◆写真中下上左は、2019年(平成31)に出版された高井ホアン『戦前反戦発言大全』(パブリブ)。上右は、戦後に政経出版社から復刻された「特高月報」。は、日本に留学した1907年(明治40)ごろの蒋介石()と、陸軍13師団高田野砲兵第19連隊に勤務した1910年(明治43)ごろの蒋介石()。は、米国マーティン社製のB10爆撃機。
◆写真下は、1913年(大正2)に下落合の東京同文書院で全留学生を撮影した記念写真。は、1939年(昭和14)に撒布された蒋介石の反戦ビラ。は、1945年(昭和20)8月15日の早朝にB29から撒布された米軍によるポツダム宣言受諾と無条件降伏の勧告ビラ。

読んだ!(20)  コメント(21) 
共通テーマ:地域