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富永哲夫博士による家庭衛生の常識。(6) [気になる下落合]

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 富永哲夫Click!『家庭衛生の常識』Click!(帝國生命保険/1932年)の記述では、食物が原因で罹患する疾病や中毒症のボリュームがもっとも大きい。内科の臨床医だった富永博士の専門であり、もっとも得意な分野でもあるからだろう。また、この冊子が書かれる7年前、東京市内でコレラが大流行したことも、当時は落合町葛ヶ谷24番地で医院を開業していたとみられる彼の印象に、強く残っていたせいかもしれない。
 1925年(大正14)9月、東京市内はコレラの大流行で猖獗をきわめていた。市当局は、即座に東京湾での漁業を禁止している。当時は下水の浄化設備など存在しないので、市内で発症した患者の糞便が下水管をとおって東京湾に流れこみ、コレラ菌が魚介類を汚染する可能性が高かった。魚介類が汚染されれば、漁業関係者や水揚げされる魚市場が汚染され、魚を購入した料理屋や消費者まで危険にさらされることになり、流行がさらに拡大する怖れがあったからだ。
 コレラに限らず、当時の東京では食物に起因する感染病が少なくなかった。これは、戦後しばらくたってからも同様で、赤痢や腸チフス、パラチフス、疫痢などの患者が、市内のあちこちで頻繁に発生していた。これは日本に限らず海外でも同様で、これら食物に付着する細菌による感染症は、上下水道が完備し社会の衛生レベル全体が向上するまで発症しつづけている。
 これら病原菌の厄介なのは、細菌に感染して発症すれば患者だと認定でき隔離入院または隔離治療が行なえるが、感染しているにもかかわらずキャリア(保菌者)としてまったく発症しないケースもあるからだ。そうとは知らず、保菌者は日常生活を送りつづけ、病原菌を周囲にいる関係者に文字どおり撒いて歩くことになる。すると、該当する怪しい食物に由来しそうもない新たな患者があちこちで発症し、共通する知人・友人をたどっていくと保菌者が浮かび上がってくる……というようなことがしばしば起きている。
 感染しているのに元気な患者は健康保菌者と呼ばれ、いまだに米国で語り継がれている「腸チフスのメアリー」などのケースが有名だ。彼女の周囲では、22人が発症しひとりが死亡している。病原菌は、手指に付いている場合は握手などで感染し、また保菌者の身体にとまったハエなどを媒介にして飲食物に付着したり飲料水にまぎれ、それを飲食した人間へ伝染することになる。
 それを避けるためには、伝染病の流行中は生食を避け、飲食物はかならず火を通してから食べるとかなりの割合で予防できるとしている。同冊子より引用してみよう。
  
 伝染病は飲食物の生食を避けることによつて完全に予防することが出来る。これは云ひ易くして、なかなか行ひ難いことであるが、平素に於ても、特に伝染病流行時には実行しなければならぬ。我国には「チフス」及び赤痢は常に流行してゐる。従つて絶えず流行地にある注意を怠つてはならぬ。よく煮て食べるなら「コレラ」流行時と雖も魚介を食用して何等差支ないのである。かゝる場合には魚介を鍋の中に受けとり、それを他の器物に移すことなく、そのまゝ水を加へて煮るのである。大正十四年の「コレラ」流行時に、著者とその仲間が鮪を非常に安価に買ひ入れ、この方法により盛に食べたことを思ひ出す。
  
 文中の「著者とその仲間」とは、落合町葛ヶ谷24番地に住んでいた富永哲夫一家と、同じ敷地内の別棟に住み日本航空輸送会社に勤務していた、姻戚(兄弟?)の富永五郎一家のことだろう。のち、1971年(昭和46)に富永五郎は日本航空の社長に就任している。ちょうど、日航を舞台にしたTVドラマ『アテンションプリーズ』(TBS)が流行り、スチュワーデス人気が沸騰していたころだ。
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 以上は、おもに食物を媒介にして罹患する伝染病についてだが、もうひとつ食物に起因する危険な疾病として、富永哲夫は食中毒を挙げている。昭和初期の当時は、現代の目から見れば日常生活においては比較にならないほど不衛生な環境があちこちにあり、腐敗したあるいは腐敗しかかった食物を口にして食中毒を起こす事件が頻発していた。しかも、既述の伝染病と比べても、食中毒の症状は激烈であり、死亡率もきわめて高かった。家庭に冷凍冷蔵庫が普及した今日では、ほとんど想像もつかない生活環境だが、数多くの食中毒事件が日々新聞紙上をにぎわしている時代だった。
 これらの食中毒は、サルモネラ菌をはじめ、腸ビブリオ菌、ブドウ球菌、ボツリヌス菌、ノロウィルスなどに起因しているとみられるが、富永哲夫はそれを全部ひっくるめて「毒素」と表現している。食中毒が、これらの菌によって引き起こされるのは当時も知られていた(ノロウィルスは除く)はずだが、彼はそれらの性質や毒物を形成し排出する仕組みなどの解説をしていると、文章が長くまた煩雑になるので避けたのだろう。「毒素」は、腐敗した食物のみに付着しているものではなく、食物の容器や調理器具を介して周囲に拡がることも警告している。
 また、あらかじめ食品自体に毒物が含有されている例として、江戸東京では昔から食べる習慣はないが、関西の食文化ではフグのアルカロイド系毒による中毒Click!をはじめ、貝類などに含まれる毒素による中毒、誤って毒キノコClick!を口にする中毒、青梅による青酸中毒なども事例として紹介している。同冊子より、つづけて引用してみよう。
  
 腐敗により毒素が生じて、それを食用して中毒を起すことは甚だ多い。祝賀会等の宴会に出席した全部の人々が中毒したなど云ふのは多くはこの種の中毒である。その最も多いのは蛋白質の腐敗により「プトマイン」を生じ、これが原因となつて中毒を来すのである。かゝる腐敗は夏多いものである。然しながら冬の寒い時でも油断して中毒することもないではない。又食物に附着した細菌が適当の温度により盛に発育して、その細菌の毒素により中毒を惹き起すことも少くない。
  
 真冬における食中毒は、当時の小学校や中学校でよく起きていた。持参した弁当を、午前中から昼まで石炭ストーブやスチームの近くに置いて「温める」ため、あらかじめ食材に付着していた菌が大量に繁殖することで起きる中毒だ。
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 東京市衛生試験所では、暖房器具のかたわらに置かれた弁当箱も調査したようで、とある小学校の蒸気が対流するスチーム(約100度)の近くに置いた弁当箱の中身は、約38~39度の温度にまで上昇することを突きとめている。この温度は、食物の細菌が繁殖するのにもっとも適した温度で、スチームのそばに置いた弁当箱では約17分で細菌が2倍に繁殖し、午前8時から正午までの4時間では約6万倍もの細菌増殖を確認している。
 弁当の食材に含まれている細菌が、どこにでもいるようなタイプのものであれば、お腹をこわすぐらいで済んだのだろうが、先に挙げたような食中毒菌が混じっていた場合は、生命さえ危うい重篤症状になっただろう。富永哲夫は、温めるなら常に60度以上の温度を確保し、それができないのならむしろ冷やすことを推奨している。真冬に弁当箱を外へ放置し、「冷や」して食べることは、さすがに教師と生徒ともに抵抗があっただろう。
 1928年(昭和3)の統計によれば、東京市内における食中毒患者は3,679人におよび、このうち167人が死亡している。ただし、この数字は患者が医療機関を受診し、病院から保健所へ連絡があった件数のみのカウントなので、下痢や腹痛ぐらいでは病院にかからない(かかれない)中毒患者を含めると、おそらくケタちがいの膨大な数字になるとみられる。富永哲夫も、「実際は尚遥かに多数であることは勿論である」とし、食中毒は適切な調理をしさえすれば、そのほとんどが予防できると結んでいる。
 また、富永哲夫は食品添加物による害毒についても言及している。当時は、有害な食品添加物に関しては内務省が省令で「取締規則」を定めていたが、それに従わない食品業者も多くいたのだろう。また、現代のように厳密な食品衛生法が存在せず、添加物に関する化学的な分析も十分でなかったため、身体への影響との因果関係を確認できない毒性の強い添加物も、そのまま野放図に使われていた時代だ。
 今日のように成分表示の義務がなかった時代なので、東京市衛生試験所で分析でもしてもらわない限り、消費者は食材の含有物をまったく知ることができなかった。当時から使用禁止の防腐剤と無害の着色料を、富永哲夫は一覧にして掲示している。
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 今回で、食べ物の項目は終わりだが、次回は人に病気をもたらす害虫について、昭和初期の対策をいろいろ眺めてみたい。家庭用の手軽な殺虫剤など、まだまだ普及するはるか以前の話で、住宅の虫除けは江戸期と同様に蚊帳を吊るのが一般的な時代だった。

◆写真上:青酸配糖体が含まれ、強い毒性のある収穫したての青梅。
◆写真中上:上は、コレラ菌()と腸チフス菌()。は、赤痢菌()と腸ビブリオ菌()。は、冷凍冷蔵庫の普及で戦後は食中毒が劇的に低減した。
◆写真中下は、毒キノコのチャンピオンであるベニテングダケ。は、現在でも死者が絶えないトラフグ。は、1932年当時の有害・無害食品添加物表。
◆写真下は、昭和初期には食中毒の主因だった弁当。は、その弁当を温めて学校などで頻繁に中毒事故を起こしていたスチーム暖房()と石炭ストーブ()。

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わたしの記憶にない下落合の神田川橋。 [気になる下落合]

