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ニッキ飴の匂いと吉永小百合の記憶。 [気になる下落合]

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 ある特定の匂いをかぐと、とたんに昔の記憶がよみがえることがある。焚き火Click!の匂いをかぐと、海辺のクロマツ林ですごした「晩秋」の風景が頭をよぎったり、防水加工された帆布の酸っぱいような匂いをかぐと、昔のとてつもなく重かった黄色いテント(30kg前後)や登山リュックをかついだキャンプClick!を思いだす。人は視覚ばかりでなく、嗅覚によっても強烈な記憶が脳裡に刻みつけられるらしい。
 そんな匂いの記憶を少したどってみると、たとえばヤマト糊の匂いをかげば、子どものころ近くのスーパーマーケットで買い物をするともらえた割引き券を思いだす。ヤマト糊を使って、母親がせっせと台紙に貼っていたのを、小学生のわたしが青いチューブからヤマト糊をだしては手伝っていた記憶がある。ゆでタマゴの匂いがすると、学生時代にバイトをしていたコーヒーショップClick!を思いだす。毎朝、7時に出勤してタマゴを50個ほどゆでる。8時開店の客足によって、足りなくなると今度は10個ずつゆでていく。もちろん、バスケットに入れるモーニングサービス用の支度だ。サービスの終了時間を待ち、わたしは大急ぎで着がえるとあわてて学校へ向かう。
 モミの木の匂いをかいだりすると、子どものころのクリスマスツリーがよみがえる。実際のツリーに使っていたのは、ドイツトウヒ(こちらが本来)の匂いであって最近多いモミの木は米国あたりの代用だと思うが、同じ針葉樹で匂いが似ているのだろう。そのツリーに飾られていたバブルライトClick!のビジュアルが強烈で、いまの日本では販売されておらず、子どもたちが小さいころ米国から取り寄せてクリスマスツリーに飾ってやった。子どもが喜ぶよりも、わたしが子どものころと同じだといって喜んでいただけなのだが。
 同じく、生クリームとイチゴの香りは、条件反射のように不二家のペコちゃんをイメージする。おそらく親がクリスマスに、不二家のデコレーションケーキを買ってきてくれたことがあったのだろう。家でスポンジをわざわざ天火(ガスオーブン)で焼き、手間のかかるクリスマスケーキを手づくりしてくれたこともあるが、母親には悪いけれど、子どもには不二家のケーキのほうがきっと美味しく感じて、ペコちゃんの顔がデザインされた板チョコのトッピングとともに、強く印象に残ったものだろう。
 昔もいまも大好きなウナギの蒲焼きClick!の匂いは、近くで開業していた小児科の医者の顔を思いだす。夕食にウナギの蒲焼きが出て、大好きなわたしはガツガツと食べていたら、その小骨が扁桃の奥にひっかかった。かなりチクチクするので、夜間、母親に連れられ近くの小児科医院で診てもらったら、ピンセットを手にわたしの喉を10分間ほど搔きまわしていたが、どうしても見つけられなかったのか「ほかへいってください」と、ピンセットを膿盆に投げだしながら、そのチョビ髭顔がプイッと横を向いた。その苛立ったような困ったような、はたまた迷惑そうな表情が、蒲焼きの匂いをかぐと鮮明に現れる。
 「ほんと、あすこはヤブなんだから。二度とかからないわ」とこぼす母親に連れられ、今度は耳鼻咽喉科で診察してもらったら、なんと診察イスに座ってから1分足らずで、喉に刺さった小骨を発見してすぐに抜いてくれた。ふつうなら、この抜いてくれた耳鼻咽喉科医こそ頼りになる先生であり、その顔を憶えていてもよさそうなものだけれど、どんな顔をしていたのかまったく記憶にない。むしろ、失敗した小児科医の顔のほうを、ウナギのいい香りとともに思いだすのだから、性格がねじれているといわれてもしかたがない。ひどい目に遭ったにもかかわらず、わたしは相変わらずこの歳になるまで一貫してウナギの蒲焼きが大好物なのは、きっとそんなことではめげないほど食い意地が張っているからだろう。
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 ニッキ=肉桂(シナモン)の匂いをかぐと、なぜか吉永小百合を思いだす。これには、「風が吹くと桶屋がもうかる」式の、イメージが重なる屈折した記憶があるようだ。おそらく小学2~3年生のころ、母親から便箋を買ってくるように頼まれて、近くの文房具店へと出かけた。文房具屋のおじさんが、どれにするかいろいろな種類の便箋を出して見せてくれたのだが、その中に表紙がカラーで林の樹木を背景に麦藁帽子をかぶった吉永小百合が、右斜め45度ほど上にある太陽(照明)を向いてニコッと笑っている便箋があった。
 おそらく母親なら、この便箋が「キレイだわ、いい買い物したわね」といって喜ぶだろうと、わたしはそれを迷わずに買った。その帰りに、お決まりの駄菓子屋Click!に寄ってクジを引き、外れのニッキ飴をもらって舐めながら家に帰った。さっそく、買った便箋と少し足りないお釣りをわたすと、母親が喜ぶかと思きや、「どうしてわたしが、吉永小百合の便箋を使わなきゃなんないのよ。〇〇(わたしの名前)の好みで選んじゃったのね」とハァーッとため息をつき、「替えてもらってらっしゃい」といわれた。それ以来、ニッキ(シナモン)の匂いと吉永小百合は、切っても切れない記憶として刻みこまれたのだろう。
 向田邦子Click!は、合唱曲「流浪の民」を聴くとイカのつけ焼きが浮かんだらしい。1981年(昭和56)に文藝春秋から出版された『霊長類ヒト科動物図鑑』から引用してみよう。
  
