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富永哲夫博士による家庭衛生の常識。(2) [気になる下落合]

中村彝アトリエ井戸.JPG
 飲料水について、富永哲夫Click!はかなりの紙幅を割いている。もちろん、東京の市街地には上水道が普及していたが、旧市街の山(乃)手Click!や郊外では井戸水の使用が多く、伝染病の発生源となっていたためだ。また、乃手でも水道水より井戸水が清廉で美味しく感じる地域では、あえて水道Click!を引かずに井戸水を好んで用いていたところも多い。下落合では、1928年(昭和3)に荒玉水道Click!が通水していたにもかかわらず、1960年代まで美味しい井戸水を生活水として常用していた家庭が多くみられる。
 富永哲夫が勤務する東京市衛生試験所には、東京各地の井戸水がもちこまれ、住民たちから安全性を満たしているかどうかの試験を依頼されている。したがって、彼の『家庭衛生の常識』Click!(帝國生命保険健康増進部/1932年)では、市街地で普及している水道水はほとんど取りあげられておらず、井戸水の安全性についての解説がメインだ。
 富永哲夫の勤務先へ、クルマから下りた紳士と運転手が1升壜を4本下げて受付に現れた。同冊子より、そりときの様子を引用してみよう。
  
 夏の或る日、東京市衛生試験所の入口に自動車が一台止まつた。一人の紳士が中から現はれた。両手に一本づゝの一升壜をさげてゐる。つゞいて運転手も亦二本の一升壜を運んだ。受付に都合四本の一升壜を並べて云つた。/「この四本の飲用水の飲用適否の試験をして頂き度いのですが」/この紳士は直ちに掘井水係の前に案内せられた。/係「この水の所在地は?」/紳「K町六,六四一番地です」/係「四本とも同番地にありますか?」/紳「さうです」/係「同番地に四つの掘井戸があるのですか」/この紳士の語る所によれば、郊外のK町にこの紳士が住宅を建てる計画をして居るのである。上水道がない為め飲料水に関して不安を感じてゐるのである。そこで四方隣の家を訪ねて井戸の模様を聞くに、何れも九米の深さで、水量は充分であると云ふ。その中央の土地に井戸を掘れば同様の水が出るだらうと考へて、四方隣の水を貰い受けて検査を要求したのであつた。
  
 このような光景は、戦前のみならず戦後も東京の各地で見られただろう。特に東京の西部では、人口の急増にともない上水道の敷設が間にあわず、ずいぶんあとの時代まで井戸水が活用されていた。また、水道水の需要急増により、水不足が深刻化して井戸水を使わざるをえなかった家庭も多い。深刻な水不足がつづき、断続的に断水が起きていた東京西部では、1970年代に入ると神奈川県の相模川水系から援助給水Click!を受けるようになった。
 富永哲夫は、飲料水に適する水として4つの条件を挙げている。
 ①疾病の媒介をするような、病原菌をいっさい含まないこと。
 ②ヒ素や亜鉛、銅などの有害金属を含有していないこと。
 ③硬水ではなく、軟水であること。
 ④クロールや硫酸、亜硝酸、アンモニアなどに土壌が汚染されていないこと。
 は、日常的に市内のどこかで当時は発生していた赤痢や腸チフス、パラチフス、ときにコレラなどを防止するのに必要な条件だったろう。非病原性細菌(たとえば体内にいる腸内細菌など)は、多少含まれていてもやむをえないが伝染病菌の含有は許されないので、特に下水溝や下水溜まり、便所などに近い井戸水は危険性が高いとしている。については当然の留意点だが、昭和初期には住宅街の中にも有害金属を扱う町工場や作業場が多く、土壌が汚染されるケースも見られたのだろう。
 ちなみに、画家の絵の具には非常に危険な金属類が含まれており、金山平三Click!のように気に入らない作品を、庭先の焚き火へ定期的に大量にくべたりすると、庭の土壌を汚染して危険な土地になってしまうが、井戸ではなく水道を利用するぶんには問題ない。
防災井戸.JPG
目白豊坂市来嶋社.JPG
もぐら横丁井戸.JPG
 の軟水を推奨するのは、硬水に含まれるミネラル分により、腎臓結石や膀胱結石、胆石などを発症しやすくなるためだ。また、石鹸の泡立ちが悪くなったり、煮豆の味を悪くしたり、肌荒れや下痢を起こしやすくなったりと、富永哲夫の指摘はけっこう細かい。もっとも、日本の水は北から南までほとんどが軟水なので、彼の心配は杞憂だったのかもしれない。ことに首都圏は、富士山の火山灰(ローム)によって濾過された軟水で、わたしも何度か飲んだ経験があるが、井戸水は清廉で甘くやわらかな風味で美味しい。
 の条件は、富永哲夫がこの文章を書いた当時、かなりリアルで深刻な課題だったろう。先述したように、当時の東京市では町工場が住宅地に接して建ち、有害な金属ばかりでなく化学薬品を扱う事業所も少なくなかった。そのような土地では土壌が薬物によって汚染され、それが地下水にまぎれて井戸水を汚染する事例が相次いでいただろう。富永哲夫が真っ先に書いている「クロール」とは塩素(Cl)のことで、これらの薬品を日々微量でも摂取していると、発がん性が高まったり内臓疾患を起こしやすくなる。
 のような事例は要注意だが、少しぐらい井戸水が汚れていても、きれいにすれば活用できるケースも紹介している。たとえば、井戸水に鉄分が多く含まれていた場合は、「気曝法」によって簡単に除去できるとしている。鉄分の多い水とは、山砂鉄や川砂鉄が堆積している地層に、井戸を掘り下げてしまったようなケースだろう。
 汲みだしたばかりの水は無色透明だが、時間がたつと酸化して赤褐色になり、お茶を煎れても紫黒色でまずく、洗濯物にも色がついて不愉快だ……と、ここでも富永哲夫は当時の主婦目線で解説している。「気曝法」とは、水を1m以上の高所から霧状に撒布し、空気中の酸素との反応で酸化させ、沈殿した酸化鉄の上澄みの水を利用すればなんら問題はないとしている。だけど、こんな面倒な装置をどうやって造るのかがいちばんの課題で、これを読んだ当時の主婦は「手間のかかることを……」とつぶやいたかもしれない。
 次に、濁りのある水を清水にする、「溷濁(こんだく)の除去法」というのも紹介している。これは、今日の浄水器でも見られる濾過式の方法で、「家庭に於ける簡単なる濾過器は図の如く」すぐにできると書いている。でも、この図版をひと目見た当時の忙しい主婦は、「まったく、手間のかかることを……」とつぶやいたかもしれない。
井戸水濾過法.jpg
舟橋聖一邸井戸.JPG
鬼子母神出現井戸.JPG
 以上のような方法でも、どうしても水の濁りがとれない場合には、水1リットルに対し0.5gの割合で明礬(ミョウバン=硫酸カリウムアルミニウム)を加えれば、水が澄んできれいになると書いている。だが、ミョウバンの日常的な摂取は、アルツハイマー病発症の引き金になるといわれて久しいので、今日では推奨できない方法だろう。
 また、富永哲夫というか東京市衛生試験所がもっとも推薦するのは、「クロール石灰消毒法」と呼ばれる方法だ。同冊子より、再び引用してみよう。
  