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 1975年(昭和50)に撮影された映像を観ていたら、山手線の神田川鉄橋と下落合の清水川橋との間に、もうひとつ小さな橋が架かっているのを見つけた。わたしには、この橋の記憶がまったくないので、1970年代の末ごろには撤去されたものだろう。映像は清水川橋の上から、山手線の神田川鉄橋のある東側を向いて撮影されたものだ。
 改めて地図を確認すると、この橋が採取されている地図と採取されていない地図のあることがわかった。その経緯から推察すると、同じ神田川に妙正寺川が合流する直前の下落合2丁目450番(現・下落合1丁目)にあった、園藤染物工場などと戸塚3丁目(現・高田馬場3丁目)との間に架かっていた、おそらく付近の瀧澤家が私費を投じて建設したとみられる私設橋「瀧澤橋(現・滝沢橋)」Click!と同様、周辺の企業や住民たちが交通の便宜を考えて架けた、私設橋Click!だった可能性が高い。
 もっとも瀧澤橋は、名前を採取されないままに地図には「無名橋」として橋記号だけ記載されていたが、その後、公有化されて自治体の管理に移行しており、各種地図にも正式に橋名がふられるようになっている。だが、くだんの小橋は私設橋のまま、1970年代末ごろには消滅してしまったのだろう。この小橋もまた、下落合1丁目60番地界隈と戸塚町3丁目とを結び、周辺にあった工場群の交通の便や、付近に住む住民が高田馬場駅へと短絡して出られるように架けられていたとみられる。
 映像を観察すると、山手線の神田川鉄橋からそれほど離れていない位置に設置されていたのがわかる。おそらく、この小橋をわたるときには、すぐ横に轟音を立てて通過する鉄橋上の山手線が間近に迫って見えていただろう。小橋が写る空中写真を観察すると、山手線の鉄橋下から西へわずか30m余のところに架かっており、清水川橋からだと東へ50m弱のところに架橋されていたとみられる。
 改めて、空中写真を年代順に追いかけてみると、戦後間もない時期の写真には、当該の流域にはなにも写っていない。初めて小橋らしい影が見られるのは、1963年(昭和38)のモノクロ空中写真からだ。ちなみに、戦後の地図を参照してみると、私設橋なので採取されていないケースも踏まえて探した結果、いちばん早い時期の地図では、1953年(昭和28)に作成された「復興新宿区全図」に、それらしい橋が採取されていることが判明した。おそらく1950年代に入って、すぐのころに架けられた私設橋ではなかったか。
 年代を下って空中写真を参照していくと、1975年(昭和50)のカラー写真には別角度からの空中写真を含め、小橋がかなり鮮明にとらえられていることがわかった。つづいて、1979年(昭和54)の空中写真にも小橋はとらえられているが、そのあとの1980年代の写真には、すでに見えなくなっている。つまり、1953年(昭和28)から1979年(昭和54)の26年間(ただし途中で一度解体/後述)、この橋は確実に存在していたと思われる。
 だが、十三間通り(新目白通り)Click!が開通し、人々の流れが清水川橋のほうへ集中するようになると、この小橋の利用者は徐々に減っていき、周囲の工場や工員寮、住宅などの相次ぐ移転とともに、あまり補修やメンテナンスなどもなされなくなり、その役割を終えたのではないだろうか。1979年(昭和54)まで存続していたとすれば、わたしも学校からの帰りに偶然目撃していたかもしれないが、残念なことにまったく記憶がない。
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 当時、学校からアパートにもどるには、十三間通り(一部工事中)をそのまま西へまっすぐ下落合方面へ歩くことが多かったし、早稲田通りを歩いてきたとしても、神田川を渡河する橋は高田馬場駅の手前で斜めに架かった旧・神高橋Click!を、あるいは栄通りを斜めに入った先にある田島橋Click!を利用することが多かったので、清水川橋と山手線の神田川鉄橋との間にある橋には気づかなかった。また、もし気づいたとしても解体が近い私設橋は、すでに通行禁止になっていたのかもしれない。
 この私設橋について調べていたら、ひとつおかしなことに気がついた。敗戦後間もない1928年(昭和23)作成の「復興新宿区全図」には、清水川橋の下流にこの小橋が確実に採取されているとみられるのに、7年後の1955年(昭和30)に新宿区役所が編纂した『新宿区史』に掲載の、新装なった山手線の神田川鉄橋を西側からとらえたモノクロ写真には、この小橋が存在していないことだ。カメラマンは、明らかに清水川橋の南詰めから山手線神田川鉄橋の西側面をとらえており、この時期、山手線鉄橋の補強と神田川の護岸補強工事のため、一時的に小橋が取り払われていたものだろうか。
 その後、1963年(昭和38)の空中写真では、再び架橋されているように見えるので、山手線の鉄橋工事とその周辺の護岸工事の期間だけ解体され、その後(1960年代に入ってからか)、通行の便を考えて再び架けられている可能性が高い。その経緯を踏まえると、この小橋は誰かひとりの篤志家が資金を出して架けたのではなく、周辺の企業(工場)や住民たちが資金を出しあい、共同で建設したものではないだろうか。
 この小橋がないと、1935年(昭和10)前後に直線化工事が実施された旧・神田上水の、大きく北側へ蛇行した川筋Click!がそのまま埋め立てられて道路になっていたため、特に神田川の北岸にある工場や企業の関係者は、大きく北側へ遠まわりをしてから清水川橋を利用するほかなかった。神田川の岸辺に建つ工場から、清水川橋へ迂回するルートの距離を測ってみると、約180mほどの遠まわりとなる。小橋の構造がわかる映像からの様子や、空中写真からとらえられた橋の道幅などを考慮すると、おそらく人が専用に利用する橋であって、クルマは通行できなかっただろう。
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 1950年(昭和25)すぎに架けられた私設橋と思われる小橋だが、昭和初期にもほぼ同じ位置へ、神田川を渡る木製の橋が架けられている。西武鉄道が、陸軍鉄道連隊Click!の演習とともに山手線の西側土手沿いに建設した高田馬場仮駅Click!から、山手線・高田馬場駅前の早稲田通りへと通じる連絡桟橋だ。
 この木橋は、高田馬場仮駅が今度は線路土手の東側へと移設Click!される際、すべて取り払われてしまったのだろうか。それとも、周辺の企業や住民の便宜を考え神田川を渡る木製橋のみ、しばらくの期間は残され利用されていたのだろうか。
 もっとも、1935年(昭和10)前後に行われた、神田川の大規模な直線整流化工事まで残っていたとは思えないが、周辺の企業や住民たちは、この位置に山手線・高田馬場駅までショートカットできる橋があった昭和初期、ずいぶん便利だったことは印象深く記憶に残していただろう。戦後、その記憶がよみがえり、誰が思い立ったのかは不明だが(おそらく北岸の下落合側にある企業か住宅の住民だと思われる)、「ここに、人が通れる橋を架けよう」といいだしたのではないだろうか。
 小橋は、1979年(昭和54)の空中写真までとらえられているので、そのとき気づいてさえいれば、わたしも渡れていたかもしれない。あるいは、目白駅から山手線に乗車したときにでも、注意深く神田川を観察していれば、鉄橋西側のすぐ下に架けられていた小橋に気づいていたかもしれない。山手線の神田川鉄橋が、間近で観察できたと思われる小橋の上に、いまから思えばぜひ立ってみたかったと思う。どなたか、この小橋についてご記憶の方、あるいは橋名をご存じな方はおられるだろうか?
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 もうひとつ、同じ映像には清水川橋の古い姿が映っており、山手線の鉄橋東側にあった旧・神高橋と同様、鉄骨に緑色の錆止め塗装の意匠をしていた。学生時代に、この橋を渡ったハッキリとした記憶はないが、栄通り沿いに見えている店舗の様子が、どこか懐かしい。

◆写真上:1975年(昭和50)の映像に映る、清水川橋と山手線との間に架かる小橋。
◆写真中上は、映像の明度をあげた画面。は、1953年(昭和28)の「復興新宿区全図」に採取された小橋。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる小橋。
◆写真中下は、2葉とも1975年(昭和50)の空中写真と別角度。は、1979年(昭和54)の空中写真にみる小橋。は、1955年(昭和30)に清水川橋から撮影された山手線・神田川鉄橋。小橋はなく、架かっていたとみられる位置の護岸が白っぽい。
◆写真下は、3葉とも現状の写真で小橋があったとみられる位置の推定。は、中落合の妙正寺川に架かる氷川橋。くだんの小橋も、このような意匠だったと思われる。は、1975年(昭和50)に撮影された清水川橋で突き当たりは栄通り。正面に見えているのは、学生などを相手にした24時間営業のコインランドリー「山手オートランドリー」らしい。

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富永哲夫博士による家庭衛生の常識。(5) [気になる下落合]

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 富永哲夫Click!『家庭衛生の常識』Click!(帝國生命保険/1932年)は、大正末から昭和初期にかけて人々の生活における衛生面で、どのような課題が存在していたのかを具体的に教えてくれる小冊子だ。換言すれば、当時の人々はどのような衛生課題に直面し、それらを怖れると同時に真正面から向きあい、どのような方法で解決し克服しようとしていたかを知ることができる情報源ともいえる。
 今回の食物に関するテーマも、当時の人々が日常的に悩まされていた課題のひとつだ。もっとも大きな食べ物の課題は、肉魚類や野菜などに付着している寄生虫卵を体内へ取りこんで起きる寄生虫症、次いでそれらに付着した細菌によってもたらされる疫病、そして当時から問題視されていた食品添加物の毒性だ。今回は3つの課題のうち、当時はきわめて深刻だった寄生虫感染について取りあげてみたい。
 寄生虫については今日では想像ができないほど、多くの日本人が寄生虫症に感染していた。それは、寄生虫の知識が社会へ浸透していなかったため動物の肉を生のまま、あるいは十分に火を通さずに食べてしまうことによる感染や、特に青果類は現在のように安全な有機肥料や化学肥料ではなく、人の糞尿が多用されていたため、感染者から排泄されたものが生育する野菜や果物に付着し、それを生食することによって感染者が増加し拡散するという、負のサイクルが存在したからだ。
 わたしが子どものころ、いまだに化学肥料ではなく人間や家畜の糞尿を用いて育てられた青果類が多く流通し、小学校では必ずカイチュウやギョウチュウの検査が行われていた。現代でも寄生虫病は昔話ではなく、野菜や果実を食べてカイチュウに寄生された人は、海外から輸入された野菜などをよく洗わず、また加熱せずに食べたケースが多い。日本国内ではほとんど発生していないが、海外では寄生虫による疾患はそれほどめずらしい事例ではない点に留意すべきだろう。
 また、現代では肉や魚に火を通さず生食で食べたために、寄生虫症を発症することが多い。ことにウシやブタの生食は要注意で、海外からの輸入品には生食を前提としないで育てられた肉が多いため、寄生虫の温床となっているようだ。また、近ごろよく聞くのはサケやマスなどの川魚からの感染で、寿司や刺身で食べたことによる寄生だろう。
 国内に出まわっている生食用のサケやマスは、「養殖だから安全」という“神話”が崩れたのは記憶に新しい。生食用として売られていた魚に、海外からの輸入品(もちろん安価だから輸入した養殖ではない個体)が混じっていたことにより、寄生虫(裂頭条虫や線虫)がまぎれこんでいたようだ。利潤を上げるためには、なんでもやってしまうのが資本主義だというのを忘れてはならず、自身の判断による注意や警戒が必要なのだろう。線虫(アニサキスなど)は、サバやアジ、イワシ、サンマ、カツオ、イカなどにも寄生しているので、刺身や寿司を好む国民に気をつけようといっても限界があるのかもしれないが。
 それでも、昭和初期における寄生虫の被害は今日の比ではなく、特に農村部では寄生虫を保有しない人のほうが、むしろまれであることが統計で確認されている。東京市衛生試験所が実施した調査を、『家庭衛生の常識』から引用してみよう。
  
 過般東京市衛生試験所に於て、市内小学校児童五〇,七二一人の検便を行つた結果、その二四.三三%、即ち一二,三四一人の寄生虫の保有者であることが判明した。その内最も多いのは回虫の九,五九九人。これに次ぎ鞭虫の二,九三三人。その他条虫、十二指腸虫、蟯虫等少からぬ数字を示して居る。元来寄生虫は都会に於ては割合に少く、田舎に多いものであるから、日本全国に於ては非常な多数の寄生虫保有者があるものと云はねばならぬ。/先年内務省に於て静岡、山口、秋田、福井、愛媛、奈良、佐賀、島根及び群馬の九県の各一ケ村宛につき一七,六九八人の寄生虫検査を行つた結果、一五,一七二人に寄生虫が宿つてゐた。即ち八割五分余は罹患者で、僅かに一割五分の人に寄生虫を見なかつたのである。/最近寄生虫予防法案が発布され、その予防に努力するに至つたのもこれが為めである。
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 各地域で無作為に行った調査検診では、実に85.7%の人々がなんらかの寄生虫を保有していたというデータが残っている。つまり、寄生虫のいない人のほうがめずらしい状況だ。また、上記の東京市内の検査でも明らかなように、体内にいる寄生虫は1種類ではなく、複数種の寄生虫に感染している人も多かったとみられる。
 文中で条虫(ジョウチュウ)と書かれているのは、いわゆるサナダムシなどと呼ばれる寄生虫で、半焼けの豚肉を食べることで寄生し2~3mの長さにまで成長する有鈎(ゆうこう)条虫、生または生焼けの牛肉やヒツジ肉、ヤギ肉で体内に入り4~8mに達する無鈎条虫、サケ・マスやクジラなどの刺身で体内に侵入する裂頭条虫などに分類されている。これらの寄生虫が体内に入ると、貧血や食欲不振、下痢、腹部の不快感などが起きるが、感染に気づかずにすごす人たちも多かったようだ。
 昭和初期の当時、もっとも広くかつ多くの人々に感染していたのはカイチュウ(回虫)だが、特に子どもたちが保有している割合が高いのが特徴だった。飲料水(井戸水または用水)や野菜などにカイチュウの卵が混じり、飲料水は煮沸せずに、野菜は生のまま食べるとすぐに感染する。当時は、畑の肥料として糞尿をまくことが一般的に行われており、また糞尿の桶を井戸や用水で洗い流すことで感染が拡がりやすかったのだろう。
 東京市衛生試験所が検査した、市内に出まわる野菜のカイチュウ卵の付着率データが残っている。それを参照すると、いわゆる葉もの野菜の着卵率が60~80%非常に高かったことがわかる。同冊子より、再び引用してみよう。
  