 大隈講堂のステージで歌ったことがある――といえば聞えはいいのだが、勿論独唱ではない。合唱団の一員としてである。(中略) 私の学校は渋谷にあった。/週に何回か、授業が終ってから早稲田へ練習に通った。/高田馬場で電車をおり、あとは歩くわけだが、どういうわけか、烏賊を丸のままつけ焼にして売っている店が目についた。/食べ盛りの年頃なのに食糧事情は最悪である。醤油の焦げた烏賊の匂いは、はらわたにまで沁み通った。おいしそうだなあ、食べたいなあと、思いながら歩いた。/十回か二十回はこの道を通ったと思うが、結局私はただの一回も烏賊を買わなかった。それだけのゆとりがなく、買えなかったのであろう。そのせいか、今でもシューマンの「流浪の民」のメロディを聞くと、焼き烏賊の匂いがただよってくる。
  
 おそらく、こういう匂いの記憶は誰にでもあるのだろう。ハンダの溶ける匂いをかげば、中学時代の技術教師(あだ名がフランケンシュタインだった)のしかめっ面が浮かんでくるし、太平洋の潮の匂いをかげば、全身が弛緩して子どものころのさまざまな出来事が走馬灯のように流れ、資生堂の「MORE」がかすかに漂えば、学生時代の彼女のことを思いだす。
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 ところで、わたしも「流浪の民」を歌わされた経験がある。中学1年のころだったろうか、音楽教師からどうしても合唱部に入れといわれ、入れば成績を手加減するし入らなければどうなるかわかってるわよね……というような、云わず語らずの半ば脅しをかけられ無理やり入部させられたのだ。その課題曲が、シューマンの「流浪の民」だった。
 当時の歌詞は(現在でもそうなのかもしれないが)、戦前に石倉小三郎によって翻訳された文語調の訳詞であり、「♪うたげほがひにぎはしや~(宴寿ひ賑はしや)」とか、「♪なやみはらうねぎごとをかたりつげるおうなあり~(悩み払う祈言を語り告げる嫗あり)」とか、中学1年生にとっては意味不明なコトバがズラリと並んでいて、ちっともまったく、全然とことん面白くなかったのだ。
 面白くないこと、楽しくないことの記憶は限りなく希薄で、いまやどのような練習をしたのかあまり憶えてはいないが、どこか公会堂と思われるステージに出て歌った記憶があるところをみると、中学生の合唱コンクールのようなものに出場したのだろう。いまから考えても、いい思い出になるどころか、教師の見栄のためにつまらない時間をすごしたものだと思う。そんな時間があれば、もっと剣道に身を入れられていたろうし(実は飽きやすいわたしは、練習をサボり1年で辞めたのだが)、美術のクラブ活動(合唱部の練習があったので入れなかった)だってできたかもしれないのだ。
 ただし、音楽教師の化粧の匂いはよく憶えている。濃いめの化粧が発する甘い匂いといえば、「流浪の民」のメロディーと歌詞が浮かんでくる。子どもとは残酷なもので、濃いファンデーションを塗りたくった50歳前後の音楽教師のことを、生徒たちは陰で「セメントばばあ」というあだ名をつけて呼んでいた。化粧直しをしないと、「そのうち、口もとからヒビ割れてくるぞ」などと陰口をきいては笑っていた。
 「流浪の民」は合唱曲なので、高音部(メロディライン)と低音部に、あるいは女声と男声のパートに分かれた歌い方をするのだけれど、声がそろわずに乱れたりするとピアノの前から立ってきて、そろわなかった生徒たちの前にきては何度か歌わせて歌唱の修正をしていた。そんなとき、濃い化粧の匂いがプンと鼻をついたのだ。だから、わたしの場合は「流浪の民」のメロディーが流れると、音楽室に漂っていた濃い化粧の匂いが思い浮かぶ。
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 高校生のころ下落合を歩いていると、まるで山道を歩いているような、そこらじゅうから濃い緑や土の匂いがして、キャンプの飯盒炊爨と焚き木集めの情景が湧いてきた。新宿区なのにこんな辺境か僻地、もとへ“秘境”Click!のような地域あるのかと、当時17歳のわたしには強烈な印象として残った。現在ではだいぶ薄れたとはいえ、下落合に漂う濃い緑と土の匂いをかぐと、やはり子ども時代のキャンプやハイキングの情景が鮮明に浮かんでくる。

◆写真上:子どものころから好きだった、刺激の強くて辛いニッキ(肉桂)飴。
◆写真中上は、ゆで卵の匂いは学生時代のバイト先だったコーヒーショップを思いだす。店には5つのサイフォンが並んでいて、お客が多いと洗浄がたいへんだった。は、クリスマスツリーに飾ったバブルライトと不二家のペコちゃん。
◆写真中下は、江古田の「なかや」のうな重と医療器具が入った膿盆イメージ。は、東京の伝統的なニッキ飴と若いころの吉永小百合。母親に「替えてもらってらっしゃい」といわれた便箋の表紙も、同じころに撮影されたものだろうか。
◆写真下は、1928年(昭和3)に出版された「流浪の民」の楽譜と資生堂の「More」(1970年代後半仕様)。いまでも、「More」の香りには弱い。(爆!) は、佐伯祐三Click!が描いた連作「下落合風景」Click!のひとつ『墓のある風景』Click!に描かれた薬王院墓地の塀。最近、傷んでいた表面がコンクリートで塗り直された。は、わたしが初めて足を踏み入れてから5年後の1979年(昭和54)10月に撮影された下落合東部の空中写真。このころから緑は減りつつあったが、それでもいまに比べたら周囲は森林と屋敷林だらけだった。

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