 この方法は水の消毒法の中にて最も完全にして容易、しかも経済的な方法である。「クロール」石灰<晒粉(さらしこ)>を使用するには水一立法米<五石五斗>に対して晒粉五瓦(グラム)の割合に投入するものである。投入後三十分にて完全に殺菌され、その後約六-十二時間は有効である。家庭に於ては午前九時、午後九時の二回井戸に投入すれば安全である。晒粉は軽くて水に呼(う)き易いもので、又溶けにくいから予め水を少し加へ糊状となして投入するが適当である。尚この消毒法に関して次の表並に注意を参照されたい。これは東京市衛生試験所に於て腸「チフス」又は赤痢等の伝染病の発生した家庭、或はその付近の家庭に対して推奨してゐるものである。(カッコ内引用者註)
  
 「クロール石灰」は晒粉と書かれているが、塩化カルキまたは漂白剤、あるいは次亜塩素酸カルシウムと呼ばれる薬品だ。いわゆるプールなどの「カルキ臭い」水は、この薬品を多く含んでいることになる。これも日常的に接していると、粘膜の炎症や肌荒れを起こすことで知られているし、家庭での貯蔵は有毒な塩素ガスが発生しないよう、取り扱いには細心の注意が必要だろう。
井戸水消毒クロール石灰使用表.jpg
樋口一葉井戸.JPG
 そのほか、硬水を軟水に変えるには、重曹か炭酸ソーダを加えるのが確実だとしている。煮豆に重曹を加えてじっくり待てば、よく煮えてやわらかくなるのと一緒だよ……と、これも家庭向けに書いているようなのだが、そんなたとえを聞いた当時の多忙な主婦は、「いちいち、手間のかかることを……」とつぶやいたかもしれない。いまでは、日本の水は一部の硬度が高い地域はあるものの、ほとんどは基本的に軟水だと判明しているが、当時はいまだ調査研究がいきとどかず、どこかに硬水もあるかもしれない思われていたのだろうか。

◆写真上:ネコも喜ぶ鉄板日向ぼっこが快適な、中村彝Click!アトリエ記念館の井戸。
◆写真中上は、近ごろ都内各地で見かける防災井戸。は、湧水型井戸に多い宗像三女神の1柱イチキシマヒメ(のちに弁財天と習合)を奉る目白豊坂の社。は、下落合5丁目2069番地(現・中井1丁目)の「もぐら横丁」Click!に残る井戸。
◆写真中下は、富永哲夫が推奨する家庭で「簡単」にできる井戸水濾器。は、下落合1丁目435番地(現・下落合3丁目)の舟橋聖一邸跡Click!に掘られた井戸。は、鬼子母神村の清土にある鬼子母神出現の井戸(現・目白台2丁目)。
◆写真下は、井戸水を消毒するための東京市衛生試験所が定めた「クローム石灰」(晒粉)使用表。は、本郷菊坂の樋口一葉邸跡に残った使われつづける井戸。
おまけ
 雪がニガ手な夏男なので、これはダメでしょ。カンベンしてほしい下落合風景なのだ。
雪20220106.JPG

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