 市内に販売せらるゝ野菜につき回虫卵の有無を検査せるに、次表の如く白菜に於ては八〇.〇%、ほうれん草に於ては七八.五%等、非常な多数に於て虫卵を認めるのである。従つて野菜は総て回虫卵を保有するものと心得て、調理前に充分丁寧に洗滌し、更に八〇度以上の熱湯を通せば安全である。又「クロール」石灰一〇万倍位の溶液に暫時浸して後、清浄な水で洗ふもよい。/十二指腸虫は皮膚を通して侵入することが多いが、又糞便と共に排泄せられた虫卵が飲食物に付着して、その生食に因り感染することも少くない。かゝる感染は主として野菜によるものであるから、回虫に於けると同様の注意をすれば予防されるのである。/尚この外肺臓「ヂストマ」、肝臓「ヂストマ」等も、蟹或は淡水魚等の生食に因り感染するものであるから、かゝるものゝ生食は避けなければならぬ。
  
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 昭和初期の回虫卵付着率の統計データを見ると、「葫蔔蔔」(にんじん)や「牛蒡」(ごぼう)からは寄生虫卵は検出されていないが、同じ根菜類の「大根」や「若牛蒡」などから検出されているのが興味深い。これは、地上に出ている野菜は直接人糞などの肥料がかかりやすく、地下に伸びる野菜は肥料がかかりにくいということではなく、収穫後に洗浄した“洗い場”Click!や用水路などの水に問題があるのだろう。野菜を洗う水場で、同様に肥桶を洗っている可能性が高いとみられる。
 また、ネギ類でも長ネギに付着する寄生虫卵が61.5%、若ネギも60.0%と付着率が高いのに対し、玉ネギへの付着が16.6%と低いのは、寄生虫卵を含んだ肥料が縦長のネギと球状のネギとでは浸透度が異なるからだろう。同様に、葉が開き気味な白菜への付着率が80.0%ときわめて高く、葉が丸く密着して閉じ気味なキャベツが7.6%と低いのも、内部への肥料の浸透度に由来するものと思われる。
 戦後、人糞を用いた肥料が減少し、かわりに魚介類をベースにした有機肥料や化学肥料が普及するにつれ、寄生虫症は徐々に減っていった。それでも、わたしが子どものころまでは検便によるカイチュウ卵検査や、粘着テープによるギョウチュウ検査などが実施されていた。現在でも、粘着テープを使ったギョウチュウ検査は、幼稚園や小学校低学年で実施しているところが多いと聞いている。
 現代の寄生虫症でもっとも多いのは、生(なま)や生焼けの魚や肉から感染するアニサキス症だ。国立感染症研究所のデータでは、2005年(平成17)から2011年(平成23)までの7年間にわたる、約33万人を検査対象とした分母データに対し、アニサキス症に感染していた患者は7,147人だった。すなわち、日本人の約2.2%の人たち(約286万人)がアニサキスに感染している可能性があり、年間には約1,000人余の人々が自覚症状の有無にかかわらず、生食や生焼けの魚や肉を食べて感染している可能性がありそうだ。
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 もうひとつ、エキノコックス(条虫類)の発生は、従来はキタキツネからといわれていたが、他地域でもキツネ経由とは異なる、ブタを宿主とする別タイプのエキノコックス症例も確認されており、感染した家畜の肉を食べないのはもちろん、検査をすり抜けた家畜の肉が出まわる可能性も考慮すると、やはり生食や生焼けの肉は避けたほうが無難なのだろう。

◆写真上:下落合に残る野菜畑で、大江戸(おえど)時代から150万人の市街地人口を養うために、江戸の近郊農家で作付けされる野菜は種類も量も豊富だった。
◆写真中上は、落合ダイコンの栽培。は、青首にするための作付け。は、1925年(大正14)制作の曾宮一念Click!『冬日』Click!(部分)に描かれた諏訪谷の“洗い場”。下落合東部で収穫された、ダイコンやゴボウが洗われて市場へ出荷されていた。
◆写真中下は、昭和初期には感染率が高かったカイチュウの標本。寄生虫に興味のある方は、目黒区下目黒4丁目にある目黒寄生虫館は必見だ。は、東京市衛生試験所が調査した同冊子の「市販野菜ニ附着セル回虫卵検出率表」。
◆写真下は、長ネギ畑。は、寄生虫卵の多かった白菜と少なかったキャベツ。

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跋扈する妖怪たちと「魔道開珎」。 [気になる下落合]

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 以前から、落合地域で伝承されてきた妖怪や狐狸にまつわるフォークロアをいくつかご紹介してきたが、その数はきわめて少ない。代表的なのは、旧・神田上水(1966年より神田川)の、田島橋Click!近くに潜んでいたサイ(犀)Click!だが、これは妖怪というよりも怪獣ないしはUMAに近い存在だ。また、下落合(中落合・中井含む)につづく目白崖線の斜面に出現する、狐火(狐の嫁入り)Click!についても何度か記事にしている。
 だが、落合地域は周辺域に比べ、妖怪Click!の出現率が少なかったのか、あるいは早い時期に民俗学の視点から伝承・伝説を採集しそびれていて、数多くの妖怪譚あるいは狐狸譚が記録されないまま失われてしまったのか、今日まで伝えられるエピソードは少ない。また、サイ(犀)にしろ狐火にしろ、妖怪変化としてはかなり地味な存在で、周辺で語り継がれている枕返しClick!お歯黒べったりClick!雪女Click!天狗Click!などのメジャーな妖怪たちに比べたら、ほとんど目立たず「華やかさ」に欠けている。
 井上円了Click!は、日本各地で語り継がれてきたさまざまな妖怪譚や幽霊譚Click!へ、科学的な解釈を加えつつその「謎」を解き明かそうとしているが、井上哲学堂Click!のある肝心の地元では、それらの伝承・伝説を採集した形跡は見られない。野方や中野の両地域で、それらの伝承をかなり詳細に採集しはじめたのは、1980年代に入ってからの中野区教育委員会による仕事だった。すなわち、明治生まれの古老たちがまだ数多く存命中であり、江戸期から明治期にかけての妖怪譚・怪談などの伝承を記憶・継承していたからだ。
 ひょっとすると、落合地域でも明治期ぐらいまでは語られていたかもしれない、ごく近所で採集されていたフォークロアについて、これまでご紹介しそびれていた妖怪たちをいくつか取りあげてみたい。まずは、妖怪のなかではもっともメジャーな「天狗」から。1989年(昭和64)に中野区教育委員会が発行した『口承文芸調査報告書/続 中野の昔話・伝説・世間話』からの引用してみよう。
  
 神隠しってぇのはね、それは、天狗様に連れてかれちゃうっていうようなね、そういうような伝説があるんです。/そのね、天狗様に連れて行かれるのを、見た人はいないんです。いないんだけども、想像するのは、当時の人たちは、天狗様にさらわれてったんだと、いうようなことを言ってますよ。/天狗様はどこにでも、当時は、神様の森には、必ずいたと、いうことを、人々は、江戸時代の人々は、信じていたと、それをね。/ですからね、こわいところは、何かっていうとね、墓場はこわくないんだとこう言うんです。墓場はこわくないんだが、本当にこわいのは、神様の森がいちばんこわいんだと、いうことを、年寄りは言ってましたね。
  
 「天狗」のいる山や「神様の森」は、直接的に禁忌エリアを意味する言葉だが、これらの場所に屍家伝説Click!あるいは古い墳墓伝説Click!がかぶさっている可能性があることは、拙サイトでも何度か記事Click!に取りあげてきたとおりだ。上記の例は、落合地域の西隣りに位置する中野地域の伝承だが、ほかに夜中になると屋根あるいは天井からミシッと音がするのは、「天狗様の見回り」がきたからだという伝承も収録されている。
 また、同報告書には一瞬で手足が切れる「カマイタチ」の出現も記録されている。
  
 真空になると、足やなんか欠けるんですよね。それをカマイタチっていうんですよ。カマイタチってものがいたと思ったらしいですよね。それで、行者がね、カマイタチでもって足ぃ切られたってんですよ。その白いやつをね。/今になってみればね、真空になれば足を切られちゃうわけですよ。だから、ほんとの昔のね、こういうつまらない話ってのね、ありますよ。
  
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 カマイタチは、空気中の真空になった空間に手足が触れることで、皮膚が裂けると長い間いわれてきたが、人間の皮膚はかなり丈夫で、地上の空気中にできた真空環境ぐらいでは裂けないことがわかってきた。現在では、長時間にわたり手足を乾燥した状態のまま放置したり、水を繰り返し使う仕事で皮膚の水分が過度に蒸発したりしたときに、わずかな圧力で皮膚が裂ける“あかぎれ”に近い症状ではないかと推測されている。
 確かに、現代ではカマイタチの出現率は当時よりも激減しており、田圃で長時間にわたり手足を水に浸けて働くこともあまりなくなり、台所仕事も給湯器の普及と手足の保湿剤のおかげで、皮膚の水分が急激に失われる危険な症状もなくなった。
 お隣りの中野では、めずらしい「白坊主」も登場している。1987年(昭和62)に同教育委員会が発行した『口承文芸調査報告書/中野の昔話・伝説・世間話』より。
  
 あすこんとこ、夜んなると白ボウズが出るよってね。白ボウズっていうのは、どんなのか…。ここの先行ったとこにねぇ、向かいに山があって、昼間でも暗いんですよね。そこんとこに、小さなお地蔵様があってねぇ、昼間っから、ずっとあすこんとこ歩いて行って、何かきっと、脅かされたか何かしたんじゃないか。で、白い着物か何か着てたんで、白ボウズって言われたんだろうと思うんだろうけどもね。/それが、私たち子どもんときに、お使い行って夜帰って来るのに、さみしかったね、やっぱり、嫌だったね。
  
 証言者は、明治期に大和町(旧・上沼袋村)で生まれ育っている男性だが、ここに登場している「向かい山」というのは、おそらくこちらでもご紹介ずみの、上空から見ると正円形をした大和町の東隣りにある、野方村丸山と三谷Click!の丘のことだと思われる。とすれば、「小さなお地蔵様」とは、この山の北側麓にある「北向地蔵」のことだろうか。
 白坊主は、各地域によってさまざまな出現のしかたや、その正体の解釈があるが、人を脅かしてはいなくなるという点では共通しており、狐狸譚のようになにか利害がからんで出現することがほとんどないので、妖怪として扱われている。
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 さて、全国各地に出現する多種多様な妖怪たちだが、戦後すぐのころ、そんな日本の「妖怪」たちを海外へ輸出したり、子どものオモチャにする仕事が存在していた。敗戦の直後、日本の主要都市や工業地帯は爆撃で焼け、生産基盤を失った国内では物資不足が深刻だった。あらゆる生活用品が不足しており、その供給は日本を占領していた連合国軍(実質は米軍)の施策や統制に依存していた。
 国家の破滅=「亡国」状況のなか、戦後のハイパーインフレを迅速に抑えて経済を復興させるか、GHQへ建議する経済政策の立案が、日本銀行のブレーンを中心に寝るヒマもなく次々と練られていた。ケインズ経済学が普及していない当時、日本経済を必死で立て直そうとしていたのは経済統制を前提とした施策を立案できる、特高に徹底して弾圧されつづけた大内兵衛Click!らマルクス経済学者たちだったことは、なんとも皮肉なことだ。
 そんな状況のなか、オモチャのない子どもたちに夢を与え、あるいは工業製品にかわって外貨獲得のためにいち早く動きだしたのが、幕末から明治期と同じく陶芸領域の窯元だったのが面白い。しかも、伊万里焼きの窯元が選んだテーマは、「花」でも「ゲイシャ」でも「富士」でもなく、日本で大昔から語り継がれている「妖怪」だったのだ。
 「魔道開珎」シリーズと名づけられた、メンコともコースターともつかない直径6cm前後の焼き物には、ひとつ目小僧やろくろ首、つくも神、化け猫、河童、豆腐小僧、泥田坊、天井なめ、人形、大天狗、入道、ぬっぺらぼう、古狸、海座頭、しゃりこうべ、いそがし、茶運び小僧、ひとつ目小僧など、日本の伝承・伝説に登場する妖怪が網羅されており、眺めているだけでも楽しい仕上がりとなっている。表面には「魔道開珎」と書かれ、おそらく埼玉県秩父で鋳造されていた和同開珎のダジャレだろうが、当時GHQから義務づけられていた「MADE IN OCCUPIED JAPAN(占領下の日本製)」の文字が入っており、明らかに輸出を意識して製造されたものだろう。
 わたしの手もとにあるのは「古狸」(冒頭写真)だが、実際にどれだけ売れたのかはさだかでない。子どもたちがメンコ遊びをするには、陶製なので割れて役に立たないだろうし、外国人には日本の妖怪など意味不明だと思われるのだが、かなりの作品が残っているところをみると、敗戦のウサ晴らしに好事家たちが喜んで集めていたものだろうか。海外でも、たまにオークションなどで見かけるので、欧米人にも日本の妖怪ファンがいたのかもしれない。
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 「珎」(珍しいもの)を「開」く(拓く)という意味で、「魔道」の妖怪たちは世界じゅうの物好きやコレクターたちに蒐集されたのかもしれないが、日本の輸出産品が妖怪メンコ(コースター?)というのも情けないし、国家を滅亡させた「魔道」の妖怪たちの多くが、戦後までそのまま存在が持ちこされ、十分な追及や否定もなされていないのは、さらに情けない。

◆写真上:わたしの手もとにある「魔道開珎」は、千畳敷き返しの「古狸」。
◆写真中上は、江戸期にはサイ(犀)がひそかに棲んでいたといわれる旧・神田上水(神田川)の急流。は、なんだかわからない妖怪()と「天井なめ」()。は、なんだかわからない毛むくじゃらの娘妖怪()と「海座頭」()。
◆写真中下は、「化け猫」()と急須の「つくも神?」()。は、「人魚」()と「火車どくろ?」()。は、「河童」()と「唐傘お化け」()。
◆写真下は、「ひとつ目小僧」()と「河童」()。は、「泥田坊?」()と「天狗」()。は、大雪の下落合の山にはきれいな雪女のお姉さんはいないのだろうか。

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富永哲夫博士による家庭衛生の常識。(4) [気になる下落合]

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 富永哲夫Click!『家庭衛生の常識』Click!(帝國生命保険/1932年)では、室内における照明についても解説している。十分な明るさのない部屋、あるいは照明の光度が適合していない部屋に長時間いると、目が疲れたり視力低下の要因になったり、ときに頭痛やめまいを起こしたりするなど、人体に大きな影響があると認識されていた。
 衛生の面から見ると、照明は次の8つの条件がそろっていれば申し分がないとしている。『家庭衛生の常識』より、理想的な照明の条件を引用してみよう。
 (1)光線の量が充分で而も均等であること
 (2)無色にして太陽光線に近いもの
 (3)光が振動せぬこと
 (4)熱の発生弱く、その放散に於て不快を感ぜざること
 (5)燃焼産物に毒性なく、空気を汚染せざること
 (6)異臭を発せざること
 (7)爆発火災の憂いなきこと
 (8)安価なること
 これらの諸条件を備えた理想的な照明器具は、昭和初期には存在しなかった。当時は、トーマス・エジソンが発明した電球の延長線上にある製品がメインで、蛍光灯さえ発明されたばかりで普及にはほど遠い状態だった。
 昭和初期に売られていた家庭用の電球には、炭素電球、オスミウム電球、タンタラム電球、タングステン電球、オスミン電球、オスラム電球、ガス入り電球などがあったが、それぞれ一長一短で、富永哲夫が推奨する理想的な電球の種類は、さすがに挙げられていない。21世紀の今日では、上記の8つの理想条件を満たす照明として、LED(発光ダイオード)照明が真っ先に挙げられるだろう。
 エジソンが設立した米国のGE(ゼネラル・エレクトリック)社では、住宅における各部屋の照明光度を部屋別に分けて具体的に推奨しており、光度の単位をフィートキャンドル(呎燭光)で表現している。フィートキャンドル(呎燭光)とは、照明の強度を表す単位で、一定の蝋燭の炎から1フィート(呎)離れたところの垂直面、たとえば壁や立っている人物などが受ける照明の強さ(明るさ)を表している。
 また、燭光(キャンドル)とは、米国で標準化された1本の蠟燭に点火したときに出す光量の単位で、こと細かな条件が規定されている。標準蠟燭は、溶融点が55度で直径が23mm、24本の木綿芯(を束ねたもの)を採用した炎の高さが50mmに上がるパラフィン蝋燭で、1時間のパラフィン消費量が7.7gと規定されていた。推奨光量表(下表)を参照すると、もっとも明るくする必要があるとされたのは寝室と浴室、台所で、次いで食事室(食堂)と洗濯室、つづいて書斎と居間、客間などとなっている。
 もっとも光量が少なくていいのは、納戸と玄関とされている。これは当時の米国における家庭生活をベースにしているので、日本のそれとはかなり感覚が異なるのではないだろうか。日本では、もっとも照明を明るくしたいのは居間や台所、書斎、客間あたりではないかと思われるが、米国ではなぜか寝室や浴室の光量を重視していた。1930年代の米国では、寝室で読書をする習慣が根づいていたため、また浴室では身体のどこかに異常がないかどうかを確認し、よく見えるようにするためだったのだろうか。
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 次に照明の方法だが、昭和初期の当時は次の4つの種類があった。
 ①無笠直接照明法
 ②有笠直接照明法
 ③間接照明法
 ④半間接照明法
 現在でも、この4つの照明法は基本的に変わらないが、の電球を裸のまま吊るして点灯しているケースはほとんどまれだろう。物置きや納戸、古い民家のトイレなどに残っているぐらいだろうか。また、の電球に笠をかぶせて用いるのは、昭和初期では一般的に行われていた照明法だが、現在の住宅ではあまり見かけない。
 1960年代になって蛍光灯が普及しはじめると、裸のリング蛍光管の上部に装飾的な笠をかぶせる方法が一般化していった。蛍光灯が安価になると、それまでフィラメントの耐久性が低く頻繁に切れていた電球にかわり、蛍光灯が爆発的に家庭へ普及していくことになる。ちょうど、蛍光灯にかわりLED照明が急激に普及したのと同じような光景だったろう。
 ①②の照明法について、富永哲夫の意見を聞いてみよう。
  
 直接照明法は光を被照面に直接投射して照明を与ふる方法で、その有笠の場合には被照面に対して光を最も有効に利用し得る利益がある。即ち光が被照面に達する途中に於ける損失が少いのである。又他体の影響小なる為、天井、壁等の色並にその距離に大なる関係をもたない。しかも、この装置は廉価で、取扱ひが簡単である外に塵埃の為照明能率を減退することが割合に少いものである。然しながら、輝きが強くて眩暈を感じ易く、直接神経に感ずる場合が多い為に疲労し易く、濃き陰影を与へて仕事の能率を減退すると云ふ不利益がある。/無笠の場合には以上の欠点の外に室の広さ並に色により光の損失が大である。
  
 当時の電球は、今日の白熱球やLED電球に比べたら照明度があまり高くなく、いまから見ればかなり暗く感じるのではないだろうか。それを前提にして文章を読まないと、裸電球に笠をかぶせるメリットが見えてこない。また、今日の白熱球と呼ばれる白い電球ではなく、透明なガラスでフィラメントが直接見える製品が多かったため、その強い光を見つめると「眩暈を感じ易く、直接神経に感ずる」ようになったのだろう。
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 また、の間接照明法は、現在でも住宅のオシャレな居間や寝室、ホテルや旅館の演出などでは採用されているが、一般の住宅では照明効率が悪いため、特別な目的でもない限りは用いられていない。現代の住空間でもっとも多用されているのが、の半間接照明法だ。当時は照明用の器具が高価だったせいか、の照明法を採用するのは住宅建築(特に西洋館)に凝ったおカネに余裕のある家庭が中心だった。
 間接照明法と半間接照明法は、直接光が当たらないため薄暗くなってしまい、それを補うためには装備する電球の数を増やさなければならず、当時は輸入品が多かった照明器具とあわせると不経済で、一般の庶民にはなかなか手が出なかったろう。
 今日では一般的な半間接照明について、同冊子よりつづけて引用してみよう。
  
 半間接照明は間接照明と直接照明とを併用したもので、半透明の反射笠を倒立して、その笠の反射光により先づ天井を照し、天井からの反射する光を以て放照面を照すと同時に、半透明の笠を透過して来る直接光によつても照すものである。これの利益とする処は発光体の強き輝きのため眩輝を感じないことである。従つて視神経の疲労少なく、光が一様に散布せられ、濃き陰影を作ることがないのであるが、これに反して照明能率が甚しく低く、設備に要する費用が大であるのみならず、天井、壁等の色に影響され、掃除を怠ることが出来ない等の欠点がある。然し衛生上より見て半間接照明法は最もよいものと云はなければならぬ。
  
 富永博士の推奨するの半間接照明は、今日ではもっとも多い照明法となっているが、現代の住宅では天井へ直接埋めこむ照明方式も多いので、吊り下げられた照明とは異なり光が天井に反射するまでもなく、そのまま室内に光が拡散されて降りそそぐので、半間接照明というよりは直接的関節照明と表現したほうが適切かもしれない。
 このあと、ドイツの学者ウェーベルおよびブンゼンの初期型光度計について、実験図版とともに解説しているが、家庭における照明と衛生の課題にはほとんど関係ないことなので割愛する。どうやら、富永哲夫はいちいち実証実験をするのが好きだったようなのだ。
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 大正後期から昭和初期にかけて、「自然光」をキャッチフレーズにした電球が何種類か発売されている。東京電気によるマツダ電球Click!などがその代表的な製品だが、従来の画家とは異なり太陽光によるモチーフの陰影をあまり気にしない、シュルレアレズムやアブストラクトの新しい表現者たちは、夜間でも電灯の下で仕事をしていたので、「自然光」を売りにしていた電球製品を選んで、アトリエの天井から吊るしていたのかもしれない。

◆写真上:1960年代まで多かった、裸電球に笠をかぶせた有笠直接照明法。
◆写真中上は、米国のゼネラル・エレクトリック社が推奨した住宅各室の推奨照明度。は、古い日本家屋(和館)に見られる半間接照明法。
◆写真中下は、玄関などに多かった有笠直接照明法。は、古い和館に見られる廊下の雪洞型照明(間接照明法)。は、西洋館のアール・デコな照明器具。
◆写真下は、昭和初期の住宅で見られたさまざまな照明法。は、1925年(大正14)に撮影された中村彝アトリエClick!の照明()と、現在の中村彝アトリエ記念館の照明()。

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下落合を描いた画家たち・西原比呂志。 [気になる下落合]

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 いつか、2002年(平成14)に落合第四小学校が発行した『落四のあゆみ/開校70周年記念誌』Click!という出版物の中に、西原比呂志Click!が描いた『落合翠ヶ丘』と題する縄文時代Click!の生活を表現したとみられる挿画があり、21世紀の現代考古学に照らし合わせると、絵の表現がいまから数万年ほどさかのぼる下落合の旧石器時代Click!暮らした人々Click!のイメージになってしまうと書いた。
 教育機関が発行する記念出版物なので、これからも同様の小冊子をなんらかの記念行事にあわせて刊行する予定があるならば、少なくとも今日の科学的な学術の成果や業績に留意した表現にしてほしいものだ。ついでに、掲載されている写真類にも大きな錯誤があるので、きちんとウラ取りして出典が確認済みの資料を掲載してほしい。
 さて、きょうは西原比呂志が描いた『下落合風景』について取りあげてみたい。西原比呂志というと、わたしの世代では「神州一味噌」を真っ先に思い浮かべる。小島功というと、「♪かっぱっぱ~るんぱっぱ~」の清酒「黄桜」のCMを思い浮かべるように、西原比呂志は「♪神州一神州一~お・み・お・つ・け」という、信州味噌のCMを思いだす。
 ちなみに、この記事を書くまで「神州一味噌」は「信州一味噌」だと思いこんでいた。「信州一」だと広告表現コードにひっかかり、どこかで商品名を「神州一」へと変えたものだろうか。もうひとつ、「おかあさ~ん! ♪お味噌ならハナマルキ」とか、「ひと味ちがいます、♪タケヤ味噌」という信州味噌もあったが、ハナマルキ味噌のおみおつけは記憶にないし、母親が森光子Click!を嫌いだったせいでタケヤ味噌は買わなかったろう。
 子どものころ、たまに「神州一味噌」を使って母親がおみおつけを作ってくれたけれど、たいがいは母親が仕込んだ自家製味噌を使っていたような憶えがある。現在のわたしの家では、国産大豆で無添加の手づくり味噌か、あるいは自家製の味噌が主体で、メジャーな信州味噌はまったく使わなくなってしまった。西原比呂志は、長野県の松本出身であり、それが縁で信州にある味噌会社のキャラクター「み子ちゃん」を描いたのだろう。もっとも、「神州」の味噌なら神主の「巫女ちゃん」Click!になるのかもしれないが。
 また、西原比呂志というと目白駅の「美化同好会」Click!が企画してはじめた、駅のホームをわたる跨線橋へ絵画作品を展示する駅ナカ展覧会で、彼の油彩画が盗まれたことがきっかけとなって中止されたことを想起する。跨線橋に架けられた『浜』(8号)という油絵が盗難に遭ったのは、1964年(昭和39)4月29日のことだった。
 西原比呂志は、川端画学校を卒業した洋画家で、もともとは文展や帝展に出品する作家のひとりだった。大正の早い時期に目白駅近くの丘上、下落合445番地あたりにアトリエをかまえていた熊谷美彦Click!(のち戸塚町に移転)の弟子のひとりだが、途中からタブローではなく、下落合2丁目735番地(現・下落合4丁目)に住んだ高橋五山Click!がはじめた文部省推薦の教育紙芝居の絵や、書籍あるいは絵本の挿画家として活躍しはじめている。戦後も、同様に童話の挿画や紙芝居の絵、書籍の装丁、絵はがき、企業のキャラクターイラストなどがおもな作品であり、本格的なタブローを描くのはめずらしい。
 西原比呂志は、おそらく戦後から下落合2丁目622番地(現・下落合4丁目)で暮らしているとみられるが、この地番は戦前に蕗谷虹児Click!のアトリエが建っていたのと同一地番で、西原比呂志アトリエは蕗谷アトリエの南側にあった広めな庭の敷地一部と、蕗谷アトリエの南隣りだった大きめな谷口邸Click!の北側敷地の一部にまたがって建っていたことになる。また、東隣りの下落合623番地には1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲Click!により焼けるまで、曾宮一念Click!アトリエClick!をかまえていた。
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 西原比呂志の『下落合風景』は、戦後すぐの1946年(昭和21)に制作されたとのことだが、一見してどこを描いたのかがわかる。赤いコートを着たロングヘアの、「み子ちゃん」とはまったく異なるモダンな若い女性が、丘の斜面に通う坂道を上ってきており、画面の左手(女性の目からみれば右手)に見えているコンクリート造りらしい階段を見あげている。季節は晩秋で、モミジの紅葉がかなり進んでいるのがわかる。
 樹木の陰影や光の射し方などから、画家は逆光気味に南の方角を向いて描いており、下落合の坂道としては比較的ゆるやかに左右どちらかへカーブしながら下っている。遠景には、すでに変色しはじめたケヤキらしい3~4本の大樹と、丘の下に拡がる街並み(というか実際には焼け残った工場や住居、焼け跡のバラック群)が描かれており、画家とモデルの女性は眺望のきく、かなり高度のある位置に立っているのがわかる。
 下落合全域(中落合・中井含む)にある東端から西端まで、このような風景の条件にみあう坂道はたった1ヶ所しか存在していない。1946年(昭和21)現在では東側の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)と、西側の東邦生命所有地Click!(旧・相馬孟胤邸敷地Click!/現・区立おとめ山公園Click!)との間に通う坂道だ。この坂道を上りきると、下落合の近衛町Click!の丘上に出ることができ、画面に描かれたコンクリートの急階段を東へ上ると、やはり近衛町の南端(42~43号敷地Click!)に建っていた学習院昭和寮Click!への近道となる。ちなみに1946年(昭和21)の当時は、戦災で焼けてしまった学習院の一部校舎のかわりに、学習院昭和寮の本館Click!が院生たちの教室として使用されていた。
 画面だけ眺めていると、のどかな晩秋の散歩を楽しむ女性を描いたものだが、翌年の1947年(昭和22)に撮影された空中写真でさえ周囲は焼け跡だらけであり、焼け残っている住宅街は近衛町の南側と北側の一部、林泉園Click!の周辺にある東邦電力の社宅群Click!中村彝アトリエClick!周辺のみの、緑が濃い住宅地だけが延焼をまぬがれている。
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 また、丘下の雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)や西武線、あるいは旧・神田上水(1966年より神田川)沿いは、空襲による延焼や防火帯36号江戸川線(建物疎開)Click!の建設により、一部の住宅や工場を除き一面が焼け野原か空き地の状態だった。同画面が描かれた前年なら、いまだ焼け跡にバラックがポツンポツンと見えているような光景だったろう。
 坂道は拡幅工事の前で、左手に見えている学習院昭和寮の土手も、のちに見るコンクリート擁壁の工事がいまだ行われていない。右手の旧・相馬邸の敷地には、近衛町の建設とともに坂道が拓かれた大正期に植えられたものか、画面右上にヒマラヤスギらしい枝の一部が見えている。だが、東邦生命の所有地になってからは御留山全体の手入れが満足になされなかったせいか、右手の雑木林は鬱蒼としているようで、樹木の枝が坂道まではみ出しているのがとらえられている。まさに、現在のおとめ山公園になる以前の、1969年(昭和44)まで「落合秘境」Click!と呼ばれた状態だったのだろう。
 丘上の近衛町に通う坂道中腹の端にイーゼルをすえ、この位置から描いていれば遠景に見えているのは山手線の高田馬場駅とその周辺だったはずだが、絵の具をにじませたようなボンヤリとた風景でしかとらえられていないので眺望の細部は不明だ。ほぼ2号サイズの板をベースに、油絵の具で描かれた『下落合風景』だが、まるで水彩画のようなタッチや筆づかいのように見える。同じく戦後に描かれたとみられる、西原比呂志の『リスボン所見』の油絵の具をたっぷり使った厚塗りの画面と比較すると、まったく別人のような作風でありマチエールだ。それとも、戦後すぐに描かれた『下落合風景』は、手持ちの油絵の具Click!が不足していて薄塗りにせざるをえなかったものか。
 敗戦直後の「落合風景」作品はあまり見かけることがなくめずらしいが、拙サイトでご紹介していたのは松本竣介Click!が疎開先にいる家族あての絵手紙に描いた焼け跡がつづく目白崖線の遠景Click!や、中井駅のホームから上落合側を向いて描いた、上空をグラマンが威嚇飛行する焦土の風景Click!ぐらいだろうか。「落合風景」ではないが、松本竣介は敗戦直後の焼け跡を、おもに赤い絵の具を多用していくつかのタブローに仕上げている。
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 だが、西原比呂志の眼差しは戦争による悲惨な焼け跡風景には向かず、まるで破滅的な戦争などなかったかのように、近衛町の紅葉が進む坂道を散策する若い女性へ向けられているのに、なんとなく時代的な違和感をおぼえてしまうのは、わたしだけだろうか……。

◆写真上:1946年(昭和21)の、敗戦直後に制作された西原比呂志『下落合風景』。
◆写真中上は、「神州一味噌」のパッケージ()とキャラクターの「み子ちゃん」()。は、1941年(昭和16)に日本教育紙芝居協会が制作した絵・西原比呂志による『三平の魂まつり』。は、西原比呂志『妙高冬景』(制作年不詳)。
◆写真中下は、1956年(昭和31)に金の星社から出版された絵・西原比呂志『からすのかんちゃん』の表紙()と裏表紙()。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる『下落合風景』の描画ポイント。は、同描画ポイントの現状(2012年撮影)。画面と同じような位置に、いまでもヒマラヤスギが植えられているのを確認することができる。
◆写真下は、戦後の制作とみられる西原比呂志『リスボン所見』(制作年不詳)。は、西原比呂志『下落合風景』画面の坂道を上る少女と遠景の部分拡大。は、画面左手の階段を上がり日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮)側から御留山方向を見下ろした風景。

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富永哲夫博士による家庭衛生の常識。(3) [気になる下落合]

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 富永哲夫Click!『家庭衛生の常識』Click!(帝國生命保険/1932年)は、庶民が気軽に読めるようできるだけユーモアをまじえて書かれているようだが、博士は非常にマジメで学究肌の性格だったものか、その“笑わせどころ”ですべっているような感覚をおぼえる。衣服と衛生のテーマでも、冗談なのかマジメなのかが不明な記述がある。
 生活に必要な衣服について、人間がすべて裸体のまま暮らせるようになったら、「婦人の心理状態」に大きな変化が起きるだろう……という出だしからはじまっている。衣服と衛生を論じるにあたって、全裸生活での「婦人の心理状態」について触れることが、はたしてどれほどの意味をもつのかは不明だが、気温が30℃ほどあればできないことはないが、日本の(四季のある)気温だと「辛抱できない」だろうなどと書かれている。おそらく、ユーモアのつもりで冗談をいっているようなのだが、ピクリとも笑えないのだ。
 それにつづき、衣服は人間の体温を調節し身体を保護して、ときに外見をよく見せるという重要な役割をになっている……と、当時もいまもありまえのような記述のあと、しかしながら「食ふ物も食はずに着物をもつて飾るのは主客転倒」と、これもいわずもがなのことを書いているので、ひょっとするとこの一文全体を冗談のつもりで書いたのだろうか。
 どこまでが冗談で、どこまでがマジメな文章なのかがわからない、読み手を困惑させるような表現がつづく。あるいは、衣服についてはあまり書くことがないので、規定の原稿枚数を埋めるために「ここらで、少し読者を笑わせてやろう」というような、富永博士の思惑からつまらないことを書いてしまったのだろうか。
 衣服の通気性が悪ければ、体表面と衣服との間の換気がうまくいかず、蒸し暑く感じて不快だ……というような、当時もいまも誰もが周知のことを書きつつ、ようやく医師らしいアドバイスが登場するのは章も終わりに近いあたりだ。同冊子より、引用してみよう。
  
 衣服の湿潤と不潔とは人間に不快を感ぜしめるのみならず、衣服の保温性や通気性を悪くして衛生上よろしくないことは云ふまでもない。即ち常によく洗濯して衣服の性質を良好ならしむべきである。他人の着物を使用するには日光消毒、蒸気消毒或は「フオルマリン」消毒等を行へば完全である。/尚注意を要するは着衣法である。過度の着用と甚しき圧迫を避けなければならぬ。我国の女子が用ひる帯や、欧州婦人の「コルセツト」などは改良を要する所であらう。身体運動を妨げることなく、血液の循環に障碍を来さないやうに注意しなければならぬ。
  
 他人の着物を借りて着るのは、当時としてはめずらしくなかっただろう。街中の古着屋を利用することも多く、また今日のレンタル衣装と同様に、冠婚葬祭では誰かから着物を借用して着ることはふつうに行われていた。ただし、日光消毒(虫干し)やスチーム消毒ならともかく、フォルマリン消毒などをされたらきつい刺激臭が残留し、返却するときに文句をいわれかねなかったのではないだろうか。それに、フォルマリン消毒をした着物から発生するガスで、頭痛や吐き気、結膜炎、鼻炎、気管支炎、肺炎などを誘発しそうだ。長時間にわたり吸いつづければ、めまいや意識障害などを招来しかねない。
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 昭和初期は、まだまだ女性が和服を着る機会が多かったのだろうが、今日では先の冠婚葬祭や正月、成人式、卒業式など特別な機会でもない限り和服は着ないだろう。コルセットにいたっては、コスプレが趣味でもない限り目にすることさえまれだ。また、当時は所有する洋服の数が少なく、今日のように乾燥機もないので、梅雨どきなど洗濯をしてまだ生乾きの状態でも、着替えがないのでやむをえず着て出かけるようなこともあったのだろう。いまでは、ほとんどなくなってしまった衛生課題ばかりだ。
 衣服の保温作用について、繊維素材の性質や織り方などにも触れている。熱の伝導力が低い数値の素材ほど、保温する力が(あたりまえのことだけれど)大きいとし、空気の熱伝導を100とすれば、それぞれ繊維素材の伝導比率は次のようになるとしている。
 ・毛(メリヤス)……127
 ・絹(メリヤス)……172
 ・木綿(メリヤス)…188
 ・麻(メリヤス)……222
 「メリヤス」は繊維の織り方(編み方)のことで、布地の条件を同じにして熱伝導率を比較したものだろう。いうまでもなく、熱伝導率が低く熱が逃げにくいのは毛織物で、もっとも熱が発散しやすく涼しいのは麻布ということになる。
 富永哲夫は服飾の衛生の次に、太陽光による健康への効能を書いている。都市部では、家々が密集して陽当たりが悪く、結核患者などが多かったことから、太陽光線を無条件に肯定し賞賛している。今日のように、その放射線(紫外線など)を長時間にわたり、必要以上に被曝しつづけることによって生じる障害や疾病などについては、いまだ研究が進んでいない時代なので触れられていない。
 太陽光を浴びる健康法について、富永哲夫の注意点は住宅の設計にまでおよんでいる。古い格言の「日光の見舞ふ家には医者来らず」を引用し、日光が多く射しこむ住宅の設計を推奨している。陽射しがあたらない家に住んでいると、精神が沈鬱して徐々に神経過敏となり、消化器官の疾病が起こりやすくなるとしている。また、陽当たりの悪い部屋だと新陳代謝の機能が低下して体調を崩しやすくなり、殺菌力のある日光が少ない家には細菌がよく繁殖して、伝染病をはじめ疾病が発生しやすいとも書いている。
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 そして、住宅建築における日光の採り入れ方を、具体的な設計にまで踏みこんで解説している。南向きに設置された、居間やサンルームを推奨しているのは当然としても、太陽光は時間によっても季節によっても強弱があって移ろうので、おそらく画家などを想定しているのか「寧ろ北面するが利益が多い」と、これまたいわずもがなのことを書いているので、どうやらこの章も原稿のマス目を埋めるのに苦労しているのかもしれない。
 富永哲夫が、衛生技師として住宅設計における具体的な指摘をしているのは、衣服の項目と同様に章も終わり近くになってからだ。同冊子より、再び引用してみよう。
  
 次に注意すべきは窓の大きさである。充分なる光度を得るには窓の大きさは床の面積の五分の一以上でなければならぬ。然しながら八分の一乃至七分の一を以て先づ満足してよいとも云はれて居る。勿論如何に窓が大きくとも若し窓外に光線を遮るものがあれば不充分となることがある。室の一点より窓の上縁に引いた線と同じく、この一点より窓外の遮光物体の上縁を結んだ線となす角を開角と名付ける。この開角の大きさがその点の明るさを支配するものである。室の何れの点に於ても、開角が五度以上あるがよい。又室内の床或は机等の一点に於て、その点と窓の縁を結ぶ線がその平面となす角度を入射角と云ふ。入射角の大なる程光明の度が大である。一般に入射角二八度以上なるをよしとされてゐる。これを大ならしめんとするには窓を高くするか、又は室の奥行を小ならしめなければならぬ。一般に室の奥行は床より窓の上縁までの長さの一倍半以内にすべきものである。
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 この28度の入射角については、隣家を想定した図版を描いて解説しているが、留意すべきは窓掛(カーテンのこと)や障子の有無によって、(あたりまえのことだが)日光が遮られてしまう点だ。障子の場合は、48.5%の日光を遮断し、障子紙が古くなって汚れている場合は70.7%も遮ってしまうとしている。また、カーテンはできるだけ日光を遮らないよう、白色で薄手の木綿繊維を推奨している。
 おそらく、東京市の衛生試験所でいろいろな実証実験をしているのだろう、透明なガラス窓の光量を100%とすると、不透明な磨りガラスでは約75%に落ちてしまうと書いている。また、新しい障子紙では約50%の光量を確保できるが、古い汚れた障子紙では約30%に減衰するとしている。さらに、白いカーテンでは透明な窓ガラスに比べて約20%の光量しかなく、灰色のカーテンにいたっては約10%の光量しか得られないと書いている。
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 でも、今日的な視点で考えてみれば、単純に「光量(光の明度)=太陽光の効用」とはならないだろう。太陽から放射されて地球にとどく紫外線などの放射線の多寡が、殺菌作用や疾病予防など健康維持と密接に結びついている重要なファクターだ。確かに、部屋が明るければ目を悪くする可能性は低くなるし、部屋も温まって健康にはいいかもしれないが、カーテンにしろ障子にしろ磨りガラスにしろ、太陽光のメリットである放射線をどの程度透過させて家内で活用するかが要点であって、光量(明度)の問題とはまた別のテーマだろう。

◆写真上:絹雲がかかる陽光をあびる、秋の落合第四小学校Click!の校舎。
◆写真中上は、大正中期に制作された渡辺ふみ(亀高文子)Click!『キャンバスの女』。は、現代では慶事や祝事などでしか着られなくなった和服。
◆写真中下は、現代でも洗濯物の天日干しはもっとも効果がある衛生的な殺菌法。は、住宅建築における南向きの部屋への太陽光の入射角と窓の位置関係。は、ようやく下落合の深い谷戸にも陽光が降りそそぐようになる初夏のころ。
◆写真下は、下落合310番地の御留山Click!相馬孟胤邸Click!の南東角に設置された居間(サンルーム)。は、庭へ出るドアのついた西洋館の典型的なサンルーム。

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飛行機から「塑画」を制作する田中比左良。 [気になるエトセトラ]

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 田中比左良Click!は1929年(昭和4)7月、飛行機に乗りながら上空から風景をスケッチしたり、「塑画」を描いたりしている。おそらく、空中から風景を描いた(制作した)画家は、彼が嚆矢ではないだろうか。「塑画」とは、粘土や脱脂綿など多彩な“画材”を用いて風景を表現する、今日的にいえば立体のオブジェのようなものだ。
 同年7月8日に、東京朝日新聞の旅客機「義勇号」に搭乗した田中比左良は、東京の羽田飛行場(東京飛行場)から浜松飛行場へ、そこで1泊して翌7月9日には浜松飛行場から甲府飛行場へ、そして甲府飛行場から東京の立川飛行場へと一周してもどってきている。旅客機「義勇号」は、1928年(昭和3)に日比谷に設立された(財)海防義会が東京朝日新聞社に貸与した、「第4義勇号」と「第5義勇号」の2機のことだが、田中比左良がどちらの機に搭乗したのかは手記に書かれていないので不明だ。
 大正の中期ごろから、新聞業界や広告業界では飛行機の活用がスタートしており、1923年(大正12)6月14日に早稲田大学の戸塚球場Click!(のち安部球場)で行われていた、六大学野球の早明戦を上空から撮影した東京朝日新聞社の社機Click!や、1925年(大正14)3月6日に下落合の研心学園(目白学園)Click!の校庭へ、新宿のカフェ「ブラヂル」の宣伝ビラをまいていた飛行機Click!が墜落した事故などをご紹介していた。下落合での宣伝機墜落事故は、幸いパイロットが上唇を切る程度の軽傷で済んでいる。
 さて、東京朝日新聞の「義勇号」へ搭乗する直前に撮影された田中比左良夫妻の写真Click!が残っているが、彼が手にしている石のようなものは、立体の「塑画」(彼自身は「漫塑」と呼んでいる)を制作するための粘土だ。同時に、絵の具や絵筆、スケッチブック、脱脂綿なども機内に持ちこんでいる。もちろん、田中比左良夫妻は飛行機に乗るのは初めてで、当初は緊張していたようだが羽田飛行場を離陸してしまってからは、「壮快この上無い」「こんな痛快は無い」気分になったようだ。
 地上は真夏の炎暑だったが、上空800mはワイシャツ姿でちょうどいい春のような気温で、窓から武蔵野の風景を眺めては感嘆している。また、静かな機内は意外に広く、座席のソファやクッションも快適で制作にはまったく不自由を感じなかった。
 その時の様子を、1929年(昭和4)に長崎村字新井1832番地(のち長崎町1832番地=現・目白5丁目)の中央美術社Click!から出版された田中比左良『女性美建立』収録の、「空中比左軀離蹴(くうちゅうひざくりげ)」から引用してみよう。
  
 ものを直角に俯瞰すると、どうしてこんなに綺麗に見へるのか不思議でならない、これは飛行機を経験する者だけが味ふ不思議な自然美だ。清水焼の小家を青い玉衝台の上に整列させたやうな田園都市、碁盤を油拭きしたやうな耕地整理の水田、立琴を横たへたやうな大船あたりの鉄道線路。寸馬豆人といふが先刻飛行場で見送つてくれた多数の群集はゴマ塩を振り撒いたやうだつたが八百米も上るともう人も馬も見へない。(中略) 飛行機を下から仰ぐと実にセゝコマしく走るのだが飛行機に乗つて見ると実に悠々たるもので大自然の大パノラマをいと鷹揚に迎へ送るのである。とても急行列車の三倍もの速力とは感じられない。/普通の飛行機と違つて旅客飛行機だから贅沢な四人分の座席があつてワイシヤツ一枚でゆつたりとクツシヨンにもたれながら綺麗な房付カーテンのヒラヒラ舞ふグラス窓から一種の優越感を感じながら下界を睥睨した気持は全く好い気なもんです。/これなら飛行中粘土細工でも可なり細密なスケツチでも自由である。
  
 ただし、ときどき起きるエアポケットの急降下には肝を冷やしたようで、機体が落下する間はめまいのような不快を感じ、絵を描く気にはなれなかったらしい。
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 最初に粘土を手にしたのは、小田原から伊東にかけての相模湾上空だった。「大理石磐」のような海上に、蒸気船が深々とした航跡を残して進み、その横に搭乗している旅客機の影が映っていた。つづいて、箱根から芦ノ湖上空に差しかかるが、この上空では気流の乱れからか大きく揺れ、エアポケットの連続で機体がしばしば瞬間的に10m前後落下している。伊東から沼津へ抜ける、伊豆半島のつけ根にある冷川峠あたりで、再び粘土を手にした田中比左良は、箱根連山を通る白い道路と芦ノ湖をモチーフに制作している。
 次に、刻々と近づく富士山をモチーフに、これが本命とばかり粘土で立体をイメージしなが制作している。田中比左良は、富士山を「投網をバーツ!と打ち拡げて一寸と引いてみて糸の括りが聊(いささ)か持ち上がつたゞけの山であつた」と観察している。そして、広重Click!北斎Click!は富士の裾野の一部だけしか見わたせない時代に生れた不幸せで、富士山をせせこましくそそり立たせてしまったと書いている。ただし、上空から眺める富士山のフォルムと、浮世絵の富士山とどちらが美しいかは返答に困るとしている。
 つづいて、駿河湾上空に差しかかると、御殿場あたりから富士川にかけての眺めを粘土で制作している。富士山の周囲には、やはり気温の急激な変動から雲が多かったらしく、画面には持参した脱脂綿を多く貼りつけている。完成した「塑画」の写真は、モノクロで4点しか掲載されていないが、それで持参した粘土が尽きたものだろうか。モノクロだと質感や色合いが不明なので、「塑画」をカラーで観てみたいものだ。
 「塑画」制作の合い間に、田中比左良はもちろんスケッチブックも拡げている。そこでは、上空から見た関東から東海にかけての太平洋沿いの街々を、漫画家の目でいろいろな形象に置きかえてはユーモラスに描いている。「高空から見た都市の怪奇」と題して、横浜市=兜、小田原市=舞楽の冠、三島町=ピストル、網代町=スポーツ帽、清水市=馬の顔、静岡市=鶴が鵬翼を広げた形、掛川町=ワニ、浜松市=カンガルーといった具合だ。なぜ、各町を比喩的に“見立て”スケッチしているのかは不明だが、著者が面白がるほどそれを見せられている側はあまり面白くない。
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 さて、浜松飛行場に着陸した「義勇号」は、ここで燃料補給と機体整備のためにいったん格納庫へ入り、田中比左良たちは飛行場の宿泊施設で1泊することになった。そこで、旅客機「義勇号」を操縦してきたパイロットのふたりとゆっくり話す機会があり、いまだ20代だった彼らの沈着冷静ぶりにことのほか感心している。その飛行服姿は、「凡(あら)ゆるスポーツマンの中一等イキなスタイルだらう」と褒めているが、当時、飛行機の操縦がスポーツの一種だと認識されていたかどうかは疑わしい。パイロットは専門技術職ではあっても、スポーツマンとは当時も認識されていなかったろう。一部の海洋横断飛行をする冒険家たちは、そう見られていたかもしれないが……。
 翌7月9日は、浜松飛行場を発ち途中で甲府飛行場を中継したあと、東京の立川飛行場へと帰る予定になっていた。その帰途、田中比左良は飛行機から見る風景美についていろいろ思いをめぐらしている。同書より、再び引用してみよう。
  
 飛行機から俯瞰した大自然は何んのことはない模型地図さながらである。布色のより鮮麗な細工のより繊巧な絶対正確な模型地図と思つたらいゝ。飛行機の眼からは、もう皆小綺麗である、大自然の物々を玩具の可憐に仕立ゝしまふ、だから平凡な鉄橋一本でも山一個でも畑一面でも小可愛ゆく愛玩が出来るのだ。僕のいはゆる飛行機風景といふのは其処から生れるのだ、飛行機の自然愛は万象ほ懐裡に捲込んでその一つ一つを指先で弄り遊ぶ愛し方である、これが飛行機風景で一ぺん乗つて見た人で無いとこれは解らん。それにつけても、物象を直下に眺めると不思議な可憐美が湧くことはものゝ不思議である、山に登つて斜に眺めてはもう駄目である。これはひよつとすると、足に絡みついて直角に仰ぎ笑んだ我児の顔を真上から見下した時の我児可愛い気持に通ずるかも知れない、などゝも思つたがこの比喩は当つてゐないかも知れんが、こいつ不思議な美の認識である。
  
 飛行機を下りたとたん、エアポケットの苦痛や墜落の不安はすっかり忘れてしまうと、田中比左良は書く。ふたりのパイロットは彼に、「飛行機ととふものは周到な注意を怠らず冒険さへしなかつたら絶対安全なものだ」と語っているが、彼が立川飛行場へ降り立ったわずか5日後、同飛行場では陸軍の重爆撃機による悲惨な事故が発生している。
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 同年7月14日、浜松飛行第7連隊の八七式重爆撃機が立川飛行場近くで墜落し、陸軍少将の小川恒三郎を含め搭乗員の8名全員が死亡するという大事故だった。だが、その前日には、83歳の老婆が大阪から東京へ旅客機で飛行し、飛行機の乗客最年長記録を更新している。昭和初期、一般の老婆や画家も飛行機に乗れる航空機時代の幕開けだった。

◆写真上:1934年(昭和9)に撮影された、羽田飛行場(東京飛行場)の送迎デッキ。背後に見えるサークルは、飛行機の羅針儀修正台だと思われる。
◆写真中上:同じく1934年(昭和9)現在の羽田飛行場の風景で、日本航空輸送の格納庫()、旅客機への乗客搭乗風景()、当時の旅客機内の座席()。
◆写真中下:粘土や絵の具、脱脂綿などを用いた立体「塑画」作品で、からへ相模湾の航跡と機影、箱根連山と芦ノ湖、富士山、御殿場風景。
◆写真下は、(財)海防義会が東京朝日新聞社に貸与した2機の「義勇号」。は、眼下の街々をなにかに見立てた飛行機漫画。は、1929年(昭和4)7月14日に立川飛行場近くの陸稲畑に墜落し8名全員が死亡した陸軍重爆撃機の事故現場。

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富永哲夫博士による家庭衛生の常識。(2) [気になる下落合]

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 飲料水について、富永哲夫Click!はかなりの紙幅を割いている。もちろん、東京の市街地には上水道が普及していたが、旧市街の山(乃)手Click!や郊外では井戸水の使用が多く、伝染病の発生源となっていたためだ。また、乃手でも水道水より井戸水が清廉で美味しく感じる地域では、あえて水道Click!を引かずに井戸水を好んで用いていたところも多い。下落合では、1928年(昭和3)に荒玉水道Click!が通水していたにもかかわらず、1960年代まで美味しい井戸水を生活水として常用していた家庭が多くみられる。
 富永哲夫が勤務する東京市衛生試験所には、東京各地の井戸水がもちこまれ、住民たちから安全性を満たしているかどうかの試験を依頼されている。したがって、彼の『家庭衛生の常識』Click!(帝國生命保険健康増進部/1932年)では、市街地で普及している水道水はほとんど取りあげられておらず、井戸水の安全性についての解説がメインだ。
 富永哲夫の勤務先へ、クルマから下りた紳士と運転手が1升壜を4本下げて受付に現れた。同冊子より、そりときの様子を引用してみよう。
  
 夏の或る日、東京市衛生試験所の入口に自動車が一台止まつた。一人の紳士が中から現はれた。両手に一本づゝの一升壜をさげてゐる。つゞいて運転手も亦二本の一升壜を運んだ。受付に都合四本の一升壜を並べて云つた。/「この四本の飲用水の飲用適否の試験をして頂き度いのですが」/この紳士は直ちに掘井水係の前に案内せられた。/係「この水の所在地は?」/紳「K町六,六四一番地です」/係「四本とも同番地にありますか?」/紳「さうです」/係「同番地に四つの掘井戸があるのですか」/この紳士の語る所によれば、郊外のK町にこの紳士が住宅を建てる計画をして居るのである。上水道がない為め飲料水に関して不安を感じてゐるのである。そこで四方隣の家を訪ねて井戸の模様を聞くに、何れも九米の深さで、水量は充分であると云ふ。その中央の土地に井戸を掘れば同様の水が出るだらうと考へて、四方隣の水を貰い受けて検査を要求したのであつた。
  
 このような光景は、戦前のみならず戦後も東京の各地で見られただろう。特に東京の西部では、人口の急増にともない上水道の敷設が間にあわず、ずいぶんあとの時代まで井戸水が活用されていた。また、水道水の需要急増により、水不足が深刻化して井戸水を使わざるをえなかった家庭も多い。深刻な水不足がつづき、断続的に断水が起きていた東京西部では、1970年代に入ると神奈川県の相模川水系から援助給水Click!を受けるようになった。
 富永哲夫は、飲料水に適する水として4つの条件を挙げている。
 ①疾病の媒介をするような、病原菌をいっさい含まないこと。
 ②ヒ素や亜鉛、銅などの有害金属を含有していないこと。
 ③硬水ではなく、軟水であること。
 ④クロールや硫酸、亜硝酸、アンモニアなどに土壌が汚染されていないこと。
 は、日常的に市内のどこかで当時は発生していた赤痢や腸チフス、パラチフス、ときにコレラなどを防止するのに必要な条件だったろう。非病原性細菌(たとえば体内にいる腸内細菌など)は、多少含まれていてもやむをえないが伝染病菌の含有は許されないので、特に下水溝や下水溜まり、便所などに近い井戸水は危険性が高いとしている。については当然の留意点だが、昭和初期には住宅街の中にも有害金属を扱う町工場や作業場が多く、土壌が汚染されるケースも見られたのだろう。
 ちなみに、画家の絵の具には非常に危険な金属類が含まれており、金山平三Click!のように気に入らない作品を、庭先の焚き火へ定期的に大量にくべたりすると、庭の土壌を汚染して危険な土地になってしまうが、井戸ではなく水道を利用するぶんには問題ない。
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 の軟水を推奨するのは、硬水に含まれるミネラル分により、腎臓結石や膀胱結石、胆石などを発症しやすくなるためだ。また、石鹸の泡立ちが悪くなったり、煮豆の味を悪くしたり、肌荒れや下痢を起こしやすくなったりと、富永哲夫の指摘はけっこう細かい。もっとも、日本の水は北から南までほとんどが軟水なので、彼の心配は杞憂だったのかもしれない。ことに首都圏は、富士山の火山灰(ローム)によって濾過された軟水で、わたしも何度か飲んだ経験があるが、井戸水は清廉で甘くやわらかな風味で美味しい。
 の条件は、富永哲夫がこの文章を書いた当時、かなりリアルで深刻な課題だったろう。先述したように、当時の東京市では町工場が住宅地に接して建ち、有害な金属ばかりでなく化学薬品を扱う事業所も少なくなかった。そのような土地では土壌が薬物によって汚染され、それが地下水にまぎれて井戸水を汚染する事例が相次いでいただろう。富永哲夫が真っ先に書いている「クロール」とは塩素(Cl)のことで、これらの薬品を日々微量でも摂取していると、発がん性が高まったり内臓疾患を起こしやすくなる。
 のような事例は要注意だが、少しぐらい井戸水が汚れていても、きれいにすれば活用できるケースも紹介している。たとえば、井戸水に鉄分が多く含まれていた場合は、「気曝法」によって簡単に除去できるとしている。鉄分の多い水とは、山砂鉄や川砂鉄が堆積している地層に、井戸を掘り下げてしまったようなケースだろう。
 汲みだしたばかりの水は無色透明だが、時間がたつと酸化して赤褐色になり、お茶を煎れても紫黒色でまずく、洗濯物にも色がついて不愉快だ……と、ここでも富永哲夫は当時の主婦目線で解説している。「気曝法」とは、水を1m以上の高所から霧状に撒布し、空気中の酸素との反応で酸化させ、沈殿した酸化鉄の上澄みの水を利用すればなんら問題はないとしている。だけど、こんな面倒な装置をどうやって造るのかがいちばんの課題で、これを読んだ当時の主婦は「手間のかかることを……」とつぶやいたかもしれない。
 次に、濁りのある水を清水にする、「溷濁(こんだく)の除去法」というのも紹介している。これは、今日の浄水器でも見られる濾過式の方法で、「家庭に於ける簡単なる濾過器は図の如く」すぐにできると書いている。でも、この図版をひと目見た当時の忙しい主婦は、「まったく、手間のかかることを……」とつぶやいたかもしれない。
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 以上のような方法でも、どうしても水の濁りがとれない場合には、水1リットルに対し0.5gの割合で明礬(ミョウバン=硫酸カリウムアルミニウム)を加えれば、水が澄んできれいになると書いている。だが、ミョウバンの日常的な摂取は、アルツハイマー病発症の引き金になるといわれて久しいので、今日では推奨できない方法だろう。
 また、富永哲夫というか東京市衛生試験所がもっとも推薦するのは、「クロール石灰消毒法」と呼ばれる方法だ。同冊子より、再び引用してみよう。
  
 この方法は水の消毒法の中にて最も完全にして容易、しかも経済的な方法である。「クロール」石灰<晒粉(さらしこ)>を使用するには水一立法米<五石五斗>に対して晒粉五瓦(グラム)の割合に投入するものである。投入後三十分にて完全に殺菌され、その後約六-十二時間は有効である。家庭に於ては午前九時、午後九時の二回井戸に投入すれば安全である。晒粉は軽くて水に呼(う)き易いもので、又溶けにくいから予め水を少し加へ糊状となして投入するが適当である。尚この消毒法に関して次の表並に注意を参照されたい。これは東京市衛生試験所に於て腸「チフス」又は赤痢等の伝染病の発生した家庭、或はその付近の家庭に対して推奨してゐるものである。(カッコ内引用者註)
  
 「クロール石灰」は晒粉と書かれているが、塩化カルキまたは漂白剤、あるいは次亜塩素酸カルシウムと呼ばれる薬品だ。いわゆるプールなどの「カルキ臭い」水は、この薬品を多く含んでいることになる。これも日常的に接していると、粘膜の炎症や肌荒れを起こすことで知られているし、家庭での貯蔵は有毒な塩素ガスが発生しないよう、取り扱いには細心の注意が必要だろう。
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 そのほか、硬水を軟水に変えるには、重曹か炭酸ソーダを加えるのが確実だとしている。煮豆に重曹を加えてじっくり待てば、よく煮えてやわらかくなるのと一緒だよ……と、これも家庭向けに書いているようなのだが、そんなたとえを聞いた当時の多忙な主婦は、「いちいち、手間のかかることを……」とつぶやいたかもしれない。いまでは、日本の水は一部の硬度が高い地域はあるものの、ほとんどは基本的に軟水だと判明しているが、当時はいまだ調査研究がいきとどかず、どこかに硬水もあるかもしれない思われていたのだろうか。

◆写真上:ネコも喜ぶ鉄板日向ぼっこが快適な、中村彝Click!アトリエ記念館の井戸。
◆写真中上は、近ごろ都内各地で見かける防災井戸。は、湧水型井戸に多い宗像三女神の1柱イチキシマヒメ(のちに弁財天と習合)を奉る目白豊坂の社。は、下落合5丁目2069番地(現・中井1丁目)の「もぐら横丁」Click!に残る井戸。
◆写真中下は、富永哲夫が推奨する家庭で「簡単」にできる井戸水濾器。は、下落合1丁目435番地(現・下落合3丁目)の舟橋聖一邸跡Click!に掘られた井戸。は、鬼子母神村の清土にある鬼子母神出現の井戸(現・目白台2丁目)。
◆写真下は、井戸水を消毒するための東京市衛生試験所が定めた「クローム石灰」(晒粉)使用表。は、本郷菊坂の樋口一葉邸跡に残った使われつづける井戸。
おまけ
 雪がニガ手な夏男なので、これはダメでしょ。カンベンしてほしい下落合風景なのだ。
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菅原安男のモデルになった大江賢次。 [気になるエトセトラ]

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 大江賢次Click!がモデルになったのは、武者小路実篤Click!のもとで岸田劉生Click!が描いた戯画Click!や、東京朝日新聞社が主催した岡本一平Click!の似顔絵マンガばかりではない。戦後、彫刻家で東京藝大教授だった菅原安男が、新制作展へ出品する作品のモデルも引きうけている。もちろん、自分のアゴにコンプレックスを抱いていた彼は、モデルになることには消極的だったが、年齢を重ねるうちに容貌への嫌悪感はかなり薄まり、張りだしたアゴに愛着さえおぼえはじめていた。
 戦後の大江賢次は、江古田(えごた)の自宅で創作に打ちこむ日々がつづいており、顔貌にはあまり頓着しなくなっていたようだ。菅原安男と大江賢次の子どもが、たまたま学校の同級だったころということだから、おそらく1950年代半ばあたりだろうか。ふたりは、子どもの親同士ということで会ったらしいが、ふたりの年齢も同じだった。そのときの様子を、1958年(昭和33)に新制社から出版された大江賢次『アゴ傳』から引用してみよう。
  
 そのころ、子供が同級のよしみで彫刻家の菅原安男と会つた。彼は挨拶もそこそこに、私の顔をジッと見入って、/「すみませんが、その顔、モデルになつてもらえませんか?」と、せきこむようにきりだした。/さいしよこの申し出をきくと、なんだかからかわれているような気がして、/「冗談でしよう、こんな顔――」/「いや、その顔だからいいんです!」と、彼は無造作に私への懸念などは意に介しない率直さでいうと、コクリとひとりでうなずいてから、どうしてなかなかコクのある、一丁いける顔ですよ。こりやいい、ことにそのアゴが気に入つた。そんじよそこらにザラにある顔じやありません」/この芸大の先生は、ひとの思惑などにこだわつていられない性急さで、はやモデルときめたものかしきりに右見左見しはじめた。ちよつと癇にさわつたが、そのじつ内心は意外にも淡いよろこびがたぎりはじめ、照れながら、/「本気に怒りますよ」とは云つたものの、その気はなかつた。
  
 菅原安男は、大江賢次の顔に「孤独と抵抗(レジスタンス)の渦まき」を見たといい、江古田の中野療養所(旧・江古田結核療養所)Click!の近くにあるアトリエへきてくれるよう誘った。ひょっとすると菅原安男は、戦前に何度も特高Click!に検挙され、服役を繰り返していた彼の来歴を知っていたのかもしれない。真夏の暑い盛りに、大江賢次は自転車に乗って菅原アトリエへ通いはじめている。療養所の森から、セミがしきりに鳴いていた。
 汗だくで粘土をこねては、菅原安男は彫刻台の鉄棒へなすりつけ、それまでの人なつっこいニコニコ顔が消え失せ、まるで金剛力士像Click!のような憤怒の形相に変貌したようだ。大江賢次も、身じろぎをしないでジッとしていると汗だくになった。初日は3時間で終わったが、大江賢次は体力的にかなりまいったようだ。モデルを終えると、菅原夫人が冷たいビールを用意して待っていた。
 菅原安男は、制作しはじめた当初はアゴのかたちに惹かれていたが、しだいにアゴと釣りあう顔全体の表現に傾注するようになった。日々モデルを重ねるうちに、彫刻の表情はクルクルめまぐるしく変わっていったようで、ある日は傲岸でなにものかを睥睨しているような表情だったかと思うと、ある日は焦燥感が面影にただよい、またある日は絶望と抵抗とがその顔から読みとれるような表情に変わっていった。大江賢次は、彫刻家の眼差しにすべてを見透かされているような、空恐ろしさをおぼえはじめている。
江古田の森1.JPG
江古田の森2.JPG
 大江賢次は、すでに完成レベルに達している自身の彫像を眺めたが、菅原安男はまだ「不必要なものが沢山ある」といっては、鉄ベラを置こうとはしなかった。大江は、もうこれで十分だと思っているのに、菅原はこれ以上に手を入れると失敗作になるというギリギリのところまで仕事をすると、いちおう念のために石膏にとっておき、再びどこまで攻められるかを試すように、鉄ベラで粘土をこそぎとりつづけた。
 モデルと格闘する彫刻家を見て、大江賢次はこんな感想を抱いている。
  
 彫刻家は、作家などにくらべるとさらに重労働である。ついに二人とも半裸になる。流汗淋漓、菅原安男の表情や動作の方がよほど鎌倉期的なモデルだ。つくづくダイナミックで豪快だと思う。作家は出版資本を通じて大衆へ接するが、美術家はおおむね個人との交渉だから、いいこともあろうがイヤなことも多いにちがいない。作品が個人の私有に帰するばかりではなくて、むしろ公有で民衆に観賞されるような社会機構に、はやくなってほしいものである。成りあがりものの重役や、思いあがつた官僚たちを顧客にして、イヤイヤながら理不尽な注文に従うかれらの苦しみは、やはり作家の私たちにも通じるものをもつているが……私は自分が作家であつて助かつた。彫刻家だつたら、とても自由に「彫り下ろし」は出来つこないだろう。そのためにも、私というモデルは彼にとつて金にならないのだから、純粋な芸術家どうしの扶けあいで、せめてモデルを贅沢に使わせてやりたい。
  
 念のために石膏型をとったあとも、菅原安男の執拗な鉄ベラは止まらず、作品はみるみる変貌をつづけていった。大江賢次の顔を写したリアリズムは消え失せ、別の男の顔が額からアゴへの気魄をみなぎらせていた。50歳で白髪の菅原安男は、作品の完成を見きわめると大江賢次と抱きあって喜んだ。そして、作品をブロンズに鋳造すると、『大江賢次像』は秋の新制作展へ出品された。
大江賢次とピース.jpg
中野療養所跡.JPG
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 この時点で、大江賢次は自分の首が、というかアゴが人前で見世物になるのが恥ずかしく、家族にも見にいってほしくなかった。だが、菅原安男から招待券がとどき、ひで夫人Click!と子どもたちは喜んで出かけていった。子どもたちの「見た見た、お父ちゃんよかズッと綺麗だい」、「みんなが前から横から、いろいろ見ていたわ」、「そんなにアゴ気にならなかつたね、お母さん……?」という感想を聞いて、ようやく展覧会場へいく気になった。江古田から、愛用の「カマキリ号」(自転車)で上野の美術館へたどり着くと、まず水を1杯飲んで心を落ち着け、できるだけ目立たないようアゴを引いて会場に入った。
 自分の彫像の前には人だかりができており、その傍らを冷淡を装った足どりで通りすぎた。そして、陳列の端までいき着くと、あわててハンカチで汗をぬぐった。自分の首を鑑賞している人々の中から、小学生が手をのばしてアゴに触ると、つい「無礼者!」と叫びたくなったようだ。そして、再び『大江賢次像』の前を何気なく通りすぎた。そして、三度めの正直で作品の前に立ち止まると、しげしげと自分の首を鑑賞しはじめた。
 ふと気づくと、自分のまわりに人だかりができ、彫刻作品と大江賢次の顔を交互に見比べていた。彼はすっかりドギマギしてしまい、展覧会場を急いで抜けだすと、再び「カマキリ号」に乗り江古田のわが家をめざしてこぎだした。
  
 どちらにしても、ブロンズのアゴよ、お前はどんな隅つこに埃をかぶつていようとも、やがてきつとかならず接触せずにはいないだろう……ヒタヒタと押寄せる、新しい大気のよろこばしい訪れを。おお、私のひんまがつた分身よ、そのフレッシュなそよ風はお前の主人公たちが吸つたよどんだ空気とはちがつて、もうなにものにも卑屈にならないですむところの、「万人の解放された自由な」香しい空気なのだ。いま、私は本郷の坂をあえぎあえぎペダルをふんでいる。ああ、まあ、なんというにごつたいちめんの空気! しかしブロンズのアゴよ、日ごと日ごとに空気はにごりにごつた末に、いつの日か――ごく近い嵐の暁に――空気はふたたぴ、生れ変つたみたいに清澄になりまさるにちがいないのだ。
  
 大江賢次は、民主主義の進捗のなかでこう記したが、「嵐」がやってきて空気が「生れ変つたみたいに清澄」になることはなかった。革命は、あらかじめ失われていたのだ。
菅原安男「金龍」1978風雷神門.jpg 菅原安男「天龍」1978.jpg
浅草寺境内.jpg
 文中に書かれた、「お前の主人公たち」の代表格だった山守りの娘・小雪(『絶唱』/1958年)のモデルは、故郷の鳥取で結婚をひかえた地主の娘が、結核に罹患して入院していた療養所で急死したエピソードがベースになっていたようだ。娘を哀れに思った親が、遺体に花嫁衣装を着せ髪を文金高島田に結って、病院から俥(じんりき)で「退院」させたのを彼は目撃したらしい。大江賢次の文章が映像的Click!なのは、このような目撃情報を正確に記憶する観察力と、それを鮮やかかつ的確に再現する筆力に優れていたからだろう。

◆写真上:ご機嫌の大江賢次と、菅原安男が制作した彫刻『大江賢次像』。口内の歯列がのぞいており、歯科医を悩ませた「反対咬合」(下歯が上歯を覆う)の様子がわかる。
◆写真中上:中野療養所(江古田結核療養所)跡にできた、中野区立の現・江古田の森公園。同公園内は、縄文時代から中世にかけての遺跡・旧跡だらけだ。真夏の菅原安男アトリエで、汗だくになりながら聞いていたセミ時雨はこの樹林からのものだ。
◆写真中下は、「金ピース」を美味そうに吸う晩年に近いころの大江賢次。は、中野療養所跡の現状。は、冒頭写真に写る菅原安男『大江賢次像』の拡大。
◆写真下は、浅草寺の風雷神門(通称:雷門)へ1978年(昭和53)に安置された菅原安男の制作による『金龍』像()と『天龍』像()。628年創建の浅草寺1350周年を記念した両像建立と思われ、平櫛田中の作とする資料もあるが彼はあくまでも“監修”で、実際に制作したのは2体とも菅原安男だ。は、2011年(平成23)以前に撮影した浅草寺境内。この直後、東日本大震災の強震で画面に写っている五重塔の宝珠と水煙が落下Click!した。

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